３１　ビブリオバトルではぜったいご紹介できない本

ビブリオバトルをご存じでしょうか？

ひとりずつ本を紹介しあう、いわば書評のゲームで、当カフェでも開催させていただいています。なにせ「ブックカフェ」ですので。

たいてい四〜五人がひと組となって、ひとり五分で人に薦めたい本を紹介し、オーディエンスはそのなかで一番読みたいなと思う本に手を上げる。たくさん手が上がった本がその組の「チャンプ本」と認定されて、紹介した人は「名誉（だけ）」をいただきます。最初に谷口忠大さんという東工大の先生が考案されたもので、ずいぶん普及してきました。

ご興味のある方は、各地の図書館や公民館や学校や書店で行われているビブリオバトルに参加するか、ビブリオバトル普及委員会のＨＰで調べてみてくださいね。やり方の本も出ています。いろいろな種類の本が、紹介者（バトラーといいます）の熱意（「みんなにも読んでほしい！」）とともに紹介されますので、その熱意にもほだされて思ってもみなかった本に興味をそそられ、それ読みたいっ！と手を上げ、その日のうちに買ってしまったりします。自分がまったく知らなかった本を知ることもできますし、なんというか、思ってもみなかった感じ方や読み方があることを知らされることになるのですね。本好きの方はやみつきになりますこと、うけおい。

もちろん私も参加し、チャンプになったこともありますし（エヘン！）、もっともっと紹介したい（とくに若い方に）本もあるのですが、半面、「この本は絶対ビブリオバトルには出せないな、自分には紹介する力がないな」と感じる本がいくつかあることは事実です。

そのうちのひとつが、

「太陽を曳く馬」（高村薫／新潮社）　

殺人がある。そしてまた一人の見習い僧侶が死んで、それが事故か自殺か他殺か、わからない。過去の事件の因縁や、著者の前作・前々作からつづく一家の父と子の確執があり、高村小説におなじみの、いろいろ屈折した心の持ち主である刑事合田雄一郎が登場する。抽象画の画家と、合田とはいわく因縁あるその父親の僧侶、それをとりまく禅宗の僧侶たち（サンガ）がいる。なまなましい現場の状況があり、それを合理的に処理して解決しようとする警察・検察の考えがあり、それに対抗するかのように登場人物たちによる抽象絵画論があり、ひとの生死をめぐる宗教論があり、とりわけ禅の思想に深く分け入っての会話がある。

そのなかを合田刑事はつねに個人的な葛藤をかかえながら、からんだ糸をほぐすかのように捜査を続け、迷い、核心に迫り、しかしながらその真摯な努力は報われることなく、事件としてはなんだかわからないままに終わる・・・。

これはいったい、なんだ！　

ザラザラとした手触り感のある現実と、そこに生きる人たちの頭の中にあるとんでもない観念や欲とに翻弄される主人公の刑事と、そしてそれをビクビクしながらうしろから覗くわれわれ読者。いったい作者はそれを楽しんでいるのか！（怒）

だれもが「人の死」に理由を求め、しかしながらそれを見つけられず、「自分の生」に理由を求め、でも見つけられず、合田刑事のように懸命に考えて行動しても右往左往するだけ。それぞれの「理由」は、求めれば求めるほど、登場人物と読者であるわれわれの手からどんどん離れていく。

日本にこんな小説があっただろうか？

そして、上下巻あわせて800ページにならんとするこの小説を、どう「おもしろく」、そして「読みたくなるように」紹介したらいいんだっ！（かさねて怒怒）・・・いや、おもわず興奮して失礼しました。もちろんおもしろくて魅力的ですごい小説なのですが、いかんせん私には、この小説のおもしろさとすごさを、人にうまく伝えられると思えませんのです。しかも五分じゃ絶対ムリ。

こういう場合はどうしたらいいのでしょう？ どう紹介したらよいというのでしょう？ ビブリオバトル関係者のみなさま、書店員のみなさま、図書館司書のみなさま、文学部の先生、だれでもいいから教えて！（でもその前に、この小説を読んでみてね）

３２　昔の人はマジ、よく生きていたなあ

みなさんもそうだと思いますけれど、たぶんもう読まないだろうなと思いながらも、どうしても処分できずにとっている本というのがあります。

私の場合それは、好きだった梶井基次郎全集、カッコつけて買った小林秀雄全集、モテたいためのランボー全集、パチンコの景品でそろえた埴谷雄高全集やら、古本屋を回ってそろえた夢野久作全集などです。ああ、きっと読み直すことなんかありませんよ、はい。もし仮に読みたくなったとしても、文庫を買うなりして読むでしょうね。わざわざ箱入りの重い本を持ち歩きませんって。

と思いながらも、なぜかいつまでもカフェの本棚の上の方に、神棚のお札のような感じで鎮座されている。これではまるで自分の青春時代からいつも見下ろされているような気分になりますし、お客さんも圧迫感を感じておられるのじゃないでしょうか。まことに申し訳なく存じております。

さて、そんな処分できない本のなかに、

「プルターク英雄伝」（河野与一訳／岩波文庫）があります。

もう読まないのではないかと思っていたのは、じつは、読みたいけれど昔の文庫の文字が小さすぎて読むのに難渋するという別の問題があったのでした。ところが塩野七生さんの「ギリシア人の物語（新潮社）」を読んで、ムラムラと再読への挑戦意欲が湧いてきたのでした。

ほんとにまあ、若い頃はよくこんな細かい字を読んでいたなあ、という感慨はともかく（ハヅキルーペがある！）、やっぱりおもしろいのです。ご存じの方も多いのですが、ギリシアとローマの偉人たちを対比しながら論じていくので「対比列伝」ともよばれるこの本は、いまでも色あせない人生の教科書みたいなものです。

今回は塩野さんの叙述を確かめたいこともあって、ギリシア黄金時代のアテネの偉人を読んでみました。とりあげられているのは、スパルタと共にペルシアとの戦いを指導したテミストクレス、そのあとを継いでペルシアとの海戦で勝利し、アテネの黄金時代を築いたペリクレス、そのあとシチリア遠征で失敗したアルキビアデース（プラトンの「饗宴」にも登場して、酔っぱらって宴会に乱入し、ソクラテスにからむ人物）などです。

再読の感想は、アテネの偉人たちそれぞれの足跡がなんとクッキリ残されているのだろう、というものでした。ああ、古代の人はなんて良く「生きている」ことだろう！

そうなのです。この「英雄伝」の良いところは、登場する偉人が、だれもがあれこれ迷いながら、そして人を裏切ったり裏切られたりしながら、さらに、祖国に尽くしながらも名誉欲だけでなく物欲もあり、言葉で民衆を引っ張りながらもその言葉で身をほろぼすといった、いかにも人間くさい部分をきっちり書いているところです。古代ギリシアの偉人たちは、自分の知恵と議論における言葉を武器にしながらも、デルフォイの神託にも頼っている。民衆（アテネ市民）を信じて頼りながらも、そのじつ民衆を扇動して利用したりする。そんな人たちなのでした。

ところで、私が個人的に興味のあるアテネの民主政については、塩野さんはあまり触れていませんでしたが（塩野さんは戦争とか都市計画のほうが好きみたいで）、この「英雄伝」でも、じつはそこはあまり触れられていません。たとえば民主政最盛期の指導者ペリクレスについても、「トゥキディデスは、ペリクレスの政治を一種の貴族政治として叙述して、『名目は民主制であるが事実はこの一人者の支配である』と説いた」なんて、他人の言葉を借りて淡白に述べる程度です。そして、「その政策のおかげで（市民は）悪い癖がつき、節度をもって自力で働いていたものが贅沢で放縦なものになった（と他の多くの歴史家が言っているが）、その変化の原因は事実そのものによって考察していただきたい」、などと突き放した言い方をしている。

これではまるで、ペリクレスは民衆に取り入ったポピュリストだったと言っているようなものですね。じっさいはそうだったかもしれないけれど、少なくともアテネではアゴラ（集会所）や議会においてきっちり「討論」「弁論」が行われていたわけですから、私としては、もう少し事実関係を知りたいところです。そのときの模様が知りたいし（できればユーチューブの生中継で）、議事録があったら読みたいものですね。

そういえば筆者プルタルコスの生きた紀元一世紀というのは、ギリシアの黄金時代はとっくに過ぎ去ってローマが皇帝支配（帝国）になった時期で、逆にあまり民主政については書けなかったのかもしれませんね。いや、もしかしたらプルタルコス自身も、民主政には疑念を抱いていたのかもしれません。民主政は愚民政だ、だから優れたリーダーによる寡頭制がよいのだ。それとついでに、わしらのご託宣をもっと尊重しろ（彼自身はギリシアの神官でした）、などと思っていたかもしれない。あるいは政治や政体なんかのことよりも、たんに個人的に、ひとがどのように考え行動したかということ、つまりひとの生き方への興味が強かっただけかもしれません。すると彼にとっては、一人ひとりが死ぬことをおそれずに戦うスパルタの英雄のほうが書いていて楽しかったでしょうし、こころなしか、そちらのほうが叙述もイキイキしているようにも感じます。

さてこんな再読の結果、やはりこの本も処分できないことに決しました。

若者の皆さん、眼の良いうちに、岩波文庫版で全編読むべし！

３３　われわれはみな、迷い鳥

当カフェでは「ほぼ毎月」サロンコンサートを開いているのですが、奥田由香さんの「タゴールソングの午後」は、まことに印象的で感動的なものでした。

奥田さんは東京外国語大学のベンガル語講師をつとめる方。

タゴールは、ご存じの方も多いでしょうがベンガル（いまのバングラデッシュから東インドにかけての地方）の産んだ詩聖。アジアで最初にノーベル賞（文学賞）をもらった方で日本にも来ていて、昨年（2016）が初来日から100年という年でした。

この100年前の日本というのは、日露戦争に勝ったあと、第一次世界大戦のおこぼれで好景気。近代化を成し遂げて「一流国」になったという自負のもと、浮かれまくって（そして国内の矛盾にも苦しんで）周辺国への進出をバリバリ進めていた。タゴールはそんな日本に苦言を呈した人でもありました（日本はいったい王道を歩むのか、それとも覇道を行くのか、と）。

さて奥田さんは、タンブーラという楽器の音色に載せてタゴールの詩を朗読し、さらにバングラデッシュの民衆の唄である「バウル」も聴かせてくださったわけです。

そのすばらしいこと！ しばらくの間、詩と音楽がおなかの中に留まっていた気がしました。タゴールの詩は季節に寄り添い、自然を賛美し、人々の生活のなかの喜びや悲しみを紡いで人間を祝福する。詩とはすべからく、かくありたいものです。

そして奥田さんがタンブーラで奏でる伴奏の、なんと繊細で心に沁みること！

さて、タゴールの詩は「ギタンジャリ」という詩集がことに有名ですが、ご紹介したいのは、

「迷い鳥たち」（ラビンドラナート・タゴール／内山眞理子訳　未知谷）

これは、すべてが二・三行の短詩の詩集です。詩でもあるし、賢人のパンセでもあるし、神々への祈りでもある、そんな本です。詩の魅力をうまく紹介するなんて私にはできませんが、ひとつだけ、タゴールの短詩は私たち日本人になじみやすい、俳句のようなものかもしれないと感じたことでした。つまり、五七五の俳句になりやすいのです。

たとえば、第一詩、

1　「夏の迷い鳥たちは、わが窓辺にきて歌をうたい、飛びさる」

　は、容易に、「迷い鳥　窓辺に来て去る　夏の朝」なんて、なりそうでしょう？

41 「樹々はつま先立ちして天をのぞいている、まるで大地が天にあこがれるかのように」

　は、「つま立ちし　天をのぞくや　青緑」、どうでしょう、いけますかね。　

294「昨夜の嵐はこの朝に、金色の平和という王冠をさずけた」

　は、「嵐去り　金の王冠　残しけり」、ではどうかと。　

もちろんもっと哲学的な詩や、自然と秩序とそれを統べる神をたたえる詩、そして生と死についての深い内容の詩もたくさんあるのだけれど、タゴールのなかでは、神・自然・人間・日々のくらしが一体になっていて、それがことばとして湧き出ているように感じられます。だから、けっこう芭蕉や一茶と近い位置にいるのかもしれません。（ちなみにこの詩集は、Ｅ・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」の各章パラグラフに引用されているのをご存じの方もいるでしょう）

ところで、バングラデッシュの民衆の唄である「バウル」については、川内有緒「バウルの歌を探しに」（幻冬舎文庫）という、すぐれた紀行文があります。筆者はバングラデッシュに「バウル」という民衆の唄があると聞き、それを聴きたいと探しに行く。その途中タゴールの生家を訪ねたり、バウル以外の民衆芸能に出会ったりしますが、苦労の末ようやくバウルを聴くことができます。

そんな話も読んでいたので、奥田さんがバウルを演奏されたとき、おお、これがあのバウルなのねと、ものすごく得したようで嬉しかったわけですね。

それはさておき、タゴールの生まれ育ったバングラデッシュは、独立したあと、多くの人口を抱えてアジアの最貧国とされ、外国の支援に頼らなければならないことも多く、最近はテロもありました。でもムハマド・ユヌスさん（そういえばこの方もノーベル賞受賞）のグラミン銀行のような試みも着々と実を結んでいます。いっぽう、いまだに成長の夢を追い、格差の問題を抱え、憲法を改正して海外に軍隊を派遣しようとしている国、ニッポン。いまタゴールが生きていたら、バングラテッシュや戦後の日本をどう思うのだろうと思ってしまうのは私だけでしょうか。

「君たち、いまだに迷い鳥を続けているのかね？」って言われてしまわないかな。

３４　あらたな共通言語をつくれるか？

カフェの「ほぼ毎月コンサート」では、常味裕司さんによるウードの演奏会を定期的に行なっています。みなさんはウードっていう楽器をご存じでしょうか？

中東からモロッコにかけてのアラブ圏でひろく演奏されている歴史ある楽器で、最古の弦楽器、楽器の女王ともいわれます。また、西洋のリュートやギターの原型、もしかしたら日本の琵琶のご先祖様とされるものです。滋味深い音色、複雑でたゆたう旋律、常味さんのウード演奏は、おおげさかもしれませんが、なにか歴史が匂い立ってくるような演奏でした。

そこで思うのは、ああ現代のアラブ世界は、このウードの響きをどこへやったのかと。

「ジャスミンの残り香」（田原　牧／集英社）

もうすっかり忘れられているような感じですが、日本で東日本大震災がおこった2011年、チュニジアから始まったアラブ世界の民主化運動は、「アラブの春」とか「ジャスミン革命」と呼ばれてアラブ世界全体に広がりました。

そうそう、そんなことがあったねえ。想い出しました？

おもに各国の軍事独裁政権に抗して始まった運動は、メールやＳＮＳを通じて燃え広がり、自然に広場に人が集まり、その「群衆」の力によって多くの国で時の政権が打倒されたのでした。ちなみに日本で成立した「共謀罪」は、一般の人は対象外と説明されますけど、アラブ諸国で広場に集まった人たちはすべて一般の人でした。権力はこういう動きがとても怖いのです。だからメールのやりとりもＳＮＳも、監視しなければ安心できないことでしょう。お隣の中国もロシアも、中東のイランも、いちばん恐れているのはこれですよね。

それはともかく、いま、そのアラブの春はどうなっているのか？ 革命は徒労だったのか？

その疑問を抱えて、筆者はアラブ（主としてエジプト）への取材に出かけます。

結論からいうと、ジャスミン革命は、革命としては失敗に終わった。エジプトではムバラク政権を倒してイスラム同胞団が権力を握ったが、それもうまくいかず、その後くるくると政権が替わる。カダフィ大佐を倒したリビアもふたたび内戦状態。シリアはご存じのとおり。イスラム国もその余波で増殖しました。どこでもテロ、暗殺、不安定な政権、体制派と反体制派、あるいは部族間闘争にイスラム内の派閥争いが再燃。だれとだれが争い、敵がだれなのか分からない状態の継続。つまり元の木阿弥、というか、もっとひどいことになっています。

こうした事態に対して、筆者のインタビューに答えてあるエジプト人いわく、

「（ジャスミン革命の）あの日々は奇跡だったかもしれない。人びとの良心が他の人々の良心を呼び覚まし、それがどこまでも連鎖していくということを知った。いまはあのときと正反対だ。不信が不信を、犠牲が犠牲を生んでいる」

では革命は全く意味がなかったのか？ いや、そんなことはない。「あの日から、エジプト人であることを誇りに思えるようになった」。そしてさらに、「政治が不安定になったせいで、気がついてみると誰もがサッカーの試合のように政治を語るようになっていた。誰もが自分を無力だと思わなくなってきた。そりゃ、いまのような時期は疲れて、悲観的な気分にもなるだろう。でも、自分の可能性を広げるということはどだい、疲れるものだ。それが自由というものなのかもしれない」。

そう、結果として革命は徒労に終わった。しかし、と筆者は言います。

「革命が理想郷を保証できないのであれば、人々にとって大切なことは、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。」

さらに、「怒りは尊厳の裏返しでもある。（中略）怒りの表現が運動の成果を取ることよりも優先されなくてはならない理由は、尊厳や怒りこそが自分の存在を自覚させ、その精神の成長を促すからであり、そうして人が変わることが社会を変える可能性の基礎になると思えるからだ」。

私は、筆者の言うとおりだと思います。とりわけ、

「自分の可能性を広げるということは疲れるもので、それが自由というものなのかもしれない」、というエジプトの方の言葉には、シビれますね。

そして唐突かもしれませんが、音楽、とくにアラブ世界に共通する楽器ウードとその音楽とは、国の政権や宗教対立がどうあっても変わらない、なんというか、アラブの歴史と自由の精神の象徴なのではないかと感じたことでした。

ウード音楽が人々の尊厳の象徴として共通言語の役割を果たし、それをきっかけに、アラブに共通の誇りと自負、そしてそれによる平和が復活することもあるのではないか。

いや、ぜひ、そうであってほしい。

３５　食べたいものを食べたいときに食べられるだけ食べる　　

カフェのお客さんとは、病気とか健康の話になることが多いものです。

みなさん、気にしてらっしゃいますね。だれもが、なんらかの身体の問題を抱えていらっしゃる。そして話の最後は、「やーっぱり、ボケずに健康でいて、死ぬときはポックリが、一番よねえ」ということで終わります。

ところで、別のところで見つけた、あるおばあさんのおことば。

「こんなに長生きするんだったら、もっと体を大事にしておくんだった！」

これには笑ってしまいました。でもこれ、なんでおかしいんだろう？

ということで話は戻りますが、だから世の中には健康に関する情報があふれています。テレビのゴールデンタイムにはかならず健康や病気に関する番組がありますね。「健康がいちばん、死ぬときはコロリ」の「ピンピンコロリ」は、いまの日本人に一致した思いなのですね。

ところがこれに、「まてまて」と、ちょっと異を唱える人がいます。

「健康第一は間違っている」（名郷直樹／筑摩選書）

筆者は臨床医の立場から、だれもが当然と思っていることに疑問を投げかけるのです。

たとえば、健康と病気の境目はどこか？と。

「健康は健康、病気は病気と明確に分けることができ、健康に気をつければ病気にならないというのは、あまりにナイーブすぎる。」おおっ、そこですか。確かになあ。

あるいはまた、健康と幸福の関係とは？「健康に気をつければ長生きできるし、長生きすれば幸せになれるというのも（同じで）、、、そんな風にはいかない。」ごもっともですなあ。

こういう調子で、筆者は「高血圧と脳卒中」「がん検診」「認知症早期発見」などの例を使い、データをもとにいまの常識に疑問を投げます。その検診や薬や治療は、ほんとに「健康寿命」に影響しているのですか？ その因果関係は本当ですか？って。

そうした「健康のための常識」のなかに、じつはけっこう「うそ」に近い医療情報が多い。さらに業界の利益になるように持っていこうとする意図もある。私たちはそういう常識に踊らされ、たとえばきちんと健康診断にいかなくちゃという思いに見舞われ、行くと結果の不安感からストレスになったり、診断がほんとかなと思う不信感でかえって胃潰瘍になったりする、、、らしい。　

そこでこの本のメッセージのひとつは、「健康欲」というものは「食欲」や「性欲」と同じようなものなのだが、とてもコントロールしにくいという性質があるのだよ、ということになります。それは食欲と違って満腹感がなく「底がない」から、どこまでも追及して満たそうとしてしまいがちだし、外部からいくらでも刺激されやすい、だから気をつけろと。

なるほど、健康欲をどこまでも刺激するテレビ番組や雑誌が多いわけです。

では私たちは、そんな「健康欲」とどうつきあえばいいのでしょうか、気になりますよね。だってなるべく医者にかかりたくないのは確かだし、かといって無知のまま病気になりたくない。意に反して苦しむのはもちろんイヤだし。

そこで筆者は「健康欲」を上手にコントロールすることを推奨します。

「健康欲」をコントロールするにはどうすればいいか？ ひとつにはもちろん、自分の生き方や信念をしっかり持つこと。そして色々な情報にあまり惑わされずに、やりたいことをやる。逆に、なんでもやりすぎないようにすることも重要。スポーツジムに行きすぎたり、ランニングしすぎたりというようなことはしない。それから、医者が言うから塩分を取らないなどの極端なことはしない。また検診オタクにならない。ましてや、テレビや雑誌情報の「からだに良いこと」を全部やろうなんて思わない。そしてもっとも大事なのは、長生きに価値をおきすぎずに食べたいものを食べること。はい、言われてみれば当然のことでした。みなさん、ガッテンしました？

そういえば私の父親（90歳）は、健康にいいことは何もしてきませんでしたし、少しでも注意すると、「ここまで生きたんだから、食べたいものを食べられるだけ、食べられるときに食べさせろ」と威張っています。それでいいのか？ もちろんそれでいいんです。

前出のおばあさんも、たぶんきっと、体を大事にしようなどとは思わずに、でも好きなものを好きに食べて、したいことしてきた。だから結果として長生きしちゃったのでしょうね。幸せなことです。なんだ、全部あたりまえの話でした。

３６　遠くなった昭和は、歌謡曲で振り返る

今年が平成３０年だということに、私はいまだに慣れていません。

昭和が終わってもう３０年が経つというんですよ、実際そんなことだれが信じられます？ そしてさらに、天皇の退位によって来年にはこの平成も終わるなんて。

３０年といえば、ひと世代。子供が生まれてその子に子供ができるまでの期間です。もしくは第一次大戦勃発から第二次大戦が終わるまで、はたまた桜田門外の変から明治憲法が発布されるまで、または本能寺の変から大阪夏の陣まで、あるいは、、、、もういいか。

そこで、郷愁をこめて３０年前に終わった昭和という時代をあらためて振り返る、などというジジくさいことを試しにやってみると、私にとって「歌謡曲」というのがひとつの欠かせない補助線になってきます。わりと好きだったんですね、歌謡曲が、たんに。

昭和といえば歌謡曲、歌謡曲と言えば昭和。耳が憶え、つい口ずさむ歌。なにかしらのニュース場面には、なにかしらの歌謡曲がくっついて思い出されるという具合です。そういえばこども心に聴いた美空ひばりや石原裕次郎は、ともに昭和の終わりに亡くなりました。坂本九はその前に1880年の日航機事故で、ザ・ピーナッツの二人もクレイジーキャッツのみなさんも（犬塚弘さんをのぞき）すでに他界されてしまいました。といってもお若い方にはなじみのない話で、もうしわけない。

そして、昭和の歌謡曲を築いた巨星である作詞家の阿久悠さんも、歌謡曲のスターたちにやや遅れて、平成１９年に７０歳で亡くなりました。

「星をつくった男　〜阿久悠とその時代」（重松清／講談社）

生涯に五千曲も六千曲も作詞し、「スター誕生」を立ち上げて何人ものアイドルを輩出し、レコード大賞を何回も取り、でも昭和の終わりとともにお役目を終えた作詞家です。名前になじみのないお若い方にとっても、名曲「津軽海峡冬景色」や「舟歌」、「また逢う日まで」や「五番街のマリーへ」、さらにはみんながびっくりした「ペッパー警部」、あるいは「ピンポンパン体操」などの曲の作詞家と聞けば、おおそうか、と思われることでしょう。その仕事ぶりを直木賞作家の重松清さんが描くのだから、面白くないはずがありません。

３０光年も遠くなった昭和が懐かしい、という感傷で読んでももちろんおもしろいのですが、同時代を生きていないお若い方には、この稀代の作詞家が時代とどう切り結んだか、歌謡曲という武器でなにを表現したのかという視点で見るのも決して無駄ではないと思います（たとえば、親世代の心情や感情の動き方をさぐるという戦略的メリットもあるかもしれません）。重松さんはそれをしているわけですね。そんななかでも「歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する」という阿久悠さんのことばは、大げさでもなんでもなく、昭和という時代を「歌」とともに生きた人の実感を表しています。

そうなんでしょうね。だって、いくら自分で「いい詞だ」と思っていても、ヒットしなければ時代にそぐわなかったと考えるしかないわけですから。つまり昭和という時代は、ヒットする（じっさいにシングルレコードが売れる）か、しないかによって曲の価値が決められていたのです。「歌は時代とのキャッチボール。時代の中の隠れた飢餓に命中することがヒットではなかろうか」。こういう具合に、ヒット曲と時代とは一心同体だった。

ところが今は違います。阿久さんのように考えて詞をつくる人はいない、というか、そういうやり方はできなくなってしまいました。国民の大半の共感を得て口ずさんでもらえるような、そんな歌はなくなったといっていいでしょう。というのも「受け取る側」の感受性や必要性、つまり阿久さんのいう「飢餓」があまりに多様に、そしてむしろマイルドになってしまったから。

そうなると阿久さんも平成になるとともに、「全力でスイングしているのに、空気を切る音がしない・・・真空の器の中で力み返っている感じが、時々だがし始めた」、と言うようになります。平成という時代の急所に、もしくはそこで生きている人々の「隠れた飢餓」に、自分の産みだすものがピタリと当たらなくなってきた。つまり時代のニーズをつかめなくなってきたというわけです。

これをたんに作詞家の市場調査の失敗などといったら、バチがあたりますからね、みなさん。

そして阿久さんのあとは、多様で柔軟でマイルドな感覚を持ち、ビジネスとして戦略を立て、歌手と歌とその他をパッケージ商品として売り出す秋元康さんみたいな人の時代になるわけです。

私がどうこう言う筋合いじゃないけど、テレビでＡＫＢとか乃木坂とかを見せられると、あるいは「総選挙」のためにＣＤをまとめ買いする光景などを見せられると、はたしてここにはどんな「飢餓」があるのかと思うし、書かれた歌詞の狙いはミエミエだし、時代と切り結ぼうなんて気概はあるのかと思うし（こうした感想がすでに昭和的ですが）、やっぱり歌いたくなるんですよね、阿久さんのちょっと本気モードの重い歌なんかを、逆に。

昭和を振り返りながら。

３７　詩ではなくて「ポエム化」という、ゆるさ

新聞や週刊誌の記事に興味をもてなくなってきたのは、歳のせいでしょうか？

皆さんはいかがでしょう。いや、皆さんが私と同じに歳をとっていると思っているわけではありませんので、あしからず。当カフェにもいちおう新聞や雑誌を置いてあるのですが、手に取って読んでいる方は少ないように感じます。

たぶん自分が歳をとったせいでも、無関心というわけでも、好奇心が薄れてきたというわけでもないと思うのです。ただ政治、経済、文化など、記事がみんなスキャンダルみたいなものばっかり目についてしまい、その「ゆるさ」が鼻についてしまうことはあります。なんでこんな三面記事がトップ扱いなんだ？って。文春砲？ そんなのもういいよって。阿久悠さんが怒るよって。

つまり、スキャンダル記事っぽいものの「ゆるさ」「くささ」「みじめさ」、そして「覗き見根性」が鼻についてやるせなくなり、読む気をなくさせるのです。きちんと「時代」に向き合ってないじゃないか。いや、いやいや、記事を提供する側のせいにしている場合ではないかもしれません。記事を読む私たちがみんなスキャンダルを求めているせいかもしれない。だとすると、よけい落ち込むなあ。

そんな時には、キレのよいエッセイを読んで背骨をシャキッとすることにしましょう。

「ポエムに万歳！」（小田嶋隆／新潮社）

小田嶋さんはスキャンダルには触れていませんが、そのかわりに、いまの日本には詩ではなく「ポエム」にあふれていると言います。歌の歌詞、新聞、雑誌、広告、ツイッターにＳＮＳ、どこみても「ポエム」ばかりだと。ほうほう、えーと、じゃあ、詩とポエムの違いって、何なんでしょうか？

「詩は、意味のブレやニュアンスの多様性をもつ、振れ幅の大きい言葉が使われる」。しかし、

「ポエムは雰囲気。つくる側がちゃんとつくり込まずに、『ぽいよね』みたいなところで、商業的に安易につくられるもの」、だそうです。ちょっとわかりづらいかな。では説明しましょう。

ポエムは、たとえばサミュエル・ウルマンの「青春」。

「ときには20歳の青年より、60歳の人に青春がある」的な。

またたとえば、相田みつお、金子みすゞ。

「遊ぼうっていうと遊ぼうっていう」「どじょうがさ、金魚のまねをすることないんだよなあ」的な。

さらには女優さんやアスリートのつぶやきツイッターに、広告のキャッチコピー、それに男性誌のグラビアに添えられるキャプション。具体例を引用するのがちょっと恥ずかしいけど、ふむ、だいたい想像できますね。（そういえば秋元康さんの歌詞も・・・ブツブツブツ、失礼！）

これはしかし、高級とか低級とかいうこととは違うんですね。つまり「ポエム」は、よく言えば万民向けの分かりやすい情緒とでもいえましょうか。逆に悪く言えば、ひとりよがりで臆面のない雰囲気、もしくはオブラートにつつまれた説教臭さ、あるいは、自分の狭い世界観に共感を得ようとする見えすいた手わざ。そこにおじさんは「ゆるさ」や「くささ」を感じてしまう。そうした「ポエム」が世の中に溢れている。硬派に思われるキムタクだって、ビートたけしだってそうだ。

こう主張されているわけです。私じゃないですよ、小田嶋さんが、ですよ。

ことばを換えれば、時代と切り結ぼうとか、大衆の抱える飢餓に向きあおう（阿久悠さんのように）といった気概をさらさら感じない言葉たち。わたしの想いをあなたに届けたいです、だからちょっとだけ聞いてください、あなたも私と同じでしょ、みんな同じでしょ、という感傷と、「共感の無理強い」のまざった表現形式かもしれません（これは私の考えでした）。

ところが、もちろんこれにはファンがつく。自分を信じようとか、おそれずに生きようとか歌い上げる、甘くてぬるくて金太郎あめのようなＪ−ＰＯＰにファンがつくように。それはつまり、ことばを受け取る側にも「ほかのみんな」と同じものに同じように感動していたい、それがわたしにとっても安心だ、という心情が働いているからかもしれません。たとえば、感動の押しつけのようなオリンピックの実況中継で使われる言葉にも、こうした意味でのポエム表現が多いことを思い出してもいいのでしょう。

しかし、と小田嶋さんは言います。そうしたポエムを否定はしないけど、情熱とか熱狂とか、欲を言えば「制御された狂気（たとえば浦和レッズのサポーターの）」とか、むしろそういうものが必要ではないだろうかと。ワケわかんないものかもしれないが、そちらの方がパワーにまさり、世の中を動かす力があるのではないかと。つまり、もっと生々しい、そして荒々しい感情の暴力的な表出を眼にしたいわけですな、小田嶋さんは。

ということで私も、レッズサポ云々はともかく、おおまかには同感でした。小田島さんの定義が正しいかどうかわかりませんが、私もここでいわれる「ポエム」的なものをむりやり受け取りたくはないですし、そもそも、そういう記事や広告や歌の表現を眼にしたくないようです。はい。

３８　他国の鏡はわれわれの鏡です、ン？

カフェに来られるお客さん、とくに若い方にもれなく、どーしてもお勧めしたくなる本というのがあります。そのなかでも昭和史の大事な局面に関する一冊が、

「アメリカの鏡・日本」（ヘレン・ミアーズ／角川ソフィア文庫）

これは、戦後すぐの1946年に、ＧＨＱ（アメリカ占領軍です）の委員会の一員として来日した筆者のレポートです。レポートといっても当時の日本の現状調査ではなく、もともと日本の研究家であった筆者の、いわば歴史的な観点からみた、占領政策に寄せる意見書といってよいものです。

でもなぜ「日本」が「アメリカの鏡」なんだろう？ 逆じゃないだろうか？　

その疑問はごもっとも。それはこういうことのようです。筆者いわく・・・

黒船からはじまる近代の日本は、じつはアメリカをはじめとする西洋列強がつくりだしたものといってよい。開国を迫り、通商のしかたや万国公法の考え方を伝えたのは、われわれ西洋諸国だ。日本はわれわれの「生徒」として、われわれの考えをよく勉強し、優等生として認めてもよいくらいに育った。とりわけ、そのように成長した近代日本がおこなったことは、それが経済政策であれ戦争であれ、西洋が持ち込んだ論理（すなわちパワーポリティクス重視の外交）によって説明される。良き「生徒」はわれわれの考え方をしっかり学び、それを実践したのだ。

そして日本は西洋から学習したことをアジアで行なった。そのとき彼らにとってなによりも大切だったのは、いかに（自分を見ている）西洋諸国に、自分が同等の国として認められるかだった。朝鮮でも中国でも東南アジアでも、日本がやったことの根っこにはそれがある。そしてついに「国の存亡にかかわる権益を確保する戦い（日露戦争）」にいたる。すると文明世界であるわれわれ西洋諸国は、「奇妙な小男たちの勇気と闘争心に仰天し興奮した」。つまりわれわれは日本を称賛した。それが当時の現実だったのだ。で、そのあと日本は調子こいて、中国や東南アジアにとんでもない侵略や残虐な行為も行ない、われわれに対して無謀な戦争をしかけることになる。だから第二次世界大戦の敗戦国である日本の軌跡をきちんと見ることは、そこに、日本を導いたわれわれ西洋文明自身の姿を見ることになるのだ。その意味で日本はＧＨＱ進駐軍であるアメリカの「鏡」である。戦勝国であるわれわれ西洋は、たんなる敗戦国ではなく、敗戦国である日本という鏡に映った自分と相対することになったのではないか、、、、。

さ、どうでしょう。私にはこの問題提起が非常にフェアに思えます。

もともと筆者の問いは、「日本はなぜパールハーバーを攻撃したか？」「なぜ、無謀な戦争をしなければならなかったのか？」というものだったのですが、「日本はわれわれアメリカの鏡だ」という認識からあらためて立つ問いは、「すると、その鏡には何が見えるか？」「そしてわれわれアメリカ人は、どのように日本を裁けるのか？」というものに変わっていきます。

ところが、占領政策はどうあるべきかとか、これからはじまる極東裁判でどのような論理で裁くかとか、あるいは日本にどういう憲法を作らせるかなどという難題が待ち受けるＧＨＱにとっては、著者のいう「鏡」という考え方や政策形成のための補助線は受け入れにくく、じゃまになったことでしょう。だからマッカーサーはこのレポートの公刊を差し止めた。なるほど。

ではひるがえって、その後のアメリカの占領政策、朝鮮戦争、南アメリカ諸国への介入や謀略、それからベトナム戦争、アフガンやイラクをはじめとする中東への軍事介入とそれらの結果はどうだったでしょうか。もしかしたらこれらすべてが、世界帝国となったアメリカはこのレポートから「なにも学べなかった」ということを示してはいないでしょうか。

そうすると、またまたひるがえって、いまの私たち日本人がこの本を「鏡」としてとらえるなら、はたしていまの自分たちは真摯な歴史の見方ができているのだろうか？ それに見合ったフェアな行動をとっているだろうか？ そんな疑問がわいてくるのは当然のなりゆきとなります。

そう、この疑問には、ぜひとも答えなければなりませぬ。

３９　「今＝ここ」主義という、ちょっと困った課題

会社づとめをやめてカフェを開いてみると、時間と空間の感覚が変わってくるのがわかります。

会社では、目の前の仕事だけでなく先々の事業計画を考えなければなりませんし、営業で全国をかけめぐることもありました。ところが地元カフェの場合は、その日その日をつつがなく過ごし、おもにご近所・町内のお客さんのお相手をします。意識する時間のレンジとしては短く、動く空間の範囲としてはぐっと狭くなりました。これはいいことなのかな、悪いことなのかな？

「日本文化における時間と空間」（加藤周一／岩波書店）

によると、どうやらこれは、日本人の意識と文化に共通することらしいのです。なにがというと、過去や未来でもなく広い世界のことでもなく、目の前のこと、つまり「今＝ここ」を重視することです。加藤先生はこれを、文学（短歌や連歌、俳句）、絵画（絵巻物など）、建築（おもに住居）などの例をあげながら検証していきます。

「日本文化には、あらゆる水準において、過去は水に流し、未来はそのときの風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。」だから、その性向は現実主義で大勢順応主義なのだ。さらに、「出来事は当事者の生活空間、すなわち特定の（狭い）集団の内部で起きる。」だから日本人は、強い帰属意識をもつ集団主義にもなる。これらをまとめて「今＝ここ」主義と名づけると。

この「今＝ここ」主義には良い面と悪い面があるのですが、悪いほうの特徴をまとめると、

・外部に対して閉じられた社会を作りやすい（近辺のムラ社会重視）。

・過去や歴史にこだわらず、今しか見ない（過去を反省しない）。

・芸術や宗教では、とくに心の中の世界を重視する（心情主義的な活動）。

の三つになりますでしょうか。このように先生のおっしゃっていることは私たち自身もなんとなく分かっていることでもありますし、私もいちおうそれで悩んでいるわけなんですけど、それにしても先生の舌鋒はするどいものです。

先生はさらに、その「今＝ここ」主義から帰結する「集団主義」や「立場の一貫性のなさ」や「心情主義」「大勢順応」という気質による帰結を、つぎのように皮肉たっぷりに言います。

「個人の信条と良心の代わりに集団の規範が機能する社会では、過去には過去の、現在には現在の大勢に従うのに抵抗がない。そこでは誰もが『無私』の立場から公に殉じ、『和』を尊び、にぎにぎしく、みな一緒に、めでたく豹変し変節することができる。」

厳しいなあ。これじゃあ私たち日本人、まったく立つ瀬がないじゃありませんか。

先生はさらに、こうした知見を現代日本の状況に適用して考えます。たとえば日本では、

「一人の人間は『今＝ここ』から世界を見るのであって、世界秩序の全体から部分（日本や自分）の『今＝ここ』を見るのではない。」

さらにたとえば、国際問題においても、

「問題の領域全体について、複数の可能な解決策の中から国益に有利な方策（国際的な秩序のひとつ）を択んで提案するようなことはしない」。

つまり私たち日本人には大きな構想がない、と結論づけるのです。

ホント厳しいなあ。ますます身の置き所がありません。困ったもんだ。

私たち日本人は、大勢順応主義で現実主義で島国根性で近視眼的。大きな構造を見ないし構築しようとしないで、目の前の小さなことを積み上げていくだけ。たしかにそうかもしれません。しかしこうまできっぱり言われるとちょっとガックリきますね。なんだか治りがたい病の診断を下されたようで。これではまるで「アリとキリギリス」のアリじゃないですか（悪い意味で）。

さて、つごうにより「今＝ここ」主義のポジティブな面は割愛しましたが、いずれにしろ日本文化の、つまり私たちの意識の基層にある時間と空間の感覚を「今＝ここ」主義と名指してもらったおかげで、見えてくるものがたくさんあるように思いました。というのも、私たちの課題として「今＝ここ」も大事だしそれは文化的伝統なのだけれど、それはそれとして、そのうえでどのように視点を高く、視野を広く、視線を遠くまでとるのか、という宿題をもらったようなものですから。

カフェ経営も、これを「鏡」にして、もう少し長期的で広がりある構想をもたなければ。

４０　ポピュリズムの時代に、私たちはどう生きるか

アメリカのトランプ大統領就任から一年が経ちます（2018年１月現在）。

そしてこの一年は、これまでの国家・政治のワク組みへの考え方がびっくりするほど変わった年でしたね。恐ろしいことに、「ポスト・トゥルース」とか「オルタナティブ・ファクト｣、あるいは「ニュースピーク（ジョージ・オーウェルのことばで、意図的な誤情報のこと）」なんていう、子どもには覚えさせたくない言葉が無理やり耳に飛び込んできますし、「ゼノフォビア（排外主義）」とか「ミソジニー（女性蔑視）」なんて用語も頻繁にでてくる。

この時期のイヤな感じは、きちんと記憶しておきたいと思います。

こんな動きの大きな底流として「ポピュリズム」というのがある、ということらしいので、

「ポピュリズムとは何か」（水島治郎／中公新書）、で勉強してみました。

大衆迎合主義とか人気取り政治と呼ばれるポピュリズムですが、もともと各国各地域の実情を反映しているものなので、いちがいに「こういうこと」「こういう主義」とは言えないゾ、ということらしい。ただその基本には「人民の意思の実現を重視する」ことがあるのだ。そう言われれば、それじたいは民主主義の理念そのままだし、「統治者と被統治者の一致」という理想も、さらにそのために「既得権をもつ特権層やそのシステムを壊すべき」と言われれば、それに反対することもないような、そんなに悪いことでもないような気がする。

ところがいまの各国の様子を見ていると、ポピュリズムとはデモクラシーに「内在する矛盾」を端的に示すものではないか、と著者は言うのです。この状況はとってもヤバいことなんだけど、それでいいのかと。さらに、現代デモクラシーを支える「リベラル」な価値や原理を突きつめれば突きつめるほど、じつは結果としてポピュリズムを正当化することになるけど、それでいいのかと。

じゃあその、「内在する矛盾」とは何か。それは「民主主義」の根幹にかかわることなので私の手にあまります。すいません。ただ言えるのは、民主主義って、定義するのも実現するのも、そう簡単にはいかないのだということです。

なのでここでは、そういう「人民に迎合して、その意思の実現を『過剰に』重視するポピュリズム」が広がるとどうなるか、その結果として出てきちゃう好ましくない現象はなにかということを、この本からいくつかひろってみることにしましょう。

大きく四点、これらはすなわち「大衆迎合」と「過剰重視」のすじみちです。

１　政策が大衆の感情を優先するようになる。

　大衆は、事実や真実よりも感情的なことばや煽情的な物言いに引っ張られ、それを根拠に意思表示することが多くなる。誰だって「おもしろネタ」が好きですもん。それを施政者は吸い上げて利用する。トランプ氏はそれをちゃんと承知して移民が悪い、メキシコが悪い、イスラムが悪いなどと発言している。「北朝鮮の脅威」とか「少子化」という「国難」もこの路線。

２　政策の意思決定が、熟議なし（人任せ、リーダー任せ）になる。　

　大衆はワッと感情で意思表示をしたら、あとはお任せしちゃうことが多くなる。徹底的な討論なんかめんどくさいし、時間もかかるし。即断即決が大事だよ、決める(あるいは、決めてもらう)政治がいいよとなる。どの国でも、「決める政治」の重視とは、反面で、十分な議論をしないことにもつながりかねない。

３　権力による情報操作あり。

　いったん権力を持つと誰でもそうなるのだが、とくに「大衆」の支持がほしい施政者は情報操作の誘惑に抗しがたい。これがニュースピーク。だって直接大衆に訴えて施政者が自分のやりたいことを通すには、嘘だろうがニセ情報だろうが、うまく使う（あるいは隠す）にこしたことはないから。官僚による情報隠しとか特定秘密情報保護法なんていうのも・・・。

４　そして独裁へ。　

　かつてのヒットラーのドイツを持ち出すまでもなく、感情優先・熟議なし・情報操作で政治がおこなわれれば、それは一面では、いままでの形式や手続きを否定し、現状に不満を持つ人たちにとって斬新と思える政策を「果断に・独断的に」行えるようになり、独裁への道が開ける。　

そうかそうか。

私たちがポピュリズムを考えるに際して、もしこの「悪しきポピュリズム」が進んだ場合には、とうぜんその「結果」に責任をもたなければならないと覚悟しなければならないでしょうね。だって自分も「大衆／ピープル」の一人なのですから。つまり大衆とは私なんですから。するとどうしても最後には、「じゃ自分はどう行動すればいいのだろう？」という問題が残りますよね。

困った。

４１　自分の頭で考えろと言われたらどうします？

会社づとめを辞めてカフェのマスターになってから、二年がたちました。

会社づとめのときは、いまから思うと、それなりになんやかんやと頭を使って仕事をしていたようです。「ようです」なんて自信なく言うのも、自分で思うだけで他人にそう評価されていたかどうかは分かりませんから。そう、自分ではそのときは「それなりに」考えていたつもりだし、カフェマスターのいまも、もちろん「それなりに」考えているつもりなんですよ。ただ、会社勤めのときのほうが、「それなりに」の度合いとしてはより多く「新たなことを」、そしてより多く「まわりの人や組織や会社のことも含めて」考えていたかもしれません。つまりビジネスの現場ではそれだけ、「いままで経験したことのないケースに、組織としてどう対処するか」という課題に対し、環境の変化をはじめとして多くの要因をからませて、いやおうなく自分の頭を使わされていたことが多かったようにも思えます。

ところでみなさまは、「自分の頭で考える」といわれると、どこからが自分の考えでどこからが他人様の考えだか分からなくなる、そう思うことはありませんか？ 自分だけのオリジナルな考えやアイデアなんてあるのだろうかって。自分が考えているようなことは、もしかしてこれまで他人が考えていたことと同じではないか、しかも、自分の考えはその劣化バージョンではないか、あるいは自分の考えは誰かにそう「考えさせられている」のではないかと。

私はいつもそう感じるのです。そこでちょっと参考にしたいのが、

「思考のレッスン」（丸谷才一／文藝春秋）。

本の内容としては、おもに、いい考えが浮かぶための方法や考え方のコツ、そしてその文章表現の方法などが対話形式でやさしく述べられています。とりわけ「考えるコツ」として、

・自分のホームグランドをもつ

・良い問いを立てる

・謎をうまく育てる

・仮説を立てる

などという方法が挙げられていて、それぞれあたりまえのことばかりかもしれないけれど、自分の頭で考えるための基本には間違いないと、あらためて思わされます。

さて、じゃ逆に「自分の頭で考えないとはどういうことか」について、丸谷さんは「日本にはびこっている俗論」の例を挙げているので、ぜひご紹介させてください。

●動機的忖度（「忖度」という言葉がはやりましたが）

　そういうことを考えるのはお前がプチブル（懐かしい表現ですが）的意識から抜けていないから

だ、といった類の論法。おもんばかる「忖度」というより、相手の党派性の決めつけですね。

●道徳論的挑発（国会ではよく野党が使いますが）

　誰それがそんなことを言うのは倫理的に許せない、その表現は道徳的にいかがなものか、などと

いって、それを論旨の核にすえる論法。論理より心情を優先するやり方ですね。

●世代論的なものの言い方（おじさんや上司の常套句です）

　たとえば「結局それが〇〇年代生まれの限界なんだよ」といった、無意味な決めつけ。血液型と

か男女性差などを利用する言い方も、ワクにはめるという意味で同じ部類に入るでしょう。

●陰謀史観による断定（これ、実際にやってみると楽しいんですが・・・）

　それはＣＩＡの陰謀だ、ユダヤ金融資本のせいだ、中国の影の戦略だ、などという根拠の薄い断

定。ヘイトスピーチなどの常とう手段ですね。

こういうのが、やっちゃダメな「俗論」の例でした。考え方としてダメだし、もちろん議論のやり方としてダメ。しかしちょっと振り返ると、私たちもついついそんな考え方に逃げ込むことってありませんか？優秀な社員が集まる会社の会議でも、カフェでの仲間どおしの雑談でも、親しい家族の中でも、頭の良い人ばかりの国会でも。ま、楽チンな思考法なのはたしかですけど。

丸谷先生はさらに、こういう「俗論」的考え方を、議論の相手に対してだけではなく自分自身の頭の中でやってしまってもいかん、とおっしゃるのですね。そんなことしていると自分の頭で考えなくなる、どんどんバカになる。そう、こういう「俗論」のパターンに足を踏み入れてしまうと、もう私たちは、自分の頭でゼロから一つひとつ考えを積み上げなくなってしまう。そしてその時の自分の「それなりの考え」は、じつは他人様の考えそのままだったり、上司やテレビの解説者の言っていたことだったりすることになる。

そう。こうして「自分の頭」が知らず知らずに誰かに支配されてしまい、考えるコツであるところの「良い問い」も立てられず、「謎」も育てられなくなる。さらに自分の頭で考えることをやめて悪しきポピュリズムにのみ込まれることになる。

さあでは、「それなりに」ではあっても「考える」ときには気をつけましょう、俺。

４２　なにを知らないかを知りたい好奇心というのがあって

カフェのお客様の話を聞くのがおもしろくて、ついつい色々な質問をしてしまいます。

話が盛り上がって、ときには立ち入った質問をし、あれっ、ここまで訊いてよかったのだろうか、気を悪くされなかっただろうかと心配になることもあります。でも、自分と違う生活や経験をうかがうのが楽しいのでしょうがない。興味をもって聴くのは「共感的好奇心」というのだそうで、コミュニケーションの発端としては悪いことではないようではありますが。

「子どもは40000回質問する」（イアン・レズリー／光文社）

によると、好奇心をもって質問するのは人間だけだし、知能の発達や思考力、想像力にとって欠かせないものであり、なおかつ生きる活力を生み出す源だそうです。

ただそこで見過ごされがちなのが、「質問するのはとても奥深い技術」なのだという事実です。というのも、質問するためには、

第一に、自分が知らないことを知る必要があり、

第二に、相反するさまざまな可能性を想像する必要があり、

第三に、他人から学ぶべきことがあることを知っていなければならない、

からだそうです。そういえば丸谷先生も、「良い問いを立てる」のが考えるコツと言っていましたね。つまり私たちは「質問する」とき、頭と心の深いところで、知らず知らずに、こうした高度な知的作業を瞬間的に行っているようです。われわれ人間ってスゴイですね。いやもちろん、そんな高度な知的作業を伴わない、考えなしのボケッとした質問もあるでしょうけど・・・。

最近はインターネットの普及によって、知りたいことがあれば「ググる」、つまりネット上で「正答」を得ることができるようになりました。まことにありがたい時代です。ところが、「グーグルは『なにを尋ねるべきか』を教えてはくれない」し、「好奇心は答えの見えない疑問によって支えられているが、グーグルにはあらゆる答えがある。彼（彼女か？）は『わからない』とは決して言わない」と、この著者はいうのです。そういえば私も、パブロ・ピカソが「コンピュータは愚かだ。答えしか出さないのだから」と言った、という話を聞いたことがあります。芸術家という方々はこういうことには敏感ですね。

話を戻しますが、とすれば、筆者の言うように「インターネットは必ずしも、私たちの好奇心を掻き立てるものには進化していない」のかもしれません。なぜなら、インターネットに頼ってばかりだと私たちは答えのある質問しかできなくなり（これを筆者は「パズル型の質問」という）、そして答えを与えられることで満足し、それによって自分はなんでも知ることができると錯覚して、かえって目の前のものごとに無関心になるからです。

のべつ、「教えてSiri」なんて言ってて、尻に敷かれている。

さて、このパズル型質問では「何」とか「どこ」を問うことが多いが（テレビのクイズ番組もそうですね）、いっぽうで筆者のいう「ミステリー型」の質問では、「あいまいで混沌としていて、明快な答えが存在しないような疑問」を投げかけるので、「なぜ」とか「どのように」と問うことになります。この手の質問には答えるのが難しいものが多い。おなじ質問でも、パズル型とミステリー型にはそんな違いがあるといいます。

つまりは、好奇心のあり方が質問の仕方に関わってくるということですし、それによって、最初に示した「奥深い技術」を使っているかどうかの違いにもなるわけです。と、こうしてたどってくると、筆者のほんとうに言いたいことがほの見えてくるように思います。私たちの好奇心は知らなかったことを知ることで満足もすれば、知っていたこと同士がつながることで満足することもある。また、なにかを知ることで知らないことが見える場合もある。さらに、

「好奇心とは、自分がまだ気づいていないこと、興味をひかれていないことを『知りたい』と願う欲求なのだ。それは、出会ってみるまで自分に関係があるとは思わなかったような世界である」ということもある。このことば、私はたいへん気に入っています。太字で書きたいくらい。

好奇心とは、かくして、自分にたいへん大きな影響を与える欲求であることがわかりましたし、新しい世界への扉であるという意味もはっきりしました。ネットでググるだけではなく、きちんと「なぜ」「どうして」「どのように」と訊かなければならないし、考えなければならないこともあるということもわかりました。

となるとカフェマスターとしては、ご来店のお客様だけでなく、「まだ来店していないお客さま」のことや、「まだ来店していないお客さまが何を知らないか」についても知りたい気がしてきます。ん？ そこまでの好奇心は要らないかな。たぶん要らないね。

４３　「わからない」ことに耐える力も必要だし

政治の問題だけでなく身のまわりの問題でも、すぐには解決できないことや一筋縄ではいかないことが多くありますね。カフェでのお客様の話も、たいがいそういうものばかりです。

仕事もそうですし、親の介護とか子供の教育なども、どうしたらいいか判断つかないことの連続のような気がします。さらに世の中の動きや経済ともからみあい、知れば知るほど問題が複雑になり、考えれば考えるほど迷いは深まります。

「なぜ？」「どうやって？」と問うても正解が分からないので、迷って、悩んで、でも結局、どうしたらいいかわからない。動けなくなる。もちろんそうした問題はコンピュータには訊きようがないし、答えを教えてもくれない。そんなとき私たちはどうしたらいいのか？

そんな疑問に対して、少し違う角度から話しかけてくれるのが、

「『無知』の技法」（デスーザ／レナー／日本実業出版）です。

この本には、詩人ジョン・キーツが、文豪シェイクスピアのもつ資質について語ったことばが紹介されています。いわく、「シェイクスピアには、事実があるはず、理屈があるはずと追及するのではなく、不確かなこと、不可解なこと、よくわからないことの中に、ただすっくと立っている力があったのだ」と。まるで「フール・オン・ザ・ヒル」のように。

そしてキーツはこれを、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んで評価したのでした。

ふつう「ケイパビリティ」といえば「〇〇できる能力」ですから、それをポジティブというなら、逆のネガティブは「意識的に〇〇しない能力」もしくは「できない・分からない能力」となります。つまり、「今は理解できないことでも、複雑なものや不思議さに対して、拙速に解決策を見出すのではなく、興味と問題意識を抱え続けてその宙づりの状態を耐える人」がシェイクスピアだった、「彼は『ない』を受容する力」を持っていたのだ、とキーツは言うのです。

ほほお。でも、なぜキーツはこの能力を評価したのだろう？（シェイクスピアのどこにそれを感じたのかは措いておくとして）

もちろんいまは、なににおいても「ポジティブ」が求められる時代です。

学校生活にしろ職業生活にしろ、知識と技能を身につけ、与えられた課題を最後までやり抜き、競争に勝ち抜くことが「善し」とされる。そのとき「知識」「技能」「向上心」「闘志」「継続」「解決」「決断」のようなチカラが社会的に「ポジティブ」とされる。そのためにはなにごとも「学習し」「知り」「理解し」、そしてそれを活かして「問題解決する」ことが求められる。その結果がそのひと固有の能力として社会や組織から評価される。

そうなると誰に対しても周囲から、知りません、できません、どうしたらいいかわかりませんなどと泣きごとを言ってないで、積極的に問題の要因を分析して即刻解決せよと、圧力がかかるのはあたりまえのことになります。というのも、しつこいようですが、

「ひとつずつ問題を解決しないと、次のステップに進めない」

「だから家庭でも学校でも職場でも、問題解決能力を評価する」

「モヤモヤした気分をいつまでも抱えていると、活動力が落ちる」

「スピードある意思決定をしないと、社会の早い動きに置いて行かれる」

世の中全体にこういう認識があるからですよね。

これがたとえば政治のレベルまで持ち上がると、「決められない政治」は無能力のしるしであり、「問題はこれだ、そして解決策はこれだ」と決めつけて他の意見を排除し、断固たる意志で政策を「決める政治」が求められている、などという風潮を強めるわけです。決断と迅速な行動が「善」で、迷ったりぐずぐず議論を長引かせて動かないでいるのは「悪」だとするのです。

いっぽうで、世の中にはそう簡単に解決できない複雑な問題があり、そういう問題こそわれわれにとってじつは大切で重要なものが多いのではないか、という感覚が私たちにあるのも事実です。そうした問題に対しては、簡単に解決して安心したり解決したつもりになったりせずに、その問題を持ちつづけて問題として深めることも決してムダなことではないのではないか、と（たぶん）シェイクスピアとキーツなら言うのでしょう。するとそのときは逆に、

「知らないからこそ、学びの機会が増え、新しい知識の習得に結びつく」

「わからないと認めるからこそ、質問ができ、ものを学べる」

「決めつけをしたり、既存の知識に縛られずにいられるから、柔軟な発想ができる」

「時間をかけてじっくり考えることで解決の選択肢が増え、解決後の満足度が高まる」

こうした種類の、「ゆっくり生きるための作法」に光があたることになります。

つまり知識・技能・確信・向上心・競争力のように、「ある」を追求して誇示するポジティブな力（これは通商産業省の「社会人基礎力」にも反映された）だけでなく、逆に沈黙・忍耐・疑い・謙遜のように、「ない」「わからない」「しない」を大切にする力とか、簡単には「わかったつもり」にならず「問題をしぶとく持ち続ける力」も必要なのだ。私は「ネガティブ・ケイパビリティ」をこう理解しました（シェイクスピアのどこにこの能力が見られるのかは、いまだにわかりませんけど）。これはいつも「知らない」ことや「わからない」「できない」ことばかりで不安になっている私たちにとって、「そう焦りなさんな」と言われているようで、たいへん心強いご意見ですね。

いずれにしろ私たちは、「知らないこと」「分からないこと」に対して謙虚に向き合い、何についても「パズル型の質問」ばかりせず、また「複雑で解決しにくい問題」に対してもあせって安易に解決しようとしない姿勢をも学ばなければなりますまい。たとえネガティブという呼称であっても、りっぱな社会的能力のひとつなのですから。なんたってキーツがそう言っているんですから！

ところでキーツって、なに書いた人だっけ？ 　

４４　だからニッポンの青年よ、老人力を磨け！

ネガティブ・ケイパビリティが「○○しない力」「〇〇できないことに耐える力」という能力のちょっと難しい表現だとすると、日本におけるその研究の第一人者だったのが、赤瀬川原平さんであることにまちがいありません。

なにせボケや物忘れに「老人力」という素晴らしい名前を与えてしまったからです。いや、これは1998年（いまから20年前）になされた「発見」といっていいものでした。

「老人力」（赤瀬川原平／筑摩書房）

は、大ベストセラーになったので、読んだ方も多いと思いますけど、いまさらながらその偉大さに驚かされます。高齢者の「ボケ」が「認知症」なんていうワケわからない言い方をされるずっと以前に、原平さんはボケもひとつの新しい力として、もっと積極的に認められてもいいと主張したのでした。だから「ボケ」だけでなく、「目が悪くなる」「足取りがおぼつかなくなる」「話が長くなる」など、高齢者の特徴のすべてを「能力」と認定して、それを「老人力がついた」と表現することにしたのでした。老人力、エルダーズ・ケイパビリティ、略してＥＣですね。

ネガティブ・ケイパビリティがシェイクスピアのような偉人の能力について言われているのに対して、原平さんの「老人力」は、人間ならすべてのひとが獲得できる、いや、嫌でも身につけてしまう「力」なのですね。彼はこう言います。

「老人力というのはなかなかつかみどころのないエネルギー概念で、これまでに発見されることなく人類に作用しつづけてきたわけである。その作用が多くの場合、ボケだとかヨイヨイだとかいわれて、むしろ嫌われてきたのは、人類史の悲哀というものだろう」。

そしてまた、こんなふうに言います。

「力を抜く」ということは「力をつける」よりも難しいことだけど、それは老人力によっていともたやすく行えるようになるのだ。また「嫌な思い出を忘れる」という力も同じで、ひとは「努力して覚えることはできても、努力して忘れることはできない」と。

さらにまた、「アバウトになる」というのもある。「テキトー」や「無責任」という植木等的能力もある。いずれもそう簡単に一朝一夕で手に入る性質ではないのだし、さらに「芸術より趣味、思想より好き嫌い、平等よりえこひいき」の方が大事なんじゃないか、と。

しまいには「他力本願」なんていうすごい力もある。なんでも自力でできると思っていると痛い目にあうから、老人力を身につけた人は自然と他人に頼ることができるようになる。長い時間をかけて、このようにひとつずつ老人力を手に入れながら、ひとは「自由」になっていく・・・。

はい、よくわかります先生、偉大な研究成果だと思います。たしかに、こういう境地にいたればたいしたものだと思います。ホントにこれは冗談ではないんですよね。

「老人力というのは死に至る寿命である。でもその危険を裏返しにして縫いつけているからこそ、ボケ味をはじめとする老人力は精彩を放つのだ」、だから老人力は、「命がけでボケていくマイナスパワーなのだ」というわけです。そう、なんたってＥＣは命がけですよ。

さて、原平さんによって見いだされて定義された「老人力」は、多くの共同研究者によってさらに多くの場面で効能が実証され、その後、老人だけでなく若い女性によっても現場で意識的に実践されるようになり、温泉ブームとか競馬ブーム、骨董ブームなどとしても広く世の中で果実をつけることになります（どちらかというと「おじさん力」のものもあるけど）。

だからこの「マイナスパワー」こそが、日本流ネガティブ・ケイパビリティとなります。強引ですけど。そしてこれは、西洋の合理主義的な方法論では身につけることのできない能力として、また能力主義的仕事世界でもぜったいに評価されない能力として、後世まで長く語り伝えられることでしょう。もちろん、私たちが歳を重ねていくときのもっとも重要かつ不可欠な能力として、いっそう評価が高まるものでしょう。

だからニッポンの青年よ、憶することなく究極のネガティブ・ケイパビリティ「老人力」を磨け！

４５　なぜ旅をするのですか？その旅の目的はなんですか？　

すぐれた紀行文は、狭いブックカフェにいる私たちの、世界を見る目を広げてくれます。

自分の知らない国や習俗、ひとの考え方のちがいなどにも気づかせてくれます。なかでも、旅した人の人柄がよく表れたものや、その人の行動にビックリさせられたり、その勇気に感心させられるものは、読む者にとって心の栄養剤の役割をはたします。

「ネーコル」（伊藤健司／毎日コミュニケーションズ）は、そんな一冊。

これは1990年代のチベット巡礼の旅の紀行です。「ネーコル」とはチベット語で「聖なる場所を回ること」。チベットの熱心な仏教徒は、きびしい五体投地を続けながら聖地をネーコルします。

さて筆者は、独力で聖地カイラス山（チベットの西の果てにある）をめざし、カイラスを（五体投地ではなく）ネーコルします。「独力で」というのは、1990年代にはチベット政府と中国政府との間がいまよりももっともっと剣呑だったので、とうぜん観光ネーコルのような「パック旅行」などはなく、チベット人巡礼に交じったりしながら、かなり危ない旅をするしかなかったからです。

あるときは中国（漢人）の警察にワイロをわたし、あるときはチベット人たちとトラックの荷台に相乗りし、あるときは歩き、またあるときはゴンパ（チベット仏教の僧院）に泊まり、あるときは山の頂で瞑想する行者と話し、ヒマラヤの青いケシを見たりもする。よくもまあ、一人でこんなすごい旅をしたもんだなあと驚かされます。

ところで、では、彼の旅の目的は何だったのでしょうか？

たとえば「チベット旅行記」の河口慧海だったら、それははっきりしていたわけで、経典取得と勉強と修行。そのためにはつらいヒマラヤ越えもなんのその、それも修行のひとつだくらいの強い意志を持っていたわけですね。ところが僧でも行者でもない普通の人である筆者の旅は、その目的がはっきりと書かれているわけでないので、それは読む側が推測するしかないのです。

「あの山の頂で、ラマ（僧）がはるかかなたのヤルンツァンポ（の町）を見おろして瞑想している

姿に接することで、私は『行者』というものの最も高まった地点に触れることができたのだと思う。」

たとえば山の頂のこの一人の僧の姿が写真としておさめられていて、この写真がチョー素晴らしいわけですが、こんな写真を見せられたらだれもが、この僧はなぜこんな山のてっぺんに居て、いや、そもそもどうやってここまで来て、毎日何を食べて暮らし、どんな思いでこの空（「ジャンプすれば届いてしまいそうな空」という比喩が実感できるような）の下で瞑想するのか、それを想ってボー然としてしまうことでしょう。そして私たちは嫌でもこの修行僧と、それを訪ねて語り合って写真におさめた筆者の心境を想像させられることになります。

「いったいなに考えてんだ、この人たちは！」と。

私が思うに、ひとつ確かなこととして、筆者が何か聖なるもの、至高のもの、自分の知らないものに触れたいという強い願いを持っていたことはあるのでしょう。

「彼はその高みで、眼下の大いなるヤルンツァンポから啓示を受け取っていたのだ。『グル・リンポ

チェ』、あのとき唯一理解できた言葉、山々を指しながら僧のいったせりふが、耳によみがえってく

る」。

筆者にとって、とんでもなく異質で、しかしながらなぜか大事に思えるものがある。それはたまたまチベットにあるようだった。だから行って確かめた。そして巡礼や僧に出会った。僧の言った「グル・リンポチェ」とは「この山々すべてが私の師だ」という意味なのでしょうが、そのすべてが、紀行文とスナップ写真として私に届くことになります。それはもちろん私たちにとってとんでもなく異質だけれど、読んでいるうちにだんだん私にとっても大事なもの、読んでいる私の栄養にもなるように思われてくるのです。

唐突ですが、カフェでは、ついつい身のまわりの些事やご近所の情報ばかりに接しているので、ハッと気づくと狭い所ばかりを見ていることが多いのですけど、そんな時にすぐれた紀行文が私に届くということは、それはつまり、広い世界からの、あるいは違う時代からの新鮮なニュースが届くようなものかもしれません。視野を広げてくれる。そして、はっきりはわからないが、筆者の旅の目的とそれを読む私の目的とがどこかで交差する。なかなか言葉にならないけれど、とりあえず今なにかが音を立てて交差したぞ、という実感があるのは嬉しいことです。

なお伊藤健司さんには、この本のほかに、「ホーリー・ヒマラヤ」（インド・ガンガーの源流であるウッタカランドの聖地を巡った）と「ミラレパの足跡」（ミラレパはチベット仏教の詩聖）があり、この本と合わせて三部作の紀行になっています。いずれも大推薦。

４６　やっぱり旅はひとりでするものだ、と

すぐれた紀行文を読む楽しさとは、自宅や通勤電車やブックカフェという小さな空間にいる私たちへの、遠い世界や過去からのお便りを読むしあわせを味わうことです。もちろん、自分の視野を広く視線を遠くまでとるためにも絶対に必要なことですよね。ましてや、

「海とサルデーニャ」（Ｄ・Ｈ・ロレンス／晶文社）のように、文章の手練れの書いた紀行文は、未知への扉を開いてくれるようで、なにものにも代えがたいものです。

ときは第一次大戦後。統一なったイタリアで、シチリアに住んでいたロレンス（もちろんイギリス人）は、妻Ｑｂ（愛称クインビー／女王蜂、ドイツ人）とともにシチリアの北にある島、サルデーニャ島を旅します。

もともと一か所に落ち着くことのできない性格だったのでしょう、「ともあれ、一刻も早く旅立とうと思う。10月のすえに戻ったばかりなのに、もう旅心が疼いてくる」とかいって、大きなリュックをかついで出かけるのでした。

シチリア島の西端パレルモから船でサルデーニャの南端カリアリへ。そしてサルデーニャ島を北に縦断して、また船でイタリア本土へ。その１０日間ばかりの旅が一冊の本になってしまうのだから、すごいもんです。あるときは何時間もバスに揺られ、ある時は鉄道駅にある宿屋に泊まり、ろくに食事にもありつけず、当時世界を席巻するイギリス人だということで地元のひとからいろいろ嫌味を言われつつ、またサルデーニャの田舎性を目の当たりにしつつ、ズンズン移動する。

そんな忙しい旅なのに、解説にあるように「ロレンスは何ひとつ見すごさない」のです。

当時まだまだ辺境でどの文明の影響も定かではない島の、その自然の風景も人間の営みも、土地の人との会話も、まるでビデオカメラで撮っているかのようにすべて記録していきます。いや、記録というのはそっけない表現でしたね。文学的に昇華された、形容詞の多い、美しい文章として定着していくのでした。そして彼のロマンチックな感慨は、こんな文章になります。

「ああ、小さく静かな船に乗って、ひっそりと、陸から陸、島から島へと、いつまでも航海ができるのなら、なんと嬉しいだろう。この美しい世界の広がりを、いつでも放浪できるのなら。・・・だが、人生の中心は旅のなかに、空間の震えのなかに、あってほしい。・・・もはや陸地の足かせもなく、足に丸太をつけられしばられたロバではない。疲れた大地は、いまでは何も答えない。さあ出発しよう。」

さすが文豪ロレンス、ブンガクしてますでしょう？ 「人生の中心は旅のなかに、空間の震えのなかにあってほしい」なんて、ふつうの人じゃ言えませんもの。

ところで、私たち日本人にはあまりなじみのないサルデーニャです。有名な名所旧跡もありません（じつはスゴイ遺跡があるのだけど、ロレンスの時代には見過ごされていました）。世界的に有名な人も輩出していない。はっきりいって田舎。100年後のいまでも、リゾートとして有名になったけどやはり田舎、らしい。

しかしロレンスは、「サルデーニャ人は、開放的で男らしくはっきりものを言う」、「一個の率直な精神を持っているようだ。僕がぶちあたった社会主義への全幅の信頼がその一例」などと、その純朴さを褒めています。それにたいして（彼がそのとき住んでいた）シチリア人にたいしては、「糊みたいでとらえどころがなく、率直に話したがらない」と辛辣です。というのもシチリア人は「文化的にあまりに古く、あまりの老獪、狡猾から、ありとあらゆる信念、信仰に対し、斜に構えてしまう」からだそうです。文豪、文明批評してますでしょう？「糊」とはひどい表現だけど。

ともあれロレンスはいつも、どんな場所に居ても落ち着かず、旅に出ては「自分の魂の再生」みたいなことを追い求めていたに違いありません。彼にとって大切なのはそれだけだったはずです。だからサルデーニャでも「魂のときめき」とか、「人生はうしろ向きに発見する旅ではない」とか、「自分でもわからないたくさんのなにかを取り戻してくれた」といった感想を述べるのです。

これをロマンチックと言わずしてなんとしましょう。

そんなロレンスをちょっと違った角度から見ているのが、イタリア文学者の河島英昭先生でした。先生は「文明と歴史の孤島（「イタリアをめぐる旅想」平凡社ライブラリー）」のなかで、「厄介な伴侶、うるさいＱｂを連れ、小さな台所まで背負って、あの男はよくもまあ、苦役の旅を続けたものだ」、とあきれ顔で言います。大文豪をけっこう突き放している。そしてこう続けます。「この本（海とサルデーニャ）のなかには不要な影がはびこっていることに気づいた。この太古の島のイメージをとらえようとするにあたって、フリーダ（奥さん）の存在が邪魔をしている。彼の精神が有効に働いていないところがある、とぼくは感じた。」

おお。やはりそうか。そこか。私も感じたぞ。

で、いきなり結論です。旅は一人でしなければいけない。伊藤健司さんを見ろ。ましてや文学者は奥さんなど連れて行ってはいけない。それが彼をむやみにロマンチックにしたり文明批評させたりしている。つまりカッコつけさせている。魂の再生というなら、ひとりでやらなきゃならない。なるほど河島先生の言うとおりだと、せっかくロレンスから旅の便りをいただいたカフェの中で、なぜかほくそ笑む（そして、こうしてみずから視野をせばめていく）私でした。

４７　裸の元気な女性からの便りで元気になった

当カフェのお客さまの７〜８割は女性です。お若い方もそうでない方も、みなさん元気いっぱい。明るいし知識豊富だし活動的。仕事と家事、育児や介護をこなし、コーラスをし、太極拳を習い、スポーツジムに行き、アクセサリーや焼き物をつくる。近所に新しくできたお店にはいち早く行って適切な評価をくだします。ニッポンの女性、恐るべし。

そしてまた、そんなパワーあふれる女性からの旅の便りがひとつ、私たちの手元に届くことになるわけです。

「ヨシダ、裸でアフリカをゆく」（ヨシダ・ナギ／扶桑社）

の筆者ナギさんは、２０歳台でアフリカ各地を旅して、文字どおり現地の人と裸のつきあいをしてしまうのでした。

まず彼女の行動範囲がすごい。エチオピア、マリ、ブルキナファソ、ジブチ、スーダン、ウガンダ、ガーナ、カメルーン、チャド、ナミビア、タンザニア、えーと11か国ですか。しかもすべて、行きやすい所ではありません。会う少数種族も、ブッシュマン、ヒンバ、マサイ、ダマラ、サンブル、スリ、コマなどなどで、このうちコマ族とダマラ族が、裸族。

旅のなかで、ナギは（こう書くと、どこかの「族」のようですが）、「現代文明から離れて暮らしていればいる人たちほど、身にまとっている服が少なければ少ない人たちほど、誇りが高く、心の距離を縮めるのが難しい」、という結論にいたり、「同じ格好をすれば、必ず仲良くなれる」と考える。そうです、ニッポンの女性は実際的です。ロマンチックも文明批評も魂の再生も、なし。

そして、ガイドの制止もふりきって服を脱ぐと、葉っぱで腰まわりを覆うスタイルでコマ族の奥様たちの中に入って行ってしまう。するとコマ族の奥様たちは、それまでの「（お金を稼ぐ）観光客向けの顔」がすっかり変わって大喜び、子どもたちとも仲良くなる。やはり人間、裸にならないといけないですね、はい。私は、裸になるのは「ニッポンのおじさん」の宴会での得意技だと思っていたのですが、なんのなんの、ニッポンの女性はやはりえらい！

ところで、エチオピアのムルシ族とスルマ族を撮った写真集に、「ナチュラル・ファッション」（ハンス・シルヴェスター／ＤＯ−ＢＯＯＫＳ）というのがありますが、これがまた、すごいんです。

ムルシもスルマも裸族ですが、木の枝や花や木の実で身を飾り、土でボディペインティングするその姿は、衝撃的に美しいのです。彼らはもともと裸なので、まるで白紙に絵を描くように（じっさいは黒地ですが）、独創的な装いが可能なわけです。その様子はまるで、装飾デザインか絵画を見ているような気にさせられます。そして私は、この写真家が誇り高い彼らの写真を撮ることができたのは、きっと写真家も服を脱いで裸になっていたのだろうと想像します。

この写真集の帯に西江雅之先生が、こんな文章を寄せています。

「彼ら（ムルシやスルマ）は仮面をつけ、化粧を施し、そのことによって社会を脱ぎ、本来の自分をさらけ出そうとする。わたしは他人でないことを示すのだ」。つまり、ひとは裸で自分をさらけ出すこともあれば、化粧でさらけ出すこともある。どちらも自分の誇りを大事にすることだし、それによって他人との違いを示したり、仲良くなる手段となったりする。うん、やっぱりそうなのだ！

ひとつつまらないことを思いました。

ナギさんのような人が政治家になればいいのになあと。えっ？いやいや、政治家の女性は裸になれということではぜんぜんなく、自分自身をさらけ出せる人がいいなあと思ったのでした（写真週刊誌にさらけ出されるのではなく）。どこかの着飾った都知事とちがって（失礼！）そういう人は信頼できる気がしますし、暴言を吐こうが不倫しようが（失礼！）、「裸になれる人（相手と同じ立場になれる人）、特に女性」が日本を元気にしてくれるように思えるのですが、いかがでしょうか。

ともあれアフリカという地は、「日本にはない何かがたくさん埋もれている魅力あふれる国々」なのでした。その魅力を伝える裸の女性からの便りは、受け取る者を元気にしてくれます。

４８　行けない場所、行けない時代からの便りがくる

自分が行けそうにない場所からの旅の便りは、よりいっそう嬉しいものです。

行けそうにない場所というと、アフリカ、南米、それに中東などですけど、それは遠かったり、怖かったり、危なかったりでね。資金的な問題もありますしね、こちらの年齢による体力の問題もあります。そしてそれとは別に、絶対に行けない時代の絶対に行けない場所というのもありますね。いや、タイムマシンがあればいいじゃないか、というご意見もあろうかと思いますが、たんに時間をさかのぼればいいというものでもありますまい。

「モーターサイクル南米旅行記」（チェ・ゲバラ／現代企画室）

お若い方にはＴシャツの柄としてしかなじみのないゲバラですが、私たちの若い頃には彼はだんぜんヒーローでした。

1928年にアルゼンチンに生まれ、医師資格をとり、南米各国の実情を体験し、フィデル・カストロと出会ってキューバ革命に参加、バチスタ独裁体制と戦って革命を成功させた後、大臣の職を放り出してボリビアの革命に参加し、ゲリラ戦の中で殺されます。その途中でキューバの大臣として日本に来て、広島にも行っています。そしてゲバラの死から今年（2017）で５０年が経ちました。

彼がなんでヒーローだったかというとですね、1960年代から70年代は世界のあちこちで既存体制と戦う若者たちが多くいて、学生運動が盛んだったのですよ。当時の学生運動の理念の根本は「反体制」であり、「反権力」「反・既存システム」でしたし、またベトナム戦争のように、大国と戦う小さな国のゲリラ戦という判官びいきもありました。その意味でゲバラは「権力」や「体制」と戦い続ける若者のアイコンだったのです。

そのゲバラが、若き日23歳のときに友人と古いバイクで旅をします。生まれ故郷のアルゼンチンからウルグアイ、チリ、ボリビア、ペルー、コロンビアにベネズエラ・・・。えーと、何か国だ？ お金はないから野宿し、バイクが壊れるとヒッチハイクし、いかだで川を下り、人の好意にもすがって旅を続ける。この旅行記は映画にもなりましたので観た方もおられるでしょう。旅の冒険やトラブルのなかに、彼のいたずら好きでユーモアあふれる人柄や、感受性の強い性格とか、貧しく虐げられた人たちへの共感がにじみ出ているし、映画もそれをきちんと描いていたように思います。さらに「エルネスト」という、ゲバラと一緒に戦った日本人（オダギリ・ジョーが扮する）の映画も公開されました。世界中の多くの人が、実利的で酷薄な革命家というイメージからほど遠い彼の人柄と行動に魅せられてしまう。

ことほどさように、いつまでもゲバラへのリスペクトは絶えることがありません。

さて、彼が旅で見るのは人々の貧しさだけでなく、南米に共通する歴史感情や風土、その後進性、そして生活のただなかに侵食する強欲な資本主義経済と政治権力、さらにそれが起こす差別、圧制、迫害です。そして、というか、しかし、こう書くことになります。

南米には、「北側のメカニズムを浸透させない、植民地時代の半分牧歌的な逆行した状況のなかにしっかり根をはった精神」があると。

また、「人民は進歩しなければならないが、それは権力を握る前にではなく、権力を握ってからできることだ。人々は自分自身の過ちの力で学んでいくことによってのみ、進化できる」と。

さらに、「いかにして自分が、意志をまとめあげていく本物の革命の犠牲となって、模範的な『わが過ちなり』という言葉を発しながら倒れていくかが見える」と。

わかりにくいかもしれませんが、ゲバラの心のなかでは、旅で出会った人々の日常の貧しい暮らしや「根を張った精神」と、進歩とか革命とかの「変化のあり方」が、密接につながっていくのです。だからこの旅は、（将来の革命家）ゲバラにとって必要不可欠なものだったのですね。

つまり、というかよけいわかりにくくなるかもしれませんが、底辺の人々の生活を良くして生きる力を強めるという「革命」の理念が、彼のなかで旅を通して、すでに純粋で甘い理想という段階から、進歩とか権力とか犠牲とか過ちなどという現実的でポリティカルなことばと結びつくものになっていくのです。すると私たちはここに、「民衆の悲惨」に同情するロマンチックでナイーブな感傷だけではない、行動に直結する意思が芽生えてきたことをみることができるでしょう。

こうして革命というもののリアル感は、ゲームとは違うものとして、ゲバラのような人によって私たちにもたらされることになります。

絶対に行けない、あの時代からの「瓶詰めの手紙」を、少しだけ翻訳してみました。

４９　アフリカという未知がある

だいたい私は、なんで南スーダンという国があたらしくできて（2013年）、なぜそこに大統領派と「副」大統領派の紛争が起き、どうして自衛隊がＰＫＯで派遣されて駆けつけ警護とやらを仰せつかり（戦闘が激しくなって帰ることになり）、ということになったのかよくわかっていなかったのですが、少しずつ見えてきました（たいへんニブくてすみません）。

スーダンが周辺の国とゴチャゴチャやっているうちに、南の地方に石油が豊富に埋蔵されていることがわかり、内戦のすえに独立し、その利権をだれがとるかということも発端のひとつだったのですね。日本の自衛隊の派遣はおまけのようなものだったのです（自衛隊の方、すいません）。

「アフリカ　希望の大地」（ダヨ・オロパデ／英治出版）

おもしろいものです。

いや、喜んでいるのでは全然なく、なにがおもしろいって、アフリカの紛争には部族、民族、生活習慣、言語、宗教、人種、階層などのさまざまな要因があるようだけど、もっともヤバイのは、石油とか鉱物資源とかが「ある」とされると、関係者のあいだによからぬ感情が起き、国家がよろめき、政府がインチキしはじめ、グローバル企業が動き、ＣＩＡやらなんやらが暗躍し、内紛が一層激しく泥沼化して長期化するという、共通の特徴があることがおもしろいのです。

日本にはたいした資源がなくてよかったね・・・なんてことを言っている場合でもなく、やっぱりそうしたアフリカの現実を通じて、「国家」というものの成り立ちを考えてみるべきではないかと思わされます。

みなさんご存じのとおり、戦後次々と独立してきたアフリカの国々の国境は、旧宗主国であるヨーロッパの国によって決められました。もともと部族や民族が混在していたところに、定規で線を引いてしまったのですね。イギリスやフランス、オランダにベルギーなどといった西洋先進諸国の欲望によって、ある範囲を押しつけられてしまった。だから、暮している人にとっては「国家」という概念は薄い。つまり線引きの結果できあがった国家は「正当性がない」し、その政府には「責任感が希薄だ」と住民みんなが感じている。となると、国家の基盤が弱いから「統治システム」がきちんと働かずに税金収入がなく、官僚や役人に賄賂が横行し、海外からの援助も末端の人々に行きつく前に途中で吸い取られ、既得権ある人に分配され、貧困も飢餓も伝染病も、いつまでたってもおさまらない。

「アフリカの官僚制度は、官僚たちが私服を肥やすための建前を提供する仕組みになっている。」

たとえば、石油が豊富なナイジェリアでは国家予算の25％しか国民のサービスに使われず、おなじく石油まみれのアンゴラでは、公教育や福祉の予算が全体の１％。さらに2012年の南スーダンにいたっては、石油による収益のうち40億ドルが使途不明なのですと！ おもしろいですね、いや、喜んでいるのではぜんぜんなく、なぜこんなことになるのか、統治システムのしっかりしすぎている日本という国に住む私たちには、まったく想像ができないのです。

筆者はこうした国を「しくじり国家」と評して、アフリカの国々で典型的に起きていることだとします。そこでは、「国家」というもののいちばんの悪である「軍事力という力による圧制」「制度化された収奪」「不平等や格差の容認」「将来像の欠如」がみられ、国家を成り立たせる想像力がなくなっている、と。でもそれじゃ、あまりにも見通しが暗いじゃないですか！

アフリカの国々は、これからいったいどうやっていくのですか？ そこが問題ですよね。そこで筆者は、この本のあちこちで「新しい地図」をつくるためのヒントを置いていきます。

たとえばアフリカの国々では国家がしっかりしてないからこそ、もともと人々のつながり、つまり社会的ネットワークや互助そしてシェアの文化が発達している。

またたとえば、遠方からの訪問客を歓待する文化もある。

さらにたとえば、人々の意識のなかに「カンジュ」という言葉で表される、「たいへんな暮らしを生き延びるための知恵（そのなかには犯罪という「悪知恵」も含まれるけれど）」が、共通の基盤としてある。「モノやカネがない」「頼るべきものがない」「国や政府をあてにできない」という状態のなかで、自分の手元に「ある」ものを活かしてなんとか生きていくという、そうした活力と想像力が民衆にはある。

つまり、国家には将来像や希望は見出しにくいけど、人々の生活はそんなものとは関係ないところで自律的に動いている。ＧＤＰなどの経済指標とか国連や世界銀行によって表に出される数字ではなく、見えない経済や人の活動がある。むしろそこに希望が見いだせるのではないか、というのです。この本には、そうした民衆の底力を信じたいという筆者の気持ちがあふれています。

いっぽう、アフリカに縁の薄い日本の私たちはどうでしょう。

ほぼ単一（的）な民族とされ、宗教の対立なく、国内で軍隊に脅かされることは少なく、不平等や格差は隠され、国のシステムはとりあえず保たれている。つまり国民は、国の成り立ちには疑問を持たず、国家運営のステムにも（ほぼ）信用を置いている。でもそんな私たちが、もしかしたら逆に失くしているものがあるのではないか？

どうでしょう。アフリカという未知を見て、そこから振り返って私たち日本人に、鏡のように見えてくるものがあるとしたら。

５０　地べたからみるアフリカ

かくして、私たちがアフリカを見るときは、個々の人とかその生活から考えることはあまり多くありません。むしろ国際政治とか地政学、国家という面とか、貧困と紛争、資源と経済、自然と環境など、どちらかというとマクロの視点になってしまうことが多いものです。なんといっても日本からは遠い国ですものね。ところがそんなこととは関係なく、地べたの目線で、裏町の、ほとんど底辺で暮らす人たちのアフリカをみている人もいます。

「花のある遠景」（西江雅之／青土社）

2015年に亡くなられたけど、西江先生はスゴイ人だった。

紹介される先生の履歴としては、「言語学者、文化人類学者として東アフリカ、インド洋諸島、カリブ海域などでフィールドワークに携わり、云々」となるのですが、なにがスゴイって、どんな土地でも現地の言葉を習得して現地の底辺の人々とともに生活してしまうことです。眼鏡をかけているのでケニアの人からは「マチョ・イネ（四つの眼）」と呼ばれたりしつつ、どこにでも溶け込んでしまう。いっぽう、三鷹にある先生のご自宅は通称「ガマ屋敷」と呼ばれていて、その名の通りガマガエルはいるわ、諸国から持ち帰ったわけのわからないモノであふれているわで、これまた地べた的にスゴイ（らしい）。

こういうふうに言うと、なんとなくむさくるしい恰好をした「奇人変人」に思われてしまうかもしれません。ところが、いちど骨董商を営む知人（その方がガマ屋敷のありさまを教えてくれた）を通じて紹介してもらったことがあるのですが、西江さんは物腰おだやかでスラッと背筋がとおって、やさしいお話のしかたをする紳士でした。で、そのかたは本の中では、シレッと、

「わたしがその土地で出会った少数の人間や、ささやかなできごとを、国が、国民性が、などという形の話として受け取られることには、戸惑いに近い気持ちさえ覚える」などという。地べたの話と国家レベルの大きな話とを、自分の中のどこかできちんと線引きをされているのですね。

西江さんはつねに「自分の皮膚の外は、すべて異郷である」と言うのですが、そういう感覚をもつ人にとっては、どんな場所であれ出会う人間は同じ人間だし、「薄汚れた裏町で花々のように咲いている人々がいる風景」が「花のある風景」だし、それこそが触れば熱い現実なのでしょう。

そして、国家だの民族だのなんだのということがらは逆にすべて些末なこと。これが先生の言語学者・文化人類学者としての立ち位置だったと思います。学問的なことはともかくとして、私がそんな先生のエッセイに「詩」のかおりを濃く感じるのは、そんな地べたの感覚を大事にされているからかもしれません。

「陽がすっかり落ちて、黒い影となって浮かび出ている町の建物の合間に車を乗り入れると、背の低い人家の前ではそこここに人影が動き、小さな焚き火に、マサイの長い槍の刃がギラリと光を反射する」「（都会の裏町には）まばゆいばかりの昼と、夜の闇の中に、過去と現在と未來がまるで玩具のように散らばっている」

そして、裏町の売春婦のおねーさんたちとお友達になると、

「（握手をする）彼女たちの手は、長い間、力仕事を知らないままの柔らかい手だ」

「部屋の片隅には小さな棚があり、いくつかの食器類がきちんと並んでいる。あとは古びた衣装用のロッカーが一つ、小さなテーブルが一つと長いソファーが一つ。それに一冊のキクユ語の新約聖書と、無造作にテーブルに置かれている長い黒髪の鬘が一つ。ヌード写真をたくさんのせた英語の大型雑誌が二冊。三人の女たちが持つ財産のすべてである。金は、手に入れば使い、ない日は文字通り一文もない。食べるときには食べて、生きる。それも一つの立派な生活だ。死ぬことは恐ろしい、と女たちは言う。わたしも同感だ」。

このように地べたには、国も政府の統治システムもなにも関係なく、生きるための暮らしだけがある。そこに助け合いがあり、いさかいがあり、人との出会いと別れがある。もちろんそれはあたりまえのことだけど、何かが足りなくてもなんとかする生活の知恵や、賢い商売のしかたや、カネやモノのあげ方もらい方など、そこに入り込んだひとしか書けないことも、またある。そこに「四つの眼」を持つ人の詩情が現れる。

どうでしょう。やはりこういうところから「文化」とか「国」の成り立ちについて考え、そして自分たちの「地べたの民衆の底力」がどこにあるのかと探ることを始めないといけないのかもしれません。

５１　もちろん国家も国境線も必要なんだけど

ということで、カフェという小さな場所に一日居るのに、なぜか広大なアフリカのことを想ってしまうのですが・・・。

アフリカの国々は、砂漠とかサバンナに強制的に国境線を引かれたせいで、部族とか民族とか言語や宗教、慣習などをないがしろにされてしまった。そして国家という共同体の意識（「想像の共同体」ですね）が育まれることなく、機能しない政府（しくじり国家）ばかりできてしまった。でも人々の地べたの生活はそんなこととは関係なく成り立っている。まずそこまでは理解できました。

では、もう一歩先に進んでみましょうか。

「アナーキスト人類学のための断章」（テヴィット・グレーバー／以文社）

筆者は「国家と市場の論理」をハッキリ拒絶するところから始め、「真に民主的な組織をつくる方法は何か？」とか、「どの地点で組織は、自己強化から個人の自由の圧迫に移行するのか？」という、つまりは国家権力についての根本的な問いを投げかけます。もちろんとっても難しいテーマですが、その問いは避けて通れません。

まず筆者の「アナーキズム」とはたんなる「無政府主義」ではなく、「自律」「自己組織化」「自由連合」「相互扶助」「直接民主主義」という理念を大切にし、その実現のための直接行動をとること。その意味では「国家権力による個人の自由の抑圧」の正反対にあたるものと理解できます。

そのきっぱりとした定義と大言壮語的な心意気に、とりいそぎ「異議なし」としましょう。

「そんなこと言ったって紛争は収まらないし、アナーキズムで国家が成立するわけないし、国家も市場も揺らいでいては、安心して生活できないじゃないかっ！」とお怒りになりますか？

もちろん、その通りです、怒って当然です。

ところがアフリカについての多くのレポートをみると、国や政府が失敗ばかりしているのに、人々はお互い助け合って生きている。上の方ではグローバリズムや市場原理の風が吹いているのに、逆に下の生活現場では、かえっていまそこにあるものをなんとか活用して商売している。ＧＤＰだの失業率だのインフレだのなんだの、そんなの関係ないっ、いや、関係ないことはないけれど、むしろ贈与経済とか、それぞれの部族特有の合意形成ルールとかが、いまも生きている。

そう観察して筆者は、多くの刺激的な断言をします。

たとえば「多数決による民主主義」に反対して、「票決とは最終的に、屈辱、怨恨、憎しみを生み出す、共同体の内的崩壊を確実にする方法である」といいます。そしてそれとは逆に、「合意を獲得するための手の込んだ困難な過程と見えるもの（部族特有の合意形成ルール）は、じっさいには、誰も自分たちの考え方が無視されたと感じて（その場から）出て行ってしまうことがないようにする過程だ」とするのです。アフリカの部族でみられる、輪になった話し合いと何時間も何日もかけて行う合意形成は、アラブの多くの部族やアメリカ先住民のやり方と同じかもしれません。

さらに筆者が、マダガスカルの共同体について考察するところは象徴的です。

「われわれが部族、国民あるいは民族と考えていた集合性の多くは、そもそも何らかの共同企画をもとに形成されたものだった」「しかし時が経つにつれ、それらは骨化し凝固していく」、つまり最初の「意識的な共同」が「惰性のシステム」と化していく。そして儀礼化し、ときに私物化されていく。なるほどアフリカで起こっていることは、こういうことなんだと納得させられます。

つまりこのアナーキストは、上から下に押しつけるようなやり方はイカンと主張しているわけです。統治の過程としても方法としてもダメ。政治も、経済も、なにごとも下からじゃなきゃダメ。それがひとの「自律」なのだと。私たちがアフリカから学ぶとしたら、小さな村、まち、部族から、それぞれがもつ固有のやり方で合意形成を積み上げて、さらにそれを持ち寄って連携する、その方法しかないんじゃないかと。そして国家の形を決めたり国境線を引いたりする前に、住民によるなにがしかの「共同企画（共同体のビジョンとルールづくりのこと）」があったはずなので、なにごともそれを基にするところから始めるべきじゃないかと、こう提言するのです。

いかがでしょう。これが筆者の「アナーキズム」の核心です。

一方で、アフリカを勝手に線引きしたヨーロッパ諸国では、とうぜん「国家と市場の論理」ばかりが優先され、ここでのべられるアナーキスト「的」な理念は迫害され、侮蔑され、忘れ去られようとしています。たしかに、下からの「共同企画」から始めるなんて、すでにあるものを大事にする「偏狭なナショナリズム」や「既存システム」に反する物言いであることは確かですものね。

しかしこのアナーキストの意見は聞くべきでしょう。とりわけ今は。

５２　近代日本の統治についての難しい問題（まぜこぜ）

天皇の生前退位問題とか、はたまた特定情報保護法とか共謀罪などをニュースでみていると、あれれ、これらはけっこう日本の統治にかかわる重要問題じゃないかと思います。

いまさら「あれれ」もないもんですが。

ついでに、「森友問題」にでてきた「教育勅語を幼稚園児に暗唱させる問題」も、あるいは法案の国会審議における「質問に答えられない大臣が官僚のメモを丸読みする問題」も、「あるはずの内部ドキュメントを国土交通省や防衛省が調査しない問題」も、「でてきた文書が黒塗りばっかり問題」も、今の政治と統治のありようを象徴することのような気がします。

統治のありようとは大げさな、と思われるかもしれません。

でも私はこれらのできごとから、まずひとつ、日本の統治は天皇という象徴を大事にすることで成り立っているということを改めて実感しましたね。それからもうひとつ、民主制ではとにかく多数派工作が最も大事にされることも再認識しました。さらに、もしかしてそもそも日本にはきちんとした三権分立などはなかったのではないか、という疑問がわきました。

いずれも「いまさら」で「あれれ」な話ですが、こんなことを考えながら、

「日本の近代とは何であったのか」（三谷太一郎／岩波新書）、を読んで学習したのでした。

まず最初に、日本の三権分立と多数派支配について。

筆者は、明治憲法も、もともと権力分立的な憲法だったとします。一か所に権力が集中しないように立法、司法、行政の独立性を確保し、そして「自由が多数派支配によって脅かされる」ことを防ぐための「議論による統治」を指向するものだったと言います。これはとりいそぎこのまま信じることにしましょう（明治憲法をちゃんと読んでいないものですいません）。つまり明治憲法においても、三権分立はきちんと理念化され、めざされていた。

この「自由が多数派支配によって脅かされないようにする」とは、いい言葉ですね。明治憲法も、またそれをリードした伊藤博文も偉かったです。また「議論による統治」もいい言葉ですよね。伊藤はさらに、「オヨソ憲法ノ創設スル精神ハ、第一、君権ヲ制限シ、第二、臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」と述べているようです（樋口陽一先生による）。まずは君権の制限、そして次に臣民の権利。とすると伊藤博文、よく考えていたじゃないか？

ただし現実には「（憲法）だけでは国家を統治するに充分ではない」と判断され、一方では天皇制、もう一方で政党政治の強化が図られた。そして天皇制では統帥権の拡大があり、逆に政党政治はずっと遅れて大正末期の８年間しか実現しなかった。で、戦争を含めていろいろあって、戦後の新憲法になって議院内閣制と政党政治が復活する。たとえば立法府で多数を占めた政党が内閣をつくり、行政権を行使する。その内閣総理大臣が最高裁判事を指名する。

あれれ？ でもちょっと待ってください。

内閣総理大臣が指名するのなら、判事も内閣総理大臣という時のリーダーの意向を忖度してしまわないかしら？ どうなんでしょうか。しろうとの感想ですけど、もしこれによって三権分立がおろそかになっているとしたら、それは明治憲法の精神からみてさえヘンな状態になっているといえませんか。アメリカでも最高裁判事は大統領の指名ですけど、各州の判事は独立しているし、検事は選挙で選ばれますものね。大丈夫か？ 戦後日本の三権分立。

こんなしろうとの疑問に答えるのがこの本の役目ではないでしょうが、筆者も、議会における「議論による統治」を排した「立憲的独裁」の出現を懸念し、なおかつ「実質的な専門家支配（官僚支配）の傾向」を憂いています。そして「こうした動きに立憲デモクラシーがどう対抗していくのか」と問題提起するのです。まことにスジの通った問題提起だと思います。

話はかわって、天皇制に関わる「教育勅語」の件です。これも「憲法による統治」を補完するイデオロギーとして1890年にできた。ただしそれを主導した井上毅も悩んだ。というのも、「勅語」の内容はいわば「道徳」にあたるものなので、それが明治憲法下の立憲主義とどう両立するのか、というところが問題になったから。つまり「憲法」と「道徳」とは相いれない。その解決に苦慮した井上はどうしたかというと、けっきょく「他の政事上の勅語とは同様一様ならず」とした。そして「この勅語は天皇の命令ではなく、社会に対する天皇の著作の公表である」とした。

あれれ。とすると井上毅、策士ですな、スキマをついたなあ。著作ときましたか、うまい。

さすがに明治の人はきちんとしています。統治における「あいまいさ」を排し、立憲君主としての天皇であってさえ公私の別をきちっと分けて、いちおうスジは通す。これには感服しました。少なくとも、「ヘタに生前退位されると、統治システムにマイナスの影響がある」などと憂いた姑息な政治家とは違いますね。

で、そうすると、某幼稚園での「勅語」の暗唱はどうなの？ ということです。

教育勅語は立憲君主制時代の天皇の著作のお言葉だからだれがどう使おうと問題ない、ってことになるのかな。いやいや、そうはいきませんでしょう。だって、主体の定まらない幼稚園児に過去の立憲君主の著作を暗記させるような、そんなヤボで強圧的なことをしてはなりませんから。さらに民間のやっていることだから不介入、などというという文部科学省の言い訳もとおりません。

ましてや（とつぜん話は広がりますが）、憲法改正案のなかにむりやり道徳的な訓示をまぎれ込ませたり、退位について皇室典範を触らずにすませたり、大臣がわからないことを官僚に答弁させたり、などというやり方は、「議論による統治」にも「三権分立」「立憲主義」にもなじみません。

あれれ。ということは、もしかして現状は明治人の理念よりも後退しているのかな？

５３　自由な空間から生まれる豊かなもの

共謀罪法が成立してからというもの、カフェの中で「あら、こんな話をしていると共謀罪に問われるんじゃないかしら」というお声をチラホラと耳にするようになりました。

そうです奥様がた、どうかお気をつけください。保育園に入れないだの、となりのマンション建設がおかしいだの、ごみの出し方についてみんなで役所にかけあおう、などといった話し合いを「一般市民」が大声でするのは剣呑かもしれません。しかしご安心ください。当カフェには警察・公安関係者の方々は（たぶん）出入りしておりませんし盗聴もありません。カフェという場所はいつの時代も自由かったつな議論の場所でありましたし、これからもそうです。

ところで、

「世界天才紀行」（エリック・ライナー／早川書房）

によりますと、いわゆる「天才」を生み出す条件のひとつに、いろいろな人が集まって自由に話す空間が存在すること、というのがあるようなのです。

筆者は、なぜ天才たちはランダムに現れるのではなく、特定の時期の特定の場所に集中して現れるのだろうという疑問を抱えて、アテネ、杭州、フィレンツェ、エディンバラ、カルカッタ（コルコタ）、ウィーン、シリコンバレーなどを訪ね歩きます。たしかに、そうした集中や同時性ってありますよね。ほんと、どうしてなんだろう？

筆者は考察の結果、いくつかの共通点をみつけるわけですが、そのひとつに、それらの都市には「自由に話せる場所（略してＪＨＢ）」というものがあったというのです。

古代アテネでは、アゴラという市民が集まる集会所。

エディンバラでは、パブ。

ウィーン（ついでに世紀末パリも）では、カフェ。

フィレンツェでは、後援者のサロンやボッテガ。

カルカッタでは、「路上」という公共スペース。

こうした場所では、どんな人も排除されることなく参加でき（ま、時代ごとの制約はあったものの）、いつでも自由に議論を闘わせることができた。そこには秩序や静けさよりも、むしろ騒がしい混沌があり、ことばによる論戦や情報交換や、さまざまな取り引きや妬み嫉みがあり、だからとうぜん陰謀や共謀もあり、でもそうした「混沌」の自由をだれもが享受していた（もしかしたらここで、ハーバーマスの「公共性の構造転換」などを思い出される方がいるかもしれませんね）。

つまり各時代のＪＨＢは、カオス的な空間だったのです。なんかワクワクしませんか？

ソクラテスとディオゲネスが、アゴラから路上に出てもガンガン議論でやりあっているのを、横で若きプラトンがきまじめな顔して聴いている風景。

ダ・ヴィンチと若きミケランジェロが、メディチ家の廊下ですれ違いざま辛辣な一言を投げかけあう瞬間、そのとき知らん顔でそばを通りかかるボッチチェリ。

エールで酔っぱらったヒュームが、パブでアダム・スミスと肩を組んで歌っている光景・・・

いいですよねえ。そしてそんな情景を想像させる現場報告として、この本にはウィーンの作家ステファン・ツヴァイクのこんな言葉が紹介されています。

「私たちはいつも相互に張り合い、スポーツの試合に似た野心をむき出しにしていた。新たな興奮を求めて、たえず試合をしていた」。いいなあ。

とりわけカフェでは「議題」などなきに等しいものだったらしく、「目的のなさが、そこでの滞在を神聖なものとした」。パブやサロンやカフェでは、夜な夜な、いや昼間からこんなことが行われていたようです。ますますいいなあ。

さらにそこには、その街に生まれた人ばかりでなく、ほかの街やほかの国の人、移民や難民も訪れていた。つまりさまざまな文化と個性が混ざり合うことで場が活性化し、いっそう「才能の市場」の態を示したのでした。ぜんぜんいいなあ。

さらにさらにそこは、「ある分野での飛躍的進歩が、まったく異なる分野での飛躍的進歩を引き起こす」創造的な場所だったというのです。これについて、ハワード・ガードナー（心理学者／多重知能理論（ＭＩ）の提唱者）は、こう言っているそうです。「新たな絵画が生まれるかもしれないという認識そのものが、新たなダンスや詩や政治の可能性をもたらす」。つまり美術の世界でのイノベーションが別の分野、たとえば哲学や音楽に影響を及ぼし、数学の発見がたとえば神学や文学に刺激を与える。うわーっ、そんな場所があったら自分もそこに居合わせたい！

じつは私は、天才はあまり他人と群れない人たちなのだろうと思っていました。ひとりで書斎や実験室にこもり、孤独に考えごとをしているというイメージです。ところが実際は、天才のアイデアの多くはこうした騒がしい場所での会話からも生まれてきたのだというのがこの本の主張の眼目です。天才は「仲間との交流を通じて点を集め、それを独りでつなげる」。そして天才が天才を生む。これが、自由に話せる場所で生まれてきた現象のひとつでした。

とりわけ古代ギリシア人などは、「アゴラ（広場）での論争と商取引を類比的にとらえ、市場を『発見のための装置』と考えた（猪木武徳「自由の思想史」新潮選書）」のだそうですから、いろんな意見が混沌と混ざり合う場は、いまでいえばシリコンバレーとバザールとウォール街が一緒になったようなものだったのかもしれません。さらにこうした場所での関わりこそが、競争心をあおり、自負心を鼓舞し、「他人から自分を見る意識」をも強めていったことでしょう。

天才を輩出するためには他にもいろいろ条件があるでしょうから、あまり大げさなことは申しあげられませんが、私どものようなちっぽけなカフェであってもそれなりのカオスはつくれるでしょうし、それなりの自由な空間でのかったつな議論もめばえるでしょう。だったら、天才とまでは言わないまでも、誰かしらが才能を伸ばしてここから羽ばたいてくれることもあるかもしれません。

だから負けるわけにはいきません（何に？）。以上、現場からでした。

５４　困難な風に向かってひとりで立つひと　

選挙の季節になると、いろいろな方が活動の息抜きのお茶をしにカフェにおいでになり、コーヒーとケーキをかたわらに政策の話をしたりします。マスターとしては、そのお話を伺うだけでもいろいろな考えが聞けて楽しいものですが、なかでも少し気のおけない間柄になった方とは、やや突っ込んだ話になることもあります。なんせ、ここは自由なカフェですので。

ところで私は、主義主張はともかく気骨ある政治家が好きですね。「気骨ある」とはスジを曲げない、流されない、迎合しない、しかし自分の過ちは潔く認める、そんなひとです。

「暗い時代の人々」（森まゆみ／亜紀書房）

この本は大正から昭和にかけて軍国化していく日本の、いわゆる「暗い時代」に生きた人たちを紹介しています。山川菊栄、山本宣治、久津見房子、古在由重、西村伊作・・・いかがでしょう、知る人ぞ知るという方ばかりで、あまり名前の知られた、いわゆるメジャーな方々ではありませんね。朝の連続テレビ小説の主人公にもならないでしょうし。

この本の紹介に入る前に、お知らせが二点ほど。

ひとつは、大正から昭和にかけての時代が、だれにとっても「暗い時代」だったかというと、そうでもないということです。大衆庶民は、意外に明るく過ごしていたらしい。ただこの本では、「結果的に戦争に向かっていた」という意味で「暗い」と表現しています。

もうひとつ、本の著者の森さんはミニコミ情報誌「谷根千（やねせん／谷中・根津・千駄木）」を立ち上げた方で、私もお会いしましたが、いつもサンダル履きと買い物かごをかかえてラフな格好のやや異次元の方でした。

で本題です。この本の最初に取り上げられるのが、斎藤隆夫という政治家です。じつは私は、このひとこそ、中野正剛とならんで当時の「気骨ある政治家」だと思ったのでした。

そばで有名な兵庫県出石の出身で、1936年の二・二六事件後には「粛軍演説」を、1938年に「国家総動員法案に関する質問演説」を、1940年に「シナ事変処理に関する質問演説」をし、いずれも政府・軍部の政策を批判して、けっきょく議員を辞めさせられることになります。ひとことでいえば、立憲主義の理想を持ちつづけた「元祖リベラル保守（森）」という方です。

なかでもいちばん有名なのは、欧米のキリスト教国でも戦争に直面すれば「キリストの信条も慈愛博愛も一切け散らかしてしまって、弱肉強国の修羅道に向かって猛進する」、この現実を無視して「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閉却し、いわく国際主義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べ立て」て戦争に進んではいけない、という演説です。このなかの「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて」とか「雲をつかむような文字」などというところが有名になったし、またそこが糾弾されたのでした。ただいたずらに「国難」の美名に隠れて解散総選挙（2017年）をおこなった人に聴かせたいものです。

議会内で糾弾されたとはいえ、斎藤のこの演説には、時代ならではの二重三重の苦心が隠されていたように思います。

ひとつ。軍部とか戦争を真っ向から否定しない。

ふたつ。しかし、ウソとか美名でごまかすな、ということは言う。

みっつ。それでもやるなら、西洋諸国のようにもっと現実的になれ。

よっつ。結論として、でも国民にメリットないことはやめよう。

こういう組み立てになっているのです。まことスジのとおった正論です。でもこんな苦心にもかかわらず、揚げ足をとられて議員辞職に追い込まれてしまいました。暴言とかヤジとか不倫あたりで揚げ足を取られる政治家に聴かせたいものですね、「そんなことより演説で気骨見せろよ」って。

さて、演説のさわりだけご紹介してもわかりにくいかもしれませんが、彼の生き方からも「気骨」「あきらめのなさ」「強情っぱり」がうかがわれるので、なんだかとても嬉しくなるのです。というのも私が政治家に求めているのは（みなさんも同じだと思いますが）、もちろん理念や将来像をもつことや透明で真剣な議論をすることですが、たとえ少数でも何人かは、物わかりの悪い、というか安易にまわりに同調しないガンコな爺さんがいてほしいとも思うからです。

時代の困難な風が真っ向から吹いてきていても、あごを上げて一人で立っているひと。

そう、ここにも登場、「フール・オン・ザ・ヒル」。

著者が取り上げる「暗い時代の人々」に共通するのは、その時代が暗かったという客観的事実ではなく、「いまは危ない時代である」と認識し、その問題意識を発信するという意味で自分を「問い」そのものにして立っていた、そんな人たちだったのでしょう。それこそ「気骨」というものです。

ところで代議士としての斎藤隆夫は、いちども地元への利益誘導をしたことがなかったそうです。なおさら偉いじゃないか！ そしてこういうひとを永年にわたって国会に送り続けた出石の人たち、あなた方の爺さんたちも偉かった！ 出石はそばだけではなかった（おいしかったけど）。

５５　もっとおもしろい譬えをつくれ、自分！

こうしてブログなどを続けていると、自分の文章にはいくつもの弱点があるのがよくわかってきます。とりわけ、なにかを伝えたいときにもう少し違う伝え方、たとえば適切でおもしろい譬えが使えればどんなにいいだろうと思います。

わかっているんならやれよってことですが、これがけっこう難しい。

おもしろくてわかりやすい譬えとは、よくテレビレポーターが、食べもののできばえやおいしさを、「味の宝石箱やーっ」とか「肉汁の夏祭りだー」とか表現する、あれです。いや、もう少し格調高い例を出すとすると、「歴史家とはまるで、だれもしていない質問に答える、耳の遠い人のようだ（トルストイ）」というのはいかがでしょう、ダメ？ 譬えの引用もヘタでしたか。

ともあれ、読んだ本の感想もこんなふうに、ひとことでバッチリ表現してお伝えできないものでしょうか。私も苦手なりに少しずつできるようになりたいと思いまして、そこで、

「たとえる技術」（せきしろ／文響社）、で学習することにしましょう。

まず、この本の帯の「推薦のお言葉」には、「この本は、急患が出た飛行機に乗り合わせた名医のようだ（又吉直樹）」と、「この本は、実家でしか出ない大好きなあの料理のようだ（西加奈子）」とありました。この譬え、わかりますかね。じつは私はちょっとわからないけど。

ま、それはそれとして、本の内容はいたって真面目なものです。表現力を高めるためには譬えを使う。そうすれば伝わりやすくなるし、相手と感情を共有しやすくなる。そしてその譬えを作る方法として「視点を変える」「似た形を探す」「想像力を利用する」など、１０の項目が挙げられて、それぞれ具体例が示されています。

この著者はコピーライター系ですか？　私よく存じあげないのですが、譬えの例がなんか業界っぽいのでそう感じました。たとえば「広い」や「狭い」の譬えとして、

「片づけられた大宴会場のように広い」

「『北の国から』の五郎が足を伸ばせた風呂のように広い」

「バブルのころの服の肩幅のように広い」

「路地裏の知る人ぞ知る店のように狭い」

「『これではさすがに踊れませんな』とマイケル・ジャクソンが困るように狭い」

ね、広告のコピー的に笑えますよね。

なぜおかしいんだろうと考えて、たんに「広い」「狭い」を数字で表すのではない、その人のその時の主観が伝わってくるからおもしろいのだと思いました。だって五郎さんの風呂って言われても、それまでとても狭い風呂に入っていた人が、自分で作った新しい風呂に入ったときに感じたことだから、だれにとっても「広い」というものでもないのですね。でも、とても共感できる（「北の国から」を観た人だけですけど）。

このように筆者は「うまく譬えると一瞬にして目の前の世界が変わる」と言います。つまりこの例でいうと、自分が五郎さんになってしまう。そのうえで、そのときの五郎さんの気持ちとシンクロできて、結果として笑ってしまうのかもしれません。そして「笑える」ということは、その譬えを読んだ私が共感的に理解したという証しでもあるわけです。

こんな効能があるのなら、譬えるというスキルはもっと意識的に活用しなければいけません。

ということで自主トレとして、仕事が手詰まりになった状態と気持ちを譬えてみました。

「壁のすき間に頭が挟まってしまった中国の子供のように困った」

「１０万の敵に攻められた３００人のスパルタ軍のように孤立した」

「まるで、血液凝固剤で固められてしまったゴジラのように身動きが取れない」

　できあがりとしては、まだまだでしたか。

ともあれ、嬉しいことも悲しいことも、譬えることによって共感してくれる人が増えるのなら、そして自分もそれによって気分を変えたり新しい視点を持てるのなら、新品の眼鏡を買った時のように嬉しいことです。そうそう、とりわけ表現を変えることによって、それまでなかなか変えることのできなかった感傷や思い込み、すなわちつまらない「現状への居着き」から脱することができるのなら、なおさらのことです。読書感想文の表現の問題だけではありませんでしたね。

５６　マジック・ワードとプラスチック・ワードに気をつけろ

マジック・ワードというのがあります。

会話の中で相手への非難や悪口を言っても、最後に「いい意味で」とか「自戒をこめて」と付け加えると、それまで言ったことがまるで中立的で公平な立場から発せられたようになることがあります。言ったことが相手に受け入れやすくなったり、ヒドイことを言っても、発した自分に危害がおよぶことが少なくなることば、それがマジック・ワード。ほかにも「後学のために」とか「なんちゃって」というのも、その一種かもしれません。

「あなたはまるで男（女）のようだ、いい意味で〜」とか、

「そんなバカなやり方ではダメだ、自戒をこめて」とか、

「なぜそんなごまかしやウソを言うのか教えてよ！ 後学のために」とか、

「ちーがーうーだーろー、このハゲーッ！ 一回死んでみる？ なんちゃって」

などという使い方をします。ことばの最後につけて意味を変えるマジックですよ。ついつい他人をやり込めたくなったり、呪いをかけたり、でもそれによって自分を悪者にしたくない私たちにとっては、とても便利で重宝する表現ですね。だれでも思わず使っちゃいますよね。

ただまあ、このくらいのことは「ちょっとだけズルい言いまわし」として大目にみてもいいのですが、ところがいま、もっと深刻な言語上の問題があるというのが、

「プラスチック・ワード」（ウヴェ・ペテルゼン／藤原書店）です。

このプラスチック・ワードと、その言語上の問題とはなにか？

それは内容が空虚なことば、どうとでもとれる単語です。「組み合わせが容易で文章を自在に生み出すが、具体的な文脈のなかで意味を特定できないもの」です。たとえば、発展、近代化、問題、価値、機能、戦略、解決、構造などなどたくさんあります。著者はそうは言っていないけれど、とくにわが国では、外来語のカタカナことばに多くみられるのではないでしょうか。たとえばシステム、プロセス、サービス、ニーズ、プログラムなど、挙げればたくさんありますよ。

「プラスチック」というのは可塑性があるという意味ですから、その場に応じて変幻自在に使うことができるということです。一つひとつはなんだか立派な意味を持っているように思えるけれど、しっかり定義せずに使うと意味不明な単語。なおかつそれらは、レゴブロックのように自由な組み合わせによって、よりいっそう意味ありげな文をつくることができるというしろものです。

なんとなく分かりますでしょう？ みなさんもちょっと想いおこしてみてください。とりわけ政治やビジネスの分野で、こうしたことばがうまいこと使われている場面を。

「ＩＴ技術の進展プロセスがインフォメーションサービスの価値を大きく変化させ、我々のビジネスモデルはその戦略を見直さなければならなくなった現在、グローバルな視点で顧客ニーズをとらえ、付加価値をつけるイノベーションが求められる」。

あるでしょう？ なんだこれ、みたいなやつ。どうやら高尚ですばらしいことをおっしゃっているようなんだが、そのじつ、どうとでもとれる、なにを言っているのかさっぱり分からない。

どうやらこれらのワードは、最初はある分野で限定された使われ方をされていたのに、メタファーやステレオタイプとして広く別の分野で使われることによって、いろいろな機能をもつ「万能ことば」としての地位を確立してきたようなのです。そして政治やビジネスだけでなく、恐ろしいことに私たちも職場や家庭で使っていて、日常会話に多くのプラスチック・ワードが入り込んでいることに気づいたりします。しかも悪口隠しや自己韜晦系の「マジック・ワード」ほど目立ちません。が、ひそかに浸透している。

筆者が言うには、「現代の支配的な言語表現は、たかだか30個ほどのプラスチック・ワードの組み合わせからできていて、それをあやつるのが専門家や行政官であり、私たちの生活世界はこのプラスチック・ワードによって植民地化されつつある（解説から）」らしいのです。

そしてその危険性について、著者はさらにこう言います。

「ことばは世界を目に見えるようにするだけではない。ことばは世界にはたらきかけるのだ。言語という鏡は現実に反作用をおよぼすのであり、それは部分的には自立した力なのである」。

つまり私たちが無意識に「わかったようでわからないことば」を使っていると、世界がわからないものになってしまう。というのも、あいまいな言葉があいまいな世界をつくるからです。プラスチック・ワードの恐ろしさはじつにここにあって、わかっているつもりでプラスチック・ワードを使っていると、いつのまにか世界を「わからないもの」にしてしまう。あげくは、そのことばを使った自分を疎外してしまうことになります。

この「疎外」とは、自分がなにを言っているのかわからなくなり、世界と自分の関係がいっそうわからなくなることです。そうなるとプラスチック・ワードは、「わかりたくない気持ち」や「理解しないための努力」の源であり、現行システムを強化する権力の手先であり、さらに自分と世界を不確かなものにする元凶なのだということが納得されます。

おそろしいことではありませんか、みなさん！

となれば、ことばに頼る私たちにとってはなんともめんどくさい成り行きですが、こうしたプラスチック・ワードの魔の手からのがれ、こうしたことばを無自覚に使う他人の言表からも身を離さなければなりますまい。では、どのようにしてか。

まず、こうしたことばを多用する人を疑う。専門家や政治家や行政官がこの手のことばを使い始めたら、とりあえずその内容は疑う。なにかを隠したり、ごまかしたりしている可能性があるからです。もちろん、その人も疑う。そのうえで自分では安易に使わないようにする。とくに会議やプレゼンや政策論争では使わない。使いたくなっちゃうけど、グッとがまんする。

そしてこう言う。あんたたち、ええかげんにせえよ。便利で使い勝手の良いことばに頼るな。私たちを、そして自分自身をもだますな。惑わすな。もっと生活に密着したナマのことばで話せと。

・・・自戒を込めて。

５７　もともとどういう意味だったか、それを知らなきゃ

　しかし、生活に密着したナマのことばで話せ、といわれても困りますよねえ。

　文学作品ならともかく、カフェや家庭でのナマの会話をそのまま仕事や政治に持ち込んでも、だれにとってもわかるものになるとは限りませんから。つまり「ナマのことば」とは、ある面で個人的で特殊なことばだし、そこには人それぞれ固有の、あるいは「今＝ここ」でしか通用しない意味合いが含まれているからです。多くの人に通じる共通言語にはなりにくい。

　ではどうするか。まず、それら「ナマモノ」を、広く一般的に使える「社会的言語」、たとえは悪いけど「乾きもの」にしなければならない。さらにそのうえで、「ナマ」のときの新鮮味やイキのよさをも保ち続けつつ、だれにもわかるものにしなければならない。こんなややこしい作業を経なければ、プラスチック・ワードを避けて生きたことばを話すことはできないのです。

そんなたいへんな文化的作業に挑戦した人たちに、明治の知識人がいました。

日本が開国して西洋の文化や考え方に接した。しかしそこには、それまでの日本人の知らない知識・文化や、「ナマ」を抽象化するのに長けた西洋人の思考をたどらなければならない困難が待ち受けていた。それまでにはない種類の新しいことばが必要だし、それを「新鮮なピチピチしたことば」として定着させなければならなかった。ふーっ、なんとも気が遠くなるような話ですが、

「翻訳語成立事情」（柳父　章／岩波新書）

には、当時の翻訳の困難さと、知識文化人の苦悩がナマナマしく描写されています。

　ここで取り上げられるのは「社会」「個人」「自由」「自然」「権利」「恋愛」など、それまでの日本になかった抽象的な観念です。それを新しいことばを創ったり、漢語の意味を借りたりして翻訳していった。つまり日本にはなかった考え方や現実にナマナマしく感じられるものごとを、日本語でどう表せるか、が勝負だったのですね。とうぜんその作業は、紆余曲折に満ちていました。

たとえば「ソサイアティ」ということばは、はじめは福沢諭吉によって「人間交際」と訳された。これは日本語で千年以上使われていた「世間」に近いことばで、その意味は具体的に理解できます。そののち中村正直（スマイルズの自助論を「西国立志編」として翻訳した人）は、それを「会社」と訳した。これは「結社」の意味に近く、ある目的をもった人々の集まりと解されたわけだ。ところが福沢はその後、「社会」ということばを使い始めちゃった。

おいおい待てよ、「社会」は「世間」や「会社」と対立するじゃないか、と柳父先生はいう。福沢は「社会」を、より開かれた人間の抽象的な集まりを表わすことばとして肯定的に使い、いっぽう「世間」「人間交際」を、閉じられた人間の具体的な集まりとして否定的に使った。たしかに意味が対立している。そして私たちはいま「社会」のほうを「ソサイアティ」の意味として採用している。つまり私たちは時間をかけて「ソサイアティ」を「社会」と表現することにしたのだ。「社会」は、ことばとしての抽象度は増して逆にピチピチ度は下がったけれども、「人間交際」や「世間」や「会社」とはそれぞれ対立する意味として定着したわけだ。ふーっ、めんどくさ。

　このように、西洋の思想や考えを文章にして世に問おうとした明治の文人たちは、一つひとつのことばを使うにおいても、一回ずつこのようなめんどくさい作業を強いられていたのですね。「恋愛」の発見者とよばれる北村透谷にしたって、べつに個人的な恋愛にこだわっていたわけではなく、それまでなかった「恋愛」という感情とその表し方が適切なのかどうか、自分のナマの感情のとおり他人に伝わるかどうかに悩んでいたのでしょう。明治の人って、やっぱり偉かったなあ。

ところで、前節で紹介した「プラスチック・ワード」の、発展、近代化、問題、価値、機能、戦略、解決、構造などのことばも、たぶん、日本語に定着するときにはそれなりの紆余曲折があったに違いないのですが、その困難な過程はもう忘れ去られています。でも、もともとどういう意味だったのかとか、どういう経過でいまに至るのかということが多少でも意識されないかぎり、それらを「新鮮なピチピチことば」として使える保証はないはずです。

やっぱり、こうしためんどくさいことも、ときに気をつけて考えておかないと、私たちは便利なことばにのみ込まれてしまう、そんな気がしませんか？

５８　ロボットと同じものを見て、ロボットを愛し、対話する

毎日のカフェのおそうじは、その一部を「おそうじロボット君」にお願いしています。

某メーカーの「おそうじロボット君」を買ったときは、ああこれで、スイッチを入れてあとは放っておけばきれいにしてくれるんだと思って喜んでいましたが、なかなかそう簡単にはいきません。

というのも、カフェの店内は障害物だらけ。

テーブルや椅子、鉢植えに絨毯にマットレス。ロボット君はそれらにぶつかりつつ、ここもおそうじしてほしいと思う場所になかなかたどり着けず、ぶつかりながら後戻りしたりして、ついには電気コードにからまって動けなくなったりしている。で、しょうがない、チッとか言いながら、思わず手を出して手伝ったりしてしまう・・・つまり、かなりの時間、見張っているわけです。きっと同じようなことをされている方も多いことでしょう。まったく手間のかかるヤツなのです。

でもこれは、ロボットとしてデキがいいとか悪いというだけではない、いままでにない新たな問題も含んでいるらしいのでした。

「＜弱い＞ロボットの思考」（岡田美智男／講談社現代新書）

筆者の岡田先生は、前著「弱いロボット」（医学書院）」でも「他力本願で、たいしたことのできないロボットが、『できない』ということによって逆に、使う側の人間の可能性を広げることがあるのではないか」という、実証を通じた主張をされていました。

たとえば先生の作った「ゴミ箱ロボット」は、自分でゴミを拾う機能はなく、ゴミをみつけるとそこまでヨタヨタ近づいて、少ししゃがむ。それを見ているまわりの子どもたちは、しかたがないのでゴミを拾って入れてやると、お辞儀（らしき仕草）をする。つまり自分ではゴミを拾えないのだけど、人の手を借りてゴミを集めるという「寄りかかり戦術」をとる。こりゃ、うちの「おそうじロボット君」よりひどい！ だけど人は、トボトボ歩くゴミ箱ロボットを眼にして「思わず」ゴミを拾ってあげたくなっちゃうわけで、これを筆者はなんと、「他者を予定しつつ他者に予定される」という相互支援のメカニズムであるとして、コミュニケーションの発端だとするのです（とくに子どもは、その行為によってコミュニケーション能力の可能性を広げるらしい！）。

コミュニケーションの発端ですと？ ちょっと待ってください。

えーと、ロボットというと、私たちがまず求めるのは、人間のできないことをすばやく行なってくれることですし、それもひとりでやってくれる自律性ですよね。ロボットが高スペック化し、ＡＩ化することで、人間は楽をすることができる、、、はずです。ところがここには弱くて頼りなくて、ぜんぜん自律も自己完結もしてなくて、低スペックでしゃべることもできない「ゴミ箱ロボット」がいる。これがなぜ、コミュニケーションの発端と関わるのですか？

筆者がおっしゃるには、この「弱い」を基調にした「他者を予定しつつ他者に予定される」というかたちの相互支援のメカニズムを、コミュニケーション的には「共同想起対話」というらしいのです。これは「相手の想起内容（思い）に自らの想起を重ねながら、自らの想起内容を手がかりに、相手がいま想起しようとしていることを追いかける」ことだ、と、まあ難しく表現されています。ようは、あなたと私（ここではロボットと人間）が「対峙する関係」になって張り合うのではなく、ともに弱くて欠点が多いがゆえに、まずは「横に並んで同じもの（目の前の共通の問題）を見る関係」になって、それに対するお互いの考えをお互いに慮るところから始める、ということなのでしょう。これが「人間の可能性を広げる」ことにもつながるのだと。

ちょっと話はズレますが、これを聞いて夏目漱石の話を思い出しました。英語教師だった漱石が生徒に、「アイラブユーをどう訳しますか？」と質問されたとき、「それは『今夜は月がきれいですね』と訳しなさい」と言ったという話です。

そうなんです。西洋では面と向かって「私が（対峙しているあなたを）愛しています」とか言うところを、わが国では古来から、ふたり横に並んで同じものを見て「共に同じことを想起する」関係を大事にした。だからこのように表現するのがわが国民の心理的な正解だ、文学的にはそう表現しろ、と漱石は言ったのでしょうね。日本人って、面と向かって言うのが苦手だからなあ。

さてこの「同じものを見て同じように想起する関係」は、筆者の言う、「同一の身体的基盤を有する＜オープンシステム＞どうしが、相互に支えつつ支えられるようなカップリング」に通じるようです。思うにこの「オープンシステム」とは、おたがいが相手に対して心を開いている状態であり、なんというか、弱いロボットとの「共感・支えあい関係」とでもいいましょうか。であれば、横に並んで座って「聞き手にその一部をゆだね、いっしょに意味（愛する）や価値（ゴミを片づける）を生みだそうとする状態」は、たしかにコミュニケーションの本来テーマかもしれません。

だとするととうぜん、「弱さ」や「できなさ」をもとに「横に並ぶ」関係をつくるというのは、人とロボットとの間よりも、人と人、たとえば子育てとか、とりわけ介護とか教育など、多くの場面に共通するものになるでしょう。つまり筆者は、「弱いロボット」と人間との関係性には、人と人のコミュニケーションにも共通する大切ななにかがある、とおっしゃっているのです。

人と人、とりわけ弱い人と人のあいだにこそ、「他者を予定しつつ他者に予定される」関係、すなわち相互支援のメカニズムがなければならないのではないかと。

・・・そうですか。では私はまず、「おそうじロボット君」が意のままにならない「弱くてオバカなロボット」だからといって蹴とばしたりせず、弱点あるものどうし、おそうじすべき場所を一緒に見つつ、助け合いながら作業をしてみたい、こう思いました。それが私という人間の可能性を広げてくれて、コミュニケーションにも役立つのならなお嬉しいですけど。

以上、おそうじの現場からでした。

５９　モノからコトへ、モノとコトの両輪へ

カフェというのは飲み物という商品を売る商売ですが、じつはそれだけでなく「居心地の良い時間と空間」を売っているのだ、とはよく言われることです。

どういうことかというと、飲み物は飲んでしまえば「消費」されておしまいですが、おしゃべりしたり、本を読んだり、のんびりボーッとしたりする「時間」というのが、簡単には消費されないカフェの大事な「商品」だという意味です。だからカフェオーナーとしては、もし「飲まれて消費されるモノを提供しているだけじゃん」と言われたとしたら、残念だし割り切れないものがあるわけです。いやもちろん、どなたにでも「時間つぶし」ということがあるように、「時間」というモノを消費したいだけのときもあろうかと思いますけど・・・。ということで、

「第三の消費文化論」（間々田孝夫／ミネルヴァ書房）

これは副題に「モダンでもポストモダンでもなく」とあるように、社会学的に「消費文化と消費行動」を考察している本です。主旨はこう。

消費におけるモダン（近代）とは、合理的な消費者が、安く良質なモノを選んで買うことだ。大量生産と大量消費の時代、日本でも高度成長のときがそうだった。もちろん今でも、たいがいの消費者は生活必需品を買うときだれでもそう行動する。これは生産者側からいうと、モノの開発から販売までを効率化とか予測可能性とか画一化とか、いわばマネジメントし制御・統制していくことでもあった。そのようにして、生産者は安くていいモノを作ろうと努力する。モダンとはそういう形で競争がおこなわれる時代だ。

いっぽう消費のポストモダン（現代）とは、ひとの価値観が多様化して好みがいろいろになったせいで、消費者が、価格はどうであろうと好みにあったもの「だけ」を買う時代だ。そこでは価格や品質だけでなく、「他人と違うもの」とか「いままでにないもの」とか、あるいは極端に「すぐ壊れちゃうもの」「ヘンなもの」「弱いもの」「トンデモないもの」なども指向されるようになる（「オタク文化」もそうかもしれない）。そうなると、生産者は商品戦略においても予測や計算がしにくく、差別化戦略がとれない。いきおい、まったく新しいものとか、希少なものとか、キッチュなものとか、いままでにないものを産みだそうとする・・・。　　

この本の中ではそれらに加えて「グローバル化」とか「消費記号論」とか、いろいろなエピソードに触れながら「脱物質主義の消費文化」というものの可能性にせまっていくのですが、それは省略させていただき、じつは私も、「モノからコトへ」というテーマで同じようなことを考えたことがありますので、てまえ味噌ながらちょっと紹介させてください。

「モノ」は使われて消費されてしまえば、それでおしまい。コーヒーもそうだが、いくらおいしくても、なくなったり減ったり古びたりする。それにたいして「コト」は、モノをモノたらしめる根拠のようなもので、体験とか文化とか物語という形で目に見えない価値のことだ。カフェの「居心地の良さ」のように形がない、だから消費されてすぐ減ったりなくなったりしない。

たとえば車の場合、「モノ」としての車を買うときは性能スペックや価格の比較で買う。でも「コト」として車を買うときは、他人に見られて自慢できるデザインとか、運転する楽しさとか、助手席に乗せる人のことを考えて、つまりは体験の楽しさや自己実現の予感を重視して買う。

たとえば観光で、パック旅行というパッケージ商品を「モノ」として購入し、ガイドさんに連れられて名所旧跡を見てまわるのと、旅の日程を自分で決めたり、苦労してチケットを買ったり、旅先での現地の人との出会いや交流や失敗まで含めた時間や経験を大事にする「コト」との違い。

たとえば学校で、先生から知識を授かる勉強は、知識を「モノ」として買うこと。いっぽうアクションラーニングなどでは参加者が主体的に学習するが、この場合はむしろ「学習の協働体験」とか「知識の共同生産」といった「コト」を買うことになる。

このように「コト」の消費が重視されるようになると、生産者／サービス提供者の側も、たんに「はやい、うまい、やすい」のが良いとばかりいってはいられずに、消費者／受給者に満足のいく「コト」をどう提供できるか、つまり、新たな経験、新鮮な驚き、あるいは成長の実感を与えられるか、などと頭を絞ることになる。

いかがでしょうか。カフェの「居心地の良さ」というのも、こうした意味で、いかに「良質なコト」をつくりあげるかという問題かもしれません。そう考えると「コト」というのは、一方的な消費というよりむしろ、提供者と消費者がいっしょに時間と空間を生産するものなのかもしれない。これが私の考えでした。なにはともあれ、生産者／サービス提供者と消費者／受給者の関係におけるこのせめぎあいが、ダイナミックで緊張感があればあるほど消費／生産文化は成熟していくことでしょうし、先端技術やイノベーションを考える際にもそこは外せないのではないかと思います。

ということで、当カフェは「モノ」と「コト」の両方を提供する場所として、おいしい飲み物やケーキを味わっていただき、本や人との出会いを楽しんでいただき、オーナーにグチをたれていただき、窓から外を眺めながらボンヤリしていただき、また「ほぼ毎月コンサート」では音楽に触れていただいて新しい体験をしていただきたいと強く願っています。

以上、現場からでした。

６０　人生いろいろ、「私」もいろいろ

カフェのマスターは、お客様と接するときいくつかの立場を使い分けています。

ふだんはもちろん「誠実なサービス提供者（のつもり）」ですが、少し親しくなると「話の聞き手」、気心が知れてくると「会話の相手」、子供さんには「優しい近所のおじさん」になります。どなたもそうだと思いますが、会社では社員とか課長の顔、家では親の顔、連れ合いには伴侶としての顔というように使い分けますよね。それと同じです。

ひとはこのように様々な顔を使い分けます。

ただときどき、それでいいのかなって思います。もしかしたら、なにかズルをしているのではないか。ひと様を惑わすようなことになっていないか。それでいいのだろうか？ この疑問にはなおかつ、「いつも様々な顔を使い分けてはいるけれど、じつは『本当の私』、つまりどこに出しても恥ずかしくない『私という人間の本質』があるはずだ」と思っていることも根元にあるような気がします。ところがその「本当の私」なんて、なかなか定かには見えないものなので、私の葛藤はよけい深みにはまっていくのです。「私とはなにか？」と。

ところが、そのまんまの書名の本、

「私とは何か」（平野啓一郎／講談社現代新書）には、こんなことが書かれています。

多くのひとはその場の空気を読んで、いろいろな「仮面」をかぶったり「キャラ」を演じる。そして、仮面もキャラも「仮」の姿であって、じつは「本当の私」というのがどこかにあるはずだと思っている。でも私（筆者）はこう思う。

「たったひとつの『本当の自分』など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて『本当の自分』である。これを『分人』と名づけてみる。すると、私という人間はいくつかの分人によって構成されている。そしてその人らしさ（個性）というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。」

いかがでしょう。自分の疑問にバチッと回答されてしまいました。気持ちいいですね。

まず、「ひとつの本当の私」とか「しっかり固まった主体」なんてないというのです。だから、立場やキャラを使い分けたりしていいのだろうかとか、自分のやることは首尾一貫しないで矛盾だらけだとか、そんな私ってじつは何者なのだろうとか、などと悩むことはなかったのです。そういう悩みは過剰な自意識のなせるわざで、まちがいの元だと。

対人関係ごとに見せる複数の顔といえば、たとえばピンクレディーの「ウォンテッド」の「ある時ナゾの運転手、ある時アラブの大富豪、ある時ニヒルな渡り鳥」ですし、古くは片岡千恵蔵の映画「多羅尾伴内シリーズ」の主人公の探偵は七つの顔をもつ男でしたし、また「スパイ大作戦（テレビ版）」のローラン・ハントにいたっては毎週のように顔を変え、、、もういいか。

ま、そういうことです。それでいいのだ。

それでいいのだとしたら、なにもすき好んで「本当の自分探し」などする必要はなくなりますね。複数の「分人」の集合が自分なのだったら、「私」としてはそれら「分人」をうまく使いわけて司りつつ、調停者として「分人」どうしのバランスだけを見てればよいのですから。そう、キャラとか仮面とかペルソナとか、そんなものは使い倒せばいいのだ。

そういえば、同じようなことを内田樹さんも言っていました。自分なんてしょせん多重人格のあつまりで、それら人格ファクターの全部が自分なのだと。そして「人格がひとつなんて、誰が決めたんだ」と吠え、「パーソナリティの発達過程とは人格の多重化のプロセスである」と決めつけ、「場面が変わるごとに、その場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれる人のことを『大人』と呼ぶ」と断言しています（いずれも「おじさん的思考／晶文社」）。

すごい荒技！「私」の定義として、切れの良い投げ技一本が決まったかのようですね。

さらにさらに、別の方のこんなお言葉もありますよ。「ある特定の瞬間に、多くの可能な自己のうちどの自己が自分のものかを決めることができればいい（アルベルト・メルッチ）」。

さてお若い方々、いかがでしょう。

なにかの拍子に、自分のキャラとか自分が演じている役割に疑問をもったり苦しくなったりすることはありませんか？ そしてその手の悩みってだいたい対人関係の場合ではありませんか？ それは他人とのコミュニケーション不調が原因になっているのではありませんか？ そして、その悩みとは、じつは「自分は他人からどう見られたいか」という所から始まっているのではありませんか？そんなときはどうか迷わず、こうしたおじさんたちの忠告に耳を傾けてみたらいかがでしょう。「分人」も「人格の多重化」も、そんな「他人からどう見られたいか気になる症候群」による「コミュニケーション不調」から抜け出す方策になるのではないでしょうか。

この理屈、わかりますよね。もちろん私も迷わずに見習いましょう。

もっと楽に「いろいろな私」を使い分けてみましょう。どっちにしろ自分の個性なんて複数の分人の構成比率によって、対人関係のなかで決められてしまうのです。だったら、私という人格に関わるすべてを他人の目の前に投げ出して、それを「その場にふさわしい適切な語法」によって、バランスよく使い分けていきましょう。カフェで、いや、家庭でも。

６１　感情を管理しなければできないお仕事

カフェのお仕事は、お客様に心地よい時間を提供することですから、まずは「お・も・て・な・し」が大事、ということだと思います。

しかしカフェのような接客業での「おもてなし」は、じつはマニュアルを決めていつでも同じようにおこなうことができません。というのもお客様はそれぞれ違う目的で来店されますし、その時の気分も違うからです。同じサービスであっても、どの方にも「心地よい」と感じていただけるとはかぎりません。その場その人に応じた異なる応対が必要になりますし、だからたまには応対をまちがえて、そこにちょっとした感情の行き違いが生じることもあります。おもてなしの質は、その時の双方の感情しだいで変わってしまうわけですね。

「管理される心」（Ａ．Ｒ．ホックシールド／世界思想社）

には、いま多くの仕事が「感情の売り買い」で成り立っていると書かれています。「売り買い」ということになりますと、感情を差し出す側（ホスト側）と受け取る側（お客）とのあいだで、いかに「気持ちよさや嬉しさという商品」の取引を成立させるかが問題になるというのです。

たとえば飛行機のＣＡ（キャビン・アテンダント）さん。たいへんなお仕事だと思います。

お客様はフライトへの不安とか期待とか、普段よりも強い感情をかかえて飛行機に乗り込む。ＣＡさんはそれを見越して、つねに乗客に微笑み、やさしい言葉づかいをし、危険があっても平静さを保ち、クレーマーにも対処する。じつはそのために彼／彼女たちは、怒りや不安など自分の感情を適切に管理することで、客のいろいろな感情と折り合いをつけるよう訓練されている。そして「サービスの質を高め」て「安心と快適を演出」し、もって「またのご搭乗」を促進する。

いっぽう客は客で、ＣＡさんから受けるサービスを敏感に感じ取って自分の感情に反映させ、心地よいと感じたり不安や怒りをため込んだりする。不満を感じるとやっかいなクレーマーになってしまうし、お酒を飲んでＣＡさんにからんだりして、「この会社の飛行機なんか二度と乗るもんか」などといきまくことになってしまう。

自分の感情の適切な管理と、相手の客のいろいろな感情との折り合いをつけること。

これはＣＡさんに限らず、接客業や営業職はもちろん同じことが言えますし、専門性の高い医師、看護師、福祉職、弁護士などもそうでしょう？私たちの身のまわりは、まさに感情の売り買いと形容される「対人サービス業」のオンパレードのようです。

考えてみたら、学校の先生なんかも大変ですね。

仕事としては授業で生徒に知識（というモノ）を与えればいいのですが、何十人もいる生徒を指導し、それぞれのヤル気を高めるために、ときにわき起こる怒りや悲しみを抑えて感情を制御しつつ、学習と生活と部活の指導をしなければなりません。しかも教師の顧客は教室の生徒だけじゃない。生徒のうしろにいる親御さんの扱いに心をくだき（クレーマーもいる）、職員会議でも自分の感情を殺して本音と建前を使い分けて主任や教頭や校長の感情に働きかけ（いばったり無責任な上司もいる）、業務を円滑に進めなければならないのですから、まったく頭が下がります。

えーと、ただし、教師のお仕事を対人サービス業といっていいのかどうかわかりませんので、差しさわりがありましたらご容赦のほど。

ともあれこのように自分の感情を管理し、制御し、本音をうまいこと隠しつつ仕事をこなすこと、これを筆者は「深層演技だ」と表現するのです。心の奥深くでの、感情を操作する演技です。さらに筆者は、このように自分の感情をコントロールすることによって他人（顧客）の感情に働きかけ、もって売り上げに貢献する人のことを、対人サービスに従事する「感情労働者」と名づけました。そして、感情労働者は感情や心を酷使されているのだ、というのです。つまり彼／彼女たちは、お客様に商品を買っていただくために、自分たちの感情を売っているのだ。工場労働者が肉体と時間を、頭脳労働者が知恵や知能を売るのと同様に、彼／彼女たちは感情を売る労働者なのだと。

ここで大きな問題は、そのとき彼／彼女たちが自らおこなう感情管理が、自分で「深層演技」だとは気づかないでいることです。演義の自覚がないときが多い。そして、自分の仕事が演技による「感情労働」だと気づかないでいると、本当の自分の感情と仕事上いたしかたなくおこなっている演技の感情とが、どこかでごっちゃになってしまう。そして極端な場合、精神的に追い詰められて、自我が壊れたりしかねないというのです。

つまり精神疾患の可能性が高くなるというのですね。

これは困ったことです。対人サービスの現場では、ときたまこんなことが起こります。

素直に「自分はこう感じる、だから、こう行動する」という自然な姿勢よりも、「この状況で、私はどう感じる『べき』なのか」と考えてしまい、「それによってお客様はどう感じるか」ばかりを慮りつつ「自分はどう行動するか」を決めなければならなくなる。もちろん、会社からもそう期待され、その演技の質が評価され、業績を左右する。そして「いったい私は本当はどう感じているのか」と、立ち止まることができにくくなってくる。ではどうしたらいいのか？

私に言えることは、私たちは忍者と違って「分身の術」は使えないのだから、どうか「分人の術」などを駆使してお仕事をしてください、ということぐらいです。キャラやペルソナを意識的に使い分けるしかありません。いやあ、きちんとしたサジェスチョンができずにすいません。

ただし、当カフェの従業員はそんなに「深層演技」はしていませんので、逆にすいません、いつも気が利かなくて。以上、感情労働の現場からでした。

６２　東京に地震が来ない日

そろそろ首都圏を大きな地震が襲うのではないか、その確率が高まっているのではないか、以前からそんな話があちこちで聞かれます。阪神神戸の震災、３．11の東日本大震災、昨年の熊本地震の経験などを踏まえながら、私たちはそのための心づもりをし、家やビルの耐震をし、避難の計画を立て、備蓄などもろもろの準備をしなければならない。

もちろんそのとおりです。もちろんカフェもその準備はしています。

そのとおりなのですが、「国民だれしも、そうしなければならない」と言われると、私はちょっとだけへそ曲がりの虫がうずくときがあります。だって、こんなにたくさん人がいる街で大きな地震が起きたら、「三日間は自己責任で避難して生きてください」って言われても無理だろうと思ってしまうからです。皆さんはいかがですか。

もうひとつ、私たちには、逆に安心できることがあるようなのです。というのは、じつは私は、私たちの知らないところで巨大地震を防ぐために闘っている人のことを知っているのでした。

「神の子どもたちはみな踊る」（村上春樹／新潮社）

ここに入っている短編「かえるくん、東京を救う」は、地震を起こそうとしている「みみずくん」を「かえるくん」が退治して、地震を未然に防ぐというお話です。だから正確には、「闘っている人」ではなく「闘っているかえる」でしたね。ただし戦闘シーンが描かれるのではなく、その闘いは想像の、あるいは夢のなかで行われているのです。

主人公片桐の部屋に突然現れた、立ち上がると身長二メートルになろうかとする巨大カエルは、みずからを「かえるくん」と名のって、三日後に東京を巨大地震が襲うので、自分と一緒に地震を起こそうとしている「みみずくん」と闘ってほしいと主人公に頼みます。地震の元凶であるその「みみずくん」とは、「彼は普段はいつも長い眠りを貪っています。地底の闇と温もりの中で、何年も何十年もぶっつづけで眠りこけています、、、実際の話、彼はなにも考えていないのだと僕は推測します。彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、、、そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます。」

みみずくんはこういう存在です。憎しみに固まっている。それが地震を起こさせる。嫌なヤツ。

やがて片岡の意識のないところでかえるくんはみみずくんと闘い、自分も傷つく。その結果、みみずくんは退治され、東京には地震が来ない。東京に「地震の来ない」ふつうの日が来る。片岡は病室で闘いの顛末を聞き、自分もその闘いに加わっていたといわれるが、まったく覚えていない。そして傷ついたかえるくんは死ぬ。そして最後に近いところで片桐が言う言葉。

「なにが夢で何が現実なのか、その境界線を見定めることができなかった。『目に見えるものが本当のものとは限らない』」・・・

・・・こういう小説です。こうしてすべて夢だったとすれば、それはそれで終わってしまいますし、また、この夢（小説）の解釈もいろいろとあることでしょう。われわれ読者としては、自分の意識の底でかえるくんとみみずくんが闘っていると思ってもいいし、自分もかえるくんと一緒に闘っていると思ってもいい。地震は本物の地震だと思ってもいいし、たとえば運命とか人間の罪や悪意の総体とかの象徴と思ってもいい。

しかし押さえたいのは、かえるくんが言う、自分たちの闘いは気づかれないのだというところ。

「すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます」「ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な価値を定められるのです」

ここで私たちにとって「かえるくん」が実際に「いる」と思うのと、いや「いない」と思うのとでは大きな違いがありそうです。そしてたぶん、自分はなにを信じるかの違いがそこにあるのだと思います。信じるものの違いが、戦場と相手の違いとなる。「かえるくん」が戦う相手が非常に強いなら、自分が信じるものが大きく、それが戦場の広さに反映されるのかもしれません。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、だからこそ「最終的な価値」なんていう強い言葉が使われるのでしょうし、結局「破れ去る」こともあると前提されているのでしょう。

ということで、みなさんは、常にみみずくんと戦っている「かえるくん」を信じますか？ 信じて、地震が来ない日を続けるため一緒に闘いますか？ 戦いませんか？

じつは私は、世の中でいちばん苦手なのがカエルなのです。とくにヒキガエルとガマガエルが苦手！ そんなこと、ここでは関係ないとおっしゃいますか？ いやいや、関係おおありですよ。だって「私の戦場」でも、かくいう「私」の無意識の大きさが問題なのですから。

だから二メートルのカエルは嫌だなあ、でも「かえるくん」は信じます。

６３　かえるくん敗れる、しかし私たちが復活させる

ということで、私たちの知らない間に「かえるくん」が地下で頑張っていて、東京には地震が来ない。というか、そのような想像力の発揮の仕方があるわけです。ところがその「かえるくん」も、地震の元凶である宿敵「みみずくん」があまりに強力なときは負けてしまう、というのが、

「日本沈没」（小松左京／小学館文庫）

の作者のＳＦ（サイエンスフィクション）的な想像力の結果でした。

この本は、1973年に刊行されたのですが、書きはじめられたのはさらにその前、1964年の東京オリンピックの年だそうです。すでにそのころからマントルの対流とか太平洋プレートの沈み込みとか、最先端の知識を駆使して書かれたのでした。いまでは誰でも聞いたことあることですが、阪神淡路とか東日本の大震災を経験してみると、作者の想像力のすさまじいリアリティがわかります。

じっさい、地下の邪悪な「みみずくん」は、いつの時代も生きていて、憎しみをため込みながらじっと私たちのスキを狙っているようなんです。怖いですねえ。

ところでこの本には、生き残って世界中に散らばった日本人のその後が描かれた「第二部」があるのをご存じでしょうか？ それが、

「日本沈没　第二部」（小松左京＋谷甲州／小学館文庫）です。

沈没から25年、国土を失って生き延びた7000万の日本人（3000万人は犠牲になった）は、世界各地に分散して厳しい生活を強いられている。東南アジアの熱帯雨林を切り開いて耕作し、中央アジアの高地で牧畜し、あるいはそれまで培った先端技術を活かし、いずれも現地の人とさまざまな摩擦をおこしながら、細々と生活している。

「ある意味で豊富な人的資源こそが、日本の残した最大の資産といえた。高い技術力を支えているのは、蓄積されたノウハウばかりではなかった。国民の高い教育水準と勤勉さ、そして共通の言語を介した組織力が技術レベルをかさ上げしていた。」

逆に、だからこそ、受け入れ国やそこの住民ともトラブルが多くなった。

そんななか、日本政府（といっても、オーストラリアに間借りしている）が力を傾けて開発したのが「地球シミュレータ」なるスパコンだった。そのスパコンが、日本沈没後の地殻変動や天候の変化のデータをもとに予測したのは、全世界の寒冷化と人類滅亡の危機だったのだった・・・

さあ、どうする、日本人と日本政府！

ときの首相は、各地にちらばっているとはいえ、まずは日本人としてのアイデンティティを失わせまいと戦略をとるが、結局うまくいかない。むしろ最終的には、どこにいてもその土地に順応するコスモポリタン（世界市民）的な生き方をめざすことになる。そこには、日本人の問題だけではなくなった全世界的な問題がある。つまり、日本沈没が引き金になった氷河期の到来にたいして全世界70億の人をどう生かしていくか、ということにまで問題が広がってしまったからだ。もう、日本人だなんだって言っていられない。

と、こんな物語です。壮大なＳＦ（シミュレーション・フィクション）ですね。壮大すぎて、じつは小説としての焦点がぼけてしまった感もあるけれど、やはり私たちとしては、これほど強大な「みみずくん」の存在を前提にした未来をどう想像していくか、という課題を考え続けなければならないと言われていることは確かです。「かえるくん」に頼ってばかりいてはいけない。

ところで、江戸時代には「なまずくん」が地震の原因とされていましたが、それは破壊的な力の象徴だけでなく、積極的な世直しの力「世直し大明神」の化身ともみなされていたようです（加藤周一）。ということだと、もし、多くの人が強い「かえるくん」を一緒に想像できれば（つまり大きな憎しみを打ち負かす力を持てば）、それは世直しの力となって、たぶん地震や地球環境の問題だけでなく、核も紛争も戦争もない世界と70億人の共存を可能にするかもしれないも想像できるのですが、いかがでしょう。

「どんな強大なみみずくんにも勝つかえるくん」を私たちの心のなかに育てることで、邪悪なものや憎しみや災害にめげずに復活する、ってことで。

６４　「システム」の疑い方、越え方

私たちがつくりあげてきた、現にあるシステムとはなにか。

いきなりなにを言い出すのかとお思いでしょう。でも、ご紹介したい本に行きつくまでに、少しだけこの「システムとはなにか？」という問いにお付き合いくださいますか。

システムとはなにか？ それは「国」「制度」とか「法」「規範」「市場経済」といった大きな仕組みから「交通」「流通」「販売」など具体的な方法まで含む、私たちの生活を支える基盤です。カフェでいえば原材料の仕入れから販促、コーヒーの淹れ方や接客ルール、衛生管理や万一の場合の避難誘導、会計に納税などすべてが含まれる、いわば運営に関わるすべての仕組みのようなものとしておきます。ただ眼に見えるものばかりではないので、とってもやっかいなしろものです。

私たちは「システム」を作ることによって、安全安心に生活し、効率的に仕事をしている。

しかしそれは目に見えにくいものなので、手で持ち上げて「見よ、これが〇〇システムだ！」と明らかに示すことが難しい。たとえば、たまに役所で非効率な仕事にあたると、「まったく、これがお役所仕事だ」とウンザリするけど、これは、ちょっとだけ「システム」のシッポが目の前に現れる瞬間ですね。でもほとんどの場合は、目に見えない、触れられない、インビジブル。

で私は、そんなシステムのシッポにぶち当たってウンザリするのは、なにを隠そう、お役所仕事のような硬直した「システム」とは、じつは私たち自身が作っているモノだということを私たち自身知っているからではないかと疑っているのです。お役所システムは、じつは自分たちが産み育ててきたものなのだ。だから自分たちにも作った責任がある。それなのに、私たちは逆にそれに依存し、縛られて生きている。そのことが分かるだけによけい頭にきちゃう。システムとは自分の分身のようなものなのに、ああそれなのに、いやそれだからこそ、システムは頑固で強情で融通が利かず、言うことをきかず、しぶとい・・・。

・・・ということでモヤモヤが溜まりますが、こんな気持ちをスッキリするために少し畑違いの、

「南の光のなかで」（山尾三省／野草社）、を読んでみましょうか。

山尾さんは詩人で思想家。60年安保のあと「部族（トライブですね）」というコミュニティ活動をし、また家族でインドやネパールを巡礼したあと、屋久島へ移り住んで亡くなりました。屋久島の白川山（しらこやま）には、いまでも彼の住まいや書斎がそのまま残っています。私たちが訪れたときも、猫が入り口で歓迎してくれて、山尾さんの書斎に案内してくれました。

多くの著作を残された山尾さんですが、この本の中では「システム」なんてお堅い言葉が使われているわけではありません。たとえばこんな書き方です。

「＜ひとつの文明の周辺に聖なる野蛮人が現れるとき、その文明は危機に瀕している＞。（私は）そのとおりだと感じ、意識的に自分を聖なる野蛮人の位置に置くことが始まった」。

思うにこの「野蛮人」とは、たぶん、「硬直したシステム」になりさがった「文明」に抗い、意識してその外に出ようとする人のことでしょう。自分は都市という「システム中のシステム」のなかに居ることなんてできない。それはしんどい。それなら屋久島で仲間とともに自給自足の生活をおくろう、そう彼は考えたのです。

だからこれは、システムに抗って人間性をとりもどすための、彼なりの方策だったのでしょう。

というのも、山尾さんがこの本のなかで「アニミズム」という表現で屋久島の草花や樹木や海や山や星を語るとき、そこにはたんに自然宗教に帰依するという姿勢だけでなく、「自分になにかを強制してくるシステムという魔物」とのつながりを断ち切ろうとしているように思えるからです。

そして彼は、さらにこんな思索をします。教科書のように人間の歴史を古代・中世・近代・現代と分けてみるのではなく、紀元前四千年前から現在までを「近現代」として眺めてみる。すると100年単位では見えてこない、おおらかな人類の歴史が見えるはずだ。するとつぎに、

「逆に、この先五・六千年の歴史を、近未来として眺めうる」ことになると。

いやあ、じつに気持ちいいですね、このようなシステムの超え方。時間軸をとても長くとってみるやり方。自分たちが作った目の前のシステムなんて、長い目で見たらたいしたもんじゃないぜ、って言われているように感じます。私たちもシステムにただウンザリしているだけではしょうがない。山尾さんのように自然のリズムで暮らすことによって、できあいの都市システムに縛られずに暮らせて、そしてさらに、歴史を見る見方も変わってくるのかもしれません。

もちろん屋久島での暮しじたいが「システムに抗う」ひとつの方法なのだけれど、山尾さんは、なんらかのシステムの中で暮らさざるをえない人間として、少なくとも目の前のシステムを正しく疑うことを生涯かけて続けたのだと思います。それは、とりあえずは都市機能とか流通とか行政とかに頼らなくていい生活でした。つまり現にあるものを破壊しようとしたり、ウンザリするだけではない、自分なりの方法を見つけようとした。

この姿勢はぜひ見習わなければならない気がします。

ということで、これからも自分自身による「システム」の正しい疑い方と超え方を考えたいと思いますので、ぜひご一緒に。

６５　いつもいいひとじゃないマスターという役割

カフェでお客さんと話していると、ついつい「話をあわせる」という習性が身についてしまって反省するときがあります。そうそう、そうですよねえ、なるほど、はいはい、やっぱりねえ、といった無難なあいづちが、どうしても増えてしまうのですね。カフェマスターは、誰に対しても話を合わせられる「いいひと」でなければならない。そんな思いが私に強いのだと思います。いいことかどうか分からないけど。でも営業上ね、しかたないと。

ところが、岡田斗司夫さんにいわせると、

「今の時代の『いいひと』というのは、身近な問題に関して、無意識にその問題が存在しないフリができる人のこと」だというのですから、これはいくら私が「いいマスター」であっても、聞き捨てならないお言葉です。というのも、無難なあいづちをうつのは、もしかしたら相手の人の問題に関心があるフリをしつつも、じつはそれを「自分とは関係ないもの」とする姿勢かもしれないぜ、と言われているからです。

「僕らの新しい道徳」（岡田斗司夫ほか／朝日新聞出版）

は、岡田さんと7人の論客との対談集。

個人、合理性、市民、共同体、人間、政治、活動といったテーマを設けて進められています。

こういうテーマでナマの現実（ネット社会、格差、震災、スクールカーストなど）をめぐる話をされると、それぞれの現実のなかに、やはり「現行システムの功罪」を考えさせられます。というのも、いまの私たちが感じる「打ち破れないシステムができあがっているからこその、ふんづまり状態の息苦しさをどうするか」という問題意識が、対談のそこかしこに満ちているからです。

ナマの現実の底には、社会・政治・労働・教育などの「システム」が頑として存在し、ただしそれらは目に見えにくく、考えれば考えるほどまるで幽霊みたいに手が届かなくなってしまう。だから現実から逃れて無難に生きようすれば、だれしも自分を「いいひと」にして、そのうえで、できればシステム上の課題やバグを「ないもの」にしておこうと思ってしまう。こういうことがあります。でも、自分もそこに身を置くシステムを、「自分とは関係ないもの」にはできません。

私も、この本といっしょに考え始めることにしましょう。

まず、システムには「システム運営に伴うリスク管理を自分がしないで人に押しつけていると、最後は自分にツケが回ってくる」という性質があるらしい。つまり自分には関係ないやと放っておいて「ないもの」にすると、問題は解決されないどころかドンドンひどくなり、最後は自分が困ることになる。たとえば「年金制度システム」では、自分はいいやと思って無関心になっていると、まちがった運用をされ、加入する人が減り、自分も受給できなくなってしまうかもしれない。

つぎに、「リスク管理しないでいると、最初に被害をうけるのはシステム弱者だ」ということがある。とりわけ政治マターでは、だれがリスクをとるのか、つまり「そのシステムの欠点がいちばん悪い影響を与えるのは、誰に対してか」を考える必要がある。たとえば福祉とか原発とか沖縄の基地問題で、システム弱者は誰か？と考えてみる必要がある。すると、

「（原発や沖縄など）無意識なリスクの押しつけをしている人に、その構造（注：システムのことですね）を気づかせ、そしてリスクを経済的に貧しい人たちに押しつけない再分配の方法を追求し、合意できる土壌をつくる（開沼博）」ことが、あらためて重要な課題にあがってくるというのです。システムをうまく動かすためには、構成員どうしでのリスクの再分配を考えるべきだ。これは現行の「システム」を正しく疑うためのひとつの道に思えます。

なるほど、私のように営業上「いいひと」をやっていると、なかなか社会的なリスクに思いをいたすことが少なくなってきます。知らず知らずに「ヒトゴト」の範囲が広くなり、「自分ゴト（自分がリスクをとるべき問題）」の範囲が狭くなってくるのですね。つまり、「いいひと」として世の中を渡っているつもりになっていて、じつはそれがリスクを他人に回しているだけなのかもしれないという想像力が働きにくくなるのです。

ではこの「私」は、リスクのつけ回しをしないで自分で引き受けるために、どう行動したらよいのでしょうか？ そこが問題ですね。そのヒントはこの本のなかにもあります。たとえば、

「国家サイズの大きな論理（注：システムです）にすべてが回収されてしまった状況に依存するのではなく、自分たちで勝手にやっていこうとする態度が必要（高木新平）」。

つまり、自分の身の回りに「システム」に回収されないようなもの、それじたい独立して動けるようなもの、を装備しておくやり方がある。そしてそれを生活に活かしていくことができる。たとえば、役所とか大工さんに頼らずに勝手に家を建てちゃうとか、政策や保険に頼らずご近所で介護の助け合いネットを作っちゃうとか。いずれも、やや法の網の目をくぐるようなことがあるやもしれませんが、そこは目をつむっていただいて。

・・・ということで、いきなりの結論で恐縮ですが、私でいえば、無難に話を合わせていいひとになってばかりいないで、たまには「ガンコマスター」の役割を引き受けてみましょうか。よくあるじゃないですか、頑固でわからずやの偏屈マスターが、常識にこだわらない考えをもっていたりすることって。それがもしかしたら大きなシステムのスキマをカバーし、他人にリスクのツケを回さないことにつながることもあるかもしれないし。ちょっと強引かな。

６６「システム」という構造からの脱出はできるのか

システムということばにハマって抜け出せなくなっています。だれか助けてください。

こういうことってあるんですよね。なにかの単語や考えにひっかかって、他のことばをみんなそれに関連させて考えようとしてしまうことが。ある曲のメロディーがなぜか頭の中で鳴り続けて離れないみたいな、そんな感じ。いま私は「システム」というメロディーに取りつかれています。

たとえば・・・会社（というシステム）を離れると、そのときはまぬがれていた（というか、人事課というシステムにお任せしていた）「年金」とか「保険」「納税」みたいなものが、システムを代表するお役所の窓口担当者の顔に変貌して、自分に迫ってくる(ような気がする)。

あるいは「ちょっとしたカード取引」や「住宅ローンの返済」から、「親の看護・介護」「健康診断・治療」みたいなものがすべて、書類という、それぞれのシステムを象徴する臆面もない姿で強引に送りつけられてくる（ような気がする）。ああ、ことほどさように、なんでもかんでも「システム」に結びつけて考えてしまう！

・・・いけない、いけない、ちょっと頭を切り替えましょう。

「寝ながら学べる構造主義」(内田 樹／文春新書)

構造主義なんて、きっと難しい学問なんでしょうけど、

「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」、ということが根本にあるのだ、と言われると、あ、そういうことねと、とりあえず分かります。私たちはみな、なにかしらの条件にしばられて感じ、考えている。そうそう、そのとおりですよ。

ところが続けて、「私たちは自分の思っているほど自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちはほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に『見せられ』『感じさせられ』『考えさせられ』ている」、とまで言われると、どうです、ちょっと考えさせられませんか？

エッ、多少は条件に縛られていたとしても、自分は自力で考え行動していると思っていたのだけど、そうじゃなかったの？ 全部受動態ですか？ 「選択的に見せられている」って誰に？ なんで？それが本当ならマズイじゃない？ もしそうなら、私の感情や思考はだれかに支配されているようなもんじゃない？ さあ、困った、どうする？

まず私は、構造主義を解説したこれらのことばが、そのまま「システム」の定義にあてはまるのではないかと思ったのでした。つまり「システム」と名がつくものはすべて、自分を含めた社会集団が受け容れた(もしくは自分たちで作った)ものなので、私たちの考えも行動も、そこから自由になることができない。もしそのとおりなら、やっぱり私たちは、まるで自分で作った蟻地獄にはまってあがいている蟻のようだ、うわっ、怖い。私たちは自分がけっこう自由だと思って暮らしているけど、なんと、じつは自分たちのせいで、もともと自由に見、聞き、考えることを奪われているというのですから！ なににって、システムに！ よけい困った。

でもそう言われれば、なんとなくわかるような気がしませんか。たとえば親のことばに接して育てば（だれでもそうですが）、その言語表現のもつ意味や価値観をもとに自分の思考方法や肉体感覚が醸成されていく。日本で日本人に育てられた人とケニアでケニア人に育てられ人とでは、「民族」とか「国家」「自然」「動物」などというもののイメージに違いがあるだろう。

またたとえば、国民年金とか皆保険というシステムのある国に住む人とそうでない人とでは、「老後」とか「病気」、「医療」や「医師」にたいする観念が異なるだろう。そして自分が含まれている社会集団の条件のそうした違いは、長所となってひとの感覚や思考を伸ばすこともあるだろうし、逆に短所となってそれらを制限することもあるだろう。

うーむ、そうですか、わかりました。そうだとすると、では意識的にこの不自由とも思われる状態から抜け出せることはできるのでしょうか。つまり私たちは努力して、あらかじめ与えられた条件やできあがったシステムの呪縛から抜け出せるのでしょうか。

いや、むしろこう問いを立てましょう。構造主義の論客たちは「構造」からの脱出をどう「構想」したのか。そして、どのようにこの条件づけから身を引きはがせというのか。

はたしてフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンはどう述べたのか・・・。

・・・などということに興味のある人は自分で勉強するように。

そこのところはよくわからなかったのです、いやー、私の力不足でご紹介が中途半端に終わってすいません。とりあえず、だれにとっても（じつは構造主義哲学者にとっても）、「構造」や「システム」を相手に戦うのは難しいのだ、ということで今回はひとつご勘弁を。

６７　権威や権力から身を守るにはどうしよう

ところで権威的な人って、私たちの身のまわりにけっこういますよね。

政治家や官僚、そして大学の先生や専門家、会社の偉いさんはもちろんだけど、親とか親戚にもいますね。もちろんご近所にもどの国にもいます。その方たちは、自分の考えが正しいと思って、自分の言うことが絶対に間違いないとして、みんなが自分の意見に従うことが気持ちいいと感じ、他人に強要し、無理強いする人たちです。そして、自分が既存の考え方やものごとのありよう（注：現行のシステムですね）を支えて強化してしまっていることに気づかない。

どうしてそうなってしまうのでしょうか、私には不思議でなりません。

「権威と権力」（なだいなだ／岩波新書）

は、1974年初版ですから40年以上前の本で、今とは時代の空気がちょっと違っていますが、その内容はまったく古びていないことに驚かされます。たとえば、

「自分たちが判断することをあきらめて、誰かに判断をゆだねる。そこに権威のはいるすきまができるのさ」。あ、言い忘れましたが、この本は先生と生徒の対話形式で書かれています。だからとてもわかりやすいです。で、まずは「権威を与える自分たちの側」に問題があるとして、続けて、

「権威のまわりには、それを守ろうとする人垣ができる」、すると、

「人間が他の人間に自発的に言うことを聞かせる（つまり説得とか対話とか）力を失い、権力がその埋め合わせとして、力で人間を抑え込もうとする」、その後、

「権威者は一般民衆を矮小化し、人々は自分たちを卑小化して、独裁体制ができる」、そして、

「たとえば防衛の意識によって、権力支配はいつも正当化される」、となると、

「国家は検閲により密偵により警察によって、自らの権力のための抑圧を行う」。

こういう具合に権威とその体制ができあがる。いわば権威システムができあがる。さ、どうでしょうみなさま、今の日本の、世界の状況そのままではありませんか。

知識や情報を手に入れたものが「権威」となり、それをうまく隠して利用することによって基盤を固め、さらに法制化したりして支配のパワーに換えたものが「権力」を握る。ひとたび得た権力はまた取り巻きや追従者によって忖度され、強化される。その一方で大衆の「権威者に判断をゆだねる」という無責任行動によっても支えられる。そして大衆が、できあがった体制とシステムに徐々に「無関心」になっていくと、権威や権力はよりいっそう強大になっていく、というわけです。

ここで問題は、では政治の世界だけでなく私たちの身のまわりにある権威や権力を疑い、それに対抗する自由をどう確保し、場合によってはどうくつがえすか、ということになるわけですが、

「権威をくつがえすためには、まず、そのまわりにある人垣の、一人ひとりの内側にある不安を問

題にしなければならない」「それをしないと、権威をくつがえしたものを新しい権威として、またそ

れらの人々が集まって人垣ができる」。

筆者はさすがに精神科医だけあって、権威や権力を作りあげるのはまわりの人垣（それは「少数の追従者」のことだけではなく「多くの私たち／大衆」のことです）の「不安」を取り上げます。

今でいえば格差とか老後とかテロとか北朝鮮とか、そうした外部要因への不安が権威や権力を強化するおおもとの原因なっている。それならば、その不安を解消するための「権威ではない、理による説得」、つまり私たち／大衆がしっかりとした議論や対話をすることが必要になるだろう、それによって「自分たちの不安」を解消する努力をするべきだ、というのが筆者の考えなのです。

権威や権力には議論と対話で対抗する。これは精神医学的にはもちろん政治的にも社会的にも、遠まわりだけども、既存のシステムに抗するひとつの有力なアプローチでしょう。

ともあれ私たちは、めんどくさがって判断をだれかに預けてしまったり、だれかによって与えられたひとつの「観点」や「説明」、あるいは唯一だと教えられる「解答」だけを正しいと信じたりしてはいけない。仮に問題が難しく状況が複雑で不安が募ったとしても、議論と対話を続け、問題を自分たちで引き受けていかなければならない。そうしないと、権威や権力から身を守って自由を確保することはできない。これが1970年代の論者の、いちおうの結論でした。

そしてもちろん、いまでもそれは変わりません。

６８　頭で考えない、というところから考える

まだ「システム」にこだわっています。しつこいですね、すいません。

この世の中にはいろいろな「システム」があって、私たちはそれによって効率的に生活することができている。しかし、ときにその「システム」は頑迷な壁となって私たちをいらだたせる、なぜだろう、というのが私の出発点でした。

ひとつには、そのシステムが権威や権力になっていくからということがありました。

たとえば村上春樹先生の「壁と卵」の比喩では、「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとって硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです」、と表現されるような「なにか」になる。

この「なにか」とは、たとえば国家とか統治とか官僚制とかの「権威や権力」、あるいは資本制とか国際金融体制などということですね。村上先生は、そのとき自分は壁の前にある卵の側に立ちたいと言ったわけです。卵の側、つまり壊れやすくてもろく、不安定な生をおくり、そしてときに理の通らないことをやったりする生身の人間の側に立つ、と。

たびたび申しあげているように、その「システム」は、もともと私たち人間が、頭で「よかれ」と考えて作りあげてきたものであって、それ以外のものではありません。権威も権力も体制も、同じく私たちがみんなで作り上げてきたものです。ということはつまり、私たちは「自分たちの頭脳」が作りあげた「壁」に相対している、と言えるわけです。

おやおや、じゃ、どうしようもないじゃないか。不満や不安があったとしても、「卵」の側に立とうとしても、自分たちの頭が自分たちのために作ったものに文句いったり歯向かおうとしてもしょうがないじゃないか、などと嘆くのは、まだ早い。だってもしかしたら自分たちの頭とか理性なんて、あてにならないものかもしれないじゃないですか。あてにならないものが作った壁は、あてにならないものかもしれないじゃないですか。

ということで、ご紹介が遅くなりましたが、

「驚きの皮膚」（傳田光洋／講談社）には、こんな知見がしめされています。いわく、

脳にばかり信頼を置いてはいけない、人間の皮膚も軽視しなさんなよ。じつは皮膚には視覚、聴覚があり、記憶し、予知する能力があるのだ。

ほほう。ということは、皮膚には頭脳と同じく「考える力」があると主張されているわけですね。

「外部から情報がもたらされ、それを基に情報処理をおこない、（からだ）全身に生きるために必要な指示を出す、これを『考える』ということだとすると、表皮も『考えている』」

と、こう筆者はおっしゃる。これはいったいどういうことでしょう？

人間は、頭脳だけでなく皮膚でも情報処理をおこない、考えている。皮膚は頭脳とおなじように、その考えをもとにしてヒトという「システム」をつくり、日々フィードバックをしながら、「私」が快適な暮らしができるようにしている。ところで、いつも外部にさらされている皮膚の「考え」は、内部にある脳の考えのように閉じたものではなく、「外の社会にむかって開かれたシステム」である。だからそれは、つねに外部との触れ合いによって更新されるせいで、けっして自分ファーストで頑固なものなのではなく、柔軟に「他者の尊厳を認めるシステム」になりうる、ということなのです。これは以前「弱いロボット」でみた「オープンシステム」と同じですね。

具体的な例をご紹介しないとわかりにくいと思いますが、紙面の関係で割愛、すいません。

でもこれだけでもなんとなく感じることがあります。つまり、ヒトというシステムも、ヒトが作ったシステムも、本来は頭脳の考えだけでできあがったものではなかろう。皮膚という、いっけん下等で見過ごされがちな器官の考えによってもできているのだ、ということです。

そういえば100年ほど前に、夢野久作という作家が「ドグラ・マグラ（三一書房）」という奇想小説の中で、「脳髄はモノを考えるところに非ず」と書いていたことを思い出します。脳髄とか理性を信用するな。そんなものは西洋社会の考え方だ。じつは人間の細胞一つひとつには、過去の人間の歴史の記憶が保存されていて、それをもとに細胞がモノを考え、それに従っているのが「ヒト」なのだ、という主張を登場人物がしていたのでした。

極端にいえば脳が、つまり人間の理性が社会のシステムを作っているとばかりはいえない。そう考えてしまうと、できあがったシステムは理性的で正しいものと思いこまされ、それをまた理性によって改革するのは困難な作業になってしまう。脳は自分自身が作ったものを変えようとは思わないからだ。頭脳とか理性なんて、自分を疑えないという意味であてにならない。さらには、より理性的な「強い相手」にはめっぽう弱いという特徴もある。

解剖学者の養老孟司先生もそうだけど、脳と理性をきちんと疑う人も多くいるのですね。

では話をまとめます。まとまらないと思うけど。

「システム」は人間が脳の理性でつくる。でも「考える主体」として皮膚とか細胞とかまでを含めてみると、異なる観点もあることが分かる。つまりヒトの皮膚や細胞も「考えている」のなら、もちろん脳がつくった大きな壁のようなシステムを疑って変える方法もありうるはずだ。さらには皮膚や細胞に由来するシステムがあるとすれば、それは決して無茶苦茶なものではなく、生物学的にも政治学的にも成り立つはずだ・・・。　

いかがでしょう。じつは最新の研究でも、筋肉や脂肪から伝達される命令によって脳幹神経が動かされて、ヒトの考えや行動を決めているということもあります。そうなると、筋肉や脂肪が主人公の「システム」も想像できそうですね、脳の理性でつくられたシステムではなくて。

もしかしたら私たちはこのような視点から、「壁」に立ち向かう「卵」の側に、それも壁にぶつかっても壊れない「卵」の側に立つ方法が見つかるかもしれません。