ブックカフェデンオーナーブログ 第396回 2024.04.21

「われわれの積極的自由をもっと想像しよう」

自由は「ある」ものではない。不断に創るものだ。
わっ、またびっくりした。でもやっとつづきが出てきたのかな。
しっかし、マスターは、どうしていつも急に話が変わるんですか?
すまんすまん、一週間考えると、いろいろ思いついちゃうんだ。許
してくれたまえ。
そうなのだ、自由は不断に創るものだ。もちろん自分自身からの解
放も同じだ。オオタニ的自由もナガシマ的自由もオザワ的自由も、
もともと彼らに備わっていたものではなく、彼らが意識して創って
いるものだ。それも一回創っておけばすむものでもない。そこを間
違えてはならぬ。

また、「自分自身からの解放」とは、自分ひとりではできない。わ
れわれは、自力で自由を獲得することはできない。滝に打たれて修
行してもダメ、一人で瓦を磨いても金にはならない。
なぜなら、自由はそこに「ある」ものではないから。それは社会で
自分と他人がともに共鳴しあって進む中で創られるものなのだ。

「積極的自由の精神」(エガール・フラテニ/リベルテ書院)

ではそのために、どうすればいいのか? 
この本の筆者はこの問いに対して、思いもよらぬこんなことばを引
きつつ論を進める。
「被抑圧者のみが、自分を自由にすることによって、抑圧者を自由
にすることができる(パウロ・フレイレ/教育者)」と。

えっ、なんですと? 集団のなかで強くて権力をもつ抑圧者側が、
弱い被抑圧者を解放して自由にするのではなく、反対に、被抑圧者
が抑圧者を自由にするですと? これはいったいどういうことだ? 

少しずつ咀嚼していこう。
まず、ここでいう「弱者」「被抑圧者」とは「依存する者」とも言
い換えられるのだろう。つまり、集団のなかの抑圧/被抑圧関係
を、依存/被依存関係と、あるいは「権力関係」と言い換えられる
と私には思われる。
すると「実験の民主主義」にこんな指摘があったのを思い出す。
「依存先が少ないと自由はかえって制限され、場合によっては依存
先に支配されてしまう(若林恵)」。また、「自立というのは依存先
を増やすことだ(熊谷晋一郎)」。

どうだろう。これは、不自由状態の最たるものが、権力構造におい
て依存/被依存の状態に閉じ込められていることだ、と言っている
のではないだろうか。家族でもそう、学校でも仕事場でもそう、も
ちろん社会や政治の世界でも、ひとの自由をもっとも阻害するのが
この状態なのだと。

経済学者の安富歩先生は、さらにこう言う。
「他人を支配することなく依存しうる状態が「自立」の意味であり、
依存できる相手が多いほど、人は自立しており、自由である」と。
これまた、なんと見晴らしのよい表現だろうか。
これが、依存/被依存関係の束縛から逃れるひとつの方法になる。
(このへんの相互関係は、第338回あたりの「ケア」についてもご
参照ください)

しかしそれも自力ではできないことだ。と筆者は言う。われわれは
多くの他者とともに、依存/被依存の関係性から自由になることを
めざすべきだと。
そうすることで、たとえば「傷つきました戦争」みたいな、ムダな
ポリティカル・コレクトネス争いは防げるし、またたとえば八つ当
たり的にネットで他人を中傷するようなことも少なくなる。だって、
価値観の違いによるつまらない争いや、小さな自分の承認欲求など
にかかずらわっている意味などないのだから。

ふむ、そうか。
このようにして、一人ひとりが、所与のものと思いこまされた関係
性に縛られた自分自身から解放される、ということを踏まえれば、
前回の、小澤さんのオーケストラの演奏における自由という意味が
いっそうわかってくるように思われる。

オーケストラの演奏に自由を感じるとき、われわれは、一人ひとり
の演奏家が他人の音を聴きつつ自分の音を聴かれつつ、つまり多く
の他者に依存しつつ依存されつつ、それぞれが自立して自身から解
放された喜びをもって演奏していることを感じ取っているのだ。
それはメンバーどうしや指揮者との間に交響が生じて、創造的な自
由が現われてきていることなのだ。小澤さん、偉い!

筆者はさらに、「依存と被依存の関係性のなかで自由をめざし、自
分自身のルールとゴールを再設定することによって、社会の自由を
目的にする道すじが見えてくる。そして、自分を抑圧するシステム、
すなわち劣化した世界の統治システムを立て直すことができるはず
だ」とまでいう。

さらにさらに、自由をめざすひとのチカラをそのように集めること
ができるなら、「人間の真の自由は、想像力による未来世界の創造
によって実現される(内田伸子/発達心理学者)」はずだと。
劣化した世界を立て直すために、未来世界を想像して創造する。そ
れが、人間の真の自由なのだと。

・・・はいっ、というところで、もちろん、おわかりの通り、これ
また「ない本」の紹介であった。キミのご清聴に感謝する。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第395回 2024.04.13

「小澤さんが作り出す音楽の自由」

そうそう、ワシもそろそろ「ワシ」という自称はやめようかな。
はーい。聞く側も、マスターの「ワシ」という仮面には、なんか違
和感がありました。

うむ。ということで、まず私の好きな話で、「二人の禅僧」という
のがあるのでご紹介しよう。以前にも書いたかも知らんけど・・・。
兄弟弟子の禅僧が二人、修行の旅をしていた。あるとき、雨で増水
した川にさしかかると、渡れないで困っている二人の若い女性に出
会った。そこで二人は女性を一人ずつ背負って川を渡らせてあげた。
そのあと弟弟子が言う、『兄弟子よ、私たち修行の身でありながら、
禁じられている女体に触れてしまいました。私にはやましい心が芽
生えてなくなりません。ど、ど、どうしたらいいでしょう』。それ
を聞いた兄弟子いわく、『なんだお前、まだ背負っていたのか。』」 

この逸話を聞いて、キミはどう思うかな?
ああ、はい。川を渡ってからも彼がずっと背負ってしまっていたの
は、戒律というルールに縛られた不自由な自己だったのかな、と感
じました。若い僧は修行において、あらかじめ決められていると思
いこんだ関係性に縛られて不自由だった。その不自由な自己を、女
性の感触とともにずっと背負い込んでいた。そういうことですね。

そうだ。こういう「自我」すなわち「不自由な自己」にとらわれて
はいかん、とする考え方は、ナガシマだけの話ではなく、また禅と
いう宗教の知見というだけにとどまらない。
かの科学者アインシュタイン師もこう言っている。
「ある人の価値は、なによりもその人がどれくらい自分自身から解
放されているかによって決まる」と。

どうだろう? この「小さな自我からの自由」すなわち、「関係性に
とらわれた自分自身からの解放」こそ、積極的自由の入口って気が
しないかな? 
おお、「積極的自由」の話題に戻りますか。ええ、続けてください。

で、また話は変わるが、
アラッ、戻らないんですか?
うむ、まあ待て。指揮者の小澤征爾さんが2024年2月に亡くなら
れた。ご冥福を祈りたい。
彼も「自分自身から解放され」ていた方だったと思う。彼は小さな
自我やつまらない煩悩を背負っているようには思えなかったし、そ
の意味で自分自身から解放されているように見えた。
それにつけておもしろいのは、おなじ指揮者の秋山和慶さんが小澤
さんについて、「彼は音楽の世界で本当に自由になることができた」
と、「自由」という表現をされていることだ。

それは、「(西洋音楽の)伝統のないところから来たからこそ、様々
な国の音楽に分け隔てなく接することができたのではないか(ハー
プ奏者吉野直子)」という、「しがらみのなさ」による消極的自由だ
ったのかもしれない。
しかしそれだけだろうか。音楽の世界で自由になれたということに、
もっと大きな意味があるのではないだろうか? 私はそう思って、
第88回で登場させたこの本を再読してみたのだった。

「小澤征爾さんと音楽について話をする」(小澤征爾・村上春樹/新潮社)

村上さんはまず、小澤さんのことを、「70代半ばを越えても、『生ま
れたときのまんま』みたいな部分も少なからず残されている」無手
勝流の自然児だと評している。
これを聞いて、「ああ、やっぱり彼は、なににも縛られない自由なひ
とだったんだな」、と思わされる。やはりナガシマと同類だなって。

そのうえで、小澤さんの指揮を評して、「不思議なことに、彼がネジ
をひとつ締めるたびに、その音楽はすこしずつ自由に、より風通しの
良いものになっていくのだ」と述べる。
ここだね。ここが、私たちシロートからみて、なぜそうなるのかの秘
密を知りたいところなのだ。小澤さんの人間性もそうだけど、彼の
「音楽の、音楽における、音楽での自由」を知りたいのだ。

そういえば評論家の片山杜秀さん(また出た)は、こんなふうに述べ
ていた。
「(小澤が師事した齋藤秀雄は)元々チェリスト。指揮台からの鳥の
眼だけでなく、ひとりのプレーヤーとしての虫の眼があった。大交響
楽団を工場や軍隊のような機能的組織ととらえるべからず。大切なの
は個人。その力と技を相乗させ、大調和を作り出すのが指揮者の本懐
だ」と、齋藤先生から指導されたはずだと(前出)。

これを本人はどう言っているかというと、
「練習のときにオーケストラを仕込むための棒の振り方というのがあ
る。これが一番大事なんです。僕はそれを齋藤先生から教わりました」
「プロの指揮者はオーケストラに指示を出すわけです。今この瞬間に
はこの楽器を聴いてくれ、ほら今はこの楽器を聴いてくれ、という具
合に。そうするとオーケストラの音がすっと合う。」

彼は式において、いつも「風通し」というものを意識していた。
あるとき本番で自分がいちいちキュー(指示)を出していると、カラ
ヤン先生は、「そんなことをする必要はない。君は全体を指揮すれば
それでいいんだ」という。しかし、「僕がそうやることによって、風
通しが良くなるんです。指示を出すことによって、一人一人の演奏家
の風通しが良くなる」のだと。

指揮者の的確な指導によって、個の演奏家のパフォーマンスがオケと
いう集団のなかで高められ、なおかつそれが風通しの良い(つまり、
自由を感じる)音楽となる。
とすると、ここになにかしらの真理が隠されているのだ。聴く人に感
銘を与える秘密が隠されている。個の演奏家とオケとの調和が、聴く
ものに広々とした「田園」や「新世界」を感じさせるのだ。

なので、これはたぶんだけど、小澤さんは楽譜によって作曲者との対
話をし、一人ひとりのメンバーとの対話をし、楽器とその音色を対話
させて調和を創り出すことができたのではないか。
その作業の基本として、楽譜の読み込みによって作曲者の意図を汲み、
あらかじめ「正しいことば」を引き出していたのではないか。それを
「正しいタイミング」でメンバーに伝えることができた。つまり、彼
の音楽からわれわれが感じる自由とは、技術的な努力とコミュニケ―
ションによって「創られた自由」であり「積極的自由」ではないか?

彼は若い演奏家の指導において、こんな表現をしたそうだ。
「君たちの演奏は子音ばかりで母音がない」と。うーん、これもわか
る気がするけど、わからない。ナガシマ語とおなじだ。でも、なんと
なく「正しいことば」でいわれている気がする。作曲家の書いた楽譜
と演奏家の演奏をつなぐ役割を、指揮者はこうして果たすのだろう。

そのように作られた音楽こそ、演奏している側もきっと楽しいのだろ
うね。室内楽であろうとフルオーケストラであろうと、そこに個人の
個性と集団の調和を感じることができることにこそ、自由の匂いがあ
ると名づけて良いのかもしれない。

結局、私らシロートにわかるのは、集団がそのように調和され、文字
通り交響し、その演奏に規律や管理ではなく自由を感じられ、聴く側
はアルファ波がガンガン出て気持ちよくなるタイプの音楽がある、と
いうことだけだ。そういえば、「指揮者のいないオーケストラ」として
有名なオルフェウス室内管弦楽団の演奏は、演奏する側も楽しそうだ。

これが積極的自由というものの正しい比喩だとまでは言わないけど、
こうした集団と個人の関係を、演奏の感想としてではなく、現実の社
会生活でおこなうことができれば、なんと素晴らしいことだろう。
だれかいい指揮者はいないもんかねえ。いや、われわれ一人ひとりが
指揮者のいないオケの演奏家になるしかないか。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第394回 2024.04.06

「ナガシマ的自由の秘密は?」

話は変わるけどさ、このあいださ、常連のMさんと自由について話
していたらさ、こんなふうに訊かれたのさ。
いわく「医者に、身体に悪いからタバコをやめなさいと言われてタ
バコをやめたひとと、身体に悪いのはわかっているので、医者をや
めたというひととでは、どちらが『自由』だろうか?」って。
へーっ、なんかタバコをやめられないおじさんたちのベタな会話で
すね。それでマスターはどう答えたんです?

うん、まずこの問いは、医者の奴隷になるかタバコの奴隷になるか
という二者択一をしようというのではないのだろうと直感した。
ふつう私たちは、医者に言われた通りにするひとよりも、後者の方
が、個の強い意志の力で医者をやめた「自由な人」と思うよね。
Mさんもそこから議論を始めようとしたんだと思う。そういう「自
由人」は「自分の自由と信念が、じつは結果的に自分の健康を害す
ることになるが、どう思う?」という議論のきっかけとして。

でもね、件超え問題は別として、ワシにはそのどちらも不自由にみ
えるんだ。
というのも、どちらにしても、「そもそも」考えが身体とタバコと
医者にとらわれているからね。そうした条件に眩まされて、すでに
ある関係性や因果関係に閉じ込められているようにみえる。

でも自由って、もっとひろびろしたものじゃないかな? 大谷翔平
クンの例を見てごらんよ、二者択一や常識から跳び出して、地平線
のむこうまで見ているだろう?
その意味で「自由」を「実体化」したモデルといったら、ワシには
まず第一にこのひとが思い浮かぶ。  
それは長嶋茂雄。とうぜん呼び捨て。スーパースターだから。

長嶋を見たことのないキミたち若者にはわからないだろうが、彼の
明るさ、プラス思考、磁力、オーラ、すべてがまぶしかったんだ。
かくいう私も、少年のときには後楽園球場に連れて行ってもらい、
ぎっしり埋まった観客席で、ワクワクしながらそのひとの一挙手一
投足を見守ったものだ。

彼には数々の逸話があるが、私たちのお気に入りは彼の表現だった。
言ってることがわかるようでわからなくて、バーンと腰を回してガ
ーン打つとか、そんなことばでバッティングを解説されても、なん
のこっちゃ、ちゅーもんでしたな。でも、くだくだ説明される理論
より嬉しくて、それはそれは驚異のコミュニケーション力と感じる。

片山杜秀さん(また出た)は、指揮者小澤征爾さんの思い出の中で、
小澤さんの話は「想像力が疾走して、『てにをは』が追いつかない。
めまいがした」といい、「身ぶりのしなやかさと声色の豊かさが、足
らざる言葉を補って渦を巻くがゆえに。驚異のコミュニケーション
力。ああいう日本人を他には、長嶋茂雄さんしか思いつかない」
と述べている。(朝日新聞2024.3.22)この人たちの表現は、足らざ
る言葉を補って渦を巻く、っていうわけ。

だから、彼に「セコムしてますか?」と訊かれたら、だれもが思わ
ず「ハイッ!」と返事してしまいそうになる・・・いやいや、いか
んいかん、どうした自分、「自由」について考えているのではなかっ
たか。
ということで、なぜワシは、彼の言動に「自由」を感じるのでしょ
うか? よく考えてみよう。

「定本・長嶋茂雄」(玉木正之編著/文春文庫)

ということで、多くの著名人が長嶋について語るこの本を手がかり
に、それを探ろうと試みた。
がしかし、、、結論から言うと、長嶋に自由を感じたと明言したひと
は一人もいなかった。その点ワシは残念であった。
ただし多くのひとが口をそろえることがあった。それは彼の天真爛
漫な幼児性というものだ。「偉大なる幼児」と表現するひともいた。
その意味は、感覚的、無意識的、快楽的で自己中心的な言動、つま
り「夢中になっている姿」が見るものを微笑に誘い、われわれを幸
せな気分にさせるというものだ。

もちろん時代背景として、彼の活躍した昭和30~40年代は戦後の
復興がなって、旧いものをぶち壊したいという雰囲気があったのは
事実だ。彼は新しい時代を背負って登場したともいえる。
また彼は、それまでの川上監督がおこなっていたとされる「管理野
球」へのアンチの象徴でもあった。若者もおじさんも、「管理」とい
うことばに食傷していたこともあった。

私たちは、象徴としての彼と、彼の発散するエネルギーに酔いしれ
て応援し、自分を重ねて考え、日々の生活を乗り越えていったのだ。
この本には、そうした青春を振り返るかのような、やや青臭くて、
いまの表現では「イタイ」想いがあふれていたな。

さてそんななか、この本の中で彼をトリックスターと呼ぶ人がいた。
「トリックスターは、ある意味では人間の無意識の直接的な表現で
あるといえる。彼のすることは予測が難しく、瞬間的、刹那的で、
本能とカンに直結している」(人類学者山口昌男)。

この「トリックスター」を辞書で引くと、「詐欺師やペテン師」とい
う意味のほかに、「神話や民間伝承に顕われるいたずら者。秩序の破
壊者でありながら一方で創造者であり、善と悪など矛盾した性格の
持ち主で、対立した二項間の仲介・媒介の役目を果たす」とある。

うん、なるほど、たしかに彼は、二者択一や常識から離れ、対立した
二項間の仲介・媒介をしていたののかもしれないし、そういう意味で
ワシは彼に「自由」を感じたのかもしれない。
ただ、そこからもう一歩進めて思うには、彼は「ナガシマ」という
仮面をかぶるようにして、天真爛漫を演じていたのではないかという
ことなんだ。もしかしたら、「もっとも自由な長嶋茂雄」である「か
のように」、演じていたのではないかと。

こんな逸話がある。
「プロ入りしてまだ間もない長嶋茂雄が旅行をした時のこと。ホテ
ルのフロントでチェックインの手続きをするとき、彼は同行した案
内人に向かって、「この欄には何を書くの?」と訊いた。訊かれた
人はこう答えた。「職業ですよ。」すると長嶋は、さらさらとペンを
走らせて、その欄に「長嶋茂雄」と書いた・・・」。

おお、やはり彼にとって「長嶋茂雄」は職業だったんだ。
こんな逸話からも、私たちには彼が、小さな自分という自我や、つ
まらない因果関係・二項対立から解放されて、なにごとにも捉われ
ない無我の境地にいるように感じさせられる。
だからこそ、私たちは彼を手本に・・・それはできない。無理!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第393回 2024.03.30

「自分の可能性を実感できる場で、自由の実体化をする」

だから日本の民主主義も劣化の一途をたどっている!
わ、びっくりした。いきなりなんですか、マスター?
ウム、いろいろ話してきて、あらためてそう感じた。
ただし、マスコミで声高に叫ばれるような「投票率の低下は民主主
義の危機!」なんかとは、ややニュアンスが異なる。
ワシはここまで各種の劣化の現状を確認してその要因を探り、それ
を食い止める処方箋をみつけようとしてきたつもりだ。その探求の
結果、はからずも民主主義の劣化問題に行きついてしまった。

私たちは、いちどこの「劣化」認識したからには、もう元へは戻れ
ない。劣化をほおっておいて、いままでどおりノホホンと暮らすこ
とはできません。自分の現在地を知ってしまった以上、信頼できる
大きな地図が必要になる。

さ、そこで、今回提起したい問題はこうだ。
この劣化状況のもうひとつの要因は、本来充実していているべき社
会(公/パブリック)のチカラと存在感が希薄になっていることに
あるのではないか。すくなくとも、他者とともに「積極的自由」を
めざすはずの場(公・パブリック)が、もはやなくなっているので
はないか、と。

どういうことか?
思うに、統治システムと個人の間には、さまざまな緩衝材があって
しかるべきであり、それは公/パブリックの場としての「地域コミ
ュニティ」だったり、各種の「アソシエーション」「サードプレイ
ス」「サロン」だったりするだろう。それは「非政府の中間的な公
共機関」という「場」であり、トクヴィルのいう民主主義の要点で
もある。

そういうものがないと、統治システムと個人が直結して直流電気が
流れて、権力によって個人が露わに丸裸にされてしまう。
中国やロシアがこの状態だね。「だれかがか決めたことに私が従う」
という「管理」の体制になるのだね。まるで、経営陣と新入社員が
一対一になるようもので、社員一人ひとりは分断され、その不安や
孤独感や無力感はいつまでたっても解消されない。

そこで今回は、「『自由』はいかに可能か」(苫野一徳/NHKブック
ス)を読んで、大きな地図と向かうべき方向を決めていこう。

筆者はまず、ひとはなにをしてもよいという「自由であることの苦
しみ」に陥っているとして、これを「無規定性の苦しみ」と規定す
ることから始める。これは、心理学者エーリッヒ・フロムの「自由
からの逃走」でいわれていることと同じだよ。

人間は、集団のなかでは、「完全な自由」に不安を覚えてしまう。
本人の責任に任される無制限の自由は恐ろしい。「自由に生きるこ
との重圧と不安に耐えかねて、自らが自由を放棄するにいたる」、
そして「模倣すべき、ゆるぎないモデルを提示する『権威』が求め
られる」と、フロムさんは言っている。

このときの「モデル」は、自分の意志で選んだロールモデルとは違
うということはわかるね。自分の外の絶対的な権威に頼って、それ
が示すモデルによって、自分の能力や活動範囲を確認したり保証し
てもらいたくなってしまう、ということだ。

苫野さんは、われわれには自由を「実体化」する必要があり、それ
は自分の可能性を実感することに他ならない、と言う。
つまり「自由」という抽象的なことばを具体的に実感するためには、
「自分の可能性を実感する」する必要がある。それは私たちに課せ
られた命題だ。しかし自由の実体化は一人ではできず、ましてや権
威によってはできない。集団のなかで他人に見られながらでしかで
きないことだ。それをわれわれは、ロビンソン・クルーソーから学
んだ。

そこで筆者は、こんどはレヴィナスという難解きわまりない哲学者
を引用して、「自由は<私>が主張すればただちに許され可能になる
ものではない。<私>が自由でありうるのは、<私>が<他者>に対し
て責任を負う時だけである。そして<他者>によって自由を任命され
た時だけである」とする。

うんうん、そうなのだよ、わかりにくいし、同じようなことをこと
ばを換えてしつこく言ってると思うだろうけど、わかってほしい。
でも、ワシが、リアルな「他者」と、抽象的で大きな存在である国
家や社会と、小さな個人である自分のあいだの「緩衝材」として、
「中間集団」が必要だと言う意味を分わってほしい。

教育学者ジョン・デューイも、「より重要なのは、人がともに行為し、
経験を共有することだ」と言ったいうしね(「民主主義と教育」岩波
書店)。
ともに行為し、経験を共有し、他人の眼によって自分の責任が明らか
になる「場」、そこで自分の自由を実体化できる公/パブリックの
「場」、それを作る土台を、これからも探していこうじゃないか。
はい。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第392回 2024.03.23

「個のチカラを結集する民主主義、そのための自由」

えーっと、ちょっと待ってください、マスター。
お話の中で、「行為の結果を自らの責任として引き受けられるよう
にしておかねばならない」とありましたよね。でも、責任をとらさ
れるくらいなら、最初から自由なんていらないよ、自由なんてそも
そも求めていないんだ、という若者も増えているのではないですか? 
あ、すいません、「そもそも」なんて言っちゃって。

そうなの? それは困る。ワシの話の前提が崩れる。
もしかしたら「自由」とはすでに死語になりつつあるかもしれない
というんだね? たしかにカフェの若いお客さんと話しても、みん
な「良い子」たちで礼儀正しいが、なーんか、自由に振舞うおおら
かな香りがないんだよなあ。

彼らの話す内容が縮こまっている感じがする。家族がどうの友だち
がどうのと、身の回りのことばかり。親しい人と強い信頼関係を結
ぶべきだとか、授業に出席しないと単位を落すとか、親ガチャなん
だから格差はしょうがないとか、、、、そんな話をして、で最後には
礼儀正しく「ありがとうございます」とくる。

若者がそのように縮こまって、自由なんていらないというのは、も
しかして「自由」を感じた経験がないせいもあるのではないか。
信念をもって行動し、それに責任をとり、周りから「キミ、やるね
え、なかなか自由だねえ」と言われたことがないのではないか。

例として適切かどうかわからないが、昔は自由の実感を得たいため
だけに、広場や路上や学校に出て、「解放」と称してそこを無遠慮
に使ったものだ。そこで思想を開陳し、自分を表現し、法律やルー
ルとのせめぎ合いの中で、身体で経験したものがあった。

デモ、演劇、音楽、放送、さまざまな手段で自由を試し、たいがい
はルールや常識に敗れ、失敗し、その責任もとれなかったが、たま
にでも「キミたちは自由だ」などと言われることがあれば、それを
最上の喜びとしたものだ。
おっと、やばいな、なんかまた、マスターの話が広がりそうだな。
よしよし、ならば今回はこの本を参考に、視点をやや移してみよう。

「実験の民主主義」(宇野重規・若林恵/中公新書)

宇野先生は本の中で、「(自分の教えている学生は)自分には政治に
参加する資格がないと感じている」と、おもわず漏らしている。
このとき彼らが感じる「資格」とは、自分にその能力がないという
より、劣化した政治からの招待には応じられない、私が決めたくも
ないので、どうぞご勝手になさってください、ただし責任を取らせ
たり、あらたな義務をしょわせないでね、という突き放した気持ち
が含まれているだろう。

この気持は、キミのいう「そもそも若者は自由をもとめていない」
ということか。われわれ大人が社会を劣化させ、若者から自由を感
じる機会を奪い、彼らを孤立させ、良い子にさせ、何もできないと
思わせ、彼らの生きるチカラを削いだ、そういう理解でいいかな?

それを確認して、さて、この本の筆者の宇野先生は、19世紀フラン
スの政治家アレクシス・ド・トクヴィルの思想をもとに、格差や分
断の世の中で、民主主義をどうアップデートしていくかを考えてい
く(本誌第394回も参照ください)。いきなり民主主義ということ
ばが出てきて申し訳ないが、まあ、続けさせてくれたまえ。

先生いわく、トクヴィルのいう民主主義には、「個の力を結集して
集団のパフォーマンスを上げるには、どうすれば一番いいか」とい
う問いが潜んでいるという。じつはこれが、ミルに影響を与えた考
えだという。

たとえばコロナ禍や戦争危機の時にこそ、一人ひとりに「あなたに
はなにができるか?」と問うことで、共同体に資する行為への参加
を促されることがあるだろう? また、大震災があってボランティ
ア活動が報じられれば、だれもが「自分は他の人のためになにがで
きるだろう」と参加を考えるだろう?
これがトクヴィルのいう、「個の力を結集する民主主義」の始まり
なのだ。

社会のレベルで考えれば、世の中にはなにもできないひとはいない。
すると共同体とは「自由になにかができる」個人や、「なにか他の
人に役に立つ力をもつ」個人の集合だ。その「自由」や「能力」を
どうやって召集し、どうやってまとめるかによって、集団のパフォ
ーマンスは変わることになる。
すなわち、民主主義は集団のパフォーマンスを上げるための、最善
と思われる技術でもあったのだ。

トクヴィルは、議会制とか選挙とかに民主主義の根本を求めてはい
なかった。あくまで中間団体とか住民集会とか陪審制とかの、個人
の「他の人に役立つ、自分の自由になる能力」を集めること、つま
り多くの参加を募って集団の力を上げる「過程」を重視したのだ。

ところがいっぽうで、彼によれば「(個人の自由や能力を重視する)
個人主義は、気づくと他人との関係がだんだん薄くなって自分の世
界に閉じ込められて、自己がそのままで完結してしまう」という。
宇野先生も、「従来であれば『自立した個人』のモデルに則って、
自発的かつ自律的に世の中を渡っていくこと(これ、探偵サム・ス
ペードの自由だ)が奨励されましたが、それを押し通そうとすれば
するほど、人は孤立していく」と結論づける。

西洋で発達した個人主義が、個の分断という事態を招き、力を結集
できなくなって、逆に民主主義を阻害してくことになるわけだ。
しかし現代は、個人主義やシン・自由主義という価値観がいっそう
強い主流になった。コロナ禍を経たZ世代の若者たちの価値観も、
もちろんそれに染まっている。

そんな若者にとって、「あなたにはなにができるか?」と問われて
なんらかの活動に参加を強要されるのは、いかにも負担に感じるだ
ろう。「オイラ、べつになにもできねーよ」って言うだろう。
たしかに、だれにとっても、自分の自由や能力を集団に売り渡す招
待には、おいそれとは応じにくいものだ。そもそも自由も平等も正
義も、そんなもん求めてねーよ、と言いたい気持ちもわかる。
どうしたらいいのかね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第391回 2024.03.16

「積極的自由への道を拓く」

マスター、なんだか最初のところからだいぶ遠くに来てしまいまし
たね。あまり張り切ると血圧あがりますよ。
うむ、そうやもしれん、気をつける。すまんね。
ところで以前にハックルベリーやルパンの自由を見てみたが、やは
り子どものころに読んだ小説で、無人島にひとりで漂着したロビン
ソン・クルーソーは自由だろうか? 君はどう思う?

そりゃ自由でしょうよ。だれにも束縛されずに生きられるのだから。
いや、そうではあるまい。
自由とは自分一人だけで達成できるものではなく、集団の中で自分
を用いることだ、と結論づけたワシの身にもなってくれ。ロビンソ
ンはたったひとりで暮らしているのだぞ。彼にとっては、社会も倫
理も道徳も、ましてや自由の問題もなきに等しいのだ。

パブリックという場所で義務と責任を伴わない行動は、自由とはな
んの関係もない。義務と責任とは、集団のなかでのみ在るものだ。
そうであるなら、ロビンソンは自由なのではなく、生き延びること
だけを目的とした「不自由」を強いられているのだ。
自由は一人では感覚できないし享受できない。ここからもう一歩考
えを進めてるべく、この本から「自由」をみてみる。

「自由論」(ジョン・スチュアート・ミル/光文社古典新訳文庫)

これは、19世紀の中ごろに生きた思想家が、近代イギリスの自由と
はいかなるものか、そしてそれを踏まえて、ひとはどのように成熟
するべきか、を考えたものだ。
いわば160キロの直球の古典じゃ。文句はあるまい。

ミル先生は、たんに「人間にとって自由って大事だよねー」と言っ
ているのではなく、「他者とともに暮らす社会において、自由をど
う使いまわしていくかが問題なのだ」、と考えていく。
これが功利主義といわれるゆえんで、考える視点が変わるのだ。
つまり彼は「自由」を、大胆にも社会生活上の「道具」として扱お
うと提案している。われわれは集団のなかで、集団とともに、より
よく生きるために自由をうまく使うべきなのだ、というのだ。

ね、倫理・哲学レベルの話が、政治・社会レベルになってるだろう? 
たとえば彼は、個人の自由への干渉はどこまで許されるのかと問う
ている。これは国家からの干渉を最小限にしないと、人びとの集団
としてのチカラが落ちてしまう、という実利的な観点から社会のル
ールを再設定しようとしているわけだ。

だから内田樹さんなんかは、明治期の日本の知識人はこの書物を、
「人が集団的に生きていく場合に、絶対に必要な技術知を得るため」
のものとして受け取ったのだろう、と言っている。つまり、個人の
自由をどう保証しどう干渉すれば、「効率的に集団を運営できるか」
の技術を、実務レベルの話としてミルから学ぼうとしたのだろうと。

おもしろいことにミル先生は、フランスの哲学者ルソーのことばを
引いて、「人工的な社会の束縛(おもに教育や家庭だね)と偽善
(おもに政治やそこで使われるの言説だね)が人間を無気力にし、
堕落させる」といっている。これは、近代社会での集団の利益と個
人の自由や意欲の関係が、こうなりがちだという話だ。

さらにこう言う、「凡庸な人々による政治が、凡庸なものになるのは
防ぐことができない」と。なぜなら、「人々は一般に、自分の自由よ
りも自分の権力を守りたがる」ので、とりわけ政治では凡庸なもの
がはびこるものだと。

どうだい、これらは現代でも通用する認識だとわかるだろう? 
通用するどころか、いつの時代でも変わらないなあとため息が出る
んじゃないかい? 自由の問題を、先生のように功利主義的で実践
的に捉えると、社会の劣化との関係が明らかになってくるよね。 

ではどうする? われわれは「積極的自由」に戻ろう。
いままで考えた、「パブリックという場で、他者とともに自分を用
いる」というあり方のなかに、「積極的自由」の意味と「劣化対策」
の突破口とがあるはずなのだ。

とっかかりとして、まず前回の「ロールモデル」案を例にとるよ。
ミル先生の意見を、「個人の積極的自由を結集できれば、集団はよ
り強くなる」と言い換えることができるならば、たとえば「私」が
「集団の中で自由なひと」とか「権力に固執しない傑出したひと」
「公の場で自分を用いているように見えるひと」を選んで、そのひ
とをロールモデルにする戦略がとれると思うわけ。 

モデルとしては、もちろんナルトでもルフィでもいいし、桜木花道
や虎杖悠仁でも竈門炭次郎でも構わない。おお、意外と最近のアニ
メ・ヒーローたちは、自由にがんばっているよね。
そういう彼らが、「パブリックという場で、他者とともに自分を用い」
て、どのように自由であるかを見て行動のお手本にしてみる。
これが、ミル先生の示した問いのひとつの答えになるのではないか。

ただ、なんだかんだいっても、ロールモデルとしてワシの一番のお
薦めは大谷翔平くんだ。これにはだれしも納得するだろう?
彼は野球というできあがったシステムの中で、ルールや慣習から自
由であるように見える。オーナーや監督のいる集団で、チームメイ
トを巻き込みつつはつらつとプレーしている。そんな彼は、「自分
のやりたいことを実現する関係」を構築しつつ、公私のまんなかに
自由の場を作ることで、積極的自由を行使しているように、ワシに
は見える。

ロールモデルというのは、たんに「あこがれる」ということではな
くて「あこがれるのをやめましょう」として、むしろそのひとの役
割意識や努力プロセスや自己実現方法を見習うということだ。
自分が大谷クンである「かのように」行動することだ。

どうだろう、彼をモデルにするならば、私たちも目標の再設定(彼
の「マンダラ・シート」みたいな)に挑戦しやすいだろうし、ある
いは、生業仕事とアソシエーション活動の二刀流も抵抗なく志向でき
たり、それにカフェマスターを加えた三刀流とか、ついでに政治家
との四刀流とかのゴールを再設定することも可能というものだ。

そんなことできるわれない? フフッ、まあ、笑っていなさい。
そんなふうに自己を育て、遊び、社会のなかでユーティリティなプ
レーヤーに挑戦してもいいのではないかな。それが、パブリックに
おいて他者とともに達成する「積極的自由」への道だとワシは思う。

いま私たちは、「異なる種類の私たち」のありようを想像したり、実
現したりする意欲を失っている。
そして、ここが重要な点だけど、ロールモデル作業の過程で、一人
ひとりが無力感から抜け出して自己の劣化を食い止めることで、大
きなシステムの劣化に影響を与えることができると思うのだ。大谷
クンひとりでは野球界だけの話で終わってしまうが、小さな大谷、
つまり小谷クンが100人いれば、日本社会は変わる。

ミル先生はこういっている。
「国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人ひとりの人
間の価値に他ならない。だから一人ひとりの人間が知的に成長する
ことの利益」を優先することが、国家の未来を左右するのだと。
国家の没落を防ぐのは、やはり一人ひとりの人間の知的な成長、す
なわち、個々人の日常生活のあらゆる局面でのルールとゴールの再
設定にかかっているのだ。

自由とは自分一人だけで達成できるものではなく、集団の中でパブ
リックという場所で自分を用いることだという地点から考えると、
バーリンさんが難しいといった「積極的自由」が、広い社会性をも
ったものとして、このように気持ち良く想像できるではないか。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第390回 2024.03.10

「自由である『かのように』」

ところでキミはどういうときに、自分は自由だって感じるかね?
しつこいなあ、マスター。まだ続けます? はいはい、わかりまし
たよ。そうですね、まず、好きな時に寝て好きな時に起きるみたい
に、時間を自由に使えるときですね。親にも上司にも縛られないと
きでしょうか。

なるほど、それはあるね。だがもっとないかい?
そうですね。いろいろ考えたり夢見たり、旅に出たりというのも。
なるほどね。なにかに縛られたり制限されないで行動できることか。
それはハックルベリー・フィンの思う自由だし、ルパンの自由だ。
アイザリア・バーリンという政治哲学者は、そのように自分の行動
に必要以上の干渉や制約を受けないことを「何々からの自由」とし
て、「消極的自由」と名づけたのだったね。

でもキミは、いつでもそんな自由を享受してるわけではないだろう?
そりゃそうですよ。そんなはずないじゃないですか。
つまりだ、私たちには「何々の自由」として憲法に保証されている
権利はあるけれど、いっぽうでそれをジャマするものがある。

それはもちろん親のいいつけだったり、金銭面だったり社会の慣習
や常識だったりするが、おもには個人の自由を制限して社会共同体
の利益を守るための法律やルールによるものだね。
そのとおりです。

そこでワシはこう思うんじゃ。
ネットのゲームと違って、法律やルールや社会の常識と呼ばれるも
のは、「この私」が変えることができる。
どうやってか? それができると想像し、どうしたらそれが適正に
できるかを考え、自律的に動くことによってだ。じつにその行為こ
そが、歴史上でもひとを自由にしてきたのであーる、、、なーんて言
いきっちゃってみるが、これまたわかりにくいよね。でも、

「倫理21」(柄谷行人/平凡社) には、そう書かれておる。

まず断っておかなければならないのは、筆者は哲学者なので、「自
由はいかにして可能か」という問題を哲学レベルで考えていること
だ。この「どのレベルで考えるか」ということは、見逃されがちだ
けれどもとても重要なことだ。

自由の問題だって、個人のココロのレベルから家庭生活、仕事から
社会生活そして宗教レベルまで、また経済レベルとか法律レベルと、
いろいろあるからね。そのレベルの違いで、話はまったく違うもの
になる。たとえばキミの言っていた自由は、家庭、仕事、社会のレ
ベルと、心の中のものだったね。そこを確認しておこう。

さて筆者は、哲学・倫理レベルのお話として、西洋の哲学者スピノ
ザやカントを引き合いに出して、「私は、私の行為する時点におい
て、決して自由ではない」という命題をまず最初に出してきちゃう。
困ったひとだね。のっけから「自由などない」というのだから

これはどういうことかというと、われわれの行為には必ず原因があ
り、原因にはそのまた原因があるという無限の因果関係があって、
われわれはそこから抜け出すことがができないというのだ。
「そもそも」最初の最初の第一原因にたどり着けないで、「いま」の
行動が多くの要因と因果関係に縛られている。それが人間というも
のだ。そうした過去の原因と結果からまったく無関係に、自由に行
為できるということはありえないと、そう言うのだ。

でもそれじゃイカンじゃないか。
それじゃ、われわれは永遠に不自由のままじゃないか。自分の力で
主体的に行なったとか、大人として自律的に考えたとか、そんな意
味での自由なんてありえなくなるじゃないか! いつもなにかしら
の原因と条件によって「こうさせられた」みたいになるじゃないか!
どうなんだ、責任者出てこい!ってなもんですよ。
ここで「法律レベル」だと法律家がでてきて、「宗教レベル」だと
神様が出てきちゃったりするんだけど、、、哲学レベルでは自分で考
えなければなりません、はい。

そこで筆者はこんなことを言う。
どっちにしろ自由じゃないんだったら、ひとにとって自由とは「自
由である『かのように』行動する」ところにあるのではないか、と。
「かのように」生きることで、社会的制約やルールや決まりきった
価値観などをカッコに入れて、行為を見直すことができるのではな
いかと。
おお、なんだか必殺技のようなものを出してきたぞ。

自由とは善悪の問題でも因果とも関係ない。自分がどのレベルでど
う自由であるかだけだ。それは思想信条のレベルでの自由?それと
も仕事とか趣味のレベル?あるいは信仰のレベル?っていうように。
だから「私」は、家庭で親のいいつけに縛られる子どもであっても、
自由な大人である「かのように」に想像し行為できる。

仕事のレベルでは、組織で働くのが大変でもフリーランスであるか
のように考える。裁判官であるかのように行動する、まるで自分が
政治家であるようにふるまう、子どものいる親のように考える・・
・このように応用できる。

つまり「○○のレベルで自由である『かのように』」とは、「あたか
もそのレベルで責任をとって行動する」という意味になり、自分が
「手段化」「道具化」されないための武器となるわけだ。それをいつ
でも訓練しておく。これが、「私」がルールを変えることができると
想像し、それを適正にする方法を考えて行動するという意味なんだ。
しかも誤って正して責任をとることもしやすい。だからこれは、行
動指針であると同時に、自分のゴールの再設定ということになるわけ。

ここまで、いい? じゃ、もう少しだけ続けるよ。
ところで責任とは、じつは自分一人だけで達成できるものではない。
「はーい、私、責任取りまーす」と宣言して、発言を撤回したり、
頭を下げたり、役職を辞めたりという自己判断だけで済む話ではな
い。そこらへんが、いまの政治家さんたちの甘いところだね。

責任を取るとは、多くのひとから「あの人は責任を取っている」と
認められることであり、もっと極端には死者(過去のひと)や未来
のひとからも、ウン、あなたはきちんと責任をとった、と尊重され
るものでなければならないと思うのだ。

哲学者の言う「自分(の理性)を、パブリックに用いる自由(カン
ト)」とは、そのための手段なのだろう。それは、「集団のなかで○
○であるかのように行動し、責任を取っているかどうかを、みんな
に見てもらう」というやり方で、自分を用いることでもある。
つまりこれは、自分のルールと周囲のルールの再設定の話だ。

いま、そうした「正しく責任をとる自分の使用」というやり方が、
はたして公(おおやけ)の場で見られているかい? 自分をパブリ
ックに用いるということは、政治家や企業人にとって、自由でもあ
り責任でもあり、むしろ「義務」なのだろうに、しかしそれが見ら
れないのではないだろうか。

公的な場では、「オレ的に納得して責任を取ればいい」という自分
勝手なやり方は通用しない。また「みんなに説明しないでもいい」
「理解してもらわなくともよい」というのは、公的(パブリック)
に生きるひとの倫理ではない。そう思われてならない。
そんなことでは、パブリックがなんと不自由な、痩せた場所になっ
てしまうことか! わかるね、こんなことを言うのも、政治家さんに
限らず、じつはキミもパブリックに生きる一員だからなんだ。若い
キミまでプレーの質を落としちゃイカン!

長くなったが、最後にもうひとつ。
最初に出したバーリンさんの言うもう一つの自由は、「積極的自由」
というもので、「○○への自由」と表現されるものだった。
これは、ひとがなにごとも自律的に考えて主体的に行なうという「自
己原因的」な自由のこと。

過去の事例にとらわれてはダメ、権力者に忖度してもダメ、会社のル
ールにしたがってばかりでもダメ、それでも新規事業を無から立ち上
げろっていうわけ。
そのようにふだんから自分の行為を、どのレベルであってもその過程
と結果を自らの責任として、つまり自己が第一原因である「かのよう
に」自由に行為して、責任を引き受けられるようにしておくことだ。

しかしこの「積極的自由」とは、なんとも骨の折れる話だ。
過去やルールや法律などにとらわれず、新たにすべてを自分の頭で判
断して決定しなければならないのだからね。バーリンさんでさえ、そ
りゃ難しいことさと言って、あまり推奨していないんだ。
では、次にそれを考えてみよう。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第389回 2024.03.02

「探偵さんの矜持と自由」

だいぶマスターの言いたいことがわかってきたような気がします。
そうかい、ありがとう。でも今回はちょっと脱線するよ。
え、せっかくわかりはじめたところなのに!
まあまあ、まずそこにお座りなさい。さてと、自分が「手段化」さ
れずにゴールの再設定をするために、「誤り、責任をとり、正す」
姿勢をもちたい、というところだったね。

そのために現実にはなにをしたらいいのか?ということだけど、出
発として、自分のロールモデルをつくってみるというのはどうだろ
う。
ワシがすぐ思いつくのは、アメリカのハードボイルド小説の主人公
だ。たとえばそれは、以前取りあげた(第185回)レイモンド・チ
ャンドラーの作品に出てくる探偵フィリップ・マーロウ。

その生きざま、自由さ、他人との距離感、すべてが参考になる。
彼は、自分が主人公という生き方を貫き通していた。フィクション
のヒーローを、人生の師としたりロールモデルにするというのはム
リがあるかもしれない。しかし、こういう探偵さんたちには、実在
の人物には求めることのできないなにかがあるとしたら、これも本
を読む愉しみのひとつといえるだろうね。そしてもちろん、

「マルタの鷹」(ダシール・ハメット/ハヤカワ文庫)

の主人公、サム・スペードにもおなじ自由を感じる。
彼の職業は探偵。小説の舞台となるのは、1930年ころ、大恐慌の
あとで、まだ禁酒法が生きていた時代のアメリカだ。

ハメットのほかの小説、「地の収穫」「デイン家の呪い」「ガラスの
鍵」などすべてに共通する背景は、劣化し腐敗した社会だった。
街にはギャングが往来し、カネと欲と権力の奪い合いがあって、銃
が火を噴いて殺人が起こる。現実にもアル・カポネやアンタッチャ
ブルが活躍していたムチャクチゃな時代だ。そこでは表のタテマエ
社会とウラのホンネ社会をまたいで、うまく身を処さないと生きら
れないし、殺人事件の真実にもたどり着けない。

諏訪部浩一さんという先生いわく、
「腐敗した世界を生き抜くために、探偵は非情でなくてはならず、
したがって孤独をその宿命とすることになるものの、またそれゆえ
に自分なりの倫理を貫徹する孤高の騎士となることができる」と。
これがハードボイルドの神髄だ。

探偵サム・スペードは、自分の考えを大事にする。というか自分に
しか頼らない。自分のルールで生きる。つねに自分の信念を重んじ
るから、他人の評価に依存しない。名声や権力を求めない。これが
自分が「手段化」されていないひとの生き方だ。
だから自分を切り売りしない。やっかいごとはひとりで切り抜ける。
生身の人間として他人との関係を結ぶ。だから騙されたりウソをつ
かれることに我慢できない。

汚れた街のなかで、単身で生き抜いていく探偵さん。
「きみのおふざけはよくわかった。どういうことか話してもらおう」
「あんたは品物を手に入れた。望みのものと違っていたのは、そっ
ちの不運で、おれの不運じゃない」。「おれが見かけと同じほど堕ち
た男だと、たかをくくらないほうがいい。その手の悪名は、商売を
やっていくのに都合がいいんだ」
こんな言いぐさに、ワシは社会的自己の確立と、それによる自由を
ビンビン感じてしまう。このように自分のゴールを再設定できたら
どんなにいいだろうと、つくづく思ってしまうのだ。

自分の信念を守ることによってしか矜持を保つことはできず、知恵
と度胸と腕っぷしを駆使して戦う男一匹。孤高だけど自由だ。
こういうひとには、正直とか誠実ということばは似合わないが、彼
の信念を理解できるならば、これほど信用のおける人間はいない。

さらに、、、悔しいけど、いや、こんな奴だからこそ、女にモテる。
モテても利用されるのは、ごめんこうむる。
「演説は無用だ。だれがだれを愛していようと知ったことじゃない。
こけにされるのはごめんだ」「百に一つでも、いいカモにされたかも
しれないと考えるだけで我慢ならない」「出会ってから、つづけて
30分たりともおれに正直だったことのないきみを、信じろだって。
ごめんだね、ダーリン」「きみが刑務所で20年間おつとめをすませ
て出てきたら、おれのところに戻って来いよ」。
カッコイイなあ!

そして、こんなことを言いつつ彼は去るのだ。
「人はものごとを明白に考えたりはできない。考えるということは
頭が混乱するってことなんだ。人にできるのは霧の中でちらっと見
えるものをできるかぎりつかまえ、つなぎ合わせることぐらいさ。
人が自分の信念や意見に頑なにしがみつこうとするのはそのためだ。
人が直面することになる危険の多い道に比べれば、どんなに愚かし
い信念であっても、このうえなく清明で、健全で、自明なものに思
える。もしその信念を取り逃がしたりすると、あの霧のかかった混
迷の中に飛び込んで、それにかわる新たな混迷を求めてもがきつづ
けることになる。」(「血の収穫」より)
探偵さんの自由は、こんな信念から生まれているのだ!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第388回 2024.02.25

「誤り、責任をとり、正す自由」

マスター、ちょっと興奮気味で錯綜していませんか。
そうだね。でもいいじゃない。これを読んでくれるひとなんて、た
いしていないんだから。思いついたことを「自由に」書いても社会
の妨げにはならないさ。
そうですか。そう開き直られちゃしょうがないな。続けてください。

いいよ。さてさて、個人が意欲を減退させず、行動の幼稚化に陥ら
ず、さらにレベルを上げて会社や国の統治システムの劣化を乗り超
えるためには、「自由」をテコに考えるのが役に立つのではないか
として、多少のヒントを得ながらも、まあ、泥沼に踏み込んだとこ
ろだったね。
そこでこんどはこんな視点から、自由という課題のもうひとつの側
面を考えてみようじゃないか。 

「訂正可能性の哲学」(東 浩紀/ゲンロン)

私たちはいま、情報・消費社会の中で、そもそも自分たちを「自由
な主体」と思えて、自由に考えて行動しているのだろうか? 
あ、また「そもそも」って言っちゃった、お許しあれ。
そんな質問に答えるように、筆者はズボフさんというひとの「監視
資本主義」からこう引用している。
「わたしたちはもはや、価値実現の主体ではない」と。
価値実現の主体ではない、つまりわれわれは、自由にものを考えて
いるわけでも、自由に選択しているのでも、自由に商品やサービス
や情報を選択して利用しているのでもない、という。

「そうではなく、わたしたちはグーグルの予測工場で原材料を抽出・
没収される『物』にすぎない。私たちの行動に関する予測がグーグ
ルの商品であり、それらを買うのはグーグルの真の顧客である広告
主であって、わたしたちではない。わたしたちは他者の目的を達成
するための手段なのだ」。

ここまで、いいかな?
ここでいう「グーグル」とは情報・消費社会の象徴だけど、じつは
すでにわれわれはその生産の「目的」ではなく、「手段」に成り下が
っているというのだ。つまり消費社会の特徴である「すべてを目的
と手段の中に閉じ込める」という論理の中で、手段として窮屈に生
きるしかなくなっている。われわれは自分で目的でもプレーヤーで
もなく、じつはたんなる道具だったのだ。
これが筆者のひとつの主張だ。

まるで、映画「マトリックス」のように、一人ひとりの人間のもつ
意志や能力などが、消費社会を動かす手段として「ビックデータ・
センター」に吸い上げられるシステムが、いまの社会を形作る。
ワシはだれかがこんな表現をしているのを見たことがある。
われわれはもしかしたら、脳をクラウドに置いてVR(仮想現実)
に生きるのかもしれない、とね。これは自由国家アメリカでも、監
視社会の中国でも同じこと、主義も文化も階級も関係ない。

しかし、あらためて考えて欲しい。そもそも「自由」とは、「ひと
の可動域を拡げて選択肢を増やすもの(内田樹)」であるはずだ。
そうだよね? しまった、また「そもそも」って言っちゃった。
でも、キミもそう思うだろう?
ところがいまの情報・消費社会では、だれもが「意志や能力などを
社会を動かす手段として吸い上げられ」ていて、「自由に考え、暮
らしている」ように錯覚し、じつは「監視され、支配され」、モノと
して扱われ、思考も行動も不自由になっているのではないか。
とりわけ若者を、目的と手段の因果関係に縛りつけ、自由とはいえ
ない状態にしているのではないか。

とすれば、彼らが主体的に可動域を拡げて選択肢を増やすなんて、
難しいことだ。その現実を、じつは若者はすばやく感じ取っていて、
その思いが閉塞感と無力感となってストレスを与えている。そして
意欲の減退と行動の幼稚化につながっている、というワシの話につ
ながるわけだ。

筆者はこういう状況も含めて、「正義とは訂正可能性のことだ」と
いい、「ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤
る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、
責任を取るということだ」、と言う。

なんとなくわかるね。
誤るけど正す。責任を取る。こんな、あたりまえのことを確実に続
けていくことが大切なのだ。自由とはそこから出発する行動だ。
ここが、自分のゴールと周囲のルールの再設定につながることでは
ないかな。

正解じゃなきゃダメとか、コスパやタイパが良くなきゃダメとか、
間違えたらごまかそうとかことばで言い逃れしようとか、秘書や会
計責任者に責任とらせちゃおうとか、そんなことばかり考えている
と、結局自分が道具として手段化されて不自由になるだけなのだ。
誤るけど正す。責任を取る。その原則に自分を再設定して、自分の
自由を試行してみよう。

ついでに誤爆するよ。ああいえばこういう政治家を見習っちゃダメ。
忖度する官僚を参考にしちゃいけない。組織的にごまかしと不正を
する企業に目を奪われるな。ネットで自分が正しいと主張する知識、
人やユーチューバーを疑え。フェイク情報の消費に加担するな! 
そうした行動は、すべてキミのゴールを見えなくさせ、誤って正し
て責任を取るという出発点を見失わせる。
そこんとこ、わかってくれるね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第387回 2024.02.18

「自由・不自由というキーワード」

うーん、ま、そう言われれば、そんな気にもなってきますね。
でもマスターの持ち出した本のように、「文明の崩壊」の特徴まで
だされると、いくらなんでも大げさに感じます。

まあまあ、いいかね、ワシは、統治システムや国の政治の劣化がイ
コール文明の崩壊だと極論しているわけではないんだよ。
が、しかしだ。コロナの影響が徐々に目に見えないところで起るよ
うに、「統治の劣化」が「若者の意欲の劣化」を招き、少しずつ、
徐々に、ジワジワと、知らぬ間に、あれよあれよと、国と文明の崩
壊につながらなければいいがと、こう危惧しているのだ。

そうですか。じゃ、どうすりゃその劣化とやらをとめられるってい
うんですか、教えてください。簡単なことではなさそうですもんね。

まあ、そう先を急ぐな。ワシも一歩ずつ確認しながら進めたいのよ。
さてと、前回挙げた「文明の五つの崩壊原因」の萌芽が、いまの統
治システム側に現実にあって、それが日本の若者の価値観に影響を
与えて、意欲の劣化や無力感や閉塞感が広がっているのではないか
と仮説するとする。

これをちょっと別の面からみてみよう。
人口が増えて国や組織が大きくなると、一般的には、その運営には
ヒエラルキーによってトップダウンの意志で、構成員を差配するこ
とが効率的だとされる。いまの中国ではないけれど、そのほうがひ
とのチカラを結集しやすく、管理しやすいからだ。

しかしその結果、さまざまな階級が生まれて格差が拡大し、個人の
できることとしたいことに差が生じ、もって閉塞感が蔓延する状態
になりかねない。歴史はそう教えている。そしてその影響をもっと
も受けるのが若者世代なのだ。

具体的にはたとえば、自分には手の出ない政治家や企業人の言動の
影響で、彼ら若者が自分の頭でモノを考えずにお任せ主義になり、
なにごとも他人のせいにして説明責任をとらずに済ませてもいいん
だ、なんて考えるようになったりする。階級も格差も是正されない
と思わされる。
またコロナの影響もあり、他人との間にカベを作ったり、孤独に陥
る。まるでパスをまわさずにひとりでボールリフティングしている
サッカー選手のように。これらも価値観に影響し、意欲の劣化や無
力感や閉塞感を生む。
ここまで、いいかな?

うん、まずはマスターのいうことを飲み込んでみましょうか。
そうか、ありがとさん。このように現状を確認したうえで、では、
この現状を「劣化」であるとして、それを止めるにはどうすりゃい
いんだ!という話に移っていこう。
ここでワシは、「自由」というキーワードを出してみたい。
国や統治システムと個人の意欲や行動のふたつの「劣化」には、ひ
とつ補助線を引いて考えると、その関連がもう一歩明らかになると
思う。それが「自由」の問題だ。

いまの若者は自由ではない。不自由になってしまった。
あるいは、そもそも自由なんて欲していないようにも思える。
すまんね「そもそも」なんてことばを使って。
たとえばいま日本では、「降りる」若者がめだっている。
社会というフィールドで自由奔放にプレーするよりも、危険を冒さ
ずに、不自由でも安心に暮らしすことに甘んじるほうを選ぶ。それ
が、引きこもりだったり、選挙に行かなかったり、クスリに逃げた
りすることにつながっていやしないか。彼らは、まるで試合中に勝
手にベンチに戻る選手のようにスルリと降りているようにみえる。

いいね、ワシは、「そもそも自由とはなにか」という問いを出して
いるのではない。しまった!また「そもそも」って言っちゃった。
そうではなく、あくまで、「自由」というキーワードが「劣化」を
の連鎖を止めるヒントになるのではないか、と言っているのだ。
迂遠な道のりになりそうだが、おつきあいいただけるかな? 
はい? よし、では今回はここから考えてみよう。

「目的への抵抗」(國分功一郎/新潮新書)

この本で先生は、人間にとっての自由とはなにかについて、
「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を
越える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的
に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由が
ある」という。うむ、どうしても抽象的な表現になっちゃうのね。
つまり「自由」というのは、「ひとがみずから作った束縛から解き
放たれる方法」であり、それはが「目的に抗すること」だというの
だ。

ここで大事なのは「ひとがみずから作った束縛」というところだ。
なにか自分の力の及ばないものが作ったもの、ではなく、みずから
が束縛を作り、そこに縛られているのが、不自由だというのだ。
たとえば経済的成功とか地位や権力の獲得といった目的を作ると、
その目的そのものが自分の運命になって、自分は逆にその歯車にな
ってしまう。これはまったくの「不自由」だと。

そのうえで、哲学者アガンベンを引用して、いまの社会は「生存の
みに価値を置く社会」になっているから危ういのだ。「ただ生きて
いるだけになったあり方は、剝き出しの生というものであり、それ
は人間の目を見えなくさせ、彼らを互いに分離するものである」と
続けている。

難しい話になった。先生はなにを言いたいのか?
まず、カネや地位を目的にしているのは経済人や政治家だが、私た
ち庶民はそれ以前に、「とりあえずその日を無難に生きていくこと」
という目的に縛られているのではないか、というのが先生の問いだ。
そうだとしたらワシは思う。それはもしかしたら暴力や犯罪や戦争
の多発、パンテミックに自然災害に格差や差別や人間関係でストレ
スを抱えて、そうなってしまったのではないか。

問題は、それによってわれわれは「自由から拒まれてい」というこ
となのだ。わかるかな? 
目的に縛られたままでは、われわれはけっして自由ではありえない、
と先生は指摘する。われわれは、目の前にあるいろいろな「生きづ
らさ」や不安や不快から逃れられないと諦めている。現実に絡めと
られている。手も足も出ない。なんと不自由なことか!と。 
これは、心理学者エーリッヒ・フロムのいう「自由からの逃走」で
あって、「個人的自己から逃げ、自分自身を失い、自由の重荷から
逃げる」状況だと思う。

ワシは、この現状が若者の「意欲の減衰」と「行動の幼稚化」をひ
き起こす原因のひとつだと思うわけ。
いまの若者は、自分が「選択」する前に、自由でない状況に追い込
まれたと思い込んでいるのではないか。監督やルールブックや戦術
に縛られて自由にプレーができないでいる。

なのでとりあえず、みんなと楽しく「プレー(生きる)」ことを優先
して、「エモさ」や「カワイイ」「映える」「推し活」などという「目
的」のほうに逃げ込もう。自分の殻に閉じ込もって生きるほうが楽
だ。こんなふうに目の前の現実に絡めとられて、自由など眼中にな
い。

このように若者が自由を感じられず、さらにはそれをめざすことが
目的にもならなければ、世界は雪崩を打つように劣化に向かう。
なぜなら先生が言うように、ほんらい「人間の自由は、必要を越え
出たり、目的からはみ出したりすることを求める」ものだからだ。
しかしそれにもかかわらず、「(現在の)消費社会の論理は、すべて
を目的と手段(の関係)の中に閉じ込めよう」としているのだ、、、。

そうだね、ワシもそう思う。いきなり消費社会の論理のレベルにな
って恐縮だが、私たちの生き方はこのレベルに居ついているからし
ょうがない。なんでもカネに換算するクセとか、コスパとかタイ
パということばは、この論理の所産なのだ。
ね、「文明の崩壊」の予兆がここに出てきただろう? 雪崩を打ち
そうな感じがするだろう?

この因果関係から脱出するには、われわれは、目の前の現実をはみ
だす目的と思考を持たなければならないだろう。
それにはまず、消費社会の論理のレベルであっても、自分のゴール
と周囲のルールの再設定をすることだ。そのためには若者よ、まず
は自分の殻に閉じこもるな! それが眼を曇らせて周りを見えなく
させ、たんに消費して生きることだけを目的にさせ、もってわれわ
れを互いに分断させて不自由にする原因なのだぞ!
先生はこうおっしゃっているのではないだろうか。


ブックカフェデンオーナーブログ 第386回 2024.02.10

「日本は劣化しつつあるのではないかと」

最近オーナーは、若者のことばかりあげつらってませんか?
いや、そんなことはないよ、Z世代の価値観などを参考に、若者の
現状を考えつつ、日本の将来を心配しているだけだよ。
ふーん、そうなの? いったいなにがそんなに心配なんです?
それはね、おじさんである私の眼から見ると、日本全体がどんどん
劣化しているように見えることなんだ。

劣化って、たとえば金属が腐食したりしてもろくなるようなこと?
そうだ。ひともモノもそうだし、システムとかやり方とかものの考
え方などすべてに見られる危うい現象だね。
たとえば、どんなことですか?

うん、そうだね。若者のことでいえば、日本の若者の価値観の変化
による言動が、ワシには意欲や精神面での劣化にみえてならない。
また社会に眼を向ければ、たとえば、記憶に新しいところで東京オ
リンピック。ウラで有象無象がうごいていたろ? 大手広告代理店
が談合したり政治家がうごめいていたね。

ああ、たしかに。IRとか万博とかうまくいっていませんね。いつ
も同じような過ちがあって、私たちはみんな学ばない人になったみ
たいです。それも社会の劣化でしょうか。

そう、考え方もやり方も固まってきちゃうという症状だ。金属が劣
化するとボキッと折れるだろう? そんな光景を想像してしまう。
年金やマイナンバーという巨大インフラや、いまもっとも大切な情
報システム系もそうだ。銀行システムでは大手情報処理会社がミソ
をつけてしまった。イギリスでのF通の不始末なんかは劣化の輸出
かもしれないね。

それからモノづくりもそうだ。国産航空機にロケット開発、次世代
半導体開発、ワクチン開発、D社などの車の認証不正、うまくいか
ないことが多かったね。これらが人災だとすると、働くヒトの意欲
と能力の劣化かもしれないし、組織的な劣化だとすると、技術の日
本という信頼は全体として失せてしまったことになる。

そういえば、日本のいまの政治はどうですか? なんだか、いつも
「適材適所」の政治家さんに「お答えは差し控え」られて「適切に
処理」されちゃって先送りされている感があるんですけど。
そのとおり、それも統治機構の大きな劣化だ。

さらに言えば、日本では公安や警察みたいに「目に見える強圧的な
権力」よりも、怖いのは「目に見えない権力」だということも覚え
ておきたい。
「目に見えない権力」とは「監視カメラ」みたいなものでもあるし、
政治家のそうした「なんでもあり」の態度や、「隠そうとする意志」
や「ごまかそうとする意志」としても現れる。

たとえ無意識的なものであっても、常套的でどうとでもとれること
ばづかいに象徴されるような「ことばの意味を軽く扱う」ことは、
政治家本人の考えを軽くするだけでなく、知らず知らずに国民みん
なが考えないように誘導する「目に見えない権力」としても作用す
る。それはわれわれ自身の可能性を狭め、生きる力を削いでいくこ
とにもなる。
ということで、こんな本を参考に現状を確認してみようか。

「文明はなぜ崩壊するのか」(レベッカ・コスタ/原書房)
.
この本、もともとはギリシヤやローマといった古代帝国の文明がダ
メになっていく原因をいくつかにまとめているのだ。
「劣化」が続くといずれ「崩壊」しちゃうというわけ。

1. 反対という名の思考停止がでてくる。
ある政策や意見に対して、とりあえずなんでもかんでも反対する
が、代替案をもたない。
これ、日本では政権与党が野党に対して批判することだね。
2. 個人への責任転嫁がある。
なにか事件とか問題があると、とりあえずだれそれさんのせいに
して、責任を押しつける。
これ、日本でも政治や企業ではよく行われることだ。すべて安部
元首相がやったことだとか、すべてジャニーさんが悪いんだとか。
3. 関係のこじつけがある。
ある結果について、ひとつだけの原因にすべてを還元する。
この状況はCIAの陰謀である。桶屋が儲かったのは風が吹いた
せいだ。こういう思考停止がでてきてしまう。
4. サイロ思考。
複雑なものは切り分けて扱いやすくしがちになる。専門領域を狭
くとる、そして思考や行動を細分化して情報共有や協力ができに
くくなる。
こっちはこっちでちゃんとやっているんだから、問題はそっちの
仕事だろ的な、仕事場でのやりとりなんかいい例だね。
5. 行き過ぎた経済偏重がある。
なんでもかんでも「カネ」というわかりやすい基準で考える。
利益、勝ち負け、コスパ、タイパなどという見えやすい評価基準
ですべてを判断する。
大阪万博問題でも「経済効果がいくらいくら」と金勘定ばかりし
ているし、同じことは若者の価値観からはじまって、ビジネスや
行政、学校教育、すべての分野で起きている。

こう見てきて、さて、どうかな?
なんだか自分の身の周りで起きている現象とピッタリ同じに思えな
いかい? 
国や社会は問題解決能力を失い(少子化や原発、沖縄の基地問題な
ど)、思考停止に陥っている。責任はだれそれのせいと個人に転嫁
して(裏金づくりは会計担当者のせい)、環境や財政赤字のような
課題は次世代に先送り。経済(というかカネ)偏重の政策が行われ
たが失敗続きで、原因と結果の関係のこじつけは日常茶飯事。
そうこうしている間に社会環境は悪化の一途を辿る。

とどのつまりは、その場しのぎの政策(借金してカネを出そう)と
根拠のない思い込み(神国ニッポンはまだまだだいじょーぶだアー)
に頼ることになる。
これらの現象は人間の意識の問題にも思えるし、その文明を、ある
いはその国を生きる人びとの、認知と能力の限界をあらわしている
ように思うのだ。
、、、と、このようにワシは、いまの日本は、国も若者もおなじ劣
化病に罹っている気がしておるのだが、キミ、どう思う?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第385回 2024.02.03

「Z世代の価値観は?」

コロナ禍があるていど終息して、世の中にはよかったよかったみた
いな雰囲気があるけれども、この間まる三年の影響は、きっとこれ
から徐々に出てくるのでしょうね。そんな気がします。

コロナによるパンデミックは、社会の抱えるさまざまな弱点や矛盾
を白日のもとにさらしたのかもしれません。世界各地での内戦・紛
争や戦争、移民や難民の増加、地域間や国内での格差拡大などなど、
これらはみんなパンデミックの負の影響にも思えてきてしまいます。
うーん、ちょっと極端に言いすぎましたか。

でも、学校や職場でリアルな人づきあいの機会が減ったことで、コ
ミュニケーション不全が起きて、引きこもりや薬物依存とかが増え
りしないだろうか。
あるいは、なにごとに対しても予測できない感触にとらわれ、不安
やストレスが増しているのではないか。そのせいで自分の人生に積
極的にコミットできなくなるひとが増えてすいるのではないかしら、
などと、私はひそかに心配しているのです。
その辺も含めて、現在の若者の価値観はどうなっているか、この本
でみてみましょう。

「#Z世代的価値観」(竹田ダニエル/講談社)

筆者はアメリカで暮らす若者。そしてこの本でいう「Z世代」とは、
アメリカにおける「ポスト9.11の若者世代」のことです。
あんまり「なんとか世代」と区切って決めつけるのはよくありませ
んが、便宜上これで紹介を進めましょう。

ポスト9.11の20年間は物騒な時期で、銃の乱射とか各種の差別、
そして戦争への介入や情報系の発達にトランプ大統領の誕生、そし
てコロナ禍など、若者に大きな影響を与えることが頻発した。
そのなかで培われた価値観にはどういう傾向があるのか。お金、健
康、人間関係、情報化、SNS、仕事などをどう考えているのか。
こういう問題意識で、筆者は考えを進めていきます。

まず、Z世代にはコロナ禍によって受けた影響で、ほかの世代より
も人間関係やアイデンティティの形成に重要な時期に、絶望と孤独
を経験させられ、なにごとに対しても予測できないとか想定不可能
という感触にとらわれて、ストレスが増している。「他のどの世代
よりも高い割合で不安やうつを訴えている」らしい。

そのせいもあって、たとえば「パラソーシャル」な若者が増えた。
それは「一方的に有名人と関係を持っているかのように錯覚する感
覚をもつ」ひとで、だれそれがもっている服を買うなど、芸能人や
インフルエンサーのライフスタイルや価値観に、あこがれとか親近
感をもつひとたちのことだ。

有名人と自分を一体化することが、彼らの精神的な安心に役立つ。
逆に言えば、自分が、自分の憧れる有名人と同じ場所に立っていな
いことに理不尽な不満を募らせ、その結果、有名人へのストーカー
行為とか私生活の「晒し」という過剰な関与など、数々の嫌がらせ
行為をしてしまう。

もちろん、○○世代とひとくくりに考えること危険だし、アメリカ
のZ世代のことが日本の同世代の若者にそのまま当てはまるのかは
わからない。でも、私たちはアメリカのZ世代の価値観から、「コ
ロナ後の日本の若者の価値観」との共通性と課題を引き出すヒント
が見つかるのではないだろうか。筆者はこう言います。

たしかに、私が感じるだけでも、たとえば羽生クンの結婚問題から
なにから、多くの若者がネットで文春砲を打っているような感じが
します。不安、不満、孤独、そうしたものが若者の間に蔓延して、
気に入らない言動や表現を見ると、「みんなで叩いて世の中から消そ
う」と煽るひとが増える。

また、以前に書いたように、「ありがとうございます」のひとこと
で他人から自分を守っているような言動も、「キャンセル・カルチ
ャー」も「傷つきました戦争」にも、同じ根っこがある気がします。
それが極端には、裏サイト経由の犯罪行為にまで至るように思われ
る。ここは、あくまで私の個人的な感想でした。

さて、筆者の緻密な分析をすっ飛ばして、いきなり結論めいた部分
を紹介しますと、筆者は最後に若者にこう訴えています。
こうした絶望や閉塞感からくる現実逃避や不安やストレスに対処す
るには、「自分が不幸である」「孤独である」とすなおに認めること
が必要だ。「自分はまだ幸せなほうなのだから、社会に対して文句
を言ってはいけない」などと思うな。きちんと感情をあらわに主張
しろ。簡単に不安や不満を抱くなと。

こここからまた私の個人的感想でいわく。
ついでに他者と連携しろ。第379回でカトリーヌ・フォレストさん
が試みた、「誰かを傷つける怖れがあるとしも、勇気をもって話し合
おう」というルールに戻ったらどうか。
そうそう、この本のオビにはこうありました。
「『誰かとともにあることが自分を大切にし、自分を愛することにつ
ながるのだ』と考えて欲しい」。そして、「愛と連帯で価値観の革命
を起こすのだ!」と。ちょっとカッコつけてますけどね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第384回 2024.01.28

「ホントウの自由な生活」

キミキミ、ところでマーク・トウェインという作家を知っているか
ね。
もちろん知ってる? ほお、「トム・ソーヤーの冒険」を読んだ? 
よしよし。ま、いつか紹介する機会があればいいのだけど、「人間
とは何か」(岩波文庫)などをみても、このひと、一筋縄ではいか
ない作家だということがわかるよね。でも彼は19世紀に活躍して、
アメリカ文学の祖とも言われているんだ。
そんなことはとうぜん知ってるって? はい、失礼しました。

「ハックルベリー・フィンの冒けん」(マーク・トゥェイン/柴田元幸訳 研究社)
  
では、トム・ソーヤーの友人であるハックルベリーの話を再読して
みましょう。翻訳は手練れの柴田正幸さん。これはじつに翻訳家の
腕も試される本だということも再認識しました。

舞台は19世紀中ごろ、南北戦争の前の中部アメリカ。
日本では江戸時代末期、文化文政時代が終わるころ、アメリカ先住
民と戦ったデービー・クロケットがアラモの砦で戦死した後くらい。
また、「アメリカの民主主義」を書いたフランス人政治家、アレク
シ・ド・トクヴィルがアメリカを視察したあとくらいの時分に、物
語は設定されています。
は? そんな時代考証はどうでもいい? 失礼しました。つい癖で。

主人公ハックルベリーは、13・4歳の自然人で悪ガキ少年で、出
だしの彼の独白からして、ふつうの小説とは変わっています。
「『トム・ソーヤーの冒けん』てゆう本をよんでない人はおれのこ
とを知らないわけだけど、それはべつにかまわない。あれはマーク
・トウェインてゆう人がつくった本で、まあだいたいはホントのこ
とが書いてある」、と始まリます。

なんとまあ、フィクションなのに同じくフィクションの前作のこと
を「だいたいホントのこと」と言っているし、作家自身の名前も出
しちゃっている。
おもしろいですね、これ、メタ・フィクションのはしりですね。

他の翻訳では、主人公の自称を「おら」とかにしているものもある
けれど、ここで翻訳家が選んだのは「おれ」という呼称でした。
たしかにこのほうがいいですね。「おら」だと、いくらなんでも田
舎っぽくて、読者のイメージがそっちに引きずられてしまう。
こんな点も含めて、無学の少年ががんばって文字を書く形式なので、
翻訳家は原文を尊重して、漢字はあまり使わないなどの工夫をして
いるわけです。

さて「冒けん」話のスジは、孤児のハックが、保護してくれる家庭
の身の詰る堅苦しさから逃げ出し、戻ってた来た無慈悲で野蛮な父
親から逃げ出し、逃亡奴隷のジムとミシシュッピー川をいかだで下
っていきます。
途中で泥棒やいろんな悪党とも出くわしながら、自然人の悪ガキら
しい知恵で乗り越えていく彼らは、無学であっても、生きるチカラ
が旺盛なたくましい少年たでち。少年の読者であった私は、このい
かだの川下りをワクワクして読んだのでした。

いま読み返すと、自分勝手でやりたい放題の少年の目線で描かれる
当時のアメリカ社会は、その描写一行一行がおもしろく、楽しい。
開拓精神や素朴で敬虔な信仰が広く行き渡っていて、ひとのつなが
りと助け合いがあり、秩序を愛するものとそれをそれを壊そうとす
るものがいて、また純朴で迷信深くて騙されやすいひとと騙す側の
悪党がいる。子どもを食い物にする親とそこから逃げ出す子どもが
いて、黒人奴隷とあまり表に出ない彼らの社会があり、黒人と白人
それぞれの情報網がある。それらが手に取るようにわかります。
もちろん少年の目には、政府とか役人とかはあまり映らないい。

ハックは仲間のトム・ソーヤとおなじく、だれにも縛られたくない
自由人なので、親からも保護者からも、政府からも法律からも逃れ
る。彼ら少年たちもウソ・でたらめ・でまかせを言いながら旅を続
けるのだけれど、それもまた生きるための手段なのでした。
このへんでは、社会の規範を象徴する大人に対する、少年の辛辣な
批評眼と知恵がいかんなくバクハツしています。

なぜ逃げ出すのか? なぜ旅に出るのか?
それは彼が、「自由」というものに、かけがいのない価値を見いだし
ているからです。その時代のアメリカの若者気質が、噴水のように
ここにあふれているよう。そんな彼の自由のイメージは、彼の目に
映る自然の描写によって、私たち読者に直接伝わってくるのでした。

「おれたちは(いかだで)夜に走って、昼はかくれてねむっていた。
夜がもうじき明けるってゆうところでいかだをとめて、しばりつけ
る。それから釣り糸をしかける。そして川に入ってひとおよぎする
と、気ぶんはサッパリするしからだもひんやりする。そうして、ヒ
ザくらいのふかさの、砂の水ぞこにすわりこんで、日の出をながめ
る。どこからも、なんの音もしない。シーンとしずまりかえって、
まるでせかいじゅうがねむっているみたいだ。」

「いかだでくらすのはステキだ。上には空があって、星がいちめん
にちらばり、おれたちはよくねころんで星空を見上げて、あれはだ
れがつくったのか、さいしょからただあるのかを話しあった。」
これが自分たちのホントウの生活だ、ここから離れたくない、と彼
は心から信じている。

この気持ち、キミにもわかるよね? 
いろいろな制約から逃れて、無限の可能性を信じられること、そこ
にこそホントウの自分がいると信じる。みんなで助け合って生きる
ことも大事だろうけど、ステキに自由な生活を手放したくはない。
ハックルベリーを読むことは、そんな気持ちを想い出すことでもあ
りました。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第383回 2024.01.21

「子どもにはわからんかったなあ」

昔に読んだ外国の本を読み返すということは、ときに「新訳」で読
むことにもなります。
すると、あれ、こんな場面あったっけか、とか、あっ、やっぱり昔
の少年少女世界文学全集の本は抄訳だったのか、と気づかされるこ
とが多いものです。ドリトル先生だって「航海記」だけじゃなくて、
もちろんシリーズで何冊も出ているし。
とりわけ、こんな本は新訳でこそ「読み直すべき本」、の典型かもし
れません。

「ガリバー旅行記」(ジョナサン・スウィフト/朝日新聞出版)

ご存じガリバー、だれでも知っているガリバー、船で遭難したら小
人国に漂着してしまい、そこで暮らすことになるガリバー。
もしあなたが読んでなくても、ガリバーが小人たちに砂浜に縄で結
わえ付けられている挿絵が思い浮かぶのではないですか?

300年前の小説にしてはいまでも有名すぎるガリバー旅行記ですが、
それを手練れの翻訳家柴田正幸さんが新しく訳し直したとなれば、
そりゃ読まずにはいられません。
まずここには、小人のリリパット国、巨人のブロブディングナグ国、
天上に浮かぶラプータのあるバルビバーニ国、そこからの帰りには
日本にも立ち寄ったりして、次には奇怪な動物のいるフライヌム国
にたどり着くなど、ガリバーは大航海時代の象徴的人物として、ま
あなんとも、あっちこっちへ航海して漂着していたのでした。
だから「旅行記」ではなくて「航海漂流記」ですよね。

漂着する各地で、彼は一生懸命現地のことを学び、生き延びて本国
へ帰る努力をします。想像を絶する他国のことばと文化を理解する
ことでお互いを知り、友好を深めてサバイバルに成功し、彼らの力
を借りて帰国の手段を得る。
彼のこういう努力は、いかにも大航海時代のイギリスの国民性と知
恵を示しています。
他国や他の文明のひとたちと交流するには、いかに対話が大事か。
これ、教訓のひとつですね。ま、その後イギリスがその教訓をきち
んと生かしていったかどうかは別にして。

もちろん教科書的に言えば、この本には「たっぷりの教訓」が、も
っともっと含まれています。まるで教訓のセレクトショップみたい。
たとえばリリパット国の法律や教育の新鮮さ、巨人国の政治や宗教、
各国の王様の振舞い方、そしてもちろんそれぞれの言語、こうした
ものにガリバーは心からの敬意を払い、それらはわれわれ英国民に
とってなんと参考になるものだろう、と習得していきます。

そして、他の文明と比べるとわが英国の場合はどうか、劣っている
のではないか、みたいな作者の気持ちも同時に表れてきて、だんだ
んガリバーの感想が教訓っぽくなる。
これが作者の意図であり、他の文化を引き合いに出して教訓を垂れ
る、という芸風なんでしょう。

けれどそこには、自他の比較からの教訓にはおさまらず、人間なん
てみんなアホな動物だとか、相手の方が理性的で自分の方が野蛮な
ときも多いとか、はたしてわれわれはこのままでいいのだろうか、
などいう、作者の根本的にはシニカルな人間観があると感じます。

たとえばある国の王様に、「ある国がよその国と戦争をす一般的な
原因や動機はなんなのか?」と尋ねられて、ガリバーが答える。
その答えはぜひじっさいに読んでみていただきたいですが、それは
作者より100年ほど前のフランス人、モンテーニユをほうふつとさ
せる、皮肉とヒューマニズムあふれるものでしたね。

そうした人間観や戦争観は、300年前の拡大帝国主義イギリスにあ
っては少数派の意見であり、それを公に発言することはそうとうに
根性ある、つまり批判覚悟のものだったに違いありません。
作者スウィフトのまわりには王様や貴族がいるし、行政官だって、
自分が正しいと自信満々の輩や鼻っ柱の強い奴ばっかりで、宮廷か
ら実務からビジネスまで駆け引きの世界だったでしょうからね。
場合によっては彼は、迫害されるべき異端思想の持ち主とみなされ
たかもしれない。そのくらいの覚悟で書いていたに違いない内容だ
と思ってください。
こういうことも、大人になってから読んでわかることでした。

最後にひとつ。
主人公ガリバーの漂着した、空に浮かぶ島「ラプータ」は、もちろ
ん宮崎駿監督の「天空の島ラピュタ」の原型になり、フライヌム国
のヤフーは、沼正三の傑作「家畜人ヤプー」に昇華したのでした。
ということになれば、キミも読みたくなるでしょう? 
それに、なんでどこかのテーマパークのアトラクションになってい
ないんだろう?って思うよ、きっと。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第382回 2024.01.14

「おもわず幸せな気分に」

小中学校の図書館には必ず常備されている良書だって?
なんでぃ、そんなもん、こちとらにゃ関係ないや。よしてくれやい。
「赤毛のアン」?「路傍の石」?「車輪の下」? そんなもん優等
生が読んで、夏休みの宿題の感想文に書けばいいじゃねぇか。
ボクが読みたいのは冒険小説にスパイ小説に推理小説に戦争小説だ。
殺人とか戦闘とかロケットとか暗号文とか、そういうのが出てこな
いとつまらないもん!

・・・キミキミ、そう、そこの文句垂れているキミ、まあちょっと
ここに来て座りなさい。
フム、ややストレスがあるようだね、いや、わかってるわかってる、
若い時にはいろいろあるもんだ。しかしおじさんの言うことにも耳
を貸しなさい。そんな文句ばかり垂れているヒマがあったら、ちょ
っとだけこれを読んでみたらどうじゃろう? 
おじさんも再読したけど、変わらぬ魅力と思わぬ発見があったよ。

「ドリトル先生航海記」(ヒュー・ロフティング/新潮モダンクラシックス)

イギリスの港町に靴職人の息子として生まれたスタビンズ少年は、
偶然、動物のことばを理解する博物学者ドリトル先生に出会い、先
生とおなじように動物のことばを話したくて、その家に入りびたり
になり、助手になるのでした。

先生は、地底に潜って地球のなかを冒険しよう、、、なんてことはぜ
んぜん考えない。新しい世界への冒険や新奇なものの探索なんて考
えない。だって動物と話せるのだから、彼らから人間の知らないこ
とをたくさん教えてもらえる。それで十分なんだ。

家にはアヒルのダブダブとか、オウムのポリネシアとか、犬のジッ
プとか、いろんな動物が一緒に暮らしていて、そりゃもう、にぎや
かで楽しい。
そんなドリトル先生でしたが、あるときムラサキゴクラクチョウの
ミランダがもたらして知らせによって、アフリカまで航海の旅に出
なくてはならなくなるのでした。さ、先生たちの冒険はどうなるで
しょうか・・・。

という、この物語の魅力はなんでしょうかね?
お読みになった方ごとに、惹かれるところは異なるかもしれません。
でも、動物と話せる先生がいてその弟子になるのが自分だったら、
と想像してみるのは、キミにとっても楽しい作業でしょう?

それから、家の中が動物でいっぱいでにぎやかで、人間にわからな
いこと、見えないものや嗅げない香りや聞こえない音、それから彼
らならではの生きる知恵を動物が教えてくれたりするなんて、そん
な贅沢な話はないですもん。

疑似家族を構成する動物の、それぞれに異なる性格描写も楽しいよ。
ポリネシアは先生の賢い秘書のよう、チンパンジーのチーチーは生
意気なわんぱく坊主でトラブルメーカー、ウソのつけないのはイヌ
のジップ、などなど個性的な動物たちばかり。
先生とスタビンズは、そんな動物たちと一緒に、彼らに助けらなが
ら、使命を帯びた旅行を続けるのでした。

ちなみに私が一番好きな生き物は、物語の最後に登場する巨大な
「大ガラス海カタツムリ」。これはもちろん架空の生き物ですけれ
ど、先生一行はその家ほどもある殻に乗せてもらって、透明な殻か
ら海の中を見物しながら、はるか大西洋を南から北のイギリスまで
帰ってくることができたのです。なんてうらやましいんだろう!

ドリトル先生の周りには動物がいて、彼らの知恵と情報と力を借り
ることができ、いっしょ善き行ないをすることができると信じられ
る、そんな世界がある。これはだれにとっても夢見てもいいユート
ピアだと、私には思われます。
だってこの本を読むと思わず幸せな気分になって、文句垂れる気分
なんかどっかへ飛んで行ってしまうんだもの! ね、キミもそう思
うだろう? そしてこのお話がどこかのテーマパークのアトラクシ
ョンにあって、動物のことばが聞き取れるようになっていたらって。


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第381回 2024.01.06

「少年時代の興奮がよみがえる」

ルパンはもちろんですけれど、われわれ少年少女のココロを熱くた
ぎらせたのは冒険小説でしたね。みなさんも経験がおありでしょう。
それらは、当時の少年にとって確固として存在していた歴史や世界
に、あらためて向き合う手立てでもあったように思い返されます。

数ある冒険小説のなかでも、自分が好きだったものをいま読み返し
たらどんな感じなんだろう。そのとき抱いていたり揺らいでいた歴
史や世界についての思いはいまどうなっているだろう? 
それを確かめたいと思って読み直したのが、

「地底旅行」(ジュール・ヴェルヌ/光文社古典文庫) でした。

いやー、やっぱりすばらしい!
地質学者、というか、博物学者にして、なんでも知ろうとする風船
のような好奇心をもつリーデンブロック教授と、彼の甥でやや頼り
ない助手のアクセルが、謎の暗号をもとに地底に潜る旅に出る。

北大西洋にあるアイスランドの火山の火口から、洞窟をドンドン下
に降りていく。教授の理論では、地球の内部は冷えているはずで、
地球の中心をとおって反対側に出られるはずなのだ。彼らはドンド
ンドンドン潜って降りて、大変な苦労の末にたどり着いたのは、な
んと、地底に広がる海だった。
なんとなんとそこには、古代そのままの生物世界が広がっていて・・・。

なんとなんと、なんという冒険でしょうか! 読んだ人はだれもが、
「自分も地底に絶対行ってみたい!」と思ったはずです。
いま読み直してもハラハラドギドキの連続で、当時少年の私は最良
の読書体験をさせてもらったのだし、それをだいぶ歳を経た今回も
経験していることに気づかされました。

まず、冒険に出る教授の意志力、それは150年前の西洋人の近代化
を象徴するかのような「新しいものを見たい好奇心」の権化であり、
そして現地で雇ったハンスの、いかにも地に足がついた冷静沈着さ、
それは人間本来の美徳の象徴でもあり、そんなことも当時の勇敢な
冒険家たちの神髄を表わしていると感じます。
ただし話し手のアクセルは、冒険のスピードを上げるよりもむしろ、
ブレーキ踏んでハンドル操作を誤ってばかりいますけど。

それはともかく、なによりここには、当時の最新科学知識がちりば
められています。ヴェルヌは勉強家だったのです。ま、そこは、私
のような勉強嫌いの少年読者には響きませんでした、というか、読
み飛ばしていたようです。

火山の成り立ち、玄武岩、凝灰岩などの岩のでき方、アイスランド
という島の特異な構造、こうした専門知識が、冒険が進むにしたが
って、より緻密にのべられていくのです。
このへん、NHKの番組「ブラタモリ(タモリの好きな地学的な話
題が多く出てくる)」の大規模冒険編を見ているような具合でした。

さらには、地下の海に住む古代生物、地上では化石としてしか見ら
れないもの、それが無鰐類、骨甲目、ケファラピス科、プテリクテ
ィス属とかなんとかかんとか、そん分類説明つきで登場したりする。
この地底世界は、恐竜時代の大規模博物館みたいなものなのでした。
ここは、恐竜好きの少年にはたまらんのですよ。

余談ですけど、この本のおかげでアイスランドの地図を見直して、
首都の名前だの、「ブルー・ラグーン」という温泉などを覚えた記
憶も蘇ってきました。ただしこのあたりは、近年たびたび火山の噴
火が起きていて、地球の内部は冷えているどころかマグマの動きが
活発になっているわけですから、みなさんも、地球の中に潜ろうな
んて気をくれぐれも起こさないように。

こうして、たんなるドキドキハラハラだけではない、少年たちのあ
る特定の向学心をくすぐる小説であり、地球はもしかしたらこうな
っているではないかというサイエンスフィクション、それがこの
「地底旅行」であったと再確認いたしました。
そのうえで、はい、これを読んでヴェルヌ好きになったひとは、潜
水艦ノーチラス号のネモ船長の活躍する「海底旅行(海底二万マイ
ル)も読んでね。ディズニー・シー来訪時にも役立つかもよ。


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第380回 2023.1230

「いつになっても血沸き肉躍る」

なんだか私の暗い青春時代の暗い読書体験をなぞるような、ロシア
文学の再読が続いてしまいました。
しかし、いえいえ、みなさん、ご安心ください。私の青春時計をも
う少しさかのぼると、楽しい少年時代の「あのころ」が思い浮かん
できます。昭和の時代には各版元から「少年少女世界文学全集」な
るものが刊行されていて、私たちは小学校の図書館でむさぼるよう
に読んだり、親に無心して買ってもらったりしたのでした。

「小公女」や「小公子」「秘密の花園」といったミステリアスな物
語から、「若草物語」「トム・ソーヤーの冒険」などの成長物語とか、
「八十日間世界一周」などの冒険もの、「宝島」「幸福な王子」など
のファンタジー、それから「足ながおじさん」「ああ無情」などの
人情ものに、「三銃士」とか「巌窟王」「鉄仮面」などのフランス時
代劇、それから「ロビンソン・クルーソー」や「十五少年漂流記」
などの漂流譚など、はては、知る人ぞ知る「モヒカン族の最後」に
いたたるまで、すべて血沸き肉躍るおもしろさで、私の想像力をた
いそう刺激してくれたものでした。

これらはみなさんも、一度は読んだことのある小説ばかりではない
でしょうか。
そんななかで、私がとりわけ好きだったのがアルセーヌ・ルパン。
シャーロック・ホームズよりも、だんぜんルパン! アニメ「ルパ
ン三世」のおじいちゃん、20世紀初頭の大怪盗、そう、あのルパン
でした、
ひとに危害をくわえず、知恵で警察を翻弄して財宝だけを盗む義賊、
そして超一流の推理をする探偵でもあるルパン。これはもうワクワ
クものでしょう。

「奇岩城 アルセーヌ・ルパン全集」(モーリス・ルブラン/偕成社)

今回はこれを読み直して、いったいなにがそんなに私に受けだのか、
探ってみましたね。
ルパンものは、もちろん「謎」をめぐる推理とサスペンスが柱にな
っているわけですが、とりわけこの「奇岩城」は、その趣が強いも
のです。

今回のルパンは、自分がバリバリ動き回ってお宝を盗み出す役柄と
いうより、高校生の天才少年ポートルレとの暗号解読競争を、おと
なの余裕で楽しみ、かつ、だれよりも早くフランス王家の残した最
大のお宝を手にして、それを少年に誇らしげに見せたりする、すで
に名を成した大盗賊として登場します。

ホームズものよりルパンが好き、という同好の士には、このへんの
フランス的な大ぼら吹き具合だったり、王家の歴史とか隣国ドイツ
を含めた国際情勢と諜報戦があったりするあたりが、たまらなく魅
力的に感じていただけるものと思います。
推理、冒険、ミステリー、歴史、世話物と、いろいろな要素が詰ま
っている。いわば江戸川乱歩と吉川栄治と池波正太郎と横溝正史が
合わさったようなものです。ちがうか。

そしてなにより、この「奇岩城」という最大の謎!
ロマンあふれるその設定! いいですよねー。まだ読んだことのな
い方はぜひ読んで、おおっ、こういうことか!と思ってください。
ちなみに私は、ノルマンディーやブルターニュの海岸沿いを旅した
とき、「もしや、これが奇岩城ではないか」「いや、もしやこれこそ
が、、、」などという目でしか、海岸の奇形を見られなくなっていまし
たね。

この小説のクライマックスでは、余計なことをするシャーロック・
ホームズのせいで(作者のイギリスに対する対抗心むき出し)、ル
パンの新婚の奥さんが死んでしまうという悲しい結末が待っている
のですが(ううっ、泣)、それもフランス的な「物語ロマン」の伝統
のなせるわざいうことで、涙をこらえながら本を置くことになりま
す。
やっぱり血沸き肉躍り涙腺崩壊するわー。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第379回 2023.12.23

「閉塞感や憎しみをどう乗り越えるか」

私が「世界との和解」とか「美しい人生」とかの妄想を抱き(いや、
そんなカッコいいもんじゃないですけど)、自分とはなにかという
過剰なる意識(だいたいだれもが罹る病気ですけど)によって自ら
を責めさいなまされる「地下室の住人」になってしまうのだろうか、
と思い込んでいた時期でした。
そんなときに、私とおなじような目つきをした友人が読んでいた本
が、

「アデン アラビア」(ポール・ニザン/晶文社) でした。

著者はサルトルなどと同時代人で、第二次世界大戦前から戦後まで、
共産党員としても活動した人物。ポール・ニザンならぬ、ポール兄
さんとお呼びしましょう。
ここには若き日に、フランスに絶望してアラビアのアデンに逃避し
た若き哲学者としての兄さんの心境が、随筆風に、旅行記風に、ま
た詩のように書かれていきます。これが我々の身に染みた。

とりわけ出だしの、
「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だ
などとはだれにも言わせまい」という文章に、私たち暗い目つきを
した若者たちは、コロリとなってしまったのでした。そんな経験の
ある方、たぶん多いではずです。

「その頃、きわめてわずかの人びとだけが明晰な目をもっていて、
すでにこの大きな腐りゆく残骸のうしろの見えないところで、さま
ざまの凶暴な力が動き出しているのを看破できた。」
これは、第一次大戦後、祖国フランスはブルジョワ的な怠惰な国に
なってしまい、若者はその現実に押しつぶされようとしている。
いっぽう世界ではこの間、全体主義的な動きが活発になってきた、
という当時の現実を表わしています。なんだかいまの状況に似てい
ます。

「僕らはいま、牢獄にはいろうとしてているが、そこがどのように
管理されているのか詳しいことはなんにも想像さえできない。」
「ひとは二十歳では、特別なこと、特異な事件を肌で実感すること
はできないからだ。しかし、もう窒息するほどそういうものは予感
している。」

兄さんはこんなふうに宣言し、閉塞感と不安にさいなまれ、そして
自分たち若者を追い詰める祖国への呪詛をまき散らしながら、アフ
リカに旅立ちます。
「ぼくは到着した。誇るに足るものは何もない」。
ここで誰もが想い出すのは、そこから50年ほど前に、詩人アルチ
ュール・ランボーが、詩や文学や友人や祖国を見限ってアラビアに
渡り、以降は乱暴で金儲け主義の商人として暮らしたことです。

きっとそういう「伝説」が、ニザンを動かした面もあるのでしょう。
もしかしたら、フランスの若者には、怒りに任せてアフリカに逃げ
出す「伝統」があるのかもしれません。
それは日本でいえば、戦前の大陸浪人みたいに、狭い日本を抜け出
して新天地で暴れて生まれ変わりたいという気持ちと近いのかもし
れません。

しかし結果からいうと、兄さんはアラビア世界で「生まれ変わる」
ことも「新しい価値観」を発見することもなく、「パリの秘密をアデ
ンに探しに行く」などという必要はあったのだろうか?」などと述
懐しながら帰国することになります。それこそ、「平面移動で片づく
ことはない、人生のなにがしかの位相の問題」(高村薫/「晴子情
歌」)なのですから。

私はこのあたり読み返していて、いまでもため息が出るくらいの共
感を覚えてしまいます。それは共感ではなくただの自分の過去に対
する「懐かしさ」かもしれないし、もしかしたら、いまも自分が
「牢獄」か「地下室」にいると思っているひとへの「連帯感」のよ
うなものかもしれません。

牢獄や地下室にいる(と思い込んでいる)二十歳の若者にとっては、
彼の、「憎しみをいだくことによって人間の『存在』が減じてしま
うこと、憎しみは貧しさを母とすること、このことを知ったために
味わう怒りで、憎しみはますます増していくのだ」ということばは、
なんというか、自分の心の底を言い当てられたかのように思うので
はないでしょうか。

自分の閉塞感や憎しみを乗り超えるためには、自分の中から「アフ
リカのアデン」を捨て去らなければならないかもしれない。この場
所から逃げ出しても無駄なのだ。
そう、兄さんは告げているのかもしれません。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第378回 2023.12.17

「自分とはなにかという、果てしない問い」

ドストエフスキー「地下室の手記」の主人公は、名前と場所を変え
て、このあとのドストエフスキーの小説すべてに登場するキャラク
ターになっていきます。
地下室や屋根裏部屋で、「世界との和解」とか「美しい人生」とか
の妄想を抱き、自分とは何かという過剰なる意識によって自らを責
めさいなまされる人物。

「罪と罰」のラスコーリニコフもそう、「白痴」のイッポリートも
そう、物語を支える土台のように、小説世界の中にどこかにかなら
ず「彼ら」がいる。
そしてそれは、だれでもが自分の地下室を持っているという、作者
からのメッセージでもあると思います。

「地下室の手記」(秋山駿/徳間書店)

ここにもひとり、どうしようもなく自分の地下室を抱え込んでしま
ったひとがいた。
本誌第73回「沈黙を聴く」で登場いただいた秋山先生。
これは彼が、若き日に書き溜めたノートをまとめたもので、七冊分
にもわたって、「私とはなにか?」と問い続けていきます。それは、
「私の内部こそが、ただ一つの現実であり、そしてそれは戦場なの
だ。―― このノートを、私の内部へ」と書き出されるのでした

そうでした。私はこれを青年期に読んで感銘を受け、そしていまま
た再読しようとしているわけですが、ウーム、読むのがしんどい。
あるのかないのかわからない「私」という現実を、ひたすら掘って
いく作業を見守るのが、なんともしんどい。

ここには埴谷雄高さんが「跋文」を寄せておられて、そこにこうあ
ります。
「ドストエフスキーの『地下室の手記』は、それまで国家や社会な
どにゆずりつづけてきた個人の、驚くばかりに絶対的な優位宣言に
ほかならなかったが(え、そうだったんですか?)、しかし、それ
にひきつづく私たちの世紀の思いがけざる困難は(中略)底もない
たった一つの暗い井戸にも似た内的世界へ一転して、自己がひたす
ら自己だけに直面したとき、果たして自己はよく自己たり得るかと
いう難問題を、のっぴきならず抱えこんだことにある」と。

まあなんと難しい表現をされることです。
これをもっと簡単に言うと、
「秋山駿は、ひとりの人間が発する『私とは何か』という一種単純
にしてしかも底のない無間地獄に敢えてはいりこんだ」、というこ
とです。
「地獄」ですよ、みなさん、問いの地獄です。のっぴきならないこ
と、この上ない。本人にとってはしんどいはずです。この地獄には、
若いうちの体力があるときでないと、入って抜け出してくることは
できないでしょう。私たちの多くはその入口に立っていたのです。

なぜこんな手記を書いていたのか? 秋山さんはこう記します。
自分は生き難いと感じたときに、ノートをつけ続けたのだと。
それは、(逆に)ノートを書くことによっては生きられないことを
証明するためであった。そんな矛盾したことをするのは、「とんだ
お笑い種か?」

しかし、「自分というこの内部の世界に、何人もの私という人間が
いたり、その一人の私からもう一人の私への距離は、なんと遥かに
遠いものかと思っている人、あるいは、自分というものがどれほど
詭計に満ちた偽りの劇を内部で演じていることか、と思っている人、
そんな人なら、私のいうところを理解してくれるだろう」、と。

してみると、秋山さんはまるでタイムマシンに乗っているかのよう
に、ドストエフスキーの地下室の住人に向けて、メッセージを発し
ているのかもしれません。
地下室どうし、地獄の住人どうしで連帯できませんか?と。     

さて、彼らのように孤独で、世界の中に自分の居場所を見つけられ
ない不幸な地獄の住人たちの声から、私が学んだことはなにか?
「やーっぱ、自意識過剰がダメなのよね。これからは自分を計算に
入れないことを学ばなきゃ。そうでないと、結局自分にとらわれて
つらくなるだけだよ。『自由な人間とは、我意なくして意思をもつ
ひとである」ということばがあるように、自由も自立も成熟も幸福
も、すべて自分で意識したり、自分から名乗るものではなく、他人
様からの「呼称」でしかありえないのだから。

すると、自分にとらわれない自分になるためには、「私とは何か?」
と問いを発するのではなく、「私たちの各自が、ものごとの起こる
交差点である(レヴィ=ストロース)」と自覚すべきであり、また、
「私とは○○である」と決めつけたりしないで、「私とは『開始』
である(ハンナ・アーレント)」と見極め、さらに「我思う(デカ
ルト)」なんて言わずに、「私は(他人から)思われる(ランボー)」
で良いのであって、だからもちろん、「あなたと私とは違う」ので
はなく、「あなたになるとき、私はもっとも私になれる(パウル・
ツェラン)」と宣言すべきなのだ。」

ああ疲れた。少し気張りすぎましたね。
秋山先生も、のちには、人間は面白がらなければいけないね、と
いって「面白がるとは、自己を離れてもっと他のあらゆるものを
追求していくという生の態度」なのだ、とおっしゃっていました。
ここに問いに対するヒントがあるように思いますが、いかが?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第377回 2023.12.10

「だれもが世界と和解しなければ」

近場の日帰り温泉の露天風呂に浸かって空を眺めると、ああ、きれ
いな青空だなあ、お、桜の木の葉が紅葉しかかっているよ、気持ち
の良い日になったもんだ、などとすっかりノビノビしてしまい、あ
れ?なんか忘れてないかな、と考えてみると、そうそう、青春時代
に読んだ本を再読しているんだった、しかも、なぜかロシアの作家
が続いているんだった、気持ちの良い露天風呂からペテルブルグの
寒い冬へ、なおかつ暗く湿った地下室へと気持ちを切り替えなけれ
ばこの読書日誌が続かなくなるではないか、と気づいて、

「地下室の手記」(ドストエフスキー/光文社古典新訳文庫)

を取りあげることになりました。
主人公は40歳くらいでの元官吏で、独身、仕事はやめている。
彼は地下室にひきこもりで、自意識過剰がものすごく、いってみれ
ばオブローモフとペチョーリンを足して、バージョンアップさせた
ような人物です。

第一部では彼の自己分析と人生哲学がながながと語られ、第二部で
は、そんな彼を作りあげた若き日の屈辱的な思い出が語られます。
青年期にこれを読んだ私は、ああ、ここにも自分と同類がいる、と
思ったのでした。これ、いまの若者が村上春樹を読んで、あ、ここ
に私のことが書かれている、と思うのと似ているかもしれません。

「俺は病んでいる。ねじけた根性の持ち主だ。人好きがしない男だ」
と始められる手記には、私の同類である自意識過剰な男の呪詛が満
ち満ちています。その呪詛は、周囲にたいしては、合理的で利益追
求する活動的な人間への批判として噴出する。
もちろん自分に対しても「お前はそれで恥ずかしくないのか!」と
いう厳しい声を向けています。
「俺はどん詰まりの壁まで行きついてしまった。俺にはもう出口は
ないのだ」と、

彼は自分でもわかっているのです。
自分が正しくて他人や世間が間違っているというような考えは、悪
魔のような思い込みに縛られていることだということを。
ひとから屈辱を受けて笑いものにされていると感じることが、自分
自身の過剰な自意識によってもたらされていることを。
「二・二が四」という自然法則に縛られたくないと感じたとしても、
そんなのなんの役に立たないことをも。

ああ、めんどくさい男だ、これでは生きづらいに決まっている。
そう感じれば感じるほど、青年期の私は、この主人公におおいに共
感し、彼の言動を自分にひきつけて考えることになります。

たとえば第二部で語られる、愚劣な仲間や同僚への嫌悪、「俺はひと
りぼっちなのに、連中はみなグルだ」とか。
知り合った女性に対する態度、「結局自分が、女の魂をひっくり返し
てしまい、心を打ち砕いてしまう」とか。

他人から屈辱を受けても、「屈辱感の中にさえ快楽を見いだそうとし
たような人間に、たとえわずかでも自分を尊敬することなど、いっ
たいできるだろうか?」とか。
こうした主人公の想念の一つひとつが、当時の自分には刺さりまく
ったわけですね。こっちも自意識過剰だったからなあ。今では露天
風呂に入って、無意識過剰になってしまったけど・・・。

それはともかく・・・彼にもわかっているのです。
自分が書き連ねている人生哲学めいたものを、自分でも信じられて
いないことを。「今まで書いたことすべてのうちで、ほんの少しで
も俺が自分で信じることができたらなあ。」

自分は、生きた生活から離れて、「地下室でふくれあがった見栄っ
張りな敵意によって、己の人生をおろそかにしてきた」のだという
ことも。
だから、どこかの段階で「地下室で思索することにふんぎりをつけ
て、すなわち、なにかを諦めてかからないと行動できないはずだ」
ということを、かれは全部わかっているのです。でもそうしないで、
地下室にとどまる。

そう、だれでも自分の「地下室」をもっている。そこではいろんな
願望が混ざり合い、「世界との和解」とか「美しい人生」「幸福な社
会」とかの妄想や、あるいはオブローモフ式の「怠惰」やペチョー
リン式の「呪い」も渦巻いている。
しかし私たちが小説から学ぶのは、その地下室からの脱出方法だと
いうことなのではないでしょうか。私は、もしかしたら、多くのひ
とのおかげで、いちおう地下室から露天風呂へと脱出できたのでは
ないか。と、いちおう結論らしくいっておきます。

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第376回 2023.12.03

「彼はどういう種類の英雄?」

オブローモフよりはやや先んじた時代の小説ですが、おなじロシア
の作家による、

「現代の英雄」(レールモントフ/光文社古典新訳文庫)

にはたいへんシビレた(昭和の表現)思い出があるので、新訳で読
み直してみました。
時代は19世紀なかば、最初はその生きざまを語り手に語られ、途
中から自身の手記として登場する主人公は、ペチョーリンという軍
人です。

彼はオブローモフと正反対に活動的だが(軍人だし)、ニヒルで、
冷淡で、人を人とも思わない、身勝手な男だ。
女性に好意を持たれるように行動して、でも、「さっきヴェーラに
会った。やきもちを焼かれてうんざりだった」と独白する悪根性の
持ち主とくるから、チェッ、こいつ、うらやましいじゃないか。

別の女性にたいしても、「彼女は自分のことを不満に思っている。
自分の(彼に対しての)冷淡さを責めている。おお、これは最初の
勝利、意義のある勝利だ。明日はこの埋め合わせをしたがるに違い
ない。私には何もかも手に取るようにわかる。」などという、女た
らしでナルシスティックで冷淡で戦略家で、イヤな奴このうえなし!

しかし、彼はそれに続けて、「だから退屈なのだ!」と嘆くのでし
た。自分は出世もするし異性にもモテる。他人の考えや感情などす
べてお見通しだ。だからいつでもだれに対してでも自分は勝つ。
だから、退屈なのだ、と。

いいなあ、うらやましいなあ、このひと、と最初読んだ時に私は思
った、のを思い出しながら読み直したのでした。
なんだよ、オブローモフと真逆で、全能じゃないか、やりたい放題
じゃないか、だから英雄なんだろ、なに贅沢なこと言ってんだよ、
こっちを見ろよ、どうしたらいいかわからなくって、部屋の中をウ
ロウロうろつくだけなんだ。「ザハール!」って呼ぶ相手もいないし。

・・・さて、主人公にもこのように「退屈」という悩みがあった。
すべてに退屈し、世の中に不満があり、ここではないどこか、別の
だれかが自分には必要なのではないかと思っている。
彼は、「自分の魂は世間に毒され、空想は落ち着くことを知らず、心
は飽くことを知らない。何もかもが不満。悲しみにもたちまち慣れ
てしまう」と、日記に書き記します。
そうそう、私もそんなことを感じていました。ペチョーリンはイヤ
な奴だけど、自らの弱点や欠陥をいちおう誠実にさらけ出している
のです。

ペチョーリンはさらにこう書きます、
「私は思った。自分がこの世で果たす唯一の使命は、他人の望みを
打ち砕くことでしかたないのか?(中略)運命はどういうわけか決
まって他人の劇の終幕に私を導きいれるのだった。誰も私なしでは
死ぬことも絶望することもかなわないというように。」 

逆にここまでくると、なんたる誇大妄想! なんたる自意識過剰!
あんたは悪魔か?と問いたくなりますね。これが「英雄」か?
「私は、否応なしに死刑執行人や裏切り者といったみじめな役回り
を演じてきた」。たしかに小説の終盤で、彼は決闘の相手を冷酷に
殺してしまうのでした。

そんな彼はなおも、「われわれは信念もなく、自尊心もなく、愉楽
もなく、恐怖もなく—逃げられない最期という考えに心臓をわしづ
かみにされる。地上をさまよいながら、人類の幸福のためにも、そ
れどころか己の幸せのためにさえ、大いなる犠牲を払うことができ
ないでいるのだ。なぜなら、幸せのありえないことを知っているの
だから。」と独白します。

自分は懐疑から懐疑へと惰性の移動をくりかえしている、と切なく
訴える彼、19世紀中盤のロシアの軍人の「英雄」は、たいへん疲れ
ているように思われます。私には、全能感とうらはらの不幸、そん
なことばが浮かんできました。大きな理想を持てずに退屈する彼の
姿は、英雄とは名ばかりの矛盾ばかりの人間の象徴のように思えて、
その姿はある意味共感を呼ぶのです。

ところで、この小説のおもな舞台となるカフカス地方とは、いまで
いうコーカサス地方でした。
ジョージア、アゼルバイジャン、チェチェン、アルメニア、ナゴル
ノ・カラバフなど、いまだに紛争の多い地域です。当時ロシアから
ここに派遣される軍人は、いわば防人的に左遷されるみたいに、難
儀な旅を乗り超えて赴くが、いざ着くと、現地のひとにたいしては、
やれ田舎者め、野蛮人めとひどい扱いをしています。

これ、いまでもそのような気持ちが残っているのではないでしょう
か? やや見下している感というか、お前たちを守ってやる替わり
に、ウクライナにお前たちの軍隊を派遣しろよ的な、強圧的な態度
が、いまでもありはしませんでしょうか。
英雄とはなにかを考えるに、歴史的にもちょっと気になるテーマが
含まれている作品でした。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第375回 2023.11.26

「昔読んだ本を再読することについて」

なになに「について」、なんて題名をつけると、なんだかりっぱな
エッセイであるかのように思われますが、そんなことはないのです。
アメリカの作家ヘンリー・ミラーの「わが読書」という文章に、
「ぼくは、ある年齢に達したら、少青年期に読んだ書物を再読する
ことが不可避の必要になることを信じる。さもなけれぼくらは、自
分が何者であるか、なぜ自分が生きたかを知ることなしに墓場へ行
くことになるだろう」、ということばに触発されただけなのでした。

ミラーのことばを大げさと感じるかどうかは別として、自分が一番
多感な頃に読んだ本を、半世紀後に読み返すということになにかし
らの価値があるとすれば、それは、自分がどんなことに影響されて
生きてきたかを確かめるためだということ以外にありません。
「好きなものが人生を豊かにしてくれた」と同じように、「読んだ
本が私を作ってくれた」と言えることもあるのでしょうし。

「オブローモフ」(ゴンチャロフ/岩波文庫)

ということで、読み直したのがこの小説。
作者ゴンチャロフは幕末の日本にきたこともある方。
19世紀文学らしい人物の類型や心理描写に特徴があります。
つまり登場する人物だれもかれもが、キャラが際立っているのです。

物語は19世紀の中頃のロシア、まずまず生活に困らない程度の地所
をもつ30歳くらいのオブローモフが主人公。
ほぼひきこもりで、意志薄弱で、他人の意見に左右され、仕事せず
に怠惰で、とくに興味あることもなく、役所勤めも社交もダメ、臆
病で群衆が苦手、夢見がちで生活に対する危惧と変化に対して恐怖
し(「おお、なんということだ、生活ってやつは人をじっとさせてお
かない。どこまでもつきまとってくる」)、その日その日をおくって
いる(もう12年間、ペテルブルグから一歩も出ないで暮らしてい
る)。

なんだ、こいつ! しっかりしろよ! と、大向こうからでも呼び
かけたくなるくらいのダメ男です。名前のオブローモフが、なんだ
か、「おんぼろ毛布」のように聞こえてくるから、あら不思議。
今日も今日とて、寝間着のままでウダウダして、「ザハール!」と
下男を呼びつけては、ふたりでああだこうだと云い合いをしている。
まるで落語の世界か寅さん映画の場面がここにあるのでした。

私は最初に読んだ時、まず、繰り返されるこの「ザハール!」とい
う呼び声が耳からはなれなくなったことを思い出します。
ザハール、ザハール、ザハール、、、。いつまでこれが続くんだ?
ところが、なんだこいつ、なんだの小説、と思いながら読み進める
ならば、じつはこのオブローモフ、純粋で感じやすい魂をもってい
ることがわかります。頭も悪くない。ただただ怠惰に慣れきってい
るだけなのでした。

余計物で無用者。仮にこの主人公とドストエフスキー「白痴」の主
人公ムイシュキン伯爵とどちらかを選べと言われたら(なんで選ぶ
のかわかりませんが)、だんぜんオブローモフだなと思います。
なぜなら、毎日怠惰に寝てられるから。

さて、そんな彼にも好きなひとができる。
さあどうする、オブローモフ。起きるのか、オブローモフ、それと
もこのまま寝巻のままか! さながら、家康ならぬ「オブローモフ
の選択」・・・。

ということで物語は佳境に入っていくのですが、なんせこの主人公、
自意識過剰で優柔不断、あれこれ思い悩んでいるばかりなんです。
あれこれ思い悩むのはいいとして、行動を起こさず、決断せず、た
だただ「ザハール!」と癇癪をおこして、あたらまっすぐで素直な
心情を無駄遣いするばかり。

青年期の私はこの小説を読んで、ああ、自分と同じだ、余計物で無
用者だ、と感じました。社会になんの利益ももたらさず、不器用で
役立たず。親友や恋人にはその純粋さや優しさ、そして潔白で真実
の心を認められたとしても、本人にとってそれは何の役にも立たな
い。というか、そうした評価に対しても反応できないくらいの怠惰
なのだ。ダメな奴。これが自分だ。たとえ親友に、「この穴から外
へ出るのだ。この泥沼から光の中へ」、と言われても動かない、まる
で井伏鱒二の「山椒魚」のような自分なのだ。

この物語の最後といえば、オブローモフは、親友の表現では「犬死
に」してしまいます。ということになれば、多大なる共感をもって
これを読んでいる自分もきっと犬死にするのだろう、私はそう思い、
そう思ったことを再読して思い出したのでした。
あのころと今とで、なにか変わったことがあるだろうか?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第374回 2023.11.19

「思想史家の音楽評は『再創造』となる、らしい」

丸山眞男といえば、戦後の日本を代表する政治学者で思想史家です。
難しい政治史の著作が多いので、まずは岩波新書の「日本の思想」、
とくにそこに収められている「『である』ことと『する』こと」、な
どを入口として読むのがお薦め。
それらは、民主主義ってなんなの?を考えるうえのたいせつな足掛
かりにもなりますのでね。

そんな丸山ですが、じつはクラシック音楽にもたいへん造詣が深く、
弟子筋にあたる方との音楽についての会話をまとめた本がありまし
て、ここには彼の音楽に対する考えだけでなく、対象へのアプロー
チのし方や思想的なエッセンスがあるのではないかと、私には思わ
れました。

「丸山眞男 音楽の対話」(中野 雄/文春新書) 

まずは丸山の音楽評の一例をご紹介しましょう。
たとえばべートーヴェンの「熱情」や「第五」について、
「ともに沸騰する非合理的なパトスを合理的形式にキッチリ収めた
手腕。通俗名曲などというコトバに呪いあれ!」と、なんだかやけ
に勇ましく激しい表現をされます。
パトス(情念)とか合理非合理なんて言葉を使うのが、さすがに思
想家らしいところですよね。いや、そんなところに感心していても
なんだけど。

また、「べートーヴェンは人類に向かって呼びかけをおこなった。
音楽のなかに哲学があるのです。しかし、いわゆるロマン派になる
と対象が矮小化する。ショパンやシューマンの音楽は『個人的体験』、
いわば『私小説』ですね」と、小説を例に出して大なたでバッサリ
切るようなところもまた、らしいところでした。

また、「音楽という芸術の中に『意志の力』を持ち込んだのはベート
ーヴェンです。『理想』といってもいい。人間全体、つまり人類の目
標、理想を頭に描いて、響き=音響感覚でそれを追求し、表現する。」
などと、意志、理想、人類などということばを力技によって結びつ
けたりする! 
これも哲学者の手練というか、芸風というか、大時代的なところで
した。

いかがでしょうか。
やや大げさとも断定的ともいえるこうした丸山の評は、音楽に対す
る精神的姿勢として、「(作曲家の)激発する感情と、それを制御し、
整然とした、説得力あるフォルム(形式)に仕上げる精神力。絶妙
な、考えようによってはスリリングともいえる人間精神の営み」に
惹かれた結果なのだ、と筆者の中野さんは分析するのでした。

しかしこの姿勢は、丸山がたんに思想家的に頭で考えたのではなく、
音楽をキッチリ聴き込むことにつながり、そこからでてきた評であ
ることもまた間違いありません。

たとえばモーツァルトについて、「晩年の音楽には響きの重いもの、
響きの透明度が高いものに加えて、メロディ・ラインの長い曲が増
えてくる。そしてドミナント(属音)の部分が長くなって、トニカ
(主音)に解決するまでの時間が延びる。単純にすっきりと解決し
ないのがロマンティシズムですから、作曲技法の上でも、晩年はロ
マンティックになっている」、と言っています。
技巧的な面もちゃんと押さえているわけですね。このへん、小林
秀雄の、やや情緒的な批評(「モオツァルト」)と比べてみてくださ
い。

私思うに、丸山のような思想史家にとっては、政治思想に対すると
きも音楽に対するときも、同じ方法論があったのではないか。
それはなにかというと、対象とする個人(思想家や作曲家)のそれ
ぞれの仕事から特徴になる部分を掬い取って、それに普遍的な表現
を与えてあげたいという姿勢、とでもいうのでしょうか。

だから彼は、おおむね、以下のように言っていたようです。
「思想史家の仕事は、音楽における演奏家の仕事と似ているのでは
ないか。演奏家は楽譜の解釈を通じてその作曲家の魂を再現しなれ
ばならない。しかし、楽譜の客観的な解釈というものはなく、機械
的な再現はない。演奏家の仕事は、いわば追創造である」と。

追創造。いいことばですね。
だから丸山が、巨匠の指揮者によるオーケストラの音について、「た
だ美しいだけではない。意味をもった音、意志をもち、思想をもっ
た音が音楽には必要なんです」というとき、それは回り回って、「普
遍的に美しい音楽のような思想」を、思想史家としての私が、私ら
しく追創造するのだ、それでいーのだ!と言っているのです。

となればそれは、プロの批評家や丸山のような高度アマチュアだけ
に限られたものではないでしょう? 私たちのような「生活に追わ
れつつ、たまには良い音楽に浸りたいだけの、ドシロートの聴き手」
にだってできることでしょう?
というか、現にしているでしょう? 「普遍的に美しい音楽のよう
な生活」を追創造しようと。私たちなりには。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第373回 2023.11.12
「時代性や思想までつなげて論じる」

音楽に対する感想は、ほんらいは「時計仕掛けのオレンジ(本誌
第373回予定)の主人公のように、自分の肉体にぶつかってくる音
楽の流れをそのまま文字にしたらいいのでしょうね。
それはそれでいいのだけれど、しかしそれを他人に伝えたり、わか
ってもらうために、ひとはどうしても多くのことばを費やして多様
な表現テクニックを使いたくなってしまいます。

しょうがありません。
だって「音」を「ことば」にしなければ、自分の感想をひとに伝え
られないのですから。そしてそれは、味や匂いや手ざわりを「こと
ば」にする技術上の難しさと同じはずです。
ただしその「テクニック」には、他人を納得させる広範な知識や独
自の世界観、そして表現力に支えられていることもまた、確かに思
われます。

「音楽放浪記 世界之巻」(片山杜秀/ちくま文庫)

引き続き、ですが、片山さんはすごいひとだなあ。
音楽だけでなく、その底流に流れる芸術や歴史について「どんだけ
~」の知識をお持ちなのかわからない、底知れない感があります。

彼のお姿を映像で見ると、そのしゃべり方とか風貌なども、「なん
かへんなヒト~。このひとを信じて大丈夫かなあ」という思いがす
るのですが、いけませんいけません、それは偏見というものです。
いやまったく、この方ホントすごいんです。筋金入りの知識人です。
そんな立派な方にむかって、「芸風」などと言って申し訳ありませ
んでした。

この本も、クラシック音楽の作曲家と演奏家について、なんとも広
範な歴史・文学・美術・思想などの知識によって解説をしていくと
いう、体裁としてはまともな音楽評論だけれども、内容は過激。

だって、モーツァルトについて河上徹太郎のエッセイが紹介された
と思ったら、それが「表現主義芸術」を指しているのと同じだとし、
ムンクの「叫び」との関連が示唆されて、過激、失礼、歌劇「ドン
・ジョバンニ」の騎士団長の歌こそ「現代音楽のおおもとだ」、と
論が展開していくのです。
なんですと? これに私はついていけませんでした。

あるいは、音楽史的なこういう論はどうですか。
「バロックから古典派にかけては、音楽の担い手は踊りと歌だった。
バレエとオペラだった。踊りで手足を動かして外見の身体を鍛錬し
楽しませ、歌で息を動かして外見にはわからぬ身体の内側をかきむ
しって悦ばせる。音楽は第一義的に身体のためにある。」
これについて私は、なるほどと思いました。

「しかしロマン派は、音楽のことごとくを人間の内面、精神と結び
つける。身体は卑下される。それは近代の人間神化の思想とも結び
ついているのだろう。人間は自由になり万能をめざし、神に代わっ
て世界を支配しようとする。そして神は、老いや病気とは無縁だろ
う。身体を超越するだろう。」
これには、ふーむ、やや大げさなり、と思いました。

「神になりたい人間は身体を蔑むだろう。神と同じく実体の見えぬ
精神こそが玉座に祀られる。見えるものから見えないものへ、時代
は動く。その動いているさなかを生きたのがベートーヴェンだ。」
うひゃっ、とビックリしました。
しっかし片山さん、だんだん危険思想の分野に入ってきてませんか?

音楽の評論が、人間の身体性や思想や時代の変化への考察と直結し
て進む。これは、ジャズ評論が革命論と直結していた平岡正明さん
に似た、過激な「芸風(失礼!)」だと感じます。

さらに、筆者の視野がパカーンと広く、思惟の根っこがグサッと深
いので、凡庸な私たちがついていくのがなかなか難しいときが多い
のです。
演奏そのものについても、たとえばヴァイオリンのクライスラーの
魅力について彼は、
「クライスラーの革命的演奏法、つねに一定の福々しいヴィブラー
トがかかっていることにこそ、喜べたり安心できたりする新しい感
性が時代に勃興していたのだ」といったりするのです。

はー、ほー、そういうもんですか、ヴィブラートがキモなのか、フ
ンフン、と納得しそうになっていると、
「そういう共鳴層を生んだひとつの遠因は、妙な話だが大都市化だ
と思う。(中略)そして、そんな世界に対応するヴァイオリン演奏
は、、、なにやら面倒くさいものではよろしくない。一様で明解なの
がいいのだ」、なんて続くのですから、まったく油断も隙もありませ
ん。ヴィブラートが福々しくて、それが大都市化につながっちゃう
という、すなわち音楽の近代化論になってしまうんですから。この
へん、カラヤンの時代性を論じたときと同様のスタンスですけどね。

彼はこうして、つねに時代感覚や人々の意識、当時の思想や風土に
立脚しながら音楽や演奏を語ります。
たとえそれが、ときおりトンデモナイ脱線になってしまっていても、
平岡正明さんのように、もしかしたら回り回って劇的な展開と、あ
らたな認識の広い地平にたどり着いてしまうのではないかと思わさ
れ、私たちのように聴く前に評論を読んで音楽を楽しもうとする怠
惰な聴衆に刺激を与えてくれること、間違いありません。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第372回 2023.11.5

「音楽の印象を比喩で表わす努力」

音楽評論の表現にはいろいろあって楽しいな、というお話ですが、
聴いて受けた感情を多種の副詞やキラキラした形容詞で表わす方も
おられるし、なんとかわかりやすい比喩に落として伝えようと奮闘
努力される方もおられます。

片山杜秀さんという方は、徹底的に比喩を工夫されていますね。
とりわけ、新聞の限られた字数で評論するときなど、とくにこんな
感じで。
「横綱(管弦楽)の圧倒的押し出しと、小兵の室内楽的に緻密な技
とが万華鏡のように組み合わさる」とか、「あまりにぎゅうぎゅう
に糾(あざな)われた縄を、精緻かつひたむきに解きほぐし続けて
倦まず」とか、「自在に移り変わっていくツボをいつも追いかけて
はずさない」(朝日新聞)とか。
これはこれで、私たちは想像力を刺激されて楽しい気分になります。

「クラシックの核心」(片山杜秀/河出書房新社)

ではこの本で、たとえば、カラヤンの演奏評で前出吉田さんの評論
との違いをみてみましょうか。
片山さんは、「カラヤンが圧倒的に表現がきつい」として、オネゲル
の交響曲の演奏について、「(まるで)ブルドーザーでのしていくよ
うな、むしろ戦車のキャタピラーと言うべきか」と言い、さらに
「そこから酸鼻を極める戦争スペクタクル映画を見ているような情
景がいやでも見えてくる。トランペットも弦楽器も本当にきつくみ
っしり鳴る。黒澤明の映画みたいな押しの強さですね」、といいます。

まあなんとすごい比喩でしょうか。その「比喩で押し出す強さ」に
こちらが圧倒されてしまいます。
その比喩で示したことをを技術的に言うと、「アンサンブルをよく整
えながら、スタッカートよりもテヌート重視で、音を伸(の)す」
となるわけです。
なるほどね、このへんは、吉田さんと同じ感想を違う表現で言って
いるのではないか、と私は受け取りました。

ところがそのあとになると、「ムラが出なくて、ピシッピシッと決
まって、すごい迫力」とオノマトペを使い、さらにすかさず、「近代
的な工場のオートメーションみたいな感じで」「圧延するうえにその
馬力がすごい」、と比喩をかまし、だから彼のレコードは「スピーカ
ーでフルに再生してもムラが少なく音の比重が高い」のだ、と結論
をのたまうのでした。どーですか、この力技!

ステレオ装置で再生したときに、「迫力があって、ゴージャスな感
じがして、音が途切れなくて、音圧が強い」。それがカラヤンの特
徴であり、そういう思いを人びとに味あわせるために、「弦楽器の
厚みなども録音スタッフが上手にカラヤンらしさを演出した」のだ、
ということを、工場の圧延機に例えるのですよ、すごい。

片山さんがすごいのはそれただけでなく、こういう比喩の先に、
「カラヤンは、資本主義国でいい暮らしを求めてがんばる人たちに
夢を与えたんです」とか、「ブルジョワ的なものに憧れるような中
産階級の人たちをターゲットにして、ドイツ・クラモフォンと組ん
で、とっても上手にそういう世界を作りあげていったんです」とい
った、広い時代精神とつながる視点を出してくるところで、そうな
ると私たちはつい、「なるほどね、ウン、よーくわかった」と、(つ
い)納得させられてしまうのです。

こんなふうに楽しい比喩と鋭利な時代感覚で、カラヤンの「芸術」
を納得させられてしまう嬉しさと、ただし多少の戸惑いを含めて言
うならば、
「カラヤン以上ですよ、あなたの芸風は、片山さん!」


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第371回 2023.10.29

「音楽評論の、ごまかしのない表現」

話し言葉にくらべると、音楽評論は楽しく愉快な表現にあふれてい
ますよ。
音楽からうける感興をことばで表わしたものには、これまでも梅津
時比古さんの「神が書いた曲」(第87回)とか、恩田睦さんの「蜜
蜂と遠雷」(第293回)などからいくつか抜き書きしていますが、
まだまだすばらしい表現がたくさんあります。

新聞のコンサート評をちょいと覗いただけでも、たとえば、
「高音域のすばやいフレーズで微光を放ちながら転がる音の美しさ」
とか、「緩やかな楽想を満たす孤独感と端正な曲作り」、「大胆に溜め
を利かせたフレーズが、ともすると先を見失う迷宮的構造に光を投じ
る」(いずれも音楽評論家 白石美雪)、なんてね、すごいでしょ?
なんと、音が微光を放つんですから! 孤独感が楽想を満たすんです
から!

もっと引用してもいいですか。
「遅いテンポで郷愁を掻き立てる第三楽章・・・」「いくらかオーバ
ーな表情も、時折のパートのばらつきも、重厚でやわらかな響きにま
とめあげた」、「思いっきりはじける指揮者に反応しつつ、愉悦に変換
するアンサンブル。和気あいあいとした空気感」(同上)。
おおっと、アンサンブルが愉悦に変換するのですから!

いちいちだれの曲をだれが演奏したものかを示しませんでしたけど、
読んでるだけで幻惑されて音の世界に連れ出されるような、そんなキ
ラキラした(もしかしたら食レポの「味の宝石箱や~」的な)文書表
現に、たちまち私は圧倒されてしまうのでした。

「世界の指揮者」(吉田秀和/ラジオ技術社)

でも、ひと昔の評論は、もっと抑制のきいた、大袈裟にならない、そ
してなんといったらいいか、教育的なというか、そういう表現であっ
たなあと、回顧的に思い返される方もいるのではないでしょうか。

高名な評論家である吉田さんにしても、たとえばカラヤンの指揮する
モーツァルトについて、
「それはなんともいえず颯爽とした、繊細だが、しかし、けっして弱
々しくない、むしろつよい筋の一本通った演奏」、くらいの、穏便な
表現にとどまっていました。時代とともに、音レポがだんだん派手に
なってきているのがわかりますね。

あるいはこれはどうでしょう? 
「(レコード化されたト短調と変ホ長調の交響曲は)それぞれ、曲の
頭と結びに据えられた円柱のように、ゆったりと安定した姿で、堂々
と立っている。しかもそれが、押しても引いてもびくともしないよう
な安定性を獲得しているのは、どこにも無理に力を入れた跡がないか
らである。こわばったところがひとつもない。」
ね、抑制的でしょ。比喩や形容詞や副詞の使い方が地味でしょ? ム
ダなオノマトペはありませんでしょう?

では、そんな評論家は、技術的には演奏がどう成り立っているかと
いう話になると、
「カラヤンが楽員に注意している最大のものは、最大限のレガート、
つまり弓を弦に密着させ、『ひとつの音が、その前の音から直接生ま
れてきて、両者の間に一分の隙もないように』演奏することである。
カラヤンは、『旋律がどこからはじまったか、聴いていてわからない
くらいでなければいけない』とか、『はやく始めて(弓を弦にあてて)、
長く引っぱって、しかもテンポを崩さないでひかなければならない』
とかいうことを、いろいろな言い方で、たえず口をすっぱくして説い
ている。」
などと解説します。ね、具体的で教育的でしょ。

こういう文章を読むと、どうしてもまたカラヤンの指揮を聴いて、吉
田さんのいうことを確かめてみたくなって、ブラームスの(モーツァ
ルトではなく)交響曲のCDを聴くはめになるわけですが、フムフム、
この辺が「前の音から直接生まれた音」かなとか、1970年当時のベル
リンフィルのゲルマン的ひげづらの強面(こわもて)ヴァイリン奏者
のおじさんたちも、そんなふうにカラヤンにしごかれたのかもね」な
どと、演奏以外のことにも思いを馳せることになります。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第370回 2023.10.26

「左右と上下と斜めと、、、、いろんな対立」

読んでいて楽しい本でもないし簡単に読めるしろものでもないけ
れど、私が最近気になっていることに、問いとしてのすじみちを
つけてくれそうな、

「新しい階級闘争」(マイケル・リンド/東洋経済新報社)
を、ご紹介します(ガンバレ、自分)。

楽しくないのは、ひとつにはアメリカの現状を中心とする評論で
あること、つまり日本の現状にどれくらいフィットするかピンと
こないことにあり、簡単に読めないのは「階級闘争」というそも
そものテーマ性と、訳文がこなれていないせいなのです。

とはいいながら、「いまは左右(右翼対左翼、あるいは保守と革
新ではなく、上下(エリート上流対下層階級)の対立なのだ
(大都市のエリート対土着の国民)としている点、ここには日本
を含めた世界共通の問題がありそうな気配が濃厚にするのです。

これまではイデオロギー的な右翼か左翼とか、資本家対労働者・
農民という対立や、保守か改革か、体制と反体制か、というよう
な対立軸はどの国にもあったし、それが「闘争」の原因にもなっ
ていた。
しかし、たとえばいまのアメリカは、ポピュリストとエスタブリ
ッシュメントの対立という新しい階級闘争のさなかにある。

エスタブリッシュメントとは、「大都市で働く高学歴の管理者や
専門技術者から構成される少数派の上流階級」であり、ポピュリ
ストを形成するのは「多数派の労働者階級」であって、「権力は
エリートに集中して、労働者階級は、政治・経済・文化のいずれ
の領域においても、発言する場を失った」のだ。

収入、地位、権力、発言権などにおいて、二極化が進んだ。
これによりアメリカでは、土着の白人による移民の排斥や、ジェ
ンダー偏見などが横行し、労働者ポピュリストの不満がトランプ
政権を生み出してきた。

いいかえれば、ポピュリズムの原因は、新自由主義的な政策によ
って労働者階級を抑圧し、疎外してきたエスタブリッシュメント
にあるのだ。その結果、行き場のない怒りを弱いものに向けたり、
フェイクであれ何であれ自分に有利なことを喜んだり、強い指導
者の出現を願ったりすることが、「多数派の労働者階級」の日常
的な心情になってしまった。
なんと悲しいことだろう! 著者はこう嘆くのでした。

この分析は、じつは私たち日本にも共通のものと感じるのです。
日本でも、右左に関係なく格差による分断が進んでいます。それ
はここ何十年かの新自由主義的政策、とりわけ自助の奨励、能力
主義などによることは、アメリカの後追いをしてきたことにも原
因がありました。
ですから、筆者の問題意識を私たちは共有することができます。

じゃ、どうしたらいいんだろう、ってことですよね。
筆者がこの状況の解決策としてお薦めするのが、「民主的多元主
義」というものでした。
もともとアメリカには多くの対立構造が存在していたが、それを
調停して民主主義の体裁をとらせていた要素のひとつに、NPO
などの非政府の中間的な公共機関の存在があった。

たしかに、19世紀前半にアメリカを視察したアレクシス・ド・ト
クビィルの「アメリカの民主主義」(岩波文庫)にも、それが記
されていましたね。アメリカには教会の慈善団体から学校運営の
団体から、いろんな中間組織がある。それが我がフランスと違う
ところで、アメリカの民主主義の土台をつくっているものだ、と
トクヴィルはレポートしたのでした。

ところがアメリカではいまや、そうした非政府機関は、中間的な
組織も上流階級の手の内にある。たとえばビル・ゲイツやウォー
レン・バフェット、イーロン・マスクやマーク・ザッカーバーグ
といった大金持ちが、社会貢献キャンペーンとして行なう組織的
なプロジェクトばかりになってしまっている。

これを本来の草の根のコミュニティ組織に戻さなければならない。
組織率の下がった労働組合、礼拝に行かなくなった教会、金持ち
上流階級の資金で賄われる慈善団体や研究機関、これらを労働者
階級の手に取りもどさし、草の根の民主主義を再建しなければな
らない。著者の主張はハッキリしています。

で、どうやって?
そこが問題なのですけど、ここでは具体策にまでは落とし込めて
いず、やや心残りのある結果となりました。が、そこはそれ、ア
メリカの現状とか解決策に頼るのでなく、私たちは私たちで、日
本の現状をよく踏まえて、自分たちで策を練らなきゃ。ね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第369回 2023.10.14

「傷ついたと言った者勝ち」

若者による過剰な感謝の頻発、いわゆる「ありがとうございます乱
発事案」について、私は、彼らが無意識に「他人」に対する拒絶感
情をもち、身の回りに壁や防波堤をつくっている面があるのではな
いか、そんな気がしてしょうがないのでした。

ここで問題は、ひとつには彼らにとっての「他人」と「身内」との
区別のことがあるのですが、ちょっとそこのところは後回しにいた
します。
また、その拒絶感や防波堤が、個人的なもの(マスターが気に喰わ
ないとか、いまオレ様は機嫌が悪いんだ的な)に発するケースにつ
いても後回しにいたします。

私はここで、彼らの過剰な「ありがとうございます」の乱発は、そ
のウラハラとして自分の「傷つきやすさ」を自覚しつつ、それを逆
に武器として世渡りをしているのではないか、という仮説を立てよ
うとするものです。
つまりかれらの拒絶感や防波堤は、社会的に若者に共通のものにな
っているのではないか、だからこんなに「ありがとう」が世にあふ
れているのではないか、ということんですが、それを考えるとっか
かりとして、こんな本をご紹介いたします。

「『傷つきました』戦争」(カロリーヌ・フレスト/中央公論新社)

いま、だれかの発言や行動に対して、「それによって私は傷ついた」
と声をあげるひとが多くなった。
たとえば人種や性的マイノリティにたいする言動により、被差別者
が声をあげることがそうだ。少数民族、人種、ジェンダー、肌の色
など、多くの差別的言動にたいして、みずからが当事者になって
「傷ついた、どうしてくれる」と、相手を非難することが増えた。

たとえば「アフリカ系アメリカ人」といわずに「黒人」という表現
を使うと、「傷ついた」と非難を受ける。さらには、自国ではない
どこか別の国の衣装を着てパーティをしただけでも、その国の人に
「文化を盗用されて、私は傷ついた」と言われてしまう。たとえば、
「ゲイシャ・パーティ」が開かれて、日本人から見てとんでもない
衣装が使われたため、「傷ついた」と感じ、それを強く表明して相手
を非難する。

もちろん、前者の「黒人」という表現は歴史的に問題があって差別
用語になり、後者の「ことさらその国をあげつらうような大げさな
衣装」にも悪意とまではいかなくても、揶揄的な心理があるかもし
れないので、それにたいしてクレームをつけること自体はもちろん
悪いことではない。

というのも、そのクレームが「社会的少数者や弱者によるもうひと
つの声」として社会で共有されて尊重されることは大切なことだし、
それだけでなく、もしそうした声が、被差別者たちにとってより良
い未来を保証するものであれば、むしろ歓迎すべきことだ。

しかしそうではなく、ネット上で他人を監視し、なにか気に喰わな
いことあると、当事者のふりをしながらも匿名で、「私は傷ついた」
と声高に言う「審問官グルーブ」が存在することも事実なのだ。
彼らはいわば社会の異端審問官を自任している人たちあり、「傷つ
いた」とする(当事者でもない)自分の裁定によって、何らかの利
益を得ようとする人たちでもある。

そんな彼らのいうことは正しいのか?
彼らは果たして、ほんとうに傷ついたのか?
声の出せない当事者を正当に代弁しているといえるのか?
それがほんとうだとしても、彼らが他人を糾弾するクレーム行為
は、ほんとうに世の中のためになっているのだろうか。
そんな疑問が湧く。

このような文脈でこの本では、なにごとにも「私は傷つきました」
と言って自分側の「正当性」を武器に議論を終わらせるようなやり
方に警鐘を鳴らします。
それは、たとえば人種や性別などに関してのポリコレ(ポリティカ
ル・コレクトネス/政治的正しさ)ばかりを尊重して、見境なく社
会的制裁をあたえようとする人たちに対する警鐘でもあります。

「こんな異端審問がどのようにして、共通善の意味とそれへの愛を
私たちにあたたびあたえてくれるというのでしょうか。」
大学で教鞭をとる筆者はそういい、そして実験を行うことにします。

「私は(大学で)新しいルールを打ち立てた。誰かを傷つける恐れ
があるとしても、皆があらゆることについて話さなければならない、
というルールだ。」
すると「学生たちが互いに討論し始めた」、つまり「他の学生たち
が創り出した恐怖を取り除くだけで良かったのだ。この世代特有の
好奇心、また討論への渇望は、おのずから外へ溢れ出る。」

こうして筆者の大学では、フランクな話し合いによって、「傷つい
た」「傷つけられた」「傷つけた」というやっかいな争いから抜け出
ることができた、というのです。
「傷つけたとか傷つけられたとかいったことばかりの世界で、私た
ちは息が詰まっている。そろそろ深呼吸し、自由を損なわずに平等
を援護することを学び直そう」、という筆者に、私は共感しました。
とりわけ、ネット上ではなくリアルに話し合うことの重要さを再認
識しました。

ということで、かなり話が大きくなって迂遠な道を通りました。
私が言いたかったのは、もし「ありがとうございます」の乱発に
「傷つきたくない」という恐怖心があるのであれば、どんな異端審
問にも耐えられるように、また「正当性主張合戦」に巻き込まれな
いように、リアルな場での多様なことばづかいによる話し合いが役
に立つのではないかということでした。
 
蛇足ながら。
この本には書かれていないけれど、いまは「キャンセル・カルチャ
ー」という、もうひとつの流れがあるようです。
それはどういうものかというと、「芸能人や政治家といった著名人を
対象に、過去の犯罪や不祥事、不適切な言動を掘り起こし、大量に
拡散して彼らの社会的地位を失わせようとする行動、そしてそれを
善しとする風潮」、というものです。

これは法律とは別に、自分の気に喰わないものにレッテルを貼るこ
とで社会的制裁を加えようとすることでもありましょうか。
たとえば文春砲のようなものから、ネットの炎上物件がみんなそう
ですし、東京オリンピックのときに何人かが、過去の不適切な言動
を暴かれて犠牲になったことが記憶に新しいところです。不買運動
やタレントの起用の取り消しに、さらにはいろいろなボイコット、
はてはガーシー元議員のような危ないやり方まででてしまう。

私は、この「キャンセル・カルチャー」が、「ありがとうの頻発」と
同じくらいに、現在の社会状況を象徴的に表していると思います。
大げさでしょうか。
でももしかしたらこれは、弱い者が声をあげるという本来のポリコ
レや差別解消の闘いからはずれた、いわば自己宣伝であり、逆にい
えば自己防御でしょう。それは場合によってはカネがからんだビジ
ネスにもなり、だれかの憎悪をあおることにネタを使って、なんら
かの目的を達成しようとするものではないでしょうか。
若者の皆さん、こんな「カルチャー」に巻き込まれないでね。

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第368回 2023.10.08

「『ありがとうございます』の頻発」

最近のお若い方のことばづかいで、気になることがあります。
それは、「ありがとうございます」の頻発。
カフェにご来店されて、席にご案内すると「ありがとうございます」、
注文をして「ありがとうございます」、飲み物やケーキをお持ちする
と「ありがとうございます」、こちらがトイレの場所をご案内して、
コップにお水を注いで、空いた食器を下げて、、、、どんなときでも
「ありがとうございます」と言われる。

お会計のときお釣りをお渡しすると「ありがとうございます」、お店
を出るときも「ありがとうございます」って、そりゃ、こっちのせ
りふでしょと。なんでお客さまが言うの?って思います。
もちろん、飲み物をお出ししても、なにも言わずに不機嫌そうにカ
ップに手を伸ばす(とくに年配の男性の)お客様よりはぜんぜん感
じは良いのですけどね。

でもこれはいったいどうしたことでしょう。この「ありがとう」の
連発と頻発、というかむしろ乱発状態は。
さらにいえば、その方々からは「ありがとう」以外のことばをあま
り聞かないのです。
たとえば「こんにちは」「お願いします」「すいません」「ごちそうさ
ま」「さようなら」と、その状況に応じたことばがあるでしょうに、
と思ってしまいます。ありがとう以外の語彙が不足しているのでし
ょうか。それともこちらの頭が固いだけなのでしょうか。

「不適切な日本語」(梶原しげる/新潮新書)

いやいや、オーナーの私にもわかっております。
え?当然じゃないかって? ありがとうはコミュニケーションの基
本じゃないかって? そりぁまあ、そうなんですけどね。
みなさん学校でそう教わってきているのでしょう。
「ありがとうはコミュニケーションの基本です。つねに他人に対す
る感謝の気持ちをもって接しましょう」とか、「ありがとうで明るい
世界をつくろう」とかね。
もちろんそれは悪いことではないでしょう。でも、それだけに固執
して生活するのはちょっと気持ち悪くないですか?

この本でアナウンサーの筆者は、「『ありがとう』がデフレしていな
いか」という一章を設けて、そのあたりを考察しています。
たとえば、「いつもトイレをきれいにお使いいただきありがとうご
ざいます」という「ありがとう」の使い方にはひっかかると。
言いたいことと表現に差があるのではないかと。ちなみに筆者は、
「インフレ」ではなく「デフレ」という言い方で、乱発は「不適切」
とまでは言わないけれど、ことばの価値を下げているのではないか
と言っているわけですね。

筆者はまた、ご自身の経験として、パソコンのヘルプデスクに電話
で相談をした時のことを挙げています。
電話の相手は「お電話ありがとうございます」からはじまって、こ
ちらがなにか質問するたびに「はい、ありがとうございます」と受
けてから、「○○が××しているのですね」と確認して、それの解
決方法を説明し始める。

最後に問題が解決すると「ありがとうございます。他に何かご不明
な点はございますか」「えーっと、ありません」「ありがとうござい
ます。ご案内は〇〇でした」と終わる。
うーん、この「ありがとう」のシャワーはいったいなんなのだ!
感謝するのはこっちだろう、いくらサービスとはいえ、ものには
「ほど」というものがあるだろう、と彼は半分怒るのでした。

そしてつらつら考えて、電話相手の「ありがとうございました」は、
お客さまへの失礼のない程度の「相づち」程度のものなのだろうと
振り返るのでした。きっとそうなのでしょうね。
つまり「ありがとう」は、本来の「お礼」や「感謝」の意味だけで
なく、「あいづち」「確認」「了解」「共感」「謝罪」などの意味もぜ
ーんぶ含めて使われるようになったのかもしれません。
とすれば、当店の若いお客さんの場合も理解できます。

ただ私は、お礼とか了解だけでなく、そこにはなんとなく「拒絶」
の気分があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
どういうことかというと、「ありがとう」ということで、「はいはい、
どうも、もういいですからね、もう構わないでくださいね、こっち
のペースでコーヒーとケーキをいただいておしゃべりしますから、
なんか必要な時は声かけますから、どうかほおっておいてください
ね、はーい、はいはい、ごくろうさん」という、自分のたちのまわ
りに壁というか防波堤を作っているように聞こえてならないのです。
どうでしょうか。 考えすぎですか?


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第367回 2023.010.02

「「自ら」という、なんとも重要な副詞」

ということで私は、副詞って「けっこう」偉大なのではないか、
と思うようになりましたが、なかでもこんな重要なことばが副詞
であったとは、「いかにも」迂闊なことでありました。

「『おのずから』と『みずから』」(竹内整一/ちくま学芸文庫)

「自ら」と書いて、「おのずから」とも「みずから」とも読むなん
て、日本語とはなんともややこしいことをしてくれるものです。
というのも、「おのずから」は、自然にそうなった、不可抗力だ、
必然的に、しょうがない、といったニュアンスを補完する副詞であ
り、「みずから」は、自分の意志と力で、私の欲望、努力の結果、
願えば叶う、などという意味合いをもつことばだからです。

このへん、よろしければ辞書、それも古文を含めた各種の辞書で比
較していただけると面白いかもしれません、ま、気が向きましたら
どうぞ、というくらいですけど。
ともあれ、このふたつの副詞には相反する意味があるのでした。
だって「おのずから(自然に)」成ったことと、「みずから(自分が)」
為したこととは、まったくの別事ではありませんか。まるでどぶろく
と純米大吟醸の違いではありませんか。
それを私たちは「自ら」と、同じ字を使って書く。じゃ、「自ら」と
書かれていたら、どっちと思えばいいんだ? おかしいじゃないか。
責任者出てこい!というのが、私の偽らざる気持ちでございます。

そこで筆者は、日本語の責任者になりかわって、おもに高村光太郎、
国木田独歩、柳田国男、清沢満之、正宗白鳥らの日本文学者の自然
観・人生観をひもときながら、この「おのずから」と「みずから」
という副詞と、さらにその「あわい」をキーワードに、日本人の精
神構造じたいを考えていくのでした。

筆者は書きます。「私たちは『結婚することになりました』という
言い方をするが、そうした表現には、いかに当人が『みずから』の
意志や努力で決断・実行したことであっても、それはある『おのず
から』の働きでそう『成ったのだ』と受けとめる」心情があるのだ、
と。

ここには日本人の典型的な精神が表れている。
たとえば「自然の成り行き」で結婚することになったといっても、
そこには、出会いの偶然や八百万の神様の意志や、ネイチャーとし
ての森羅万象の影響という「おのずからの働き」と、自分たち「み
ずから」の意志・選択・決断というものとが分かちがたくある結果
なのであって、けっしてただの「若気の過ちだったのよねえ」と済
まされるものではないのだ。

こういう筆者の分析から、私たちはいくつかの気づきを得ることが
できます。
日本では、「みずから」を強調して自力を誇りすぎることは、嫌わ
れる。とりわけ、自己顕示的な行為をこれみよがしにおこなうこと
は、嫌がられ排除される。
なんでもかんでも自力・自律と自立・自助努力が必要だといったり、
それって私がやりました的な目立ちたがりが好かれない精神風土が
あるのだ。
「悪目立ちしてるよな」「自分が自分がって、あのひとイタイよね」
などと批判されやすい。そして、「お前の力だけじゃないだろ、運も
あるだろ、まわりの助けや偶然の力もあっただろ」、と言われてし
まうのだ。

私たち日本人には逆に、「おのずから」「自然に」に重きを置き、そ
の結果、「ま、こうなってしまったことは、やむを得ん」「しょうが
ないさ」的な、あきらめ気分に陥ることもよくあることだ。
こここにはおもに自然の力に対する無力、無常観がある。
たとえば自然災害にたいしては、「どうせかなわない」「やっぱりそ
うなったか」と考えて、「これはもう私たちの力の及ぶ限りではあ
りません、いたしかたありません、ごめんなさい」いう心理が働く。

筆者の分析によれば、こうした「自力と無力」の日本人の世界観・
人生観の相克については、とりわけ北村透谷や夏目漱石をはじめと
する近代の文学者はとても自覚的だったようです。
きっと、伝統的で基調的な「おのずから人生観」と、自律と自立を
大事にして同一性によるアイデンティティをめざした、「みずから
人生観」、いわゆる「西洋的な近代的自己」との関係に、彼らは悩
んだのでしょうね。
このふたつを、どうやって超克すればいいんだろう、って。

さてさて、この本にはまだまだたくさんの発見があったのですが、
視点を宗教観の面に向けると、「おのずから」と「みずから」を、
「他力」と「自力」とに置き換えてみることができそうです。
するとそこには、親鸞聖人などの仏教思想の一端が現れてくるよう
に、私には思われるのでした。

「われわれがそれを信じそれによって救われるという阿弥陀如来の
働きとは、じつは「自然(じねん)」の働きのこと」である、こう
筆者も書いています。
「じねん」は「おのずから」であり、これすなわち「自然法爾」で
あり、「絶対他力」の思想である。
「親鸞においては、こちら側の「みずから(自力)」のはからいは、
けっして阿弥陀の「おのずから(他力)」の働きと重なるもの」で
はないと。  

ここ、難しいところですね。よし、もっと難しくしちゃいますか。
では、哲学者西田幾多郎の難解な表現による解説をご覧ください。
親鸞の自然法爾は、じつは「事に当たって己を尽くすということが
含まれていなければならない。そこには無限の努力が包まれていな
ければならない。唯なるがままということではない。併し自己の努
力そのものが自己のものでないと知ることである。自ずから(おの
ずから)然らしむる(しからしむる)ものがあるということである」。

ひゃあ、ムズいことムズいこと。
しかしこのおことばからなんとなく受け取れる意味としては、「みず
から」の働きは「おのずから」の働きによって引き起こされるし、
そう考える宗教観をもつべきだ、ということではないでしょうか。

となると、おや、他力と自力が重なっちゃったのではないですか。
これはキリスト教信仰の「恩寵」と「自力」の関係と同じではない
でしょうか。このへん、宗教にお詳しい方の助言をいただければ幸
いですが、いずれにせよ、あれまあ、ただの副詞の問題だと思って
いたものに、こんなところまで連れてこられるとはね!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第366回 2023.09.24

「コミュニケーションのキモは」

日ごろから、若い客さんのコミュニケーション力への懸念を表明し
ていろいろあげつらっている私ことマスターですけれど、コミュニ
ケーション力で一番怪しいのが自分だということはよくわかってい
るのです。
だからこそ、ことば遣いやコミュニケーションに関する本を取りあ
げることが多くなっております。そこんとこ、ご容赦ください。

「コミュ力は『副詞』で決まる」(石黒 圭/光文社文庫)

副詞って、なんだっけ?というあなた。
じつは私もよくわかっておりません。
学校で習ったんだけど、なんだっけそれ? 重要なものだっけ?

この本のなかでは、私たちは無意識に多くの副詞を使っていること
が示されていました。
たとえば「めっちゃ」「じつは」「なるほど」「まことに」「せっかく」
「あいにく」などがその例として挙げられています。

私たちの日常会話において、これらのことばは、ごはんにおける
「漬物」のように欠かせないものになっていますよね。
というか、最初にこれらのことばを発しないと、肝心の言いたいこ
とが出てこないひともいるし、これらのことばだけで会話が成り立
つことさえありますもの。漬物が主役になることさえある。
「副詞はたんなる添え物ではない。書き手(話者)の気持ちをスト
レートに伝える要素であり(中略)その選択に成功していれば共感
を得られるが、失敗すればそっぽを向かれる。」 

こう筆者のいうとおりだとしたら、それは一大事ではないか!
無視して通ったらコミュニケーションに齟齬をきたす、重要要件で
はないか!

だとしたら、「ほんとに」「ちゃんと」「ぜんぜん」「ぶっちゃけ」「わ
ざわざ」「チョー」「すっごく」「せっかく」「マジ?」「そっと」「ず
っと」「きっと」「めっきり」「すっかり」「はたして」「すぐに」「す
かさず」「とにかく」「ほぼほぼ」、、、きりがありませんが、これら私
たちが頻繁に使う副詞は、なんとも大事なコミュニケーションツール
だったのだ! すいません、不勉強で。

そういえば私も、これらのことばは、「メチャ」頻発していますな。
それも、副詞として正しく認識して使ってなかったな。
となると、これからは少し考えて使わないといけませんね、なぜなら
筆者は、たとえば「政治の副詞」という項目を作って、政治家さんた
ちの副詞の怪しい使い方とその結果を取り上げて再考を促しているの
ですから。

政治でよく使われるものに「毅然と」「速やかに」「慎重に」「着実に」
「毅然と」などがありますが、これらは「スタンスの副詞」とでも名
付けられるもので、ウソではないけれども、「なにをどこまで」が明
記されないかぎり、言質を取られないことばとして重宝されているの
だ。
おお、そうだったのか、これらのことばにある二面性や多重性は、
「スタンス」をキッチリ表わすかどうかによって意味が変わる特徴が
あるのか!

あるいは、「『丁寧に』説明」「『重く』受け止める」「『しっかり』と責
任を果たす」「『真摯に』対応」などは、「ポーズの副詞」で、あまり
責任をとるつもりのないときに使われている、と。
おお、なるほど、そうじゃないかと思ってたんですよね。これもあい
まいに使われることの多い表現で、ボクも気をつけなければいかんと
思っていたのだ。正しい意味で正しく使わなければ、漬け物としての
副詞の役目は果たせないのです。

じゃ、どういう副詞のどういう使い方がすぐれているのだろうか?
筆者は、「相手に対する心づかい」を示すものが、副詞の効果的な使
い方なのだとします。
たとえば「感謝」の場合に使う、「『わざわざ』足をお運びくださり」
「『せっかく』お声がけいただいたのに」などというの使い方。それ
は、相手の立場をキッチリおもんばかって使われている。

あるいは「気持ちを強める」使い方として、「『本当に』助かりまし
た」「『あらためて』お詫びいたします」などなどです。
また、やや形式的なお礼状のような表現かもしれませんが、「さぞ」
「くれぐれも」など、いずれも相手の気持ちや置かれた立場を配慮
しつつ使えさえすれば、効果的で、スタンスもポーズもはっきりし
た使い方になるというのです。

では最後に、筆者が「ベタ」誉めしている、「せっかく」の使用例を
ご紹介しましょう。
将棋の藤井聡太竜王名人(2023年9月現在)が、「将棋の神様にお
願いできることがあれば、なにを願いますか?」という質問に答え
て、「『せっかく』神様がいるのなら、一局お手合わせを願いたいな
と思います。」
著者はこう言います。「この『せっかく』の使い方に、(藤井さんの)
異次元の強さがあらわれている」と。
うむ、この用例は「ふっちゃけ」すごい。「はなはだ」秀逸だ。「ホン
トに」異次元だ。「厳然と」強さを表わしている。私も見習いたい。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第365回 2023.09.17

「『ない本』の紹介のしかたは、参考になるか」

スタニスワフ・レムはご存じ、「ソラリス(「惑星ソラリス」とし
てタルコフスキー監督によって映画化された)」などの名作を書い
たポーランド(現ウクライナ)のSF作家でして、

「完全な真空」(スタニスワフ・レム/河出文庫) 

には14本の、「架空の本の書評」と、一本の架空の講演録が収め
られています。扱う本には小説あり研究書あり、まことにバラエ
ティに富んでいるのですが、じつはこれらはすべて「実際にはな
い本」、つまり想像上の本なのでした。
作家が、自分で勝手に想像した小説や評論を勝手に内容を紹介し
つつ、みずから勝手にああでもないこうでもないと勝手に評価し
ていくわけです。

たとえば最初に出てくる「ロビンソン物語」というのは、マルセ
ル・コスカなる人物が書いた小説で、パリの書店から発行されて
いる、という設定になっています。

もちろんこれは、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」のパロ
ディ小説です。主人公セルジュ・Nは、漂着という「自分の、置
かれた状況を認識するや、従順に妥協して運命の言うなりになる
どころか、むしろ、本物のロビンソンになるべく決意するのだ」。

さて、この「新ロビンソン」になった主人公は、みずからを神と
して暮らすのですが、その「孤独の社会学」はいかように進展す
るのであろうか、みたいな問題提起が書評子としてのレムから発
せられ、彼はその問いについて自ら考えていく・・・。

とまあ、私たちは、結果としてとんでもなく複雑な書評を読まさ
れることになるわけですが、こりゃいったい、どう咀嚼したらい
いのでしょうか?
ああ、レムは、こんな小説を自分で書きたかったのかな、でも、
どこかうまくいかなくて、書評で扱うという裏ワザで持ち出した
のね、ということでしょうか。
そうではなく、レムは「レム睡眠」のときに見た夢を、無意識に
書物にしていて、それを書評してみたのだ、とでもいうのでしょ
うか。

あるいは、「ない本」を書評することで、別のこと、つまり文芸
評論や社会時評のようなことを、よりリアルにしたかったのでし
ょうか。
いや、ただたんに、自分がいろいろな精神や人格に変身できると
いうことを証明したかったのでしょうか。いやいや、パロディの
パロディ、フィクションのメタフィクション、風刺の風刺、あそ
びのあそび、をやりたかっただけでしょうか?

こうしたいろいろな疑問がでてくるのも、じつは本の一番最初に、
スタニスワフ・レム著の「完全なる真空」(読書人出版所 ワルシ
ャワ)についての書評と解説が掲載されていたりするからなので
す。つまり「どこかのだれか」が、レムの「完全なる真空(14本
の「架空の本の書評」と一本の架空の講演録)」を評するという体
の、いわばこれも架空の序文のようなものがあるのです。

そこには、筆者レムのことばとして(ややこしいなあ、もう)、
「文学はこれまで架空の登場人物について語ってきた。我々はそ
の先に進もう。つまり架空の書物のことを書くのである。これこ
そ、創造の自由を回復するチャンスであり、それと同時に我々は、
二つの相反する精神—すなわち作家の精神と批評家の精神—を結
び合わせることができるわけだ」、と引用されています。

つまり、前もってこの本全体の解説を、自分とは別の人物の手を
借りる形で行っている作家としてのレムと批評家としてのレムが
いる。
14冊の書物を書いた14人と、書評子のとしての14人分のレム、
そして序文を書いたレム、ここにはこれだけのレムが登場するわ
けです。
フィフティーン・レムズ! いや、その倍のレムズ。
これは完全なる真空じゃなくて、作家が持てる技巧と知識を最大
限に使った完全なるフィクションとでもいうものではありません
か。

ところでレムはこの序文のなかで、ことあるごとに、「偽の真実
と事実の虚偽」とか「書くことの可能性の限界」、あるいは「作
家たちはフィクションの必要性ほを信じられなくなった」「フィ
クションにうんざりし、自分自身の全能性を否定する無神論者に
なった」などと書いています。

こういう、文学に対する危機感がこの架空の書物の書評集を書か
せたのだとすれば、パロディのパロディとか、読者を面白がらせ
るというだけの軽い気持ちで書かれたものではなかったでことは
確かですね。
ともあれ、「ない本」、つまり架空の本を紹介して書評するという
のは、まことに楽しい気晴らし作業らしいのです。これすなわち
健全な想像力の発露とでも申せましょうか。
みなさんもいちどトライしてみませんか? 


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第364回 2023.09.10

「犯罪と暴力と、罪と罰」

イギリス小説は暗くてジメジメしてるですって? とんでもない!
近代のイギリス小説は犯罪と暴力に満ちている。ジメジメなど吹っ
飛ばすような、地中海の天気のようにカラッと晴れわたるような犯
罪と暴力(?)が描かれる小説も多いのです。
バラードの「街」や「犯罪」についての社会学的小説を紹介したか
らには、ぐるっと方向転換してこの本に触れざるを得ません。

「時計じかけのオレンジ」(アントニイ・バージェス/ハヤカワepi文庫)

主人公アレックスは不良、いまでいう粗野な「半グレ」で、仲間と
ともに夜の街を彷徨しながら盗み、破壊、暴行をくりかえしている。
高笑いをしながら、アッツケラカンと、なんの躊躇もなく、相手が
老人であっても暴力をふるう。彼は奇怪なる無秩序とあいまいな遊
興精神のなかにいる。
ひどいやつだ。まだ15歳なのに。

物語の前半は、ほぼ一晩の、彼と仲間による暴力の数々が描写され
る。無闇やたらと、ただただ、暴力をふるう少年たち。社会学も心
理学もあったものか。ただ暴れたいのだ。純粋な粗野なのだ。パワ
ーを持て余しているのだ。

そんなアレックスの、世間や大人をナメきった言葉づかいと饒舌は、
かえって爽快ですらあります。スタンリー・キューブリック監督の
映画版においても、そこらへん強調されていましたね。
しかしまあ、なんと密度の濃い一晩の暴力の描写でありましょうか。

そんな彼も、ある日、運の尽きるときがくる。
警察に捕まり、そのあと、なんと「ルドピコ療法」なる犯罪者治療
の実験台にさせられてしまうのだった。
その「療法」とは、クスリと映像を使っておこなうもので、暴力を
ふるったり考えたりするだけでも、反射的に肉体的な不快感を覚え
るようになるものだ。
さあ彼の人生はどうなる? 彼は治療によってふつうの真人間にな
るのか? 更生するのか? いままでの行動を反省するのか?

「療法」によって暴力や犯罪を選べなくなったということは、逆に
善をも選べなくなったということを意味するはずだ。
とするとアレックスは、人間であることをやめることになったのか? 
選択の自由を手放さざるを得なくなった人間は、そのあと、どうや
って生きられるのか!

ところで、アレックスはもともと熱狂的なクラシック音楽愛好家だ
った。以前から、暴力の合間に部屋のスピーカーで大音量の音楽を
聴いていた。こんなふうに。
「兄弟よ、聞こえてきた。よろこび、よろこびだ。よろこびに口は
開けたまま、美しい音の奔流を聞く。ああ、これは生身の豪華けん
らんそのものだ。(中略)いまや重力などはまったくのナンセンス、
ほかの弦楽器を越えてヴァイオリンの伴奏が聞こえてきて、その音
がおれのベッドのまわりを絹の籠のように包む・・・」

じつは、療法で使われた映像にはクラシック音楽の伴奏がついてい
た。それが元で、彼は「療法」を施された結果、暴力だけでなくク
ラシック音楽にも、反射的に不快を感じるようになってしまう!
あんなに好きだった音楽なのに、聴こうとすると吐き気に襲われて
しまうのだ。なんてこった。
彼は矯正されて暴力を振えなくなるが、引き換えに選択の自由とと
もに、音楽を聴くという細大の楽しみをも奪われてしまったのだ。

いっぽう、少年院で彼を気持ちとことばで矯正しようとする牧師さ
んは、この療法に反対してこう言う。
「善というものは、心のなかから来るものなんだよ。善といういう
のは選ばれるべきものなのだ。人が、選ぶことができなくなった時、
その人は人間であることをやめたのだ」と。

後半にはこんなふうに、たいへんな難題が出てくるのです。
うっかりアレックスの粗野な暴力に爽快感を覚えたり、共感や反感
だけ抱いてボンヤリ読んでいると、人間の本質にかかわる問いをう
っかりスルーしそうになります。あぶないところでした。

彼は、自分の犯した「罪」によって、選択の自由と音楽を聴く楽し
みを奪われるという「罰」を受けることになってしまった。これは
人間を辞めることに等しいのではないでしょうか。
そんな彼に、はたして救済はあるのでしょうか。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第363回 2023.09.03

「予言者バラード」

しょうがない。3
バラードを出してしまったからには、彼のこの小説をご紹介しない
わけにはいかなくなりました。

「コカイン・ナイト」(J・G・バラード/新潮社)

さっそくオビの惹句をもとに、どんな筋立ての小説かをご紹介する
と、
「凶悪殺人の罪に問われ、なおかつ自白までしてしまった弟の無罪
を示すべく、旅行作家のチャールズは、スペイン南部にある地中海
の高級リゾートを訪れる。だがそこは、上流階級の人びとの検体と
欲望のみが君臨する、恐るべき迷宮だった。」

私は読み始めた途端に、レイモンド・チャンドラーのハードボイル
ド探偵小説のようだと感じ、読み進めていくうちに、カフカ的な迷
宮に入り込んだ主人公はどうなっちゃうんだろうと心配になり、途
中から、いやこれは現代社会をするどく風刺した予言の書だと思っ
たのでした。

安全安心な高級リゾート、いわばゲーテッド・コミュニティに暮ら
す金持ちたちは、テレビを見るだけの安寧な暮らしのなかで退廃し、
そのまま退屈して死ぬのを待つだけだ。彼らは「音を消した世界で、
これからの人生を半睡状態で過ごしていく」人たちなのだ。
ほんらいは、より良い生活を享受するために作られた町なのに、そ
こで生きる人たちはほぼ脳死状態になっている。
そんな彼らに必要なのはなにか。それは生きるための刺激だ。

その刺激とは、クスリに犯罪。
町を創って陰ながら支配する人たちはそう考えて、わざわざ多様な
犯罪をヤラセで用意して彼らにに提供する。
「犯罪と創造力は不可分の存在なのだ。過去の歴史を見ても、この
両者は常に相伴って機能してきた。犯罪意識が強くなればなるほど、
市民の意識も鋭利になり、文化はより豊かなものになる。犯罪以外
にコミュニティを一つに結びつけるものはない。不思議なパラドッ
クスだ。」

主人公の弟も、それを知りながら加担してしまい、そんな自分を責
めて、無罪にもかかわらずすべて自分が行った殺人だと自供したの
だった。というように、ここでは多くの精神が混戦して脱線し、そ
れによって奇怪な秩序を保っている。

主人公ポールと精神科の医師ペンローズの会話。
ペンローズ「魂のニュータウン化が全地球にペストのごとく蔓延し
ているんだ」
ポール「正気や理性は人間にふさわしくない?」

ペンローズ「うむ。人間にふさわしいのは、うそつき鏡の映像に基
づいた巨大な幻想だよ。こんにち、われわれは隣人の顔さえ知らず、
ほとんどあらゆる形の市民的参加を放棄して、社会の経営をひとに
ぎりの政治技術者に任せて満足している。現代の人間に必要な一体
感なるものは、空港の搭乗ラウンジやデパートのエレベーターで得
られるだけで十分なのさ。共同体的価値を尊重するような口ぶりで
はいるが、実際はひとりでいたいんだ。」

(中略)
ポール「精神異常こそ自由、精神異常こそ快楽、かい?」
ペンローズ「狂ったスローガンだが、そこには燃え上がるような真
実があるのさ。(中略)われわれが隠し持った異常な部分は、最後
の自然保護区、危機に瀕した精神が守られる特別区なんだよ。」

おお、カラッとした天候の地中海沿岸の高級リゾートのが舞台なの
に、やっぱり暗いなあ、この小説も。
しかしこれはバラードの警告なのであり、「予言の書」なのであり、
さらに私はこんなことを思いました。
うーん、なんか、いまの日本と似ていないか?

ひとの病理がコミュニティの病理につながる社会。犯罪がコミュニ
ティを一つに結びつける社会。そして閉ざされたコミュニティの病
理は、じつはその外の広い世界に直結している。
そういえば、安全安心を謳う日本で、つまりある面、大きなゲーテ
ッド・コミュニティのような日本で、ちょこちょこと「奇妙な犯罪」
が起きていないだろうか?

定期的に検挙される芸能人や学生の薬物汚染。見境のない無差別の
殺傷事件。家庭内の見えにくい暴力。「だれでも良かった」と言う
容疑者。闇サイトで募集されたシロートによる強盗。猟奇的な殺人。

なんか変じゃないか? ヤラセとは言わないまでも、これらはCI
AかKGBによる陰謀によって作られた「刺激」なのではないか、
あるいはバラードの小説に学んだ秘密結社の策略じゃないのか? 

その目的はもちろん、「うそつき鏡の映像に基づいた巨大な幻想」に
浸っている、つまり安全安心ボケして、弛みきった日本人の精神に
刺激を与えて、人びとの意識を鋭利に保ち、創造力を賦活させよう
とすることだとしたら。
どうでしょうか、預言者バラードさん。そんなわけないか?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第362回 2023.08.27

「大英帝国のふところの広さ」

イギリスには、暗くて苦くてジメジメしてじれったくて胸が締め付
けられそうなやりきれない気持ちになる小説が多いのはしょうがな
いとして、いっぽうで、そのような伝統の上に立ちつつも、まこと
に多様なテーマを含む奥深い現代作品があるのも事実です。

「太陽の帝国」(J・G・バラード/創元SF文庫)

私、これはもうまぎれもない傑作と断言します!
舞台は第二次大戦の始まる上海、主人公はジェイミーという11歳
の少年。裕福なビジネスマンの父親を持ってなに不自由なく暮らし
ていた。
ここでは、ジェイミー少年(ジム)の眼から見た、中国の使用人に
ついての、「使用人は家具と同じ。何も言わず目に見えない存在でし
かなかった」、こんな意識のイギリスの家庭を想像してみてください。

ところがある日、太平洋戦争がはじまり、アッという間に日本軍が
侵攻して街を占領する。なにもできない米英軍に中国国民党軍。
少年の目から見た日本軍はどうだったか。「日本人の勇敢さとストイ
シズムがジムは好きだった。(中略)日本人の悲しさは不思議とジム
の心に響いた。」

上海の街なかも郊外も死体であふれるようになる。少年の目から見
た戦争の市街。
「ジムの目にはそこは戦場というより危険なゴミ捨て場としか見え
なかった。(中略)周辺のいたるところに中国兵の死体があった。
道の縁に列をなし、運河に浮かび、あちこちの橋の橋脚に折り重な
っているおびただしい死体。」

ふたたび中国人について。
「中国人たちは死を楽しんでいるーージムはそう結論づけた。生き
ているということがどれほど危ういものであるかを自分たちに思い
起こさせるひとつの方法として、彼らが時として残虐になる理由も
同じ、世界は今とは違う何か別のものなのだと考えることの虚しさ
を思い起こさせるためなのだ。」

この中国については、物語の最後、日本軍が去ってアメリカの水兵
がわがもの顔に街を闊歩する光景を前に、こんなふうに記されます。
「(その光景を)中国人たちは何も言わずに見つめ続けた。彼らが
何を考えているか(ジェイミーには)わかった。彼ら自身、それを
はっきり意識していた。いつの日か中国は世界を罰するだろう。恐
るべき復讐を果たすことになるだろう」と。
少年の観察として記される作者のこの予言は、怖すぎます。

さて物語のご紹介に戻るとして、11歳のジェイミーは戦争の混乱
のなかで生き延びなければならない。生き延びるためにはなんでも
やらねばならない。
彼は、「自分が自分と分離してしまう」ような感覚のなかで収容所
に入っても、「ここは収容所だ。イギリスじゃない。」と決意するの
です。苛酷な三年間がはじまる。

この小説の読みどころのひとつは、彼が戦争の三年半をどのように
生き延びたかをトレースすることでした。それによって読者の私た
ちはまず、主人公の「世の中を見る眼」がどのように成長していっ
たか、追体験することになる。
そしてさらに、信頼できる人を見極め、食料を確保し、敵との関係
をも構築して、共に生き延びるための訓練をする気がします。

これこそバラードの他の小説、「結晶世界」などのSFやミステリ
―、あるいはゲーテッド・コミュニティを扱った「コカイン・ナイ
ト」「スーパー・カンヌ」(いずれも新潮社)などに反映される終末
的な世界観だと思いますし、「そもそも敵とはだれか」「破滅を避け
るにはどうしたらいいか」「よりよい生とはなにか」というのが、
彼の根本に流れるテーマであるように思われます。

このように主人公と共にサバイバルを体験し、必死に生き延びたジ
ムの境遇に肩入れすればするほど、彼が収容施設で東の空に見たと
主張する長崎原爆の強烈な閃光、これを読者は信じることになるの
です。

えーそんなあ、まさか上海から長崎の原爆が見えたはずないじゃな
ですか、とおっしゃることでしょう。
でも実際に測って見みると、長崎と上海の距離は長崎と東京の距離
より短いで、隔てるのは海だけ。あり得ることです。
それよりなにより主人公とともに生き延びた読者(私)は、「うん、
私にも見えた」と彼に同調する。その閃光が「太陽」であり、多く
の死をもたらした東の国日本が「太陽の帝国」と呼ばれるわけもこ
こにあるのでした。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第361回 2023.08.20

「王室だけの専売特許ではないドロドロの葛藤劇」

19世紀末の作家で、だれでも知っている「宝島」や「ジギル博士
とハイド氏」で高名なスティーヴンスンの、あまり知られていない
作品だけど、かの夏目漱石先生やハードボイルド作家のあの大藪春
彦先生も愛読したという、暗く苦いイギリス小説の典型のような本
が、これ。

「バラントレーの若殿」(スティーヴンスン/岩波文庫)

舞台は18世紀の中葉、イングランドと境を接するスコットランド
南西部の貴族のおはなし。才能あふれて活発に活動する兄ジェーム
ス(これが「若殿」)と、真面目な弟ヘンリー(事情により家を継い
だ「殿」)との20年にわたる葛藤と悲劇が描かれていきます。
それだけみると、なんだか現在のイギリス王室の兄弟の葛藤のよう
な気がしますけど、もっと暗くてドロドロしてます。むしろシェー
クスピア的な雰囲気をまとっているかな。

まず確認。やはりこれも、「まえがき」に加えて「序言」もあって、
くどくどと、なぜこのお話を後世に語り継がれなければならないの
かが、語り手である執事のマケラー君によって示されます。

読み始めてしばらくすると、もう、はやく話を始めろよ、ってじれ
ったたく思ってしまいますけど、これまたイギリス小説の儀式みた
いなものだと諦めてください。パブで元船乗りのおじいさんのおも
しろい話を聞くためには、1パイントの黒ビールをおごって前口上
から拝聴しなければならないようなものです。

さて賢明な読者である私たちが、これは18世紀のお話ですよとい
う前振りのじれったさや、修辞上の暗さや苦さを飲み込みつつ読ん
でいくと、やがてそこに波乱万乗の世界が現れてきます。
戦いで死んだと思っていた兄さんがじつは生きてて、なんだよ、死
んだと思ったから、貴族としてのお家の事情で弟は彼の許嫁を娶っ
て資産を継承したのに、兄さんは帰ってくるなり弟に難癖をつける
はいじめるはカネをせびるは、やりたい放題するのですわ。

「あの男(兄)はヘンリー様(弟)に対して特別な悪意に動かされ
ていたのだろうか。それとも自分の利益とみなしたものが動機だっ
たのだろうか。あるいは、猫が示し、神学者によれば悪魔も示すと
いう、あの嗜虐性が原因にすぎないのか。あるいはあの男が愛と称
したものが原因なのか。」

これは冷静な語り手マケラー君による分析で、彼は板挟みになりな
がらもなんとか二人の間を収めようとしますが、うまくいきません。
ま、この男も自分を良く見せようとしたり、ことさら冷静に観察し
たりして、その結果を述べているわけですから、必ずしも信頼でき
る話者とは言えないんじゃないかなあ。イシグロの「日の名残り」
の主人公の正直で真面目一方の執事とはかなり違う気がいたします。

こんなことを思って読んでいるうちに、読者はアッチコッチへと鼻
づらを引っ張りまわされるように物語が進むのでした。

人間的には魅力あふれる兄「若殿」の野心やそのうらはらの凶悪さ
が描かれ、海賊と宝探しなどの冒険があり、帰国後の兄弟の決闘も
あって、そこにまわりでウロウロするだけの父親とお嫁さんの情け
なさあり、善良で真面目で凡庸な弟の不器用さと、それをなんとか
フォローしようとする語り手マケラー君の忠節あり、そして、えっ、
そっちへ行くの?という予想を裏切る展開あり、、、。

こう並べていくと、この小説もやはり暗くて苦くてジメジメしてお
りますよ。やりきれないなあ、なんでイギリスの貴族ってこうも反
目しあうだろう。現王室もそうだけど。
しかし、「ジギル博士とハイド氏」を書いた作者だけに、ゴシック
情緒の妖しい魅力にあふれる愛憎劇であった、という評価は賛同せ
ざるを得ませんね、くやしいけど。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第360回 2023.08.13

「いたずらっ子戯作者のニヤニヤ顔」

イギリス小説が、なんでもかんでも暗くて苦くてジメジメして胸を
締めつけられてじれったいものばかりというわけではありません、
もちろん。
とりわけ短編小説には、明るく甘い、とまではいかないにしても、
暗くなるひまがないうち、ほろ苦いくらいのうちに終わってしまう
という、ショートショートのようなものがあって、イギリス小説に
親しむ際の、私たちの一服の清涼剤になっています。

なかでも、アメリカのO・ヘンリー(私、以前にけなしたことがあ
る作家です。すいません)と並び称されるのが、

「サキ短編集」(サキ/新潮文庫) でした。

サキって不思議な筆名ですよね。
解説によれば、本名はヘクター・ヒュウ・マンロウ、1870年にビ
ルマ、いまのミャンマーで生まれて、その後故国のイギリスで小説
家として名を成した。「サキ」は、イスラムの哲学者オマル・カイ
ヤムの四行詩「ルバイヤアト」からとったものだそうです。

風刺とブラックユーモアの作家と呼ばれているそんな作家を、では
「短編は、ゆっくり、二度、読む」という私なりのお作法によって
味わうことにしましょう。

たとえば、「ビザンチン風オムレツ」という一編。
ソフィという富裕な上流階級のマダムは、たくさんの召使を使って
優雅に暮らしている。
しかし、「ソフィは富の分配ということに関しては、きわめて進歩的
な、明確な意見を持っていた。」彼女は、当時の社会主義者の集まり
である「フェビアン協会」に属していて、「資本主義の害悪を雄弁に
痛罵」するようなひとであり(りっぱな見識じゃないか)、しかしそ
の反面、「資本主義機構が、おそらく自分の一生は持ちこたえるだろ
うという快い気持ちを意識していた(嫌なマダムじゃないか)。」
はい、このおひと、自分を棚に上げて「逃げ切り」を図る、無邪気
なイギリスの金持ちでした。

そんなある日、マダム・ソフィは特別な客人を招くことになる。
しかしそこに突然、使用人同士のいざこざが原因で家事向きの召使
いによる職場放棄、つまりストライキが勃発してしまう。
あたふたするソフィ。大丈夫かソフィ。彼女の優雅な生活と会食は
持ちこたえるのか? いざこざの原因となった料理人がいないと、
今回のために特別に用意するビザンチン風オムレツなるしろものが、
お客さまにお出しできなくなるぞ! 

なんとかんならんか? なんともならない!
ソフィ付きの召使もやはり「組合」に所属していて、ストに入って
しまうのだ。じつは彼女はむしろ「保守派」であり、社会主義者に
は以前から我慢がならなかったという。なんじゃそりゃ! 

しょうがない、原因となった料理人は解雇だ!とソフィが決断した
とたん、その男が「料理人および厨房従業員組合」に所属していた
ので、台所の業務がすべてストップしてしまうという事態に。
雇い主の資本家と各種屋敷内組合の衝突とドタバタ! 
次々と明るみに出る、葛藤と反目と闘争! これは家内革命寸前の
事態ではないか! 筒井康隆先生が好みそうなシチュエーションだ!

もうどうにもなりません。わたしゃ知りません、おしまい、チャン
チャン、と作者が投げ出すように物語は終わってしまいますが、最
後に、その後なにごともなかったかのように、ソフィの平和で無自
覚な生活が続いていることが示されます。
読者には、ビザンチン風オムレツとはいかなるものなのか知らされ
ないまま。なんかおいしそうな感じがしたんだけどなあ。

さて、このようなイギリスの富裕な上流階級の生活と、それを支え
る執事、召使、料理人の話は、イシグロの「日の名残り」もそうで
すし、グリーンの「落ちた偶像」もテレビドラマ「ダウントン・ア
ビー」もそうで、数多くあります。

でもねえ、まさかここに社会主義だのフェビアン協会だの職種組合
だのが出てくるとはね、驚きました。
第一次大戦前のイギリス帝国の上流階級の無自覚でおマヌケな雰囲
気をまとうソフィが、従業員組合によってメンツ丸つぶれになる、
上流階級の偽善と矛盾が痛撃を食らう一幕劇でした。
ああそうか、これはイギリス伝統の風刺劇のようなものか。

じつはサキの他の作品も、ブラックだの風刺だのといわれるものの、
その実際は、偉そうなだれかを舞台にひっぱり上げて、そのメンツ
をつぶしておもしろがろうとするものが多いのでした。
ここには、作者の気風として、いたずらっ子の戯作者といった趣き
が感じられます。日本でいえば狂言作家みたいなひとでしょうか。

これをある評によって補足するならば、「サキは、真面目な顔をして
嘘をつく男」なのだそうで、まったくそのとおりだ、サキは悪い奴
だ、オオカミが来ると触れ回る少年だ、劇を見終わった観客がどん
な顔をして帰るか脇から覗いてニヤニヤしている劇作家なんだ。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第359回 2023.08.06

「ホントのところは暗くて苦い闇の中」

読んでいて、バカ―ッと心の晴れることのない、もどかしくて、暗
さや苦味を感じるイギリス小説といえば、コッポラ監督の映画「地
獄の黙示録」の原案にもなった、

「闇の奥」(ジョゼフ・コンラッド/新潮文庫) があります。

コンラッドは、いちおうイギリス文学の範疇にはいりますけれど、
生まれは現ウクライナの町で、本名ユゼフ・テオドル・コンラート
・コジェニョフスキという、まことに発音しにくい、舌を嚙みそう
なお名前です。
戦争によって意識させられると、なぜかウクライナ関係者にブチあ
たることが多い気がしますが、これは偶然のような必然。

それはともかく、彼は1857年の生まれ。1886年にイギリス国籍を
取得して、その後商船の艦長として世界の海をまわった。とりわけ
アフリカ中部コンゴでの体験がこの小説の土台になったと、ま、解
説にはそう書いてありました。この時代の作家は、世界を飛び回っ
たひとが多いですね。

ついでに、これがどういう小説かということを、文庫本のウラ表紙
の説明をそのまま書き写してしまいますと、
「19世紀末。アフリカ大陸の中央部に派遣された船乗りマーロウ
は、奥地の出張所で象牙貿易に辣腕をふるっているという社員、
クルツの噂を聞く。うっそうたる大密林を横目に河を遡航するマー
ロウの蒸気船は、原住民の襲撃に見舞われながらも最奥にたどり着
く。そこで見出したクルツの戦慄の実像とは・・・」と、あります。
主人公マーロウ君は作者同様になかなかの冒険家で、これは冒険小
説でハードボイルド小説でミステリ小説なのでした。

しっかしこの説明、うまいなあ。あらすじを要領よくまとめるとと
もに、なんとも「そそる」惹句になっています。
じつにすばらしい文章だと、私は本を読んだ後もさらに感じ入って
いるのですが、というのも、ここにでてくる一語一語、たとえば
「19世紀末」「アフリカ大陸の中央部」「船乗り」「奥地」「象牙貿
易」「辣腕」などが、小説を読む際にじっくり噛みしめるべき重要
なキーワードとして意味を持っているからでした。

問題はその敏腕な社員「クルツ」という人物。
彼はとびぬけた才能をもつ人物であり、それがどんな才能かという
と「語る能力であり、ことば遣いの妙だったということ。そう、胸
中の思いを自在に表現し、人を幻惑し、啓蒙する」、そういう、けた
外れな人物だった。当時の大英帝国が生んだ独立独歩のひとであり、
反逆児で扇動家、リーダータイプの英雄型人間だったのです。

クルツは「奥地」の「出張所」で、ことばによって「原住民」を操
って、王様のようにふるまっている。が、結局最後は死んでしまう。
死に際のクルツの様子を語り手マーロウ君は、
「あの象牙のようななめらかな顔には、厳かな誇り、冷徹な権力欲、
怯懦な怖れ、そして激しい絶望の色が浮かんでいた。」と描写する。
これが「戦慄の実像」なのだ。
そしてクルツは「地獄だ!地獄だ!」と低く叫びつつ死ぬ。

はい、最後のクライマックスのこのあたりは、なぜ彼は死ななけれ
ばならなかったのかとか、彼にとってなにがどう「地獄」なのかを
含めて、暗い「闇の中」に隠された秘密がありそうで見えないとこ
ろがありますので、私たちはかなりじっくり吟味しつつ読まないと
いけないところです。
投げ出すようですいませんが、みなさん、がんばってください。

ところでこの小説では、本来の主人公クルツが登場するのが番組の
後半からで、クルツ自身が話すことばも少ないのが特徴です。だか
ら読者は、それまでじらされているように感じる。
そういえばグレアム・グリーンの「第三の男」も、みんなが探し回
る謎の人物、悪党ハリーは最後の最後にやっと現れて(映画でも印
象的に演出されていました)、そしてでも、すぐ殺されてしまって
いましたね。

これはイギリス小説の伝統なのか?
主人公を「謎の人物」にしておいて、読者を引っ張るだけ引っ張っ
て最後に登場させ、すぐ退場させる。それがイギリス小説の売れる
ためのテクニックだったのか? 
いや、そんなことはないでしょうが、私にとっては、じつはそうい
う古風な作風もスッキリしない原因なんだよなあ。

私たち賢明な読者としては、なにも劇的な逆転サヨナラホームラン
を望んでいるわけではないけれど、ピッチャーが暴投して三塁ラン
ナーがサヨナラのホームを踏む幕切れ、みたいなのは拍子抜けする
のです。

ドフトエフスキーとまではいわないにしても、本来の主役である
「謎の人物」が登場するまでのドキドキ感とともに、実際に彼自身
のナマの声による「生きた印」みたいな主張をもっと聴きたかった
気がします。
そのナマの声が仮に暗くてもジメジメして苦くてもくどくてもいい
から、とりあえずロシアの小説のようにど真ん中で勝負しろよ、み
たいな。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第358回 2023.7..30

「イギリス小説の奥深さ」

イギリス小説といえば、シェイクスピアのような古典から、近
はブロンテ姉妹、ディケンズ、ジェイムス・ジョイスとかオスカー
ワイルド、フォースターにT・S・エリオット、それからぐっと下
って本誌第2回でとりあげたノーベル賞作家カズオ・イシグロなど
など、大御所の名前の数々が浮かびます。

でもそれらは、読んでいてバカ―ッと心の晴れることのない、なん
というか、やや暗い味わいのものが多いような気がしませんか。
っていうか、それよりなにより、みなさんちゃんとイギリスの古典
を読んだことあります? 

私は・・・すいません、じつはほとんど読んでいません。シャーロ
ック・ホームズを別にして。あ、イアン・フレミングの「007シリ
ーズ」も読んだけど。

は?「嵐が丘」「ジェーン・エア」ですか? ああ、きっと、荒涼
たるヒースの丘の続く風景ね、貴族の愛だの恋だのと、めんどくさ
いやつ。
「クリスマス・キャロル」?「デビット・コパーフィルド」? あ
あ、産業革命時代の下水の匂いのするロンドンの高利貸と下層階級
の子どもたちの話ね、などと、よくない先入観にとらわれて、手に
取るのをためらってきたのかもしれません。

そんな私が、数少ないながらイギリス小説を読んで、もうひとつ感
じることがあります。
それは、物語の書き手が「なぜ私はこれを書くのか」とか「こう書
かなければならない理由はなにか」「なぜ、それはこの場面(あるい
はこの人物)から書き始めるのか」などという、いわば「物語がこ
のようである必然性」をくどくどと、失礼、熱心に示そうとするこ
とが多いのではないかということでした。

登板前に相手バッターの特徴と自分の投げる球種の説明をするピッ
チャーのように(そんなひとはいないが)、なんというか、手順を
踏まないと気が済まないめんどくさい時代のめんどくさい作家が多
いのではないでしょうか。

「情事の終わり」(グレアム・グリーン/新潮文庫)

古典ではないけれど20世紀中盤の作家、グリーンの小説もその典
型で、語り手である小説家は、最初にそんな理由をくどくど述べた
あと、「私のペンからは悪意が染み出ている」だの、「できるなら私
は愛をこめて書きたい。だが愛をこめて書いたら、私はまったくの
別人になってしまう」だのと、読者を惑わすようなことばかりを綴
りはじめるのです。

すると、もともと自分のことをプロの作家で、「その技巧ゆえに賞賛
されている」と自負しているこの語り手の語り口に、私たちはコロ
ッと騙されてしまう。
「この書き手は不幸なヤツだ。こんなヤツに幸せな未来が待ってい
るはずがない」と思い、じっさい小説の結末はそのとおり幸せなも
のではないので、「ほら、見たことか」と溜飲を下げるのでした。

さらに、この小説の主題のひとつにキリスト教の信仰の問題があり
ますが、私など、「こんな主人公を作りだしてこんなひねくれた書
き方をするグリーンのような作家が、キリスト教徒であるはずがな
い。きっと自分でも不倫して、神様問題で悩んでいるふりもして、
それを物語に仕立てただけだろ」などと、ひどい感想を持ったもの
です。グリーンさん、すいません。

ああ、しかし、なんということでしょう、それは、私もあなたも作
者グリーンの術中にはまってまった結果なのです。それこそ作者の
思うつぼ。
もう、めんどくさいなあ。まわりくどいぞ、イギリス人。

いろいろな小説を読んで経験を積んだ読者である賢い私たちは、で
はそのあたりの落とし穴や地雷をよけながら読むことにしましょう。
すると、この小説の一番の読みどころは、中盤の、主人公の情事の
相手であるサラの日記の中にあることがわかります。日記のなかで
明かされる彼女の誠実な苦悩こそが、作者グリーンが本来書きたか
ったことでしょう。

つまり、主人公の作家はいわゆる「信用のおけない話者」であり、
理性的に振舞おうとしてあがく、ただの狂言回しの役柄を演じてい
たにすぎなかったのです。
多くのイギリス小説同様に、グリーンの小説にはこのように、どこ
に構造上のひっかけがあるかわからない。だから読者には慎重に一
歩ずつ読むことが求められる。そしてそれも「暗さ」とともに「も
どかしさ」を感じる原因かもしれません。
もうほんと、めんどくさいなあ。

最後に、主人公の作家の口を借りた作者のおことばを。
「小説家の仕事の多くは、無意識の中で起こる。紙に最初の一語が
書かれる前から、心の深淵に最後の一語が書き込まれているのだ。
私たちは物語の詳細を思い出すのであって、作り出すのではない。」
さてさて、このことば、どのように受けとめましょうか? 
小説の主人公の本音か? あるいは作者の本音か? フィクション
としてのフェイクの主張か? 
あるいは二名の共同によるひっかけなのか?


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第357回 2023.07.23

「幕末・明治の日本人に学ぶなら」

明治維新前後の日本と日本人はどんな人たちだったか? 彼らから
私たちが学べるものはなにか。
たとえば、日本にやってきた外国人は彼らをどう見たか?というこ
とから、外部の目に映った日本を観ることができないか?
 
それを実践して、幕末の外交官ハリスやオールコック、アーネスト
・サトウやチェンバレン、科学者ジーボルトにヘボン、文学者や旅
行家ではゴンチャロフやイザベラ・バードにロティ、人類学のギメ
にモースなどなど、幕末から明治に来日した人たちの観察記録から
当時の日本を浮き彫りにしていった名著が、

「逝きし世の面影」(渡辺京二/葦書房)  です。

「彼らが描き出す古き日本の形姿はじつに新鮮で、日本にとって
近代化が何であったか、否応なしに沈思を迫られる。」
と書き出される日本の「そのころ」の姿は、なんとも懐かしく、夢
のような世界でした。
筆者がテーマごとに外国人の感想や批評をまとめたこの本から、私
たちは自分の祖先のことを知ることができますし、それも、幕末明
治の人たちから直接聞いているような気にさせられるのでした。

たとえば、木曽の山の中の村の夕暮れ。それを外国人はこう描写し
ます。
「村人は炎天下の労働を終え、子ども連れでただ一本の通りで世間
話にふけり、夕涼みを楽しみ」「道の真ん中を澄んだ小川が音を立
てて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが、あとからあとから木
の桶を持って走っていく。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすので
ある」、
心に沁む情景です。こりゃ、ひと世代あとの島崎藤村の小説に出て
きてもおかしくない描写じゃないでしょうか?

またたとえば、彼らの目に映ったまちなかの描写。
「街はほぼ完全に子どもたちのものだ。」
「子どもたちの主たる運動場は街中(まちなか)である。子どもは
交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。彼らは歩行
者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を
踏んだり、羽根つき遊びで羽の跳ぶのを邪魔したり、、、、(中略)馬
が疾駆してきても子どもたちは騎馬者や駆者を絶望させうるような
落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する。」
子どもたちは大勢いて、街路にあふれていて、元気だった。
こりゃ、ふた世代あとの志賀直哉が書いていても不思議ではない描
写じゃないないですか?

「この国のあらゆる社会階級は、比較的平等である「金持ちは高ぶ
らず、貧乏人は卑下しない、、、ほんものの平等精神、われわれはみ
な同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透している
のである。」うむ、こりゃ田山花袋かな? 
それはともかく、こうした描写が当時のそのままを写し取ったもの
なら、そこはなんとうらやましい社会だったことでしょう。

しかしそれとは逆に、いまでもたいして変わっていないなあ、と思
われる記述もありました。
たとえば、第二章の「陽気な人びと」で紹介される観察。
「彼らの無邪気、率直な親切、むきだしではないが不快でない好奇
心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志・・・」

「成人して強壮な身体の日本人が、西洋人なら、女の子はエプロン
をつけ男の子は巻き毛を刈る歳になると見向きもしないような娯楽
に夢中になっている。」「日本人のように遊び好きといってよいよう
な国民の間では、子ども特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間
に、境界線を引くのは必ずしも容易ではない。」

「日本人は、毎日の生活が時の流れにのってなめらかに流れていく
ように何とか工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない
気楽さの潮に押し流されていくことに満足している。」
こういう記述は、まるで現在の、花見や宴会、ゲームやアニメ、そ
れから「オタク」や「推し活」に熱中する私たちのことを書かれて
いるかのように感じます。

このように抜き書きしていると、150年前といまを比べるだけでキ
リがないほどおもしろいのですが、おもしろがっているだけではい
けません。著者の意図はじつに明確なものでした。
「私の意図するのは古きよき日本の愛借でもなければ、それへの追
慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験
することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもし
れぬ記録を通してこそ、古い日本の文明の奇妙な特性が、いきいき
浮かんでくるのだと私はいいたい」と。

さらに、「幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの
域に完成した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、与えら
れた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中
行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずに
はいない文明だった。」とし、続けて、
「しかしそれは滅びなければならぬ文明であった」と書きます。

その文明は、滅びるべくして、すでに滅んだものなのだ。
では、なぜ滅びなければならなかったのか。
それは、私たち一人ひとりが、現在の日本と日本人を考える中で答
えていかなければならない問題なのでしょう。

著者の渡辺京二さんは、惜しくも2023年に亡くなられました。
せっかく新著「小さきものの近代」の第一巻が出たばかりで、これ
からの日本を考える学びのタネを提供してくれることを楽しみにし
ていたのに、残念です。ご冥福をお祈りします。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第356回 2023.07.16

「聖地に学ぶとしたら」

当カフェのある調布市は、都内で唯一、国宝のある市ということで
名を馳せております。
その国宝、七世紀後半に作られた小柄で気品あふれる仏像、いわゆ
る「白鳳仏」があるのが深大寺。
深大寺そばが有名ですが、そのほかにも湧水あり、♪中央フリーウ
ェイ♪を見下ろす城跡あり、植物園があり、なおかつ水生植物園が
あり、さらに鬼太郎茶屋もありと、みどころ満載の地区となってお
ります。

このへんには縄文や弥生の遺跡が点在し、古くからひとが住み着い
ていた場所でした。
とくに深大寺周辺には朝鮮半島から多くの渡来人が移ってきたらし
く、古刹や古仏の由来もそのあたりにあるようです。

深大寺が「聖地」だとすれば、このように古くからある神社仏閣の
あたりはたいてい住み心地が良く、地盤が固く、水が豊富で、陽当
たりが良いという共通点があります。
そうなのだ、そのように新石器時代や縄文時代からの文化を連続し
て伝えている場所こそ、「大地とヒトの意識の関係」を左右するパワ
ーのあるところなのであ~る、と大上段に振りかぶって解説するの
が、

「アースダイバー 神社編」(中沢新一/講談社)  でした。

日本の神社仏閣の多くは縄文時代から続く「良地」に建立されてい
る。「アースダイバー」とは、その土地の「古層」にもぐりこみ、
「垂直方向へのダイビング」によって、日本の精神構造を探ろうと
いう試みなのだ。それはまるで海中にダイブして人類と海の秘密の
関係を探るようなものだ、と著者はいうのです。

あとがきに曰く、
「精神の内部にも自然地形と類比的な『地質学的』な層構造が見い
だされることを、精神のトポロジー的な表現である『聖地』のあり
かたを題材にして、探求してみようとした。」

これ、どういうことかというと、たとえば一番下の「縄文古層」と
は、動物と人間が一体で、価値が総体として増えない世界のことで
あり、目の前にあるものは、食料でもなんでも消費しちゃう精神文
化だったと。

それにつづく「弥生中層」では、水田稲作が広がって社会に階層が
生まれ、自然に対して投入した価値は利子をつけて増えて戻ってく
る、という信念によって成り立つのだ。
そして最後の「新層」は、富の集中によって国家権力が生まれた世
の中をあらわす。地学的な「地層」と日本人の精神構造とは、こう
してともに影響しながら形作られてきたはずだ。
「ブラタモリ」ではこういう考えは出てくるまい、と(そこまでは
言っていませんが)。

そしてたとえば古層文化では、その「地」の力を示す「垂直的な動
き」を、蛇、雷、山、などで象徴しようとしたということがある。
だから「『聖地』とは、蛇と雷と山が、世界の奥に隠れている力を、
垂直の運動とともに現実世界に顕在化させる」場所なのであ~る。

またたとえば「磐座(いわくら)」を見てみよう。
「その巨岩は『(力の)あらわれ』の噴出口のひとつを示しており、
巨岩をつうじて隠れた力の放出と顕現がおこっている。」「人間を超
えた、なにかとてつもなく大きなものの存在感が、磐座をとおして
放射されてくる」、そういう荒々しいパワーに満ちた場所なのだ。

このように「古層」プラス「中層」が重なり合って日本神道の原型
を作っていった。
「新層」とは、ヤマト政権をつくったひとたちが、「霊力の源泉から
距離をおいて、そこから流出してくる霊力を制御して自分たちの世
界に運びこ」んで利用した結果でもあるのであ~る。
筆者の主張はおおむねこういうものでした。

さてさて、そういえば私たちも、伊勢や出雲の旅行中に、なにか普
段と違う感覚に襲われることがありますね。それが筆者のいう「聖
地の感覚が発動」して、古層や中層が「精神のきわめて深い場所」
に影響を与えた結果かどうか、それは私にはわかりません。

しかし、縄文人の感覚は「人類の思考の古層に属しているため、地
球規模での普遍性をそなえ」、そのため「ユーラシア大陸やアメリカ
大陸や太平洋諸島の遠く離れた場所に」、「縄文とそっくりの神話や
儀礼を見いだすことができる」とまでいわれると、ウム、そういう
ことはあるのだろうなと思ってしまいます。
なんというか、とても見晴らしのいい歴史感覚に納得するのです。

この、人類学と考古学と社会学を併せ持った歴史観、いいですよね。
この観点から著者はさらに、伊勢、諏訪、出雲、三輪などの古い神
社に積み重なった考古学的「層」と、そこに伝わる神話とを合わせ
て解説していきますが、私はそれにも説得力を感じました。

たとえば出雲大社について、「土台に据えられているのは、新石器的
な神話思考と、巨木をあつかう縄文の技術。その上に、弥生的な生
活様式と美意識が重ね合わされる。(こうして)イズモ世界はゆった
りとして雄大な古代の心を保ち続けた」と。
「イズモの精神世界」はこのようである、と。どうですか?

その「精神世界」とは、むしろ南方熊楠が身をもって感得していた、
土地と気候と生物との協奏なのかもしれない。だとすると、人間の
精神構造には、考古学的地層と神話世界だけでなく、植物や動物の
精神世界も「層」として。一緒に含めたほうがいいのかもしれない。
そんなふうにも感じました。 

では、調布と深大寺周辺の精神的な古層の積み重なりはどんなもの
なのでしょうか。それはいまでも住人に影響を与えているものなの
でしょうか。
白鳳仏が見守るこの地では、深大寺という「聖地」だけでなく、「動
物層」ではまだまだタヌキもいますし、野川公園あたりも含めた
「ハケ(断層とその下を流れる小川の連なり)」も健在ですし、とう
ぜんそれらは住民の意識にも影響しているはずです。知らんけど。
ご興味のある方は、どうか現地調査においでくださいまし。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第355回 2023.07.09

「江戸のひとに学べ」

論語や孟子などをキッチリ学んだ人たちから、私たちが学ぶことは
多いと思います。そのころは武士階級だけでなく、江戸の町民にと
っても一般教養(リベラル・アーツ)だったわけですから、土台が
違います。
とりわけ開明的な江戸末期の知識人たちは、その土台のうえに、最
新の洋学知識をも仕入れ、外国の脅威にいち早く警鐘を鳴らしたの
でした。
その中でも、私の大好きなのが渡辺崋山。
彼をどう紹介したらいいのか、じつはちょっと迷っています。

手元にある関連本も、杉浦明平の大著「渡辺崋山」から、蔵原惟人
「渡辺崋山 思想と芸術」、芳賀 徹「渡辺崋山 優しい旅人」、ド
ナルド・キーン「渡辺崋山」と、名著ばかりで困ってしまう。
それだけ渡辺崋山という人物が魅力的で、その業績が多彩だったと
いうことでしょうし、残された彼の思想や書や絵が研究心を誘うの
だと思います。

そこで私も、一度は行かねばならんと思い立って、崋山のふるさと、
愛知県の渥美半島にある田原市を訪れたことがありました。
ああ、彼はこういうところで暮らしたのだな、小藩なので城は小さ
いな、でも温暖だな、海に囲まれているな、伊良子崎は風が強いな、
「流れよるヤシの実ひとつ」だな、大きな船がたくさん通るな、こ
りゃたしかに伊勢湾に入る交易の要所だな、だから向うに見える
「神島」も聖地だったのだな、これだとたしかに外国船も来ちゃう
よな、などと感慨にふけったものでした。

ところで、知る人ぞ知る、知らない方は知らない渡辺崋山ってだれ
よ? という話なんですが、幕末の田原藩の家老職、文人で絵師です。
東京国立博物館にある、彼の「鷹見泉石(古河藩の家老で蘭学者)
図」は国宝に指定されています。

この絵を見たらしびれますよー、みなさん。
烏帽子をかぶるイケメン武士が描かれているのですが、そこに彼の
人柄がマルッと全部露わにされている。日本画なのだけれど写実的。
モデルの人物そのままであろう、厳しく、賢く、妥協しない意志そ
のものが描かれている。

そしてなにより、顎にかかる烏帽子のひも。
これが毛筆ひと筆で引かれているのですが、こんなことってできる
のでしょうか。だって、顔の絵が完成して、最後に墨の線を引いた
のですよ。ちょっとでもズレたり歪んだりしたら、すべてがパーに
なる。
なんたる集中力、なんたる精神力!  私いつもしびれまくりです。

なんの話でしたっけ、あ、そうそう、国宝はともかくとして、ご紹
介するのはこの本にしました。

「渡辺崋山」(新潮日本美術文庫)

なぜこの本にしたかというと、一番薄いから。
崋山は、絵師としては「千山万水図」によってイギリスの脅威を示
し、藩の家老としてロシアへの脅威を示したりしましたが、儒学の
師、佐藤一斎や、鷹見泉石などの迫真に満ちた肖像画を描き、旅行
記では庶民の暮らしや優しい水彩画のような風景を描いています。
それらがこの本で、まずは概略を見ることができるのでした。

解説の日比野秀男さんは、彼は「思想を絵筆に託した画人だ」とい
いますけれど、それはよくよく絵を見なければわからないことなの
かもしれません。
というのもそのころは、下手に過激な思想を公表すれば幕府ににら
まれてしまう時代でしたし、現に彼も、いわゆる「蛮社の獄」にお
いて、あらぬ疑いをかけられて、しまいには自刃する羽目になって
しまうのですから。

文人・絵師としてだけでもなく、政治家としてだけでもなく、いま
にいたるまで彼の人気が「全人格的」に高いのは、そうした、清貧
にもかかわらず忠と義をまっとうした、悲劇のヒーローみたいなと
ころがあるからでしょうか。
タイプはちがいますけど、吉田松陰に対する後世の評価と似ている
気もします。

本の紹介ですか? えーっと、もういいや(ひどい)。
できましたらここで崋山の絵を見て、人となりを読んで、家老・政
治家として藩や日本国にどんな危機感を感じていたかを感じ、庶民
の生活を大事に想う彼の行跡が、なにかしら現代に通じるという感
想をもっていただけましたら、それにすぐる喜びはありません。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第354回 2023.07.02

「歴史小説から学ぶ ~宮城谷昌光さん」

司馬遼太郎さんの歴史小説は、企業経営者に好まれたようですね。
そこには組織をいかに動かすかとか、そのために克己心をどう保つか
とか、国を富ますにはどうするかなどといった、ビジネスマンとして
生きる知恵がたくさん含まれていたからでしょう。

いっぽう、宮城谷昌光さんの中国歴史小説にも、多くの古代思想とと
もに同様の知恵が語られています。それを目当てに本誌第100回では
彼の「大公望」を取りあげたのでした。
まるで百家諸子の難しい人生訓や哲学を平明な教えに訳してくれたも
のが多く、物語そのものよりもそちらをありがたく拝読してしまうく
らいです。

その時代の思想を土台として、ゆくゆく大きな仕事を成し遂げる主人
公たちがどのように成長を遂げていったか、だれにどのような教育を
受け、そこからなにを受け取って自分を高めていったかについて作者
は多くのページを割いていて、私はそこに大きな魅力を感じます。

たとえば、食客(居候です)を三千人も抱えて、ある時期の中国を動
かした宰相を描いた、
「孟嘗君」(講談社文庫)も知恵にあふれていました。

「人を愛すれば勇気が湧く。人のむこうにあるおのれを愛することを
仁という。人のこちらにあるおのれを愛することは仁とはいわず、そ
こには勇気も生じない」

「おそらく屈原(古代戦国末期の詩人・官僚。自殺してしまう)どの
には、棄ててゆく自己はありますまい。自己に満ちた自己にとって、
理想はかなたにあります。そうではなく、棄ててゆく自己に理想が具
現するというふしぎをおわかりにならなかったので、(屈原には)あ
やうさが見えたのです」

またたとえば、秦の始皇帝の父とされる呂不偉を描いた、
「奇貨居くべし」(中公文庫)も、すぐれた洞察にあふれていました。

「(若き呂不偉は)「問う」ということができるようになった。耳目
に触れるものが否応なく問いを発しているといってもよい。その問
いに答える者は、けっきょく自分しかいない」

「人をみるということは、その人ばかりをみることではありません。
たとえばその人の師、友、親、兄弟などをみてもその人をみたこと
になるように、人はあちこちに鏡をおいて生きているのです」

「困難を避けると、いつまでたっても自分というものがわからない。
そのあいまいさと同居している自分が、的確な判断をくだせるわけ
がない。困難と格闘すれば、その困難に勝とうが負けようが、心身
の力をせいいっぱいふるったことで、目的や対象との距離が明らか
になり、自分の能力の限界を描き出せる。知恵とはそのつぎに生じ
るものだ」

「(力を落とした主人公に師が)すっかり萎れてしまったな。願い
が浅いところにあるからだ。それだけ傷つきやすい。 、、、早くあ
らわれようとする願いはたいしたものではない。秘蔵せざるをえな
い重さをもった願いをこころざしという。なんじには、まだ、ここ
ろざしがない」

「失敗しない人は、おのれのなかのおのれにとどまってしまい、心
象のなかで自足してしまう。それゆえ、他人のために何も産み出さ
ない」

彼のどの小説にも、孔子をはじめ、孟子、孫子、荀子、韓非子など、
だれもが名前だけは聴いたことのある思想家のうちのだれかしらが
出てきて、その思想や生き方の一端を主人公に示していくことがあ
ります。それを読者は現場の目撃者のように見て、その指南をわが
ものにすることができるというわけですね。

なんという贅沢でしょう。古代中国のひとがどのように志を立てて、
どのように道をつくっていったかがわかる気がしてくるのですから。

なぜこのような小説が必要なのか?
昔の貴族や武士階級の子どもたちは、論語や詩経やあれやこれやか
ら教訓を引き出して、自分の力で育っていたに違いありません。
しかしいまは、宮城谷さんのような歴史思想の翻訳家の力を借りな
ければ、なかなか近づくことのできないものが増えてしまったので
す。ありがたいことです。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第353回 2023.06.25

「あのころのポップスの原点、まちがいない」

そうなると、ここはやはり、昭和の偉大な作曲家中村八大さんに触
れておかなければなりません。

まずは長年、八大さんと多くの楽曲を作った、作詞家永六輔さんの
証言を。
「ぼくが詞を書いて渡しても、戻ってきたときはズタズタ。八大さ
んは感性の人で、、、(中略)その詞の中から一番大事な部分をとっ
てつくっちゃうから、今度は譜面に詞をはめ込むのが大変な騒ぎに
なるわけです。(中略)『上を向いて歩こう』にしたって、最初に書
いた詞とは全然違うし、いったん八大さんの曲がつくと、それはも
う八大メロディーであって、ぼくとは縁がない。」
ということだったらしい。ふーん、そうだったんだ。

他の証言によると、
「彼が新曲のレッスンを歌手と行なう時に、その歌手が同じところ
を同じように間違えると、その間違った部分の方に譜面を書き改め
てしまう。(中略)『そう、そのほうが歌手は歌いやすいし、聴く人
の耳に快い。それに覚えやすいに決まっている』と、答えていた」
(評論家 岡野弁。前出「上を向いて歩こう」より)
ね、おもしろくないですか? ということで、

「黄昏のビギンの物語」(佐藤 剛/小学館新書) を。

その六輔/八大コンビによる名曲で、「黄昏のビギン」という歌が
ありました。
「♪雨に濡れてる たそがれの街」とはじまる歌で、もとは日活映
画の挿入歌として、水原弘(第一回レコード大賞「黒い花びら」の)
がその「低温の魅力」で歌ったもののようですが、私にとっては、
というか多くのひとにとっては、ちあきなおみの唄声によって胸の
中がシミジミしてしまった曲だったのではないでしょうか。

「ちあきなおみによって新たな生命力を吹き込まれた『黄昏のビギ
ン』は、本人が表舞台から姿を隠した後になって、染み入るように
して日本中に浸透していった。」
たしかにそうでした。

「上を向いて歩こう」と同様に、歌詞はややさびしいものだけれど、
長調と短調が交互に繰り返される印象的な転調がなぜか優しく感じ
られ、ああ、これが中村八大さんのもっともキモの部分なのだな、
ひとの頭をゆっくり撫ぜるようにメロディーを作ったのだな、とい
うことがよくわかります。

この本は、そんな「黄昏のビギン」がどうやってできあがったのか、
そのころの日本は、そして日本の歌謡曲シーンはどんなだったのか
を、それこそゆっくりと辿ってくれるものでした。
そして驚いたことに、てっきり永六輔作詞と思われていたこの曲は、
じつは中村八大が作詞をしていたことが判明するのです。

永六輔「じつはあの歌、八大さんが作ったんです、作詞も作曲も。
(中略)僕じゃないんです。でも八大さんが『君にしておくね』っ
て言って。」
なんということでしょう!

いま若者に、80年代のシティポップが見直されているらしいけれど、
そのおおもとの昭和ポップスのど真ん中には中村八大がいるんだぜ、
さらに八大さんは曲だけでなくて歌詞も書いちゃってたんだぜ、も
うぜーったい、桑田佳祐の先祖に違いないじゃないか、そう威張り
たくなります。
私が威張ってもしょうがないけど。
ということで、いつかどこかの若者たちに再発掘されるまで、この本
はそっとカフェに飾っておきましょう。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第352回 2023.06.18

「そうそう、あのころといえば・・・」

あのころ・・・。
私が二十歳前後のころ、実家の家具屋の手伝いで、家具を配送しに芸
能人のお宅に伺うことがたびたびありました。
漫才師コロンビアトップ・ライトのライトさん、司会者で「ゲバゲバ
90分」などで名をはせた前田武彦さん、ライオンに噛まれてケガをし
たのが有名な名子役の松島トモ子さん、俳優で日本野鳥の会の会長も
務めた柳生博さん、などなど。
こう並べるといかにも古い、昭和の話になっていること、ご容赦くだ
さい。

そうそう、女性にモテモテだった歌手のディック・ミネさんのお宅は、
両翼にそれぞれ本妻さんと愛人さんを住まわせているというウワサの
コの字型の豪邸でしたな。おお、思い出した、デビューしたての大場
久美子さんの部屋にもタンスを納品しました。可愛かったー!
  
そんななかでとくに印象に残っているのが、歌手坂本九さんのお宅。
モダンで広い玄関に二人の娘さん(?)を連れて家具屋を迎え入れて
くれました。おだやかでやさしい雰囲気のパパという感じでしたね。
でも、こちらとしては、奥さんで女優の柏木由紀子さんに会えなかっ
たのが残念だった、というのが本音ではありました。

「上を向いて歩こう」(佐藤 剛/岩波書店)

その坂本九さんが「上を向いて歩こう」をヒットさせたのが1961年。
それが「スキヤキ」という名前で全米チャートのトップになったのが、
1963年.昭和でいえば30年代の後半ですから、まことに古い古い、
60年前の「あのころ」ですなあ。

さてこの本は、その曲を作って歌った坂本九、中村八大、永六輔にま
つわる話と、それを取り巻く日本のポップス界やプロダクション創設
の話などで構成されるノンフィクションです。

なぜ「上を向いて歩こう」がそんなに受け入れられたのか?
その理由を筆者は、「歌詞の内容が哀歌、エレジーであったからではな
いか」と言います。慰めをもたらす唄、それが、60年安保闘争を経た
民衆に受け入れられた。哀歌であるにもかかわらず、「アカシアの雨に
打たれて」とは違う、転調による前向きさも表わされていたと。

もちろんテレビの普及も、全国的なヒットに貢献した。
歌番組も60年に「ザ・ヒットパード」、61年に「シャボン玉ホリデー」、
そして「夢で逢いましょう」と、つぎつぎに登場していたあのころ。
・・・もう、懐かしいとしか言いようがありません。あのころの子ども
は、バラエティー歌番組がたいすきだったし。

さて、作曲家中村八大さんの偉大さはここでは置いておくとして、坂
本九さんの、あの特徴ある歌い方はどこから来たのか?ということな
んですが、「ウフエヘオオムフフイテ、アハルウコオオオオウ、ナハミ
イダアガハ、コホボオレヘナハイヒヨオオオオニイ、、、」と唄う、あの
歌い方です。
あれはどうやら、エルヴィス・プレスリーの歌唱法から学んだものの
ようです。ロカビリー歌手としてデビューしていた坂本九は、「語尾を
極端にしゃくりあげる『ヒ―カップ』」という唱法で歌唱したのだと。

そうだったんだ。
そのエルヴィスについて、「あんなものは音楽じゃない」と否定する大
人たちにむかって、作家の深沢七郎(「楢山節考」など)が、
「彼は歌っているんじゃなくて、セリフとリズムでモノを言っているん
ですね。啼いている、そこに(聴く人は)共鳴するんです」と言ってい
るらしい。さすがの分析です。

彼自身も、
「ボクも、この『上を向いて歩こう』を唄う時、リズムにのせることを
考えた。その結果があの歌唱法です」といっています。
ヒット当時、彼は19歳。私が家具の配送に行った時、彼は30歳台の中
頃、そして、1985年の日航機墜落事故で亡くなるのが43歳。
若かったね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第351回 2023.06.11

「あのころ、貴重なことを教えてもらった深夜放送」

1970年前後の「あのころ」、ラジオの深夜放送が異常に流行った時
期がありました。いま、深夜放送業界はどうなんでしょうか。
深夜の一時から明け方まで、各放送局の若手のアナウンサーが、自
由奔放に、そして若いリスナ―を巻き込みながら、いまでいうサブ
カルチャーを作りあげて、発信していた。私も多くのことをその放
送から学んだ気がします。

私の場合は、TBSラジオの「パックインミュージック」を聴いて
いて、そのなかでも印象的だったのが、林美雄(よしお)という局
アナのパーソナリティによる番組でした。
じつは、彼とそこで起こったことを回顧したノンフィクションがあ
って、それが、

「1974年のサマークリスマス」(柳澤 健/集英社)  です。

1970年から74年にかけて、林美雄という若手アナウンサーが、自
分の感性に引っかかった映画や音楽を紹介していた。
林のTBSの同期には久米宏や宮内鎭雄、一期下に小島一慶がいて、
NHKには草野仁、文化放送にはみのもんたがいたという世代。、

このころは70年安保が終わって、学生運動はやや下火になってい
た。もちろん、まだまだ学園紛争とか大学封鎖とか連合赤軍とかベ
平連とかあったけれど、世の関心はおもに、経済成長を続けるニッ
ポン経済に向いていました。

そんな時代に、林が放送の中で紹介した若き荒井由実がブレイクし
てメジャーになった、とかいうこともありましたが、基本的には彼
は政治や経済の動きから離れたマイナーなサブカルを掘り起こした
のです。
つまり彼は「サブカルチャーの水先案内人」だったのです。

この本を読みつつ思い出したことですが、私がこの番組で知ってハ
マってしまったものを、いくつか挙げさせてください。うん、興味
なかったら読み飛ばしてくださいね。
東陽一監督の映画「やさしいニッポン人」とその主題歌を歌う緑魔
子。彼女は妖しい魅力の女優さんでしたね。ご主人の石橋蓮司との
舞台(たぶん清水邦夫のホン)を新宿文化で観ましたけれど、とて
もやさしい声の持ち主で小柄な方でした。ご主人にひょいと持ち上
げられたりしていましたね。

藤田敏八監督「八月の濡れた砂」と、その主題歌を歌う石川セリ。
なんともハスキーで魅力的な声でした。林が何回も取り上げて流行
り、その後も根強い人気が続きます。
大島渚監督「日本春歌考」と、そこで吉田日出子が歌った「雨ショ
ポのうた」。私、いまでも全部歌えます。強烈な印象を残した唄でし
た。
こう並べてみると、映画と歌と女優さんが記憶の中で密接に絡まっ
ていますね。

それからATGアートシアターギルドの映画の数々。
そうそう、石橋蓮司が狂言回し役で絶賛された(いや、私に、です
けど)「あらかじめ失われた恋人たち」。これもたしか清水邦夫の脚
本で、監督が「あの」田原総一朗、彼はまだテレビ東京のディレク
ターだったはずです。

登場人物はカメラマンの加納典明とこれがデビュー作の桃井かおり。
この主演公二人はろうあ者の役なので、都合の良いことにセリフが
ありません。ふたりともシロートみたいなものだったから、セリフ
がないのが良かったわけです。それを石橋の冗舌が引っ張っていく
という仕掛けのロードムービーでした。
蛇足ながら若き桃井かおりのヌードが鮮烈に美しかった。うん。

そして林の功績のもうひとつ、タモリの発見。
林パックにタモリが登場したときには、ビックリしました。
有名な四か国語麻雀とか、短波放送で聞き取った北朝鮮国営放送の
モノマネなどの芸を披露したのですが、あまりに面白くて布団の中
で大笑いしていたことを思い出しますね。

さて、自由さを競って新たな文化を創ろうとする深夜放送でしたし、
リスナーも投稿という形で積極的に番組作りに参加し、「ぼくは深夜
を解放する!(桝井論平)」などとと宣言がでるような、勇ましさに
もみちていました。

しかしその時代にももちろん、自分の意に従わない放送をなんとか
したいという、今でいう高市早苗氏みたいな政治家がいて、「こうい
う局には、再免許を与えないことも考えなきゃいけない」(のちの総
理、福田サン)といって、圧力をかけたひとがいたのでした。
でも、深夜放送はめげなかった。

さて、この本の難点も前回同様、自分にとって懐かしいことが多す
ぎて、主役の林美雄氏のことがあまり頭に入ってこなかったことで
した。著者の方、すいませんでした。
やはり私は、個人的な「あのころ」への感傷に引っ張られてしまっ
た。自由さ、個性、連帯感、自分たちの新しい文化への期待、そこ
に一体化して居場所を見つけ出そうとあがく自分ってやつがいた、
「あのころ」に。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第350回 2023.06.04

「あのころは、あのころだ」

どなたにとっても、「あのころ」としか名づけられない時期がある
のではないでしょうか。
その「あのころ」ってどのころ?と問われれば、「だいたい○○年
代ころ」とか説明するわけですけれど、それがたんに時期のことだ
けではなくて、場所とかひとに密接につながっている「あのころ」
というのが、どなたにとってもあるはずです。
でもだいたいは、青春まっただなかのころのことを「あのころ」と
いう方が多いのではないでしょうか。

「あのころ早稲田で」(中野 碧/文春文庫)

著者の中野さんの「あのころ」は、1960年代の中旬、大学生時代。
「60年代の入口は小春日和、出口は嵐」だったそうで、60年の安
保闘争から70年までの政治の季節と、「アメリカに追いつけ、追い
越せ的な前向きの明るさがあった」という時代だったといいます。
きっと戦後のベビーブーマー/団塊の世代の方々は、そのころのこ
とを、実感をもって「ああ、あのころね」ということができるので
しょうね。

あのころのそのころ、早稲田大学生は多士済々だったらしい。
吉永小百合、タモリ、久米宏、田中真紀子などが在籍中。
そのころ、早稲田界隈は騒がしかった。
全学連から全共闘まで、いろいろなセクトと左翼グループが生ま
れたり消えてりしていた。そこで著者も、「ちゃんとした左翼にな
ろう」と努力したのでした。

でも、「私は、なぜか生硬になりがちなのだった。無理をして理論
武装していた。イマにして思えば、自分に似合わない服(イデオ
ロギー)を着ていたせいだろう」、と述彼女は懐しています。
ああ、なんとなくわかります。

この本では、大学生活のなかで生まれた数々の交友と、そこで出会
ったコトが回顧されていきます。そのいずれも、彼女よりひと回り
下の世代の私にとっても、「あのころ」と呼べるくらい懐かしく感
じられ、「なんとなくわかる」のでした。

たとえば、演劇と映画と音楽や漫画。
60年代後半からアングラ演劇が盛んになり、唐十郎の「状況劇場」、
寺山修司の「天井桟敷」、佐藤信の「黒色テント」、そして鈴木忠志
の「早稲田小劇場」が登場します。やっぱり。

映画では、大島渚監督の「日本春歌考」や「新宿泥棒日記」。山田
洋次監督「男はつらいよ」シリーズがはじまり、その後、だれもが
オールナイト三本立てで観て笑いながら寝た。新宿文化ではATG
(アートシアターギルド)が配給したゴダール(残念ながら2022
年に亡くなられました)の「気狂いピエロ」や「中国女」、そして
日本の若手監督作品が上映中だった。

あのころの早稲田には多くのジャズ喫茶と雀荘があって、ノンポリ
も含めたいろいろなセクトのたまり場だった。もちろん私も出没し
ました。
名曲喫では「らんぶる」と、そして「あらえびす」。
銭形平次を生んだ作家で、一万枚のSPレコードを集めたという
音楽評論家の野村胡堂が「あらえびす」と号したことからつけられ
た店名。中野さんの同時代の平岡正明さんの証言によれば、イタリ
アの画家モジリアニ描く首の長い女性そっくりな美人で「モジ」と
よばれるウェイトレスさんがいたらしい(昭和ジャズ喫茶伝説/平
凡社)。

雑誌「ガロ」とつげ義春があった。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」や深沢七郎「楢山節考」などは、話
題にもなり物議をかもしたものでしたな。

いやいや、こうして著者と共有できる事物を羅列しているときりが
ありません。しかし、世代を多少前後する読者でも、どうしても
「あのころ」のモノやコトへの郷愁から離れられなくなって時間を
忘れさせるのが、この本の欠点といえば欠点ですね。私も、本の内
容をご紹介しているうちに、自分が「あのころ」に連れ出されてし
まう。
まるでプルーストにとっての「マドレーヌ菓子」のように。

そして、ときどき現れる著者のスルドイ批評、たとえば、「『男はつ
らいよ」における柴又の街は、天皇制のミニチュアではないか。御
前様という『聖なるもの』がいて父性を代表し、それを中心に俗人
たちの世界がある」、なんていう解釈を、おもわず読み飛ばしてしま
うのでした。
気をつけねば。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第349回 2023.05.28

「懐かしさと発見」

楽しい本を読みました。
すでに亡くなっている、詩人で劇作家の寺山修司がいまでも生きてい
て、85歳になってなおアイドルをプロデュースするとしたら、どん
なことになるのか。
それをアイドル・オタク評論家の筆者が楽しく想像して書いたという、
ちょっとお気楽だけど考えさせられる小説が、これ。

「TRY48」(中森明夫/新潮社)

まずは、この本には、私らの世代(1950年代生まれ)には懐かしす
ぎて涙が出てしまう挿話があふれていることをご報告いたしておきま
しょう。
1960年代から80年代にかけて、寺山は若者たちのカリスマ的存在と
して大きな影響力を持っていた。特異な視点の短歌もそうですし、天
井桟敷という演劇集団もそう、「書を捨てよ、街へ出よう」や、本第
245回でご紹介した「幸福論」といったプロパガンダ的な書物もそう、
ボクシングや競馬に対する偏愛と人生論もそうでした。

私も彼の映画をみたり、渋谷並木橋近くの天井桟敷のヘンな劇場を覗
いたりして、なんだかビクビクしながらも目が離せなかったことは確
かです。
1970年前後は学生運動が盛んで、サブカルチャーもどんどん生まれ、
なかでも演劇は、アングラ(アンダーグラウンド)と呼ばれる多くの
小劇団が生まれて、そこでは特異なオーガナイザーと俳優がしのぎを
削っていました。

寺山の天井桟敷、唐十郎の状況劇場の赤テント、早稲田小劇場に暗黒
舞踏系などなど、多士済々。
この本の一場面にも、天井桟敷劇場における、唐十郎率いる状況劇場
座員との大喧嘩が筆者の視点で取り込まれていて、これまた、伝説を
味わいなおすような嬉しさがあります。

ここでいったん、私の個人的回想ですが・・・
寺山の映画「書を捨てよ、街へ出よう」の、ロック調のテーマ曲は
印象的だった。主人公の津軽弁はいまでも耳に残っているなあ。
そうそう、そういえば、花園神社や前代の渋谷パルコが立つ前の駐車
場に設置された状況劇場の赤テントにも行った。
名女優李礼仙や怪優大久保鷹、のちに世界的な人形作家になる女形の
四谷シモン、二枚目で売りだしの根津甚八。テントの中の通路側地ベ
タに座っていた時に、俳優大森南朋のおとッつぁんの麿赤児に天秤棒
でこづかれたなあ・・・。

ん?そういえば寺山の天井桟敷の舞台は思い出がない。あまり目立っ
た俳優は出てなかったなあ。彼はそのころもわざと素人を使って、そ
れによって「なにかが起こることを楽しむ」ようなところがあったの
かもね。

・・・あ、こんな思い出話をしているとキリがないので、話を戻して。
この本では生きて85歳になる寺山が、素人を募集してアイドルに仕
立てようとするのです(タイトルの「TRY」は、寺山の略。もちろ
ん、アイドルグループ「AKB」のパロディですね)。
彼の感性や方法によって、どのようなアイドルができるのか、彼はい
まだったらなにを仕掛けようとするか、秋元康となにが違うのか、人
びとはそれをどう受けとめるだろうか、そのあたりが見どころになり
ます。

作者は、まるでタモリが寺山のモノマネをするすがごとく、、、あ、こ
れ、見てない人にはわかりづらいかもしれませんが、タモリはたんな
るモノマネではなく、寺山がいかにも言いそうなことを口をとんがら
せながら青森弁でしゃべるという、「思想モノマネ」という境地を開
いたのですが、まるでそれをするかのように、寺山の思想と感性を現
代のアイドル界、いや芸能界に蘇らせようとするのでした。

もちろん、ここでの寺山のもくろみは簡単にうまくはいきません。
時代が違いすぎるし、坂道系の量産体制のような、インチキ極まりな
い資本主義的な方法と、昔の由緒正しい(?)アングラやハプニング
系の考えとは正反対なのですから。
そのあたりは、登場人物のひとり、高校生のサブコちゃんが、方法論
的に当時と変わることのない85歳時点の寺山を徹底的に論破します
ので、それもおもしろく読めます。

小説の筋書きにはぜんぜん触れられませんでしたが、本来の主人公で
ある、アイドル志望の百合子ちゃんははたして寺山のもとでアイドル
になれるのでしょうか? どうだったんでしょうかね?
どうだったんでしょうかね?とはなんだ、あんた読んだのだったらち
ゃんと教えろよ、っておっしゃるかもしれませんが、どうなんでしょ
うね。

寺山が本の中盤あたりで言う(つまり作者が寺山に言わせる)、こんな
ことばが象徴的かもしれません。
「ももいろクローバーZは、不在の早見あかりによって照らし出され
いる。」
とすれば、もしかすると、百合子ちゃんは早見あかりに擬せられてい
るのかもしれない。そして、本の末尾の作者の一句。
「実際に起こらなかったことも、、、歴史のうちである!!」

こうやって韜晦して、ぼやかして姿をくらますところは、寺山らしい
ではありませんか。いや、作者の中森さんらしいというべきでしたか

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第348回 2023.05.21

「気づくチカラと知恵と勇気」

ということで、舌を噛みつつも「セレンディピティ」の語源に戻っ
てみます。
このことばは、18世紀イギリスの作家ホーレス・ウォルポールとい
うひとが友人への手紙で、
「島国セイロンはアラビア語でセレンディップと呼ばれている。そ
こに伝わる民話で、三人の王子がインドへ旅をしている途中でいろ
いろな事件に遭い、人間として生きるために必要な知識を、目の前
にある問題や物事に真剣に取り組む勇気によって、思いがけなくも
探し求めていた魔法が自分たちの中にあるということを発見する物
語」、として紹介したことが元になっています。そして、「これから、
偶然による大発見をセレンディピティと呼ぶことにしよう」とした
のでした。

だからけっこう昔からあることばなのですね。
それを200年も経ってからいろんなひとが、生き方上手になるため
のヒントとして「発掘」してきたわけです。
なので、「発掘人」によっては、少しずつことばのニュアンスが異な
ってくるのは致し方ありません。

たとえばそんな発掘人のひとりである、聖路加国際病院理事長の日
野原重明先生は、
「セレンディピティは運を呼び込む能力でもあります。この能力を
身につけることで、ベルトコンベアーのように日々私たちの目の前
を流れている『ひらめきの種=運』を、ここぞというときにつかま
えることができるようになります」(「幸福な偶然をつかまえる/光
文社」)と、うれしくなるような福音を述べられていましたね。

そのほかにも、
「セレンディピティは、多様な心づもりから生まれる」(スコット・
ペイジ)
「備えがあれば、ランダムな世界からしかるべきものを選択し、新し
い情報とすることができる」(ベイトソン)などがありました。

また、「セレンディピティ能力」を高めるための方策として、
「自分の脳をオープンにしておいて、いつでも生きるうえで必要な
なにかが入ってくるようにスペースをあけておくこと」(茂木健一郎)
といわれたり、
「発見が起きるときの状況を定性的に整理すると、①偶然その現象に
出くわす ②いままでの常識からはずれたその兆候に興味を示す ③
いままでの常識を疑い、そこに新たな仮説を立てる ④その兆候を
徹底的に分析し、新たな仮説を裏付ける」(京大・片井研究室)
などといわれるようです。
おもしろいですね、そうでもないですか?
では、ことばの元になった王子たちの物語とはどういうものか。

「セレンディップの三人の王子」(エリザベス・J・ホッジズ/バベル・プレス)

むかしむかし、セレンディップの王様は、王子たちの教育の仕上げ
として、三人を旅に出し危険な怪物を退治する薬を手に入れるよう
命じる。
王子たちはいろいろな試練を乗り越えて使命を果たすのだが、その
とき、偶然を活かし持ち前の察知力によって、途中で出会った人た
ちの問題や悩みを解決していく。

たとえば、行方知らずになったラクダを探している人には、
「あなたのラクダは片方の目が見えず、歯もなくしているのではな
いですか?」云い、「そのとおりだ!」と驚かれる。彼はなぜそん
なことがわかったのか。
「道の左側の草だけがかじられて」いたことと、道にそって一部だ
け噛まれた草の跡が散り散りに残っていた」ことで、そう推理した
のでした。

このように、なんでもないときのなんでもない観察からの洞察と推
理によって、三人の王子はインドの皇帝や他国の女王様の抱えてい
る問題を次々に解決して、幸運をも呼び込んで、与えられた使命を
達成することになります。
めでたしめでたし。

・・・・ただ、こうやって原作を読んでみると、「偶然を活かす」
とか「失敗から新たな発見をする」というこれまでの話よりも、
「ふだんからよーく観察しておくと、それが思わぬところで活きて
くるよ」「油断せずに生きているといいことあるよ」「目の前を流れ
ている『ひらめきの種=運を、ここぞというときにつかまえること
ができるよ」という教訓臭が強い気がしますけどね。

ただ、このへんがのちに、セレンディピティを吸収したコナン・ド
イルによって、名探偵シャーロック・ホームズの観察と察知と推理
の物語として花開いたのは間違いありません。これ、ほんとの話。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第347回 2023.05.14

「偶然に起こったことを活かす」

シンクロニティをうまく利用することも大事なようですが、身のま
わりのできごとを「良い流れ」として次に続けていくチカラを蓄え
るには、「セレンテセィピィティ」という能力を高めるのがいちばん
らしいのです。
セレンディピィティという、この、舌を噛みそうな横文字(「アイデ
ンティティ」や「シンクロシティ」以上にやっかい)はどういう意
味かといいますと、

「偶然からモノを見つけ出す能力」(澤泉重一/角川oneテーマ21)

ということなのでした。
「偶然からモノを見つけ出す能力」、あるいは、「あてにしていない
ものを偶然にうまく発見する能力」、あるいは「掘り出し物を見つけ
る能力」のことです。
だれにでもある経験としては、探し物がなかなか見つからないのに、
なにか別のことをしているときになぜか見つかる、なんていうこと
がありますよね。それはたんなる偶然かもしれません。
ここで「能力」といわれるには、それなりの理由があるようです。

科学者の方々でも、なにかを証明しようと実験をしていてもよい成
果がでず、あー失敗か、とあきらめてふと見ると、別の発見に結び
つく結果だった。なんていうことを聞きます。シャーレの中に青カ
ビが混入したことからペニシリンを発見をしたフレミングのような
ことです。

ノーベル賞をとった方々の経験談にも、よくそんなお話があるよう
です。これらがセレンディピィティ(あ、舌噛んだ)というもので
した。
なにかを懸命におこなっているとき、別の「あてにしていない、よ
り大切なもの」を発見したりに気づくこと。

えーっ、そんなの能力のうちにはいるのかなあ? ほんとにただの
偶然の産物なだけじゃん、と思われるでしょうが、さにあらず。
筆者は「セレンディピィティは、偶然と察知力のふたつを要素とし
ている」、といいます。
どういうことか。

さっきの科学者の話も、たんにボケーッと実験していたわけではな
く、数々の仮説を立てながら、そして感性も研ぎ澄ましながら実験
をしていた。そこに、仮説からの逸脱という「失敗」が起きたのだ
けれど、じつはその失敗の原因に、新たな発見の大きなヒントが隠
されていた。それを察知して、なぜだっ?と確かめていったことで、
「偶然」の失敗を別の成功に結び付けることができたのでした。

だって、重力を「発見」したニュートンだって、「重力」を探して
いたわけではなく、樹からリンゴが落ちたのを偶然見て、いままで
頭の中で考えていたことと実際に見たことが結びついたのでしょう?

これを19世紀の生化学者で細菌学者のルイ・パスツールは、「チャ
ンスは心がまえする人を好む」と表現し、また心理学者のカール・
ロジャースは、「上手に物を掘り当てるということは、幸運を作り
出す才能であり、偶然に導かれて予期せぬ発見をした」のだ、と言
うのです。
つまり、偶然を活かすも殺すも、失敗とするか発見を導き出すかも、
気づく力、察知する力、確かめる力というそのひとの能力なのだよ、
ということになるのでしょう。

この本には、そうしたセレンディピティの、科学技術における発見
や、ビジネスにおけるパラダイムシフトの例をあげながら、じゃあ、
偶然を活かすための「察知力」を高めるにはどうしたらいいか、そ
して、気づきから発見や創造までの道のりはどうなるのか、を解説
しています。

というわけでこの本は、分野を問わずに「なにかを創り出そうとし
ている人たち」に向けたものですけれども、しかし、私のようにと
くになにかを創り出そうとしていないものにとっても、ふだんの生
活のなかで偶然から思わぬ楽しみを見つける、という楽しみ方をす
る手立てになりそうです。

私はまず、なにかしら偶然のできごとや失敗があったら、それを面
白がるということから始めてみましょうかね。
そのうえで、カール・ロジャースさんのように、
「自分の中にひとつの準備段階があったのだろう。自分でも気づか
ずに持っていたものが、正しいボタンを押したときに出現してきた」
みたいなことが言えたら、そりゃあもう、私もついにセレンディビ
ィティッちゃったね(う、舌噛んだ)、ということになるというもの
でしょう?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第346回 2023.05.07

「偶然が重なるをシンクロニシィとは」

あなたのまわりにはおられませんかねえ?
やたらと偶然のできごとに敏感で偶然が好きな方。
「たまたま寄ったお店にたまたま欲しかった洋服があってさそれを
買ったらたまたま同じブランドを着ているモデルさんが歩いてきて
さそーなのよあらまあって偶然なのよそれだけじゃないのよ家に帰
ったら姉が同じブランドのネックレスを持っていることがわかって
ふたりでビーックリ!」みたいなことをいつも言う方。
そういうひとはシンクロニンゲンなのでした。

「シンクロニシティ」(F・D・ピート/朝日出版社)

シンクロニシティとは「共時性」と訳され、「モナカ」の件のよう
に、だれでもが経験する「偶然の一致」のことです。
「ろうそくをつけてもいないのに、なぜか燃え尽きたろうそくの香
りがしてたら、電話で父親が手術することになったと知らされ、し
ばらくして父親が亡くなると、彼に贈った絵が壁から落ちた」、み
たいなことがある。こういう経験はだれでもします。私もしました。

こういうことは、「因果的には無関係(つまり原因と結果がつながっ
ていない)でありながら、おなじ、あるいは似かよった意味をもっ
ている、ふたつ、あるいはそれ以上のできごとの、時間的な一致」
として定義づけられる事態です。

歴史上でも、17世紀にニュートンとライプニッツが同時に微積分を
発見した、みたいなことも随所に見られます。
これも共時性、同時性というものなのでした。
こういう事態を筆者は、「歴史を因果関係のネットワークとしてみ
るよりも、歴史とはものごとがいかにして同時に起こるかにかかわ
るものだと考えたほうが良いのだ」、と言います。

この本では、心理学者ユングや、中国の周の時代の占い、老子の教
えや易経、量子力学、物理学者デヴット・ボームの考えなどなど、
じつに多彩な面からシンクロニシティ、ま、シンクロでいいか、シ
ンクロの秘密、というか、人間がシンクロをどう理解してどう取り
入れてきたかを探っていくのでした。

いや、プールの中で懸命に動きをを合わせて演舞をおこなうアレで
はないですよ。それに、アレはすでに、「アーティスティック・ス
イミング」と名前を変えていますからね。

たとえばユングは、人間には集合的無意識というものがあって、そ
れがシンクロを引き起こすのだといい、古代中国では、因果律に頼
らない世界のあり方と自分たちの行動を亀卜によって決めた。
量子物理学やひとの免疫システムを研究していくと、論理的に、こ
れが原因でこれが結果だとは言えないこと、なぜかわからないけど
「ものごとが協同的・同時的に起こる起こり方」があることが不思
議ではない。

こういう例をみていくと、シンクロとはじつに世界の「解釈」であ
ったり、人間のエネルギーの発散結果だったりすると考えられるの
だ。つまり、シンクロは偶然現われたのではなく、受け取る側によ
って、自分に必要ななにかしらの秩序を保つためにそう解釈された
面が強い。

フムフム。
そう言われると、なんとなくわかるような気がしますね。
「意味ある共時性」と言われる場合、その「意味」とはなにかが問
題になります。
いくつかのことが同時に自分のまわりで起きた、それが私には意味
あることに思える。そのときの「意味」とは、これらは自分に大き
く関わる「自分ごと」と思え、自分の内部の感情や思考が外部の出
来事に確実につながった気がする。「意味あること」とは、そういう
状態を指しているもののではないか。

そんな時ひとは、なにがしかの意志がここに顕われたな、これは偶
然だけど偶然ではないゾ、このブランドの洋服が私を呼んだのだ、
これはたまたまではあるが必然であったのだ、つまりここには因果
律を越えたものがあるに違いない。おお、私は生きている、いや、
生かされていることを強く実感できる!
そう思うのではないでしょうか?

いや待て、話を戻すようだが、この世界は本来、ああすればこうな
るという因果律や物理法則によって支配されているはずじゃないか、
違う? 風が吹けば桶屋が儲かる。植物の種をまけば芽が出る、で
しょ? 
それなのに、シンクロ現象を無理やり自分に意味あることにして、
まるで超常現象や都市伝説みたいに信奉していいはずがないじゃな
いか。論理的じゃないじゃないか。そうおっしやる方もいることで
しょう。

そうかもしれません。
でもしかし、その因果律に捕らわれていると、「ああすれば絶対こう
なる」とか、「あれのせいでこうなった」という意識から抜け出すこ
とができないのは明白です。それがひとから「生きている感」を奪い、
創造性を損なっているのかもしれません。

「(シンクロという)意味ある同時生起が起こるなか」で、ひとは深
い同一性(出たっ、アイデンティティ)の感覚をもつことができ、
創造性を発揮する端緒ともなるのだ。
これが筆者の最終的に言いたいことだと思います。シンクロを甘く
見るなよ、むしろ楽しんでうまく利用しろよ、と。
ということですから、シンクロニンゲンおそるべし。彼らは生きる
達人かもしれない。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第345回 2023.04.30

「偶然と必然」

ヒマなのでカウンターのなかでウトウトしていると、お客さんが来
てびっくりする。
自分たち用にコーヒーを淹れておやつを食べていると、お客さんが
来てアセる。
居合わせたお客さん同士が知り合いだった。近所ではなく、遠方か
らはじめてご来店された方同士なのに。
あの方が来ると、そのあと立て続けにお客さんが来るという「呼ぶ
方」がいる。
本棚にある本の編集者がお客さんだった。「これ、わたくしが編集
しました」といわれる。

などなど、カフェではこのような偶然はよくある話です。
あるとき、40代女性で、はじめてのご来店のお客様。
「お抹茶を」というご注文に、お菓子としてたまたまあったモナカ
をお出ししたら、突然泣き出されてしまった。ど、ど、どうしたん
だ、私がなにか気に障ることをしてしまったのだろうか。

よくよくお話をうかがうと、じつはこの方の父上がこの近くの病院
に入院されていて、がんで危険な状態だった。その看病の合間に、
すこしだけ休憩と思って当カフェにお茶を飲みに来られたのでした
が、「父がさっき細い声で、モナカを食べたいなあと言っていたの
で」、お茶のお菓子として私がモナカを出したので、その偶然に感
極まられたというのでした。

「偶然のチカラ」(植島啓司/集英社新書)

カフェでのこうした偶然は、まあ、そんなこともあるよね、くらい
の話かもしれませんが、軽くは済ませないレベルの偶然もあります。
たまさか乗った電車で事故にあったとか、旅先でたまたま出会った
ひとが100年にひとりの天才詐欺師だったとか、一万円拾ったらそ
こに自分の名前が書いてあったとか、、、おおっ。
ま、いずれにしろ、それによって運命が変わってしまったと思うよ
うな出来事も、たしかにあります。

この本にはいろいろな種類の偶然と必然が載っていましたが、筆者
の言いたいことははっきりしていて、
○ 自分の身に起こったことはすべて必然だったと考えるべき
○ 世の中には自分の力ではどうにもならないことがある、だから
○ それがもしいい流れであったら黙って従うべきで
○ すべてはなるようになるのだ

なんだ、そんなことか、それなら私だってわかっている、赤塚不二
雄の漫画で学んだ「それでいいのだ!」主義と同じだ、などと言わ
ないで、もう少し聞いてください。
筆者曰く、もしあなたが無人島で暮らしていたら、偶然は起こらな
いだろう。というのも、無人島では「どうして自分だけがこんな目
にあうのか」とか、「あれにするかこれにするかの選択を迫られる」
などが不要だからだ。そうですよね。

「偶然とは(中略)もしかするときわめて人間的な出来事かもしれ
ない」「超越的なものが気まぐれに人間世界に介入してくるのでは
ない」「自分の身に何かが起こったとしたら、それはそれなりの理
由があるに違いない」、、、そう考えた方が、楽になる。

たしかに、とくに未来が見えないときや、不幸が重なったようなと
き、ひとは神様とか信仰とか○○教会の壺とか、超越的ななにかに
頼りたくなってしまう弱い生き物です。
筆者曰く、でも世の中は思うようにいくことのほうが少ないと考え
るべきなのだ。「われわれの世界では、起こることは起こるし、起
こらないことは決して起こらない」。つまりそれが、セラヴィ。

モナカの偶然も、微笑ましいエピソードにすぎません。
ようは、そのお菓子によって、お客様が抹茶をおいしく召し上がっ
ていただけたか、あるいはしょっぱく感じられたかどうかだけなの
です。他人からはわからないなにかを抱えておられたとしても、そ
の方がお茶をおいしく召し上がっていただけたのなら、それこそが
「良い流れ」として次に続いていくのでしょう。セラヴィ。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第344回 2023.04.23

「スペース・オペラ系の源流」

科学技術の進展が人類の幸せな未来を約束するのかと思っていた
ら大間違いだった。いま、そう思います。

某国のミサイルのせいで「敵基地専制攻撃」なる恐ろしい考えが
出てくるし、某国が隣国に攻め入ったせいでエネルギー不足が起
って「原発反対」が言いにくくなったり、AIはなにしでかすか
わからんし、ネットワーク利用してすい取られた個人データの悪
用も怖い。
そんなこんなで、「科学技術進展信仰」という「大きな物語」は
カウンターパンチを受け、私たちの閉塞感はますばかりでダウン
寸前です。

こんなとき私たちに必要なのが、正義と悪がハッキリ分かれて戦
い、ヒーローとヒロインが活躍して正義が勝つという、なにも考
えずに読めてスカッとする冒険や活劇のお話でありましょう。
なにせわかりやすいですもの。

SFのジャンルに、スペース・オペラ系というものがあります。
広く銀河系宇宙を舞台にした冒険活劇の総称で、もちろん、映画
「スター・ウォーズ」もそうでした。グワーッ、ドンパチ、ドッ
カーン、バリバリ! みなさん、こういうの、お好きでしょ? 
もちろん私も好きです。
ではそんな中でもこれはどうです、お客さん!

「銀河帝国の興亡」(アイザック・アシモフ/創元推理文庫)

アシモフは、ご存じのとおり「ロボット三原則」を作ったりした
SF界の重鎮。
文庫本三巻になるこの長編「銀河帝国の興亡」は、いまから70年
以上前の1951年から53年にかけて刊行された作品となっており
ます。

ただ、スペース・オペラという言葉がまだなかった時代、アシモ
フ自身は、この銀河帝国シリーズを「未来史ロマン」と呼んでい
るようですね。昔は「小説」のことを「ロマン」といったのです
からね、恋愛の「ロマンス」ではありませんよ。でも今となって
も、この「未来史ロマン」の響き、いいですよね。

時代は遠い未来、人類が銀河系に広く移住し(「銀河系には人間の
居住する惑星が2500万ある」)、恒星間の移動や貿易が盛んにな
り、帝国とよばれる統治機構によって皇帝が統治しているが、そ
の力が薄れてきたという、やはり映画「スター・ウォーズ」の元
ネタと思わせるような設定です。(悪の帝国の統領「シス」を思わ
せる人格も出てくるし)

ここに、ある「心理歴史学者」が登場する。
この心理歴史学というのが、私のような読者にはうまく説明でき
ない学問なのですが、歴史研究をつうじて確率の高い未来予測を
する学問、といっておきます。
彼は、このままでは帝国は滅び、人類は退化してそのまま一万年
のあいだは混乱が続くといって、それを避けるためのある計画を
実行に移す。人類が「変化」ではなく「退化」してしまうのを避
けて、未来の歴史を変える方策があるというわけです。

「銀河帝国が周辺から滅亡しはじめ、銀河系がその果てで再び野
蛮化して離反していったとき、ハリ・セルダンとその心理歴史学
者の一団が、ここに植民地、すなわち<ファウンデーション>を
建てたのだ。その目的は、われわれが芸術、科学、技術を孵化さ
せ、<第二帝国>の中核となることにあった」。

うひゃー、どうなるんだろう、ドキドキ、ワクワク。
ここに宇宙征服をもくろむものがあり、英雄的なリーダーあり、
スパイ合戦あり、ミュータント(突然変異体)ありと、活劇とし
てのいろいろな要素が盛り込まれていくのですから、こたえられ
ません。
これぞスペース・オペラの原点でありますし、後続する多くのSF
の発想の源でもある古典的名作でありますので、ぜひご一読を賜
りたい。

ところで私思うに、SF作家という種族は、基本的に束縛を嫌い、
自由を信奉する傾向が強いのではないでしょうか。
たとえば、権力や圧政を憎んだり、政府とか統治機構などないほ
うがいいなどと思う自由主義者、というかもっといえばアナキス
ト気質に富んだひとが多いのではないでしょうか。

なぜそう感じるのか?
科学技術が発達して人類が広い宇宙を自由に飛び回るようになれ
ばなるほど、登場人物のなかに、人間の精神的な自由は無限に広
がるのだという信念を持っているひとが多くなるように、私には
思われるのです。
彼らの「自由」への希求が、銀河世界をいっそう広く飛び回る精
神を生み、そこを舞台とするSFを、文芸作品としてよりいっそ
う奥行きのあるものにしているのではないだろうかと。

人間の能力、技術や道具、行動範囲、寿命、、、、これらが広がって
無限に近くなっていったら、そのとき人類はどんな自由を享受す
るのだろうか? どんな可能性があるのだろうか? そのとき人
類はなにに価値観を置き、どんな意識で生活するのだろう? 
それを考えるのは、楽しくてしょうがない。

私にはSF作家のそんな前向きな意識が強く感じられるのです。
そういうことを、作者とともに考えて、私たちのいまの閉塞感を
打ち破ることも、SFを読む意義のうちだと思います。
って、やっぱりその「自由の希求」も「スター・ウォーズ」のテ
ーマのひとつだったような気がしますが。


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第343回 2023.04.16

「ビルドゥングス・ロマン系SFの古典名作」

「ビルドゥングス・ロマン」とはなにか?
それは、若い主人公がさまざまな体験をして成長していくという、
教養小説という分野の一種です。
古くはゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」やヘルマ
ン・ヘツセ「車輪の下」、あるいはトーマス・マン「魔の山」など
がそれにあたるのですが(なんでドイツばっかりなんだ?)、これ
らを中学生のときに夏休みの課題図書として読んでしまうと、はっ
きりいってあんまりおもしろくない。
いや失礼! 私がおもしろくなかっただけです。もちろんおとなに
なってから読むと、多くの発見がありましたので、あしからず。

ところが未来とか宇宙とかを舞台にしたSFでは、おなじような若
者の成長をあつかっても、たとえば「ガンダム」のアムロや「宇宙
戦艦ヤマト」の古代進もそうでしょうけど、その成長とか仲間との
友情とかが読む側に身近に感じられて説教くさい感じがなく、小中
学生でも楽しく読めるようです。

そりゃマンガやアニメだからあたりまえだよ、というのは置いてお
くとして、19世紀的な、ドイツ的な、ひとの「修行」とか「学習」
「試練」とかいう辛気臭いものよりも、未来世界でのワクワクする
環境におけるひとの成長のほうが、感情移入しやすいのでしょうか。
あるいは、戦闘シーンなどもあまり深刻にならずにゲーム感覚で楽
しめるからということがあるでしょうか。

ではたとえば、銀河を舞台にしたこんなSFは、いかがでしょう?

「銀河パトロール隊」(E・E・スミス/創元推理文庫)

これは1930年代後半の作品なので、いまからなんと90年近くも
前の作品です。スゴイ! なんと第二次大戦前ですよ! 
その時代、ヘルマン・ヘッセは活躍中だし、戦後のSF作家アシモ
フやハインラインよりずっと前、時代的にはむしろ「宇宙戦争」の
H・G・ウェルズや、「月世界旅行」のジュール・ヴェルヌの時代
のほうがずっと近いのです!
そんな時代に、いまでも立派に通用する科学技術を盛り込んだス
ペース・オペラを書きあげるなんて、なんて作者だっ!!

この「銀河パトロール隊」は、「レンズマン」シリーズとしてこの
あと何冊も巻が進む長大絵巻の、記念すべき第一巻となります。
いわば未来を舞台にした「大河小説」ですね。いや「大銀河小説」
です。

人類は銀河系全体に進出していて、多くの惑星に住み、多くの異星
人とも友好に通商をするようになっている。そこに「ボスコーン」
とよばれる「宇宙海賊」が現れて、とんでもなく優れた技術による
宇宙船や攻撃兵器を駆使して貿易船や惑星を略奪し、宇宙の秩序を
乱している。

そこに登場するのが主人公キニボール・キニソン。
彼が銀河文明を守るパトロール隊として「宇宙海賊」と戦うのだ。
と、こういう筋書きですから、もちろん宇宙を舞台にした活劇なの
で、「スター・ウォーズ」的な戦闘シーンやロマンス、いろいろな
異星人との交流など、映画的な楽しさにあふれております。

あ、大事なことを忘れてた。
「レンズマン」とはなにか?ということがありました。
たいへんな訓練を経て選ばれた少数の軍事エリートは、腕に特殊な
「レンズ」を装着されることになります。
このレンズによって、人間はもちろん、ことばの通じない異星人と
も、意識を読むことによってコミュニケーションがとれるようにな
るなどの性能をもつ代物で、いってみれば究極のAI搭載型「アイ
・ウォッチ」みたいなもの。

これはエリートにしか与えられないし、うまく使えば使うほど能力
を高めていくこのレンズを使いこなせるのは、潜在能力を認められ
て厳しい訓練に耐えた一部のひとだけなのでした。
そういう彼らのことを、ひとは畏敬をこめて「レンズマン」と呼ぶ
のです。よろしいか。

私はこのシリーズに「ビルドゥングス・ロマン」の典型的な特徴を
見た気がしたのでした。
主人公は、強大な敵との闘いという苦難をつうじて自己を形成し、
能力に磨きをかけ、仲間をつくり、レンズとともに(「フォースと
ともに!」みたいに)敵に立ち向かっていく。

ああやはりここにも「スター・ウォーズ」の原型があるのか、など
というという感想はともかくとして、彼らレンズマンはたんなる優
秀な兵士とか戦闘マシーンではないのです。未来の人間的な成長を
象徴する存在なのです。

そして「グレー・レンズマン」「第二段階レンズマン」「レンズの子
ら」と巻が進むにつれて、主人公はいっそう能力を伸ばし、その仲
間や子どもたちも、第二、第三段階のレンズマンに成長して、心身
ともに成長していく。
こうして、彼ら銀河パトロール隊の活躍によって、銀河は守られ、
ふたたび繁栄と平和を迎えるのであった・・・・。

読者はこの物語に立ち会って、なんだか自分も広大な宇宙を、とん
でもないスピードで駆け回りつつ、自分自身も技術的な能力だけで
なく、人間的な大きさを身につけてしまったみたいな気にさせられ
るわけですが、、、、あれっ、これもなんか、「スター・ウォーズ」の
主人公ルーク・スカイウォーカーの成長のお話につながるなあ。
しかし、このことをもってしても、90年前のレンズマン・シリーズ
が、先駆的に優れたビルドゥングス・ロマン系SFだということが
わかりますね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第342回 2023.04.09

「ゲーム系?いや、人類の変化系?むしろ、宇宙史系?」 

異文明との接触をテーマにしたSFでは、21世紀初頭現在の世界の
現状と問題点とその解決法を、ある仮定の状況に託してみたらどう
なるかを検証したい、という制作動機があるに違いないと思います。

人間による環境破壊、遺伝子組み換え、エネルギー問題、原子力利
用、人種差別や飢餓や各種の分断など、あるいはあらゆる戦争や紛
争の原因となることを、異文明との接触という仮定の状況を設定す
るなかで、われわれは見直すことができるのではないか。
逆に言えば、現在の数々の矛盾や問題は、異文明との接触によって
人類自身が変わることによってでしか解決できないのではないか。
そんな意識によるものです。

たとえば、「地球幼年期の終わり」のようなアプローチもあるでしょう
し、いま考えられている科学技術の進歩や、人類の進化の予想を覆
すトンデモナイ出来事が解決の糸口を示すかもしれない。
そんな妄想が、文学として結実することもあるでしょう。

「三体 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」(劉 慈欣/早川書房)

世界的に有名になったこのベストセラーSFも、異文明との接触が
ひとつのテーマでした。
というか、異文明との接触によって人類のなにがどう変わるかを、
ながーい時間のスパンをとってシミュレーションすることに、ひと
つの目的があるようなのです。

中国の研究所から発信されたメッセージが、4光年離れたアルファ・
ケンタウリの惑星文明に届く。その星系は三つの恒星、つまり太陽
が三つある三重星系なので「三体世界」と呼ばれることになる。
太陽が三つあるということは、その不安定な動きによって惑星の気
候が激しく変化し、三体文明は正常な気候の「恒紀」と異常な「乱
紀」が不定期に入れ代わる世界なのだ。

乱期になると激しい熱にさらされて、彼らは「脱水体(水分が抜け
て干からびちゃう)」となる。恒紀の気候が良い時は水分を得て復
活するが、そうならずに絶滅しちゃうことも多い。
彼らが絶滅すると文明の進化もリセットされて、また一から何万年
もかけて進化をしなければならない。

しかしいま、第百何期目かの文明の進化途上にいる彼らは、三重星
の動きを観測して、三体世界が近いうちに完全に消滅するのを予測
していた。そして他の惑星に移住する計画を立てていた。
じつはそのタイミングで、太陽系惑星・地球からの通信を受け取っ
たのだった。こいつあ渡りに船だぜ!

いっぽう地球では圧政や環境破壊などによって、自分たちは自力で
は良くならないと考える知識人が増えていた。地球外の「外圧」に
頼ってでも変わらなければならない。
「人類がみずから道徳に目覚めることなどありえない。もし人類が
道徳に目覚めるとしたら、それは、人類以外の力を借りる必要があ
る」といって。そんなら、異世界文明に頼るべきじゃねえか?

はい、作品の発端はこういうものだったんですねー。驚きましたね
ー。怖いですねー。この異なる惑星のこのふたつの意思が交わると、
どうなるでしょうねー?
すっごい壮大なスケールの話になってきましたねー。ほんと、どう
なっちゃうんでしょうかねー、人類は? 文明は? 三体世界は?
・・・と、それはこの長大な作品を読んでいただくとして、この作
品の嬉しい特典をいくつか書いておきたいと思います。
 
ひとつ。中国や中国人が舞台になること。
本筋からするとどうでもいいことかもしれませんが、やっぱ、国力
が増大するときというのは、どの国でも想像力旺盛で意欲溢れる
SF作品が現れるものです。しかも圧倒的な天文・物理・数学の先
端知識によって裏付けられているんだから、すごい。

ふたつ。サブストーリーのように出てくるVRゲームの「三体」が
面白い。
これは、人類を見限って三体を主として仰ごうとするグループによ
って作られたゲームで、異世界である三体世界の成り立ちをゲーム
によって体感し理解するものです。最初読んですると「なんだこれ」
と思うけれども、その要点と意図がわかると、おお、そういう惑星
の文明の歴史もありうるのか、と感心させられるのでした。

みっつ。そのゲームの中に歴代の学者や宗教家がでてくるが、これ
がとくに中国っぽく、古代の周の文王や孔子や墨子や秦の始皇帝な
どが登場し、これはSF読者としての体験なので、なんとなく楽し
い。さらにそれらが微妙に本筋に関係するので、中国文化の知識が
ある方は余計に楽しめるはずです。

じつは第二巻で、三体世界に人類の秘密がダダ漏れになっているの
を防ぎながら防衛戦略を立てる役割の「面壁者」なる人びとが登場
しますが、これなども、インドから中国に渡って9年間ひと言もし
ゃべらず壁に向かって座禅して、時の皇帝から忌避された(なに考
えてんだこいつ、と)達磨和尚の話が下敷きになっていて、ニヤリ
とさせられます。

科学知識の粋を集めたハードSFにこういう要素が入ってきて、な
おかつ神様とはなにかというテーマがあったり、人類の精神世界の
未来までが予測言及され、種として変化する人類のゆくすえを考え
させられる。そこにさらにエンタメ要素として、宇宙を舞台にした
人類と地球外生命との生き残りゲームが繰り広げられる。
SFのいろんな系が合わさって、楽しいことこの上ないではありま
せんか。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第341回 2023.04.03

「異星人とともに未来を救うエンタテインメント」

SFはほんとに楽しい! たまに無性に読みたくなります。
この読書日誌で過去にご紹介したものには、たとえば「神様系(神
様が登場しちゃう)」の筒井康隆先生の重要作品もありましたし、
小松左京「日本沈没」は、「パニック系」で「ディストピア系」の際
たるものとしてありました。
また、「見たことも聞いたこともないトンデモナイ世界系」として、
ラリー・ニーブンやダン・シモンズ、あるいは「砂の惑星」などの
傑作がありますが、そのあたりはまた機会をあらためてご紹介させ
てください。

ということで今回は、つい最近の作品で「異文明遭遇系」のエンタメ
SF、

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(アンディ・ウィアー/早川書房)

をご紹介。
作者は「火星の人」(マット・デイモン主演の映画「オデッセイ」
の原作)の作者で、このところベストセラーを連発しているお方。
あるとき、太陽エネルギーを食べちゃう「アストロファージ」と名
づけられた物体によって、地球は存亡の危機に立たされる。アスト
ロファージのせいで太陽のエネルギーがどんどん低下していくのだ。 
このままでは地球は冷え切って人類が滅んでしまう!

物理学者ライランド・グレースは、その物体の正体を突き止めるが、
ひょんなことから、アストロファージを退治する方法を求めて、生
きて帰ることのできない恒星間宇宙旅行に出されるはめになる。
表題はその作戦名で、「アベ・マリア作戦」という意味。ちょっと
せつない感じの、「お助けください!」的な作戦名ですね。

ところがこの作戦は最初から頓挫する。
三人で出発した主人公たちだが、宇宙航海の睡眠状態から目覚めた
ときには他のふたりが亡くなっていて、主人公だけが宇宙船の中で
ひとりぼっちで残されていたのだった。
ウウッ、怖い。宇宙空間でひとり残されてしまうなんて、なんてこ
った! オーマイガーッ、というか、おー迷子―っ!

使命を果たすためにたどり着いた恒星系は、アストロファージが恒
星と第一惑星との間を行き来してエネルギーを食べつつ分裂増加す
る空間。彼はここでひとりで、アストロファージを退治する方法を
見つけて地球に知らせなければならないのだ。
しかーし、そこで主人公はなんと、他の惑星から来た異星人に遭遇
する! 

そんなことって、ある? それがあるんだなあ。
異星人の彼(?)となんとかコミュニケーションをとるなかで、な
んと異星人の彼もやはり同じ使命を担ってここに来て、やはり同じ
く仲間が全員死んで、一人ぼっちになってしまっていることがわか
る。そんなことって、ある? それがあるんだなあ。

宇宙空間での奇跡の異文明遭遇をした異星人のふたり。
共同しなければミッションを遂行できないふたり。
でもなんとなく前向きで楽天的なふたり。
生存環境がまったく違うので「直接触れ合う」ことはできないが、
なんとかコミュニケーションをとり合い、おたがいの科学知識と
職人的手作業による創意工夫が繰り広げられる。

宇宙工学の粋を集めた宇宙船の中での、科学的な基準の異なる異星
人同士の、知恵を出しあって、手近にあるものを使っての問題解決
していく。
これは「ブリコラージュ」とよばれる、「寄せ集めで必要なものを作
る器用仕事」だと思うんですけど、それをなんと、宇宙空間で行な
って任務を果たそうとするふたり。最高の面白さです! 
製造業のトップのみなさん、このへん、ぜひ御社の社員の参考図書
にしてください! 中堅社員向けの「課題解決研修」かなんかで。

ところで、こういう作品を読むときも、自分の頭では理解できない
科学的・生物学的・宇宙物理的なところは、飛ばして読んで可なの
でした。たとえば、
「エリディアン(主人公が名づけた異星人種)は生きた精錬所なの
だ。かれらの体内にはATP―DNAベースの生物のおもなエネル
ギー貯蔵媒体―だけが入っている嚢がある。ふつうATPは細胞内
にあるものだが、あまりにも量が多いのでもっと効率的に蓄えられ
るように進化したのだ」、
なんて部分もね、ああそうなのね、と慌てず騒がず読んでおけばオ
ッケー。


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第340回 2023.03.26

「異文明遭遇系の古典的さきがけ」

SFのなかで、地球外の異星人との接触を描く作品は数多くありま
して、映画でいえば「未知との遭遇」とか「E.T.」のようなもの
ですね。
これを「異文明遭遇系」というジャンルと名づけます(なんだ、そ
のまんまじゃないか。はい、すいません)。
宇宙の中には人類同様、いやそれ以上に発達した技術や文明をもつ
生物がいるはずなので、それと人類とのファースト・コンタクトは
いかなるものになるか、あるいはその生物とコミュニケーションを
とり共存していくことができるか、などををテーマとする分野です。

ということになると、最新の天文学や宇宙全般についての知識だけ
でなく、未来技術についての予想が必要なのはもちろん、人類の歴
史の知識とか、そもそも文明・文化とはなにかといったテツガク的
な思慮を含めた、たいへんな力技を要する小説になろうというもの
です。

「地球幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク/創元推理文庫)

これは1953年の作品ですから、いまから70年も前です。
すごい! なにがすごいかわからないけど、すごい!
この作品で、地球はいきなり巨大な宇宙船らしきものに圧倒され、
彼らとの闘いなど起こるヒマもなく人類は異星人の支配下に置かれ
てしまうのでした。
異星人である彼ら「超生物」の正体とはなにか? 目的はなにか? 
はたして人類の未来はどうなるのか?

いいですねえ、若い読者の頭の中の想像の血が沸騰するようなシチ
ュエーションですねえ。いやもちろん私もですけど。
異星人は宇宙船からじっくり人間を観察したうえで、演説をおこな
う。それは超一流の天才の演説だった。「すべて人類に、相手の圧
倒的な知力を思い知らせるように念入りに計算された」その演説が
終わると、「地球上の全国家はめいめいのあやふやな主権などが通
用する時代は終わった、と悟ったのである。」

こうして、まだほんとうの姿を見せない地球外生命体によって地球
は支配されるという、一方的なファーストコンタクトになった。
その反面で、人類はまるで神様が降臨したかのような状況に置かれ
て、「人類のエネルギーが建設的な面に集中されるようになったた
め、世界の様相は一変した。」
つまり、内輪で戦争とか紛争をしている場合ではないとなって、世
界は平和になっちゃった。ついでに異星人の支配下で芸術文化の花
も開いちゃったりするのだった。

本筋からちょっと離れますが、そのさいの芸術文化について、
「漫画映画(!)というもっとも融通可変性のある媒体」では、「リ
アリズム派が、実際の写真とほとんど見分けがつかないような作品
を作る」ようになる、などと書かれています。
これは作者の予言のようなもので、まあ現代の一部分を当てちゃい
ましたね。

さらに余談になりますが、外圧による平和の実現というあたりは、
原作の1953年という時代を考慮に入れてもいいかもしれません。
作品が書かれたのは第二次世界大戦の余波、極東での朝鮮戦争、パ
レスチナでの戦い、冷戦構造の幕開け、そんな厳しい時代。
だからこそ圧倒的な「外部の力」によって世界の平和と繁栄がもた
らされることを夢想してしまう。そんな一瞬が作者の想像の中に芽
生えたかもしれません。

で、話を戻すと、地球は平和で文化的になっちゃった。
ただそれで、めでたしめでたし・・・とはいかない。当然ですね。
だって異星人はいつまでも正体を表わさず、その最終目的も不明な
ままなのですから。

すると人類のほうでは、その後世代が移るにつれ、いわゆる「超能
力」をもつ子どもたちが生まれてくるのです。
彼らの超能力とは、宇宙に数多く存在する多種多様の「他の世界」
を見る力であり、いうなれば「知識の導体」として作用するものだ
った!

じつは異星人は、このような人類の進化を助けるために来たのだ。
「そう、わたしは助産婦。だがわたしら自身には子供ができない」。
こうして世界は、新たな能力によって進化する「シン・人類」と、
取り残されて絶滅していく「旧人類」にわかれていく。

いっぽう、地球にきた異星人は、種としての進化の最前線にいなが
らも、いや進化の先端にいるからこそ繁殖力を失って子孫を残せな
いという袋小路に追い込まれているのだが、この異星人はそれゆえ
に、じつはこれまでも過去から何度となく人類に干渉してきたので
あったと明かされる。彼らは人類の過去の歴史にも介入していたの
だ、、、、、。
おお、ここらへんからはネタバレしたくない部分なので、みなさま
もぜひ読んでお楽しみください。

こうしてこの作品は、異文明遭遇系のなかでもテクノロジーにとら
われない、どちらかというと文学の香り高いものとしてSFの古典
となっているわけです。
私たちもこういう書物に導かれつつ、異星人と出会うための準備を
していきましょう。そして、できれば自力で目を覚まして戦争をな
くし、芸術文化の花を咲かせましょう。
SFを読む意義がそこにある!

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第339回 2023.03.19

「作者とともに思考実験に加わる楽しみ」

SFのなかでも私が勝手に「思考実験系」と名づけているのが、
SF界の帝王(?)ハインラインの諸作品です。
彼は1960年代から、すばらしく質の高い思考実験をつづけていて、

「月は無慈悲な夜の女王」(ロバート・A・ハインライン/ハヤカワ文庫SF)

は、その最たるものだと思います(すいません、個人の感想です
から、お許しください)。
21世紀も終盤。月には多くの移民が暮らしているが、その生活は
地球政府の支配下にあって、移民たちは生産物を搾取されている。
というのも、最初に月に送られて開拓民とされてきたのが、犯罪
者たちだったからだ。まるで何世紀か前のオーストラリアみたいだ。

その彼らが地球の圧政から逃れようと、高性能コンピューターAI
の助けなどを借りながら、地球からの独立を宣言し戦争を行なうこ
とになる・・・となったら、どうなるか?
それを妄想空想して物理科学して思考実験する作品となっています。

もちろん先端の技術開発と宇宙物理学の未来予測を元にした、いわ
ゆる「ハード」なSFの先駆けだけれども、そんなに科学的に難解
なことはなく、というか、難解な部分は飛ばして読んでもなんら差
し支えなく書いてくれているので、物理や科学に弱い私のような読
者にもスイスイ読むことがでます。
なのでSF初心者の方にもおすすめ。

はい、そこで問題は、思考実験の思考実験たる部分となります。
ではその思考のモとになるいくつかの大きな「問い」を抜き出して
みましょうか。
そもそも人類が月で暮らしていくためには、どういう方法によるの
か?
そこで何代も生活していくと、なにか肉体的精神的に変化は起きる
のか? 人間はどのような人間関係や家族を形作っていくことにな
るのか? 

月世界の住民が独立を宣言する、それはアメリカがイギリスに対し
て行ったことの未来版みたいだが、そこにはどんな試練があるだろ
うか? 月対地球の争いでは、どんな戦略がたてられるのか?
またコンピュータは進化してドンドン高性能AIになり、なにかし
らの評価や判断を行なう人格をもつようになるが、そのとき人間は
それにどう関わり、どう制御できるのか?

どうです? むっちゃくっちゃ面白そうな問いばかりでしょ?
ハインラインは、同様にほかの作品でも、こうなったらどうなる?
という問いと仮説をたくさん出しています。

ひとつだけご紹介するならば、たとえば「愛に時間を」(ハヤカワ
文庫)においては、医学の進展で人間がほぼ死なないようになった
らどうなるか、というのが問いになっていましたね。
ここには、ほぼ永遠の命をもつひとが出現するのです。

主人公ラザルス・ロングは4000年も生きてすべてを経験してしま
った男。
そんなに長く生きるひとの心理はどうなるのか、なにに生きがいを
求めるのか。長生きしすぎて退屈し、逆に死にたくならないのか? 
ひととひとの愛情はどう続くのか。家族関係の人類学的問題とか、
宇宙に広がった人類の政治・統治機構の問題はどうか。そんな遠い
みらいにおけるひととコンピュータとの関係は?、、、、などなど。

「年齢は知恵をもたらしはしない。しばしばそれは単純な愚かさを
傲慢なうぬぼれへと変化させるだけだ。」「(歳を重ねることの)唯
一の長所は変化を知ることだ。」「長い年月がたったあとでは、本当
の記憶と、本当の記憶の記憶の記憶の記憶とを区別するのは、そり
ゃあ大変なんだ」
主人公のこんな言葉を聞くと、著者の思考実験の結果として、4000
年生きても100年の寿命でも、人間はたいして変わらないのかもし
れないなと思わされます。

またいわく、「コンピュータのことなど気にするな。人間の頭脳が
作ることのできるもっとも精錬された機械といえども、それ自身人
間の頭脳の限界を持つんだ」。
そうそう、私もそうだと思っていたんですよね。ところが、
「もしコンピュータが帰納的論理を行なうように設計されていて、
データを評価し、そこから仮説を弾き出すことができ、それを吟味
し、新しいデータにあうように作り直し、結果を任意に比較し、再
構成されたものに変更を加えることができたら、、、、、そのときコン
ピュータに自意識が発生するかもしれない」。

じつはこの本の中では、コンピュータは実際に自意識を持つように
なり、なおかつ人間の肉体をもつようにもなりますけれどもね。
うひゃー。

ハインラインは、このように、遠い未来を舞台にすばらしい物語を
紡ぎました。これら50年前におけるハインラインの思考実験をみ
ると、ではひるがえって、地球上のいまの戦争はどうなの?とか、
現在でのAIはどう評価されるの?とか、延命医療の現状はどうな
の?などという、とても深い疑問が持ちあがったりします。 

いや、そんな先の話は自分には関係ないよ、だからSFは荒唐無稽
で困るんだ、、、などとおっしゃる気持ちはわかりますが、こういう
未来に向けての思考実験を続けてきたことがじつは人間の能力の幅
を広げて、私たちをいまの「人間」に仕立てたのだ、ということも
お忘れなきよう。
というわけで、良質のSFは私たちの想像力の間口を広げて、可能
性を高めてくれるのでした。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第338回 2023.03.12

「なぜいま、SFなんか読むの?」

いうまでもありませんが、SFとはサイエンスフィクションの略語
で、昭和の日本語では「空想科学小説」、となります。
もちろんそこには「鉄腕アトム」も「機動戦士ガンダム」も含まれ
ますし、テレビドラマ「タイムトンネル」(古い)も「スタートレッ
ク」(古いが映画版も)、映画「2001年宇宙の旅」(古典的名作)か
ら「スターウォーズ」(今となっては古い)も、とこう挙げていけ
ばキリがないほど身近にある分野です。

そんなSFも、科学や宇宙開発の進展をメインに据えた、いわゆる
「ハード」なもの(科学技術の進歩を理論的バックボーンを踏まえ
て具体的に描くもの)から、「ソフト」なもの(具体的なテクノロジ
ーの進展にはあまり頼らないお話)や、おとぎ話テイストの強い
「ファンタジック」ものまで、あるいは人類の明るい未来(ユート
ピア)を描くものから、悲惨な未来や終末(ディストピア)を予想
する「大きな話」まで、これまた広い範囲があるようです。

「あるようです」というのも、SF好きな方というのは世界中にも
のすごくたくさんいて、彼らはいわゆる「オタク」(すいません!)
的な、とんでもなく膨大で深い知識をもっているのです。
そんな方々からいわせると、おまえみたいな生半可な読書でSFを
語るな、なんて怒られそうなんですけど、ま、いいじゃないですか。
チョットだけ読書日誌に感想を述べさせてくださいな。

ということで、多くの種類があるSFの分野から、まずは私が勝手
に「近未来予言系」と名づけているこれを。

「スノウ・クラッシュ」(ニール・スティーヴンスン/ハヤカワ文庫SF)

近未来の世界、そうなる可能性が高いと思わせる世界、それを描き
切る本書は1992年の刊行ですので、じつにもう30年も前の作品です。
ところがここにはすでに、オンライン上の仮想空間「メタバース」が
出てくる。というか、この本から「メタバース」が始まったといって
も過言ではない(ようです。すいません、違っていたら教えてくださ
い)。

主人公ヒロは凄腕のハッカーで、「メタバース」の基礎をきずいた男。
彼が多くの時間を費やすのは、「コンピュータの作り出した宇宙であ
り、ゴーグルに描かれた画像とイヤフォンに送り込まれた音声によ
って出現する世界」だ。

ひとはその場所、つまり仮想空間で自分のアヴァターを作って、話
し合ったり楽しんだりして時間を過ごす。そこではリアルな世界の
煩わしさや嫌なことや肉体的な危険から離れられるのだ。

しかしそこで起きる事件。
「スノウ・クラッシュ」と呼ばれるウィルスが、メタバースと現実
世界で同時にひとの脳に感染していく・・・。
主人公ヒロの疑問、「ちょっと待ってくれ、。このスノウ・クラッシ
ュってやつは、ウィルスなのか、ドラッグなのか、それとも宗教な
のか。」
対話相手のジャニータは肩をすくめて言った。「違いがある?」。

・・・フーム、すでに深い。すでに現実空間と仮想空間が混在して
いる。そんな小説です。
ですのでこの本の読みどころは、ひとつにはそのウィルスがなぜ
「仮想」と「現実」の両方に、魔法のように感染していくのかとい
う秘密の解読であり、もうひとつはメタバースと現実を行き来しつ
つ生活する人間の精神がどう変化していくか、というところにもあ
りましょう(と、思います。どうでしょうか)。

多くの商談がメタバース上で行われる。ビジネスマンは「スーツ姿
で世界中からやってくるが、ここでの商談は現実世界で面と向かっ
て話すのと同じようにうまくいく」らしい。なぜなら、アヴァター
の表情や身振りを注目すれば、相手がどう考えているかは、現実世
界以上に知ることができる。というか、登場人物のうちのひとりに
よってそうデザインされているから(の、ようです)。

ストーリーをうまく要約できないのが申し訳ないですが(文庫本上
下で850ページもあるので)、このように近未来のことを語られる
と、いやー、もー、参りますなあくらいに、未来の現実が体に刺さ
ってくる気がしますね。そのうえで、自分はそんな未来の場所で生
きていけるかなあ、なんて思ってしまいます。

ましてやこれは30年前に近未来を予測した本なわけですから、こ
の内容が2023年現在に現実化していてもなんら不思議ではありま
せん。
ん、あなたはすでに自分のアヴァターをもっている? 一日に何時
間もそれでゲームをしている? そうでしたか。失礼しました!
SFといえど、コトはすでにナマナマしく現実化しつつありました。
ゆえにこれを近未来「予言」系のSFと呼ばせていただきましょう。

いや、そう名づけたいなって思っただけで他意はありません、半可
通ですいません、お許しください。
と言いつつ、できればこんな感じで、もう少し私にSFを語らせて
いただければ嬉しいのです。だって、いろいろな作家のいろいろな
種類の未来のお話(できれば幸せなほうの人類の)を読むことは、
閉塞感に包まれた私たちに、夢を広げる力をくれるじゃありません
か!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第337回 2023.03.05

「時間つぶし殺しの本」

えーと、私どもがやっているブックカフェというのは、話に来られ
るお客様ばかりではなく、店の性格上、本を読まれる方が多くおら
れます。
もちろん、ちょっと時間が空いたのでとか、散歩や買い物の途中で
フラリと立ち寄られる方も多く、みなさん「やれやれ、疲れた」と
いった感じで腰かけてコーヒーを注文し、ついでに「お、モンブラ
ンがあるじゃん」とかいって、ケーキもご注文されるわけです。

そんな方々が、時間つぶしにと手に取って、手に取って読み始めた
はいいけれど、やめられなくなって、「お、まずいまずい、次の予定
に遅れてしまう」「洗濯物が出しっぱなしだわ」などと嫌々立ち上が
る、そんな本がいくつかあります。

ひとつは、以前にもご紹介した「風の谷のナウシカ」、全七巻。
これはもう、しょうがない。ちょっと覗いて見るというのが許され
ない名作として、というか、ブックカフェの蟻地獄的存在として鎮
座しているのでした。なのでお客様がこの本を手に取られたとたん、
マスターとしては、あ、長居されるな、と覚悟を決めることになり
ます。

ほかにも、読むのがやめられなくなる本というのがありまして、
たとえば、

「ナンシー関の耳大全77」(ナンシー関・武田砂鉄編/朝日文庫)

なども恐ろしい魔力を秘めているのでありまして、手に取ったらや
められなくなるという意味で、「ちょっとひと休みのつもりのお客
様の時間つぶし殺し」、の異名をとる本となっています。

著者ナンシー関さんは、青森生まれの消しゴム版画家でコラムニス
ト。
2002年に若くして亡くなりましたが、この本には、彼女が週刊誌に
連載した芸能コラム「小耳にはさもう」から、武田砂鉄さんが厳選
したコラムが77本(消しゴム版画による、バツグンに特徴をとらえ
た似顔絵つき)納められています。

芸能人を一回に一人ずつ、その時期の話題によって取り上げていく
というスタイルで、たとえば武田鉄矢(1993年)では、
「武田鉄矢は暑苦しい。すべてにおいてなんか過剰だ。武田鉄矢の
どこが嫌いなのかを歯を食いしばって考えてみよう」と始まる。

彼は「日本一『語る』男なんだ、これが。たんに語る機会が多いと
か冗舌であるというのではなく、この人のしゃべりを聞いていると、
なんか自分の日常生活すべてを逐一『言語化』しているように思え
る」と。
武田鉄矢は今の自分をどう語ればいいかを、いついかなるときも考
えているのだというのです。
おお、30年後のいまでも同じですね。たまにテレビで見るならば。

また、たとえば長嶋一茂。
「長嶋一茂のおもしろいところは『何をどれくらいまで考えているの
か』が見当がつかないことである」と、言います。
アハハハ、これなんかも20年経っても同じですね。彼が多くのバラ
エティー番組に引っ張りだこになっていることを予言するかのような
おことばでした。

ナンシーさんいわく、「(一茂は)結構唐突な感じで、『うちの父も野
球をやっていたんですけれども・・・』と言い放ったのである。全国
民が間髪をいれずに『知ってるよ』とツッコム声が聞こえたような気
がした」。ですよねー。
「何を考えていて、何を考えていないのか。やっぱり見当つかん」。
とまあ、こんなぐあい。

そこで私たちは、ここで取り上げられる77人のうちもはや亡くなった
芸能人については、「ああ、そんなひとだったなあ」と懐かしむことが
でき、いまでもまだ活躍している方については、「なんだ、まだ同じこ
とやってるんだ。やはりナンシーさんのツッコミと予言は正しかった
なあ」と納得し、「惜しい方を亡くした」と思うことになる。

そうこうしてうなずいたり笑ったりしているうちにあっという間に時
間が経ってしまい、「ヤバッ」とか言いながら友だちとの待ち合わせに
急いだりする。
そんなお客さんを見てニヤリとするマスター。
「時間つぶし殺し」、また、楽しからずや。
じつにこれまた「ケア」のうち、ん?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第336回 2023.02.26

「お客様をおもてなしをする『しつらい』のありよう」

お客様が、店の調度品や飾ってある花を見て、
「これらは奥様のご趣味ですか?」と、いきなり尋ねられました。
「お花は奥様が生けられたのですか」「絵は奥様が選ばれたのです
か」「デスクランプは?」「テーブルとイスは?」「レースのカーテ
ンはやはり奥様が?」
「は、はい。あのー、もしかして家内のお知り合いですか?」
「いえ、この店も初めて入りました。」

どういうことだ!?
店の調度のどこかに女性的なものを感じられたですか?
あるいはジェンダー的に、室内の調度は女性が担当するものと思い
込まれているのですか。そりゃ家内にも手伝ってもらってますけど、
マスターのワタシ(男性)もやってますのです。

ま、いずれにしてもお客様をどうお迎えするかということは、客商
売の基本ですし、お客さまとお話をするきっかけにもなりますので、
好意と興味をもっていただいたことは嬉しいのですが・・・。

「室礼(しつらい)」(山本三千子/そう文社)

世に室礼(しつらい)ということばがあって、「しつらえ」の語源
でもあるわけです(諸説あります)。
それはもちろん、季節ごとにお客様を気分よくお迎えするおもてな
しですけれど、向かえる自分たちの気持ちを整える飾りつけだった
り、お客様に向けてのちょっとした謎かけをしたりという楽しみも
あるわけです(個人差があります)。
ですので、室礼とは「おもてなし」であり、ことば的には「誰かを
お迎えする亭主サイドの礼儀」という意味なのでしょう。

たとえばお正月。
この本の著者は、おめでたい初夢の「一富士二鷹三茄子」にちなみ、
富士山のように気高く、鷹のように勇敢に、千にひとつの無駄なく
花が結果する茄子のように志をまっとうする(諸説あります)とい
う意味を、富士リンゴ、鷹の爪、茄子の形の菓子で見立てていまし
た。
この「見立て」というのも、なにか日本独特のやり方ですよね。
いまは目の前でみられないものを、本来異なるもので代用する、そ
れをお客様に見てもらって、主客ともども楽しむという。

そういえばお茶の世界では、正月の床は「松に古今の色無し」とい
う書のお軸をかけるのが恒例になっておりますが、私の茶室ではな
ぜか、一年中それがかかっていますね。
お軸の意味は「いつでも同じ気持ちの平常心でいなさい」というほ
どのことで、主客に共通の心がまえを表わしておりますが、いけま
せんなあ、変えるのをめんどくさがって年中同じお軸をかけていて
は。
季節や時候によって変えるという本来のおもてなしの心がまえが、
コロナのせいですっかり薄れているようです。

話を戻して、たとえば七夕のしつらい。
昔は七夕の日に、梶という木の葉に願い事や詩歌をしたためてお供
えしたのだそうです。亭主と客が同じ場所に願い事を供えるなんて、
風情を感じるものですね。著者も梶の葉を使ったしつらいをしてい
ます。

そういえばお茶の世界では、暑い夏に「葉蓋(はぶた)」というお
点前があって、それは水差しの蓋として大きめの葉っぱを使い、そ
こに水滴を打って涼しさを演出するというおもてなしですが、それ
に使う葉っぱが梶の葉といわれています。

ご存じかもしれませんが、梶の葉は変形で手のひらの形のようにな
っていて、まるい水差しの口に置くと、スキマができてしまいます。
なんでこんな形のものをわざわざ使うのかなあ、とわたしは思って
いました。
なるほど、こういう夏の願い事の故事からきているのですなあ。
なにごとも勉強しないとわからないものです。ですので、お店に入
って「梶の葉」が飾ってあったら、みなさまもそこのご主人のおも
てなし心を感じてあげてください。

またまた話を戻して、本には著者独自のしつらいである「運盛り
(うんもり)」というのが載っていました。
これはもちろん、「○○こ」を盛るものではなく(そんな誤解をす
るひとはいない)、ことばを形に託して盛って飾る遊びのようなもの
でした。

たとえば「大根の『ん』が運に通じ、吉運を呼び込むようにとの願
いの心をしつらいます」というように。大根のほかにも、ニンジン、
れんこん、ぎんなん、いんげん、きんかん、、、、などなど、「運盛り」
に使える野菜は多いのでした。
こういう「しつらい」には、ユーモアやとんちを感じます。
このように、お客様は亭主の謎かけやとんちにも、おもてなし心を
感じていただくことができるのでした。

ここに来るといつもなにかしら仕掛けがある。
そのココロを探るのが楽しみだ。
店の「室礼」から、いい意味での「あいさつ」や「ご機嫌伺い」を
感じとり、そこで「共通の感覚」が芽生えて「話のきっかけ」が生
まれ、「ここで話してもいいのだ」という下地と安心感が生まれ、
また話に来たいなと思う。
そのようにしてお客さんが増えてカフェが繁盛してくれるのならば、
「しつらい」や「おもてなし」のなかにある隠しテーマとしての
「ケア」が生きるというものです。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第335回 2023.02.19

「どうやって話を聴くか」

こうして、って、どうしてかはわからねど、「問い」の原点に戻り
ます。
カフェで、ひとの話をどう聴くか。どう聞くか。どう訊くか。
つまり、身近で確実に確かめられる場所で。

「聞く力」(阿川佐和子/文春新書)

とってもわかりやすい内容なので、肩の力を抜いて読みましょう。
こういう本を読むと、まずは、ケアだの正義だのと力んでいる自分
が情けなくなりますね。ちょっと考えるのに疲れましたしね。

アガワさんの話はとってもとってもわかりやすいので、ちょっと目
次の一部を抜き出してみます。
面白そうに聞く。「あれ?」と思ったことを聞く。段取りを完全に
決めない。相手の気持ちを推し測る。上っ面な受け答えをしない。
最後まで諦めない。素朴な質問を大事に。先入観にとらわれない。
なぐさめの言葉は二秒後に。知ったかぶりをしない。相手のテンポ
を大事にする。などなど。

ね。とてもわかりやすいでしょ。そのまんま、「術」として理解で
きますし、すぐ使えそうです。少しだけ具体的にご紹介を。
たとえば「最後まで諦めない」。

アガワ女史がニヒルな二枚目俳優と対談したときのこと。
そのひとは対談が嫌いみたいで、テンションが上がらず、話がはず
まない。自分の質問のし方が悪いのだろうか、私のことが好きじゃ
ないのだろうか、と悩む女史。
諦めて、そろそろおしまいにしようとしたとき、その俳優さんから、
「とっても話しやすかった」とのおことば。それを聞いてそこにい
た全員が椅子から転げ落ちた。

「人は皆、自分とおなじ顔で喜んだり悲しんだりするとは限らない。
私が『楽しくなさそう』に見える人だって、心の中で跳びあがるほ
ど楽しいと思っているかもしれない。だから勝手に決めつけるのは
よそうと」、そう思った。
つまりこれは、自分の感覚だけに頼って受け取ってはいけないとい
う教訓でした。なるほどー。

また「なぐさめの言葉は二秒後に」。これはどういうこと?
なにかで悩んでいるひとに、なぐさめることばを選んで伝えるのは
もちろん重要だけど、そのタイミングも難しい。
たとえば、ハゲで悩んでいるというひとに、間髪入れず「そんなこ
とありません!」と返すと、それはそれで相手は、なんか口封じさ
れているように感じて、相手のことばに猜疑心がわく。

では、どうするのが良いか?
アガワ女史の研究によると、「私、肥っているでしょう」と言われ
たら、二秒後ぐらいに「そーですかねー」みたいに反応するのがよ
さそうだ、と。相手のことばを受けてから少し考える間を置くわけ
ですね。なるほどー。

「相手のテンポを大事にする」。ほお、どうするのがお薦めなの?
高齢者にかぎらず、ひとにはそれぞれに話すテンポというものがあ
る。ゆっくり話すひとに対して、こちら側が答えを予測してせっか
ちに答えを言ったりすると、相手を追い立ててしまう。
だから我慢して待つ。逆に自分もゆっくり考えてゆっくり話す。
「その結果、思いもかけない貴重な言葉を得たことは、今までにた
くさんありました」と。

聴き方はケアの原点、そう思いませんか?
だから私も、カフェでも頭でっかちにならずに、せっかちにならず
に、こういうところから始めることにします。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第334回 2023.02.12

「大きな物語より、ケアという小さな物語を」

ええいっ、私はいったいなぜこんなところに来てしまったのか? 
こうやってややこしい話から抜け出せなくなって先が見えなくなっ
たときは、すこし視点を変えていきましょう。どうせ、急ぐ旅でも
なし。
ということで、、、、こんな視点はいかがか?

「ポスト・モダンの条件」(ジャン=フランソワ・リオタール/水声社) 

近代を動かしていた「大きな物語」は失墜した。
ここでいう「大きな物語」とは、「自由」とか「解放」「革命」と
かの大きなテーマで、わかりやすい世界観や理想・目標・主義と
いった普遍的な価値観と、それにもとづくストーリーのこと。

科学技術の進展はすべからく人類にとって好ましいと考える進歩
主義もそうだし、効率化とか生産性の向上は善だとする合理主義
とか、大衆の多数が社会を良い方向に動かすのだという民主主義、
あるいは共産主義なども「大きな物語」だ。

その物語の中であれば、だれもが真・善・美、生きる価値や喜び
が共有できる。それらが普遍的な価値となって人びとを動かし、
国や企業や社会集団を動かし、言動を正当化してきたのだった。

ところが「ポスト・モダン」の時代には、そんな普遍的とされた
価値や物語に対して不信がうまれ、多くのひとを動かす「共通の
動力」の役割を果たすものが失われた。
こうして「大きな物語」は失墜したのだった・・・。

たしかに、そのとおりだと思います。
現代は、○○合理主義といった理念だけでなく、テクノロジー万
能の考えやアメリカンドリームのような夢、それから普遍的な正
義とか「自由・平等・博愛」のような理想を掲げる旗印も崩れま
した。
ふりかえってみれば、日本の「モノづくり信仰」や「なんとか景
気」「優秀な官僚機構」のような思いや信念も、怪しげなものとな
ってしまいました。

そしていま人びとを動かすのはむしろ、「ビックリすること」「あ
りそうな陰謀」「敵を設定しての攻撃」などフェイクやまやかし
ばかりとなってしまったのです。大きな価値観がくずれると、世
の中、こうなってしまうのですね。
さあ、どうする? あなたはなにを頼って、なにを信じる? 

ということで、いろいろ確かめたい点がある本なのですが、ただ
ここでは、私がここまで追っかけてきた「正義の倫理とケアの倫
理」に関係すると思われることだけをメモっておきます。

「正義の倫理」は、この本でいう「モダン」の特質である、法へ
の信頼とか、普遍的な平和をめざす理想とか、理性にもとづく自
由とか、科学と技術の進歩によって人類に幸福な未来が用意され
る、などといった「大きな物語」がその基盤を成していたように
思える。

しかしいまの「ポスト・モダン」の時代、つまり不安と不信の時
代では、そうはいかなくなった。
理性と正義感では、トランプもプーチンも止められなかったでは
ないか。逆にいまの施政者や権力者はむしろ、いままでの価値観
はまちがっているとし、「国難」「別の真実」「○○との戦争」など
という危機を煽る常套句的言辞を使っている。

つまり彼らは、ことさら陰謀やフェイクの形でひとの本能や感情
に訴える「大きなお話を」でっち上げ、「こっちを信じろ」「そう
しないと、わしゃ、どーなっても知らんぞ」と脅迫することによ
って人びとを揺さぶり、扇動し、世界を動かそうとしているので
はないのか。

そうだ、このリオタールさんも、「まやかしの大きな物語」を使っ
てひとを支配しようとする「言語ゲーム」のプレーヤーには気を
つけろ、と預言的に警鐘を鳴らしていたぞ。
であるならば、私たちはいまいったん立ち止まって、自分の手で
確かめられる事実をもとにして世の中の諸問題を見直すことが必
要なのではないのか?
大きな物語と「正義の倫理」から距離を置いて、より身近で確実
で小さな物語を構成する「ケアの倫理」に比重をおくべきなので
はないか?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第333回 2023.02.05

「ケア問題が民主主義問題につながる!?」

老いた両親や育ち盛りの子どもの世話は毎日している。
だれだって日常的に家族の看護や介護、保育をしている。そのひと
に関心を寄せ、注意をおこたらず、ていねいに話を聴き、面倒をみ
ている。

ケアは私の日常茶飯事だ。そんなことは生活の中で自然に意識せず
におこなっている。なのにそれを、倫理がどうの、ネオリベがどう
の民主主義がどうのって、あんまり大きな話に持ちあげないでもら
えないか。ビックリしておむつを替える手が止まっちゃったじゃな
いか。
そうおっしゃる気持ち、よくわかります。その通りです。

ところが私的な日常領域での実践についても、「社会正義」や「市
場倫理」、そしてとりわけ「政治」の問題と捉えたほうがいいとき
があると私は思うんですよね。
というのも、生活の実践や道徳的なあれこれを社会の中で位置づけ
てみんなの共通理解にする、ということが「倫理」であり「社会正
義」であり、それを駆動するのが「政治」というものだからです。

たとえば「自分だけが正しい」と考えて、ネット上で匿名で他人を
誹謗中傷し貶める投稿をするひとは、こんなふうに考えている。
だってそれは「本当のこと」だし、その行為はみんなのために自分
の自由意志でやっているのだし、だれからも非難される筋合いはな
い。自分は自分の正義を貫いているのだ、と。

しかしそのような行為を日常生活で行なうことは、はたして「場の
中に」にいて「支え合いのシステム」に参加することになるのか、
どうか。
その行為が、「社会資源の再配分」を志向し、「人びとを傷つけな
い社会」をめざし、「少数者に配慮し、弱者に配慮するというこ
とを、個人レベルから社会・政治レベルまで行なっていく」とい
うことにつながるのか、どうか。
そのように考えることが、社会の駆動エンジンである「政治」の
意味合いだと、私は思うのです。

いわば、新聞の一面と社会面と地方版を、「社会資源」や「支え合
いのシステム」をキーワードにしてつなげることが必要になる。
その意味でケアとは、「日常生活で行われる意思決定で生じる小文
字の政治なのだ」というのが、

「ケアするのは誰か?」(ジョアン・C・トロント/白澤社)

でした。
たしかに、これまで追いかけてきた「ケアの倫理」とは個人の問題
であり、個人が個人に対して行う行為についての問題であり、であ
るので感情とか身体性とかの占める要素が高いものでした。
いっぽうの「正義の倫理」は集団や共同体の問題であって、論理と
か思考とかの要素が強い。そんな感じがありました。そのバランス
をとるのが大事と思うのですが、じゃ、そのバランスを支える交点
はどこかということが問題になるのです。

筆者のトロントさんはまず、民主主義を再想像するために「ケア」
を考え直さなければならない、というところから始めます。
彼女の意図はなにか?
病院での治療から学校の授業から、保育や高齢者の介護など、その
ケアの現場で起こるすべての問題解決には政治的なプロセスが欠か
せないのだ。つまり現場での意見の相違や対立、実践方法などの解
決は民主主義的に考えるべき政治の問題なのだ。
「ケアをめぐるあるひとつの問題を解決しようとすることは、必ず
特定の問題から広がって(中略)、民主主義へと少しずつ広がって
いくのです。」

そして、「ほとんどの人間社会において、ケアの実践は社会的地位
の低い人びとによって担われてきた」ことだけをみても、ケアが政
治的な問題だということがわかるだろう。
つまり、「権力者である(階層が高い)とは、ケアをめぐる嫌な部
分を他者に押しつけることを意味してきた。それは古代アテネの民
主政においても、平等は市民として生まれた男性だけに与えられ、
女性、子ども、奴隷はそこから除外されてきた。」

であるならば、民主主義はほんらい人びとが平等であることを要請
するはずなのに、ケアの実践においては、そのほとんどが不平等な
成り立ちのと言わざるを得なくなる。
「少数者や弱者の声を聴くべきケア」として、それでいいのか?

さあ、またでっかい問題が出てきました。ここらあたりが「交点」
になりそうなので、少しずつ行きましょう。
まず、ケアは個人の問題「だけ」ではない、と再認識すること。
ケアを一対一の関係「だけ」で考えてはいけない。それでは問題を
家庭内などだけに押し込めてしまう。
問題の核心は、集団や共同体における「責任と資源の配分」だ。
筆者は、「民主主義は、ケアの配分に関わるものであり、あらゆる
人が、できるだけ完全に、ケアの配分に参加できることを保証する」
もののはずだ、というのです。

ところでこの「責任と資源の配分」は、「市場」においては公平に
はできないことでしょう?
市場は公平で平等な決定ができない。つまり「責任と資源」を、だ
れもが納得するよう適正に配分することができない。ここが市場経
済やネオリベの主張の特徴なのですね。

「このひとのケアは私ではなくあの人がやればいいことだ」、とか
「ケアは市場でカネで買えばいいのだ」などという意識が、ケアサ
ービスの外部委託すなわち市場化を進める。が、それが責任を他に
押しつけて資源を偏って配分するという、「責任意識の外部化」を
することになり、自分だけを「特権的な市民」にしてしまう。

こうして、市場にケアサービスをすべて委ねようとすると、結果と
して民主主義は崩壊してしまう。ここに「交点」がある。
古代アテネの奴隷という「社会資源」は、サービスを安価に提供し
てアテネの民主政を支えたが、それを独占的に使用する「市民」と
いう名の支配階級による「責任のがれ」によってアテネの民主政は
崩れたのであった!
あー、この話はどこに向かうんだ?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第332回 2023.01.29

「ケアの倫理は広がりを見せる」

じつはギリガンさんは、「もうひとつの声で」を書いた後に、「ケア
の倫理は、根本的には民主主義の問題であり、多元主義的であって、
市場社会におけるジェンダーの二元性と序列に抵抗するものである」
という趣旨のことを述べておられるようです。

ちょっと難しくなりましょうが、民主主義とか多元主義的とか言わ
れると、見逃すことはできません。「ケアの本質を考えることで世界
と自己を再構築しようとする意志」をもつ私たち(いつのまにか、そ
うなった)は、それを踏まえてもう一歩考えを進めてみましょう。

「ケアの倫理」(F・ブルジェール/白水社 文庫クセジュ)

しっかし、なぜみんな似たような書名をつけるのか?
いや、怒っているわけではないのですが、書名がまぎらわしいった
らありゃしない。
この本など、副題が「ネオリベラリズムへの反論」でありまして、
「世話をするという行為の意義を哲学的に解説」して、ネオリベの
価値観を粉砕しようという壮大な目的をもっているのですが、とも
あれ、まぎらわしい。

この筆者は、ケアとは「他者を配慮することによって人びとの絆を
とりもどすものだ」、という文脈で語り出します。
まずこれは、メイヤロフさんの「場」を引き継いでいますね。
そして、「弱い人間を世話する看護、介護、福祉サービスなどの実
践は、おもに女性によって担われてきた。」ここまではギリガンさ
んと同じ所見ですね。
が、その先の視野の広がりが違ってまいります。

「だから、(ケアは)国家中心による行政的合理主義や法による正
義の論理で解決できないことを担当するものだ」、というのです。
ケアは経済活動にとって絶対不可欠であり、それは行政や市場では
できないことをする大切な働きなのだ。
われわれは逆に、そんなケアを、「儲からない」として切り捨てて
きたネオリベの自己決定・自己責任・強いもの勝ちという市場の
論理のほうを問い直すべきだ、というのです。

理にかなった見解ではないでしょうか。
ケアを考えて、それが個人的な「道徳観の発展」や「ひとの生き方」
から、広く「社会正義」や「市場倫理」の話に広がってくるのは、
とうぜんのことなのです。
ということで、ここではまず、ネオリベ(新自由主義)の考えをも
う一度おさらいしておきましょう。

それは、自立した個人が自由に競争しあう社会を善しとする考え方。
だから自己決定・自己責任・強いもの勝ちは当然のことになる。
社会では自由競争による市場原理が優先され、カネは評価基準の大
きな柱になる。株主利益を最優先する資本主義が極限まで進行し、
個人の能力や業績はカネや権力に換算され、公共政策の選択や決定
に際してもとうぜん、能力ある多数者が責任を担う。
こうして、自由と自立を極限にまで広げることによってこそ社会は
発展し、それにともなって人間の能力も高まるのだ・・・。

これらは古くはイギリスのサッチャー元首相から、いまでは起業家
ザッカーバーグとかイーロン・マスクも言っていることですね。
そして、ここまで勉強してきた私たちには、これはじつはコールバ
ーグの発達理論が下敷きになった考えだということもわかります。

しかし、このようなネオリベ的考えだけが社会の基調になれば、た
とえば、「権力志向が強くて他人を蹴落とす輩」や「カネの力でもの
ごとを解決しようとする輩」や「自分だけが正義であると考える輩」
も出てこようというものです。
そして弱肉強食の世の中になってしまう。コスパもタイパも悪いケ
アの役割は軽視される。そこが問題。

いっぽうケアの倫理は、人間を基本的に「弱者」であると定義する
ところから始まっていました。出発点が正反対なのですね。
それは他者のニーズに関心を示し、相互依存を善しとする心情であ
り、「最も弱い人びと、聞かれることのない人びと、認められていな
い人びとの声を聞くこと」を大事にすることでした。

だからたとえば、多数決ではなく少数意見を尊重し、他者の責任を
も引き受けようとする。コスパもタイパも悪いのがアタリマエ。
「人間は、単に合理的存在や権利の主体なのではない」
「私たちは根本的に弱く、依存した存在なのだ」
ここから始める。

そうすると、「社会正義」がテーマとなるのであれば、「ケアの倫理
を、民主主義的な公正な社会の実現に結びつけるにはどうしたらい
いか?」という、壮大な問いが現われてくるのでした。
やっとこの本の本題にたどり着きました。疲れましたね。

この問いに答えるのは大変ですが、この本にはヒントが書かれてい
ます。
「ケア・配慮は(個人の問題から社会問題としてみれば)社会資源
の再配分である」
「穏健で健全な民主主義社会とは、制度が人びとを傷つけない社会
だ」
「少数者に配慮し、弱者に配慮するということを、個人レベルから
社会・政治レベルまで全般に行なっていく」
そう、2022年のショパンコンクールで二位になった、ピアニストの反
田恭平さんも言っておられます。「弱さとは可能性のことだ」と。
ん、文脈が違うか? ま、いいか。

ともあれ、このように考えて行動することが、ケアの観点と民主主
義とをつなげるヒントになるのではないでしょうか。
となれば、「支え合いのシステム」とは、限られた社会資源をどう再
配分するか、という技術論に持ち込めるかもしれません。
それこそまさに、当ブックカフェのめざす場所ではないですか! 
大げさか?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第331回 2023.01.22

「場の中にいるということ」

じつは「ケア」という行為をじっくり考えた先駆けとして、ギリガン
さんより10年以上も前に出版された本があります。
いわば「ケア」の意味を考えた古典ともいえる本がこれ。

「ケアの本質」(ミルトン・メイヤロフ/ゆみる出版)

まず、著者メイヤロフさんの立ち位置は、「ケアする側」の視点で
ケアを捉えていることを押さえておきましょう。
「ケアする側」としてはどうすべきかを生徒に教えるように述べて
いるのです。きっと、根っからの教師タイプなんでしょうね。
生徒に、「本来こういうもんだよ」「こう考えて、こう行なったほう
がいいよ」と指導する、教育的な面が強い内容となりました。

なにせこれも書名が「本質」ですもんね。教師がよく使う語彙です。
副題だってすごいですよ、「生きることの意味」ですからね。「君た
ちは、ケアをすることでどう生きるか?」みたいなもんですね。
で、先生は実際のところ、ケアの本質とはケアする側の生きる意味
に通じている、おっしゃるのです。
そのへんを踏まえたうえで、本からいくつかの主張をピックアップ。

1 ケアとは他者の成長と自己実現を助ける。
私は「他者を自分自身の延長」と感じ、「他者は独立したものと
して成長する欲求を持つもの」と感じ、さらに「他者の発展が自
分の幸福感と結びついている」と感じ、そして「私自身が他者の
成長のために必要とされている」ことを感じる(ようでなければ
いかん)。

2 したがってケアする側には、忍耐、正直さ、相手への信頼、相手
  について学ぶという謙虚さ、そして相手の成長への希望をもつこ
とが必要なのだ。

3 自分自身に対するケアもしなければならない。
  自分自身のなかの、成長しようという欲求にこたえて、自分自身
  をケアすること、それはいわば、私が自分自身の保護者になり、
自分の人生に責任をとることである。わかるかな。

4 それはまた「自己の生の意味を生きる」ということにつながるの
  である。あなたは、ケアをつうじて自分自身が何者なのか、何を
しようとしているのか明らかになっていくはずだ。ケアするその
人も変化し、成長を遂げるのだから。

5 ケアはこうして、「私」がこの世界で、「場の中にいる」ことを可
  能にする。つまり「私」は、ケアという形で他者に関わっている、
  そのあり方ゆえに、自分の場を発見し、創り出しているのである。

メイヤロフ先生の主張の一部を抜き出してみましたが、いかがでしょ
う。私など、先生がダリのようなカイゼル髭をつまみながら授業をし
ている姿が思い浮かびますが、それはともかく、「場の中にいる」なん
て、いいことばじゃないですか! これぞ「支え合いのシステム」の
ことでしょう?
場の中にいること、すなわち支え合いのシステムにいること、それす
なわち自分が関係の中で生かされていると実感できることだ。
いいですねえ、なんかホッとすることばですね。
 
「関係の中で生かされている」、これも宗教性を感じさせるおことば
ですね。これまで何回か考えてきたことを、じつは先生はすでにおし
ゃっていて、私たちはあらためて先生からそれを伝授されている感じ
がいたします。ちょっとお説教くさいですけど。

ひとつ私が感じたのは、先生もやはり、「ひとの弱さ」というものを
肯定的にとらえているのだろうな、ということでした。
「ひとりでは生きられないというひとの弱さ」を肯定的にとらえるこ
とは、自他の「成長の糧」であり、「生の意味を見つけるヒント」に
なるのだ。

さらに、自分に必要な「忍耐、正直さ、相手への信頼、相手について
学ぶという謙虚さ」は、自他の弱さを自覚することであり、それこそ
が関係の中で生かされる自分と相手の「成長への希望をもつこと」に
つながるのだ。

・・・って、でもそんなの理想にすぎないじゃないか、という方がお
られるかもしれません。
彼らには言わせておきましょう。
50年前にはこのような理想的な「場」を想像できたのです。それはも
しかしたら、時代が変わったいまだってめざせないことはない。
ケアの本質を考えることで、そうした世界と自己を想像して再構築し
ようとする意志、そしてそれをこのような形で宣言したことだけでも、
メイヤロフ先生の意図を諒としなければいけません。
そして当ブックカフェも、「場」としてかくありたし。
しつこいけど。
 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第330回 2023.01.17

「関係性のなかで生きる私たちのケア」

じつは、ふたつの「倫理」と「発達モデル」のバランスをとって自分
の道徳性や思考方法を検証するということは、それほど特別なことで
はないと思うんです。
たとえば仏教では、マンダラの中心にいる大日如来が「正義の倫理」
を代表し、人びとの救済のために化身する観音様が「ケアの倫理」を
象徴している・・・と、思いません? 違うかな。

じゃ、たとえば、キリスト教徒は、最後の審判のために再臨するイエ
ス・キリストを「正義の倫理」とみて、日々の生活を助けてくれるマ
リア様を「ケアの倫理」の代表と考えている・・・と、思いません?

どうでしょう。倫理観や道徳の基盤ともいうべき宗教のなかにも、ふ
たつの面がある、もしそうだとするなら、結局私たちはだれもが自然
と、ふたつの倫理のバランスをとろうとして生きていると思うのです。

いずれにしろ私たちは、現実に日常的に、法律や決まり事のなかで、
それぞれが相手を配慮し、気づかい心づかいをしあい、たがいに責任
を分担しあうという「支え合いのシステム」によって生きています。
そうでしょう? 少なくともそうしようと努力しているでしょう?

それは男がどうの女がどうのという問題ではありませんよね。
性差とかフェミニズムも関係ない。医療、介護、保育、教育などのケ
アに関わる職業だけに特有の問題でもない。
ふたつの倫理のバランスこそが「支え合いのシステム」という現場の
基盤だと、だれもがわかっているのです。

「ケアの倫理」(森村 修/大修館書店)

「私たちはいろいろなことで思い悩み、心に傷を受ける」
「年をとったり病気になったりして気が弱くなっているとき、つまら
ないことでも死にたくなったり、生きていることがつらくなったりす
る」
「それは恥ずかしいことではないし、あたりまえのことだと思う。私
たちはそういう人たちをまわりに抱え込んで生きている。<他者>と
一緒に生きている限り、私たちの言動が知らず知らずのうちに<他者
の心>を蝕み、傷つけ、悲しませていることもある。」

哲学者の著者は、このように素朴ともいえる書き出しで「ケア」を考
えていきます。この、「生活の現場から」的な姿勢は、専門家ではない
私たち読者にとって、とても身近なものと感じます。

だからこそ、「気づかい、配慮、共感ということがケアの内実だ」と
されれば、フムフム、その通りだとうなずくわけですね。
「病気の人たちへの世話、看護、介護としてのケアが必要なのは当然
として、健康と思っている人たちもまわりの人からのケアを必要とし
ているはずだ。私たちは、たとえ病気にかからなくても自分のまわり
の人たちをケアし、それらの人たちからケアされたいと思っているの
ではないか?」
そうそう、それが支え合いのシステムをつくる源ですものね。

ところが、ここからさらに、「では、他人をケアする自分を、どうケ
アしていくか」という面まで考えを進めると、かなり奥深い話になっ
てまいります。
「ただし、ケアが自己犠牲でないのは、それが<自己へのケア>をも
含んでいるからだ。自分自身をケアすることによって、私たちは<他
者へのケア>を実践する。」

なるほどこれが、ギリガンさんのいう「関係性の中の自己」なのです
ね。フムフム。自主独立でも依存でもない支え合いとは、お互いが手
を差しのべ合い、その結果、自分自身をケアすることによってはじめ
て「自己が確立する」、そんな関係性のことなのだね、フムフム。

となるとこの考えは、いまさかんに標榜される「自立と自己責任」の
考え方とは色合いの異なる主張になっていませんか。
自律・自立・独立という方向での個の確立の行く先は、もしかしたら
「正義の倫理」になるのかもしれないと感じます。それは強い個人、
他人の力を借りない個人、責任と義務と権利を担って法と正義を重視
する個人、正解や最適解やコスパやタイパを追求する個人、弱者や少
数意見を切り捨てる個人、を作ることになる気がするのです。

めざすべきは逆だろうと。
関係性の中ではむしろその逆に、人間の強さではなく弱さ、傷つきや
すさ、脆弱性のほうに焦点をあてたケアが必要だろうと。
それが筆者の言いたいことだと、私は受け取りました。
なので、ブックカフェでの「聴く力」の発揮も「ケア」の実践も「ケ
アの倫理」と「正義の倫理」のバランスのとれた実装も、すべからく
弱さに焦点をあてたものでありたい。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第329回 2023.01.08

「ひとの道徳性はどのように発達するか?」

うひゃ、大丈夫かな、こんなところに足を突っ込んで。
カフェでお話を聴くことをケアの一種と捉えなら、それは特別なこ
とではなく、ふだんの生活において欠かせないことだと思ってギリ
ガンさんの「ケアの倫理」を思い出したところ、そこには「ひとの
道徳性」とか「発達理論」とかの大きな論点が控えていて、それら
を押さえるには、まず1980年代におけるピアジェやコールバーグ
のお考えを整理せんとイカンらしい、、、、ということで、現在ここ
に至っております。

大丈夫かなって、思いますよね。はたして私は、ブックカフェのマ
スターが行う「ケア」の話題にもどれるんかいな?

「コールバーグ理論の基底」(佐野安仁・吉田謙二編/世界思想社)

すごい題名です、「理論」であり、しかも「基底」ときました。
オビには「コールバーグの道徳性発達理論の真相を究明する」です
からね。難しそうだなあ、大丈夫かなあ。
と、そんなこと言っていても始まらないので、なんとかご紹介を。

コールバーグは、ひとは幼少期から大人になっていく過程で、道徳
性を形成していくのだが、それには六つの段階があるといいます。

1 服従と罰への志向・・・悪いことすると罰せられるよ。はい。
2 素朴な自己中心的志向・・・いや、自分が良ければいいのさ
3 よい子志向・・・でも、みんなに褒められるのはいい気分だぜ
4 権威と社会秩序の維持志向・・・まずはルールや法律に従うべ
きだ
5 契約的・遵法的志向・・・でも社会の規則は自分たちのために
              あるはずだよね
6 良心または原理への志向・・・自分の良心に従って原理原則を
              打ち立てよう!

ひとはこのような志向の段階を経て、子どもから大人へと成長する。
それはいうなれば、ひとが自立していく工程だ。自分だけしか見な
い段階から、社会生活を営む「関係の中の自己」へと意識が変化し
ていく。その過程で道徳意識、つまりその人なりの倫理観が養われ
る。最終的には、生活上必要な法による支配とか「正義の観念」と
か「自分なりの良心」が芽生えるのだ・・・・。

どうでしょう。
西洋的な個人主義を基調に据えた、「自立した個人」への成長の説明
として理解できる「理論の基底の真相」ではないでしょうか。
ひとはこの段階を経ることで、正義だけでなく、公正、公共善、権
利と義務といった社会的な価値観を身につけて、自分の行為に責任
をもつようになると主張されています。

つまりコールバーグさんは、道徳的な問題を偏りなく評価できる
「責任ある自我」への成長を重要視したわけで、それは人間にとっ
て当然のことであり、なおかつそれが女性よりも男性において多く
獲得される資質であることを調査から示したのでした。

ところがギリガンさんはこれに嚙みついた。
ざけんなよと。そんなのはこれまでの男性中心の権威主義社会での
話じゃないかと(いや、そんな伝法な口の利き方はしていませんが)。
だいだいだなあ、もともと人間なんてなあ、そのひとが属する社会
・文化・人間関係によって発達のしかたは異なるものだ。

とりわけ女性性は違うんだ。
女性はずっと男性の権威の陰にいた。だからこそ、より人間の一人
ひとりに寄り添った、つまり「文脈的で物語的」にものごとを捉え
るのだ。それを感覚的とか場当たり的とか、本能的とか母性的とか、
いいかげんな批判をしたら、あたしゃ怒るよ(なんて、江戸っ子み
たいには言っていませんが)。

たとえば「善い行為」とはなにかということだって、権威や法を重
んじるように育った男性は、たんに「盗みは社会性に反する悪いこ
とだ」として罰することで解決しようとするだろう?
でも女性は、たとえば「盗んだひとの事情を聴いてあげる」とか、
場合によっては「助けてあげなきゃ」とか、「みんなで解決しよう」
と考えることも多い。

たしかに私たちは、一人ひとりが自立した個人として自分の行動に
責任を持つべきなのはもちろんだけれど、いつでも「正義の倫理」
だけを振り回して生活していられるわけじゃない。
むしろ多様な考えがあることを前提に、他者を配慮し、事情をよく
聴き、そこで生じる責任の葛藤を自分も受け入れているじゃないか。
だって、もともと私たちは矛盾のかたまりなのだから。そんなこと
は女性はハナからわかっているんだ。

だからひとの道徳性の発達を、正義とか責任という一本道で考える
と痛い目にあうぜ(なんて、おきゃんな感じでは言っていませんが、
私にはそう聞こえました)。 
 
さて、どうでしょう。
この「正義の倫理」と「ケアの倫理」という二種類の主張を聞いた
うえで、私たちが心しておくべきことはなにか? 
もう発達しすぎて大人になっちゃった「私」はいま、ふたつの「倫
理」と「発達モデル」のバランスをとりつつ、自分の道徳性や思考
方法を検証する必要があるのではないか?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第328回 2023.01.02

「ケアの倫理とはなんぞや?」

新年明けましておめでとうございます。
今年もブックカフェをよろしくお願いします。
ところで、カフェマスターの仕事の中に、お客様のお話を聴くとい
うことがあって、これはけっこう私にとって大切なお役割になって
いると思われます。

というのも、お客様によっては、お茶を飲むとか本を読むとかの前
に、マスターと話をしに来られる方も多いからです。
その話にもいろいろな種類があって、雑談から政談、相談から縁談、
失礼、さすがに縁談はありませんが、講談や漫談まがいのおしゃべ
りもありますね。

そのすべてに応対するのがマスターのお役目であり、カフェの存在
意義でもあります。
というのも、カフェはセラピーやカウンセリングの場所ではないけ
れど、「話を聴く」という形での「ケア」を行なっている面もある
と思うからです。
ダメダメ、これを岸田首相の「聞く力」と同じと思ってはなりませ
んですぞ。

「もうひとつの声で」(キャロル・ギリガン/風行社)

これはかなり昔に図書館で借りて読んでいたものの、絶版になって
しまったので残念に思っていたのですが、ようやく最近改定新版が
でました。
男性中心の権威主義社会はおもに「正義の倫理」で動くが、女性は
「ケアの倫理」で動くことが多い、ということをたくさんの聞き取
り調査から明らかにした、画期的な研究でした。

「正義の倫理」は、法律とか規則によって勝ち負けを決めることが
主流になる。多数決だって裁判だってそう動いている。それはとき
に権力や暴力を含む道徳律となって、「勝ち負け」を競って「戦争」
にまで至るときがある。

しかし「ケアの倫理」は違う。
ケアとはもちろん医療・看護・介護としての行為だが、それ以前に、
争いを嫌って相手をおもんばかることだ。相手に注意を向け、話を
聴き、配慮をし、心づかいをして、応答する責任をひきうけること
でもある。
それはあくまで人と人との関係性を重視し、ものごとを白か黒かで
決めつけないことでもある。時間をかけてよく話し合おうと心がけ
る。その過程で相手との関係を創り出していくのだ。
それを「もうひとつの声」として認めなければならない。

簡単にはこのよう考え方なのですが、じつはそこに、学問的には発
達心理学の系譜があり、時代的にはフェミニズムの盛り上がりがあ
りといった具合に、いろいろな読み方ができる研究でもありました。

それをまとめてうまく概説できる能力は私にはないので、ギリガン
さんの「ケアの倫理」からみた「ひとの発達モデル」、つまり人間
の倫理観はどのように発達するかのモデルだけを、まずはご紹介し
ておきます。ひとまずご容赦を。

レベル1 「個人的生存への志向」 生存を確保するために自分自
    身をケアする。
レベル2 「利己主義から責任性へ」自分の自己中心性が批判され、
    責任の概念が表れ、自己と他者との間の新しい関係を理解。
レベル3 「自己犠牲としての善良さ」 善さとは他者をケアする
ことだと考え、他者に対するケアが中心になって自己がな
いがしろにされる傾向
レベル4 「善良さから真実へ」 事故と他者との間にある相互の
    結びつきについて理解が進み、他者に対してと同様に自己
    に対して責任を担うようになり、自分のもつ欲求に直面。
レベル5 「非暴力の道徳性」 配慮と責任は自己と他者の両者に
    向けられ、傷つけたり、利用したり、搾取したりしないこ
とが道徳的選択の原理となる。

どうでしょう。
ちょっと表現が固いし、そもそもギリガンさんは恩師コールバーグ
さんの発達理論を発展させようとしていたわけなので、そのへんを
見ないといけないのでした。
なので、「ケア」に戻ってくる前に、もう少し回り道をさせていた
だきます。その間、新年もあいかわらずマスターの「ケア」のお仕
事は続く。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第327回 2022.12.25

「なぜ詩を書くのか、とボソボソ疑問を呈する」

ドンドン短編小説から離れていきますが、しょうがない。
私がパウル・ツェランの詩を読んでイメージするのは、たとえば以
下のようなものでした。
「なにもないところ」を掘って進まなければならない人間。
「もはやない」のに、あるかのように振舞わなければならない私。
「だれか」と出会い、対話をすべく歩き続ける果てしない道。
いまはここにいない「君」に向かって紡ぐことば。
はい、これらはもちろん、彼の詩の字句を組み合わせたものでした。
どちらにしろ悲劇的な精神のしわざとならざるを得ません。

「パウル・ツェラン詩論集」(パウル・ツェラン/静地社)

ではなぜ、ツェランは詩を書くのか? これが私の疑問です。
いやもちろん、「ひとはなぜ詩を書くのか?」ということでもいい
のですが、なんだか彼の詩に対する切実さ、つまり生きようとする
意志と詩を書くこととの相克に、つまり「悲劇的」な面に強く惹か
れるものですから。

まず確認しましょう。
彼にとって「ドイツ語の死を書き続けること」や「母の魂の居場所
を作ること」が生き延びる意味であり、「その使命に生涯を賭して
なお、生き延びたことのやましさに彼は終生苦しむことになる(冨
岡悦子/朝日新聞2022年4月6日)」と言われます。

はい、とてもわかりやすい解説でした。
これで結論ということでもいいのですが、いっぽうで彼自身は、
「もろもろの喪失のただなかで、ただ『言葉』だけが、手に届くも
の、身近かなもの、失われていないものとして残りました」、と講
演で述べています。これはどういうことか。
「詩は言葉の一形態であり、それゆえにその本質上対話的なもので
ある以上、いつかはどこかの岸辺にーーおそらくは心の岸辺にーー
流れつく、という信念の下に投げ込まれる投壜通信のようなものか
もしれません」。

そうしてみると、たどたどしく、つっかえつっかえ、なんども繰り
返しながら告白するかのような彼の詩は、私には、絶海の孤島から
壜に詰められて流される、彼から「だれでもない者」「いまは居ない
者」への、つまり「あなた」と呼びかけるべき「神様」への手紙の
ように思われるのでした。

それは「あなた」の手に委ねられたーー
死のないひとりの「あなた」
によってすべての「わたし」は自分自身となった
 (「誰でもないものの薔薇」より)

対話をしたいとして生まれることば(詩)は、苦悩そのものになる。
その苦悩はことばとして書かなければ自分がもたない。そしてそれ
を、だれに向かってかはわからないが壜のなかに入れて海に投げる。
それはもしかしたら「君」「あなた」に向かうかもしれないし、「神
様」に届くかもしれない。
彼のそんな切実な声が聞こえてきませんか。

そういえば前回紹介したアドルノは、その後自分の発言を修正して、
「ねばり強い苦悩は拷問を受けた者がわめくのと同じ表現の権利を
もつ。それ故アウシュビッツ後に詩がもはや書けないというのは間
違いであったかもしれない」と書きました。

ツェラン自身も、友人への手紙の中で、
「しかしなお、絶望のなかからこそ、詩は生まれてきたのです」「詩
はしばしば絶望的な対話である」と書いているようです。
やましさ、苦悩、対話への望み、それらが彼に詩を書かせたのかも
しれない。

そして、ことばを紡いで詩を書き続けることだけが「自分にとって
『現実』をつくること」であり、それが自分の「最も人間的な瞬間」
であり、それこそが自分自身に出会うということだ。
そういうことではないでしょうか。

その「自分自身との出会い」の行なわれる道が、「(自分という)み
じめな生き物の道」であり、その道を歩くことは、「自分自身を先立
てて自分自身のもとへと赴く」、という生き方になる。
つまり、詩を書くことでようやく彼は生きることができたのでしょう。
しかしこんなふうに書き綴る詩人も、残念ながら道半ばにして自身の
命を絶つことになったのでした。

だとすると、詩は、絶望は、せっかく努力してつくった現実は、彼
を生かさなかったのでしょうか? 自分自身のもとへとたどり着く
ことはできなかったのでしょうか?
こうして疑問は疑問をよび、疑問の連鎖から抜け出せなくなりまし
た。これぞ詩の魔力。いや、ウクライナでの戦争のせいもあるかな。


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第326回 2022.12.17

「戦争とウクライナとツェラン」

短編小説からは離れますが、人間的瞬間「だけ」を扱うのが詩であ
りまして、詩こそ、その奥に大きく深い世界を抱え込んでいるとい
えることになります。
そしてその「奥にある世界」の主題が戦争と死ということになると、
私には必ず思い出される詩人がいます。
とりわけウクライナで戦争が続いているこの時期に。

それはパウル・ツェラン。
第二次戦争前はルーマニア領であったウクライナの町チェルノフツ
ィで生まれたドイツ系ユダヤ人で、ドイツ語で詩を書き、戦後はフ
ランスに移住してフランス国籍を取ったという、パウル・ツェラン。

まず、こういう混み入った経歴のひとの国籍・民族・言語アイデン
ティティというのがどんなものなのか、日本人の私たちには想像も
できませんですよね。
彼の両親は強制収容所に送られて亡くなっています。
こうして青年時代に戦争や迫害や強制収容所収監の痛みをその身に
引き受けた彼は、戦後にパリで多くの詩を書き、評価を高めます。
しかしその後、40歳でセーヌ川に身を投じてしまうのでした。

「パウル・ツェラン詩集」(飯吉光夫 編・訳/小沢書店)

そういう予備知識をもって読んでしまうと、彼の詩がまるで戦争と
いうデッカイ出来事から抽出された、死についての象徴と暗示の書
のように思えるのですが、、、、いやいや、なるべくまっさらな気持ち
で読むことにしましょう。

代表作「死のフーガ」より。
僕らは宙に墓を掘る そこなら寝るのに狭くない
一人の男が家に住む その男は舵をもてあそぶ ・・・(中略)
 彼は口笛を鳴らして自分の犬どもを呼び寄せる
 彼は口笛を鳴らして自分のユダヤ人どもを呼び出す 地面に墓を掘らせる
 彼は僕らに命令する 奏でろさあダンスのために

とはいえ、どうでしょう。
なんの予備知識なしに読んでも、彼の詩によって、私たちはとんでも
ない場所に連れてこられてしまった感触が濃厚にいたします。
家で安穏と過ごしていたのに動員令がかかっていきなり戦場に駆り出
された召集兵のような感じと申しましょうか。あるいは、まるでシャ
ガール(やはりロシア系のユダヤ人でパリで活躍)の絵の中の人物の
ように、足が地に着かず横になって宙に浮いている感じとでも申しま
しょうか。
とてつもない不安に襲われてしまう。

彼は叫ぶ もっと甘美に死を奏でろ 死はドイツから来た名手
 彼は叫ぶ もっと暗鬱にヴァイオリンを奏でろ
 そうしたらお前らは煙となって空に立ち昇る
 そうすればお前らは雲の中に墓を持てる そこなら寝るのに狭くない

戦場では、いつか突然、こんなふうに死神がやってきて、語りかける。
戦場でも強制収容所でも、ひとはただただバタッと死ぬ。墓はない。
自分の死は自分で自分の死体を葬らなければならない。それでは成仏
できない。

この、メロディックで鬱々とした戦争の真実に、私たちは胸ぐらをつ
かまれてガクガクと揺さぶられ、まるで自分も、爆風で空中に放り出
されたままそこに留め置かれたかのような恐怖を味わうしかなくなる
のでした。
戦争ではみんなこうして死んじゃうんだ、って思わされるのですね。

ところで、ドイツの哲学者アドルノのことばに、「アウシュビッツの
あとでは、詩は不可能だ」というのがあります。
正確には、「アウシュビッツ後に詩を書くことはもはや野蛮だ。そして
今日詩を書くことがなぜ不可能になったかを語る認識を、詩は蝕むの
だ」というものでした。

これは、戦争における大量虐殺という「事実」があった後では、なに
か人間的なもの(人間的瞬間)を「空想」させ、夢や理想を語ったり
幸福を謳ったりするようなポエム的な抒情など無用だ、無駄だ、無理
だ、無意味なのだ。と、こう彼は指摘して、西欧文化の大きな柱であ
った詩作の終焉を宣言したのでした。

しかし私は思います。
ツェランの詩には、そんな哲学者の「感傷」を飛び越える大きな力が
ありませんでしょうか。いつであっても普遍的なものを、いつまでも
残る詩に昇華させたのがツェランではなかったでしょうか。

いやー、しかし、なんですなあ、とくにいまは、こんなまじめな感想
を述べざるをえませんですなあ。
ウクライナ、戦争、虐殺、核の威嚇・・・新聞紙面におどるこのよう
なことばを並べると、いつになっても、時代がどう変わっても、私た
ちは同じことを同じように繰り返しているだけじゃないか、と思えて
しまう。

詩に普遍性を感じるというのは、そういうことかもしれません。
ツェランの詩は、たんなる情感とか象徴とか暗示ではないのです。
で、とつぜん強引に結びつけるようですが、ノーベル文学賞を受賞し
たボブ・ディラン(両親がユダヤ人でウクライナ移民)にも、たぶん
こうした時代の因果と詩の役割が見えていたのかもしれませんね。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第325回 2022.12.11

「戦争と死だけがある」

短編小説は、奥にある大きく広い世界からにじみ出た、そんな「人
間的瞬間」をあつかう。
それならば、死とはなにであるとか、運命とはこうであるなどとい
う「奥の」世界を、大仰にまとめる必要はありませんでしょう。
われわれ大人は、だから安心して、グダグダ読書日誌を書き続けて
いっていいんです。
って、なにを安心してなのかわからんけど。

ポオの時代から下って200年、ビアスの時代からも150年、現代で
は、ひとは戦争でただただ死んでいく。
とくに原爆以降現在のウクライナにいたるまで、ポオ的なおぞまし
さもなく、ビアスのような思い入れもなく、なにかしらの想念に縛
られることもなく、ひとはただただ死ぬ。
戦争の悲惨さだとか、生の意味とか、兵士がかかえる精神的苦痛、
などというシングルストーリー的な語り口も不要になりました。

「本当の戦争の話をしよう」(ティム・オブライエン/文春文庫)

は、作者自身の戦争体験をもとにした連作短編集です。
「本当の戦争の話というのは、全然教訓的ではない」
「本当の戦争の話というのは、一般法則というものはない。それら
は抽象論や解析で簡単に片づけられたりはしない」
「本当の戦争の話というのは、いつまでたってもきちんと終わりそ
うもないものだ」
「本当の戦争の話というのは、戦争についての話ではないのだ、絶
対に」、などと書かれます。大きく広い世界の劇的な戦争の話とい
うものは、すでに排されているようです。

ですからここでは、「死」についての叙述はこんなふうになります。
「なんてこった、とラット・カイリーが言った。こいつ死んじゃっ
たぜ。こいつ死んじゃった、と彼は言い続けていた。それはすごく
深遠な言葉のように思えた。こいつ死んじゃってる、本当だぜ。」

「まるでセメント袋みたいだったぜ、と暗闇の中でカイオワは語っ
た。ホントだぜ、ズドン・ばたっ、だもんな」
「深い悲しみを感じることができたらなあと彼は思った。あるいは
怒りでもいい。でもどんな感情も浮かんでこなかった。努力しても
無駄だった」

ここでは人間の尊厳などという価値観は、とうに失われ、もちろん、
もはや「人間的瞬間」もありません。
もはや「ヒト」は、すっかり死体や戦士という「モノ」に成り下が
って、ひとりずつナラティヴをもつものではなくなっているのです。
こうして「本当の」戦争が、私たちの目の前にググッと迫ってくる
のでした。

こういう本の感想をもとにカフェでお客さんと戦争の話をするとき
も、いったい自分たちにはなにができるのだろう、なにを責任をも
ってなにを話せるだろうなどという、無力感に陥いることが多いも
のです。

それは、ただただ「ズドン・ばたっ」と死ぬ人を私たちは見たこと
がないゆえに語る資格もない、というあきらめでもあります。
だって私たちは、ふだんはやはり、まるで宇宙空間から下界を眺め
ているように、テレビやネットで戦争のニュース画像を見ているだ
けなのですから。

だから私たちは、小説によって戦争と死という奥の世界について想
像力を鍛え、人間的瞬間に思いを寄せるしかやりようがないのです。
そう思いません?

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第324回 2022.12.04

「奥にある広く深い世界」

短編の良さ、というか良い短編というのは、そこに描き出された物
語の奥に、その何十倍もの広く大きい世界があると感じられるもの
だと、私は思います。
逆に言えば、広く大きい世界の一端が、なにかの拍子に漏れ出てし
まって、それが結晶のように固まったものが良い短編だと、そんな
ふうに感じるのです。

注文すると3分ですぐに「ヘイお待ちっ!」と出てくるチャーハン
であっても、そのおいしさの奥には中国四千年の歴史が詰まってい
て、それを客は気づきにくいが、じつは料理人は、その伝統のすべ
てをその一品に詰め込んでいるのだ、とそんな感じ。

「天使エスメラルダ 9つの物語」(ドン・デリーロ/新潮社)

イタリア系移民の子としてニューヨークのブロンクス(下町)に生
まれたドン・デニーロ。ドンといえばデニーロ。
そう、名前からしてイタリア系ですもんね。パスタ料理の伝統やゴ
ッド・ファーザーの歴史が大きく奥に控えていそうですもんね。

・・・と、いやいや、いけませんいけません。
予断は慎みましょう、パスタ料理は忘れてください。
ただ、若いアメリカという国の小説も、こうして古い民族の長い歴
史が底流にあるのかもしれない、ということだけ心にとめておきま
しょう。

このなかの「第三次世界大戦における人間的瞬間」という短編は、
近未来の世界で人工衛星に滞在している二人の宇宙飛行士の話。
衛星内での二人の仕事の描写に始まり、その途中で、地球上では第
三次世界大戦がおこなわれている、とほのめかされる。
「ほのめかされる」というのは、戦闘シーンもなにも描かれず、宇
宙船のなかの二人の生活描写だけがあるからなのでした。
彼らの会話からも、悲惨な戦争の話題は慎重に排除されている。

これはまるで、「渚にて」(ネビル・シュート/創元SF文庫)を思
い起こさせるようなシチュエーションです。
「渚にて」は、世界は核戦争で破滅しているけど、オーストラリア
に逃げのびた人たちの静かな日常生活だけが淡々と描かれていく、
というじつに不気味な物語でした。

まずはこのように、小説で描かれている場面の、何万倍何億倍もの
広い世界が奥、というか背後、というかこの小説では「下界」にあ
るということも、心にとどめておきましょう。

二人のうち若いほうのヴォルマーは、「考えてみりゃ、ほとんど信じ
がたいよ。あんな氷だの砂だの山だのの中で生きてるなんて」と言
って、地震、噴火、洪水、台風、津波、などの恐ろしさを並べ立て
(「戦争」は言及されない)、「なのにみんなあそこに住んでいる。
あそこから動かない。だいたいどこへ行けるっていうんだ?」と、
ひとりごとをする。

もう一人のベテラン飛行士、語り手の「私」は思う。
「私は彼とカロリー摂取について話し合いたい。耳栓の効果、鼻炎
薬の効用について話し合いたい。耳栓は人間的瞬間である。アップ
ルサイダーやブロッコリーは人間的瞬間である。ヴォルマー自身も
人間的瞬間である。特にいまが戦争中であることを忘れているとき
の彼は。」

宇宙空間にポツンといる二人、その下界には何億倍もの生活が営ま
れているはずの地球があって、戦争という大事件が起きている。
二人には戦争も、それによる死にも関わりないけれど、とはいえそ
れぞれが混乱し、まったく異なる精神状態でいる。
ふたりともまるで、それぞれの方法で気が触れないようにしている
みたいだ・・・その時、なぜか、通信機がラジオの音を拾う。

地上のラジオの音? おお、不思議なことがあるものだ。
しかもそのラジオの音は、ずっと昔に人びとが聴いていたような、
雑音交じりの、アナログな、そしてしあわせな、にぎやかな、無邪
気なラジオ番組なのだ。それがなぜ宇宙で人工衛星の中で聞こえる
のか、どんな原理によるものかは、わからない。
まるで「想像ラジオ(伊藤せいこう/本誌第129回)」のようだ。

この現象は二人にとって救いなのか。はたまた終末の暗示なのか。
これは本当の現実なのか。夢の中のできごとなのか、分からない。
いま、ヴォルマーが子どものように無心になって宇宙船の窓から見
る地球はほんものなのか。そこで行われている第三次世界大戦も現
実なのか、はたまた二人の妄想か、わからない。

ただし、聴こえるラジオはほんものだ。
それが二人にとってもっとも人間的な瞬間なのだから、だからそれ
が、それこそが、ほんものなのだ!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第323回 2022.11.29

「ゆっくり、二度、読むべし」

短編小説こそ、ゆっくり読むべし。
作者のことばづかいに注意すべし。
すぐに結末にとびつくことなかれ。

というのも、短編ほど、どこに落とし穴やワナが仕掛けられている
かわからないものはないからだ。
なぜこの人物はあんな行動をするのか? なぜそれは、いま、ここ、
でなければならなかったのか? 作者はなぜそんな表現を使うのか?
それを吟味すべし。違和感を感じたら立ち止まるべし。早く結末を
知りたい気持ちはわかるが、そこはグッと我慢しなければならない。

「ビアス短編集」(アンブローズ・ビアス/岩波文庫)

そういう意味でいえば、ビアスの短編小説を読むときほど、気をつ
けなければならないときはありません。
とりわけ、どの作品にももれなく死と死体があるのですから、読む
側はついついそのおそろしげな描写に引き込まれて、そちらに注意
が行ってしまいます。
さらにすべての作品にトンデモナイ結末がひかえていて、それは読
者の安易な期待を打ち砕くものですから、それがなんとなく気にな
って、早く最後まで読みたくなってしまいます。

たとえば、有名な「アウル・クリーク鉄橋での出来事」。
南北戦争のまっただなか(日本では明治維新の直前)、ひとりの男が
北軍の兵士によって絞首刑にされようとしている(ご存じのように、
さいごは北軍が勝者、南軍が敗者になります)。
はいっ、みなさん、まず戦争、死、死体がでてきますね(ジャパネ
ット○○○のCM風に)、でも冷静に読みましょう。

絞首刑の理由の説明や、とりおこなわれるべき儀式の叙述、刑に処
せられる人物と周囲の情景の描写などが、こと細かになされます。
ここ、ゆっくり読まねばなりません。
というのも、これらの記述にはすべて理由があるからです。

たとえば刑の直前、首ら縄を巻かれた男にはある音が聞こえる。
「鍛冶屋がハンマーで金床を打ったときのような、鋭い、はっきり
した、金属的な音だった。彼はなんの音だろうと思った。そしてず
っと遠くなのか、それとも近くなのか、その両方のように思われた。」

「次の音がだんだん間遠になるのが腹立たしかった。音は強さと鋭
さを増した。まるでナイフで突き刺されたように耳に痛かった。い
まにも悲鳴をあげそうになるのを感じた。」そのように彼に聞こえて
いたのは、じつは、自分が持っている懐中時計の時を刻む音だった
のだ。

はいっ、周囲の情景から死刑囚の内面に一気に飛び込むこの表現!
みごとです。しっかり噛みしめて味わいましょう(高校の国語の先
生風に)。でもみなさん、そこだけに捕らわれてはいけません。

北軍将校の号令によって男は絞首されるが、吊るされたとたんに綱
が切れて川に落ち、岸に泳ぎ着いて処刑の手から逃れる。彼は吊る
された時の縄による首の痛みに耐えながら、必死の思いで追跡の手
を逃れて自宅に戻ろうとするのだ。
もうすぐわが家に着く、その帰宅寸前の描写がこれ。

「彼はいま自分の家の門の前に立っている。」「妻が、生き生きとし
た、冷静な、優しげな様子で、ベランダから降りてきて、彼を迎え
る」、しかし・・・というところで、この先は書きませんけれど、
荘子の「胡蝶の夢」と並び称される傑作の一節でございました。

どうでしょうか。これだけの書き写しではわかりにくいですが、背
景描写が具体的で現実的であればあるほど、主人公の内面との対象
に読者の心が騒ぎ、人物の行動が具体的に迫真に満ちていればいる
ほど、彼の哀れさが際立ち、その心理描写がすぐれていればいるほ
ど、結末の悲しさに心を打たれる。
これぞビアスです。スルメのように噛めば噛むほど味が出てくる。

唐突なれど結論、というか、短編小説をよりよく読むための方法を。
ズンズンサクサク読みたいのはわかる、降りる駅までに電車の中で
読み終えたいのもわかる。
しかーし、短編こそ「ゆっくり二度読むべし」。
はい、もう一度。「ゆっくり、二度、読む、べし」。
ストーリーと文章を彫琢した作家の労に敬意を表するために、よろ
しくです。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第322回 2022.11.20

「ここから始まるアメリカ小説」

それにひきかえエドガー・アラン・ポオは、短編のみならずアメリ
カ小説の祖としてだれもがすばらしいと誉め讃え(フランスの詩人、
ボードレールも大きな影響を受けたという)、かくいう私も褒め称え、
その作品は「モルグ街の殺人」、「黒猫」、「早すぎた埋葬」「黄金虫」
、、、、などなど、いずれも傑作ぞろいである。

だれもが小中学生のときに読んで(自主的に、少年少女世界文学全
集で)大人になってからもそのあらすじを言えるような、強烈な印
象を残す作品ばかりだ。

じつにこれらは、出汁の煮だしすぎで、コクとウマミだらけになっ
てしまった小説群ともいえるだろう。
その不気味さ(なんか怖いなあ)、奔放な想像力(こんなこと、ある
のかなあ)、19世紀前半ならではのおおげさで濃ゆい表現を含めて、
いつになっても褪せない喉ごしを味わえるのが、ボオの小説群なの
だ・・・と、結論を先にキッパリ述べつつ、

「エドガー・アラン・ポオ全集」(春秋社)  を再読。

ポオは1809年に生まれて1849年に没した、アメリカが独立してか
らまだ間がない、19世紀前半の作家です。日本では江戸時代の終わ
りころですね。
彼の両親はともにスコットランド系アイルランド人でした。
うむ、こんどはそっちか。アイルランドか。貧乏だな、少数派だな。
いずれタイタニックの船底に乗り込む人たちの先駆者だな。

などと偉そうに言いながらあらためて読み直してみると、彼の小説
には「生」とか「美」が少なく、あるのは「死」「夢」に「運命」
「病気」、そういう人間の「影」の面ばかりが目につくのでありまし
た。そう、これが読んでいて怖かった原因でしたね。

奇妙な心理学的短編「ウィリアム・ウイルソン」の冒頭には、その
すべてがあります。
「死」・・・「死は近づく。死の影はやくも迫り来たって、ほのかに
もわが心をゆるがす」
「運命」・・・「(運命という)人力以上の境遇の奴隷」「忌まわしい
運命は、まるで喜び勇んで私を追いかけた」
「夢」・・・「実際自分はいままで夢で生きていたのではあるまいか」

こうした表現は、いかにも200年前の小説の、時代がかったもので
あるのは確かです。もしかしたら、そこに違和感を覚える方もいる
でしょう。
とりわけこの小説の主人公が、「私はずっとむかしから想像力と短気
で有名な家族の子孫であった」などと述べるのをみると、じっさい、
作者のポオもその一族も、きっとおなじように悲劇的で自虐的な、
大げさな精神の持ち主だったのではないかと思えてきます。

はい。たぶんその通りです。
ポオは詩人だった。まさにそういう血統だったに違いない。
詩人は現実よりもかなたの世界(いま自分が居る場所とはまったく
違った世界)、とりわけ夢や運命や狂気や死に惹かれる。
それこそまさに彼そのものだ。
だからもちろん彼は、詩と短編しか構想できなかった。
だって、悲劇的な世界への想像は長距離走に向かないものだから。

また、彼は建物や装飾や小物など、小説のディテールにこだわった。
それらは死や運命や狂気への想像力を高めるスイッチだった。
あの時代の作家にとっては、読者の想像力を刺激して別の世界に誘
うために、自分の想像の羽をいかに広げるかが問われたのだったと
いうこともあったのだろう。
そう、ボードレールの詩「旅への誘い」のように。

ということで「ウィリアム・ウイルソン」に戻りますが、この主人
公は、同姓同名のウィリアム・ウイルソンにつきまとわれ(そう感
じ)、模倣される自分に耐えられなくなって自分を持ち崩し(自分で
勝手に苦しんで)、そうなった「運命」を呪い(出た、運命!)、同
姓同名の相手を呪い(迷信や呪いが好き)、最後には「夢」の中にい
るかのような心地で相手を殺すことになります(夢には逆らえない)。

「現世に対し、天に対し、そしてまた希望に対し、私の中にお前が
生きていたのだ。そして私の死において――じつはお前自身である
この姿によって見よーーいかにまったくお前は、お前自身を殺して
しまったことを」。
なんてわからんちんの、ややこしい、おおげさな、めんどくさい主
人公なんだ!

しかしこれらのことばと心理のなかに、想像力と短気で世を渡った
スコットランド系アイルランド人の移民の子孫としての作者が見え
ませんでしょうか?
ん、これ、偏見? いや、濃ゆい味わいの小説家への賛美!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第321回 2022.11.14

「おーへんりーの良さはどこらへんに?」

で、その、オー・ヘンリーなんですがね・・・。
作家紹介的には、1862年にノース・カロライナで生まれたという
ことなので、移民や移民二世ではありません。民族的出自による
特別な個性というのはみられないようです。

借金のでごたごたで3年以上も刑務所に入っていたり、奥さんを亡
くしたりといろいろ苦労があり、むしろそのように生活が破綻して
いたことの影響で、40歳過ぎてからやっと本格的に創作活動を開
始した、という遅咲きの作家なのでした。

その後、47歳で亡くなるのですが、その間に272の短編小説をも
のしたわけですから、単純計算で最盛期には週に一遍を発表してい
た計算になりますね。スゴイ! ヘンなひと!
きっと、溜まりに溜まったものがあったのでしょうね。
彼が、厳しい生活と苦労の経験をフィクションの形に再生させるこ
とができた作家だ、という肯定的な評価をうけるのは理由のあるこ
とかもしれません。

「オー・ヘンリー傑作選」(岩波文庫)

たしかにみんながすばらしいと誉めます。
「賢者の贈り物」、「最後の一葉」、「忙しい株式仲買人のロマンス」
、、、、などなど、いずれも傑作だし、だれもが小中学生のときに
推奨図書として図書館で読んで、大人になってからでもそのあら
すじを言えるような印象的な作品ばかりです。

とりわけニューヨークを舞台に、懸命に生きる貧しい人たちや移
民たち、そしてあらたにブルジョワ階級に成り上がろうとしてい
る活気あふれる人たちの生活を描いたものには、彼のすばらしい
観察眼がいちばん活きているように思われます。

ということで、どの小説もすばらしいと、とうぜん私もいいます。
解説のことばを借りるなら、「絶妙のプロット、独特のユーモアと
ペーソス」ですからね。「この世の辛酸を十分になめた生活者の、
ずしりと重い体験が反響する作品群」ですからね。
なにもつけ加えることはありません。以上、おわり。

・・・・さはさりながら、こういうことも言えるのではないでし
ょうか。
「絶妙のプロット」とは、スキのない、読者の感情や意見の介入
を許さないこともある。「このオチにはなんぴとたりとも文句を言
わさないぞ」、みたいに。
「独得のユーモア」とは、場合によっては、わかるひとにはわか
るけど、わからないひとにはわからなくてもいいという作家の態
度を表わすこともある。「キミわかるかなー、わかったら偉いよ」、
みたいに。
「ペーソス」とは、哀しみに裏打ちされた人間愛といいたいとこ
ろだが、読者の目線におもねった昼メロのお涙ちょうだい的な作
風のことともいえる。「ハイッ、ここ、泣くところですからねー」
みたいに。

そういう作家的特性とともに、たとえ悲しいテーマを扱った小説
であっても、移民の屈折した感受性とは異なるひどく楽天的なア
メリカ人気質が前面に出ているようにも思われる。
さらには、描かれた物語に奥の深さが感じられない。つまり、複
雑な出汁の深みというよりも、通り過ぎる一瞬のウマミだけ残る。
となると、「私しゃ素材の良さをうまく活かしましたので」的な、
料理人の得意顔がすかして見える気がする。

おー、ひどいですね。
いくらなんでもこんなにクソミソに言うことはないのではないじ
ゃない。ほとんど八つ当たりではないか。もっと素直に読んで楽
しめばいいじゃない、そんなお叱りの声が聞こえてきます。
とくに中学生のお子さんをもつPTAの方々あたりからは、君の
人間性を疑うなどと厳しいお声も聞こえるようです。

おーしかし、私は自分の感想を反省しないのだ。
おー変りーを読み直してみて、素直におー変りーと感じちゃった
のだから仕方ない。
大人になってPTAになったみなさんも、もういちど読んで、自
分の舌で彼の小説の味を確かめて欲しい、と挑戦しておきます。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第320回 2022.11.06

「小説のコクとウマミをつくる要素」

アメリカ社会の多様性と文学・芸術の豊穣は、ユダヤ系移民による
面が大きい。
とりわけ19世紀後半から20世紀中盤のニューヨーク。
ヨーロッパから移り住んだ多くのユダヤ人たちは、文化や考え方の
面で大きな影響をアメリカに与えた。

とくにアインシュタインをはじめとした科学者や経済学者、もちろ
ん金融業界、それからハリウッドの映画業界やボブ・ディランなど
のポップス界。それぞれの業界で多くのユダヤ系移民やその末裔が
活躍して、アメリカ文化そのものを作っていった。

・・・と、それくらいの基本知識はあったのですが、文学界でもユ
ダヤ系は、ソール・ベロー、ノーマン・メイラー、アイザック・ア
シモフなど多士済々のメンバーがいて、ああ、文学に現れる民族的
多様性とはこういうもんなのだなあ、と思うことしきりなのでした。

「魔法の樽」(バーナード・マラマッド/岩波文庫)

1914年にロシア系ユダヤ人のもとで生まれたマラマッド。
この短編集にはユダヤ教の問題やユダヤ人特有の価値観が随所にあ
らわれていて、そう、これが大戦後のニューヨークの街に流れるひ
とつの気配であり、それはきっと50年後のいまにも通じる雰囲気
なのだろうなア、と思われます。

表題作の「魔法の樽」は、ラビ(ユダヤ教の教師・指導者)をめざ
すまじめな学生リオ・フィンクルが、思い立って結婚相手を探そう
とするお話。

彼は、新聞広告で見た結婚相談仲介人のビニー・ソツルマンに結婚
相手の紹介を依頼するのだが、この男がクセのあるへんなやつで、
リオは意に沿わない相手ばかり紹介されていらつくばかり。
ところが、リオが写真を見て気に入ったひとがいて、彼女を紹介し
てくれと頼んだのだが、ソツルマンはなぜか首を振る・・・。

さあ、どうなりますか、ということなんですが、こう紹介すると、
べつにユダヤがどうの価値観がどうのということはないんじゃない
かとお思いになろうかと思います。
結婚を考えるまじめな神学徒と、プロの仲介人の男性との関係なん
て、よくある(いや、そんなにはないか)題材ですし。

そこらへんは読んでいただかないとわかりにくいのですが、ラビを
めざす学生さんがどんな結婚観をもっているのかという興味もあり
ますし、なにしろこのソツルマンという奴が、ゲーテの「ファウス
ト」にでてくるメフィストフェレスをほうふつとさせるような図々
しい感じのやつで、へんに中世的な魅力がある人物なのでした。

ほかにもちょいちょい、そういう人物や背景の「妖しさ」みたいな
ものがみられて、まるでセピア調の写真に思い出を封じ込めていた
ものがいきなり飛び出してきた感があるのが、マラマッドの魅力か
なと思います。
そうそう、あちらこちらに散らばめられる、ヌルッとした感触のユ
ーモアなんかも、彼の(ユダヤ的)魅力の一部かもしれません。

その一方で、えーと、でも、なんか、O・ヘンリーに似た、なーん
というのかなあ、ちょっと読者の顔を意識した、つまり、そうねえ、
どういうかなあ、読まれてナンボの新聞小説みたいな、ややおもね
った叙述のし方を感じてしまうこともあります。
ただそのへんも、ユダヤ人がどうのということでは全然なくて、50
年後の読者がちょっとだけ気になった「匂い」でした、ということ
でお許しいただきたい。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第319回 2022.10.30

「アメリカ短編小説のコクとウマミ」

アメリカ小説の多様さやふところの深さには、現代も続く様々な国
からの移民が影響しているのは、確かなのでしょう。
たとえ私小説的なものであっても、それが一種類の出汁で仕上げら
れているのではなく、いろいろな素材の味を混ぜてそこからコクや
ウマミを引き出している料理のように複雑な味わい。

短編小説という形式ではとくに、使われることばや豊かな感情表現
が、読み手にいっそうのコクとウマミを感じさせるおおきな要因に
なっているようです。

「なにかが首のまわりに」(チママンダ・ゴズィ・アディーチェ/河出文庫)

著者はナイジェリアからアメリカに移住した女性。
女性、とわざわざいうのは、私たちがアフリカ人の名前から男女を
判断するのが難しいからで、他意はありません。作中に出てくる、
ビアフラ内戦とかイボ族とかいう単語がなじみのあるものではない
のと同様です。

このなかのどの短編においても、主人公たちはアフリカとアメリカ
の価値観の違いや、男女の思いのすれ違いなどのはざまに居て、そ
の心象風景が描き出されていました。

表題作「なにかが首のまわりに」で、アメリカに来て小さな町のレ
ストランでウェイトレスをする主人公は、「ときどき自分を見えな
い存在のように感じて、部屋の壁を通り抜けて廊下に出ていけそう
な気が」している。
そして「夜になるといつも、なにかが首のまわりに巻きついてきた。
ほとんど窒息しそうになって眠りに落ちた。」
そんな、精神的に苦しい生活をしている。

その主人公にも、あるとき白人青年の恋人ができる。
あ、いまごろですけど、この小説で主人公は一貫して「きみ」と呼
ばれています。「きみは○○した」というような叙述のし方です。
この技法も、ここでは若い女性の主人公の、新鮮な感受性を外から
引き出しているような、効果的な叙述だと感じます。なんというか、
異国から来た少女を、アメリカ人の保護者、もとい、優しき移民の
守護神、が暖かく見守っているかのような叙述のし方もとでも申せ
ましょうか。

「きみ」は彼とロングアイランドに行って、ケンカをして、「静か
な水辺を歩いているうちに、きみの声がどんどん大きくなった」。
そして、「きみの首にまきついていたもの、眠りに落ちる直前にき
みを窒息させそうになっていたものが、だんだん緩んでいって、
消えはじめた。」

主人公がそのようにして苦しさから解放されるのを読むと、読み手
の私も、なんか嬉しくなるようです。
首のまわりにからみついていたもの、それが具体的になんと表現で
きるかはわかりませんけど、主人公が抱える息苦しさがようやくま
ぎれて、海と空に溶け込んでいくのですから。
きみは、ここで少し成長したのだ。よかったよかった。

ただ、ちょっと気をつけなければならないことがあります。
著者は「シングルストーリーの危険性」ということを言っているら
しく、たったひとつの物語はステレオタイプを形成する危険性に満
ちているというのです。

つまり、このような小説を読むときに読者の私たちが気をつけなけ
ればならないのは、たとえばアフリカ出身の移民の若い女性の苦し
みとか、個人主義のアメリカ社会のなかの孤独とか、そこでいかに
強く生きていくかとか、ついついそういうひとつの「ありがちなテ
ーマ」を無意識に設定して読んで、なおかつ「軽く」共感してしま
うことかもしれない。

「ああ、こういうテーマなのね」と飲み込んで読んでしまうと、と
くに短編小説の場合は、なにかしら単純明快なテーマ、つまりシン
グルストーリーだけを浮き上がらせ、そこから、なにか主義主張を
聞き取ってしまったり、プロパガンダとみなしたり、しかねない。
そうなると小説本来の、複数の素材からとった出汁の、重層的なコ
クやウマミを味わうことができなくなってしまう。
それは、つまらない読み方でしょ、というわけです。

たとえば、映画「スタンド・バイ・ミー」について、それは四人の
主人公が冒険を共にするなかで、一歩おとなへの道を踏み出す物語
だ、とひとことで言ってしまうと、そこにはアメリカの田舎の閉塞
感や自然の怖さなどの重なり合ったテーマが隠されてしまう。
もちろん、俳優リバー・フェニックスの魅力を語る楽しみも半減し
てしまう。
うーん、まあ、映画と比べるのもナニか。

でもまあ、そんな教訓を受け取りつつ、この本からアフリカ移民の
豊かな原色意識とアメリカの多様な価値観との混ざり合いを楽しん
でいただきたい。
そしてじつは、ときどき鋭いナイフがスっと皮膚の上をすべるよう
なヒンヤリと鋭い表現もあったりするので、その感触も楽しんでい
ただきたい。
って、なんだか偉そうに推薦の辞を述べてしまいました。

ブックカフェデンオーナーブログ 第318回 2022.1022

「アメリカ短編小説の楽しみ」

私はアメリカの短編小説には優れたものが多いと思うのですが、み
なさんはどう思われるでしょうか。

この日誌ではいままで、「停電の夜に(ジュンパ・ラヒリ)」「千年の
祈り(イーユン・リー)」「フライデー・ブラック(ナナ・クワメ・
アジェイ=ブレニヤー)」といった、現代のアメリカの実像を伝える
佳作から、暗い時代を写した「フラナリー・オコナー短編集」、そし
て古典的名作「ワンインズバーグ、オハイオ(シャーウッド・アン
ダーソン)」、などをとりあげてまいりました。

いずれも私のココロのどこかのヒモを強くひっぱって、なかなか離
さない作品ばかりでしたけど、いままで読んだものとはとはなにか
違う魅力のある短編集がありまして、それが

「掃除婦のための手引書」(ルシア・ベルリン/講談社文庫)

でした。
ここには、作者の分身であるかのような、決して楽ではない生活をし
ている主人公たちの、その生活の一断面が切り取られてポンと投げ出
されたような物語たちがあつまっていました。

表題作の「掃除婦のための手引書」では、主人公の掃除婦マギー・メ
イが、毎日いくつかのバス路線に乗って掃除をするお宅に行く。
すべて普通のお宅だ、だけど、ときどき変なこともある。
あるお宅の主人は「部屋から部屋へわたしのあとをついてまわり、何
度も何度も同じことを言う。こっちまで頭が変になりそうだ」。
そんな変な家もありつつ、いろいろな家やホームをまわって掃除をし
ていく。

主人公はそんな経験から、掃除婦たちへのアドバイスやルールを引き
出し、語っていく。
「奥様がくれるものはなんでももらってありがとうございますと言う
こと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい。」
「原則。友だちの家では働かないこと。遅かれ早かれ、知りすぎたせ
いで憎まれる。」
「猫のこと。飼い猫とは決して馴れ合わないこと。モップや雑巾にじ
ゃれつかせてはだめ。奥様に嫉妬されるから。」

「手抜きしない掃除婦だと思わせること。初日は、家具をぜんぶ間違
ってもどすーー5インチ、10インチずらして置く、あるいは向きを逆
にする。」「全部をちょっとずつまちがうと、仕事がていねいだと思っ
てもらえるだけでなく、奥様がたも、心おきなく『ボス』になれる。」

小説からこうして「手引き」を抜き書きしていくと、なんだかハウツ
ー本の紹介になってしまいそうです。
しかし、主人公の想いがこのような手引きに結晶するまでには、主人
公や掃除婦仲間の孤独とか、雇い主との葛藤とか、バスで出会うひと
との会話とか、いろいろな経験が積み重なっているのだということが
また、深くわかるのです。

もちろんそれは作者自身の経験に違いないということもわかっていま
す。いわば、ハンバーグから出る肉汁のように、経験がジワジワとに
じみ出ている。
だから解説で、作者自身のアルコール依存症の経歴とか母親との確執
とかを読めば、ああ、そうなのね、と彼女の作風の秘密に触れたよう
な気がするのも確かなのです。

しかしそれは表面的なことです。
私たち読み手に伝わる手ごたえというか、ココろの紐を引っ張るもの
と、それは違うものです。作品の秘密と作者の体験との関係とは、ま
ったく異なる次元のものだと心得ておかねばならない。

ここ、小説の魅力を語るうえで難しいところですね。
作者の経験がたんなる「経験をそのまま正直に書いた私小説」、におさ
まらずに、ひとの営みの普遍的な描写に昇華している。
そう確かに感じられる。
ここに私は、アメリカの短編小説のふところの深さがあると思うので
した。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第317回 2022.10.15

「父親を想い、悼み、偲ぶ ~残された本」

2022年8月1日に、私の父親が亡くなりました。
昭和2年生まれの94歳、老衰にて自宅での大往生でした。
下町の本所高橋(たかばし)に生まれ、昭和20年3月の東京大空
襲で両親を亡くし、その後結婚して目黒区の柿の木坂で家具店を開
き、がんばって働いた生涯でした。

ま、昭和ヒトケタらしく、頑固というか意固地というか人の言うこ
とを聞かないというか、いろいろめんどくさい人でもありました。
だから長生きしたのでしょうけど。

その父親の遺品を整理したところ、この一年くらいで読んでいたら
しい文庫本があって、そこには定番の藤沢周平や宮城谷昌光や司馬
遼太郎や池波正太郎などがゴチャ置かれていたのでしたが、そのな
かに私の知らない作者の時代小説があったので読んでみました。

「八朔の雪 ~みおつくし料理帖」(高田 郁/ハルキ文庫)

事情により大阪から江戸に出てきた主人公の女料理人「澪(みお)」
が、数々の難儀を乗り超えて、おいしい料理を創り出していきます。
江戸末期の下町、神田かいわいがメインの舞台になっています。

そういえば、川向こうの本所で生れ育ったわが父親は、土地へのこ
だわりが強かったですね。どんな時代小説を読んでも、どんなテレ
ビ時代劇を見ても、「この描写は正しいが、ここはおかしい。この
かいわいはそんな場所ではなかった」とか、「いくら鬼平でも、こ
こからここへ短時間で移動できるはずがない」などと講釈を垂れて
おりましたな。

3月10日の大空襲で両親を亡くし、しかも、住んだ場所が焼け野
原になったことで、よけいに当時の土地の思い出にこだわることに
なったのでしょう。

父親は同時に、食へのこだわりももっていました。
この小説の主人公澪の想いに、「何かを美味しいと思えれば生きる
ことができる」というのがありますが、高齢で起き上がれなくなっ
ても、「アイスがおいしい」「エンシュア(栄養補助ドリンク)より
ヨーグルトがいい」などと言っていた父親は、そのときはまだ生き
る気力を保っていたのだと思い返されます。

父親がたまに語る思い出話でも、自分の子どものころは、おとっつ
ぁんに云いつかって鍋をもって「伊勢喜」の「どぜう」を買いに行
ったし、おとっつぁんは家の裏手から船を出して横十軒堀川から大
川に出てそのまま海釣りをして、釣った江戸前のハゼや青ギスをて
んぷらにしてみんなで食べたのだ。「あの味はもう味わえない」と
か、そんな食にまつわる話が多かったですね。

というか、食い物しか思い出がないのか!とツッコミたくなるほど
食へのこだわりがあった。これも戦中世代の特徴かもしれませんが。
だからよけいにこの「料理帖」シリーズに惹かれていたのかもしれ
ません。

主人公澪の語る、「蓋を取った瞬間、上品な鰹の香りが広がる。つ
る屋(澪が働く小料理屋)で嗅ぎなれた濃厚な鰹出汁の香りとはま
ったく別物だ。奥ゆかしく、そのくせうっとりとするほど芳しい香
り」などという表現をよろこんで読んでいたかもしれないし、いや、
やはり池波正太郎の味の描写にはかなわないぜ、などとひとり講釈
をしていたかもしれません。

五感のなかでも味覚の表現は多くの小説でみられるもので、料理を
題材にしたこの小説でももちろん重要な位置を占めています。
父がそのつもりで読んだのかどうかわかりませんが、五感を刺激す
る小説はやはり、生きようする力を高めるような気がします。

あるいは、いまさらながら父の嗜好がわかる気もします。
「昆布だしの旨味は、まろやかで甘いんです。口に入れると全体に
ふんわり広がっていく感じ。逆に鰹出汁の旨味は鋭くて、舌の上に
集まってくる感じがする」と澪はいい、そうか、それでうちの父親
は上方の昆布だしのお上品な懐石料理を好まなかったのか、と私は
納得したりします。もともと江戸の職人衆は、汗で失った塩分を摂
るために塩からい醤油味を好んだわけですものね。

そんなことも含めて、江戸の下町の料理屋という商売の日常が、そ
してそこに描き出される土地柄や料理や常連客が、父親の最晩年の
気持ちを静めてくれたのであったら良かったと思いますし、作者に
はお礼を言いたいと思います。

そういえば表題の「八朔の雪」とは、
「八月朔日(ついたち)に吉原の遊女たちが白無垢を着ている情景
を『八朔の雪』というのです。残暑厳しい季節に雪を思わせる風情
からそう呼ぶ」と作中に書かれてありました。
奇しくも8月1日はこうしてわがた父親の命日となり、父親は白無
垢を着て旅立った。ということになると、これまた因縁を感じるも
のではありました。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第316回 2022.10.08

「山崎正和さんを悼む ~個人の自立を」

山崎さんは劇作家、評論家で、2020年8月に逝去されました。
私は、その「劇作」の方はぜんぜん知らないので申し訳ないのです
が、切れ味鋭い評論をものされていた方なので、折にふれてこちら
の頭の整理のためによませていただいたものでした。

たとえば、「ポピュリズム」について、
「ポピュリスト政治家は、民衆の感情を刺激し、理性よりも情念に
訴えるというかたちを取り、しかもその情念は、反感あるいは嫉妬
という点に絞られ、その対象として敵を必要とする」、なんて定義を
読むと、そうかそうか、やっぱりそうか、あの人もこの人も、かの
国のその政治家も、この定義どおりに行動しておるではないか、と
理解が進むのでした。

「柔らかい個人主義」(山崎正和/中央公論社)

ある紹介にこうありました。
「(山崎さんは)成熟した個人主義にもとづく近代社会の構築を提
唱し、企業メセナやボランティアの概念を日本に普及させた」と。
そして阪神淡路大震災での市民ボランティアの活躍を、個人主義の
実践として高く評価していたのだと。

とすると、山崎さんの考えは見田さんの「交響体」の要件、すなわ
ち個人が個人として確立されていて、その個人の自由な意思におい
て人格的に呼応しあう集団というものに合致もしています。

この本にも、「従来の家庭や企業内集団の場合、ひとはそれに一元的
に帰属することができ、しかもそのなかにいるかぎり、他人の気配
りを受けることをほぼ自動的に期待することができる」、とあります
が、これは見田さんの分類の「共同体」にあたります。
その集団にいる個人は、「自分が誰かであること」を自動的に保障さ
れ、「それにふさわしい注目を他人から受けることができた」のでし
た。

また、「近代化のひとつの指標は国家が目的指向集団に変わることで
あって、国民がたんなる地縁や信仰や、暴力的な権力によって統合
されるのではなく、一箇の具体的な課題のもとに結集するようにな
る、ということ」だと言っています。
これも見田さんの分類にあてはめれば、「連合体」にあたります。

このように、二人とも同じような「近代」観と現状認識を経て、そ
こから今後の日本社会に必要なシステムを見ようとしていたように
思えてなりません。山崎さんも80年代以降の日本の社会像というも
のを構想し、近代の次の萌芽を見つけようとしていたのでしょう。

そうした「受け取り方」のワク組みで読むと、山崎さんの「柔らか
い個人主義」とは、個が自由に動きながらいろいろな集団に参加し
て活動を行なうことであり、それはたとえば、社会の中で「相互に
サービスを提供しあう、一種のサロンやボランティア活動の集団」
として活動することかもしれません。

そこからさらに彼の考えを敷衍するならば・・・個人がそのように
して複数の集団に自立的に参加し、帰属するようになれば、社会全体
の安定にもたらす効果は絶大だ。

それは、人間を評価するメリトクラシー(能力主義)を多元化し、
人間の価値尺度が多様化されることにもつながるだろう。そうなれ
ば、個人の不安や不必要な承認欲求も解消されることもあるだろう。
そして、個人とは「多様な他人に触れながら、多様化して行く自己
を統一する能力」と定義されるようになるだろう。
「個人」が広がっていくのだ。

おなじように、経済社会においても「新しいサービスの交換のシス
テム」が開発されなければならないし、そのようにして多くの集合
で「ひとの顔の見える社会」になっていくことこそが、個人主義の
基盤であり目的でもあるのである!

・・・・ということで、この後山崎さんは、「不機嫌の時代(新潮社)」
「社交する人間(中央公論新社)」「近代の援護(PHP)」「世紀末か
らの出発(文藝春秋)」などを書き上げ、日本の近代化と自立した個
人が関係しあって作りあげる社会の可能性を考えていきました。
彼の立っている場所はやや楽観的といえるかもしれないけれど、われ
われにとってひとつの大きなヒントであることは間違いありません。
ですからもちろん、合掌です。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第315回 2022.10.01

「見田宗介さんを悼む ~交響体への希望」

もうこうなったらドンドン悼んでしまいましょう。
見田さんはニッポんの大社会学者。2022年4月に亡くなられました。

「大」なんてつけると怒られるかもしれないけれど、その後の社会学
の先生たちがこぞって見田さんを師匠としていた(おおげさですが)
みたいなことを聞くと、門外漢の私としてもやはり「大」をつけたく
なるというものです。

たとえば、「<情報化/消費社会化>こそが、初めての純粋な資本主
義である」なんていうのですが、どーです、かっこいい先生でしょ?
そのココロは、「自分で自分に必要なものを用立て、自分だけでやっ
ていくことのできる自立的システム=自己準拠等を確立した、つまり
需要(消費)をも自ら生産することで消費の壁を超えた社会だ」とい
うのです。難しいけど、かっこいいでしょ?

しかしながら一方で見田さんは、私のような社会学のシロートにとっ
ても近づきにくい大学の先生では全然なく、むしろうまいこと「学」
の入口に誘導してくれた方のような気がしています。

「社会学入門」(見田宗介/岩波新書)

たとえばこの本では、「社会の存立」、つまり「個々の人間の関係行為
が、あるいは行為の関係が『社会』を存立させる仕方には、論理的に
異質な四つの型がある」としています。

タテ軸に「意思的(個々人の自由な意思によって主体的に形成する)
か「意思以前的(個人の意思とはかかわりなしに客観的に)」かによ
る違いをとる。前者を「対自的な存立の機制」、後者を「即自的な存
立の機制」とよぶ。

つぎにヨコ軸に「関係する個々人間の『人格的』な関係態」か、「特定
の利害関係等に限定された『非人格的』な関係態」かの対称をとる。
前者が「共同態的=ゲマインシャフト」な存立の機制であり、後者が
「社会態的=ゲゼルシャフト」的な存立の機制と呼べる。
(ま、このへん、存立とか機制とかの難しそうな単語は、適当に「で
きあがった」とか「しくみ」「かたち」などと読み替えてみてください)

さて、このふたつの軸を組み合わせると、四つの根本的に異なった社会
のあり方を導き出すことができるのである。

1 共同体(即自的な共同態)= 伝統的な家族共同体、氏族共同体、
村落共同体など宿命的なかたちで全人格的に結ばれ合っている社会。
2 集列体 (即自的な社会態) = 自由競争や私的な利益追求が、「神
の見えざる手」のような社会法則を存立せしめてしまう社会。
3 連合体(対自的な社会態)= 会社、協会、団体のように、特定の
 限定された利害や関心の共通性によって結ばれた社会。
4 交響体(対自的な共同態)= さまざまな形のコミューン的な関係
 性のように、個々人がその自由な意思において人格的に呼応しあう
という仕方で存立する社会。

はい、よろしいですね。
このように分類しますと、これまで私たちは歴史的に共同体、集列体、
連合体を経験してきて、これからはそれを基にした「交響体」をめざ
すべきではないか、という提言が奥の方から聞こえてきます。

私たちはいま見田さんの社会学の入口にいるわけですから、もちろん
無理やり提言をくみとる必要はないのですけれど、少なくとも「新し
い資本主義」などという表現よりは、「純粋な資本主義である自立的
システムを越えた『交響体』的な社会」のほうが、新鮮な表現でカッ
コイイではありませんか。どーでしょう。

たとえばこれはまた、私がお仲間とともに進めていた「ファシリテー
ション」の普及にもかかわりがあることになります。
というのも、ファシリテーションとは話し合いを円滑に進めることが
狭義の定義にはなっていますが、大きくは見田さんの言う「交響体」
を目指しているものだと思うからです。

たとえば、見田さんのワークショップの参加者であった中野民夫さん
も、NPO法人ファシリテーション「協会」のお仲間ですが、彼は
「相克性を相乗性へと変える」という表現を使われていますね(朝日
新聞2022年7月27日夕刊)。
「相乗性」、これもいいことばではないですか。個人間の相克や対立を
個人どうしの相乗効果へと変える。これは個々人がその志や目的を出
し合って響きあわせる交響(これこそ「公共」でもある)の場所と意
味は同じです。

こうしたことばこそが、大学で頭で考えた「学」ではなく、見田さん
の行なった旅やカスタネダへの傾倒や、そしてワークショップなどの
実践現場から生まれてきた「生きたことば」なのではないかと思いま
す。
彼は、大学の大先生には持ちえない影響力をもたれた師匠だったので
す。ですので、深く深く合掌。


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第314回 2022.09.25

「加藤典洋さんを悼む ~未来への責任」

福島原発事故の東電の責任については、刑事訴訟では当時の経営陣
であった被告たちは無罪になりましたけど、民事の一審ではなんと
総額13兆円の賠償が命じられました(2022年7月、東京地裁)。
13兆円! とんでもない数字! とんでもない金額の責任!
判決では、東電のリスクマネジメントのまずさが指摘され、それに
よって、おのずから政府の原発政策の右顧左眄も明るみに出された
形となったのでした。

なんだか、イヤになっちゃいますよねえ。
大企業東京電力の大幹部(昔は天皇と呼ばれた会長職の方も含めて)
がみな、「私には責任がない」と言う。えっ、あなたたちに責任が
ないなら、誰が責任をとるのか。ビックリさせられるなあ。天災だ
からしょうがないというのか。いや、たとえ天災であっても「私が
責任をとる」と名乗り出る人がいてもいいのではないか。

いや、名乗り出られてもしょうがないか。だって、個人にどう責任
をとれるというのだろうか。また仮に、会社に何兆円ものカネがあ
ったとしても、それを払えば責任を取ったことになるのか。
ちなみに、亡くなった福島原発の当時の吉田所長のお墓には、いま
なお一般からのお花が絶えないらしいです。これは、彼が事故後も
自分のやり方で現場責任者としての責任を取った、それについては
納得でき、彼のご冥福を祈りたいと思うひとが多いからでしょう。

などと切れ切れの感想をブツクサ言っていても仕方ありませんが。

「人類が永遠に続くのではないとしたら」(加藤典洋/新潮社)

加藤さんは2019年5月に亡くなられた文芸評論家。
戦争とか天皇とか原発とかのごっついテーマから時事問題まで論
じておられるので、「文芸評論」という表現がなにか的外れな感じ
がいたしますが、ま、いたしかたありますまい。

いままで自分は過去のこと(戦争とか天皇制とか)ばかりを考えて
きたけれど、福島の原発事故を通じて、「なぜ私は未来のことをそ
れほど考えないですんでいたのだろう」という疑問に駆られた。
「それは誰かが未来のことは考えてくれていると頭の隅で感じてい
たからだろうか」、「だとすれば、誰がそのことを引き受けてくれる
のか」、と彼は書き出します。

原発事故をきっかけに「責任の所在」が問われ、それは自分にとっ
て政府の政策がどうの東電の態度がどうのというばかりではなく、
「未来の引き受け手」が誰なのかという疑問に取りつかれることに
なってしまった。「私の中で気づかれずにあった堅固な信憑が、ひ
っそりと死んだ。」

なんかわかるなあ。
それは社会経済的にいえばこういうことでしょう。
産業社会・資本主義社会の暗黙の了解として、「ハイリスク・ハイリ
ターン」がある。がんばってリスクを取ってドンドン儲けるのが当
たり前だ。株式会社の仕組みもそのために存在する。しかしいま日
本は低成長・人口減少で、ひとの欲望は限定的になった。金利ゼロ
が続いているのは、すでに資本主義が機能していない証拠なのだ。

いっぽうで、保険も効かないリスクが増加している。
原発において、そもそも保険も効かないような予測不能なリスクが
あったのなら、それはこの資本主義経済と株式会社の有限責任制の
限界点が見えたという話ではないか。

地震や大雨などの自然災害、戦争、自然破壊。いま起こっているこ
うしたことは、「大電力会社にも国にも責任をとれない規模のこと」
であり、加藤さんは「ここに新しく生まれている世界を自分は「無
-責任の世界」と呼ぼう、と書きます。「そこでは過失と責任という
一対一対応の関係の関節が、はずれている」のだ、と。

私も、日本に限らず世界はいま加藤さんのいう「無-責任の世界」に
なりつつある気がします。
責任を取らないのではなく、もはや「責任を取れない」ことを私たち
はやっている。たぶん私もやっている。「文明の発達というものは、
危険との共存だった(吉本隆明)」ということなら、もはや我々は個
人レベルにおいても共存できないリスクを抱え込んでしまったのかも
しれません。

ということになると、もしかしたらこうした「反文明」「脱成長」「無-
責任」を見越したうえで、「人類が永遠に続くのではないとしたら」と
いう書名を、加藤さんは選んだのかもしれません。

しかしそれはそれとして、私たちは未来に対してもたんに悲観的にな
るだけではなく、あるいはまた政府の無策!とか東電のアホ!とかい
って、「敵」や「罵倒の相手」を作って「逆説的に何かに依存」して
しのぐのでもなく、自分が「未来の引き受け手」になって、なにがし
かの責任をとれるようになる方法を、加藤さんに倣って探っていかな
ければならないのでしょう。
その大きな気づきとともに、合掌。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第313回 2022.09.19

「小田嶋隆さんを想う ~自分のことばに万歳」

本誌第37回で「ポエムに万歳!(新潮社)」を取りあげた、小田嶋
隆さんが亡くなられました(2022年6月)。  
彼はコラムニストとして抜群の切れ味をもった論評をものにしまし
たが、その特徴は、権力にこびずに良識を大事にして「自分のこと
ば」で語っていた、というところにあると思います。

そして私は、とりわけ彼の考え道すじのつくり方、といったものに
とても感銘を受けたものです。
なんというかなあ、事実の正確性を大事にしながらも、冷たさのな
い論理性と対象への公平な観点があり、発言する自分への批評眼も
あり、それらを統合して、読み手にからだ感覚で「うん、わかるー」
と納得させる言い回しがあった。

なので、きっとこのひとは、その生き方もすばらしくキレッキレで、
他人の手本になるような人格者なんだろうなあ、などと思うととん
でもないことで、ご本人はアル中で苦しんだり、ご苦労の多い方だ
ったようです。

「才能が『やすやすと作品を生みだす能力』だったり、『努力なしに
成果が出る』魔法の杖としてもたらされるものであるとしたら、こ
んなにめでたい話はないのだが、多くの場合、才能は、『特定の対象
への尽きせぬ執着』という形でそれをもたされた人間を蝕むことに
なっている」(日経ビジネスオンライン2018年11月16日)という
本人のことばどおり、彼もまたなにかに執着することで、そのなに
かに蝕まれていたのかもしれませんね。

そんな稀代のコラムニストが最後の最後で放ったのが、コラムでは
なく、小説というフィクションでした。
「東京四次元紀行」(小田嶋隆/イースト・プレス) 

序文にこうあります。
「ふだん私は、原則として事実に即した書き方を心がけている。」
それはそうでしょう、コラムニストなんだから。それを読み手は評
価しているんだから。で、続けて、「けれども、ここでは想像上の出
来事を書くことへの禁忌を緩めるつもりでいる」と書くのです。

彼はそのようにして、物書き人生の最後の最後で、事実とか論理性
から離れたフィクションを書くことを自分に許したのでした。
たぶんこの物書きのスタンスは「私小説」とは少し異なるような気
がします。理由はわからんけど、なんとなく。
 
この本には、新宿からはじまって港区まで、23区それぞれで起こっ
た小さなお話が載っています。
そのそれぞれが私にとっては、「きっとほとんど著者の経験したこと
だよね」、「そこにわずかに、劇的な要素や偶然性を加味したんだね」、
と思われ、「そうそう、そうやって自分の記憶を絵を描くように文字
として残したんだね」「だから自分のことばで語っている、と思える
んだよ」などという、まことに月並みなれど、なぜか少し甘じょっ
ばい感慨に駆られてしまうものでした。

甘じょっばいというのは、著者と自分が同時代を生きてきたのだな
あということが内容で伝わるのと、ああ、この場所には私も似たよ
うな思い出があるなあ、などということが甘い過去として思い出さ
れ、そのいっぽうで、この人は自分とは違ってこんなに広く深く世
間とかかわっていたのだなあ(たとえフィクションであっても、そ
れはわかる)と、やや苦味をともなって彼の文章が喉元に感じられ
るからでした。

最初の短編「新宿区」は、歌舞伎町にいた健二という「愛想の良い
やくざ」の話。大久保病院、風林会館、オカマ通り、そういう懐か
しい風景が出てきて、そこには「私」という酔っ払いがいて、生き
るのに下手そうな健二がいて、かたぎの自分と健二がひょんなこと
から知り合い、別れることになる。
「新宿は、いつの時代をのどの街路を思い出しても、ほぼ必ず酔っ
ぱらっている。」

そしてこの編の最後の文章。
「生まれ直すことを決意した人間は、自分の過去と和解できなくな
るということだ。健二も私も、あともどりはできない。」
な~んて、ちょっとレイモンド・チャンドラーのハードボイルド探
偵小説を読むような、ある意味での切れ味を味と塩辛さをあわせて
いただきました。
ということで、とるものもとりあえず、合掌。


ブックカフェデンオーナーブログ 第312回 2022.09.11

「からだとことば ~ オシムを惜しむ」

2022年の5月に元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムが亡
くなられました。
オシム監督はボスニアに国籍を持ち、1990年代のユーゴスラビア
紛争に巻き込まれながらも多くのサッカーチームの監督を務めて、
多くのひとから尊敬された方でした。

なぜ私のようなサッカーの門外漢でさえ、彼のことを知っているの
かといえば、彼のことばからはひととしての「公正さ」や「正義」、
そして選手への「愛情」をものを強く感じるからでした。サッカー
の技術とか戦術以前の人間性が、そこににじみ出ているように思っ
たのです。
そう思う方はきっと多かったと思います。

「オシムの言葉」(木村元彦/文春文庫)

オシムに言わせれば、スポーツにおいても「言葉は極めて重要で、
銃器のように危険である」のだと。
どんなスポーツでも、とりわけサッカーはコミュニケーションが勝
負の分かれ目なのだというです。つまりチームとしてことばでつな
がり、試合ではボールを媒介にした「対話」の力がモノをいう、と。

そして実際にプレーする選手に、そうしたコミュニケーション意識
を持たせるのが指導者の役割なのだと。
だからこそ彼は監督として、その場の思いつきや感情的なものでは
なく、ふだんから時間をかけて考え抜かれたことばを用いた。それ
こそが選手を動かすものだと考えていたからでしょう。

「ライオンに追われたウサギが逃げ出すときに、肉離れをしますか?
要は準備が足らないのです」
「サッカーとは危険を冒さないといけないスポーツ。それがなけれ
ば、たとえば塩とコショウのないスープになってしまう」
「システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システム
が選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだ」
「作りあげる、つまり攻めることは難しい。でもね、作りあげるこ
とのほうがいい人生でしょう。そう思いませんか?」

こうした彼のことばは選手たちだけでなく、サポーターやマスコミ
の心をつかみ、さらに回り回ってサッカーに縁のない私たちにも沁
みてきたのでした。
「若い選手がすこし良いプレーをしたら、メディアは書きたてる。
でも少し調子が落ちてきたら、いっさい書かない。するとその選手
は一気にダメになっていく。彼の人生にはトラウマが残るが、メデ
ィアはその責任を取らない。」

「新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危
険な方向に導けるのだから。」
「皆さんも新聞を読むときに、行と行のあいだ、書かれていない部
分を読もうとするでしょう? サッカーのゲームもそのような気持
ちで見て欲しい。」

こうした彼の言葉は選手、サポーター、地域、メディア、そしてそ
の先にいるすべての人びとに向けられているように思えてなりませ
ん。計算され、逆算されて準備されたことばなのです。
彼は、サッカーの監督を仕事にしているわけではなく、「生きていれ
ば否応なくひとに接している」とだけ考えて、ことばを信じて、対
話によって良く生きるためにことばを発している、そんなふうに私
には見えました。

そして彼は、ことばでまわりを鍛えようとする教師でありオヤジで
ありリーダーであった。それはたとえばボスニア・ヘルツェゴビナ
紛争での、自国に対する加害者にたいする「赦し」にもあらわれて
いました。さらに彼は紛争後、ことばによって「毅然とサッカー協
会の統一を迫った」。そんな共感と寛容とリードすることばの力によ
って、戦火さめやらぬ2018年に、ボスニア代表がサッカーワール
ドカップに出場するという快挙に結びついたのでした。

「サラエボ、あの複雑な歴史に彩られた地域」では、「歴史的にあ
の地域の人間はアイデアを持ち合わせていないと生きていけない。
目の前の困難にどう対処するのか。どう強大な敵のウラをかくのか。
それが民衆の命題だ。」
「今日は生きた。でも明日になれば何が起こるか分からない。そん
な場所では、人びとは問題解決のアイデアを持たなければならなく
なるのは当然だ」

ユーゴスラビア分裂という複雑な環境で生きたひとの身の処し方と、
それがひととひとを結びつける「ことば」となってスポーツや指導
のなかに現われるのを見て、あらためてコミュニケーションについ
て考えさせられるとき、西に向かって、ことばの大先輩に、合掌です。


ブックカフェデンオーナーブログ 第311回 2022.09.04

「変化と創造のための対話」

絵を鑑賞するときに、目の見える人と見えないひととが一緒に見て、
ことばを使って絵の意味を解釈していく。そして互いに自分にとっ
てその絵がどんなものであるかを発見したり、新たに意味を創り出
していく。

そんなことがあるとしたら、その過程は絵を仲立ちにした「対話」
に他ならないのでしょう。それは相手の顔を見て言葉を交わすとい
うより、モノを媒介にして共に意味を創るというかたちです。
これは一方的にモノを観るのではなく、「モノを観る他人どうしが
話し合う」というところに力点がありますから、いわば自分と友だ
ちとの一対一関係から、もうひとり加えた三角関係(?)へ移った
といえるかもしれません。たとえが悪いですけど。

それをもっと極端に、「対話は向かい合って話し合うことじゃない。
対話とは生そのもの、他者とともに自分が変わっていくことだ」と
述べるのが、

「生きることとしてのダイアローグ」(桑野 隆/岩波書店)

で紹介されるバフチンの考えでした。
この本は20世紀中ごろに活躍したロシアの思想家、ミハイル・バ
フチンの「対話思想」を解説したもので、オビにはその思想の要点
が簡単にまとめられていますので、とりいそぎ拝借いたしましょう。

・生きることとは対話することだ
・対話とはお互いを豊かに変えるための闘いである
・意識も真理も対話のなかから生まれる
・他者と融けあう感情移入はむしろ対話を貧しくする

いかがでしょう? 標語としてはなんとなくわかる気がしますね。
「闘い」なんて強いことばが使われていますが、ようは、対話はた
んなるおしゃべりとは違うぞ、いままでとは違う自分へと変わる覚
悟が必要なんだぞ、そのくらい大事なことなんだぞ、と言っている
のでした。それは、対話の仲立ちが絵であってもおなじだと思うん
です。

「理解しようとするものは、自己がすでにいだいていた見解や立場
を変える、あるいは放棄すらもする可能性を排除してはならない。
理解行為にあっては闘いが生じるのであり、その結果、相互が変化
し豊饒化するのである」。
これはつまり、相手のこと、たとえば目の見えないひとがみている
絵や世界を理解しようとするなら、とうぜんその双方が認識を変え、
生き方が豊かになるような対話になるのだ、と言うのです。

ではなぜバフチンは、このような「対話主義」とでもいうような考
えに至ったのでしょうか。
彼は、「ドストエスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)において、ドス
トエフスキーの小説世界には、相異なる思想同士の事件に満ちた
「ポリフォニー(多声楽)」のような「対話」が実現されているのだ、
だから劇的にすばらしいのだ、と言っています。

そしてさらに加えて、「ひとつの意識だけでは自立できず、存在で
きない。他者のために、他者を介して、他者の助けによってのみ、
わたしは自身を意識し、自分自身となる」といいます。
ちょっとややこしいけど、自分を自分たらしめるのが他者との対話
だ、だから「対話」こそが「生きること」であり、自分なのだと。

ほお、そうなりますと、その「対話」の契機や仲立ちはなんであっ
てもいいのですよね。絵であっても、音楽や食事であってもいい。
もちろん、契機や仲立ちなどなくてもいい。
対話の相手も、目の見えないひとであっても、家族でもいいし、友
だちでも仕事仲間でも、あるいは小説でも、シェークスピアの戯曲
にでてくる「道化」だったり、ドストエフスキーの「白痴」だった
りでもいい。極端には神様でもいい。

しかしどんな契機でどんな相手だったとしても、対話という営みは
真剣なものになるはずだ。
「生きるということは対話に参加するということなのである。すな
わち、問いかける、注目する、応答する、同意する等々といった具
合である。こうした対話に、ひとは生涯にわたり全身全霊をもって
参加している。すなわち眼、唇、手、魂、精神、身体全体、行為で
もって」と筆者は言います。

私たちは他者と、その他者のなかには「ひと」もいるし、絵や音楽
の作者や小説の登場人物なども含めてなのですが、はたしてそ彼ら
との対話に参加し、お互いを「豊かに変えて」いるでしょうか? 



ブックカフェデンオーナーブログ 第310回 2022.08.28

「他者といっしょに絵を観る、世界を見る」

絵を見る見方にもいろいろなやり方があるようです。
たとえば有名なゴッホの「ひまわり」について、「ゴッホの筆の跡
は、将棋を極めた名人の一世一代の棋譜を思わせた。真っ白いカン
ヴァスに、目の前にあるモチーフをどのように描くか想像する。そ
の作業は、棋士が盤上を見つめ、次の一手で五十手先にいかなる局
面を描き出すかを構想する姿に似ている」、と述べるのが、柚月裕子
「盤上の向日葵」(中公文庫)の登場人物です。
こういう感想もありうる。ただし非常に個人的なものになっていま
す。

ちょっと違った観点から考えてみます。
私たちはふつうに絵を鑑賞したり描いたりしているわけですけど、
じゃ、目の見えないひとは絵画を鑑賞できないのでしょうか?
じつはひとつの方法として、目の見えない人が見える人と一緒に鑑
賞する「ソーシャル・ビュー」というやり方があるのだそうです。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤亜紗/光文社新書)

このソーシャル・ビューでは、「見えているものと見えていないも
のを言葉にして」いく。絵の中になにが見えるか、なにが「見えな
いか」、それを一緒に話していくのだそうです。

ここで重要なのは、色やモチーフなどの「客観的な情報」や「正し
い解釈」が必要なのではなく、「その人にしか分からない、思った
こと、印象、思い出した経験」などの「主観的な情報」を伝え合う
ことだと。

たとえば、見えているひとは、その作品が自分にとってどんな意味
を持っているかをことばにして、見えていないひとに伝える。
たとえば、「次の一手で五十手先にいかなる局面を描き出すかを構
想しているみたいな描き方」、とかね。そして見えていないひとの
質問に答えながら、その意味を一緒に考える。

すると、たとえばいつも同じ絵をみている美術館の学芸員さんでさ
え、「見えないひと」の質問に答えて話し合うことによって、逆に
見えている側が、なにか新しい発見をするようなことが起こるのだ
そうです。

これは、ふだんから断片をつなぎ合わせて全体を演繹することに慣
れている「見えないひと」の方法が、じっさいに「見ているひと」
の気づきを促しているということ。見えないひとが足りないと感じ
る断片を補完しようとする共同行為が、お互いに新しい気づきをも
たらすということ。

このようにして、「イメージを変幻自在にアップデート」できて、
「自分たちで作品を作り直すような鑑賞のしかた」ができる、それ
がソーシャル・ビューという方法なのだそうです。

同じ絵でもひとによって全く違ったふうに見ている。他人の目で見
ると絵が今までとは別のものに見えてくる。とくに目の見えないひ
との「眼」を借りると、見えないものも見えてくるということ。
それはいったい、どういうことだろう? 

ある意味、見えないひとには、逆に死角がないのだ。
そうだ、座頭市をみよ。盲目の彼は、なぜあんな多くの敵に四方か
ら切りつけられても戦えるのか。なぜなら彼は、自分の立ち位置に
とらわれていないから死角がないのだ! 彼にはひとつの視点にと
らわれない自由がある。視覚以外の断片の情報すべてを使って全体
を俯瞰的に見ることができるので、まわりの前後左右の敵の動きが
見えるのだ!

座頭市にくらべて彼を襲う目の見えるひとたちは、相手の座頭市を
見ようとしているかぎり、必ず見えない場所が生まれてしまってい
る。それが死角だ。死角は彼らの致命傷になって、切りつけてはよ
けられ、長差しは跳ね返され、死角のはずのうしろから切りつけて
も、座頭市の死角仕込み杖による逆手斬りに突かれてしまう・・・・。

あ、失礼しました。つい勝新太郎の座頭市を思い出してしまって
興奮してしまいました。以上はまず、「眼が見えないひとが見ると
はどういうことか」について、私はそう受け取ったという話でした。
今回のほんとうの問題はその先、目の見えるひとが見えないひとの
「眼」を借りるとどう見えるのか、ということにあるのですが、そ
れは継続協議とさせていただきます。

ところでこの本の筆者は、視覚障がい者という「自分と異なる体
を持った存在」について想像力をめぐらせ、障がいについていろ
いろと訊きまわることで、「(ケアしてあげるという福祉ベース」
ではない「意味ベース」の「見えないこと」「そっちの世界」の
話を面白がっていきます。
それは、想像の中で一種の変身をするようなものなのだと。

いいスタンスではないですか!
「(そっちの世界の)見えない人の脳の中には余裕がある」
「見える人の頭のなかには(情報がいっぱいで)スペースがない」。
いいことばではないですか! そしてこういう認識こそ、継続協議
のヒントであり、自分のいままでの狭い視野や思考法を広げること
になるのではないでしょうか。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第309回 2022.08.21

「絵を描く側のスタイルの差」

いろんな人のなかから友だちになるひと(好きな絵)を見つけて、
その友だちを通して世界を愛し理解することが、「絵を観る」とい
うことである。
いい定義だと思いませんか? とくに美術館で絵を鑑賞するときに
は、そんなやり方を試してみてもいいかもしれません。

しかし「絵を描く」ととなれば、そんな受け身のことではすまされ
なくなりましょう。見るのと描くのじゃ、ぜんぜん違う。自分で絵
を描いてその絵を通して、つまりは自分を通してだれかが世界を見
直そうとしているなんて想像するならば、観てもらう責任みたいな
ものを感じるはずです。

絵描きさんというのは、みんなそのような責任感を持っているので
しょうか? そのへん、絵を描かない私にはよくわかりません。
そんな、絵を描く画家の身になってより深く絵のことを考え、「絵
筆を手に持たずに物を見ることと、それをデッサンしながら見るこ
ととのあいだには、絶大な違いがある」、などとのたまうのが、フ
ランスの批評家ヴァレリー先生でした。

「ドガ ダンス デッサン」(ポール・ヴァレリー/岩波文庫)

ここらへん、ちょっとしちめんどくさい議論になりますけど、ご容
赦ください。だって、絵を描くこととそれを見ることとその全体を
文字で書くこと、をまるごと考えなきゃならないのですから。

「ある物を自分がどのように知覚しているかを明確にするためには、
それを頭の中でデッサンする必要がある。そしてその物のデッサン
を(実際に)描くためには、意志的な注意力を働かせなければなら
ず、その意志的注意力は、私がはじめに知覚しているつもりになっ
ていたもの、よく知っていると思っていたものを、ひどく変形して
しまう・・・」と、まず先生はおっしゃいます。

つまりここには、決定的な落差があると先生はおっしゃるわけです。
見てデッサンすることによって、明確にしようとしていた自分の知
覚があいまいにぼやけてしまうのだと。まるで、物理学でいう不確
定性原理みたいなもので、見ようとすると見られるという行為によ
って対象じたいが変化してしまうと。
まあこれでは、絵描きさんが絵を描くことによって世界を愛し理解
するなんてことは難しそうですね。

ドガは、ご存じのように激しく動き回る踊り子をデッサンし、描き
とめた画家です。ヴァレリー先生は上記のように言いつつ、そのド
ガについて、彼は対象の踊り子に強い愛着を抱きながらも「(眼に
よって)彼女たちを捕獲してしまう。彼は踊り子というものを明確
に定義するのだ」といいます。

これはどういうことでしょうか。
明確にしようとしていたものは自分から逃れてしまうのだが、ドガ
だけは対象を捕まえたのだ、こういうことでしょうか。
きっと、ドガは踊り子の一瞬を画布に定着する「スナップショット」
を放ったということでしょう。それはかっこよくいえば「一瞬で過
ぎさるものを熟慮された意志の持続のうちに閉じ込めようとしたの
である」ということでしょうけど、ただ、もちろんこれはドガの方
法論のヴァレリー先生による一方的な解説であって、たとえばルソ
ーのような純真な風景画家の「世界を愛する方法」とは異なるもの
なのでしょう。

単純に言えば、ヴォレリーはきっと風景画のように世界をとらえ直
す作業が嫌いだったんだと思います。
だって、「風景画の発展は、芸術における知的部分の異常なまでに際
立った減少とみごとに一致しているように見える」なんて書いてい
ますもの。風景画では画家はもう熟考せず、「自らが制作したいと願
うある特定の作品を、綿密に計算するものがきわめて稀だ」、なんて
ひどいこと言ってますしね。

そうでしょうそうでしょう。
ドガのように時間を定着するようにデッサンしたひとに較べると、
風景画なんて彼に言わせれば、「部分的な興味しかない楽しみ」に還
元されてしまうのです。バッサリ。
つまりヴァレリー先生にとって絵画作品とは、「きわめて変化に富ん
だ状態、思いがけないできごとが協力した成果で、本来は互いに無
関係な視点の組み合わせのようなもの」であるべきであり、「一人の
作者がただひとつの動き(視点)によって作り出したもの」ではあ
りえないという立場なのです。わかりにくいけどなあ。

私思うに、ドガのように時間を絵に定着させることとは、現在よく
行われているような、多くのカメラで取り囲んで撮影された映像の
ように、多様な位置の視点の組み合わせでなされる作業なのかもし
れません。それがつまりヴァレリー先生がうけとめたドガの方法論
であり、「ドガの作品はどれをとっても入念に作られている」と評価
する原因であり、「ドガの絵筆、パステル、画筆は、決して自己を見
失うことがない」と、過剰なまでに褒めちぎる理由かもしれません。

うーむ、しかし、これを受け入れていいのだろうか?と疑問にから
れつつ、つづく。

ブックカフェデンオーナーブログ 第308回 2022.08.14

「絵のリアルと絵を観ることのリアル」

五感のなかでも視覚は特権的な地位を占めていて、人間が外界から
得る情報の8割~9割は視覚に由来していると言われますね。
さらに嗅覚という匂いや味覚という味、あるいは触覚などに較べる
と、「目で見たこと」のほうがことばや文字に表わすのに楽という
か、なんか相性がいいようにも思います。ひとは視覚情報とその取
り扱いには慣れている、ということかもしれません。

とはいえ私は、「実際に見たものを見たままにことばに表すなんて、
そんなのカンタンじゃないすか!」というご意見には、すなおには
賛同できません。いーえ、とんでもない。見たものを見たまま言語
化することほど難しいことはないんじゃない? 

だいたい、なにを見るかということについては、人間はかなり恣意
的であるといわれていて、逆にいえば「ことばにしたいもの」「こ
とばにできそうなもの」だけを「見た」といっているのかもしれな
いじゃないですか。これまで多くの文学者が悩みに悩んできた問題
はそんなところにもあるはずです。

たとえば人間が描いた絵画について、それをどう観て、観た印象を
どう表現できるか。だれが描いた作品なのか、それはどう証明でき
るのか。その証明をことばであらわすとすると、どうなるのか?
だいたいなぜその絵を観て、観た感想をことばにしたいのか?
そんな疑問を持ちつつ、マハさんのこの代表作を読んでみましょう。

「楽園のカンヴァス」(原田マハ/新潮文庫)

この本で主役となる作品の作者は、アンリ・ルソーという、19世紀
末から20世紀初頭に活躍した画家です。
じつはこの小説は、ルソーその人にまつわるものではなく、1983年
の時点で新しく発見されたルソーの作品の真贋や、展覧会を企画する
キュレーターたちの「診る眼」が描かれていく、いわばミステリーの
ような作品でした。

税関で働きながら絵を描いて、素朴派とよばれ(ちょっと蔑まれた
感じで)、画壇にはほとんど登場せずに亡くなってから評価が高まり
ました。
「ルソーが作品を発表し始めたころ、世にも醜悪で下手くそ極まり
ない珍妙な絵を観るために、大衆がこぞって展覧会場に詰めかけた」

たしかに彼は、「遠近法も明暗法も習得しえなかった無知で下手くそ
な日曜画家」と呼ばれても仕方がなかったかもしれません。
しかしその絵が印象派に慣れてしまった眼を刺激して、ピカソやシ
ュールレアリスムに影響を与え、100年後には「大衆」のだれもが
彼の絵を好ましく思い、彼の絵に癒され、なにかしら「楽園」や
「天国」を感じるようになったのも確かです。

マハさんの言うように、「アートを理解するということは、この世界
を理解するということ」だとしたら、私たち大衆は、100年かけて
彼の絵で表現された世界を理解する「眼」を育ててきたのかもしれま
せん。
さらに「アートを愛するということは、この世界を愛するというこ
と」だとしたら、私たちはその現実の世界と、ルソーの楽園とをと
もども重ね合わせるように「観る」、という「愛し方」を続けている
のかもしれません。
ただしその「眼」が実際に見ているのは、ルソーの見たかった理想
の楽園ではなく、戦争と暴力の世界なのかもしれませんが。

私たちはつねに目で視覚情報を得て「処理」をしていますが、その
中でも、自分に大切な情報の価値とは、多くの時間を費やした努力
の結果手に入れた「見る眼」と、そしてなにより、大袈裟な言い方
になってしまいますけれど「世界の愛し方」みたいなものに左右さ
れるのかもしれません。
(これは以前、青山二郎と小林秀雄の「骨董の真贋を見る眼」(第
204回・205回)を考えたときのテーマでもありました)

作者は登場人物の口を借りて、こんなふうに言います。
「(たくさんの絵がある美術館では)どんな人混みの中でも、自分の
大好きな友だちを見つけることはできるだろう? この絵の中に君
の友だちがいる。そう思ってみればいい」。

絵に出会う、ということは友だちを見つけることであり、絵を見る、
ということはその友だちを通して世界を愛し理解するということだ。
ひとの「見る」という行為は、そのようにあるはずだ。そんなふう
にして、楽園とはいえないけれど、この世界をミステリーとして解
読するのも、悪くないじゃない?
私はそんなメッセージを受け取りました。

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第307回 2022.07.31

「音楽のリアルとことばのリアル」

香りもそうですが、音、聴覚、つまり音楽を主題にした小説にもま
た、多くの困難が待ち受けています。
嗅いだことのない香りを表現するのは難しいけれど、音楽をことば
で表すのは一層難しいような気がします・・・って、やったことな
いからわからんけど。

「蜜蜂と遠雷」(恩田 陸/幻冬舎文庫)

演奏家は、音楽を奏でることでそれぞれが創りあげるヴァーチャル・
リアリティの世界を展開していく。これをその演奏家の「世界観」
だと言うと、なんだか手あかのついた表現になってしまいますが、
それを聴くひとが「うん、そこもまたステキな場所かもしれない」
と感じて共感するならば、その演奏は聴き手にとっての「良い演奏」
ということになりましょう。

この小説の主人公のひとり亜夜は、もうひとりの主人公マサルの演
奏を聴いて、「マーくんの音は海みたいだねえ」という。「真っ青な
空の下で、広―い、うんと遠いところからざぶーんって波がやって
くるみたい(中略)マーくんの海だから、カモメも安心して浮いて
いられる」、といいます。

こういう感想を聴くものに与えられるなら、演奏家としては本望で
しょうし、こんな表現を創ることのできた作者も満足でしょう。
逆に、おなじ演奏家に対して、「密やかなのにドラマティック、ノ
ーブルで切ない。じわじわと興奮がさざなみのように寄せてくる。
どうしようもなく心が震えてくる。」みたいな表現になると、なん
だかテレビのコマーシャルでも聞いているような安っぽい感じがし
てきます。

また、主人公のひとりマサルは、作者によってこうも評されていま
す。
彼は「肉体持つスピードを可視化できるような身体」をもっている
のであり、「指の長さと手の大きさ、肩や手首の柔らかさ、息の長さ、
呼吸の深さ、瞬発力のある筋肉、注意深く鍛えたインナーマッスル
による持久力、どれもが美しいピアニッシモとフォルテシモに、曲
に対する謙虚かつ深淵な理解と、余裕をもって曲を弾きこなす包容
力につながっている」と。

これは演奏家に対する最大限の賛辞をどう表現できるか、というこ
とに挑戦した結果なのかもしれませんが、なんだか五味康祐先生の
小説にでてくる剣豪の技の解説を読むようで、面白いものでした。
音楽を奏でる肉体はどう鍛えてどう技術を習得すべきか、みたいな。

それにひきかえ、もうひとりの主人公である、天才肌の少年風間塵
くんの演奏は、華やか、キャッチ―、ここちよい、グルーヴ感、ス
イング、ひらめき、スピード、色彩のうねりと光のシャワーなどと
いうことばで表わされて、やや具体性にかけるものになっていまし
たね。

うーん、これではなかなか伝わらないかなあ、というか、天才(と
して描かれる演奏家)の演奏を表現するのは、やっぱりよけい難し
いのでしょう。
感覚をことばにするのに優れた亜夜でさえ、その天才風間塵くんの
演奏について、
「すごくよく通る、美しい声が森の中から響いてきたような」とか、
「手つかずの大自然の中を歩いてきて、気まぐれに吹き寄せる風に
身を任せているような感覚」などと表現しますが、マサルの演奏に
対する感想とは異なり、やや描き切れていない絵を見せられている
ような気がしました。

このように、音楽演奏を主題とする小説では、演奏家一人ひとりの
身体の中に棲むバーチャルな場所をどうことばで表すか、それによ
って読者の感じるリアルが左右されるのでした。
フィクションの演奏とそれが創り出しているはずのヴァーチャルな
場所、その言語化、そのことばから読む側がうけとるイメージ総体、
そのイメージから喚起される共感的な感情、じつはそれらすべてを
計算して先取りして作りあげられた小説の構造がある。その場所で
作者読者双方で対話的に積み上げて作るのが、小説における「音の
リアル」というものかもしれません。

最後に作者の本音らしきものを引用させていただきましょう。
「人間という存在にほんの少し、地上の重力のくびきを逃れるため
の何かを付加するとしたら、それは『音楽する』ということが最も
ふさわしいのではないか。だから音楽は、いわばちょっとした魔法
のようなオプション機能なのではないか」。
作者はその「魔法」を読む側にかけようとしたのですね、リアルな
音ではなくことばで、

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第306回 2022.07.24

「匂いと香りのリアル」

小説の楽しみのひとつに、自分の五感が刺激されて、いままでにな
い経験をするということがあります。

「香水」(パトリック・ジュースキント/文春文庫)

18世紀のパリでは、香水が社会の重要なアイテムであった。
なにせ「通りはゴミだらけ、中庭には小便の臭いがした。階段部屋
は木が腐りかけ、ネズミの糞がうずたかくつもっていた」という状
態。だから「川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかっ
た。百姓とひとしく新婦もくさい。貴族は誰といわずくさかった。
王もまたくさかった。」

こんなにくさいくさいと列挙する出だしもどうかと思いますけれど、
この「くささ」を和らげて社会の潤滑剤となるのが香水だったのだ
といわれれば、当時の香水の重要性がわかろうというものです。
なんせ部屋ではおまるに糞便して、それを窓から通りに捨てていた
時代ですしね、王も貴族も風呂には入らなかったんですからね。

描写によって五感が刺激されればされるほど、フィクションがリア
ルに立ち上がってくるし、読むという作業が「生きてる感」に満た
されてくるということがあると思うのですが、これだけ悪臭の描写
が続くと、なんだか読んでる自分の身の回りに悪臭が漂ってくるよ
うな気がして、生きてる感どころではなくなります。五感のなかで
も嗅覚と触覚についての記述は、とりわけ読み手のからだに直接響
いてまいりますね。

主人公ジャン=バティスト・グルヌイユは、こんなパリの、とりわ
け悪臭ふんぷんとした一角で、「腐りかけの魚のせいで屍体の臭気が
気にならない」ようなところで生まれた。
このグルヌイユはじつは図抜けた嗅覚の持ち主だった。するどい嗅
覚のせいで暗闇でもつまずかない。だれかがやってくるのがわかる。
相手の性格までわかったりする。すごい‼
そんな彼は香水屋に徒弟に入り、客に合った香水を作って名を成し
ていく・・・で終われば、めでたしめでたしなのですが、そうはい
かない。

彼がパリの街中で一瞬嗅いだすばらしい匂いに惹かれて、それを追
い求めていくことから悲劇が生まれてしまう。このへんから、理想
の香りを求める究極の香水師による18世紀らしい怪奇な事件に突入
していくのですが、それは読んでのお楽しみ。なにかに取りつかれ
た人間の執着が、行くところまで行ってしまうのでした。

しかし私が思ったのは、「くさい匂い」の描写はできるけれど、「す
ばらしく良い匂い」の描写は難しいんだなア、ということでした。
パリの街の臭いの描写を読むと、「くっさいなー」と思えるのですが、
反対の良い匂いは、「あー、いい香りだなア」とはならない。

たとえばグルヌイユが嗅いだ理想の匂いは、「○○ではない。××
とも違う。△△とも較べられない」と表現されます。
「ではない」、じゃ、なんなのよ、というと、「あるかなしかの弱弱
しいものなのに、毅然として持ちがいい」、そして「薄地の美しい絹
のような、、、むしろ甘いミルク、ビスケットを溶かしたようなミル
ク、、、ミルクと絹が合わさったような、まったく不可解な匂いであ
る。なんとも言いようがない、分類のしようがない」匂いだという
のです。

いや、これじゃわからんでしょう、「言いようがない」んじゃ。
この小説のなかでは、いろいろなエグい臭いが表現されているので
すが、逆にキモになる「理想の匂い」がどんなにエロい、失礼、エ
モいものなのかが、なかなかピンとこないのです。
結論。五感に響く「良い香り」の表現は難しい。
でもその匂いこそが殺人の、あ、言っちゃった、殺人と猟奇的な犯
罪の原因なるわけですから、「くっせー」の反対の「良い匂い」を
もうちょっと実感させて欲しかったなあ。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第305回 2022.07.17

「難しい本は飛ばして読むか」

読みにくい本をなんとか読んで、それをみなさまにご報告して自己
満足に浸るというのは、たぶんいまもっとも流行らない行為のよう
でして、本ならむしろ「読みたいものだけを読む」、映画なら「見た
いときに見たいものの見たいところだけを見る」のが普通なのだそ
うです。

「映画を早送りで観る人たち」(稲田豊史/光文社新書)

この筆者は、いま若い人に限らず、映画を早送りで観たり、飛ばし
て観たりする人が増えているといいます。
おお、やはりそうでしたか。じつは私も、カフェでお客さんとお話
ししながら、あれ、この方は映画やドラマを録画したりDVDを借
りたうえで、それを早送りしたり飛ばしたりして見ているのかな、
それはなぜかな、と感じることがありました。

なぜ早送りで観るのか。
結論をいえば、「そうしておけば友人との会話についていけるから」
とか、たんに「つまらなかったり、興味のない場面はとばしたい」と
か、「会話のない部分や本筋に関係ないところは見たくない」「二倍速
で見ても会話は字幕で確認できる」、などがその理由のようなのです。

たしかに現実には、映画を勝手に10分にまとめてアップロードした
違法行為「ファスト映画」が流行しています。また、「ネタバレされ
ても良い。むしろネタバレで結果がわかってから安心して観たい」と
いう理由から、SNSの「評論サイト」ではネタバレも横行している
みたい。
そっか、早送りもネタバレも悪いこととは思われていないんだ、必要
なものとして行われているんだ、もはや。

その背景には、各種のサブスクリプション(定額提供サービス)が増
えていることもあるといいます。料金を気にせずいつでも見たいでき
て、すると、あらかじめ内容を知ってから観たいときに観たいところ
だけ観るということもできるし、観たい俳優が出ている部分だけ見る
ことも容易だし、あるいは倍速、三倍速でバーッと見て確認しておい
てから、もしその気になったら初めに戻って通常速度で観る、なんて
ことも可能になっているのでした。

便利で効率的なサービスが増えたことは確かですなあ。
でもねえ、おじさんは納得できないよ。そんな理由で早送りやつまみ
食いばかりしていたら、「2001年宇宙の旅」なんか観てもつまらない
よね。少なくとも往年の名作は全滅だろうね、「ドクトル・ジバゴ」と
か「男と女」とか「突然炎のごとく」とか、あと岩波ホールでやる三
時間以上の上演時間のある映画なんかもダメだ。(ああ、それで岩波ホ
ールも閉館ですか!残念)

あるいはちょっとひねった映画、「カメラを止めるな!」なんかもも
だめでしょう。もちろん、難解な映画や前衛的な映画はすべからく敬
遠されるでしょうね。ゴダールですか? ATGですか? 論外です
な。

そうなるってーと、分野は異なれど小説だって、トルストイもドスト
エフスキーもダメ、トーマス・マンもプルーストもムり。文庫本上下
で1,000ページの小説なんか、見向きもされなくなりますね。
難しい本でも、「100分で名著」を読むどころか、10分も我慢できな
くなっている。ということになると、読書は早送りできないので(フ
ォト・リーディングというテクニックはありますが)、難しい本は飛
ばして読むことになりますか。

そうか、現状はわかった、では若者に顕著になってきた「こうした早
送りメンタリティ」はなぜ起こっているのか? そこが知りたいです
よね。
なぜなんだ? 短気な人が増えたから? ただのせっかち? 生活に
時間的な余裕がなくなったから? どうなんでしょう。

筆者はこう分析します。
だれもが、わかりやすさ、正解、そして結末に一直線に向うために、
コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスを重視するようになっ
た。だれもが「先のわからないことや想定外の出来事が起きて気持ち
がアップダウンすることを『ストレス』と捉え、「気持ちを揺さぶら
れたくない」とか「感情を節約したい」というようになった。
(なんとなんと、感情の節約とは!)

だから不快になりそうなもの、退屈なもの、違和感のあるものは、最
初から拒否される傾向が強くなった。そしてだれもが「回り道は嫌だ」
と思い、「確実に最短距離で満足感を求め」て、「興味のないものは視
界からはずしたい」「選択に失敗したくない」と思っていて、その姿勢
で映画も観るし本も読むしゲームをする。

つまり、古来からの学習方法であったはずの、「たくさんのハズレを掴
まされて、そのなかで鑑賞力が磨かれ、博識になり、やがて生涯の傑
作に出会い、かつその分野のエキスパートになる・・・」なんていう
プロセスなど、だれも決して踏みたがらなくなってきたというのです。

これこそ「コンテンツ消費」という消費の形態だ。「鑑賞」なんかでは
ない。映画や本の使い捨てみたいなもんだ。こう筆者は嘆きます。
ここでは、知らないものを取り込み、自分なりに考えて鑑賞するとい
う学習手続きは、もうハナから排除されている。実利的に「話題につ
いていける」とか「他者とのコミュニケーションがはかどる」という
ことだけを目的とするサービスの購入と消費の問題になったのだと。

さて、こうした風潮、みなさんはいかが思われるでしょうか。
さらに私は、筆者が危惧するとおり、この「倍速視聴」という習慣は
「たまたま地表に表出した現象のひとつにすぎず、地中にはとんでも
なく広い範囲で根が張られている」のだろうと思いました。

だって、コスパとかタイパという価値判断は、映画にとどまるもので
はありませんもの。情報はお気に入りの「ニュースおまとめサイト」
でチェックし、読むべき本も「お薦めサイト」で読んだことにできる。
ハズレは許されない、いや、ありえない。恋愛だって自己実現だって
倍速やコマ送りや、あるいはそれらをもっと実現しやすいゲームや仮
想空間でまかう。
たぶん、多くの若者はそういう価値観の世界で生きているのです。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第304回 2022.07.10

「静謐な山の上のロマネスク修道院にて」

11世紀から12世紀に建てられたロマネスク教会は、フランスだけ
でなく、スペイン、イタリア、イギリスにも多く点在しています。
とりわけスペインの国境、ピレネー山脈のあたりには、そこが巡礼
の道の通過点、というか一番の難所にもなっていたので、おお、こ
んなところにも教会が!という驚くような辺鄙な(失礼!)谷間の
村に趣のある教会があるので、それはなんとしてでも訪ねざるを得
ないということになります。

まず出発点はバルセロナ。
ここの国立カタルーニャ美術館には多くのロマネスク芸術が展示さ
れていて、これから行く予定のタウイのサンクレメン教会の後陣壁
画「荘厳のキリスト」がすばらしい。まるで装飾写本を百倍に拡大
して色鮮やかにしたような感じで、これからの旅を祝福してくれて
いるかのようです。
(ついでにいうと、ロマネスク教会を見慣れると、ガウディ設計に
なる巨大なサクラダ・ファミリア教会が、逆に空疎で情けない空間
に見えてしまうのはなぜかしら?)

さて、旅はバルセロナから北へ、ジローナという町のカテドラルへ。
フムフム、心なしかアラブの匂いがしてきましたぞ。
つぎにフィゲラスという町を通り、いったん国境を越えてフランス
側のセラボンヌの山の上の修道院。
まわりにはなにもない、車で行くにも大変な場所に、なんとも美し
い小さな礼拝堂と暗い堂内の大理石の柱にはライトアップされた柱
頭彫刻たちが私たちを出迎えてくれます。崖のような地所に小さな
庭園と畑があって、昔はここで自供自足の生活だったのだろうな。
でももう修道僧はいないので、村のおばさんが二人だけで管理して
記念品を売っている。

そこからキュクサの大きな修道院。この大規模で立派なつくりの
建築からは逆に、ロマネスクの時代が経済発展の時期でもあったこ
とが肌で感じられます。
でもこんな山の中の場所なのにねえ、すごいねえ。
そして一時間の山登りが必要なカニグーのサン・マルタン修道院へ、
ここは比叡山とおなじで、いまでも修行の場です。ハアハア。

こうしてピレネーの山道を登ったり下りたり、フランスに行ったり
スペインに戻ったり、方向感覚がなくなってきたところで、タウイ
のサンタマリア教会とサンクリメン教会が、ほぼ旅の終着点でした。
あとは黒い聖母で高名な巡礼地モンセラートを観光して帰るだけ。
で、このときは、

「スペイン・ロマネスクへの旅」(池田健二/中公新書)
に、たいへんお世話になったのでした。

「スペインのロマネスク芸術は、フランスやイタリアのロマネスク
と共振しながら同時に発達した」のだが、やはり地方色が強くある。
というのも、「イベリア半島のロマネスクの時代は、レコンキスタ
(アラブに対する国土再征服運動)の時代であった」ので、西ゴー
ト、アストゥリアス、モサラベという三つの特徴がでている。
この三つは「半島におけるキリスト教とイスラムの共生と対決が生
み出した不思議な果実である」、とのこと。 

また、「石も夢みるスペインロマネスク」(村田栄一/社会評論社) 
では、ロマネスクの魅力を次のようにまとめています。

1 ロマネスクの教会を訪ねていくと、いい景色に出会うことが
多い。これは全くその通りです。とりわけピレネーは別格。
2 ロマネスクは個性的である。
隣村同士が張り合うようにひとつの教会を作るが、そのとき
素材やデザインや装飾に個性を出した。スペインでいえば、ア
ラブの影響は大きい。装飾の唐草文様や、細い柱を立てたアー
チを連続させる中庭の回廊、光の取り入れ方など。それがイス
ラムとの共生、あるいは文化の影響の果実なのですね。
3 ロマネスクには、暗号を解く面白さがある。
  聖堂のあちこちにある装飾や彫刻をみると、それがなんの表徴
  なのか、作った人はどう神を信仰したのか、などを推測するこ
ともできる。そういう「謎解き」が楽しいのですね。
4 ロマネスクの面白さは、デフォルメにある。
  これはフォションさんやバルトルシャイティスさんから学んだ
通り。

そしてさらに私は、ピレネーのロマネスク教会には、なにより巡礼の
存在と影響を多く感じました。
フランスのヴェズレーやル・ピュイから、コンクやモワサックを通っ
て徒歩で旅してきた来た巡礼は、険しいピレネー越えのとき、飢えや
雨風を避けるためにこれらの山の中の修道院をめざしたのでしょう。
教会で一夜を過ごし、祝福を受け、次の目的地に向かって旅立つ。そ
の彼らの息吹というか、建築や装飾や聖母像をみる視線のようなもの
を感じるのです。

いまは静けさに包まれたそんなロマネスク教会を想ういっぽうで、い
きなりですいませんが、ギリシャ正教の聖地ウクライナの恐怖に満ち
た映像を見て、その対比に強い悲しみを感じてなりません。

ブックカフェデンオーナーブログ 第303回 2022.07.07

「日本人研究者の底力を感じるロマネスク美術業界」

ロマネスクの教会を見てまわるということは、西ヨーロッパの美し
い村々を巡るということでもあります。

大きく広がる麦畑を左右に見ながら田舎の小さな村に着く。車を広
場に止めて、石畳の道を歩いてパン屋や民芸品を売る店や古道具屋
(ブロカンテ)を抜けていくと、村の中心にはその地方で採れる石
で葺かれた屋根の小さな教会があって、そのまわりを牛や羊が歩い
ていたりする。だいたいはいつでもだれでも入って礼拝できるのが
教会というものですが、たまさか閉まっていたりすると、隣の家の
管理人というか堂守りみたいな人にカギをあけてもらって見学する。

教会堂の中に入れば、そこはまるで洞窟のように薄暗く、夏でも涼
しく、わずかな外光が柱頭の浮彫りを照らしている。その動物やら
怪物やらの装飾を見上げて進み、内陣を拝する席に座ってそこに伝
わる黒い聖母像を見ていると、自分がどこにいるのかわからなくな
って時間を忘れます。

それが楽しい。自分探しではなく、自分忘れ。
禅寺の枯山水を眺めて呆然と座しているのと変わらないかもしれま
せん。
日本人の私にもこんなふうに感じさせるのがロマネスクの小さな教
会ですが、こうした美術・建築界のめじゃーとはいえない対象につ
いても、日本の学者さんたちは立派な研究成果をあげられています。

ではそんな研究の中から、旅のお世話になった本をいくつかご紹介
いたしましょう。

「ロマネスク美術を索めて」(吉川逸治/美術出版社) 

まずは日本におけるヨーロッパ中世美術研究の草分け、吉川先生の
本がこれ。
先生は、フランスはポワティエにあるサン・サヴァン教会の壁画の
研究とその修復にあたられた方です。ここでは、ロマネスク装飾に
おける写本の影響やテーマの選び方などを、マ―ル、フォション、
バルトルシャイティスなどを援用しながら、律儀な感じでまとめら
れています。つぎに、

「ロマネスクの園」(高坂知英/リブロポート)

は、本邦初の本格的ガイドと銘打たれていて、「宝石のように散らば
るロマネスク建築」を訪問する著者の、日本における先駆性が光り
ます。
写真がきれいなので、すぐにでも実物を見に行きたくなるけど、た
だ、あっちの教会こっちの教会と話が飛ぶので、頭の中にそれらの
教会や装飾のイメージができていないと、読むのが煩わしいかもし
れない。

「ロマネスクの社会を散歩する」(船越一幸/共同文化社)

散歩する、なんて軽く言っているけど、けっこうハードな研究書だ
と思います。
ロマネスクの時代は「教会と社会がひとつ」の時代。
ではその時、庶民にとって「信仰」とはなにか? 「奇跡」とはど
んな意味があったのか? その土地の「守護聖人」とはどういう存
在か? 「聖遺物」はなぜそんなに求められたのか?

さらに修道院はなぜできて、なぜこの時代にクリュニューとかシト
ー会などの改革が必要だったのか? この時代の経済はどのように
回っていたのか。だいたい教会をつくるカネはだれが出したのか?
そうした、「教会美術の土台」になるような、でも私たちにはなじみ
の薄いテーマを掘り起こして解説してくれるので、当時の庶民のエ
ネルギーが見えてくるような気がします。

「ロマネスク世界論」(池上俊一/名古屋大学出版会)

「論」なんて気どっていますけど、そんなに肩に力を入れることで
もないでしょう。
この時代の精神を探るには、キリスト教カトリックを構成する修道
院や奇跡や聖遺物といった要素が出そろったのはもちろんだが、も
うひとつ、十字軍や巡礼といった「ひとの動き」も忘れちゃいてけ
ないぞ、ということでした。

ひとが動けば、知識や思想や信仰も、建築や装飾の技術も広く伝わ
ってくいく。アラブの技術も意匠も取り入れられる。吟遊詩人(ト
ルヴァドール)の愛の唄が宮廷の様相を変えるだけでなく、教会の
装飾のなかにも紛れ込んでくる。
ロマネスクはこのようにして、信仰や感情という精神、肉体、五感、
そして物質が渦のように現われた時代であったともいえるのだ!と。

さてこうして日本人研究者の書籍をご紹介することで、私は、「ロマ
ネスクとは何か」(酒井健/ちくま新書)のオビにあるとおり、
「神を熱心に仰ぎつつも、自然の神々や異教の表徴を取り込み、過
剰なエネルギーを発し続けたロマネスク」に魅せられた日々の思い
出に浸りつつ、旅のできないコロナ禍を過ごすのでした。

でもこれだけ多くの研究者がこれだけ本を出版されているところを
みると、寺院や仏像美術の研究の歴史にも依っているのかもしれま
せんが、日本におけるロマネスク好き業界もまずまずの人口を擁し
ていると言わざるを得ません。
そんでもって、「ロマネスク関連本は、単価を高くしても初版三千
部は固い」とかね、業界内で言われているかもしれませんね。


ブックカフェデンオーナーブログ 第302回 2022.06.26

「ロマネスク美術最大の魅力はなにか」

いまさらですが、ロマネスク教会の最大の魅力はなにかと訊かれた
ら、私は一にも二にも彫刻や浮彫りと答えます。
扉口上のタンパンには天国と地獄の図や、キリストによる最後の審
判があったり、堂内の梁を支える柱の上(柱頭)には特色ある味わ
いの浮彫りがありますが、いずれも、なんというか古拙というかヘ
ンというか、なんともいえない奇妙な味わいのものばかりです。

なんか不思議じゃないですか?
ギリシャ・ローマ時代に、あんなにも写実性に優れた彫刻や浮彫を
生み出していたのに、それが千年後になると、ビックリするような
拙い作品になってしまったなんて。どう考えてもおかしな話です。
技術や美意識がぜんぜん継承されていない。
ま、民族と地域と宗教は異なりますけれども。ん? それだけ異な
ればじゅうぶんか。

でも、さらにその意匠はというと、これはもう、字の読めない人た
ちにキリスト教の教義や聖書お話を眼で見えるように教えるなんて
いう教育的レベルのもんでもない。なんじゃこりゃ、怪物か化け物
か! 夢か幻か! いったいなんでこんな奇妙で猥雑なモノたちが、
神父さんがありがたい説教をする神聖な教会に巣食っているのか。
そんな驚きの連続が待ち受けているのです。

「異形のロマネスク」(ユルギス・バルトルシャイティス/国書刊行会)

この著者は、本誌第167回の「『すごいヘン』を語らせたら『とっ
てもすごい人』」で著作集全四巻をご紹介しましたように、「ヘン」
の専門家といってもいいお方ですけれど、その著作集に比べるとこ
こでは、より楽しげに子どものようにロマネスクのヘンな造形デザ
インに向き合っているように感じます。

というのも、教会内にある奇怪な怪物や四本脚の人間や、人魚や動
物などの柱頭彫刻などを自分のデッサンで紹介しつつ、この形はじ
つはもともとああだったのが、あそこでこう形を変えて、その結果
いまではここでこんな風な姿になってここに鎮座しているのよねと、
自慢げに紹介しているからです。
このデザインと様式の変遷はワシが発見したんだもんねー、どう?
おもしろいっしょ、みたいに。

もちろん彼も、分類し、関係づけ、統合するという西洋式の考え方
で研究をしていて、「著作集」の方ではその集大成が全世界的・全歴
史的な規模にまで広がってワケわからなくなってしまったわけです
けど、この本ではむしろ、二世紀ほどの限られた期間と、現在でい
えば三か国ていどの地域の中で、異なる意匠に共通するシンプルな
モチーフ、つまり一般の人びとの心情に近いものを見つけようとし
ているのです。
これならわかりやすくて、読む私たちも楽しい。

そして彼は、ロマネスク彫刻には一定の法則があるのだと書きます。
序文にいわく、「ロマネスク造形美術の研究に取り組みながら、われ
われは、相矛盾する点と同時に形態のすばらしい配置法に驚かされ
る。豊かに装飾された彫刻や怪物、動物群や人間像。それらは現実
界よりも幻視的世界やより自由な想像力の世界に属し、見事な安定
性を見せながら、建築の中にはめ込まれている。」

そして、正面のタンパンや柱頭にスキマなくぎっしりと彫られた彫
刻は、なにもない空間を恐怖する当時の人びとの心情であり、それ
も含めた「枠組の法則」とでもいうべき美術発展の法則がみられる
のだ、というのです。

つまり、たとえば天井アーチを支えるべき逆台形の柱頭であれば、
そのスペースを「空いたまま」にしておきたくないし、するととう
ぜん、その「四つの角」をどう活かして飾るかという問題に彫刻家
は直面する。
すると浮彫の意匠としては、石の角頭や胴体を彫ってそこから左右
に足や尾っぽが広がったり縺れつつ隣につながったりしていくこと
になっちゃう、というわけなんですね。

写真がないとわかりにくいかもしれませんが、そんなに難しい「法
則」ではないんです。
自分がもし銭湯の湯船の上の大きなスペースが空いているのでなに
か描けと言われたら、「とうぜん」富士山を中心にした幅広の大自然
を描くでしょう。また自宅の玄関の扉の上、切妻屋根の下の三角空
間になにか描けといわれたら、「とうぜん」家内安全を象徴するよう
な模様や文字を書くでしょう。
それと同じです。意匠や造形が「建築のなかにはめ込まれている」。

それも原因のひとつとなって、波状唐草文のような装飾も、単純な人
物像でも、その形状をドンドン変形させて最初のモチーフが怪物化し
ていく。いや、怪物化なんていうと怖くなりますが、ぜんぜんそんな
ことはなくて、むしろカワイイ珍獣や小悪魔のようなものたちばかり
で、仏像の四天王の足の下で組み敷かれている小鬼のように、「ボク、
はめ込まれちゃってる」と言いだしそうな顔をしているやつらなの
でした。

著者はこういうことを多くの例をもって示し、ロマネスク教会美術の
伝播を解説します。すると私にも、中世ヨーロッパ教会の約200年の
あいだの変遷と転移、そして造形の原理と人とモノの移動の軌跡がわ
かるような気がするのです。
だから、本書の原題が「形成と変形」というのも、わかりますね。

・・・ところで、私がつねづねいちばんスゴイと思っているのは、じ
つはこの著者の名前でした。
リトアニア人のユルギス・バルトルシャイティスさん。いったいこの
名前は、どこで形成され、どのように変形されてきたんだろう?

ブックカフェデンオーナーブログ 第301回 2022.06.19

「図像ごとの関係性をさぐるという楽しげな研究」

ロマネスクの小さな教会を訪ねて、私らシロートがまず驚かされる
のは、じつは建築学的なことよりも入口や内部の彫刻たちのお姿で
す。
それが地方へ行けば行くほど、そして教会が小さくなればなるほど
特色をもって目の前に現われるのが、巡礼の大きなお楽しみでもあ
ります。

ある時、フランス南西部のラングドック、ルエルグ、ペリゴールな
どの地方をめぐる旅をしました。
大都市トゥルーズの立派なサン・セルナン教会から車で、教会正面
横から前室に入る特徴的なモアサックの教会へ。ここは中央柱やタ
ンパンの浮彫が美しく印象的。それから山間のちいさな町コンクへ。
ここは深い灰色をした屋根のサント・フォア教会と、いつまで見て
いても飽きない正面タンパンの彫刻がある。そして谷の中の岩窟に
教会のある不思議な町ロカマドゥール。これらはすべて巡礼教会だ
けれど、ついでにモンテーニュの住んだ城を見てボルドーに抜ける
というけっこうハードなコース。ハアハア。

こういう旅では、
「ロマネスクの図像学」(エミール・マール/国書刊行会)
のような本がたよりになるのでした。

この本は今からおよそ100年前に書かれていますが、そのころは、
「12世紀のこのすばらしい芸術は、まだほとんど知られていなか
った」そうです。
つまり、世の中には「暗黒の中世」という偏見がはびこっていて、
人びとは王様の横暴と封建制度による不自由な生活に苦しみ、教会
では異端審問が行われて残酷な魔女狩りがあってどうしたこうした、
・・・そういう固定観念にのって、たとえばあの文豪スタンダール
でさえ、オータンの大聖堂を見て「ああ、なんという醜さだ!」と
言ったという逸話が残されているくらいなのでした。
おっと、スタンダール君、きみの審美眼は古くて情けないぞ!

エミール・マールの研究は、その時代はもっと自由活発に学問が行
われるとともに、ひとの営みから出たユーモアあふれる装飾の由来
を見つけることでそんな偏見を打ち破るものでした。
なにがスゴイってあなた、教会の彫刻にあらわれる図像や意匠デザイ
ンを、同時代の他の芸術や他の地域のものに結びつけていくという、
とんでもなくスリリングな作業をしていくことです。

たとえば、「モアサックのタンパンは、サン・スヴェールの『黙示
録』と近い関係にある一写本から生まれたものである。どーだ」、
なんて断定しちゃうのです。いや「どーだ」とは言ってませんけど。

修道院回廊の柱頭彫刻の意匠についても同じで、たとえば「鎌をも
つ徒歩の天使のうしろに続くライオンにまたがった二人の騎士は、
やはりベアトゥス写本のふたつの挿絵から彫刻家が合成したもので
ある」、ど―だ、まいったかと。
どれほどの観察と探求によって、どれほどの記憶力によって、この
ような異なった場所の異なった種類の作品どうしにある関係性を見
つけることができたのでしょうか!

また、コンクのサント・フォア教会には黄金に輝く聖女ソフィアの
像があるのですが、
「この地方の石は花崗岩で、のみで削るのがなかなか困難であった
ので、聖人たちを讃えたのは金銀細工師であった」などと、材料の
確認をしたり、さらには、「巡礼が盛んになるにつれ、この地方の
教会では、手に杖を持ち、貝殻で飾られたパン袋を首から下げた聖
人、すなわち聖ヤコブ像の図像が少しずつ豊かになっていく」、な
どと平面的な広がりについても余すところなく考察しています。

こうした広範囲な知識によって意匠ごとのタテヨコナナメの関連性
が明らかにされていくにつれ、読者の私たちの頭の中にはロマネス
クの建築や彫刻の特徴だけでなく、その時代に生きた人たちの信仰
と生活のありようがイメージされてくるような気がするのですから、
あら不思議。

ところで、もちろんこうした「分類して関係づける」という方法は、
西洋の学問の特徴でありまして、ちょっと意地悪な言い方をするな
ら、いかな碩学エミール・マールといえども、そのやり口だけでは
全部を明らかにできるものではなく、ヌケ・モレ・ミスもあるだろ
うとは思います。

思いますけど、しかしながら学問とは恐ろしいもので、そのように
分類・関係・定義づけられたおかげで、ロマネスク教会の大切さが
世間に認識され、その美しさが見直され、人びとの中世に対する概
念が変わり、それによって国家予算がついて、フランス革命で壊さ
れたロマネスク教会とその装飾がヴィオレ・ル・デュックたちによ
ってみごとに修復され、そのおかげでフランスの宗教芸術や地方文
化を楽しむ観光客が増えて、私からの分も含めて莫大な観光収入を
生んでいるのでした。
どーだ、スタンダール君、わかったかね!

ブックカフェデンオーナーブログ 第300回 2022.06.12

「ロマネスク教会の美しさと建築知識、どーだ」

ロマネスクの教会巡りの楽しみのひとつとして、建築知識を学びな
がら見学するということがあります。そこで、もう少しロマネスク
教会の美しさの秘密を深く探ってみたい、というむきには、

「西欧の芸術 ロマネスク(上・下)」(アンリ・フォション/鹿島出版会)

がお薦め。
アンリ・フォションはフランス美術史の碩学。
この本では、教会建築からその中にある浮彫や装飾まで、幅広くロ
マネスクの魅力を分析しております。
フォション先生は、10世紀のロマネスク教会芸術はじつは突然現れ
たのではなく、キリスト教千年の歴史や当時の世界史的状況に影響さ
れて作られたということを、多くの例とともに論証しておられます。

それは、どこのページでもパッと開けば、
「初期ロマネスク芸術は、カロリンガ建築から新旧とりまぜていく
つかの特徴を受け継いでいる。たとえばトールニュのサン・フィベ
ールの放射状祭室つき周歩廊、これはオーベルニュ地方から来たも
のである」、てな具合に、どーだ、まいったか!みたいな感じに断定
敵に解説されるのでした。

私は読むというより、こうした用語を見て楽しんでいましたね。
だって、フランス語の専門用語の意味とか、この教会はなぜこうい
う構造になっているのかとか、それが建築技術の発達でのちのゴシ
ック建築ではどうなっていくのかとか、どーだ、君ら知らんかった
ろう!的に教えていただきながら知識を増やすという楽しみをもた
らしてくれるのですから。

教会の構造では、「後陣と内陣を除いた部分が木造小屋組みで覆わ
れ、交叉ヴォールト天井の側廊が、、、」とか、「ヴォールトは連続半
円筒式あるいは横断アーチは半円筒式で、長方形大柱ないし円柱に
支えられており、翼廊の交叉部には円蓋が載って、、、」とか。
どーです、こういう、いかにも専門家っぽい表現って、シビレます
でしょう? そうでもないですか?

教会扉口(ポルタイユ)の真ん中にある装飾された中央柱が、開口
部の楣石(まぐさいし)を支え、その上に半円形のタンパンがあり、
それを大きく迫石や飾りアーチが取り囲んでいる。え、どーだ!

前室(ナルテックス)から教会内に入るとそこは身廊で、左右の太
い柱がまっ直ぐ連なって後陣と祭室へと続いている。柱がヴォール
ト天井や円蓋(ドーム)の骨組み(リブ)を支えるところが柱頭
(シャピトー)で、そこにはロマネスク教会の特徴のひとつである
多彩な浮彫リが施され、私たちを魅了しつづける。どーだ。

柱の両側にはアーケードによって仕切られた側廊が控え、奥の祭壇
には聖具や聖母子像が置かれる内陣と、そこをグルッと回り込める
周歩廊があって、旅を急ぐ巡礼が簡便にお参りをできるように工夫
されている、どーだ! ・・・・・・な~んてね、用語を覚えなが
ら使うのが楽しくてしょうがないのでした。

まるで、京都や奈良の古寺を訪ねて、「三間の基壇のある山門から
入ると、左に裳腰つきの三重塔がそびえ、右には風格ある金堂があ
り、正面の講堂の屋根は入母屋造り、エンタシスのヒノキ柱が八間
を構成して、ふと上を見ると大きく飛び出した梁が雲形斗供ととも
に天井を支えている、、、みたいな感じで、まるで自分が学究の徒に
なったみたいに誇らしく感じるのです・・・私は、ですけど。

ですので、「各部分相互の均衡やヴォールト天井の横圧力に対する
抗力において、建築の量塊が果たす役割」なんて言われても、そこ
は慌てず騒がず、はいはい、でかくて重い石を積むことでしか高い
天井と空間を支えられなかったのだな、だから窓などの開口部も少
なく内部は薄暗いのだな、でもいいなあ、地震の少ない土地ではこ
ういう建て方ができて、などと了解をすることができるのでした。
どーだ。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第299回 2022.05.29

「ロマネスク教会でボーっとする楽しみ」

ずいぶん以前になりますけど、フランスの田舎を旅したことがあり
ます。
コロナ禍のいまから思うと、夢のような話ですなあ(と、遠い目を
して空を見上げる)。パリから南下してフランス中部のブルゴーニュ、
そしてオーベルニュ、、、、。なぜそんな田舎を目指したのかといえば、
そこにはたくさんの美しいロマネスク様式の教会が点在しているか
らなのでした。

そしてその旅行のきっかけをつくってくれたのが、饗庭孝男先生の、
「ヨーロッパ中世の旅」(グラフィック社)
「フランス・ロマネスク」(山川出版社)
「聖なる夏」     (小沢書店) だったのです。

これらの本の、とりわけ美しい写真に惹かれて、教会と町と田舎の
景色を実際に見たくなり、ついフラフラと、ではなく、真剣で真摯
なる予習と綿密なる計画のもとに巡ったのでした。
いわば四国八十八か所巡礼の仏国版です。お、フランスは、やはり
ほとけの国か?

さて「ロマネスク」といわれても、日本ではなじみが薄いですよね。
これは10世紀から12世紀にかけて建てられた教会建築で、どっし
りと積み重ねられた石組みに特徴があります。教会の屋根を大きな
石のアーチ(半円のヴォールト)で支え、そのぶん窓などの開口部
が少ないので内部は薄暗くなっています。

東側の入口にはナルテックスと呼ばれる入口部屋があることが多く、
そこから身廊(本堂ですね)への入口にはタンパンと呼ばれるアー
チ飾りや、内部の柱のアーチを支える部分(柱頭)などに多彩な浮
彫が施されている。
この浮彫たちがおもしろくてならないのですが、先走らずに、まず
は饗庭先生の講義に従って時代背景などをちょっと見てみましょう。

10世紀の中世ヨーロッパ、その中心で国づくりに励んだ仏国、いや
フランス、いや、まだフランスという国民国家にはなっていない地
域のおはなし。
9世紀にシャルルマーニュが覇を唱えてから少し経つと、イエス・
キリスト没後千年を迎える時期となります。ここ、西洋史の試験に
出るところですからね、ノートしておくように。
キリスト来臨後千年経つと審判がおこなわれて、ひとは復活して永
遠の命を授かるか、罪を償うために地獄の責め苦にあい続けるかの
境目を迎えるはずでした。

ちょうど同じ時期の平安末期の日本でも、仏の教えが途絶えて「末
法」になるから、信心深く生きて極楽浄土を希おうという浄土思想
が流行りましたが、それと同じ。
世界の終わりが来る! 
人びとはそういう大きな不安を抱いて生きていた。だから教会は田
舎の農村にまで深く入り込み、異端を排除し、緩んでいた教義を修
道院の改革などで立て直すのに懸命になり、人びとも祈り、巡礼を
し、のちにはこぞって十字軍に参加したりした。

・・・なんて、すごい雑駁なまとめですいません。興味のある方は
高校の教科書を開いてみてください。
そんな背景のなかで、人びとが祈りを捧げる場所を提供すべく、フ
ランスの小さな村々にも教会がドンドン建てられた。地方ごとにそ
こで採れる石や材料を使い、地元の伝承や土俗の文化にも大きく影
響されながら、それぞれが特色ある「その土地の」教会を建てたと
いうわけです。
私はそのロマネスク教会を見に、巡礼をしたのでした。

パリから車で美しい庭と静寂のフォントネー修道院へ、つぎに丘の
上に立つ縞模様の美しいヴェズレーのサント・マドレーヌ教会へ。
はい、このへんでもうすでにだいぶお腹いっぱいに満足しています
が、まだまだ先は長い。
オータンの大きなサン・ラザール教会ではドイツの観光団が讃美歌
を歌っていて、ソーリューのサン・タンドゥシュ教会の前では市が
立っていた。街の真ん中にあるトゥルニュのサン・フィベール教会
の空間に酔い、ここからはもう本当に田舎の町々に入ります。

ブランシオン、壁画の美しいベルゼ・ラ・ヴィルの小さな礼拝堂、
モンソー・エトワール、セミュール・アン・ブリオネ、アンジィ・
ル・デュックと巡って、ね、田舎の町は名前がきれいでしょ?

ようやくパスカルの生まれた大きな町クレルモン・フェランにある
ノートルダム・デュ・ポール教会に着く。
ここからはオーベルニュです。黒っぽい石組みのオルシヴァルの教
会、楽しみにしていたサン・ネクテールの教会が閉まっていたので
ガックリしつつ、サン・サテュルナン、彩色の鮮やかな装飾の残る
イソワール、管理人さんにカギを開けてもらったラヴォデュー、均
整の取れたブリウードの教会から山の上のラ・シェーズ・デューと
いう秘境の修道院とまわって、サンチャゴ・デ。コンポステーラへ
の巡礼の出発点ル・ピュイに着いたときには、みんなくたびれた、
ハアハア。言ってるアタシもくたびれた。
(このへん、古今亭志ん生の「黄金餅」の道行をご参照ください)。

普通のガイドブックと違って、饗庭先生の解説は歴史・宗教・民族
などの詳しい解説があるので、じっくり見学するに最適でした。
とりわけその時代はなにが聖でなにが俗だったのか、それぞれの村
でどんな建築的な特性があるのか、なぜ修道院ができ巡礼が盛んに
なったのかなどということも、当時の日本と比較して共通する点が
多いのではないでしょうか。

と、勉強をしていっちょまえの感想を述べつつ旅をすれど、じっさ
いに薄暗くて静かな田舎の教会の暗い土間に座っていると、仕入れ
た知識などどこかへ飛んで行ってボーーッとするだけだったのです
けど。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第298回 2022.05.22
「難しい思想の備忘録 その4」

うん、その手があったか!
難しい本をわかりやすく解説してくれる、NHKのテレビ番組を書
籍化した「100分 de 名著」のシリーズがありまして、これは本当
におもしろく、ためになるのでした。

なにはなくとも「100分 de 名著」、一家に一冊「100分 de 名著」。
これを一冊ずつご紹介すると、とてもラクチンに読書日誌が書ける
のではないか。こんなに手際のいい、効率的な読書日誌はないので
はないか。まるで四国八十八か所のお遍路を、松山の石手寺だけで
すませすことができるようなものではないか!

・・・ということで、
「全体主義の起源 ハンナ・アーレント」(仲正昌樹/NHKテキスト) を。

ナチズムやスターリン主義のような全体主義はいかにして起こり、
なぜだれもそれを止められなかったのか。それを歴史的考察によっ
て解明しようとしたのが、この本でした。

アレントは、ヒトラーやスターリンという指導者の特殊性ではなく、
むしろ、彼らを生み出した、社会のなかで拠りどころを失った「大衆」
のメンタリティを指摘したかったのだ、と筆者の仲正氏はいいます。
「現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が、『安住できる世界観』
を求めて吸い寄せられていく。それが全体主義の起源なのだ」と。

ここまでで、私たちには分かることがあります。
ひとつは、アレントがオルテガと近い意味で「大衆」ということばを
使っていること。ただしオルテガは「大衆」の傲慢の面を見ていたの
に対し、アレントはその不安に焦点を当てていること。だから全体主
義とは、大衆の不安や渇望に由来するイデオロギーであり、政体であ
ったということでした。

もうひとつ。それを現代に当てはめると、やはりプーチンや習近平と
いう個人を問題にするのではなく、彼らに権力を集中させた「大衆」
の不安を見なければいけないのではないかということです。

さて、こうした「大衆」の不安の分析から、アレントは反ユダヤ主義
という「異分子排除」のメカニズムや民族的ナショナリズムの発生や
人種偏見、そして国民国家の形成と帝国主義国家の成り立ちと進み、
それらが全体主義の土台を作りあげていったという論証に入っていき
ます。
どうでしょう。まったく現在の世界情勢の分析と、まるで同じといえ
るのではないでしょうか。

そうであれば、私としては、彼女の分析とそこからの予測思考を現在
に活かすとしたらどんなことが言えるのかと考えてみたいと思います。
そこで、もういちどアレントの分析による「大衆」の特徴を振り返っ
てみましょう。

「資本主義経済の発展により、階級に縛られていた人々が解放される
ことは、『どこにも所属しない』人々、つまり『アトム(原子)化』し
た人々を生み出した」のであった。
彼らは「大衆化」し、政治を他人任せにし、深く考えることをやめた。
「そんな大衆が求めるのは、安直な安心材料や分かりやすいイデオロ
ギーだったのだ。」

するとでは、いま大衆に安心材料を提供しようと手ぐすね引いている
のはだれなのか? わかりやすいイデオロギーや、目の前に「あんた
ら大衆」の「敵」らしきものを示して、私たちに暴力を使わせようと
しているのはだれなのか?
私たちはそうした問いをこそ、大事に抱えていかなければならないの
ではないでしょうか。

これが、私がアレントと仲正氏から学んだ、歴史的考察、つまり現在
に活かすべき分析と予測、の入口となります。
ということで、これで準備は整った。がんばって原典に挑戦するぞ! 
マジか、自分! 原典は大著だし、高価だぞ。大丈夫か、自分!
コンキンカーン、本日はここまで。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第297回 2022.05.16

「難しい思想の備忘録 その3」

タイトルから受けるイメージと内容が異なる、という本がありまして、

「大衆の反逆」(オルテガ・イ・ガセット/岩波文庫) 

が、それでした。
この本はタイトルだけみると、いままでおとなしかった大衆が、専制
君主があまりに横暴なのでキレて革命を起こすぜ、みたいな感じです
けれど、じつはまったくの逆。

オルテガがいう「大衆」とは、良識をもつ大勢のひとたちではなく、
「先人たちが積み重ねてきた英知を無視して、自分たちだけでなん
でも決められると勘違いしている人たち」という意味でした。

たとえば、「重要な事柄は大衆による多数決で決める」という、いか
にも民主主義的なやり方は、往々にして過去の経験や実績や知恵が
盛り込まれていないことがあるぜと。おバカな「大衆」は、歴史か
ら何も学ばずに、感情的に多数決しちゃうことが多いのだと。
なんてこった! その決定こそがじつは、ファシズムを生んだり専
制国家を作ることになりかねないのに。

このようにオルテガは、「大衆」が「多数」という「正しさ」だけ
に依拠して社会を支配しようとする状況を「超民主主義」と呼び、
それが現代社会の特質となっているのではないかとしたのでした。

りっぱな考えだと思います。
いまでも日本を含めた多くの国にあてはまる考察だと思います。
ブレグジットも? そう。トランプも? プーチンも? そうそう。 
さらに「大衆」には、「自分が依って立つ場所をなくした根無し草
になってしまい、個性を失って群衆化した人たち」のことも意味し
ているといいます。これなんか100年後のいまでも、ネット住民の
一部や英雄を待望して迎合したがる人たちにあてはまる考えかもし
れません。

現代でも「みんなと同じでない者、みんなと同じように考えない者
は、抹殺される危険にさらされる。そしてもちろん、この場合の
『みんな』は、本当の『みんな』ではない。」
ああ、そうなんです。
私たちはつい「みんなそう言ってるよ」とか口走ってしまけれど、
この「みんな」は、自分を含めた「個性を失った『みんな』」なの
かもしれないと考えおくべきです。つまり「みんな」と同じという
ことに安心と快楽を覚える風潮があると、差異や秀逸は同調圧力に
飲み込まれて、「ひとつの同質な大衆が公権力を握る」ことになる。

「現代の特徴は、凡俗な魂がみずからを凡俗と認めながらも、その
凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつ
けることにある。」「自分の内部に溜まった一連の決まり文句、偏見、
観念のきれっばし、あるいは意味のない語彙を、(中略)相手かまわ
ず押しつけている。」
こうしてみると、私たちはたしかに「凡俗な大衆」なのだと思われ
ます。うん、それに間違いありません。

では、どうせよというのか?
彼は、逆に「大衆」ではない人のことを、「社会での役割を認識し、
その役割を果たすために何をすべきか考える人」だとして、「それが
人間だ」というのでした。

保守主義といわれるかもしれないが、そのように生活に根付いた「人
間」たちの、自分と異なる他者との対話や、あるいは少数者と共存
するがまん強さや寛容という「貴族的な精神」が必要なのだ。
それが本当の「リベラル」なのだ。だから自分と異なる価値観のひ
とを認めようではないか。
「自由主義は、最高に寛大な制度である」

こうして私たちは、「他者を考慮するという決意をしなければならな
い」のだ。
そのとき、やはり先人の知恵、つまり手続き、規範、礼儀、調停、
正義、道理などを大事にせねばならない。なぜなら、「こうしたもの
のすべては、市を、共同体を、共生を可能にするためのものなのだか
ら。」

いいですね。よく理解できましたね。
さてしかし、今回はじつは、「NHKテキスト 100分で名著」(中島
岳志著)を全面的に参照したのでした。中島先生、ありがとう。
え、いいのか、そんなことで? それで読書日誌として恥ずかしく
ないのか? いいんです! たんなる備忘録なんですから。
キンコンカーン、本日はここまで。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第296回 2022.05.08

「難しい思想の備忘録 その2」

つらつら世界情勢を鑑みるに、ウクライナに攻め込んだロシアをは
じめとして、ウイグルやチベットで民族弾圧をする中国も、悪しき
ナショナリズムや覇権主義、もっといえば帝国主義というウィルス
に冒されて熱が出て、よりいっそう権威主義に走っているように見
えてしまいます。

これはいったいどうしたことだろう?
なぜまた第二次大戦前のような風潮が流行ってきているのだろう?
そもそも、戦いの元になっているナショナリズムとか国家という概
念は、世界史上どのように生まれてきたのだろう、などと立派な疑
問を抱いていましたら、そうそう、むかしこんな本を読んだなと思
い出したので再読してみました。
そんなに難しい内容ではなかったはずなんだが、いやいやあなた、
やっぱり骨のある本でしたよ。

「定本 想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン/書籍工房早山)

高名な社会学者による高名な論考です。
近代の国民国家は、「平等一体なる国民の共同事務機関というフィ
クションによって意味づけられる国家」である、というのが「想像
の共同体」の定義でした。

国家はフィクションだ。想像の産物なのだ。
国民国家は、多くのひとに想像された共同体として、意識的に作り
あげられていったのだ。それは、王政や封建制からの「革命」にお
いてもっともよくあらわれている。だいたい革命の理念が想像に由
来するのだ。
そして「国民は(心の中に)想像されたものである。これを構成す
る人びとは、(会うこともない人びととの)共同のコミュニオン(共
同体)のイメージが生きている」、というのです。

つまり、民族的な言語とか出版物などの文化の共有によって芽生え
た「国民意識」というものが、人口増・識字率の向上という内的な
要件と、資本主義社会とグローバリズムの発展の反作用によって盛
り上がり、「国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる」
ようになった。

言語、習慣、歴史などを共同のものとして「想像」し、それに加え
て憲法、民族性、出版物などを共同のものとして「創造」する、そ
ういうフィクションによって国家としての独り立ちと安寧をはかる
ことで自分たちの安寧をはかったのだ。

さらにその「国家」は、ナショナリズム高揚のために、「国家の性格
を家族の性格に近づけたい」と願い、そのための言論や政策を行なう
ようになる。すなわち権力者に、「個人を全体の利益のために動員し
たいという欲求」が起こるのだそうです。

ここまではわかりやすいですね。
これ、支配者側の共通する「欲求」になっていますものね。
ロシア、中国、イスラム諸国、アラブ諸国、みんな同じことを同じ
ようにやっているように私にはみえますもの。そして、ここが大事
ですが、自民党による憲法改正案にも、まったくおなじ欲求が表さ
れているといったら驚きますか? 私はそう解釈しています。

「想像の共同体」は、最初はただの「フィクション」だったのに、
変異をくりかえしていくなかで、つねに新たに「想像」されて実態
を与えられつづけなければ支えられなくなっていく。
そのことが悪しきナショナリズムや専制、国益優先やそのための個
人の動員などというウィルス菌を繁殖させ、憲法をも「時代に合わ
せて」改正しようという事態になってまったのですっ!

ということで、国民国家としての資源を最大限に活用して生き残る
ために、施政者はより効率的な国家運営をしようとするのですが、
これは全体主義国家や専制国家にかぎらず、どの国においても「国
家運営上の欲望」である「国家主義」とか「専制主義」として現わ
れてくるようです。

さらにアンダーソンさんによると、問題は国民国家が「その共同体
をより強固なものにしようとするとき、国民は他の国民を敵視する」
ことなのだそうです。
他の国を敵視し、隣国を非難し、場合により恫喝し攻め入る。外に
敵を作って自国を拡大し内部を固める。周辺に、言うことをよく聞
く子分の国を作ってクッション材料とし自国の安全を図る。
ああ、これら全部、同じことの繰り返しです。
国民国家の宿痾です。悪弊です。

なんだかガッカリしてきたので、本日の備忘録はここまで。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第295回 2022.05.01

「難しい思想の備忘録 その1」

なんとか理解したいと思いながらも、なかなかとらえきれない難し
い思想がありまして、たとえばイヴァン・イリイチさんのものがそ
れにあたります。それはたぶん、テツガク的に難解だというより、
彼の思想を自分たちの行動につなげるのが難しいという理由からか
もしれません。
なので、今回は読書日誌というよりは、自分のための備忘録・ブッ
クマークということで失礼いたします。

「脱学校の社会」(イヴァン・イリイチ/東京創元社)
「脱病院化社会」( 同 /晶文社)
「シャドウ・ワーク」( 同 /岩波書店)

イリイチさんはウィーン出身の神学者、歴史家、社会学者。
1970ごろから20年くらいにわたって、教育・医療・家族・ジェン
ダーなどをテーマに発言を続けました。
同時代のウィーン出身の歴史家で社会学者として、P・F・ドラッ
カーさんがいますが、彼も現代の資本主義社会での「経営」や「マ
ネジメント」をテーマとしながら、強欲な個人主義を批判しつつ幅
広い活動をしました。
なんだかこの二人は不思議な人たちです。似ている感じがします。

それはともかく。では備忘録として、メモメモ。
「脱学校の社会」は、学校をなくそうという主張ではなく、学習や
教育を回復するためには制度の根本的な再編成が必要だとする書。
「学校教育の制度が、より多くの麻痺した人々を生み出してきた」
と。

「脱病院化社会」は、医療じたいが原因になって健康を害する「医
原病」というものを、はじめて名づけて知らしめた本。
「われわれの社会における高度な医療化の結果として、また医療機
関による診断と治療の独占の結果として、人びとは自分たちの感覚
を知るためにそれを医師から学ぶようになる。」
この二書は、いずれも進歩しようとして始めた制度が、逆に人間の
可能性や創造性を奪っている、と批判するもの。

「シャドウ・ワーク」は、ブルジョワ社会の形成とともにできあが
っていった「賃労働への依存」と、男性が囲い込んだ女性の家庭仕
事(支払われることがなく、生活の自立と自存に寄与しない仕事)
との関係を解きほぐした本。

はい、本の紹介はとりあえずここまで。これらイリイチさんの著作
は、40年から50年前のものですが、いまの日本に活かせるいくつ
かのキーワードがありますので、それを少しメモメモしておきまし
ょう。

「外部不経済(負の外部効果)」
産業製品が作り出す正のメリットや利便性のウラには、必ず負の効
果がある。たとえば、自動車が年に与える汚染や騒音などによる損
害だ。燃焼させる酸素とまき散らす毒物による環境の悪化、さらに
は警察の費用や道路整備、汚染防止や除去の費用などが「コスト」
として計上されるなければならない。しかし自動車メーカーはその
負担をしていない。

「逆(反)生産性」
医師の治療が原因になって病気になる「医原病」のように、商品や
サービス利用のまさに「内側」で起こる新たな失望や副作用。
工業生産の望ましくない副作用であり、原発や遺伝子操作、インタ
ーネットから硬直した官僚制度のようなものまである。
「道具というものは、一定の強度を超えて発達する場合、不可避的
に手段から目的へと転じてしまい、目的達成の可能性を阻む。」

「ヴァナキュラー」
人間の生活に必須のその土地固有の文化、生活に根差したもの、と
いう意味で、ヴァナキュラーな仕事、活動、言語、世界、価値など
と使われる。
これは、金銭やグローバル化などの市場原理に対抗する価値観で、
ある範囲内でのひとの相互的な互酬によって広まる。

「コンヴィヴィアリティ」
ひとのイキイキとした自立と他者との共生、という意味の造語。
人間を束縛するものや、創造性をしばるものすべてから自由になり、
産業社会の限界のなかで自立的で相互的なケアによって生きること
こそ、現代人に求められているとする。

「コンヴィヴィアリティの反対は『根元的独占』であり、私たちが
一定の道具を使用することなしには生きることのできない環境を生
み出すことによって、私たちにそれらの使用を強いること。」
テクノロジ―の進展も、権力の独裁も軍事力も、このような観点か
ら見なければならない。

・・・などなどです。問題は、これらを自分の頭の中で咀嚼して結
びつけるとともに、さらに現実の行動にうつすにはどーしたらいい
か?ということなのです。やはり自分で努力するしかありませんね、
だれも助けてくれないし。

最後にひとつだけ、イリイチさんには「自由」という大きな命題が
幹のように存在していて、個々の思想はそこから生える枝として現
われているのではないかという気がします。「人間の自由」こそが彼
の発言を結びつける接着剤ではないでしょうか。

「話す自由、学ぶ自由、癒す自由を絶滅するひとつの確実な方法は、
市民の権利を市民の義務に変えることであり、それを制限すること
である(権利を義務にしてはいけない)。自らを教える自由は教育
過剰の世界では短縮されるが、それはちょうど健康ケアの自由が過
剰な薬物使用によって窒息させられるのと同じである。経済のどの
部門も、より高価な平等の水準のためには、自由が圧殺されるほど
にまで拡大されるのである。」

どこかで、ロシアのプーチン大統領がよくイリイチさんを引用する
というお噂を聞きましたが、いや、待てと。なにをどう引用してい
るのかは知らないが、イリイチさんが生きていたら怒るぞと。
本日はここまで。



ブックカフェデンオーナーブログ 第294回 2022.04.25

「とにかくことばを大切にせねば」

ああ、あったあった、ここにも「言葉」について同じ認識が書かれ
てあった。

「いつもの言葉を哲学する」(古田徹也/朝日新書)

いわく、「総じて、『○○感』とは、いわく言いがたい感覚やセンス
などに関係する言葉であり、そして、そうであるゆえに、ことがら
を不明瞭にし、問題を誤魔化すためにも利用される」、ですと。
やっぱりね。

「クライアントの温度感」、などと使う場合も、しっかり分析して
判断するというより、感じや気持ちの問題にして安易にかたずけて
しまう態度だ。あるいは「警戒感」「やってる感」なんかは、「どこ
か明言を避けてぼやかす態度、言質を与えずに責任を回避する姿勢」
があり、「言質を与えず、ウソを言ったことにならない」言い方だ
と。そうだと思ったよ、友人の言うとおりだった。

これがファッションなんかで使う「抜け感」とか「こなれ感」くら
いだったら、まずは感覚の問題ということで気にならないのに。

この本には、ほかにも「ごもっとも!」と拍手したくなる分析があ
って、たとえば「謝罪なっていない『お約束』の言葉たち」という
節では、こんな話になります。
謝罪をするとき、「私の発言が誤解を招いたのであれば申し訳ない」
というのは、そちらが誤解したのであって悪いのは私ではない、と
言っているようなものであると。

また「ご心配をかけてすいません」「不快な思いをさせて申し訳あ
りません」というのも、心配をかけたり不快な思いをさせたことに
は謝罪をするが、それはそちらが勝手にしたことであって、自分の
罪とはいえないといっているようなものだ、とします。
また、「自分の弱さで・・・」「自分の未熟さで云々」「私の不徳」
という言い方も、「自分がなぜそれをしたかの具体的な説明を拒否
するニュアンスを帯びている」、つまり「とりあえず謝っておくけ
どね感」が強いと。

他にも違和感を覚えることばがたくさんあるのですが、キリがあり
ませんので、最後に「言葉の誤用」問題だけ抜き書きさせてくださ
い。
「自粛を解禁」という表現は、奇妙な誤用だ。
これは、「自粛の禁止が解かれること」と「自粛している事柄はそ
もそも禁止が解かれる対象ではないこと」の二重に間違っている。

誤用といえば、「発言を撤回します」という表現もそうだ。
ほんらいは「発言は撤回できない」ものなのだ。なぜなら「発言と
いうのもひとつの行為なのだから」、やってしまった行為はなかっ
たことにはできないのだ。つまりひとを殴っておいて「撤回します」
と言っているようなものなのだ。

そうですよねえ、どうもヘンだと思っていたんだ。
よかった、キッチリ解説いただいて、納得しました。
みなさん、私たちは自分を失くさないために、こういう「表現のワ
ナ」に十分気をつけて、さらに「ことばの魂、尊さ、やさしさ」を
大事にする気持ちを磨くしかありませんぞ。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第293回 2022.04.19

「デジタル化、ブラックボックス化」仮

パソコンにスマホ、バーチャルリアリティになんだかんだと、IT・
デジタル弱者にとってはつらい世の中になっております。
それらは、仮に使いこなせてたとしても、私は中身がよくわからな
いまま使っているものだからです。ブラックボックスだからです。

AIも、その元になるアルゴリズムももちろんですし、法律もそう
です。車のエンジンルームなんか何が何だかわかりません。原子力
も軍事兵器はもちろんですし、専門性が高くなればなるほどその内
容や動作過程が専門家以外にはわからなくなります。

だからたとえば農業についても、篠田節子さんが「ブラックボック
ス」(朝日文庫)で描いているように、遺伝子工学が使われたり先端
技術で自動化された最新の工場生産になっていれば、その生産工程
は一般の目には触れずにブラックボックス化していきます。

そして、作る側が生産過程や原理を秘密にして、他と差別化して利
益を上げようとすればするほど消費者側の目に映らないことが増え
て、それによってじつは生産側の専門家さえ予想しなかったような
想定外の問題を起こしたりする。

そこでさらにだれかが、起きた問題を隠そうとしたり統計や調査を
不正に操作するようなことをすると、組織的なブラックの上塗りと
いうか、スミ消しというか、カスミガセキ化というか、マックロケ
ノケの社会ができあがるという次第なのでした。
そこでちなみに、

「ブラックボックス化する現代」(下條信輔/日本評論社)

の整理を参照すると、ブラックボックス化とはこんな状態だそうです。

1. 仕組みや因果関係が見えない。
これはコンピュータの作動原理が理解できずに使っている私で
あり、お国の統計結果だけ見て驚く私のことですね。
2. ブラックボックスは、階層化する。
専門性の分化と高度化により、専門家にもよくわからない上位の
ブラックボックスができる。これが先端技術方面で起きているこ
とです。
3. 意図的な隠ぺいが起きる。
兵器や重要な産業技術の非公開がブラックボックス化に拍車をか
け、事故や事件の隠ぺい、データの偽装、災害時の情報開示の遅
れなどが起き、常態化していく。

どうでしょう、いちいち納得できますよね。
日本の社会、企業、霞が関など中枢の現状そのものですものね。
下條先生はそのうえで、こんな予測を立てるのです。

1. さまざまな社会現象について、予測が当たらなくなる。
だって、元になる情報の根拠がブラックボックスだったり、統計
不正が行われて間違った数値が予測の元であるから。
2. 過去のブラックボックス化が起こる。
未来だけでなく過去のブラックボックス化、つまり過去のできご
との因果関係や意義などを後づけで再構成したり、言い換えたり
するようになる。つまり歴史の修正だ。
3. 偽装が増える。
なんでもかんでも「内容と過程が見えない」ことが増えると、端
的に情報やデータの偽装がさらに横行する。あ、それ、やっても
オッケーなんだったら、ボクたちもやっちゃっていいんだ、って
なる。
4.ブラックボックスを受け入れる習性が助長される。
  そうなってくると、ひとはあきらめ気分が強くなり、すべての情
報も製品もそのまま受け入れてしまう。どうせわからないんだか
ら、どうでもいいや。そんな体質にさせられてしまう。
ほら、法律だって安保法制がそうだった、憲法改正もそうだろう。
自分にはわからない、議論の過程も見えない、たぶん全部をキチ
ンと理解しているひとがいて、そのひとが「適正に」やってくれ
るのだろう、という理由ですべてを受け入れてしまう。

怖い予測ですねえ。しかしもっと怖いのは、こうしたことの結果、「私
たち自身のブラックボックス化が進む」、と先生は言うあたりなのです。
なんですと? 私たち自身のブラックボックス化ですと!

「そもそもブラックボックスには、『入出力関係だけで記述できる』と
いう含意がある」、つまり、なにかを入力すると、プロセスは見えない
けれど、期待したとおりのものが出力される、そういうものだ。

ならば私たちの「心」も、なにかの刺激という入力にたいして、だい
たいいつでも同じ感情を起こし同じ行動をする、という出力を示すこ
とになりかねない。
だって、だれかに偽装された情報や再構成された歴史に取り囲まれて
いれば、それらを素直に受け入れて素直な反応を示す入出力関係だけ
が「正しい」という風潮になるからだ。
これが私たち自身のブラックボックス化だ。

ブラックボックス化はどの分野にもどのレベルにもあり、それが嵩じ
ると、ひとの心にも当てはまるようになると先生はおっしゃるのです。
ならば、私たちの使うことばも同じく、ブラックボックス化の片棒を
担わされているといえるのではありませんか?

だって、ことばに魂が宿らずに、コモディティ化し雑貨化しているの
であれば、入出力関係はドンドン単純にならざるを得ないではありま
せんか。
私たちの心なんて、もともとわけのわからないブラックボックスだっ
たけれど、その探求を諦めて入出力の「ことば」をおろそかにすれば、
私たちはただの「全自動入出力マシン」として、雑貨化したデータを
入力すると魂のないことばを自動的にアウトプットする機械になって
しまいませんか?
うひゃ、ドンドン怖くなってきましたね。


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第292回 2022.04.10

「無菌的で平均的な生き方への道」

以前に、すべてのモノが「コモディティ(日用品)化」したという
言い方が流行ったことがありました。
特別なものなんかない。自分だけが所有する特別なものなんてなく
なくなった。すべてが他者も持っている日用品だ。日常で使うもの、
それは価格は高くても安くても、イメージとしては100円均一ショ
ップで売っているようなものが日用品だ。

それを踏まえて、すべてが「雑貨化」したと言う方がいます。
この雑貨化とは「コモディティ化」と同じと考えていいのだろうか?

「雑貨の終わり」(三品輝起/新潮社)

筆者は西荻で雑貨店を開いている方。
まず彼は、雑貨化とは、さまざまな物が雑貨の名のもとに流通し、
消費されていくことだと言います。「専門店にあったはずの工芸品
も本も服も古道具も植物もみな雑貨になった」とおっしゃる。
植物も、ですか。

さらに雑貨化というものは、「歴史、用途、文脈といったあらゆる
しがらみからすべての物を解き放ち、いったんばらばらにして、ふ
たたび自由自在に組み合わせることで、ひとびとが物を取引するス
ピードをかつてないほど高める技術であった」そうな。

すると雑貨化は、コモディティ化をさらに進めて、モノにつきまと
うオーラとか、そのモノ特有の時代感とか、骨董の真贋とか美術工
芸品の美醜も、植物のイキイキとした生命観も取り払い、流通の速
度を高める「働き」でもあるようです。

するともっといえば、「無印良品」だろうが「ユニクロ」だろうが、
ブランドとしては排除すべきものであり、〇〇良品とか、●●ハン
ズとか、ド△△・△ーテとか、カ××ズとかが扱う品物も、「ブラ
ンド」ではもちろんなく、消費サイクルのなかの「雑貨」なのかも
しれません。

「雑貨化とはまさに、ひとびとのあらゆる物への関心が、大きな全
体より小さな部分へと移っていく過程でもある」。
そして、だれもが「物に飽きてくれば、だれかに魔法をかけられ、
しばらくのあいだ旺盛な消費者となって市場をさまよう」ようにな
るのだそうです。
フムフム、テレビやネットの通販も含めて、現代の消費のしかたと
してわかりやすい解説です。

モノとヒトの関係でいえば、いまの商店はどこもかしこも「セレク
トショップ」のようになり、ショッピングモールになり、もちろん
ネットや通販はもともとセレクトショップであり、小さな差異を強
調しながら、一人ひとりの消費者に「あなたの興味に合うもの」を
推薦して、だれにでも買いやすくて満足度の大きい「雑貨化」の魔
法をかけようと手ぐすね引いている。そういうわけ。

これはもちろん、雑貨化をわざわざ選び取った私たちの「生き方」
の話です。そうですよね?
つまり私たちは、自分の眼で特別なモノを探し出すのではなく、安
心安全安価安直な、いわば無菌的で平均的と思われる生き方を選ん
でいる。そういうことではないかと、私は思いました。

ということはもしかして、ことばも雑貨「化」しているのではない
か? どうでしょう? ちょっと飛躍しすぎでしょうか。

たとえば、むやみに「〇〇感」とか「△△性」「●●的」みたいに
ラクチンであいまいでどうとでも使える表現ばかりしていると、
「物を取引する(コミュニケーション)スピード」は高まるかわり
に、無菌「的」であいまいな生き方になってしまうのではないか? 
それは「ことばの雑貨化」ではないでしょうか?

モノのコモディティ化と雑貨化は、無菌的で平均的な生き方への志
向であるとともに、ことばに備わる「魂」、「尊さ」、「やさしさ」を
捨てることと、あいつうじるものがあるのではないか?
と書きつつ、やや混乱してきたので、、、つづく。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第291回 2022.04.04

「言葉の魂、尊さ、やさしさ」

ことばの使い方については、これまで何回も書いてきました。
しつこいようですが私はいつも、そらぞらしいな、ウンザりだな、ご
まかしているな、などと思えることば遣いが気になってしかたありま
せん。

たとえば「地域」とか「コミュニティ」「ふるさと(納税)」のように、
使われすぎて意味の輪郭がぼやけてしまった単語もあるし、なんでも
かんでも使って擦り切れ気味の「コスト・パフォーマンス」「生産性」
とか、政治家が使う「前向きに」「適切に」とか、若者が使う「〇〇さ
せていただく」とか、「いえ結構です」の意味で使う「大丈夫です」の
ような言い回しの表現とか、、、、。

ほかにも、閣僚がよく答弁で使う「危機感をもって」みたいな「〇〇
感」が、いま私はすっごく気になっています。
責任「感」、緊張「感」、スピード「感」などの「感」の使い方ですね。
なんで「責任をもって私が」とか、「最大限に注意して」「素早く」っ
て言わないんだろうか? 
この質問をある方に投げかけたら、そりゃことばの意味を薄めて相手
から追い詰められないようにするためだよ、って言っていました。

なるほどね。「〇〇感」には主語をあいまいにしたり、程度や範囲を
あいまいにするなどというメリット(?)があるのでしょうし、とに
もかくにも、はっきりした言質をとられないようにすることばの使い
方なのでしょう。なにせ「感」ですからね、いろんな程度があるし。

あ、ここでちょっと話がズレますけど、どなたかが言っていたことで
すが、化、的、性、式、などの漢語系接尾辞は、派生語がたくさん作
れるので「生産性が高い」のだそうです。

この場合の「生産性」とは、そのひとことに新しい意味が盛れて、さ
らにいろんな意味が新たに創れて、そのうえ相手をわかった気にさせ
るという意味でのコミュニケーション効率が高いということらしいで
す。だすると「感」も同じでしょうか。もしかしたら、程度や範囲を
あいまいにするという点でも「生産性が高い」のかもしれない。

それにひきかえ、さ、み、がる、しい、などの和語系接尾辞は「生産
性が低い」のだそうです。
「尊さ」「優しさ」「おかしみ」「寂しがる」「忙しい」などと使う
和語接尾辞は、やや発展性に乏しいと・・・。
ということだと、最近の若者が使う「おかしみが深い」「よく分かり
み」「かなりヤバみ」などという表現は、言語表現的発展「性」が狭
められた証拠であるということでしょうか・・・うーん、そうかもね。

たしかに、人間の価値が生産性で計られてしまう世の中では、ことば
の価値や重「み」も、尊「さ」も、コミュニケーション上の効率や生
産「性」という基準で決められてしまうことがあるのかもしれません。

で、話を戻しますが、しかしなぜ私は、こういうことばが気になるの
か? この疑問に対して、「そんなのおじさんの繰り言だよ」、などと
簡単につき放さずに、きちんと地に足をつけて考えてくれているのが、

「まとまらない言葉を生きる」(荒井裕樹/柏書房)  でした。

筆者は障がい者文化論を専門とする文筆家。
その立場から、「言葉が壊されてきた」という実感を語っていきます。
「『言葉が壊される』というのは、ひとつには、人の尊厳を傷つける
ような言葉が発せられること、そうした言葉が生活圏にまぎれこんで
いることへの恐れやためらいの感覚が薄くなってきた、ということだ」
と、いいます。

もちろんだれもが気がついているように、政治家や官僚のことばにも
壊れたものが増えている。人の尊厳を傷つけることばが増え(「生産性
が低いひと」とか)、知らず知らずにことばの可能性を閉ざすもの言い
が増えている。

そこは正さなければならない。ただし私たちは、「最近目につくひどい
言葉りスト」をつくるのではなく(私のように、好き嫌いを言うだけ
でなく)、なにがどう壊され、どう修復できるかを探ろうではないか。
それは強いて言えば、「言葉の『魂』というか、『尊さ』というか、『優
しさ』」を探ることなのだ。

この、困難だけどなんとかその「魂」「尊さ」「優しさ」を表現しよう、
と筆者が努力する姿は、本の目次を拾うだけでもわかってきます。
「励ますことを諦めない」「負の感情の処理費用」「『地域』で生きたい
わけじゃない」「お国の役に立たなかった人」「責任には『層』がある」
「『ムード』に消される声」「一線を守る言葉」「言葉に救われる、とい
うこと」「『まとまらない』を愛おしむ」、、、ね、なんかこれだけ見ても
筆者のやりたいことがなんとなくわかって、そもそも優しい言葉が並
んでいる「感」があるでしょう?

こうして筆者は、自分の関わった障がい者や弱者や活動家の言葉を拾
っていくわけですが、たとえばハンセン病の「言葉を信じた人たち」
からは、こんな言葉を聞きます。
「昔の患者はある意味でみんな詩人だったんじゃないかな。自分じゃ
気がつかないだけで。くじけそうな心を励まし、仲間をいたわる言葉
をもっていたからね。」

そして筆者は、たとえば病気についてこんな感想をもちます。
「ぼくらは病気から回復することを指し示す言葉として、『治る』以外
の言葉を持っていない。でも『治る』という言葉には『社会が求める
標準体=健常者に戻ること』というニュアンスが混じっていて、そこが
どうしても気になってしまう」。
いまの社会が求めること、それはイコール生産性や効率ということか
もしれません。

あるいは、「病気には人それぞれのドラマがある。同じように『回復』
にも人それぞれのドラマがある。いろんな種類の回復がある」。
であれば、そういう場面に最適な「いたわりの言葉」があるはずだ。
言葉はそのように使われるべきなのだ。それを探して行くことが、私
たちにとってよりよく生きることにつながるのだ。
私には筆者のそんな覚悟のようなものが聞こえました。

彼は文筆活動のなかで、障がい者運動家の方からこうも言われます。
「荒井君、評価されようと思うなよ。人は自分の想像力範囲内に収ま
るものしか評価しない。だから評価されるというのは、その人の想像
力の範囲内に収まることなんだよ。人の想像力を超えていきなさい」
と。
私はこういう物言いに、ことばの「魂」「尊さ」「優しさ」を感じます。



ブックカフェデンオーナーブログ 第290回 2022.03.27

「たくらみ深き、文字じたいが主役の短編群」

非・読書日誌として、読むのに苦労したり読み終えることができな
かった本を紹介するという、自虐的な作業を続けておりますが、こ
れもひとえに、どなたかきちんと読んだ方がおられて、その方から
「この本はこう読むといいんだよ」という応答をいただけないかと
期待しているからでもありました。

「文字渦」(円城 塔/新潮文庫)

私、これが読み終えられませんでした。ざんねん!
12の短編集ですので、いままでご紹介してきた大長編とは異なり、
まあまあひとつずつでも読んでいけば何とかなるのではないか、と
思われるかもしれませんが、それが大きな間違い。

それぞれ文字をテーマにした短編集なのですが、そのひとつずつの
題名からして、文字禍、種字、緑字、誤字、闘字、天書、梅枝、金
字、新字、幻字、微字、かな、と、ワードでは変換できないような
ものばかりです。

一篇ずつの趣もまったくバラバラで、古代中国の竹簡に書かれるよ
うな漢字の話から、「地球から最も遠くに位置する漢字は」という
けったいな出だしで始まるものから、文字そのものが主人公になっ
たり、カンブリア記のことが短歌になったり、もうなにがなんだか
わかりません。

ここには中国の歴史あり、宗教学あり、生物学や情報科学の知見も
あり、まるで冷蔵庫にある材料を全部まとめて炒めた中華料理みた
いな、これ、ちょっと食べきれないな感にあふれているのでした。

解説に、「作品を読み終わる前にこの解説を読もうとしている読者
がいらしたとすれば、そのお気持ちはとてもよく分かる」と、ある
のがいい証拠です。
これは、読者が苦しんで読むだろうという想定で書かれていて、読
者に同情的な良い解説でした。いや、解説を褒めてどうする。

じゃ、解説を読めばこの本の読み方がわかるかというとそんなこと
なくて、解説者は最後には、「気軽に手ぶらでバードウォッチングを
楽しむように読んでみて」などと、突き放してくるだけなんです。
つまり、深い森の中で、いろいろな装いと声で現れる鳥たちを観察
するように、この短編たちに出てくる主人公である「文字」の、そ
の現れ方を楽しんでください、主人公の文字たちは生きているので
すから、ということらしいのです。

そう言われてもねえ・・・。
でもこうして感想を書いてみると、文房具が主人公だった筒井康隆
のSF「虚構船団」よりもだんぜん手が込んでいて、混み入ってい
て、たくらみが深いということが感じられてくることは確かです。
ではみんな、がんばるんだ! がんばって読んで、そのおもしろさを
私に教えるのだ! 幸運を祈る。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第289回 2022.03.20

「多くの疑問を生み出す装置のようだ」

さて、いよいよ「読み終えにくい本」の最右翼に近づいてまいり
ました。
え? はいはい、もちろん、ブルーストの「失われた時を求めて」
とか、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」、ガル
シア・マルケス「百年の孤独」とかの、「読み終えにくい本の古典」
は別にして、ですけれど。
だいたい私だって、どなたかに「読み終えにくい本とはなにか」っ
て聞かれて答えているわけじゃないんで、たんなる自虐で続けてい
るだけですから。

「Xのアーチ」(スティーブ・エリクソン/集英社文庫)

でもみなさん、これはスゴイぞ。
本の惹句をそのまま引用すると、「フランス革命直前のパリ。アメ
リカ独立宣言起草者として名高いトマス・ジェファソンは、自らの
美しき女奴隷で愛人のサリーを連れて帰国しようとする。トマスと
ともにアメリカに帰り、再び彼の奴隷になるか、パリに残って自由
人の黒人でい続けるか。サリーの決断により、愛と快楽、自由と隷
属をめぐる、時空を超えた目くるめく物語が幕を開ける・・・」

と、あれば、こりゃまた骨太の大河ドラマが始まるのだな、と思う
じゃないですか。
ところが、物語の出だしが、
「18世紀のほぼ中間点にあたる四月のある夜、ヴァージニア植民地
オレンジ郡において、ジェイコブ・ポルルートは自分の死を飲み込
む直前に、その死をまず舌で味わう瞬間を得た。」
とかで始まると、頭の中に多くの「?」が、産卵後のメダカの学校
のように湧きだすのでした。

これはじつは、奴隷を残虐に扱っていたジェイコブが、イブリンと
いう女奴隷に殺される瞬間を描いたものなのですが、その後、この
部屋でジェファーソンが妻を見送り、フランスに渡って若い奴隷サ
リーを手籠めにする話になっていきます。

じゃ、なんで、ジェイコブ・ポルルートの死が最初に必要だったん
だろう? このあと主要登場人物だと思っていたジェファーソンは
どこかへ行ってしまうが、なぜ消えるんだろう? などと「?」の
群れだけが取り残されて回収されずに進むのです。

この小説の全編を覆うのは、どこでもいいですが、パッと開いたペ
ージにある、たとえば「植物園の迷路に降り立っていくという行為
自体、神と教会庁をあざ笑う思いの空間的表明に他ならなかった。
みずからが<救済>と呼びほかの誰もが<欲望>と呼ぶゾーンに対
する支配権を唱える教会は、、、」みたいな文章なのでした。
この文章そのものも、私の頭に「?」を生み出し続けます。

ところで、小説家の高橋源一郎さんは、「不安になったり、それを読
んでいることを隠したくなったりする、つまり問題山積みで、でき
れば近づきたくないような文章」のことを、いい文章でと言います。
たぶんそれは、小説の神髄を、読者の固まり切った頭をゆさぶって
掻きまわして一回リセットすること、を意味しているのかもしれま
せん。
それにしたがえば、作者エリクソンの文章ほど「問題山積み」なも
のの典型ではないかと思いますね、まったく。

こうして小説の登場人物たちは自由に時空を超え、めくるめくような
「永劫都市」に住みつき、あるものは歴史を丸ごと変え、あるものは
「もうひとつの世界」を幻視して、読者の頭の中に多くの「?」を生
み出していく。
いやー私は完全に、「幻視」しつつ、めくるめいちゃいましたね。

翻訳の柴田元幸さん、がんばりました、お疲れさまでした。
私、ここに告白いたします。ついに読み終えることができずに、どう
も申し訳ありませんでした。
「?」が好きなひと、ふつうの小説に満足できないひと、怖いもの見
たさの方、めくるめきたいひと、たまには不安になってみたいという
勇気ある青少年は、ぜひチャレンジするのだ!

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第288回 2022.03.13

「歴史を別の見方で見たら」

こ、これは、なんだかスゴイぞ! とんでもない物語だぞ、と思わ
せ、でもやっぱり読むのにたいへん苦労した小説が、

「ゲームの王国」(小川 哲/早川書房) でした。

これまた文庫本上下で1000ページ近くある大長編。
上巻ではカンボジアが舞台になって、第二次大戦が終わった後の
1950年代から20年間が描かれます。
現在はいっときの「最貧国」状態から抜け出し、アンコールの遺跡
とともに国のプライドも復活し、さらに中国からの援助も受けて経
済発展をとげ、ASEANの一員になったになった国です。

この小説では、のちにクメール・ルージュ(赤いクメールという意
味の共産主義反乱軍)を率いて国民の大虐殺を起こしたポル・ポト
の若き日を背景に、その隠し子のソリアと、おなじ村の神童である
ムイタックが描かれ、かれらの運命が1970年代のカンボジアの悲
劇とともに物語られ始めます。
50年前、まだ最近のことといっていい。

歴史に翻弄される小さい村の人々、共産主義を標榜しながら暴力的
な支配と極端な政策を強めて、彼らなりの理想を掲げて内戦を続け
るポル・ポトとクメール・ルージュ。

その、若きポル・ポトが出てくるんだから、これは手を抜いて読ん
だらダメだぞ! クメール・ルージュの残虐を生き抜いた少女の自
伝的小説「バニヤンの木陰で」(ヴァデイ・ラトナー/河出書房新社)
を思い出せ! と気合を入れつつ読みましょう。

というのも、これらは私たち日本人にとっても「知っておかなけれ
ばならない」ほんものの歴史だからです。現代カンボジア史になじ
みがないといっても、クメール・ルージュによる虐殺の悲劇は忘れ
てはならないし、なにより彼らの理想や革命の動機を理解したいの
です。

そして、下巻に入る。
登場人物たちは大人に成長している。
内戦は終わり、街並みすっかり近代化し、農村地帯では、まかれた
地雷の多くは撤去された。
上巻の登場人物たちの運命はどう変転するのか? ポル・ポト亡き
後の現代のカンボジアはどうなるのか?と思って読んでいくと、オ
ヤ? これがまた、トンデモナイ展開が待ち受けているのでした。

これは、、、まったくの「仕切り直し」ではないか。ガラガラポンで
はないか。あれー、私、どこへ連れて行かれちゃうのー?
登場人物のひとりソリヤは政治家になって最高権力をめざすのだが、
いっぽうのムイタックは、<チャンドック>と名づけた、脳波を用
いたゲームを開発し、対立していく。SFになってきたぞ。

この脳波を用いたゲームでは、「魔法攻撃を放つために特定の脳波を
出さなければならないが、それを強力なものにするために、存在し
ない記憶を捏造するよう自らを最適化する」こともある。のだと。
えーと、ちょっとなに言ってんだかわかんないんですけど(「サンド
イッチマン」のコント風に)。

物語が2000年代に入ると、ゲームの開発思想と哲学や倫理道徳が
混ざり合って、さらにどんどん別の話になってまいります。
もしかして、脱落する読者が出るとしたらこのへんですね。少なく
とも、ゲームの世界に不慣れな私はここらへんでつまずくことにな
りました。このへん、がんばって読みましょう。

さらに2023年、老年を迎える登場人物たちは、ゲームの中で過去
の記憶をたどりながら、「自分たちの歴史とはなんだったのか」「こ
の世界をどう解釈したらよいのか」「我々にとって事実/真実とは
なにか」といった疑問に取りつかれることになる。
いや、作者は登場人物を使ってそのような問いを提示したのです。

フィクション(小説)の役割の一つに、「世界や歴史について、い
ままでとは別の見方を投げかける」ということがあるとしたら、こ
の本はまさしくその役割をはたしているのです。スゴイ! 
スゴイんだが、疲れる!



 

ブックカフェデンオーナーブログ 第287回 2022.03.06

「本にまつわる歴史絵巻」

これこそが世界史的な大河ドラマだ、と感じさせられ、でもこの小
説の主人公はじつは人間ではないな、主役は「本」だな、と思わさ
れるのが、

「サマルカンド年代記」(アミン・マアルーフ/ちくま学芸文庫)

でした。
それにしてもこの本もまた、なんとも読むのに苦労すること、する
こと。読み終わるの、大変だったなあ。
理由その一。
前後編に分かれる前編では、私たちにあまりなじみのない、ペルシ
アが舞台になっていること。地理、風土、風習など、知らないこと
が多いので、小説の舞台がイメージしづらい。

理由その二。
知る人ぞ知る、ペルシアの詩人オマル・ハイヤームが主人公になる
こと。知る人は知るだろうが、私はあまり知らない。
オマルは11世紀に生まれた思想家、天文学者、詩人で「ルバイヤ
ード(四行詩集)/岩波文庫」の作者という万能の天才だが、なん
たって私は読んでないから知らない。

理由その三。
後編では舞台が19世紀末のフランスになり、別の語り手が現れる。
そしてまったく違う話になってしまう。このへん、えっ?みたいな
感じで、私はややおいてけぼりを食った。

その後編では、紛失したとされる「ルバイヤード」の手稿本(オマ
ル・ハイヤームの手書き本)にまつわる話と、それがあるいきさつ
によって豪華客船タイタニックとともに、セリーヌ・ディオンの歌
に乗って(ウソですけど)海に沈んでしまうという悲劇で終わる。

理由その四。
いや、悲劇が悪いといっているのではなくて、セリーヌ・ディオン
の歌を連想してしまう自分を弁護するわけでもないが、文庫本450
ページをここまでがんばって読んできたのだから、読者にもうちょ
っとご褒美をくれてもいいんではないかと、ちと思ってしまった。

さて、ということで、この世界史的な大河ドラマは、時空を超えて
現れたルバイヤートという「本」をタテ糸の主人公として、それに
運命的に結ばれたヨコ糸の人たちの物語であり、天才(いや、私は
知りませんけど)オマル・ハイヤームを生んだペルシアの中世から
現代への物語でした。

物語(フィクション)の役割のひとつに、読者の想像力を刺激して
今とは異なる人生の意味を考えさせる、というのがあるとしたら、
まさしくこの本はその役割を果たしているのでしょう。その証拠に、
私も幻の本を探す旅に出たくなりましたもんね、ハリウッド映画に
よくあるパターンだけど。

と、こんな月並みな感想をお許しいただいた上で、この本がみなさ
んにとっても、「読むのにがんばり甲斐のある小説」であることを
心から願っています。

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第286回 2022.2.27

「あまりにも多種多様な人間たちの営み」

一年間続く連続テレビ小説をきっちり観たような満足感を得たもの
の、読み終わるにはやはりそれなりにひと苦労だった本があります。

「ホワイト・ティース」(ゼイディ・スミス/中公文庫)

これも文庫本上下で1000ページ近くあるんです。
それも、作者が24歳のときの作品だといいますから、びっくりし
ます。レイモン・ラディゲか! 樋口一葉か! 
いや、そんなツッコミはいらない。

訳者あとがきをお借りしますと、物語は、「ロンドンの下町育ちで
優柔不断きわまりないが底抜けに人のいいアーチ―と、バングラデ
シュ出身のムスリムで、誇り高い教養人サマードとの半世紀にわた
る友情を軸に」進みます。

この24歳の作者が侮れないのは、時代が現代からいろいろな過去
に飛び、場所がイギリスからインド亜大陸にまで飛び、インドの
セポイの反乱(1857年)からジャマイカ大地震(1907年)、第二
次大戦から現代へと物語が続くなかでいろんな人種のひとが登場し
て、たとえば主人公のひとりアーチーの若い妻がジャマイカから来
た生真面目なエホバの証人だったり、イスラム原理主義の若者が出
てきたりと、、、、とにかく、もう、多様なテーマと多様な登場人物
が多様なエピソードを繰り広げるのを一冊にまとめ上げたことです。

私に限らずどんな読者も、インドのカレーからハイチのチキン料理
からイギリスの油たっぷりのフィッシュアンドチップスまで、一度
に食べたような気分になることでしょう。

私のような凡庸な読者が、この長大な本をなかなか読み進めること
ができなかった理由も、そのへんのむやみな多彩さにあるのです。
でも結局は、いろいろな価値観の登場人物によってもたらされるホ
ンワカとしたユーモラスな雰囲気と「世の中なんとかなるよ」的な
楽観的な味わいが、読み続けることを助けてくれました。

たぶん、これこそ作者の世界観というものの表われではないかと感
じるのです。世の中にたいする楽観性を大事にする、という。
それは、あとがきに紹介される作者の、「この本は一種のファンタジ
ー、ここに描いた人種間の関係は、こうあってほしいという願いで
す。でも、現在すでにこういう関係はありうるかもしれませんし、
どんどん混じりあっていけば、将来はきっとこうなるでしょう」、と
いうことばからもわかります。

さらにいえば、作品のラストに、「だが、こうしたほら話やそれに類
する話を語ることは、過去は常に不安で、未来は完全だなどという神
話を、ひどい嘘を、ばらまくことになる」、ということばがあります。
そこからは、ただの進歩主義とは異なる、人種の「混じりあい」と過
去と未来という時間軸の「混じりあい」による別の世界があるはずだ、
という歴史観も感じられました。

ということで、この壮大なテレビドラマを一年間見終わった後に、な
んとなく自分が川の向う岸にたどり着いていた、というような安堵感
に私は満たされたのでした。