ブックカフェデンオーナーブログ 第284回 2022.02.14

                  

「始末に負えないおじさんたち その7」

 

と、鶴見さんでキレイに終われればよかったのですが、どうしても
ご紹介しなければならない「始末に負えないひと」がいるので、お
つきあいをいただきたいのでした。

 

「全裸監督 ~村西とおる伝」(本橋信宏/新潮文庫)

 

AV監督の村西とおるさん。
どんな方か。本のカバーの紹介を思い切り拝借してしまいますと、
「ナイスですねえ――村西は、いわきから上京し、バーのボーイ、
百科事典・英会話教材の販売、英会話学校経営等を通し、対面で人
を口説くセールスの技術「応酬話法」を研ぎ澄ませていった。そし
て、ビニ本裏本の制作販売を経て、裸で駆け回った狂奔の季節を迎
える。前科7犯、借金50億、80年代半ばから90年代初頭に君臨
した「AVの帝王」村西とおるの半生と、あの騒がしかった時代を
描く傑作評伝。」

 

あら、結局、ついつい全部引用してしまいました。
でもすごい惹句です。簡潔に要領よく魅力を伝える、もう、その
見本のような文章だと私は思ったのでした。ちなみに、「ナイスです
ねえ」は、村西カントクが撮影の時に女優への声かけで使い、その
後テレビなどでも流行ったことばでした。

 

その紹介文の下にあるのがまた、スゴイ。
「人生、死んでしまいたいときには下を見ろ! おれがいる。」と
いう村西のことばと、「日本経済に必要なのは、村西とおるが手放さ
ない生への希望である」という、経済学者松原隆一郎先生のおこと
ばが書かれているのでした。

 

たいしたもんだよなあ。
ここまで言わせる本であり、主人公の生きざまであるということな
のです。もちろん本も売れましたし、山田孝之主演の映画もヒット
したのはご存じの方も多いはず。

 

で、私がこの本を読んで感じたことはなにかというと、
① これは悪党伝であるが、一種の英雄伝である。彼はナポレオンか!
② カントク村西の死生観がハンパないくらいしびれる。限界突破か!
③ 登場するAV女優たちの生きざまもすごい迫力で、ナマナマしい!
④ そして昭和の終わりの爛熟の時代を、ありありと写し取っている。

 

というもので、死生観ではたとえば「死がなければ何も感動しないし、
何も思わないよ。死があってこそ性のたぎりがある、その究極がエロ
スだろう」、てなことばが伝わっております。

 

が、私としては、それよりなにより、
⑤ 村西の「応酬話法」がすごくて、こりゃ始末に負えない!
と思ったのでした。
こりゃ、しろうとがまともに太刀打ちできない種類の、「悪いおじさ
ん」だ。

 

AV女優の話とか昭和のビニ本の話とかはまた別の機会にするとして、
彼の「応酬話法」とはどういうものか?
「応酬話法は根本的にはひとつの哲学だよね。『説得』の哲学ですよ」
と、村西は言います。

 

「人を説得するときには二つの条件が必要なんですね。まず、その人
をよく『理解』すること。、、、どういう考え方をこの人は持っているん
だろう、どういう人なんだろうってことをまず知る」。
「さらに何が必要か? 『情熱』ですよ。その情熱のバックグラウン
ドになるものは何なのかっていうと、『自分自身の成功体験』ですよ」。

 

成功体験とは、「私はこの人にこれだけのものを提供したら、こういう
ふうに喜んでもらえた。だからこれだけのものを提供したら、Aさんも
Bさんもまた同じように喜んでもらえる」、「そういう体験を確立するま
での歳月というものに汗水垂らしてがんばる」ということのようです。

 

「これを身につければ、男でも女でも口説けなくなる人はいなくなるん
ですよね。」「人が人を口説くときってのは、いつも流動的なんだ。その
人の直観力、センス、瞬発力なんですよ。だからそういうものを体系化
して、なにか方法論として方程式にすることはできないんだけれどもね。」

 

いいですねえ、すばらしいですねえ、ナイスですねえ。
私たちも見習って、勉強しなければいけませんねえ。
村西はこの応酬話法をひとつの武器に、業界を渡っていったのでした。

 

ところが、著者本橋さんに言わせると、こういうことがある。
村西の応酬話法を実際に駆使する職業がある。それは「ヤクザである」。
「彼らは言葉によって相手を意のままにあやつるテクニックを身につけ
ている」。

 

彼らは、毎日19時に放送されているNHKニュースを見ながら、「画
面に向かってキャスターにいちゃもんつけて、恐喝するテクニックを磨
いているのだ。相手の言葉尻をつかまえて徹底して痛めつけ、身ぐるみ
剥がしてしまう訓練を日ごろからしている」、のだそうです。

 

おそろしー! ナイスじゃないすねえ。
私たちも、この「悪の応酬話法」を勉強しなければいけませんねえ。
だって、自分がそれに巻き込まれないとも限らないのですから、対処法
を身につけておくに越したことはありません。

 

さてこの辺まで来ると、ほんとうに「危ない業界」の話ばかりになって
しまうのですけれど、村西カントクは、このような場所でシノギながら
世渡りをした方だったのでした。きっと、ここには書かれないようなウ
ラのウラの話なんてのもあるのでしょうね。

 

まったく始末に負えません。よいこは絶対にマネしないでください。
そんな彼はいま、どうしておられるのでしょうね。まさか、好々爺のお
じいさんになって、周囲のおばあさんと仲良く施設で幸せに暮らしてい
る、ということはないのでしょうね、知りたいっ!
、、、、、と思ってググッたら、いまでも元気にご活躍しているようでした。
しぶといっ! 

 

ブログ284

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第283回 2022.02.07

                

「始末に負えないおじさん その6」


自分のことを「悪人」だという思想家・哲学者鶴見俊輔さんのこと
ばは、以前にも取り上げたことがあります(第250回)。
そのときは親鸞の「歎異抄」の「悪人正機」との関連で、彼が、自
分というものがリスクの高い人間でわけのわからん奴だから、そん
なオレが自力でまっとうに往生できるわけがないじゃないか、と考
えていたのではないかと推察したのでした。

 

ただ彼が、自分を「悪人」としてどう生きたか、ということについ
ては、そう簡単には理解できるものではありません。
ましてや、「悪いおじさん」とか「始末に負えないひと」として、
こうこうこういう点で若い方の生き方に指針を示している、とはっ
きり指摘することも、私にとって難しいことです。

 

しかし関川夏央さんのインタビューによって少しわかることがあり、
今回はそれをご紹介したいと思いました。

 

「日本人は何を捨ててきたのか」(鶴見俊輔・関川夏央/筑摩書房)

 

略歴とか著作などはすべて省略しますが、鶴見さんは早熟で切れすぎ
る頭脳をもてあまし、いっぽうで母親の毒を全身に浴びつつもがき、
そのような自分の「弱さ」を糧に思想家として成熟していったのでし
た。

 

彼の性格や人間的にどんな方だったかを私は知る由もありませんが、
その発言やこの本の対談相手へのリスペクトのしかたなどからは、人
間の「弱さ」を知るものとしての共感と悲しみが感じられます。

 

「人間とししての弱さ」とは、なにか。
「(ベイトソンのいうダブル・バインドと同様に)お袋の正義の基準
を受け入れて、しかし個別に反抗する。パラドックスが生じてくる。
それが悪人意識です。自分が自分として生きるには、悪人として生き
るしかない」、彼は幼少期にそう思いこんでしまった。

 

すると彼にとっての正義とは、母親がその象徴である周囲の人間社会
に反するものとなる。たとえば、戦時中に「この戦争は負ける」とか
「はやく負けてほしいと願う」ことは正しいことであり(このへん、
なぜか金子、白洲、竹中父とおなじ認識)、自分の正義はこの認識か
らはしているのだけれど、にもかかわらず当時の社会から見たら「悪」
とみられるしかない。

 

しかしその状態を耐えることができたのも、「わたしの中の悪人がわた
しを助けてくれた」のであって、つまりは「悪人がわたしを生かして
いる」のだ。
この悪人は、「そのうちに癌の縮小みたいに小さくなっていくけれど、
しかし、これを手放したら俺は終わりだ」と彼は考えるのでした。

 

なんとなく彼のいう「悪人」の「悪人性」がわかってきたでしょうか。
彼のアイデンティティの中核に、ナマナマしい反抗心というか時代に
対する激しい姿勢があったということだと思うのです、

 

彼は逆に、「いいひと」とか「正義のひと」というのがいちばんいけな
い、とも言っています。
「真面目な人、いい人は困るなあ。正義の人ははた迷惑だ。いい人ほ
ど友だちとして頼りにならない。なにか事を起こすときに、悪人性が
少しある人を仲間にしたい。完全な善人は困るよ」と。

 

そうした意味の延長で、「『これが真理だ、手の内にいま自分は真理を
握っている』という感覚を、私は疑う」といいます。
われわれには綻びが必要なんだ。「終始一貫して完全に綻びのない体
系を作らない。そのように生きたい」、そして「いま生きている状況
の中での選択をする」。これが彼の身上です。
思想家・哲学者として頭だけで考えるのではなくて、なにごとも自分
の内部の深い場所に立って判断しているいることがわかります。

 

綻びのある、弱い人間、悪人という場所から考えを始める。
鶴見さんはそれによって、難しい哲学や思想だけでなく、大衆芸能や
文学、マンガにいたるまで広い範囲の文化を的確に評価し、いっぽう
ではべ平連はじめ多くの活動に参画して、実践の面でも戦後の日本に
爪痕を残した。

 

こういう老人になりたい。
そう思うのは私だけでしょうか。

 

ブログ283

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第282回 2022.02.01

 

「始末におえないおじさんたち その5」

 

始末におえない悪いおじさん、まだまだたくさんいますねー。
なかでもこの方の「悪さかげん」はなかなかだと思うのです。

 

「風雲ジャズ帖」(山下洋輔/音楽之友社)

 

日本のフリージャズの草分け、山下洋輔さん。
この本は、彼が20台後半から30台にかけて、年代でいうと1970
年前後、山下トリオ(ピアノ山下洋輔、テナーサックス中村誠、ド
ラムス森山威男)が絶好調のときに書かれた文章を集めたものです。
たぶん彼の処女出版ではないかな。

 

驚くのは、まず文章がうまい。うますぎること。
おかしいじゃないですか、一介のジャズマンが(って差別してます
けど)、最初からこんなわかりやすく面白い文章を書くなんて、ズル
いじゃないですか? サッチモやバードやロリンズがいい文章を書
いたなんて聞いたことあります?(これも差別ですけど)

 

そしてその文章から垣間見られるのは、たぶんこの方は社会人とし
てまっとうな方だということ。
そりゃあ、昭和のあの時代のことゆえ、前衛とかアバンギャルドと
いうことばの裏で、クスリでラリってパッパラパーとなることもあ
ったでしょうが、こと文章においてそんなところは一切感じられま
せん。まことに節度をわきまえた、自己洞察と内省の鍛錬の結果と
推察される節度ある表現に終始している。

 

それに加えて、演奏でジャズを弾いているだけでなく、研究として
「ブルーノート」とか「スウィング」というジャズに特有の、しか
しだれもうまく説明できない「魅力」を解明しようと努力している。
筒井康隆さんによれば、山下トリオは全員革命家であり、「山下が
理論家で、森山が実践家」なのでありました。

 

こういう時代を経て、小説を書き(「ドバラダ門」/朝日新聞出版)、
紫綬褒章や旭日小綬章といった勲章をもらい、80歳を超えた現在
でも現役のジャズマンとしてヒジ打ちでピアノの弦を壊し(しかも
スタンウェイ)、作曲してオーケストラと共演し、ベートーヴェンと
夢の中で対話すれば「即興演奏ではまだあなたには勝てない」など
とうそぶく。

 

、、、んっと、なんかまた誉めてばかりになってます?
じゃ、なぜこの方のことを「始末に負えない悪いおじさん」と言う
のか? それはね、、、このひとがなにか言い出すと、多くのひとが
後をついていく、いわば「ハーメルンの笛吹き男」だからなのだ。

 

たとえば「全冷中」というのがある。
彼が、「冬にラーメン屋で冷やし中華がないのはおかしい。オレは
冬でも冷やし中華が食べたいのだ」と宣言すると、たちまち多くの
賛同者を得て「全国冷やし中華連盟」という圧力団体(?)ができ
る。しかもその賛同者はたんなるフォロワーでは終わらず、冷やし
中華の起源の研究とか、寒い時の食べ方の研究とか勝手に運動をひ
っぱり、ついには冬にも冷やし中華を出す店がでてくる。

 

多くのひとに影響を与える、じつはそこに彼の、「他人が行う面白
いことを、きちんとウケて面白がる」という、評価者、リーダーと
しての特徴があるのではないか。

 

たとえば、メンバーの森山と中村が編み出して、のちに「ハナモゲ
ラ語」として世を席巻したハチャメチャ言葉を、だれよりも面白が
って広めた。
あるいは、ツアーの最中、宿泊するホテルの部屋に突然乱入してき
て芸をした無名の男を「きちんと」面白がり、その芸を称えて密室
芸と名づけ、赤塚不二夫とともに世に送り出す手助けをした。
その男がのちのタモリであったりする。

 

他人を的確に評価し、おもしろがり、巻き込んで波を起こす扇動家
という「悪いひと」。
理論家というだけでなく、「ジャズはヤンチャが演るヤンチャのため
のヤンチャな音楽なのだ。ヤクをやっても酒を飲んでも暴れまくっ
てもいいのだ。80過ぎてピアノをヒジ打ちで壊してもいいのだ。そ
うだろ?」的な部分は捨てないから、みんな乗せられてついていく。

 

しかしその根本のところでは、メンバーの音をよく聴き、一瞬にし
て呼吸を合わせる姿勢と、その結果を新鮮に「驚ける」彼の能力が、
実人生のなかでも多くの偶然を引き寄せていくのでした。
ね、このひと、ぜーったいに始末に負えないでしょ。
良い子は参考にしてください。

 

ブログ282

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第281回 2022.01.25

 

「始末に負えないおじさんたち その4」

 

竹中労こそは、「悪い人」としかいいようがない。
始末に負えないおじさんの範疇には、犯罪者や社会不適合者は勘定
に入れていないわけですが、なんとなくその手の「匂い」を濃厚に
醸し出しているのが竹中労さんという方でした。

 

「無頼の墓碑銘」(竹中労/KKベストセラーズ)

 

彼は、昭和を代表するトップ屋(おもに週刊誌の巻頭の記事を書く
フリーの記者。ときには、いまでいうパパラッチ的行動でネタを漁
ったので嫌われ、蔑んでそういわれることもある)であり、仕事上、
「そのスジ」の方々や、美空ひばりやアラカン(嵐寛寿郎)という
ビックネームとも深い交流があった。

 

そのいっぽうで日本赤軍に関与したり、平岡正明・太田龍とともに
窮民革命を唱導する「三バカトリオ」を結成したり、琉歌(沖縄民
謡)やバンドの「たま」に入れあげたりしたあげく、1991年に60
歳で逝去。いまから思えば、まだ若くして亡くなりました。

 

この本はそんな彼の晩年、病を得てから数年間の軌跡と文章を集め
たものです。
彼の父、画家でアナキストの竹中栄太郎は、太平洋戦争がはじまる
と、この戦争は速く負けると考え、学校の先生とか軍人のいうこと
を信用しないようにと、息子をしつけた。
親父のこのへんの状況判断は、金子、白洲といっしょ。

 

その息子は子どものころからわんぱくで不良、学徒動員中にも悪さ
はおさまらずケンカを続け、戦後は上野の地下道で赤旗振ったり、
殴り込みを指揮したりしてつかまる。いい意味では「アカ」だけど、
その実態は戦後の愚連隊みたいなもの。
つまり「無頼」、このことばはいまでは死語でしょうか。

 

その後、ルポライターというゴシップ系の文筆業になる。
「結婚式とか妊娠とか、そんなことまで売っている人(タレントさ
ん)に、都合の悪いプライバシーや自分に害のあるプライバシーは
書いてくれるな、なんて、そんなムシのいい話ってあるわけがない」、
という姿勢だった。
ちなみにこの考え方は、のちの梨本さんとかの、いわゆる「芸能リ
ポーター」にも引き継がれていきます。

 

ここまででまず、彼が硬派のおじさんであり、危ない渡世をくぐっ
てきたやっかいなひとだということが、おわかりいただけると思い
ます。
しかしこの本の一番の読みどころは、彼が自分の人生の軌跡と重ね
合わせるように中国の古典と向き合う「桃源、イズクニアリヤ ~ 
中国の詩人と禅」という第二部なのでした。

 

その序章「刺青と革命」では水滸伝を論じ、登場人物のなかの花和
尚魯智深(いれずみおしょう ろちしん)に思いをいたし、第一章
では孤高の詩人李賀と毛沢東を並べて論じ、李賀から同時代の黄檗
や臨済の禅にとび、王安石とか屈原、魯迅、白蓮教やら秘密結社な
どを縦横無尽に論じて、また水滸伝や李賀にもどる。

 

ああ、ひと昔前の悪いおじさんの先輩方は、教養が深かったなア。
竹中労も、いろいろなことに手を出して、いったいこのひとはなに
を目指しているんだろうと思わせるんですけど、そのあたりは牛丼
に乗せる数々のトッピングのようなものであり、人生の土台となる
飯と牛肉の部分はかくもしっかり教養によって固められている。

 

そしてアナキズム、窮民革命、権力への反発、そして芸能、それら
はすべてこの土台から生まれている。

 

この本にはこんなことが書かれています。
あなたは世界各地を回っているが、いったいなにを探しているのか、
と問われて、彼はこう答えます。
「風と水のリズムだ。それは日本人が一番失っているものだ」と。
うひゃ、かっこいい!

 

「風はね、おしめの干してある裏窓を吹くんですよ。水は、ドブの
中を流れるんです。」「窮民社会では、香港の木屋区、バンコクのク
ロントイ、マニラなんかもとりわけサンターナとかパコとかの下町。
そのおしめの窓を吹く風、ドブ板の下を流れる水を求めて、そうい
うルポルタージュが書きたかったんです。」


                                                                                                                                          
私は、ここに竹中の本音が表われているように思いました。
これは安っぽい「ポエム」ではないですよ、往年の教養人の根幹に
ある「リリシズム」です。
その意味で彼のいう死語に近い無頼とは、「きまった職業につかず、
気の向くままに、社会のきまりにそむく生活をする人」(角川必携国
語辞典)であることは確かですが、その行ないが反社会的な不良と
は違うことに気づかされるのでした。

 

だから文章のはざまに彼の本音が見えるとき、私はその生きざまに
いっそう惹かれてしまいます。
それを、「始末に負えないひと」が持つ固有のパワー、とりわけ昭和
的な情熱のせいだといってしまえばそれまでなのですけれど、我々も
彼らからなにかを引き継いでいることは確かではないかと思います。

 

その「なにか」がうまくことばにならないのですけど、ただしちょっ
と危険なところがあるので、良い子はあまり研究しないでね。

 

 

ブログ281

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第280回 2022.01.16

 

「始末に負えないおじさんたち その3」

 

ちょっと前に「老人の壁」(毎日新聞出版)で登場いただいた、解
剖学者養老先生の再登場。
専門家のくせに、先生ほど素直に、歯に衣を着せず、ふつうのこと
ばで、あたりまえのこと(先生が思っている)を話す方はいないの
ではないでしょうか。
だから逆に、世間的にはまったく「始末に負えない年寄り」という
ことになります。

 

「養老孟司の大言論 Ⅰ 希望とは自分が変わること
             Ⅱ 嫌いなことから人は学ぶ
             Ⅲ 大切なことは言葉にならない」(養老孟司/新潮社)

 

著書「唯脳論」(青土社)で、現代人は意識中心の世界に生きてい
ると喝破した先生。その考え方の芯がしっかりしているので、多く
の前提をひっくり返し、どんな問題に対しても世間の常識をなぎ倒
す見方を出していきます。

 

だから、先生にとって門外漢であるはずの政治や宗教についても、
その「芯」をもとに考えることができるのでしょう。
「私は純粋行為至上主義者なのである。そのもの自体が目的である
行為のみが純粋な行為、すなわち正しい行為だと信じる」。
これが先生の「芯」。人間の思い込みや質の悪い目的など、いらない。
目の前のナマ物だけを相手にする。だって、解剖学者だから。

 

たとえばネットについて、「ネットに出てくるのは、つねに『だれか
の頭を通ったもの』である。現物(つまりナマ物)以外に、考える
動機を真に与えてくれるものはない」といいます。

 

また日本については、「日本には近代的な自我があったのではない。
家制度があったのだ。家とは、西欧の個々の市民に相当した『公的
に認められた私的空間』だった」。
経済については、「現在の日本国でもっとも採算がとれていない事業
とはなにか。(借金を重ねる)日本国そのものであろう」と。

 

そのほか、「都会人は予測と統御が成り立たない仕事を避ける。だか
ら少子化なのである」「規制を続ける社会の未来は、少子化に見るよ
うに明らかである。意識つまり『現在の自分の考え』が把握できる範
囲でしか行動しない。それならその社会はその意味で縮小の一途をた
どるはずである」、などなど、いちいちおもしろく、そうだそうだと
思わされてしまいませんか?

 

さらにさらに、「神とはなにか。宗教の最初に置かれる『真っ赤なウ
ソ』である。最初に最大のウソをおくとき、あとはほとんどすべてが
『ウソから出たマコト』になりうる」、に至っては!

 

こういう、先生のもつ解剖用の切れ味鋭いメス、つまり考え方の芯に
よって、私たちの考え方はバサバサと切られてしまう。まるでエリッ
ク・ドルフィーのバスクラがいなないて、脳にパンチを食らったかの
ような(すいません、わかりにくい譬えで)気分になります。

 

こういう、考えようによってはちょっと怖い切り口を提示しておいて、
ただし先生も、「前提をひっくり返す議論は、どこの世界でも人気が
ない」とおっしゃって、達観しておられますね。
そう、この「前提をひっくり返す」ところが、始末に負えない人の特
徴なのでした。

 

さて、えーっと、ところで、なんで私は「始末に負えないおじさん」
をこうして追いかけているのでしたっけ?
あ、そうそう、バランスのとれた老人になるためには、こういうおじ
さんたちから学べることが多いのではないか、高齢者の陥りがちな闇
を逃れられるのではないか、と若者に説教をたれるつもりだったので
した。

 

先生に、こんなおことばがあります。
「(若者は)『他人にわかってもらえない』その『自分』を、『個性を
もったこの私』と思いこむ。それによって、自分を正当化する。そこ
で欠けてしまうのは、相手にわかってもらう努力である。じつは『わ
かってもらえない』のではない、当人が『わかっていない』だけであ
る」。

 

どうでしょう?
脳と意識に頼ってばかりいると、頑固で利己的で愚痴っぽくて疑い深
い、依存的で短気な老人になるよ、って言われているような気になり
ませんか。

 

私はもう若者ではないけれど、先生の本を読むたびに叱られている気
がしてなりません。もっと目の前のナマの現物に向き合えよ、と。
ぜひみなさんも、先生の考え方と生き方を見習って、今のうちから
「常識を疑って前提をひっくり返す」タイプの、始末に負えないひと
に育ってください・・・と、ああ、なんか違う結論になっちゃった気
がするなあ。

 

ブログ280

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第279回 2022.01.10

 

「始末に負えないおじさんたち」その2

 

最近は「悪いおじさん」が少なくなってきたように思います。
「悪いおじさん」とは、青少年の反面教師になるような不良のおじ
さんのこと。それもただの不良ではなく、ある道を突き詰めていっ
て、ああいう生き方もアリだな、と周囲に思わせるなにかを身につ
けてきたひとのことです。

 

「悪い」というと語弊があるので、ここでは「始末に負えないおじ
さん」としておきましょうね。

 

たとえば金子光晴のような精神の放浪者であったり、筒井康隆のよ
うな性悪だったり、阿佐田哲也のようなギャンブラーだったり、
大杉栄のようなひとたらしのアナキストであったり、植草甚一のよ
うな時代錯誤のスタイリストだったり、平岡正明のような天才文筆
家兼革命家であったり、みずからを「悪人」だといって威張ってい
た鶴見俊輔だったり、、、ひとクセもふたクセもあるような人たちの
ことです。

 

そういうおじさんがいなくなった。
あのように生きたいと思わせて、いやいや、それではイカンと思い
直させ、でもいつのまにか自分の行動規範の一部になってしまうよ
うな強い個性をもったひと、それを「始末に負えないおじさん」と
言いたいのでした。

 

「風の男 白洲次郎」(青柳恵介/新潮社)

このひとも始末に負えないひとだなあ。
戦前から英国紳士の気概とマナーを身につけ、プリンシパル(原理
原則)を重んじ、戦後は正式な官職はないのに吉田茂首相の懐刀と
してGHQ(占領軍総司令部)との折衝にあたり、アメリカ人に白
洲はやっかいな奴だと怖れられ、その後は貿易庁の長官や東北電力
の会長などを歴任した、ご存じ白洲正子さんの旦那さん。

 

経歴はともかくとして、戦後の日本を支えたそんな立派なひとが、
なぜ始末に負えないじいさんなのか。
はい、それをこの本を参考に説明してまいりましょう。

 

彼は若い時、いまでいう「やんちゃ」だった。
「彼は背が高く、訥弁で、乱暴もので、癇癪もち」で「生粋の野蛮
人」といわれた。本人曰く、「不良だったので島流しにあっった。
どこへ。イギリスっていう島さ」。

 

彼は、直言のひとであった。口も悪かった。
「軍人は戦争のことだけ考えていりゃいいじゃないか。軍が政治や
経済にまで口出すなんていうのは、とんでもない話だ」と、軍人に
向かって放言した。妥協も忖度もせず、空気を読んだりもしなかっ
た。

 

彼は的確な情勢判断ができた。
日本は戦争に負けるといって、戦争中は妻の白洲正子とともに鶴川
村に武相荘(ぶあいそう)という家をつくって引きこもり、野菜を
育てて生活した。
このへん、同時代人の金子光晴の判断と軌を一にしている。

 

彼はカントリージェントルマンだった。
白洲正子曰く、「彼は八十歳に達してからもポルシェを乗り回し、、、
地方に住んでいて、中央の政治に目を光らせている、、、そして、い
ざ鎌倉という時は、中央へ出て行って彼らの姿勢を正すひと」だと。
彼は、そんな妻の白洲正子を大事にし、また、肩書や職業に関係な
く人を扱った。部下や若い者からも慕われた。

 

なんだ、欠点がないじゃないか。
そんなのずるいじゃないか、そう思いません? 
まったく始末に負えないじいさんである。悪い人である。
やることなすことすべからくカッコイイもんで、いまでいうインフ
ルエンサーみたいなもんだから、彼を真似しようとする輩がでてき
たのも無理からぬことではありました。

 

たとえば、若いうちは少しやんちゃをして「不良」と呼ばれ、その
後改心して会社で社長に可愛がられ、若くして結婚してジモトに家
庭をもち、リーダーとしても年下や部下から慕われるようになり、
やがて引退して趣味の世界で名を成すが社会的な影響力は失わない、
そんに生き方がいいな、みたいに思うフォロワーが出てくる。

 

そんなまがいものの模倣者は、年とってからもやたらジーパンはい
てみたりする。あるいは金に飽かせてロンドンで背広を作らせたり、
成り上がりには似合わない真っ赤なポルシェに乗って、山口百恵に
「ぼうや」と呼ばれたりする。かと思えば、似合わない帽子をかぶ
り、わざわざべらんめえ調で話したり偽悪ぶった物言いをしたりし
て、口が曲がってしまったりする。

 

みんなどうして気づかなかったのでしょうか、白洲のマネなんかし
てはいけないのだと。
すべて白洲次郎という特異なひとのせいで、のちの世代が悪影響を
受けたのです。もしかしたら、白洲を目標にしたおかげで、理性と
感情のバランスがとれた老人になったひとがいるのかもしれないが、
そんなケースは稀でしょうね。

 

困るんだよなア、こういうじいさんがいると。
あれ、またまた若いかたの参考になりませんでしたか。

 

ぶろぐ279

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第278回 2021.12.26

 

「始末に負えないおじさんたち その1」

 

老いても穏健な社会人であり、いつも機嫌よくあり、精神のバラン
スも良く、老いの闇を周囲に感じさせないでいるためには、どうし
たらいいか。
ひとつは、あまりに高齢になる前にいま現在の生き方を見直して、
訓練をしておくことかもしれません。

 

高齢者の嫌な特徴を身につけてしまう前に、つまり、老いても感情
と理性のバランスをとるために、若いときになにかしらの「限界」
を体得しておく必要もあるのかもしれないと言いたかったのです。

 

限界とはなにか。
たとえば「他人に迷惑をかけること」とか「金を浪費すること」と
か「ことばで危害を与える」とか、そうしたものごとが人間として、
あるいは社会的にどのていど許容されるのか?
さらには、自分としてそれらをどのていど許容するのか? そうい
うことを試して、体感しておくことが大事な気がするのです。

 

ま、こう申している私など、じつはあまりそういうエクササイズを
してこなかったという反省があるのですね。

 

「詩人 金子光晴自伝」(金子光晴/平凡社)

 

大正から戦後の昭和まで確約した詩人金子光晴は、そんな意味で、
限界まで行った方かもしれません。
彼はこの自伝で自ら、自分はなぜ詩人となったのだろうかと問い、
そしてその答えを探していきます。だからここには金子のすべての
精神史、つまり限界への挑み方の実践が、自身のとんでもなく強い
記憶力によって描かれているのでした。

 

彼は「詩によっていかによい生き方ができるか?」を考え、フラン
スの詩人ヴァルハーランからは「大きな骨格と深い息」を学び、い
わゆる「高踏派」の詩を書いていきました。
もちろん、詩人として一定の評価を得た方でした。

 

しかしこの自伝で、「本人としては、おもわぬ仕事で一生を費やし
た」と悔いている。「柄にもない仕事として詩人あつかいされるの
が、気恥ずかしくておちつかない気持ち」を持ちつつづけたみたい。

 

じつは私も読者としては、金子の詩よりも、自伝や旅行記や評論に
みる彼の生き方に魅力を感じていたほうなので、金子自身が感じて
いた違和感がわかるような気もするのでした。
彼は書きます。「虚栄心、浪費癖、遊情な精神、耽美的傾向、それら
はそれぞれ『地獄』に通じる道の途上にあるアクセサリーであった。」

 

たぶん彼は自分でもわかっていたのです。
「なにかが出発点でまちがっている。なにかのひどい犠牲になって
自分がここにいる」などと告白する人間、あるいは「内なる感情を
誰にも知られたくないために、僕はその頃(少年)から二重底の人
間になった。じぶんの心の中にいる『鬼』の性をかくさねばならな
かったのだ」と書くような人間は、どうしたって周囲から扱いにく
いひととか、悪人として分類されるはずですから。

 

きっと近しい人は彼に振り回されたでしょうね。
「平々凡々たる人間の典型で、その故にこそ内々たるじぶんから脱
却したくて謀反をおこして、収拾のつかない結果を引き出し、じぶ
んの浅はかの尻ぬぐいであくせくした日をおくってきた。」
そんな彼に振り回されなかったのは、彼よりも自我の強い、奥さん
の森三千代くらいだったでしょう。

 

こうして、「他人に迷惑をかけること」とか「金を浪費すること」
を一生懸命続けた結果、彼が感情や理性のバランスのとれた人間と
して老成し、詩人としても「世界の見方を変える、本質的な予言に
満ちたファンタジーの領土」をつくった、、、、、となれば、若い方の
良いお手本となってメデタシメデタシということなんですが、そう
はいかない。

 

彼は最後までやりたい放題。
限界まで行ったけどそこで引き返さずに、「限界突破」してしまった。
しかもそれを楽しんでいた、そこがいちばん悪いおじさんなのです。
彼は、自分のすべての精神史がこの「自伝」に書いてあるなんて言い
ましたたけど、そんなのウソです。

 

結局彼は、他人から自分を隠し、矛盾する自分を楽しみ、偽悪的な吐
露を重ね、それを糧に文筆活動をつづけた、そんな始末に負えない老
人でした。
それは、彼のほかの自伝的旅行記や評論を読めばわかることですし、
この「自伝」を書いていたころの行動(主役の関根恵子が美しい映画
「ラブレター」(にっかつ)にもなった、若い女性との恋愛)などを
みればわかることです。

 

このように、幾重にもウソに近いヴェールをかぶせて仕上げた作品、
ただしそれが本音とも織り交ぜられて匂ってくるような作品、それ
が詩も含めて、金子の書いたものの魅力なのかもしれませんね。
ということで、この文学者は老成や成熟をめざさず、精神の放浪者と
いう位置に居続けた。その意味で、若い方にはあまり参考にならない
「いちばんたちの悪い」おじさんでした。
すいません。じゃあ、なぜ、このひとを取り上げた?

 

ブログ278

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第277回 2021.12.20

 

「とはいえ、若者に物申すならば」

 

当カフェに来られる若い方は総じて礼儀正しいと、オジサンのマスタ
ーは感じています。
注文のときは「お願いします」、配膳すると「ありがとうございます」、
会計では「ごちそうさまでした」。
こういうきちんとしたあいさつができるって、いいじゃありませんか。
オジサンはいつも感動しています。

 

ところが、そんなマスターにもちょっとヘソ曲がりの虫がうずくとき
があって、「あれー、若者たちよ、少し礼儀正しすぎやしないか」と
思ってしまうのです。
なんか、背中にむずがゆさを感じる。なんだろう、この感触。

 

もしかして、、、もしかしてですよ、公共の場では周囲に礼儀正しくし
ておけば「無難」だ、そのほうがリスクが少ない、彼らはそう考えて
行動しているだけではないのか。

 

あるいは、社会人としていい会社に就職するためには、少なくとも外
面(そとづら)は整えて、ことば遣いも丁寧にしておいたほうが有利
だ、いつどこでだれに見られているかわからないから普段からそうし
ておこう、などという打算があるのではないか。そして、幼いころか
ら学校でそういう教育を受けてきたのではないか。
・・・いや、考えすぎですよね。はい、考えすぎです。でも、

 

「従順さのどこがいけないのか」(将棋面貴巳/ちくまプリマ―新書)

 

によれば、いまの若い方々は自分の行動について、「みんなそうしてい
るよ」とか「まわりに合わせる」とか「ルールだからしょうがない」
とか「先生にそう言われたから」とか、そんな理由を言うことが多く
なっているのだそうです。

 

ほんとにそうなのかな。それだとちょっと気になりますね。
おじさんたちは、時代が進めば進むほど若者の自立意識が強まり、多
様性を当然のものとして生きていくのだろう、などと思っていたので
すが、そうでもないのかな。同調指向が強くなっているのかな。

 

他人との摩擦を避け、自分にも他人にもリスクの生じない「かわいい」
ということばを連発し(第246回を参照ください)、ひとと違うことを
したり、ゴリゴリと自己主張するのはダサいと思われるのかな。
あまり目立つとSNSでなに書かれるかわからないし、まわりで理不
尽なできごとがあっても見て見ぬふりをするようになったとか。

 

また、「自分が多数派だとわかったら安心しました」とか「すぐに反
対の声が出てくる。そういう人のほうが独善的だという気がします」、
などという若者が多くなったのか(本誌第227回もご参照ください)。
こうして彼らは「従順に」暮らすことを是としているように見える
のでした。

 

でもちょっと考えてみて、と筆者は若者に訴えかけます。
世の中に従順に生きていくだけでは、なにも変わらないではないか。
極端に言えば、人間はもともと「神に対する不服従という罪を犯すこ
とによって、みずからの意思で自分の運命を切り開く存在になった」。
そしてカミュは言った、「われ反抗す、ゆえにわれら在り」。
サルトルもこう言った、「我々とは、我々の選択である」。

 

若者よ、なにかの権威やだれかの意見に従順に従うだけでは、あなた
は支配されてしまうのだ。
若者よ、あなた方にはもっと「怒り」の発出と、「市民的不服従」が
必要ではないのか。自分を押さえつけるな。まずいことに対しては、
「誰かが声を上げなければいけない」し、「他人はともあれ、まず自
分が声を上げる」のだ。
ゲルダ・トゥーンベリさんもそうだっただろ。

すいません、筆者とオジサンマスターの意見がグチャグチャに入り混
じってしまいました。
しかし、奇妙にみえるほどに礼儀正しく物静かな若者を、「ありがとー
ございましたー」と見送っていると、私は彼らにどういう責任を負っ
ているのだろうかとか考えつつも、なんかこうひとこと言いたくなる
マスターでした。

 

ところが、そういう礼儀正しい若者ほど、お帰りのあとでテーブルの
上が水浸しになっていたり、椅子の下がケーキのくずだらけだったり、
トイレの洗面台がグチャグチャになっていたりすることもあるのも事
実です。
従順で礼儀正しいのもいいけれど、見られていないところも気をつけ
ろよ、ってこともあったりして。

 

ブログ277

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第276回 2021.12.11

 

「未来の世代への責任」

 

2021年10月の総選挙では、新自由主義によって生じてしまった格
差を埋めていくための「分配」の方法が、争点のひとつになってい
ました。たしかにその議論は大事なのものだと思います。

 

ところが、その「分配」の原資をどこに求めるかというと、いまま
で同様に赤字国債を発行するみたいな政策が多かったようです。
えーっと、ちょっと待って。
それは将来世代からの「前借り」を重ねることではありませんか、
どうですか? 本来の「再分配(いま手元に集めたものを原資とし
て、必要なところに多く分ける)」の考え方と矛盾してませんか? 

 

考えてみてください。
赤字国債もそうだけど、地球環境の破壊なども含めて、私たちは今
後数世代にわたって生活と命を脅かすことになりかねないことを、
いまやっている。それは未来の財産を前借りしているようなもので
す。その責任と始末、つまり「落としまえ」は、いつ、だれが、ど
うとるのですか?

 

・・・とまあ、偉そうに能書きをたれたわけですが、こういうこと
をずいぶん前から「未来倫理」という形で考えていた方がおられて、
その難しい議論をうまく解説してくれる本が出ましたので、紹介さ
せていただきたいと思いました。

 

「ハンス・ヨナスを読む」(戸谷洋志/堀之内出版)

 

ハンナ・アーレントとも交流があった、20世紀中葉の哲学者ヨナス
先生の「未来倫理」とは、結論的にいうと、「あなたの行為を原因と
する影響が、地上における真に人間らしい生き方の存続と両立する
ように行為せよ」とするものでした。
なんとなくカント先生とかロールズ先生の倫理の匂いが感じられま
すね。

 

ヨナス先生はこう言います。
われわれは、将来世代にも真に人間らしい生き方してほしいと望む。
それならば、「未来からの前借り」は避けなければならない。
ことは赤字国債のような日本の財政だけの問題ではないのだ(これ
は私の独り言)。
われわれの子ども、孫、これから生まれる人たちの生命と生活を想
像し、それをケアしなければならない。ケアしあわねばならない。
「落としまえ」とは、「ケア」のことだ(これも私の独り言)。

 

ところが「そもそも『進歩』とは、テクノロジーそれ自身に属する
推進力であり」、人間は「テクノロジーを進歩させないことができな
い」のである。バカな生き物なのである。
でも考えてほしい。テクノロジーそのものには所与の「目的」がな
いではないか。つまりテクノロジーを限界づけるものがないのだ。
だからガードレールがない。倫理がない。あれもない、これもない。
だからテクノロジーはどこに向かうかわからないものなのだし、だ
れの許しも得ず、平気で前借りをする。そして返さない。

 

我々は「原爆は進歩か? 遺伝子工学は進歩か?」、「どこでどのよ
うに前借りしているか?」「それは返せるのか」、そう問わねばなら
ない。
すると、「テクノロジーにおいては破壊力が悪ですらなくなる(戸
谷)」し、「有用性」だけが判断基準になっているのだ、ということ
が、あなたにもわかってくるはずだ。

 

ここでふたたび問うならば、その「有用性」とは、なにに対する有
用性なのか。なにに対して有益か、なにに役立つのか?
その問いに背を向けていると、「逆に人間の価値が失われたり、倫
理的に思考する可能性じたいが失われ」、結果として未来の世代に
被害を及ぼすことになるのだ。リスクを増やしているだけなのだ。
「進歩」とは、人間の「信仰」でしかないのだ。

 

・・・と、こうしてみてくると、ヨナス先生の考え方は進歩主義的
な歴史観の否定なのかな、という気がしてきました。
「技術的な能力のすべての使用は、社会によってり巨大なものへと
成長していく傾向をもつ。(中略) 私たちがここでおこなうことに
よって、私たちはどかで、未来で莫大な数の生命に容赦なく悪影響
を及ぼしてしまう。その際、そうした生命たちは声を発することが
できない。私たちは現在の刹那的な利益と必要のために、未来の生
命を担保にしている。」

 

君たちに未来の責任がとれるのか。どう責任をとるのか。進化だけ
を目的とするテクノロジーに支配されないようにできるか。いまの
自分たちさえよければいいと思っていないか。

 

先生の問いは苛烈です。この問いにどう答えるのか。
同じように、たとえばグレタ・トゥンベリさんのような若い世代
から、環境保護について既存の社会システムの変革をもとめられ
るとき、私たちはどう答えるのか。

 

もっといえば、まだ生まれていない未来の世代と、前借りや担保
について「話し合い」をするにはどうしたらいいか。彼らを「ケ
ア」するにはどうするか。想像上であっても、その話し合いでな
んらかの合意を得る条件とはなにか?

 

そのうえ、ヨナス先生から「これからは一見して安全なもの、平
和なもの、有益・有用なものにも絶えず疑いの持つことが必要だ」
とクギを刺された日にゃもう、私たちはすでにだれかに大変な借
りを背負っちゃっているのだなア、といやがうえにも背筋がピン
とするばかりです。

 

関連してもうひとつ。
私たちの「仕事」が「ブルシット・ジョブ」にならないためには、
「まだ存在しないものへのケア(ミシェル・フーコー)」は欠かせ
ないのであって、未来の世代と世の中に最大限の気配りをもって
負債を残さないことも、「エッセンシャル・ワーク」の要件といえ
るのかもしれない、、、、、とまあ、これからの仕事の仕方につなが
る方向にも視野に広げておきましょうか。

 

ブログ276

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第275回 2021.12.06

 

「クソどうでもいい仕事って、すごい表現だけど」

 

コロナ禍では、「エッセンシャル・ワーカー」ということばが生まれ
て広がっていきました。
エッセンシャル・ワーカーとは、人々の生活の根幹を支える職業に
従事する人のことで、医療や福祉、保育や第一次産業、行政サービ
ス、物流や小売業、そしてごみの収集から各種のライフラインの維
持管理などが含まれています。

 

ご苦労様です、ほんとうに感謝です(ジョン・カビラさん風に)!
ええっと、でも待って、ブックカフェはそれには入っていない?
私ことマスターはエッセンシャル・ワーカーではない? 人々の生
活の根幹を支えているわけではない? およびじゃない?(植木等
風に)こりゃまた、失礼いたしましたっ、と。

 

ただ世の中には、エッセンシャル・ワークのような「リアル・ジョ
ブ」とは正反対の、「ブルシット・ジョブ」というのがあるような
ので、それはそれできちんとご紹介しておくべきと思いました。

 

「ブルシット・ジョブ ~クソどうでもいい仕事の理論」
(デヴィッド・グレーバー/岩波書店)

 

グレーバーさんの本を取り上げるのは、これで三度目になります。
やや偏愛の気味がありますね、すいません。すごい書名ですしね。
しかしほんのオビに、
「なぜ、やりがいを感じずに働くひとが多いのか」
「なぜ、ムダで無意味な仕事が増えているのか」
「なぜ、社会のためになる職業ほど給与が低いのか」
なんて文字を見かけたら、きちんと読んでご紹介せざるを得ないで
はありませんか!

 

オビには続いて、「労働とは『生産』というより『ケア』だ。そし
て『経済』とは私たちが互いにケアし、生存を支え合うための方法
なのだ」、なんて書かれていたら、もうそれだけでノックアウトで
すよね、いや、いい意味で。

 

まず「ブルシット(クソどうでもいい)・ジョブ」とはなにか?
働いている本人にとっても「正当化しがたいほど完璧に無意味で、
不必要で有害でもある雇用形態」だそうです。
つまり、なくなってもだれも困らない仕事。社会に役立っていると
感じられない仕事。会社では、ひとを管理したり評価したり、ある
いは合理化ばかりしている仕事。にもかかわらず、エッセンシャル
・ワーカーよりも高い給料をもらっていたりする仕事。

 

じつはかなり多くのひとが、自分の仕事はブルシット・ジョブだと
感じているようで、たとえば英国の世論調査では「あなたの仕事は
世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対して、
37%が「していない」と答えているらしい。

 

ああ、これはよくわかります。
私の経験でも、「売れない雑誌の広告営業」とか、「伸ばせるはずも
ない能力の育成支援」とか、「部下の人事考課を行う管理職」とか、
似たような無益感というか無力感というか「会社にも世の中にも貢
献していない感」を味わうことが多かったものです。

 

グレーバーさんは、こういうブルシット・ジョブが増えたことにつ
いて、管理部門の膨張や金融サービスなどの新しい職の増加、企業
法務や人材管理などの部門の拡張にも原因があると言っています。
そうなのでしょうね。

 

でもそうした「原因」よりも重要なことは、「無意味な仕事に就いて
いる多くのひとが、そのことに気づき悩んでいる」という事実かも
しれません。

 

つまり、いまやだれもが、自分のやっていることが世の中にとって
有益か否かを気にしている。だれかの権力の支配下で賃仕事をして
いるのではないかとか、進歩とか効率性ばかり考えていないかとか、
あるいは、ほんとうに自分のために働いているか、正当な対価をも
らっているだろうか、などということに意識的になっているのだと
思います。

 

たぶん逆に、エッセンシャル・ワーカーと呼ばれる方々のほうが、
自分の仕事に対して誇りややりがいを持ちやすいし、対価の正当性
を感じやすいのではないかという気もいたします。

 

とすると、ここでの「問い」はあきらかです。
働く者として、自分の尊厳と自尊心を高めるにはどうしたらいい
か?
そのためには、「世の中への貢献」という意識をはっきりもって実
感できなければいけないのではないか? ブックカフェがエッセン
シャルワークの場にふさわしくなるためには、なにが必要か?

 

これらの問いを解くヒントとして、IT化や自動化がどう進もうが、
生産・経済活動を、「互いにケアしつつ生存を支え合うための仕事」
にする、という捉えなおしをすべきではないか?
私たちが互いにケアしあう経済に参加しているという実感を、気持
ちよく晴れた物干し場の洗濯物のように感じられるために。
もちろん、ブックカフェも。

 

ブログ275

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第274回 2021.11.30

 

「能力主義のゆくえ」

 

会社勤めをやめてカフェマスターになってから思うのは、企業で盛
んにいわれた「能力主義」という考え方と評価のしかたに、限界が
あるのではないかということでした。

 

今の世の中では、成果・実績とともに「能力があると認められる者」
に地位と名誉と報酬が与えられるのですが、その「能力」というの
が、会社ではだれによって認められるかというと、もちろん「上司
・経営者」なわけです。
まずそこが問題で、経験上、そうした「評価者」は、客観的な基準
で適正に人を評価することなどできないのです(キッパリ)。

 

さらに、その評価者としての上司・経営者は、彼らの「上司・経営
者」から客観的な基準ではなく能力を認められてきた、つまりそれ
が長い間代々続いてきたということもあります。
つまり「なんとなく」の評価が「なんとなく」いまの状態を作り上
げてきたわけで、わが社における能力とはなにかとか、実績とはな
にかとか、「なんとなく」しか答えられなくなっているのです。

 

営業成績は実績としての客観的な数字じゃないか、それがそのひと
の能力を示しているじゃないか、というご意見はたしかにあると思
いますが、私のつたない経験から言わせていただければ、その数字
は単なる「結果」にすぎません。固有能力というより、けっこう偶
然に左右された結果であることが多いのです。

 

さらに大事なことに、これは言い過ぎかもしれませんが、ひとの能
力は教育や研修では向上しないということがあります。評価者訓練
をしても評価能力は向上しないし、営業研修をしても能力はのびない。
残念ながら、努力しても背は伸びない(またキッパリ)。
人材育成担当者のみなさま、ごめんなさい。でも、そうなんだもん。

 

その結果、会社組織では結果として、「出世する者が出世する」と
いう同義反復的な事態になります。
そして、「なんとなく」出世した人たちが、部下の「能力」を自分
の「能力」と比較しつつ評価して、なんとなくつぎに出世するひと
が決まっていく、という状態が続くのです。

 

じつは企業の人事担当者もそんなことは百も承知で、組合ともども、
生まれつきの「能力」に差はあれど、それを「機会の平等」によっ
て克服するひとを高評価するという旗を挙げて、「建前」としての
人事施策をおこなっている。
そういうことではないでしょうか。

 

さて問題は、そうなると、たしかな確証もなく処遇においてドンド
ン経済的格差が広がっていくわけで、それこそがいまの「能力・実
績主義」の「能力・実績主義的でない問題点」ということになるの
でした。

 

「実力も運のうち ~能力主義は正義か?」(マイケル・サンデル/早川書房)

 

を読んでも、個人の能力の問題ではなく、所得の高い家庭の子息がい
い大学(サンデル先生の勤めているハーバードなんかですね)に入っ
て、その後はいい会社に就職して高所得を得るようになるのだと、証
拠をもって書かれています。
それはまあ日本でもずっと言われていたことで、東大に入る学生の親
の年収は、平均の何倍もあるようです。というのも彼らは、医者や企
業幹部や官僚の子息が多いのですから。

 

問題はそれだけでなく、エリートになった彼らは、自分の努力と勤勉
のおかげでこうなったと思い込んでいるというのです。
環境はともかく、自分の努力と勤勉、つまり広い意味で能力があった
からだと信じている。
じつはこの本でサンデル先生は、「努力と才能で人は誰でも成功でき
る」という、こうしたいかにもアメリカンドリーム的な考え方に疑問
を呈しておられるのです。
これは市場原理主義的な「出世のレトリック」なのだと。

 

ほんらい、機会についても結果についても平等などということはなく、
私たちはつねに家族や社会の条件に制約を受け、偶然に左右されてい
る。
日本でも最近、若者のあいだでは「親ガチャ」ということばで、どん
な親から生まれたかで自分の将来が決まるという思い込みがはやって
いますものね。天賦の才能も育つ環境も平等なんかではありえない。
とうぜん努力と成果も、本人の力だけによるものとはならない。

 

「自分の成功は才能と努力のおかげ」と自負し、他人に対して「努力
が足りない」とか「自分で決めたことだろう」とか、自己決定・自己
責任の原則を振り回す「シン・自由主義」には気をつけろと先生はお
っしゃる。
だから「実力も運のうち」という書名になっているわけ。

 

思想的にもともと、「コミュニタリアン(共同体主義者)」に位置づ
けられる先生としては、「リバタリアン(新自由主義者)」のように、
「個人主義・自立と自己責任」ばかりを強調する人たちとは違う立場
なのでした。

 

先生はこさらにうおっしゃいます。
個人の自由と能力を信奉するひとが、自分の能力を生かして社会に貢
献するということになれば、それはそれでたいへんすばらしいことだ
が、「市場の需要に応えることは、何であれ、人びとがたまたま持っ
ている欲求や願望を満たすという問題に過ぎない」。
この社会で儲けることも社会貢献も、倫理的意義とか道徳的価値とは
次元の異なる話なのだと。

 

このへん、難しい議論になるところでしょうが、私はこう受け取りま
した。
ひとの「能力」は「社会的な正義」によって裏打ちされていなければ
ならない。「論語と算盤」の渋沢栄一を見よ。その会社の業績にいく
ら役立っていても、うつけの上司に目をかけられて給料が上がっても、
そんなことは君の価値には関係ないのだ。

 

たとえば高等教育では、「社会で働くのに必要な素養を学生に身につ
けさせるだけでなく、道徳的配慮のできるもの、有能な民主的市民と
なる心がまえを教え、共通善について熟慮する力を育む」という目的
があるはずだ。たとえばそれは「シティズン・シップ教育」として実
現できることだ。

 

最初に例に出した、会社のなかでベストパフォーマーとなった「能力
あるもの」は、たぶん、ある限られた範囲の中である限られた能力を
発揮することで評価された。彼にはこれからも、ある基準でのベスト
パフォーマンスを出し続けることが求められるし、そのことによって
でしか認められないだろう。
ことばを換えれば、会社では、正解はひとつしかないという前提で、
それに向かってもっとも速く合理的にたどりつくことばかり求められる。

 

すると彼にとっては、社会的な正義がどうだとか共通善がどうだとか、
広い世界に出て豊か知恵を獲得して社会の役に立つべきだ、なんてこ
とは考えられなくなってくる。だって、このシステムの中で自分の評
価を高めるためには、そんなこと考えるのはムダだから。

 

「能力」にしろ「成果」「実績」にしろ、あるいは「努力と勤勉」に
ついても、一企業内とか一省庁内の狭い範囲でしか考えられないので
あれば、袋小路にはまる。みずからの才能と努力が、逆に自分を「認
められる能力」というバブルのなかに閉じ込めてしまう。
・・・・危ない危ない。よかったあ、会社辞めといて。

 

ブログ274

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第273回 2021.11.22

 

「親の介護からあらためて知る」
                                                                                                                                     
老いた親の言動を見て、自分はどういう人間かと考えさせられるこ
とが多い今日この頃です。
いまさら、という気がしないでもありませんが、ここで新たになに
かに気づくとすればそれは、親を世話することには自分というもの
に気づく効用がある、ということになるでしょうか。

 

父親の頑固さ、頑迷さ、意のままにならない時の不機嫌さを見て、
うーむ、もしかしたられは自分にも当てはまるのかもしれないと思
っているところへ、父親の入院後に有料老人ホームに入所した母親
から、「あんたはうるさいわね」と一刀両断される。

 

認知レベルの下がった母親が、おまえはなんやかやと口出しをして
指示したがると言うのです。
うーむ、うーむ、言うとおりだ。当たっている。親の世話のなかで、
自分の性格にあらためて気づかされた。これはひとつの効用という
ものでした。

 

「驚きの介護民俗学」(六車由美/医学書院)

 

介護民俗学とは聞きなれないことばですが、筆者はもともと民俗学
の専門家ですから、たまたま介護職になって、施設で暮らすたくさ
んの高齢者からたくさんの自分史を聴いた結果、介護の過程で民俗
学が浮上してくるのでした。

 

まず筆者の「聞き取るチカラ」に敬意を表しましょう。
私たちが親の話を聴くときに、もう何回同じ話を聴くんだとか、そ
の話は本当なのかなどというふうに思いがちですけど、第三者とし
て現場にいる筆者は、すべての話をきちんと受けとめます。
つまり、認知症の方の話であっても、その人の人生を尊重して「聴
き出す」のでした。

 

民俗学のフィールドでは、「何度も同じムラに通いつめることによ
って調査対象の人々との信頼関係を結びながら、生活を体験し、見
て、聞くことで生活全体を観察していく」ということがあるそうで
す。で、介護の現場でも同じことをする。
すると、認知症の喜代子さんによる「で、あんた何町(に住んでい
るの)?」というくりかえされる問いに、相手が「同じ答えをくり
かえす」というやりとりのあと、「うちに遊びにいらっしゃい」とい
う「喜代子さんの『生きる方法』を象徴する言葉が導き出される」。

 

筆者のこの気づきが、聞き取るチカラゆえなのでしょうね。
そのことが民俗学という学問に含まれる、ひとりの個人が習慣や社
会や歴史を作っているのだというあたりまえの前提を、私たちにわ
からせてくれるような気がします。

 

筆者は、聴く側の持つべき重要な態度は「驚き」だといいます。
一人ひとりのくりかえされる話を聴いて、つど驚く、それはマニュ
アル化できるようなものではないけれど、その驚きがそのひとの
「思い出の記」としてまとまっていく。

 

ということになると、介護の施設などは民俗学の資料の宝庫かもし
れませんね。聞き書きをしてそれぞれの記憶を保存することは、そ
の人の「生きた証を継承する」ことだし、「地域の失われた民俗文化
を復活させる手がかりになることも多い」のだそうですから。

 

そしてそれは沢木耕太郎が記していた、そのひとの「ひとりの個人」
としての歴史と「骨揚げ」に似ているかもしれません。
このようなドキュメンタリーのかたちで介護「学」と民族「学」が
融合されて社会に効用をもたらすのだとすれば、老いた両親の個人
の「物語」に思いを馳せるという作業によって、介護民俗学は少し
だけ私にもいい影響をくれたようです。

 

私の母親の思い出の中に、ひとつ印象的な逸話があります。
母親の実家は深川でガラス屋を営んでいた。父親は早くに亡くなり、
おばあちゃんが四人の子どもたちを育てていた。
戦争末期の1945年の三月に東京大空襲があって焼夷弾が落ちる。
下町は火の海になった。当時15歳の女子高生だった母親は、「もう
ここで死ぬから」と弱気になる母親と姉のお尻を叩いて、家の目の
前にある清澄庭園の池にもぐり、火の粉をよけてなんとか生き延び
たのだ、と。

 

いい話じゃないですか。これぞ母親の生きた証であり、子どもであ
る私に残される「骨」であり、広くは庶民の民俗学的逸話ではない
でしょうか。
と、そう感じ入っていたのですけれど、何回か聞いていくうちにだ
んだんとその話の細部がいいかげんになり、当時まだ存命だった母
親の姉は、「いや、そんなことではなかった」と言っていましたな。
なんのこっちゃ。噓か真か、事実かフェイクか。

 

こうしてわが家の「思い出の記」「個人の歴史」は、やや怪しげな結
末となって今にいたっております。
これもまた介護民俗学の宿命でしょうか。

 

ブログ273

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第272回 2021.11.15

 

「老いを生きるために」

 

高齢者の特徴が、頑固、利己的、愚痴っぽい、疑い深い、あきらめ、
依存的、短気、保守的、子供がえりなんてことだとすると、私には
コロナ禍によってわかったことがありまして、それは、日本という
国が老いてしまったのではないかということでした。

 

どういうこと?
はい、それはつまり、もともと人口減少やデフレで体調が悪かった
所へきてコロナでしょう?
政府は新たな事態に対応できずに、なにをするにも後手後手になっ
たでしょう? それも、周到に頭(政府)に権力を集中させてきた
にもかかわらず、ですよ。

 

そのうえ、頭(リーダー)は体(国民)になにも説明しなくてもい
いと思っているらしいので、「不要不急の外出の自粛」なんて言って
も、体がいうことを聞かなかったでしょう? 脳神経の各所では忖
度という形で情報が滞り、「記憶にありません」という物忘れか、
黒塗りの文書という認知障害ばかりが目立ったでしょう?

 

接触アプリのCOCOAだけでなく、いろいろな情報システムが建
てつけの悪さを露呈したでしょう? デジタル改革なんていう血流
改善の薬はたいして効かずに、怪しげな民間企業の草刈り場になる
のでしょう? 
そんななかで、株で大もうけした人だけは、きっと悪気のない少女
のように、後ろを向いてペロッと舌を出しているんでしょう?

 

つまり日本という国は、耳が聞こえず眼も見えにくくなって世の中
の動きから取り残され、だから自分の行動がしっかり説明できず、
対策を打ち出す反射神経も鈍り、自律神経が失調して危機管理能力
が弱まったたじゃないですか。

いっぽうではワクチンも治療薬の開発も進まず、体の各部位でのイ
ノベーションや「活性化」、つまり新陳代謝が見られなくなったじゃ
ないですか。

 

これを「老い」と言わずして、なんとしょう。
さらにはちょっとしたことで「国難」と大げさな反応をし、他人に
対する気遣い、たとえば香港やミャンマーやアフガンや新疆ウイグ
ルに対する関心も、地球環境に対する配慮もいいかげんになっちゃ
ったじゃないですか。

 

これらはすべて、頑固、利己的、愚痴っぽい、疑い深い、あきらめ、
依存的、短気、保守的、子供がえりという特徴に合致している。
となると、この老いた国の不安は増すばかりじゃないですか!
希望の星は若い大谷翔平君だけじゃないですか! 

 

すいません、また前置が長くなりまして、って、亡くなった小三治
さんのまくらじゃあるまいし。いや、そんなにおもしろくないか。

 

「老人の壁」(養老孟司・南伸坊/毎日新聞出版)

 

だからお国の話はともかくとして、、、だいたいなんでもお国の状態
との関連を考えるというクセがついてしまったのも、コロナのせい
だと思うんですけどね、、、で、それもともかくとして。

 

養老先生いわく「『人のことはかまわず、我さえよからばと思ひて、
気のゆるゆるとした人、かにらず命長し。』つまり、管理職は長生き
しないと、沢庵がちゃんと言っているんですよね」
なるほどそうか、「我さえよからば」、うちの両親だな。
いや、なんでも「うち」に結びつけないように。それはともかく。

 

養老先生「不機嫌な老人というのは、10年前くらいから目立つよう
になりましたね。おばあさんはいいんですけど、おじいさんがまず
いですね。なんでおじいさんが怒りっぽいのか」
南「自分が機嫌よくしているとまわりもよくなる。だけど、機嫌悪
い人ってまわりがよくしてくれなくちゃ、と思っている」
はいはい、うちの父親だな。だから、およしなさい、って。

 

ただ、この件については、17世紀の哲学者パスカルがすでに回答を
出しておりまして、「人間にとって、完全な休息のなかにいながら情
念もなく、仕事もなく、気晴らしもなく、神経を集中させることも
ない状態ほど、耐えがたいことはない」というのですね。
そう、彼ら怒りっぽい男性の老人は、やることがなく、なにかしら
耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んでいる(ように思いこんでいる)
から、不機嫌なんだ。

 

南「健康で長生きするためにはどうしたらいいんですか?」
養老先生「だから、健康な間だけ生きていりゃいいんですよ」
まったくまったく。
ん? えっと、というと、とっても健康で(血液検査の数値がすべ
て私より良好)、でも認知機能が落ちてきて、周囲のお世話が大変に
なっているうちの母親はどうなんだ? ずっと生きるのかな?

 

養老先生「近代になって西洋の自我が入ってから、病気は自分のもの
となったけれど、よく考えれば、実際は家族や知り合いに関係するも
のなんですよね。自分の病気で一番困るのは、連れ合いでしょ。病気
で困るのはむしろ自分自身じゃないんです。」
うーむ、深いなあ。うちの母親は自分では困っていないものなア。
これって、まるで人間が生きる上での安全保障理論ですね。

 

・・・それもともかく。まとめます。
養老理論によると、日本国も健康な間だけ生きていればいい、国の病
気は周辺国がその介護に困ればいい、国の認知機能(頭=施政者)が
衰えても本人は困らない。だからとりあえず、機嫌のいい国でいよう
よ・・・いやいや、いやいや、違うなあ、そうじゃないな、こんなま
とめは、ぜったい違うでしょ。またぞろ人間のこととお国のことを結
びつける頭の機能障害が出てしまったようです。
申し訳ありませんでした。おあとがよろしいようで。

 

ブログ272

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第271回 2021.11.07

 

「歳をとりそこねてはいないか」

 

私の父親のように94歳(昭和二年生まれ)ともなると、もう怖い
ものなしですね。
自分はなにをやっても許されるとでも思っているのでしょうか、
でもそれによって、家族の手間が増えることが多くなったりしてい
ます。前回にひき続き愚痴を書かせてもらってもいいですか。

 

だいたい歳を取って同じ話を何回もするし、都合の悪いことは聞こ
えないふりをするし、医者のいいつけは守らないし、コロナ禍でも
大好きな100円ショップに行って無駄なものを買いあさるし、何回
も風呂で寝てしまって肺炎になるし、そのたびに救急搬送だし、流
行当初には何時間も待たされたコロナのPCR検査に立ち会わなけ
ればならないし、それでいて本人はコロナの怖さをわからず、だれ
も信用せず、なにもかも気に入らず、気に喰わないことがあると家
族のだれかを犯人にしたてる。

 

それなのに外面(そとづら)がよくて(商売人だったもので)、医
師や看護師からは「認知症じゃないですよ、紳士ですしねえ」なん
て褒められたりしている。

 

ったく。
いったい自分のことを老人だと思っていないのでしょうか。
「歳をとったというけどさ、私は歳をとった覚えはないよ」と言っ
たひと(「大往生」永六輔/岩波新書)と同じ精神状態なのでしょ
うか。

 

そんな感じで、私の父親は子どもにとっては模範的な老人とはいえ
ないと思いますが、こういう話をカフェでお客さまとしていると、
あらウチもそうよ、みんなおんなじなのよ、という共感と賛同の渦
を巻き起こすのも事実です。

 

みなさん、同じように苦労されているみたい。
そこでそうしたご意見を総合すると、高齢者の特徴は、頑固、利己
的、愚痴っぽい、疑い深い、あきらめ、依存的、短気、保守的、子
供がえり、などというものが浮き上がってまいりました。
が、そこはそれ、精神科のプロのお話はもっともっと面白いもので
した。

 

「老いへの不安」(春日武彦/中公文庫)

 

春日先生の本は、本第92回で「鬱屈精神科医 お祓いを試みる」
という、なんともユニークな本をご紹介したことがありました。
この本では、先生は自戒を込めて、自分も「どうやって『きちんと』
歳を取ったらいいのか分からない」と言います。そして「おそらく
団塊の世代以降は、誰もが『歳を取りそこねる』ことになるだろう」
とおっしゃっています。

 

円熟とか悟りといった文脈での「老いること」が理解できないし、
実感もない。
それならば、こうありたいと先生はおっしゃる。
「ときに頑固であっても基本的には欲がなく、愛想は乏しくても悪
意はなく、先入観に囚われず、裏表もなく、寛容さがあり、何より
も自分の始末はすべて自分でつけられる。他人に頼らずに生きてい
ける。つまらぬ自己主張なんかしないうえに、誠実さにおいて一貫
性がある。」
えっ、そんな老い方なんて、できるものなのかですか、先生!?
うちの父親と真逆なんですけど。

 

精神科という仕事柄、先生のところにくる患者さんたちは、よりい
っそう、自分の精神状態や老いの自覚に乏しい方々だそうです。
この本では、先生のそうした経験に加えて、比較的マイナーな作家
の「老人」や「老い」を扱った掌編を取り上げ、そこに登場する人
物たちが、「どう歳をとりそこねたのか」について考えを連ねていく
のでした。

 

先生の取りあげる小説の一例一例が私たちに思い知らせるのは、老
人個人としては、「老化にともなう頑迷さとか思考の柔軟性の喪失」
が「穏健な社会人の要素と混在する」のだけれど、その混在さ加減
の問題なのだということ。
理想の老い方はできないにしても、これらの「歳をとりこねる」人
を反面教師として見ておこうじゃないかと。
なるほど、それはよくわかる。

 

ただ私が身の回りをつらつら眺めるに、是非の問題ではなく、この
「混在さ」加減こそがその方のいままでの「生き方」に直結してい
ると思えてならないのです。

 

老人ならではの光と闇、喜びと悲しみ、それらの源泉がそのひとの
過去全般、たとえば私の父親でいえば、母親との確執とか満たされ
なかった欲望とか、商売上の成功と失敗とか、意のままにならなか
った子どもとか、麻雀であのひとに邪魔されて上がれなかった九連
宝塔などにあるのかもしれないと。「混在」の針が片一方に振れて
しまっているのではないかと。

 

老人になってからの光と闇は、すでにその前に用意されている。
だととしたら、先生ともども読者の私の自戒として、生きているわ
れわれは、いま現在の生き方に気をつけなければなりますまい。
最期に「ジャンジャンジャーン」とチャイコフスキーの交響曲のよ
うに気持ちよく自分を終わらせるためには、いま、父親がどうのと
言っている場合ではないのですね。

 

 

ブログ271

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第270回 2021.11.01

 

「親の骨をどう拾うか」

 

本が読めなくなるときって、ありますよね。
みなさんはいかがですか?
私は、会社の仕事が忙しい時なんかは逆に、寸暇を惜しんで読んでい
たような気もしますが、いまとなると、なにか気がかりなことがある
ときには本に集中できません。

 

たとえば、親の老いが進んでいき、その介護というか、いやじっさい
に体を使っての介護とまではいかないな、「つねに様子を案じつつ、
たまに面倒をみる」くらいでなんですが、そういう中途半端な生活が
続くと小説が読めなくなります。
きっと、目の前の心配ごとが気になってしまうのですね。
みなさんにもそんなことがおありだと思います。

 

ましてや、世話をする老親に、あれやこれやと不平不満を並べ立てら
れたりすると、自分の普段の生活のペースを崩されて本が読めないこ
ちらの不満もいっそう嵩じて、介護とかケアとかいう前に、親を大事
に思う心が萎えてくる。それがまた、本を読めなくするという悪循環
におちいってしまいます。

 

頭ではわかっているんですよ、頭ではね。
歳をとって体の自由が利かなくなり、まわりに世話を焼かれる身にな
ると、どうしても不機嫌になってしまう。自分にはらが立って、世話
をするひとに八つ当たりしてしまう。そういうことってあるでしょう
ね。それは、自分が体が利かなくなってはじめてわかることかもしれ
ません。

 

頭ではそう思っても、じっさいの現場で親に対して思うのは、「少し
は周囲に感謝しろ。子どもに感謝しろ。不平不満ばかり言うな。感謝
極楽、不平地獄というだろう!(だれのことばでしょうか?)」みた
いな。「そんな憎たれ口ばかり言っているなら、骨は拾ってやらない
ぞ」みたいな。
いや、いけませんいけません、そんな親不孝はいけません。

 

「無名」(沢木耕太郎/幻冬舎)

 

沢木耕太郎さんが、自分の父親を看取った一部始終をノンフィクショ
ンとしてまとめたものです。
いいなあと思うのは、89歳のお父さんが不平不満を言わないこと。
さすがだよなあと思うのは、死にゆく父親をしっかりと公平な目で見
る沢木さんの態度。
それを自分の父親と自分との関係に比べて、反省することばかりです。

 

彼は親の最期において、そのひとの「ひとりの個人」としての歴史を、
文章を職業とするものとしてきちんとリスペクトして記していく。
そんな作業が悲しいものか苦しいものか私にはわかりかねますが、父
親との多くの思い出を蘇らせながらの作業は、きっと親不孝者にも訪
れる仕事なのだろうと思います。

 

さらに父親の死後、沢木さんは残された俳句をまとめて句集をつくる。
そのとき、父の句のなかに、俳句仲間の死の知らせに接し「彼の作っ
た秋の句を拾い読みする。それを自分のささやかな供養としよう、と
いう意味の句があった。その句を眼にしたとき、そこにあった『句を
拾う』という表現が、どことなく『骨を拾う』に似ているような気が
した」。

 

そしてこんな感想を記します。
「なるほど、父はそうやってひそかに友人の『骨揚げ』をしていたの
だな」と。「私もまたその白い短冊風の紙に記された父の句を拾うこと
で、もういちど父の骨を拾いなおしているような気がしてきたのだ。」

 

いいなあ。私もこんなふうに父親の骨揚げができたらいいだろうなあ。
でもなあ、まだ元気に生きているしなあ。不平不満と文句たらたらだ
しなあ。そのときになって、拾うべきものはあるだろうか。

 

ということで、なかなか父親を冷静にリスペクトできないんですけど、
ただし、親が実際に入院して自分の手から離れ、なおかつコロナで面
会ができなくなっているような折に、こういう本なら読めるのでした。

 

ブログ270

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第269回 2021.10.25

 

「ブックカフェあるある」

 

マスター、ここの本はどういう分類で並べてあるの?
い、いや、べつに、とくだんの考えもなく、なんとなく並べている
んですけど。
ああ、そう。なんとなくね。図書館の並べ方とはずいぶん違うよね。
そうですか? うーん、自分なりにすこしは分類をしているんです
けど、なんかおかしいですか。

 

おかしくはないけど、じゃあ、こんな本はどこにある?って訊いた
ら、マスターは答えられるわけね。
いえ、答えられません!(キッバリ)
それじゃ困るじゃん。
困りません。
じゃあさ、さっき「新しく入荷した本」のコーナーでこんなのを見つ
けたんだけど、これはどこに置かれる予定なの?

 

「世界の辺境とハードボイルド室町時代」
「辺境の怪書、歴史の驚書 ハードボイルド読書合戦」
   (高野秀行/清水克行 集英社文庫)

 

んー、どうしましょうかね、最初の本は冒険家の高野さんと日本史の
清水先生の対談集なんですけど、現代アフリカのソマリ人と室町時代
の日本人はそっくり、という奇説がとびだしたり、なんの接点もなさ
そうなところに意外なつながりがあるということがわかります。

 

もうひとつは、それぞれが面白そうな本を一冊選んで読んで、それを
もとに感想戦を繰り広げるもの。
二書ともに、二人の知識のぶつけあいとそこから飛び出してくる仮説
がなんとも楽しいと、こういうしだいなのでして、ただ単にそれだけ
なのでして、この本をどう分類してどこに置くかなんてことは、お客
さん、そんなことどーだっていいじゃありませんか。

 

たとえば。
清水「梅毒はコロンブス隊が新大陸からヨーロッパに持ち帰ったとさ
れていますけど、スペインへの到達が1493年で、1512年に京都で書
かれた「月海録」には梅毒の記録があり、「勝山記」という1513年の
山梨の記録にも出てくる。」
梅毒はスペインからわずか19年で京都へ、そこからわずか一年で山梨
まで伝播している。コロナ並みの伝染力ではありませんか!
しかし、こんな話はどこにも分類しようがありませんのです。

 

高野「タイやミャンマーでは、新米より古米のほうが値段が高い。な
ぜかというと、向うの人たちは水分の少ないインディカ古米のほうを
軽くておいしいと感じるから。新米はベチャベチャしておいしくない
し、胃にもたれると。なかには「古米」と称して新米を混ぜて売る悪
質な業者もあると。」
ね、こんな話は、どこにも分類しようがないじゃありませんか。

 

辺境、室町、ソマリア、梅毒、コロンブス、コメ、悪質業者、あたり
のどこかの分類に置いておきますから、気になるんだったら探しだし
て読んでいってくださいね。なに?そんな分類ないだろうって? 
これから作りますよ、作りゃいいんでしょ作りゃ。
東京駅前の丸善にあった「松丸本舗」や、東所沢のカドカワミュージ
アムみたいに、「つながりを見つける」とか「対談の楽しみ」とかなん
とかのコーナーにすりゃいいんでしょ。

 

だからお客さんも、
「マスター、あの本どこにある?」なんて、大声で訊かないでくださ
いね、わかりました?

 

ブログ269

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第268回 2021.10.17

 

「らしい言い回し」

 

勤め人を辞めてカフェマスターになり、自分が変わったなと思うこ
とがいくつかあります。
食器洗いやテーブル拭き、あるいは店内やトイレの掃除をするのが
ぜんぜん苦にならなくなったこと。
カップや皿を割っても、ぜんぜん気にならなくなったこと。そんな
のあたりまえじゃん、と平然としている。気に入っているカップだ
と、ちょっと泣く。

 

古い友人からは「だいぶカフェのマスターらしくなってきたよ」と
言われるのも、そんなことが身についてきたからかもしれません。

 

そういえば、あいさつや「おあいそ」や雑談という、いままで得意
でなかったことが普通にできるようになりましたね。コミュニケー
ションの大事な要素として、そういう「モノの言い方」が身につい
てきたらしい。モノの言い方といえば、こんな便利な本があったの
を思い出しました。

 

「できる大人の モノの言い方大全」(青春出版社)

 

カフェのマスターにかぎらず、挨拶する、もてなす、ほめる、認め
るといった、相手の気分をよくするひと言というのは、コミュニケ
ーションでは大変重要だし、便利です。
それから、困った申し出をうまく断る、自分のミスを謝る、クレー
ムをいなす、相手の気を変える、なんていうことも大事なこと。

 

カフェでは、「いらっしゃいませ」から始まって、「ありがとうござ
いました」まで多くのことばをお客様にかけますが、この本には必
要なものが必要な形でおさめられていました。

 

なにか謝らなければならない時でも、「申し訳ありません」だけで
なく、「大変失礼しました」「うっかり間違えました」「面目ありま
せん」「誤解がございました」「どうぞお許しを!」などというバリ
エーションが手持ちにあれば、便利です。

 

ふだんはあまり使わないことばでも、お客さまと少しギクシャクし
たら、「ざけんなよ」ではなく、まずは「さようですね」「おおせの
通りです」「ごもっともです」などという、やや古めかしく感じら
れることばも、場合によってはいい間合いとクッションになる。

 

わかっていても、いざという時にことばとして出てこないもんです
が、それを自然に、さりげなく、嫌みなく使いこなせるのが「大人」
というものですな。

 

私など、勤め人のときはついついイヤミったらしい言い方をしてし
まったり(「へへえー、そんなもんですかねえ」)、うまく謝れなく
て(「悪うござんした、なんちゃって」)、あとあと自分に嫌気がさ
したりすることが多いものでした。
若いころからこうい大人の言い方を勉強していればよかったんです
よ、こういう基本的教養があれば、人間関係も仕事の成果もだいぶ
違っていたのじゃないでしょうか。

 

この本にはその他、「さて、どうでしょうか」「おことばを返すよう
ですが」「困惑しております」「そこが大事なところですね」「ご存じ
とは思いますが」などなど、普段遣いに役立つ言い回しがたくさん
載っています。

 

ふだん自分で使っていることばであっても、あらためて新鮮な気持
ちで手元に置いて使ってみることができるでしょう。
ケースに応じて、相手にうまく自分の気持ちを伝えられるわけです。
私も、若い時からこういうことばの鍛錬をしておけば・・・

 

 

 

ブログ268

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第267回 2021.10.10

 

「価値観や習慣や歴史を乗り越えて」

 

青年のお客さまが店内で電話で話し込んでいる。
見かねて「電話は外のテラスでお願いできますか?」というと、外
に出て話してくれました。
ところが会計を終わった帰りしな彼に、「なぜ、店内で電話してはい
けないのか?」と尋ねられてびっくりしました。

 

彼はつねづね、「カフェでは、お客さんは談笑しているではないか。
うるさいのは同じなのに、なぜ電話はいけないのか」という疑問を
もっていたらしいのです。
うむ、それは答えるのに難しい疑問だ。

 

お話をうかがっていくと、その方は韓国からの留学生でした。(日本
語がものすごく上手なので気がつかなかった)
韓国では店内で電話で話してもオッケーらしいのです。
ほーっ、そういう価値観というか習慣の違いってあるんですね。

 

他にも、他のコーヒー店でテイクアウトしたアイスコーヒーのカップ
をそのまま持ち込んで、当カフェではアイスティーを注文された若い
カップルがいました。
その方々は中国の方で、どうやら中国ではそれはあたりまえのことら
しい。

 

いずれもマスターとしてはやや釈然としないのですが、面と向かって
「なぜイカンのか?」と訊かれると、うーん、うまく説明できないん
ですよねえ。そんなことから、

 

「三頭の虎はひとつの山に棲めない」(マイケル・ブース/kadokawa)を。

 

筆者は「英国一家、日本を食べる」で、日本中を旅したイギリスのジ
ャーナリストです。
この本では、イギリス人から見て、「東アジアの国々はなぜ良好な関係
を築けないのか?」「日本・韓国・中国の確執はどれほど根が深いのか
?」そして、「これらアジアの三虎の和平を妨害することで利益を得る
のはだれか?」、そんな冷徹な問題意識のもと、ルポをしていきます。

 

その疑問に対する私の答えは、「うーん、うまく説明できないんですよ
ねえ的な価値観の違い」なんですけどね、いや、ちょっと結論を急ぎ
すぎました。

 

筆者は三か国の各地を旅して、そこで出会ったひとから他の二国に対
する素直な感情を聴きとっていく。「自分の足で歩かないと、日中韓関
係はわからないと思った。」 
さすがジャーナリスト。その実証精神は本当に大切な姿勢で、たとえ
ば日本の政治学者とよばれる方々は、こうした現場の、というか「地
べた」の声を拾って、価値観の違いをあきらかにしようとしているだ
ろうか、と心配になります。

 

筆者が、そんな地べたで拾う、ある韓国人のことば。
「私たちから反日感情を除いたら、アイデンティティの半分が失われ
てしまうのです。」
おー、そうですか。
私たちにもなんとなくわかっていたようにも思いますが、本音がこう
いうところに見えてくる。そんなの負のアイデンティティじゃないか
と言ってしまえばそれまでですけど、その心情を理解できないことは
ありません。

 

もうひとつ、政治はそのつどこうした国民感情を利用するものであり、
自分たちは悪くない、悪いのはあっちだ、という気持ちを高めること
で利益を得るシステムだということがあります。
まるで夫婦仲の悪いのを隠すかのように、内部に問題を抱える国ほど
外国を攻撃して内部の不満を抑える、ということが歴史の教訓として
ありましたし、それはこれからも続きそうな気配です。

 

そのうえで中国は北朝鮮の存在を利用し、アメリカは韓国と日本の不
和を利用し、ロシアは北方領土を人質にしながらじっと北から圧力を
かける、みたいな地政学的な外交戦略があるのだろうけど、それを地
べたの庶民の眼からみたらどうなのか。
それを伝える筆者のようなジャーナリストの役割って、大きなものが
あるように思います。彼らの話は私たちにとって耳障りのよいものば
かりではないでしょうけど。

 

そんななか、筆者が掲げる「良いニュース」がひとつ、ありました。
「(この三国の)恐ろしいほどの少子高齢化には、ひとつだけ良い面
がある。これだけ高齢者が増えると、将来的には戦争はなくなるかも
しれない。」
「米国の政治学者マーク・ハースはこれを『老人性平和』と呼んでい
る。軍隊に入って戦う若者が不足するというよりは、政府が、たとえ
ば高齢者ケアなどの戦争以外の問題を優先せざるを得なくなる、とい
う予測だ」。

 

おお、だとしたら結構なことです。
「老人性平和」、はじめて聞くことばですけど。
それは、この東アジア三国の「人口減少」時代の、いちばんのメリッ
トではないか。
いやしかし、いくら人口減少といっても、もともとものすごく大きな
人口を抱える中国では、まだまだその人たちを安定的に食わせていか
なければなりません。北朝鮮でもロシアでも少子高齢化は起きていな
い。

 

となると、この「老人性平和」という良いニュースも、おもに日本と
韓国の地べたでジャーナリストに発見され、それが少しずつ庶民にも
気づかれて、少しずつ上のほう(って、どこだかわかんないけど)に
上がっていくのかもしれません。

 

しかしとりあえずその前に、一方的な話しか聞こえてこないでまわり
をイライラさせる電話ではなく、カフェでのなごやかな談笑によって、
多国間の国際友好に活かされる話になればいいなと願うマスターでし
た。

 

ブログ267

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第266回 2021.10.03

 

「カフェで創られるもの」

 

私たちの若いころ、学生街の喫茶店などでは、コーヒー一杯で何時
間でもねばれたものです。
話し込むもよし、本を読むのもよし、喫茶店のマスターは他の客に
迷惑さえかからなければそれを許してくれた。待ってくれていた。
ほっといてくれた。
その節はたいへんお世話になりました。

 

「カフェから時代は創られる」(飯田美樹/クルミド書房)

 

カフェといえば、ごぞんじ花の都パリのカフェが有名です。
とりわけセーヌ河左岸のカフェには、店の前の歩道にテーブルとイ
スがでていて、オープンに出入りできる。そこをカッコイイ黒服の
ギャルソンが、澄まして歩き回っている。
そこに多くの文人哲学者芸術家が集って、何時間も居座り、喧々諤
々の議論やけんかをしていた。そんなことが名物になり、それを見
に観光客も集まってきた。

 

どうしてパリのカフェはそういう場所になったのか。
カフェに集う思想家や文学者といった「表現者」たちは、サルトル
やボーヴォワールも含めて、「私の人生を社会に役立たせなければ
ならない」という熱い想いをもっていた。だからカフェという「公
共の場」に集まって意見を戦わせることが、精神衛生上も必要だっ
たのでした。

 

どういうことか。
カフェで、衆目を集めながら、お茶やワインを飲みしながら、とき
には終日知り合いを待ち、人生や思想や政治について友人たちとあ
ーでもないこーでもないという議論をすることこそが、自分の能力
を公において広く役立たせることにつながる、つまり「自分を開く
こと」だとわかっていたからなのでした。

 

だから彼らは、コンビニ前、ではなくて、カフェに「集って、ダベ
る」ことだけが目的ではなかったのです。
「すべてを捨てよ!街へ出よう」といった文学者ブルトンのように
ブルジョア社会の閉塞感に飽き、街に向かって、そして世の中に向
かって自分と自分の思想を解放し、周囲に与える影響を肌で感じ取
り、それをまた自分の中で活かすという、エクササイズの場にして
いたのでしょう。

 

その意味でこの本の筆者は、
「まず第一に、カフェにある自由。それは居続けられる自由である。
第二に挙げられるのは思想の自由であり、第三に、時間的束縛から
の自由、最後にふるまいの自由」を挙げて、カフェという場所と自
由というものが切っても切れない関係にあることを強調します。

 

そういう、だれもがなにかを待っている自由な場所に、国や人種を
越えた議論の場ができ、坩堝のような場所でいろいろな国のひとが
まざいあい、多くのことばが飛び交い、そこで新たなインスピレー
ションが生まれ、新たな思想や大きな意識が生まれ、それが時代を
動かしていった。
だから「カフェで時代が創られた」というわけなんですね。

 

そういえば最近の小説、「言語の七番目の機能」(ローラン・ビネ/
東京創元社)でも、1980年のロラン・バルトの交通事故死をめぐ
る謎のなかで、ま、それとビミョーに関係しつつ、ミシェル・フー
コー、デリダ、ルイ・アルセチュール、ジュリア・クリステヴァな
どの思想家が、カフェ(や、ちょっと怪しいクラブ)で議論してい
ましたよ。小説じたいは難しい内容で、理解不能でしたけど。
このひとたちも、カフェで80年代の世界を作っていたことは確か
です。

 

それにひきかえ、いまの日本はどうでしょう。
パリのカフェのような、自由で自分を開ける場はあるでしょうか?
コーヒー一杯で何時間でも議論ができる場所は?
通りがかりにフラッと加われる話し合いなど想像できますか?
まるで規制されてでもいるかのように、ことさら「〇〇カフェ」と
して努力して作らないかぎり、それはできにくくなっていませんか?

 

他人事のようにそんな疑問を呈しつつ、ところで、私どものように
商店街のはずれで住宅街の入口にあカフェには、もうひとつの「機
能」があるようです。
それが、「ブツの受け渡し場所」という役割。
主義主張ではなく、ブツのぶつけ合い。

 

いやいや、ブツといっても思想とか怪しい情報とかクスリとかでは
なく、たとえばお庭で採れた野菜のおすそ分けであったり、自宅で
焼いたパンや菓子を「〇〇さんが来たら渡しといてね」というお預
かりであったり、趣味で作ったアクセサリーの販売であったり、近
くの「味の素スタジアム」でおこなわれたイベントのグッズ交換会
が密かに、いやオープンにおこなわれていたりという、ブツそのま
んまの話なんですけどね。

 

つまり、ジモティのカフェでは、思想など高尚なものは創られもし
ないしオープンにも交換されないが、物々交換的ジモト経済は作ら
れているのだ、という話でした。

 

ブログ266

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第265回 2021.09.26

 

「お客さまの『待つこと』をお助けする」

 

実家が家具屋だったこともあって、お客さんを待つ商売のつらさと
いうのは知っていました。
店頭で声を張り上げて客引きをしたり、近所にちらしをポスティン
グしたり、ネットを使って宣伝したりしても、お店にお客さんが来
てくれないことには始まらない。

 

はたして今日はお客さんが来てくれるのだろうか。
心配しつつ「待つ」、それが商売。
子どものとき親を見ていると、彼らがいつもそんな心配に駆られて
いるのがよくわかりました。待つ身はつらいのだろうな。
ただそんな両親も、お客さんが来たら来たで、「逃がさへんで」(い
やいや、両親とも江戸っ子でしたけど、ここは関西弁が似合いそう
でしたので)という気合に満ちた「おべっか」「へつらい」「愛嬌」
「ヨイショ」などを駆使して、計算高く商売している。

 

その「気合い」の使いかたも含めて、じつは私はお客さんを待つ仕
事が嫌だったので、仕事としては、どちらかというと外回り営業畑
の仕事についたのでした。
が、それがいまや、なんとあなた、れっきとしたカフェマスターと
して、毎日お客さんの来るのを手ぐすねひいて(ときにはウトウト
しながら)待っているという、そういう事態になり果てました。

 

「『待つ』ということ」(鷲田清一/角川選書)

 

鷲田さんは大阪大学学長までつとめた、臨床哲学が専攻の先生。
いまは朝日新聞で、毎朝「折々のことば」を連載されています。
「待つ」つながりの話なんですかが、「現代は、待たなくてもよい
社会、待つことができない社会になった」として、「待つ」ことの
意義を臨床哲学的に考察したのがこの本でした。
ところで、「臨床哲学」って、なに? まずはそこでから。

 

観念的で抽象的になりがちな「哲学」の成果を、個別具体的な現場
におろして実証していこうとすることらしいですな。とりわけ、政
治、労働、宗教、医療、介護など、現在問題を多く抱える分野で使
われることの多い学問的方法、ということでした。
最近では「哲学カフェ」なんていう、みんなで話し合う場を作って
「知」を具体的に深堀りしていこうという活動も盛んで、これも実
践としての「臨床」の一部です。

 

鷲田先生は、そのようにして過去から積み重ねられてきた哲学の
「知」の方法を、この本では「待つ」というテーマを据えて応用し
ているのです。たとえば、
「待つことは、期待と一体になっている(そうそう)」とか、
「期待が知らぬ間にひどい視野狭窄にはまってしまう(まったく)
とか、「待機が苦悩になる(まさに)」といった、心理学的文学的な
話にもなったり、あるいは「待つのは、おそらく実現してはいない
がある意味ですでに知っているある事態をゆるやかに待っている」
というテツガク的な話になるわけ。

 

ことばの使われ方の問題では、こんなことを書かれています。
いまはなんでも「プロ(前に、先に、あらかじめ)」のつく英語ばか
り使われている。
計画はプロジェクト、利益はプロフィット、プロスペクトは見込み、
生産はプロダクト、前進はプログレス、昇進はプロモーション。
「なんと、『プロ』という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである」
「ようするに、すべてが前傾姿勢である。あるいは先取り的になって
いる。そして、先に設定した目標のほうから現在なすべきことを規定
するという形になっている」と。

 

こうした前のめりの姿勢は、近代的で合理的なものだ。
じっさいに周囲からプラスの評価を受けることばかりなのだ。だがし
かし、だからこそそこには、「待つ」という穏やかな姿勢がない。
しかし我々は、「待つこと」に、もっと積極的な意味を見つけてもいい
んじゃない?

 

そこには遅れた人や弱者を待っていいたり、相手の本音が出てくるの
をゆっくり待ったり、待機したり、ほとぼりを冷ましたり、じっと回
復させたりなどという意味も含まれるはずだ。
「プロ」ばかりではまずいんではないの、と。

 

そうですよ。その通りですよ。
計画を立てず、利益のみを求めず、先走った見込みをせず、いら立っ
て進化や昇進を期待しない、そういう姿勢も大事になっているはずだ。
そう納得して、ならば当カフェでも少しだけ考え方を変えてみますか。
背伸びして多くのモノをプロデュースするのではなく、お客さんにな
にかをプロポーザルするのでもなく、逆に「待つ」ということに違う
意味を見つけてみましょう。

 

当カフェには、「なにかやだれかを待っているひと」イコール「たま
さかお客さんとして来店した方」「プロムナード中のひと」がいて、
そのひとこそ「マスターがなんとなく待機していたひと」であり、
イコール「コーヒーを飲んケーキを食べて、元気を回復していただけ
るひと」、もしくは「ちょうど読みたかった本に出合うひと」である。

 

「待つこと」のプロフェッショナルであるマスターとしては、自分も
その方も、あまりに前傾姿勢にならないよう気をつけつつ、その方に
期待どおりのできごとが起きるよう、お助けしたい。
うん、今日もいいこと言った。ことばがでてくるのをじっくり待った
甲斐があった。

 

ブログ265

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第264回 2021.09.19

 

 

「『へんなヤツ』が来る」

 

たしか、評論家の内田樹さんが自分の合気道の道場をつくるとき、
師匠である方にこう尋ねたそうです。
「こんど道場を開くことになりました。先生、道場を開くにあたっ
て、なにか心すべきことはありますでしょうか?」
すると師匠はニコッと笑って、「へんなヤツが来る」とだけおっし
ゃったとか。

 

そういえば私のお茶の師匠も、似たようなことをおっしゃっておら
れました。
「私たちお茶の世界では、習いたいといういうならどんなひとでも
受け入れます。もちろん、ちょっと変わった感じの方もおいでにな
ります」。ただし、「受け入れたあと、そのひとを『弟子』と呼ぶか
どうかは、こちら次第です」と。
ふーん、そういうものかと思いました。

 

だれでも入っていい場所のことをパブリック・スペースと呼ぶなら
ば、合気道の道場もお茶の教室にも、そこに引き寄せられたように
「へんなヤツ」が来る。
これはしかし、「危ないひと」とか「異常な者」が出入りするから
気をつけろ、という警告とは違うのだと思います。

 

先生方は、人間はみんなどこかしら「へん」なところがあるから、
どんなひとが来ても驚かずに対処しなさいよ、ということをおっし
ゃっているのだと私は受けとめました。

 

だれでも入っていい場所がパブリック・スペースだというなら、
ブックカフェももちろんそうでから、心すべきはマスターの度量を
広げることなのです!(キッパリ)
はい? はいはい、そうなんですよ、ですからもちろん、当ブック
カフェには「へんな奴」がたくさん来ていると訴えたいわけではな
いので、そこはどうか誤解なさらないようにお願いします。

 

ただカフェマスターとしては、どんなひとが来ても大丈夫なように
心がまえをしたり、普段からリスクに備えたり、よけいな「邪気」
が紛れ込まないよう防いでおくといった「人間力」を磨きつつも、
いっそう開かれた空間として受け入れるわざを持つという意味での、
心の広さをもたなければならない。
そういうことなんだろうと思います。

 

「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」
(ジェレミー・マーサー/河出文庫)

 

これは、パリのノートルダム大聖堂の近くにある、シェイクスピア
&カンパニー書店という特異な本屋での日々を描いた、ノンフィク
ションです。
アメリカ人のジョージ・ホイットマンというひとが第二次大戦後に
開いた書店で、私もいちど行きましたけれど、なかなかゴチャゴチ
ャした、いい書店でした。

 

いま日本では、本がきれいに分類されて見やすく陳列された書店ば
かりになってしまいました。大手取次の意向が強く働いているので
しょうね。
しかし私は、いっけんゴチャゴチャで、慣れてくるにしたがってど
こにどんな本が置かれているかがわかってくるような、そして新刊
と古本が一緒に置いてあって互いに匂いたっているような、そんな
「本屋」が大好きです。

 

シェイクスピア&カンパニー書店もその手の「本屋」で、ここがす
ごいのが、今ではもう変わってしまいましたが、書棚のあいだにベ
ッドがあってひとが寝起きしたり、だれかが本屋の仕事ではないこ
とをしたりしていることでした。

 

つまり、本屋なのに、お金のない若い旅人を受け容れ、彼らが寝泊
まりする場所になっていた。
なので戦後しばらくのあいだは、錚々たる詩人や作家もここに寝泊
まりして、なんとなく働きながら物書きをしていたというのです。
なんだそりゃ。究極のパブリック・スペースではありませんか!
これぞ、へんなヤツのたまり場ではありませんか! 

 

筆者もここに泊まりながら、そして本屋の仕事を手伝いながら、出
入りするひとたちと友好を温めながら暮らしていく。そしてオーナ
ーのジョージの考え方にも感化されつつ、だんだん、旅人ではなく
店員のようになっていく。もちろん最後には旅立ちますけど。

 

さて、この書店のオーナーのジョージのモットーは、
「見知らぬ人に冷たくするな、変装した天使かもしれないから」と
いうものでした。
どーですか。この、キリスト教的、博愛の精神に満ちた、パブリッ
ク・スペース主宰者にピッタリの、ユートピア精神!
ジョージは、みずから「書店を装った社会主義的ユートピア」を目
指している、というのでした。だからジョージは「へんな奴」なん
ていないと言って、ミソもクソも(失礼!)、邪気も覇気も毒気も、
旅人も放浪者も、詩人も歌手も、客も万引きも、すべてオープンに
受け容れてしまうのです。

 

は? はいはい、そんなことで書店経営がうまくいくのか?という
ご疑念ですよね。
そりゃ、うまくいくはずないですよ。店は何回もつぶれかけます。
でも、オーナーは信念を曲げない。すると世界中から来た若者たち
が商売を助けて働き、周囲のお店や常連のお客さんからの支援をも
らって続けていくことができた。

 

けっきょく「へんなヤツ」が本屋を始め、「へんなヤツ」がそれを
助けて続け、そうすることで「へんな本屋」が世界中から「(私を
含めて)へんな客」を呼ぶ。
パリはそういう「へんな街」だったということをもって、結論に代
えさせていただきます。

 

ブログ264

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第263回 2021.09.13

 

「生きる力を高める木と石?」

 

諏訪地方を旅して、高名な諏訪大社に詣でたことがあります。
上社下社あわせて四つの社にそれぞれ四本の「御柱(おんばしら)」
が立ち、結界をかたち作っています。
これを運んで立てる行事が「御柱祭」ですが、立てるまでにたいへ
んな労力を使っていることが、実際に見てわかりました。

 

さて、下社春宮の近くに「万治の大仏」というカワイイ石仏があり
ます。
江戸時代17世紀の後半に、なにかの拍子に地中から出てきた大石
に、定印を結ぶ仏様の姿を彫り、そこに、大石にはややふさわしか
らぬ大きさの石をお顔として乗せている。まるで大福もちの上にあ
ずきを一粒のせたような具合。
山の中にあることとそのアンバランスさがイイ味になって、「あり
がたくもカワイイ」としか表現できない仏となりました。

 

木や石は古来から神や仏の寄るところとして、象徴的に使われてき
ました。それについて、
「山そのものを御神体として、本殿のない大神神社(大三輪神社)
をはじめとする信仰の系列。また伊勢神宮も、もとは沖縄の御嶽
(みたき)と同じように、森の中の石ころだらけの神聖な広場だっ
たに違いない」と書くのが、

 

「美の呪力」(岡本太郎/新潮文庫) でした。

 

みなさんご存じですよね、タロウちゃん。
大阪万博会場の「太陽の塔」や、渋谷の井の頭線とJRを結ぶ回廊
にある大壁画の作者。
ご年配の方には、「芸術はバクハツだ!」「グラスの底に顔があった
っていいじゃないか!」と、テレビCMで眼を剥きながら叫んでい
たヘンなおじさんとしてご記憶のとおり。

 

しかし彼は、戦前の若いころにパリに留学し、ピカソなんかと親交
を深めつつも、民俗学を専攻していた方なのでした。
そして日本に帰ってきて、創作活動のかたわらで「縄文土器」のす
ばらしさに衝撃をうける。土から立ち上げたあの火炎土器の造形に!
土偶のユニークさに! 
そしてそこから、なんでもない木や石に神の意志を託す日本人の心
性を見て、「美とはなにか?」を問い続けていったのでした。

 

「われわれは果てしもない遠い昔から、木と石ころだけで神を迎え、
神と合体した歴史を持っている」。
石なんて、見ない人にとっては無だ。
でも「無いーーあることを拒否するポイントからあるを捉え、また
逆にある側から無を強烈に照らすべきではないか」と書くタロウち
ゃんにとっては、どんな石も「美の呪力」をもっている。

 

彼は、ただの「へんなおじさん」ではなかったのでした。
この思想をうまく説明できはしないのですが、なんとか言い表して
みるならこんな感じでしょうか。
人間の感情的モメントは、怒りにしろエロティシズムにしろ狂気に
しろ、すべてが美と芸術のパワーになるのだけれど、「その場合、
高原の孤独な一本の樹について語ってもよいかもしれないのだ。」
つまり彼は、美や芸術に木や石の語ることを結びつけている、と。

 

「石は
無口だ。
石がもし
口をきいたら・・・。」 
こんな詩のようなものを書いていますし。

 

タロウちゃんは、「(自分の作った、大阪万博の)太陽の塔は、両手
を広げて『ノー』と叫んでいる」といいます。
ここにも彼は「呪力」をこめたのでしょう。
そして、この「呪力」とは「人間の生きる力のバクハツ」なのであ
り、縄文から引き継いでいるはずの私たちの潜在力を引き出す契機
なのだということを、私たちに伝えているのです。

 

どなたが言ったか忘れましたが、芸術家の役割が、「世界の秩序を
回復して整えること」、「ユートピアを想像して近づけること」、「エ
クストリームな個の可能性を広げること」であるとするなら、この
「呪力」は、もしかしてコロナ禍のいま、私たちにもっとも必要な
チカラかもしれません。

 

ブログ263

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第262回 2021.09.05

 

「トッドの予言はなぜ的中するのか」

 

2016年のアメリカ大統領選挙で、劣勢を予想されたトランプの
勝利を予想したのが、エマニュエル・トッドという歴史家でした。

 

その理由というのが、こんな事実。
アメリカの2015年の人口動態調査によると、45歳から54歳まで
の白人の死亡率が、1999年に比べて上昇していること。それは直
接的には「自殺・麻薬・肥満」といったことが原因かもしれないが、
その裏に社会全体が苦悩のなかにあるのは確かだと推測できる。

 

そして、「自由貿易、その影響による生活レベルの低下、経済的不
安定、退職後の不安、それらが多くのひとにとって耐えがたい状況
を現実に作り出しているように見える」として、とりわけ、そんな
状況に追い込まれている「白人男性」がトランプの主張に賛同する
だろう、としたのでした。(「グローバリズム以後」朝日新書)

 

彼はトランプ政権の樹立だけでなく、30年前からソ連の崩壊をはじ
めリーマンショックやアラブの春、そしてイギリスのEU離脱など
を予言してきたのですが、それはすべて、専門の「人口動態学」の
見地からみた出生率や死亡率、それから識字率などの人間のリテラ
シー、そしてそれらの数字のもととなる「家族」についての研究に
支えられたものでした。

 

でも原典は、読むの大変なんだ。
ということで、

 

「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」
(鹿島 茂/ベスト新書) を参考にさせていただきましょう。

 

鹿島さんの解説によれば、トッドの人口動態学によれば、旧ソ連
では文明化に入ったら当然下がらなければならない「乳児死亡率」
が上昇していた。ここからソ連の崩壊が予測されたのでした。

 

「人類は長い間、18世紀半ばまで、たくさん子供を産み、その子
どもがたくさん死ぬという多産多死型社会だった。それが、栄養
状態が良くなり、病気の治療方法が進む近代にはいると、乳児死
亡率が下がり、出生率が上がる。そのようにして人口が増える社
会になる。」

 

なるほどですね。それともうひとつ。
「女性の識字率が一定の水準を超えると、その共同体は出産調整
を開始し、出生率が下がる。」こういうことがある。
識字率でいうと、「成人男性の識字率が70%に達した時期と、発
展途上国の政情不安の時期とは明らかな相関がある」として、中
国の部下大革命やキューバ革命、ベトナム戦争などを挙げています。

 

トッドの予言は、こんな分析に支えられていたのでした。
そして、こうした出世率、死亡率、識字率などが「家族のあり方」
に大きな影響を与えて、その時代その時代の社会と文化を作って
きたわけですね。
彼の分類では、社会の類型も「核家族」「直系家族」「共同体家族」
などによって分けられるというのです。

 

イングランドやアメリカの「絶対核家族」
ドイツや日本の「直系家族」
フランスとかスペインの「平等主義家族」
中国やロシアなどの「外婚制共同体家族」

 

これらは、いままでの歴史によって作りあげられてきた家族の形
であり、相続の仕方なども合わせた「家族システム」なのです。
じつはトッドさんの話はここから、資本主義やら経済システムの
話になり、鹿島さんの話もトッド理論をさらに広げて、いままで
歴史上の謎とされてきたものに答えを導こうとするものになって
いきます。

 

たとえば、「フランス革命が起きたのはなぜ?」
たとえば、「イギリスで産業革命が起きたのはなぜ?」
これらを人口動態学と家族システムによって解き明かしていく。
ね、ちょっと大風呂敷なところもありますけど、おもしろそうで
しょ。

 

ここからは本を読んでいただくとして、私たちにとっても、少子
化と人口減少の要因を考えたり、それと因果関係にある経済格差
とか経済の活性化とか、これからの社会・文化の行く末とかを考
えるために、人口の動態と家族のあり方という視点は役に立つで
しょう?

 

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第261回 2021.08.30

 

「人口の増減からなにを問うか」

 

突然おおきな話になりますが、五万年前にいまの人類が誕生したと
して、いままでに何人の人間が生きてきたかとか、考えたりしませ
んか?
自分とおなじような「人間(ホモ・サピエンス)」が何人いて、彼ら
はなにを考え、どう死んでいったのか。
そしてその間、人口は増えたり減ったりしたのだろうけど、それと
文明・文化との関係はどうなのか。
いろいろ知りたい思いが湧いてきませんか。

 

たとえば、20世紀はじめに16億人だったのが、今現在の地球人口
が80億人。それだけ考えるとこの100年がものすごい時代だった
ことがわかります。
もっと長いスパンでは、いままで何人の人間が生まれて死んでいっ
たかということになるんですけど、専門家の推計では600億人とか
700億人といわれています。
これは五万年前からの推定人口の曲線グラフを描いてみて、それ
を足したり微分積分したりなんだかんだとシロートには理解できな
い統計学的なテクニックで計算したもののようです。

 

そんなもんなんですよね。
だとすると、原始時代からいままでで、現在生きている人間のたっ
た10倍しかいなかった、ということになるんです。なんか意外に
思えませんか。もっとたくさんの「人間」がいたと思ってたんだけ
ど。

 

さらにその10倍の人間のなかに、イエス・キリストとか孔子とか
ブッダとかソクラテスとかいたのだし、じゃあ、彼らも意外と私た
ちのそばにいたんじゃ、あ~りませんか、みたいな、そんな感慨が
起こったりしませんか。

 

そういう人口推計を手がかりにして、歴史と文化の変化を人口の変
動からみるというのも、いろいろな想像が膨らんで楽しいことです。
たとえば黒死病(ペスト)で一億人の人口が半減したという中世の
ヨーロッパですが、でもその後、にルネッサンスが花開いた。
なんでだろう?とか。  

   

「人口から読む世界史」(ポール・モーランド/文藝春秋社)

 

この著者の推計によると、紀元前後のヨーロッッバの人口は5千万
人(そのうちのひとりがイエス・キリスト)、世界全体では2億五
千万人。それが、18世紀になると世界の人口はおよそ10億人、そ
ういう増え方をしてきたそうです。

 

その人口増加によって、たとえば18世紀イギリスでは経済成長が
続き、アメリカへの移民もガンガンありつつ、さらに産業革命によ
る工業の近代化がまた人口増に拍車をかけた。
人口と経済は手に手を取って進んできたわけですね。

 

また、もちろん人口の変動が戦争の要因になったこともある。
第二次大戦前のドイツ。ヒトラーは「人口が自分たちの運命を決
める」と言って、イギリスやアメリカに対抗するために「帝国に
1億三千万人が必要だ」とした。そして、「出生率の低下、それが
すべての根にある・・・われわれを救うのは哺乳瓶だ」と。
おお、そんなふうに考えていたんですね。

 

さて、第一次世界大戦のときのスペイン風邪では、世界中で二千
五百万人から五千万人が亡くなったと。そのあたりの時期から、
ヨーロッパの人口増加のテンポが落ちていく。このへん、現在の
コロナ禍と比較してしまいそうです。

 

そしてそのいっぽうでアジアやアフリカが、人口増加で少しずつ
勢いづいていく。
中国は1980年代に人口が十億人を突破し、「その人口モメンタム、
産業モメンタムが、同国をふたたび国際的な舞台へと押し上げた」、
その結果、14億人を抱える経済大国になった。多くのひとが食べ
ていけるようになった。 
こうして「人口を制する者が、世界を制してきた」。
だから、人口の増加は基本的に「善」だ、と考えられて不思議で
はないわけです。

 

話がすこしズレますが、中国はいま、人口による国内市場の購買
力によって経済成長を続けていますが、少子化政策の結果、これ
から生産年齢人口が急激に縮小していきます。
いっぽうで65歳以上の高齢者が爆発的に増えて、2040年には3
億人以上となり、とても「いびつ」な人口ピラミッドになる。そ
うなると、やはり経済成長に頼った政策は転換せざるを得なくなる。
そういう推測が成り立ちます。
中国政府はそのへんも踏まえて、経済・外交・文化戦略を立てて
いると考えられます。なんか新聞の論評みたいになりました。

 

さて話を戻して、この本はタテ軸の世界通史というよりも、「人口」
をキーワードにして、近代化が起きたあとの世界各地の様相をヨコ
に眺めていきます。
だからもちろん日本も取り上げられて、近現代の日本の人口と経済
を俯瞰しています。そう、日本も明治期以降に人口増と経済成長を
果たして近代化していった。そして日露戦争に勝利した大日本帝国
は、世界の人口・経済大国へとのし上がっていったのでした。

 

問題は、では人口一億三千万人(なぜかヒットラーが示した数字と
同じですが)となって戦後の経済成長を達成し、いま人口減少にな
っている日本の今後はどうか、というあたりですよね。
中国のことなんか気にしている場合じゃない!

 

著者曰く、「平均年齢が高い社会は、活力が失われ、革新的でリス
クを怖れない行動を避ける傾向がある。」これがいまの日本です。
たとえば「高齢者は株式より安全性の高い債券などを好む。」
ほおーっ、なるほど。

 

そのうえ、高齢富裕層は欲しいものがなく、消費よりも貯蓄に走
る。富裕層でなくても、老後に二千万円必要だといわれると、五千
万円貯めこもうとする。だって年金は少なくなるし、自分の介護や
医療にお金がかかるに決まっているじゃないの、と。
でも、これじゃとてもじゃないが、内需拡大による経済成長など
望むべくもありません。

 

人口減少の日本には、どんな文化が生まれるのでしょう?
いまのところ、ゲームとアニメ文化ぐらいですか。
だとすると、ペストの時代に「ひきこもる」ことによってルネサン
ス文化を熟成させたイタリアや、人口減少と移民流入増加の時代に、
ロック音楽とかファッションとかでソフトパワーを発揮したイギリ
スとはえらく違う、内向きの文化のような気がしてなりません。
この本はそこまでは書かれていませんけど。

 

ブログ261

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第260回 2021.08.15

 

「人口が減ると、なにが悪いのだろう?」

 

いま日本は、12年連続で人口減少しているそうですが、人口減少とい
う話では、いろいろな疑問や興味が湧いてきます。
なんで人口は増減するのだろうとか。
えっ、増減はあたりまえですか? そうかもしれませんね。

 

出生率の上昇には、気候が温暖で食料がたくさんあって、戦争や感染
症がないほうがいいでしょうし、逆に死亡率の上昇には、気候変動に
よる飢饉や食糧不足とか、でペストやコロナなどによるパンデミック、
戦争に家庭内不和に、、、、ま、いろいろ原因はいろいろあるのでしょ
うね。たとえば、

 

「人口から読む日本の歴史」(鬼頭 宏/講談社学術文庫)

 

によると、第二次大戦後をのぞくこの一万年のあいだに、日本の人口
は四つの大きな増加と停滞の波を示しているといいます。
いまから6千年前の縄文中期、日本列島にはだいたい20万人の人口
があった。そのくらいの人口規模のなかで、自然との共存のなかで増
加や減少が繰り返された。

 

第二の転機は弥生時代に始まる増加の波、ここで60万人レベル。
この人口増加はももちろん稲作など農業生産の進歩によるものと、少
しずつムラ・クニの体制が整っていったことによるもの。

 

第三は14・5世紀にはじまる経済成長にともなう増加の波で、ここ
で総人口1000万人を超えていく。
そして、世の中が安定した江戸時代に人口3000万人になるという増
加があり、その後は、明治維新と19世紀にはじまる工業化に支えら
れた人口増加で、第二次大戦前には7000万人にまでなった。

 

ほーっ、そうでしたか。
私は、専門家のこうした推定は信じます。それに具体的な数字がある
とワクワクしませんか?
だってほかにも、「弥生時代初期から奈良時代初期までの千年間に、
150万人程度の渡来があった」、という外部からの流入まで推定でき
ているのですし、その時代は土着化していた縄文系2割と、北アジア
系渡来人8割の比率で混血した可能性が高いということまで明らかに
なっているのですから。

 

人口をみると、なんかその時代のことが目に見えるようじゃないです
か。
え?目には見えないって? そりゃまあそうですけど、いいじゃない
すか。
問題はここからです。筆者は最後のほうでコソッと、
「興味深いことは、人口が停滞化する10世紀に国風文化が成立した
ことである」なんて言っているのです。

 

たぶん、人口増加と経済成長には正の因果関係があり、「人口の増減
と文化の伸縮」のあいだにも因果関係がある。
弥生時代以降に限れば、とくに渡来人が多くて人口が増えると、新し
い文化が花開き、人口停滞によって日本独自の文化が発達する。
・・・ように見える。

 

経済社会システムが変革されつつあった14・5世紀の室町時代には、
「現代日本にとって伝統的な文化とみなされているものの多くがこの
時代に生まれた」。
そうですか。そういうことになると、これからの人口減少時代は目
が離せません。経済成長はともかくとして、文化の大きな転機を迎
えているのかもしれないし、あらたに日本独自の文化が発達するかも
しれないのですから。
って、自分がどこまで見届けられるかわかりませんけど。

 

筆者は「現在起きている日本の人口変動も、異常な事態とはいえない」
として、これから新たなライフスタイルが生まれていくだろうと推測
します。
必ずしも「コロナ後」ということではなく、この人口停滞時代にこそ、
たとえば「多様な社会構成員の共存を認める寛容性」や、「新しい家
族形態や雇用形態の模索」などが必要になるのだろう、それが新たな
ライフスタイルと独自の文化を発達させるのだろうと。

 

人口が減るとなにがわるいんだろ、というところから考えていくと、
とっても重要な論点が出てきたように思いますが、いかがでしょうか?


                          

ブログ260

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第259回 2021.08.09

 

「成長を前提とした資本主義市場経済のゆくえ」

 

安倍元首相は「成長なくして日本の未来なし」と言って、経済発展
が国家の最大目標であり、国民全体の未来を決定づけるとしたので
した。それは菅現首相も日銀総裁も継承しているところの、日本の
「骨太」の考え方だそうです。

 

しかし、ものの本によれば、「ミルの定常状態」という理論があって、
そこでは「経済成長も人口増加もないが、活発な人間的活動が行わ
れ、新しい文化が創造される社会がある」ということなのですよ。

 

たとえばそれを日本にあてはめてみると、まず少子高齢化による人
口減少がある。長期のデフレ経済がある。ジャブジャブお金をつぎ


込んでも、たいして成長しない経済指数がある。
そこがまず「定常」ですね。

 

そうなってくると、ひとは、自分のもつリソースを経済活動や人口
を増やすために使うのではなく、芸術や学習や生活の質を高めるた
めに使うようになるらしい。
コロナ禍のいまはなかなかできないことが多いですが、ほんらいな
ら芸術鑑賞とかスポーツとか旅行とか、新しい文化への投資が増え
る。どうやらこういうことらしいのです。

 

とすれば、それはいわゆる「ソフトパワー」への投資と創造であり、
精神的に豊かな生活への指向であり、これから目指してもよい「新
たな幸福をめざす」指向とはいえないでしょうか?
そういえば、たしか日本にも過去にそういう「状態」があったはず
です。もしかしたらそれは、田中優子先生のおっしゃる意味での
「人口増加も経済成長もない江戸時代」、に近いものではないでしょ
うか。(「江戸の想像力」ちくま学芸文庫「江戸のネットワーク」平
凡社ライブラリー)

 

となると、「ミルの定常状態」とは、江戸時代かもしれない。
そこでは、人口は安定しつつ人の行き来が活発で、独自の芸術文化
が花開き、ひとりでいろいろな役割をこなして多様なネットワーク
をつくる「チョンキンマンションのボス」みたいなひとがいて、下
々では贈与互酬経済の発達した持続可能な社会だったかもしれない。
なんて、勝手なことを言っていますが・・・それはともかく。

 

「株式会社の世界史」(平川克美/東洋経済社)

 

ここでは、人口減少で経済が停滞する時代には、資本主義市場経済
は変化せざるをえない、という固い話になります。
筆者は、「総需要の減衰は、文明史的なパラダイムである」として、
「株式会社そのものの存在根拠である、大量の資金調達による大量
生産は、供給過剰という試練に立たされることになる」と言います。

 

もしそうなら私たちは、経済成長を指標とするグローバル化市場経
済以外の選択肢を探さないといけないのではないか。だって人口減
少の日本では、総需要の減衰は目に見えているもの。
そういう問題意識から、グググッと歴史をさかのぼって、グローバ
ル化市場経済の元を築いた、オランダやイギリスの東インド会社を
起源とする株式会社の500年をたどっていきます。

 

すると、「大きな市場の需要に応えるため」の「大掛かりかつ永続的
な事業主体」として生まれた株式会社は、その役目を終えつつある
のではないか。そんな結論にたどりつくのでした。

 

さて、株式会社という「近代の共同幻想」は、一生懸命働くこととか、
永遠に利潤を追い求めることが善いことであるという倫理感も育てた
が、逆に人々に「有限責任」という意識も植えつけてしまった。

 

「会社」という「法人」がなにかをしでかしても、だれか一人が決
定的に責任を負うことはない。せいぜい取締役が少しずつ共同で、
責任を分配することで社会的制裁を免れることができる。

 

とりわけ、歴史上において株式会社が、「国家的な軍費調達システム
の一環として考案された」面があったので、その法人の構成員が有
限の責任しかとらないという「免責システム」は、ことさら重要だ
ったのだ。
しかしこの「有限責任という免責システム」が、いまその役割を終
えるとしているのではないか、と筆者は述べます。

 

たとえばこのへんは東インド会社を持ち出さずとも、株式会社論を
とびぬけて、「日本論」としても読めるかもしれませんね。
日本では、「日本株式会社」とかいって、国という大きな集団で経済
成長を目的とした国家運営をした。もちろんそこには、人口増加も
戦略として入っていた。

 

戦前の日本は、近代化による物資の供給過剰と原材料燃料不足いう
試練に耐えきれずに他国に戦争をしかけ、負け、そしてだれもその
責任をとらなかった。そういうことばを使わなかったけれど、指導
者たちはみた、「有限責任」だろ、みたいな態度をとった。

 

筆者はそこまでは言っていませんが、そんなことが株式会社の生い
立ちからその性格から経済政策まで、国の命運を握る性格をつくる
ものとして、いまに続いているようにも思えます。

 

それはともかく、さて、これからは「人口減少」と「総需要の減退」
の時代になる。「総需要の減衰、あるいは供給過剰は、、、文明史的な
パラダイムである」ならば、これからの資本主義社会における株式
会社はどうなるか。
そして未来の経済の構想を立てるためにはなにが必要か。

 

ここにはその具体策が述べられているわけではありません。
「巨大化した株式会社が最後に行きつく場所とは結局のところ、株
式会社同士の闘争であり、国家を利用した蕩尽的な武力行使という
ことになる」という、悲観的な予測が立てられて終わります。
うーむ、なんとも暗く怖いところに落ち着いてしまいました。

 

ブログ259

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第258回 2021.08.03

 

「コロナ後の脱成長」

 

経済成長に頼ることができなくなると、ジモト経済も縮小し、ブッ
クカフェのような小商いはやっていけなくなる。
、、、かと思うと、そうでもない。なんやかんやとヒトのつながりで
やっていけるよ、というのがチョンキンマンションのボスから学ん
だことでした。

 

商売の話はともかく、ちょっと小難しい経済の話は、私には単純化
しないと理解できないことが多いので、この先も、たぶん「そうい
うこと」なんだろうなアと思うことを単純につなげていきますので、
理解不足やあったま悪いなーということがあってもお許しください。

 

「脱成長」(セルジュ・ラトゥーシュ/白水社文庫クセジュ)

 

これからは経済成長に頼った国の財政運営はありえない。
そんな経済成長への不信と消費社会のグローバル化のもたらす負の
影響を感じて、フランスでは、「脱成長運動」というものが普及し
てきた。
「反」成長ではなく、「脱」成長だ。成長しなければ、という呪縛
から逃れようというのだ。

 

国内総生産GDPの増加を目的にした成長政策は、地球環境への負
荷を高め、広い意味のコスト増とリスク増を招いている。
市場経済とグローバリゼーションによって起こったこと。その矛盾
が現われてきている。

 

GDPの増加やそれによる富の蓄積ではあったけど、いわゆる「ト
リクル・ダウン効果」、すなわち経済成長が最初は富裕層を潤し、
その後におこぼれが下層に広まっていく、ということはなかった。
ではなにが起こったか?
逆の「トリクル・アップ効果」だ、不平等と格差が拡大したのだ。
富裕層は貯め込むだけ貯め込んで使わなくなってしまったのだ。

 

だから、と筆者は言うのです。
「GDP計算に入る商品ならびにサービスは有益でもいかなる効用
も提供しないので、その生産を減らし、GDPに入らない非市場の
財・サービスを増やさなければならない。それは自主生産、贈与と
互酬性に基づく交換なのだ」と。
おお、これはチョンキンマンションのボスから学んだことと同じで
はないですか! ・・・えっと、「自主生産」というのは、ボスはし
ていなかったかな

 

ここでちょっと端折りますけど、筆者は、経済成長とか拡大再生産
なんて一種の信仰なのだから、いま必要なのは「脱成長への意識改
革」なのだ、というのです。
それはもちろん、成長によって波及する地球環境への影響や、ひと
の「幸福度・満足度」にもかかわってくる話なのです。

 

少し視点を変えて、日本ではたしかに人口減少になっている。
人口が減るということは、一人当たりの生産性の多寡はあったとして
も、必然的に「『脱』成長」しかないではありませんか?
筆者の主張する「脱成長」は、理念なのか、運動で広めるべき考え方
なのか、私にはよくわかりませんが、少なくとも日本ではそうならざ
るを得ないような気がします。「定常型社会」とか「GDPに依存し
ない幸福追及社会」というのなら、それもそれほど違和感なく受け入
れられる。

 

私は思います。
いいじゃん、GDPが世界何位でも、成長率がゼロでも。
小さなブックカフェのように、ほぼGDPに反映されない商売ばかり
でも、チョンキンマンション的な闇経済が横行しても、ご近所ネット
ワークの物々交換が増えても、いいじゃん。

 

いったいだれが困るの? 
名目GDPが増えないことですか? 消費税が増えない政府ですか? 
景気だけを心配する日銀ですか? 国債を大量に保有する銀行ですか? 
内需に頼る大企業ですか? 

 

ブログ258

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第257回 2021.07.27

 

「コロナの時代からはじまるアングラ経済」

 

「コロナの時代」では、だれもが生活の仕方を変えなければならな
いのはもちろんとして、今後とも変え続けなければならないことが
あるのではないか、そんな話をカフェのお客さんとしています。

 

たとえばコロナ禍においては、感染症対策と経済の活性化の両立と
いうことが盛んに言われたわけです。
でも、なんかなあ、どっちもやるって、最初っからそんなのムリじ
ゃんという気がしてならなかったわけです。多くの方もそうおっし
ゃっていました、理由はわからんけどって。

 

それが、半年たち一年たちして、二波、三波、四波、五波と大きな
波に襲われるたびに、両立はムリという感触が強くなっていきまし
た。
やっぱ、どっちかにするしかないんじゃないか。

 

ワクチンが行き渡って集団で抗体を獲得するまで経済活動は抑える。
まずは経済のほうを我慢する。そのあと元に戻す。
問題は、でもそうなってからの経済活動も、いろいろ変化させざる
をえないだろう。生活の仕方と経済活動のあり方を変え続けること
になるのではないだろうか、と。

 

なんて偉そうに言っていますけど、たとえば、いままでのように
「お金と人をまわしてGDPを増やして経済復活、および国の財政
健全化」なんていう考え方でいいのかどうか、それは大きな疑問だ
と思うわけです。

 

「チョンキンマンションのボスは知っている」(小川さやか/春秋社)

 

そこで、、、いきなりですが、コロナ後に変化する先は「アングラ経
済」だっ! それをこの本が示しているようなのですね。
アングラ経済とは、ひとことでいえば、闇市経済に近いイメージで、
いまの合理的発展的なものとは異なる経済活動とその仕組み、とい
うことになります。コミュニティ通貨とか社会的共通資本とかの、
まともな話でもない。
って私がここで断言しているだけですので、専門家の方、どうもす
いません。って専門家の方はこれ読んでないでしょうけど。

 

筆者は、2016年に在外研究として香港で滞在するうちに、一日100
人以上の外国人が出入りするチョンキンマンションというところに
住むタンザニア人たちと知り合いになる。
このレポートはそんな偶然から始まります。
ここの住民はみんな、なんだか仕事してるんだかしてないんだか、
よくわからない。でもなんとなく生活しているし、国に仕送りまで
している。どうなっているんだろう。

 

そこには「チョンキンマンションのボス」とよばれるカラマという
おじさんがいた。彼は中古車ディーラーなのだが、彼の仕事を見て
いると、通常のビジネスとは異なることに気づかされる。
彼らが行っているのは、たんなるモノの売り買いではなく、「モノ
やサービス、情報がそのとき必要な誰かに自然に回るシステム」の
番人であり、「誰かに過度な負い目や権威を付与することなく回っ
ていく分配システム」をうまく回すことだったりする。

 

その仕組みの中で、カラマは、モノだけでなくサービスや情報を
仲間たちに流し、回し、仲間の売春婦から自動車販売まですべての
ビジネスを円滑にすることで自分の利益を得ている。
いわば口利き屋、仕切り屋、フィクサーだ。
さらに彼のやっていることのなかには、仕事だか遊びだかわからな
いものもまじっている。

 

さて、もともと香港のビジネスには欧米型の個人主義が根を張って
いるから、他者の行動には口を挟まないし、商売の結果は自己責任、
高度な功利主義的な資本主義市場経済が生きている。いや、いた
(過去形)。
しかしカラマたちの作っているシステムでは、メンバーに厳密な義
務とか責任を問うたりはしない。

 

「無数に増殖拡大するネットワーク内の人々が、それぞれの『つい
で』にできることをする『開かれた互酬性』を基盤として、気軽な
助け合いを促進し、国境を越える巨大なセーフティネットをつくり
あげているのである」。

 

このへん、書かれている彼らのビジネスを実際に見ていただかない
とわかりにくいかもしれませんが、これは「社会関係資本」による
ビジネスの、ゆる~い発展版かもしれない、と一瞬思ってしまいます。
「一瞬」というのは、彼らタンザニア人は、定住者ではなく一獲千金
を夢見る商売人で、つねに移動する者たちなので、結局は香港という
地域コミュニティへの継続的なかかわりを持つことがないからです。

 

彼らはみな、儲けるために香港に来た。そのとき信用が元手になる。
そこにいる間は仲間たちのあいだでは助け合うことができる。それも
「私があなたを助ければ、だれかが私を助けてくれる」という開かれ
た互酬性(ゆる~い「おたがいさま」)によってだ。

 

当カフェに、永年ケニアやタンザニアで暮らしてそのビジネス事情に
詳しいお客さんがいたので伺ってみると、アフリカの人たちの商売は
けっこう悪どいときがあるらしいですね。
詐欺まがいにひとをだますこともあり、よくいえば商売にシビア、儲
けにうるさいらしい、たしかにそれはあると。

 

だから私たちから見ると、タンザニアだろうがケニアだろうがナイジ
ェリアだろうが、「あのへん」の国々のご商売のやり方は、なにか信用
できないという先入観があることは確かです。

 

だから「アングラ経済」といわれると、どうしてもそういう怪しい裏
街道のイメージがつきまとってしまいます。
でも「商売」の基本は、いつの時代であっても、どこの場所であって
も、いや、タンザニアやナイジェリアの出稼ぎであろうが、往年のユ
ダヤ民族のように定住するひとたちであっても、だからこそ、そのと
き所属するコミュニティでの人間くさい助けあいが元手になっている。

 

というわけで、コロナ禍のいま、経済活動で否応なしに変わっていく
もの、それがこのタンザニアのコミュニティとチョンキンマンション
のボスが体現していることなのかもしれません。
問題は、この「アングラ経済」はGDPに貢献しないだろうというこ
とがひとつ。もうひとつは、このボス、これからの香港で商売してい
けるのかなあ、という疑問なんですけど。

 

ブログ257

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第256回 2021.07.20

 

「禁じ手のダブルバインド」

 

コロナ禍では多くのおかしな状態が出現しました。
非常事態宣言で学校の部活や行事を中止させ、いっぽうでオリンピ
ック・パラリンピックは「開催する」という。
ひとの移動を制限するといいつつ、ゴー・トゥー・トラベル政策を
やめない。人流を抑えるといいつつ、多くの人が電車でいかねばな
らない都心で大規模ワクチン接種をする。リモートワーク促進と言
いつつワクチンの職場接種を進める。

 

あなたの行動が人の命を救うといいながら、役人や議員は酒席の会
食をくりかえす。岩盤規制を打ち壊すとしながら、ワクチン承認手
続きや接種者の資格要件はなかなか変えない。ネット予約のできな
い高齢者に「あせらずに予約しろ」と言う。

 

これ、ただの「おかしなこと」では済まないですよね。
「失敗」や「間違い」や「力足らず」でもありませんよね。
ここには、じつは「ダブルバインド」という、日本にかけられた大
きな呪いが存在するように思えるのです。

 

ダブルバインドとはなにか?
「矛盾した命令を受け続けることで、そこから逃れられなくなるこ
と」という、グレゴリー・ベイトソンが名づけた状況です。
「二重拘束」という日本名そのまま、相矛盾する指示命令によって
相手を混乱させ、精神的に支配するという高度なテクニックなので
した。
政府による矛盾する指示命令を受け続けて、「心が苦しくなる」とい
うひとがいましたけれど、それはまことに故あることなのでした。

 

たとえば、母親が子どもに優しい声で「こっちへいらっしゃい」と
いいながらも、目や態度では「来るな」と表現しているとする。
「勉強しなさい」と命令しつつ「ちょっと夕飯のしたくを手伝って」
と頼むとする。
すると子どもはどうしていいかわからなくなります。
どちらなのか。どっちに従っても怒られる。

 

そうしてだんだんと混乱の度を深め、心が苦しく弱くなって、言わ
れたとおりにできない自分が悪いに違いないと思いこむ。そんな、
逃れられないワナにはまって、いつまでも母親の支配下に置かれて
しまう。
これが嵩じると自己肯定感を低下させて、「呪い」に縛られたかの
ように身動きできなくなるのです。

 

ジョージ・オーウェルの名作「1984」に、権力者の標語として、
「自由は隷属なり」「戦争は平和なり」「無知は知なり」などという
矛盾することばがでてきますが、これもダブルバインド。
矛盾することをキッパリと言い、でもって、市民を精神的に混乱さ
せて統治する手法というわけです。

 

これと同じことを政治・行政でおこなったのが、コロナ禍の日本だ
ったとしたら、どうでしょう。
政府は国民を支配する技術としてダブルバインドを採用したのでは
ないか。だって実際のところ、私たちは身動きができないように感
じたわけですから。
私はそう思って、でもこれって、なにかほかでも読んでいたよなと
思ったことでした。

 

そう、カフカが描く世界がそれでした。
そっか、地下鉄大手町駅の迷路を使って、高齢者がたどり着くのが
難しそうな(じっさい、事前に何回も道順を確かめた方がいた!)
大規模集団接種会場を設定して政府が再現しているのは、カフカの
世界だったのだ! 怖い話です。

 

「カフカ短編集」(フランツ・カフカ/岩波文庫)

 

カフカの小説の主人公たちは、理解できない、相矛盾する命令に右
往左往しながら動かされていく。
彼らはまるで、カフカと同時代に生きたマーラーのシンフォニーに
感じる千鳥足のように、あっちいったりこっちいったりする。与え
られる命令・指示に、どうとようどうしようとあがくのです。

 

ただしその命令・指示は、もちろん母親からでも作曲家からでも政
府から出たものでもない。
どこから出たのかわからない。だれかが「発出」したものかわから
ない。だからよけいにどうしたらいいのかわからない。

 

この短編集に収められている「判決」も「田舎医者」「流刑地にて」
なども、みな同じです。
「判決」では、自分が介護している父親の、自分に対する意味不明
な判決によって、主人公は自殺に追い込まれてしまう。

 

「掟の門」では、主人公は門番によって門を通してもらえずに、死
ぬことになる。そのとき門番に「どうして私以外の誰ひとり、中に
入れてくれといってこなかったのです?」と尋ねると、「ほかの誰
ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだ
った。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」、と言われてしまう。

 

どうしてこんなに困難な、いや困難というより、不条理な状況に陥
ってしまったのか、主人公たちにもわかりません。読んでいる私た
ちにもわかりません。
ただただ、どうころんでもダメ、どっちを選択してもダメ、という
状態に追い込まれ、どーしたらいいんだ?と途方に暮れるだけ。

 

似てないか? 似てますよね、コロナ禍の日本の私たちと。
そういえばカフカの小説執筆は、第一次大戦後のいわゆる「スペイ
ン風邪」流行のあとに活発になりました。これはたんなる偶然でし
ょうか?

 

さて、「夜に沈んでいる」と始まる短編があります。
そこには、「お前は見張りの一人」だ、人びとは安らかに眠りこけ
ているのに、「なぜお前は目覚めているのだ? 誰かが目覚めてい
なくてはならないからだ」、とあります。

 

ここで「お前」と呼びかけられているのはカフカ自身で、彼は
「薪の山から燃えさかる火をかかげて打ち振りながら、次の見張
りを探している」のに違いありません。

 

つまり、ダブルバインドという禁じ手が使われる社会においては、
だれかがこの「見張り」のお役目を果たさなければならないと彼
は考えたのではないでしょうか。それが自分の役目だと感じてい
たのではないでしょうか。そして、それが彼を苦しめたのではな
いでしょうか。

私はそう感じて、なんか心が苦しくなって本を閉じたのでした。

 

ブログ256

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第255回 2021.07.13

 

「被写体そのものの凄みをそのままに」

 

レスリー・キーさんが、被写体としての「ヒト」を、その一番個性
的な部分をうまく取り出す写真家だとすれば、世界中の少数民族の
写真を撮って、被写体のもつ特徴を余すところなく掬い取ろうとす
るタイプの写真家がいます。
その多くは、アメリカの雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」系
の写真家でして、私はやや敬遠気味にすごしてまいりました。

 

というのも、なんというかなあ、彼らの写真には被写体に対する敬
意が感じられないことが多いのよね。
文明国から来たカメラマンさんが、未開人の生態を研究のために撮
っておいた、みたいなイメージが私の側にあったような気がします。
たぶん見る側の誤解でしょうけど。

 

しかし、こんな写真集を見てしまうと、いやいや「真を写す」と
はほんとうはこういうことだ、と気を引き締めさせられるのでした。

 

「彼らがいなくなる前に」(ジミー・ネルソン/バイ インターナショナル)

 

すばらしい、シビれる、圧倒される、目が飛び出る、写真集。

 

世界各地の「失われつつある民族の生活や文化」を、「肖像」とし
て撮影したもので、解説によると「彼らの姿は、自然との親密な調
和のなかに生きるという、現代社会においては稀有となった生き方
を、わたしたちに力強く示しています」ということです

じっさいどの写真も、ものすごくリアルな存在感のあるもので、撮
る側の敬意も感じられ、これはもうレスリー・キーさんでなくても、
アウグスト・ザンダーさんでなくても、彼ら被写体の姿そのものが
尊厳に満ちた人間とはなにかを示してくれています。

 

アフリカのムルシ、マサイなどの有名な民族だけでなく、インドと
パキスタンのドロクバ、ネパールのムスタン、ラダックの人びとの
衣装、ニューギニアのダニ、ヤリ、コロワイなどの超少数民族の生
活そのもの、パプアニューギニアのフリ、アサロ、カラムの誇り、
バヌアツの狩り姿、アルゼンチンのガウチョのおじさんの顔、どれ
もこれも「ホーッ」というため息のでるカッコいい写真ばかり。

 

ところでコロナ禍においては、こうした、なんというかヒトの生き
る力がモロに飛び出るモノが流行るのではないでしょうかね。
ひとの力が表される、たとえば原色の衣装、装身具、武器、インテ
リア、化粧のしかた、などのことですけれど。

 

たとえば、ユナイテッドアローズの粟野宏文さんは、
「モード後の世界」(扶桑社)
で、「ファッションの方向性を決定するのは社会潮流である」と言っ
ています。「ポスト・パンデミックの世界で、人はなにを着たいだろ
うか」という設問がでてくる。
ファッションは、自己の確認や他者の認識、相互のコミュニケーシ
ョンを深め、理解を促すものなのだ。だって「着ることは人間の尊
厳にかかわることだから。」

 

粟野さんは、コロナ禍のあとにファッションはどのように変化する
かと聞かれ、「日本人がいままで苦手だった『意思決定』に際し、従
来以上に深く強く踏み込んでいくだろう」とし、その結果「ある種
の強い服」が支持されるのではないか、と答えています。
そういうことだろうと思います。

 

もしそうなるとすると、この写真集に登場する称する民族の「強い
意思表示」としての「強い衣装」に関心が集まり、その姿勢がより
好まれるかもしれません。
それが、個人と仲間と民族の生きる力の象徴となっていく。

 

だから、家に閉じこもっているので体力が落ちたとか、体を動かさ
ないので免疫力が落ちたとかお嘆きの諸兄におかれましても、なに
かのおりにこんな写真集を見ることで、「生きる・やる気スイッチ」
がオンになることがあるのではないかと思います。
では、みなさん、いっしょにがんばりましょう! って、なにを?

 

 

 

ブログ255

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第254回 2021.07.06

 

「撮られる側に感謝される写真家」

 

先日、当カフェが、朝日新聞デジタルさんという媒体の取材を受
けました。
デジタル紙面で、ブックカフェを扱う連載記事があるのだそうで、
まだ削除されていなければ、このURLで見られます。
https://www.asahi.com/and/article/20210521/404629639/ 

 

しかし、ネットで配信する新聞に、アナログそのものであるブック
カフェの紹介を出し続けているとは、これいかに。

 

で、そこに掲載された写真が、ものすごくいい仕上がりで、えっ、
ウチってこんなにきれいだった?と驚いたものでした。
記事を見た方からは、「いつリフォームしたの?」って訊かれるくら
いのキレイなでき。
さすがプロのカメラマンさんに撮ってもらうと違うもんです。
店の写真も内容も紙面をご覧いただくとして、さて、そのときの
カメラマンさんが妙齢(セクハラ表現ではないですよね?)の女性
でした。

 

そういえば、と思い出したのは、以前に文藝春秋社さんに、太田愛
さん(テレビドラマ「相棒」の脚本を書かれたり、「犯罪者」「天上
の葦」などのベストセラーを書いているミステリー作家)のインタ
ビューで場所をお貸ししたときに、まわりにバリバリと指示を出し
ながら撮っていたのも妙齢の女性カメラマンでした。
カメラマンに女性が増えているのかな? それはともかく・・・・

 

「SUPERな写真家」(レスリー・キー/朝日出版社)

 

シンガポール出身の写真家レスリー・キーは、ものすごく人気のあ
るカメラマンです。男性です。おもに人物を撮っています。
撮られる側からも、彼に撮ってほしいとラブコールを受ける方。
まあ大変な苦労をした経歴の持ち主で、この本に書かれているよう
に、いろいろ紆余曲折ありつつ努力を重ねて、いまや人物やファッ
ションなどの分野でトップカメラマンの地位を築いた。
私はあるときテレビでその仕事を見て、すごいバイタリティだなあ
とビックリしたものでした。

 

モデルさんを前にしゃべることしゃべること!
「イイねえ、こっち向いて、笑って、動いて、自分の得意ポーズで
キメテ、おっと、こんどはこっちだ、カメラ向いて、イイヨイイヨ、
、、、」と、しゃべりっぱなし。
モデルさんも、なんだかだんだんいい気分になって顔つきが変わっ
ていきます。

 

おお、ニンゲンの「素」を写し撮るとは、こうすることか。
世に聞く「カメラマンがモデルをおだてていい気にさせて、そんで
もってベストショットを撮る」というのは、こういうことか。
篠山紀信が、モデルにいろいろ話しかけながら撮ったふりをしつつ、
最後に一枚だけシャッターを切る、という伝説もこういうことか。

 

紀信じゃないほうのキーさん曰く、「プライベートな関係性で人は露
わになる」「あたりまえを超える写真を撮る」「完璧さを求められる
から細部にこだわる」「リスクを背負ってでも自分を貫く」「人生の
シャッターチャンスにひるまない」。
こういうことを言う、正直な写真家なのでした。
「こういう」って、どういうのかわからないけど、しっかりと臆面
もない人生哲学をもっておられる。

 

本の最初に掲げられた、松任谷由実さんからの賛辞が、これまたす
ごい。「リスリーに作為は全くない」と。
「レスリーは神様かもしれない。レスリーが『撮らせて!』と言っ
た瞬間から、そのひとはレスリーと友だちになっている。そして安
心してレンズの前に立つ。」
写真に撮られることが、一種の快感になっていくのでしょう。
そうして取られた彼の写真は、撮られた本人以上に本人している。

 

だからある面、彼はカメラマンというよりは「お客様第一に考える
営業マン」かもしれません。お客様の自己開示欲求と自己実現欲求
までもかなえる営業マン。
コミュニケーション能力抜群なので、保険の外交なんかやらせたら
トップの成績をおさめるのでしょう。それも、クライアントが、
「ああ、この保険に入っておいてよかったなア」って思うような商
品を売り、感謝されるような理想の営業。

 

これは、ことばでいうほど簡単なことではないのです。
感謝される営業マン、感謝される写真家。リスリー・キー。
稀なひとです。
ところでじつは私も、朝日新聞デジタルの女性カメラマンさんに、
「リスリー・キーさんみたいに撮って!」と頼んだところ、彼女も
ノリよく、「はーい、こっち向いて、いいですよー、笑顔イイヨ、
カワイいですねー」と声をかけながら撮ってくれたのでした。

 

出来栄えはわからないけど、とても楽しかったし、乗って撮ってく
れたカメラマンさんに感謝です。

 

ブログ254

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第253回 2021.06.27

 

「ヘンで不思議な、人間たちの肖像」

 

ところで私の好きな写真家のひとりに、アウグスト・ザンダーとい
う方がいます。
20世紀初頭に活躍したドイツの写真家。カフェに置いてあるのは肖
像ばかりの写真集ですが、ふつうの人びとのポートレートなのに、
なんか不思議な感じの、なんというか、微妙な不安のオーラが漂う
ものばかり。つまり、ちょっとヘン、なのです。
それについて、

 

「写真家の時代2 記録される都市と時代」(大島洋責任編集/洋泉社)

 

の中の、ザンダーの項を解説した多木浩二さんはこう言っています。
「アウグスト・ザンダーには、不思議なことにどんな写真家にも似
ていない面がある」と。
それはいったい、どういうことですかね?

 

「彼は一人ひとりの人間を、彼らが幸福であるか不幸であるか、善
であるか悪であるかにかかわらず、それを否認することなく把握し、
見事に固有性をそなえた表象にしている」が、じつはそれは、彼が
誇大妄想的な計画として「20世紀の人間たち」という途方もない世
界観を語ろうとしていたからだ、というのです。

 

つまり彼は、あらゆる種類の人間とその表情を写真に残そうと計画
した。それは、ザンダー自身のことばのとおり、「私の本来の意図は、
ドイツ人の一時代像を容貌のうちに見る試み」なのだと。
ふたたび、これはどういうことか?
多木さんによると、「ザンダーの写真は、歴史を神話として語り、そ
の謎も欠陥も問わず、しかし歴史をひとつの力として存在させる」と。                                                                                                                                          
三たび、そりゃいったい、どういうことだ! 

 

写真家も評論家も、カッコイイことばに酔ってはいませんか?
もうちょっとシロートにもわかるように表現してほしいなあ。
しょうがないので、写真家ではないシロートな私が受けとめ得た感
触をお伝えしましょう。

 

たとえば、よく知られたザンダーの写真に、「舞踏会に向かう三人
の農夫」というのがあります。
畑の中を帽子をかぶってスーツを着てステッキをついておめかしし
た若い三人の農夫の写真。まるで、うしろから写真家に呼び止めら
れて振り返ったかのように、すこしだけ体をななめにカメラに向け
て、気取ったポーズをとっています。

 

見る側の私は、ここに「時代像」とか「神話」や「歴史」という大
げさなことを見て取るよりも、この写真を撮られたあとの三人はど
うなったのか、にとっても興味をそそられます。
舞踏会での首尾はどうだったろう? 三人はこのあともずっと農業
を続けていったのかな? どんなひとと結婚して、どんな人生を歩
んだのだろう? 戦争には行ったのだろうか、などと。

 

同じような感想をもつ人は多いと見えて、微妙なオーラ漂うこの一
枚の写真にインスパイアされて、その名も、
「舞踏会に向かう三人の農夫」(リチャードパワーズ/河出文庫)
という小説をかいた作家もいたくらいです。
この小説は、作家が想像した三人それぞれのその後の人生を描いて、
それはそれは面白いものでした。若い三人の顔がだんだん歳を重ね
ていくのが見え、そこに苦労や喜びの跡が刻まれていくのがわかり、
もう、この三人の農夫が自分の親戚になったかくらいの勢いでした。

 

もしかしたらこの写真には、三人の農夫の未来がすでに描き出され
ているのかもしれない。そんなふうにも思えてきます。この後の、
ドイツの戦争をはじめとした大変な事態を先取りしたかのような、
不穏な未来が。

 

そうであれば、ここには「未来の歴史」が刻まれているといってい
いのかもしれませんし、預言があらわれているのかもしれません。
いずれにしろザンダーの撮る人物は、この農夫に限らずなにかヘン
なところがあり、そこには、必ずしも幸福な未来を約束されたとは
いえないものがあるのでした。
思えば不思議なことなのです。

 

さて、このザンダーの写真の方法とは、彼自身に言わせれば、
「見る、観察する、そして考える。われわれの時代像を提示するた
めには、絶対的に自然に忠実な写真によるのが何よりも適切である」、
ということでした。
これについても、そのとおりなのかどうか、私にはわかりません。

 

ただし、彼の写真になにかの作為を感じるかと問われれば、いや、
そうは感じないと答えます。あるひとつの「眼」が見て、観察した
現実そのままがここにあると感じられる。
興奮も静寂も与えない、冷徹な眼がある。
この写真家は、過酷で残酷な「眼」で現在を記録にとどめた。
それが彼を「未来の歴史家」にした。多くの「20世紀の人間」に影
響を与えた「預言めいた視線」として残ることになった、と感じる
のです。

 

そしてそれが、ヘンで不思議な写真の効能、ということなのでしょ
し、彼の写真に「未知の世界を解明する」扉を感じさせることにな
った、ということではないでしょうか。

 

ブログ253

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第252回 2021.06.22

 

「写真論の失敗というか、罠にはまったというか」

 

写真家のだれもが、なぜ自分がこういう写真を撮って、こういうふ
うに見てもらいたいのかをわかってほしいという、やむにやまれぬ
欲望に駆られているのだと、私は推察します。
ゲージツ家ですからね。自作を語る作家や、絵画展で自分の絵の横
で解説する画家と同じです。

 

それをもっとカッコよく言えば、
「写真家の使命とは、未知の世界を解明することである」(スティ
ーブン・アルバレス)ということならば、多くの写真家はその使命
を自覚し、見る人にも、自分が解明した世界、を認めてほしいのだ
と思います。
もちろん、その志はかけがいのないものです。ゲージツ家ですから。

 

自分の撮る写真によって、いままでだれも目にしたことのない、未
知の世界が現れてきてほしい。いや、自分の力でいままでだれも見
たこともないものを写し取りたい。
そうした動機に基づいたものであれば、解説をつけた写真を発表す
るのは立派な行為です。
それはそれで、よし、と。

 

ところがいっぽうで、写真を生業(なりわい)としていないひとが
書いた写真論というのも数限りなくあります。
彼らは写真家でもないのに、いったいなぜ写真を論じるのだろう?
というのが、昔っから私には疑問でした。

 

写真というのは画像としての情報量が多く、文字に比べて感情的反
応を引き起こしやすい媒体です。だから、個人によって受けとめ方
に差がつく。
悪くいえば、あいまいである。いろんな意味にとることができる。

 

それをなぜ、自分はこの写真をこう見るかをわざわざ言ったり、こ
こからなにが見えるかとか、そもそも写真というものはとかを声高
に言うのか?
それは、ほかの人にとっては大きなお世話ではないのか。
だって、リアルの感じ方はひとによって全然ちがうのだから・・・

 

「明るい部屋」(ロラン・バルト/みすず書房)
「写真論」  (スーザン・ソンタグ)

 

ということで、このふたりの高名な評論家による高名な写真論をこ
こでまとめて取りあげるという暴挙にでるわけですが、しかもじつ
は私、この二つの本の内容をほとんど理解できていないことも、告
白しなければなりません。

 

きっと、写真に興味のある方にとっては、基本中の基本図書だとは
思うのですよ。でも、中味が難しいんだからしょうがない。
私もここで、いちおうこれらを読みましたという「言い訳」をして
いるようなもんです。いちおうベートーヴェンの弦楽四重奏のうち
一曲は聴いてますもん、だからクラシック音楽を語ってもいいじゃ
ないですか?みたいな、、、、ホントすいません。

 

さて、その「むずかしさ」の理由として私が思うのは、彼らが写真
家ではないことではなくて、彼らが、写真をネタにして自分の関心
事を書いているのではないかということなのです。

 

内容が難しいとグチを垂れる読解力のない人間にそんなこと言う資
格ないよ、と言われるのは覚悟のうえで、今回は彼らへの悪口を言
っておくことにします。
たまには悪口もいいじゃない! 斬り捨て御免!

 

まずロラン・バルトは、とりわけ自分の好みの肖像写真の理由を述
べ、そのうえでそこに現れる「写された人間」のオーラから、自分
の死んだ母親への追慕の情を取り出してつづっている。
それははれで、いい。解釈に個人的な経験を上乗せするのは、アリ
だ。小林秀雄だって「モーツァルト」でやっている。

 

いかんのは、それを「写真とは〇〇だ」という何十もの異なる定義
でカモフラージュしていることだ。そんな定義は必要ない。
さらに彼には、お得意の「物語分析」という手法があって、物語と
はいろいろな文法的要素が組み合わさったものだから、その構造を
「機能」や「指標」というものに分解していけば正当な解釈となる、
という信念がある。

 

そこで写真を物語として説明しようとして分解し、けっきょくのと
ころ全体を見失っているのである。文学を解釈するための記号論の
応用なんて、「屁」みたいなもんだ。わーったか?えへん!

 

いっぽうスーザン・ソンタグは、写真の歴史を語りながら、そこに
現れる社会的欲望の分析と解明をしようとしている。
彼女だって、ダイアン・アーバスの写真が好きなら、それだけを取
り上げて、自分がなぜそれを好きなのかを問いかけるだけで充分な
のにさ。写真によって巻き起こされた自分の感情を素直に言えばい
いのにさ。たぶん、女子高生のように「〇〇の写真がスキ!」って
言うのが恥ずかしいのだ。だから、もったいぶる。

 

どうしてみんなもったいぶるのだ?
いずれも動機が不純なんだよね。
たぶん「不安」なんですよね、彼らが感じた感情とは。
たんなる「スキ」じゃなくて。

 

彼らはダイアン・アーバスとかメイプルソープの写真(たしかに、
見るひとのココロをざわつかせる写真だ)を見て感じた自分の不安
の原因を知りたいと考えた。
それが彼らをして、写真をネタに彼らが作りあげた方法論を応用し、
さらに自分を解釈するという暴挙に走らせたと思うのです。
でもその動機を自覚できずに、解釈技巧に走った。
しかしそれは不純なのだ。

 

写真を見て不安を感じるというのは、見るこちら側が安心の場所に
いるからでしょう? 違います?
そして写真にかぎらず、絵(ゴッホとかムンクとか)でも、私たち
が見て不安を感じるものというのは、「なんだかよくわからないが
感じる」という種類のものです。
理由がわからないから「こそ」不安になるはずです。

 

安心のこちら岸にいる者が、そこに居続けるために、自分の感じた
不安をクドクドと理屈で説明している。それによって安心を得る。
この二人の本が、私にはそう感じられてしかたがないのです。

 

ロランもスーザンも、「未知の世界を解明」しようとする写真家の
罠にはまった。自分の筆の力で写真家を助けて、いままでだれも目
にしたことのない、未知の世界を露わそうとした。
私は、彼ら思想家の役割とは、文章の力で「世界に秩序をもたらす」
ことだと思っていました。しかし彼らにとっては、そうではなかっ
たのかもしれません。彼らは、自分の世界に秩序を取り戻したかっ
ただけではないのか!

 

ブログ252

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第251回 2021.06.14

 

「記録のカメラから、おしゃべりのスマホへ」

 

写真家はなぜことばを発し続けるのだろう?
写真というチョー強力なメディアをもっていながら。
なぜ自分の写真を解説するのか。説明をつけるのか。そしてなぜ写
真家の書いた本がたくさんあって、それを私が読んでいるのだろう
か?
なーんていうことが、このところの私の関心であるわけですが。

 

たとえば、自分がよくわからない写真を撮って、それをわからない
まま発表したっていいじゃないか。見るひとになにか感じさせるも
のがあればいいだけの話じゃないか。見るひとに見たいように見て
感じてもらえばいいじゃないか。
「時代を切り取る」のだったら、とりあえず切り取っておいてその
解釈は見る側にまかせればいいじゃないか。

 

だいたい、写真を撮るときに、最初からその現実を「理解」して、
論理的に「頭で」撮っているわけではありますまい? 
だったら、ことさらそこに、なんらかの「メッセージ」とか「意味」
を後づけしなくたって、そのままでいいのじゃないか?

 

写真をことばで補完したり、いわゆる「写真論」を書くという行為
は、ことばによって無意識を意識に、偶然を必然に変換したほうが
伝わりやすいという優しい誤解に基づくものではないか。
しかし写真もことばも、見るひとや聞くひとを裏切る。
写真がことばを裏切り、ことばが写真を裏切る。
それも、デジタル技術の進化によってよけいに。

 

「新写真論」(大山 顕/ゲンロン)

 

この本の著者も写真家ですが、やはりその文章はおしゃべり系で、
かつ論理的明解なものでした。
わからないことをわからないままにしておくのは嫌だ。そんな気合
に満ちた文章とでもいうのでしょうか。

 

ただしここでは、写真史とかいうものから離れて、現代のように、
だれもがケータイで写真を撮ってSNSに上げる時代の、写真の価
値に焦点をあてた論考となっています。

 

カメラとスマホはどう違うのか。なぜだれもがセルフィ(自撮り)
をするのか。それをSNSに投稿して「いいね」をもらうのに、ど
んな価値があるのか。
そういうことを考察しながら、現代の写真の意味、というか写真を
撮る意味、を探ろうというわけです。

 

「自分の撮った写真をSNSにせっせと投稿し、なるべく多くの人
に見てもらうべくフォロワーを増やすといった作業」は、かなり奇
妙で、「労働」っぽい。と彼はいいます。
なぜそんなことに時間を費やし、価値をおくひとが多いのか?
もちろん「いいね」を多くもらって、自分の存在価値を認めてもら
ったり承認欲求を満たしたいからだ。それはよくわかる。
でもそれだけだろうか。

 

筆者の結婚式のとき、「式の様子をSNSにアップするのは控えて
ほしい」と言ったら、参列したひとはみんな写真を撮るのをやめて
しまった。
これはだれもが、「シェアできない写真は撮る意味がない」と思っ
ている証拠ではないだろうか。それって、おかしくないか?

 

カメラの役割が「記録する」ということと「世界を切り取る」とい
うことだとすると、いまはすべからくSNS上のシェアがないとそ
の二つが達成できないと思われている。

 

つまり、カメラで写真を撮るときの「撮影―現像―閲覧」プロセス
はなくなり、「カメラと閲覧装置はスマートフォンという形で一体
になった」のだ。そしてそのなかでも「閲覧」が最も重要になり、
その流れのなかで「いいね」という評価をもらうことが撮影行為の
目的となった。いっぽう、プリントしてアルバムに残していく作業
はなくなってしまった。

 

つまり、写真の機能は「記録」でも「切り取り」でもなく、「友達
同士であるいはSNSでネタとして投稿するために撮られて」いて、
「それは記録ではなくいわば『おしゃべり』のようなものだ。」
というのです。

 

とするなら、逆に現代は、写真やことばが見るひと聞くひとを裏切る
とか、写真がことばを裏切りことばが写真を裏切るなんてことはなく
なっているのでしょう。だって、SNS上で多くのひとの「評価」を
受けてしまうのだから。

 

もはや「記録」とか「芸術」とか、「事実かリアリティか」、なんてこ
とばで写真を語る時代ではないのだ! 
写真を撮るひとが、おしゃべりであろうが寡黙であろうが関係ない。
説明行為などなしに、写真は自分で自立していて、ネットのなかで生
き、おしゃべりのネタとしての「いいね」を取りに行くのだから。

 

ブログ251

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第250回 2021.06.08

 

「偶然が必然化されたリアルな写真」

 

私は、写真には写真家による説明は要らないのではないとか思うん
です。みなさんはどう思われますか? 
雑誌に掲載する写真ならともかく、解説とか背景説明とかコメント
とかキャプションとか、必要でしょうか?

 

もしかするとそれは、作品の背景やそれを撮った動機などの周辺情
報を加えることによって、多少なりとも作品としての奥行を与え、
もって見る側の納得感を高めることができるのではないかと考えて
のことかもしれません。
「自己のとらえた事実をさらに検証する」までではないとしても。

 

逆に、言いたいことや表現したいことが先にあって、それをわかっ
てほしいという気持ちが強くて、そのことばを補強する材料として
写真を使うこともあるかもしれない。
それはつまり、小説の挿絵みたいな意味で、ですね。アプローチと
しては逆方向に、ですね。ことば先の写真あと。歌づくりのときの、
詞が先かメロディーが先かみたいに、ですね。

 

すると、もしそれがうまくいかないとなると、ことばがしゃしゃり
出てきて、自分の写真を解説したりする。
自分の思いと検証結果と、見る側の受け取り方がスレ違うことにい
ら立って、写真に任せきれなくなってしまう。
これが写真家の葛藤になるのでしょうね。

 

「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」(森山大道/青弓社)

 

森山大道は、1970年代から活躍し、今年2021年には、彼のドキュ
メンタリー映画が公開されるなど、その作品にはいまなお多くのフ
ァンがいます。
1970年代、時代が煮立っていたとき。
そんななか、コントラストの強い、モノクロでザラザラの質感のプ
リントで、新宿の裏道などの風景と世相を切り取ったのが彼の仕事
でした。

 

見ていると、なんだかわからないが、まるで手で触れるようなナマ
の現実が力強く立ち上がってくる。
「アレ・ブレ・ボケ」と評され、あまりに目にガンと突き刺さるよ
うなインパクトが強い写真が多いので、だれもが一回見たらなかな
かその印象から離れられなくなるのでした。

 

私はそんな彼に、あまり「写真家の葛藤」を感じません。
本能に導かれてガツンと撮ってガツンとプリントするだけ、みたい
な。長嶋茂雄みたいに、ボールがビュッと来たらグンと腰を回して
ガッと振る、みたいな。そんな感じを受けます。

 

彼はそんなふうに、ある風景なら風景との一瞬のすれちがいを切る
ような方法をとっていて、それを「擦過」と表現していたようです。
それは、まだ写真技術が未発達の19世紀末に、ウジェーヌ・アジェ
がパリの街角を撮った写真に似て、どうしようもなく「一回性」を
感じさせる方法でした。
ボールがビュッと来たらグンと腰を回してガッと振る・・・・

自分がたまたま居たある瞬間を形にとどめたい、それは写真家とい
う職業に強く付きまとう感覚であり、すると、本当のところは解説
を拒否するのが彼の写真であり方法論だったような気がしてなりま
せん。

 

さて、この本のなかには彼の写真だけでなく、随筆や対談などが掲
載されていて、なかでも「わからない写真家大いに語る」という鼎
談がおもしろいものでした。
1973年当時に売り出し中の、森山大道、荒木経惟(アラーキー)、
深瀬昌久という、批評家から「君らの写真は、わからないなあ」と
言われていた三人の若手(50年前の)写真家の鼎談。

 

まあ、三人ともしゃべることしゃべること! 大いに語ること!
文字になってるからわかりにくいかもしれませんが、相手のことば
に乗っかるようにして、つんのめってしゃべっている。たぶん。
カメラマンにはおしゃべりが多い。そんな気がしてきます。

 

それは70年代前半の雰囲気だったかもしれませんが、オレは自分の
思うことをやるんだし、あんたら年寄り(の評論家)も多少は俺た
ちのやっていることを理解しようとしろよという、気概にあふれた
表情が垣間見られます。
つまり彼らは、理論と実践と感情が一体化しちゃってる方々でした。

 

そのなかで森山は、リアリズム観についてこう述べています。
「リアリズムって感じを日常として意識することはほとんどないけ
れども、視線のありかにはこだわっている。荒木さんは、視点その
ものもバラバラにしたものがあって面白いけど・・・」
この「視線のありか」とは、自分の立ち位置の自覚ということでしょ
う。どっち側にいるの?みたたいな。 

 

また、写真とことばとの関係については、
「解説というのはいくらやってもかまわない。(中略)感じさせる写
真というのは解説も含むと思うんです」、と言っています。
あの頃はつねに、「お前はどこからモノを言っているのか」と厳しく
追及される時代でもありましたから、自分の立ち位置を相手に説明す
必要があった。だからこれは、写真自体の解説のことではないと思い
ました。

 

だから、見る人に「わからないなあ」なんて言われても、じつはぜん
ぜん平気。だって立ち位置に自信があったから。長嶋茂雄だったから。
そして、「イメージ伝達の道具としての文字、あるいは言葉の不思議
さ、文字や言葉は映像だという気がするわけです」と、言うのでした。
解説によって作品としての奥行を深めようなどとはしない。

 

いっぽう、彼の批判する土門拳の写真も、解説やキャプションが不要
だった。土門拳の写真は写真としての自立を強く目指していた。
しかし森山は、「そんなふうに、自分の生のなかでのリアリティという
形で考えたとき、ぼくは土門拳さんの写真はどうしてもいまだに認め
られない」と言います。

 

写真界の大御所土門拳は、リアリティよりむしろ、永遠性とか普遍性
を希求した。一回性のような偶然を拒否した。逆にいえば、この被写
体は「私のこの写真」としてすべて表現されつくしている、といった、
見る側にある種の価値観を強要するものに思えた。

 

いっぽうの森山はどうか。
写真って、みんながなんか「感じて」くれればいいじゃん(70年代風
のノリで)。わかってくれなくてもいいよ。たとえば、オレと一緒に新
宿を歩くように街や人を見て、アンタもなにかに衝突してもらえれば
いいのさ。写真を撮るときのオレの立ち位置はそーゆーこと。それが
「写真」の「真」なのヨ、というか「真」のとらえ方なのヨ。
それが「デキゴト」なのよ、彼はそう言っているような気がします。

 

私はこれは、寺山修司の「幸福論」に通じる「偶然の写真論」だと思う
のですが、いかがでしょう。
たとえば岡本太郎に、「写真というのは、偶然を偶然で捉えて、必然化
することだ」ということばがあります。これは森山にピッタリあてはま
る。そして寺山修司のことばを借りれば、森山の写真は、偶然という個
人的なものを必然という社会的なものに変えたのだといえないでしょう
か。

 

ということで、シロートの雑なおしゃべりはこのへんにして、彼の写真
に導かれて私たちも、偶然が必然化されてザラザラとした感触になった
1970年台の街に、ヒリヒリとした痛みを求めてタイムスリップさせて
もらいましょう。
長嶋もいた時代だし。

 

ブログ250

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第249回 2021.06.01

 

「見せたいものと見たいもの」

 

文章を読むときに、読み手にはそのときの気分によって読みたいも
のと読みたくないものがある。
いっぽうで書き手には、それを書いた時点で、ふつうに読んでもら
えるものと、別の意味に読み取ってほしくないもの、そして書いて
はいないけど読み取ってほしいことがある。
うまく言えないけれど、言いたいこと、わかってもらえますか?

 

それと同じように、写真でも映像でも、見る側には見たいものと見
たくないものがある。そして見せる側の写真家や映像作家には、見
せたいものと見せたくないものがある。
そして、写っていないけど見てほしいこともある。

 

もっといえば、見せたいものを「見たいひと」だけでなく「見たく
ない人」にも見せたい。こっちに振り向かせたい。表現者としての
そうした願望と葛藤のなかに、写真家は生きている。
それが、発表された写真において、「事実とリアリティ」の表現上の
ゆらぎとして現われてくるのかもしれません。ま、逆に、土門拳さ
んとか入江泰吉さんなんかは、そういう葛藤からは無縁の方だった
かもしれませんけど。

 

見る側からいうと、見たくて見ているのか、見たくないけど見せら
れているのか。なんとなく眺めたら見たくなって見るのか。
えー、話がドンドン錯綜してきましたが(笑)、普通に暮らしていて
も自然に目に入ってくる写真や映像について、ちょっと立ち止まっ
て、そこいらへんに思いを馳せてもいいのかもしれませんね。

 

「メメント・モリ」 (藤原新也/三五館)
「日々の一滴」  (藤原新也/トゥーヴァージンズ)

 

藤原さんの写真はファンも多く、なんの変哲もない日常風景から悲
惨な現場や人間の死体まで、まったく同じ冷静な感覚でとらえてい
るところに特徴があります。
そして、かならずコメントがついている。

 

たとえば、きれいな小川のせせらぎを撮って、そこに、
「忘却の10年。いまだ川は流れる。セシウムの船を浮かべて」と。
たとえば、ガンジス河のほとりの火葬風景には、
「遠くから見ると、ニンゲンが燃えて出すひかりは、せいぜい60
ワット3時間」と。
死体が野犬に喰われていると、
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と。
猫を抱く老婆の姿に、「誰もが同時には死ねない」と。

 

これらの写真とコメントを見せられて、私は思うわけです。
写真家には見たくない人にも見せたいと思うものがある。
ただし、それを写真だけで見せるのが難しい。だからことばを添え
たい。もちろん、それによって自己のとらえた事実をさらに検証し
たい気持ちもあるだろう。

 

でもプライドがあるから「写真の補足」はしたくないのだ。
となると、物語的にポエム的に自分の立ち位置をつけ加えて、それ
ら全体で「ほんとうに見せたいもの、表わしたいこと、自分が事実
と思ったもの」を浮かび上がらせようとしているのではないか。

 

ここにはたぶん、「真実とリアリティ」の葛藤はないのでしょう。
彼には他人にどうしても「こう」見てほしい、というものがある。
逆に見てほしくないことはないし、見られて困るものもない。
だからゲージツ方面に寄って、「いいね」をもらいやすい戦略をと
った。これがきっと、写真における真実とかリアリティとかの議論
を超えた、表現者としての彼のやり方なのでしょう。

 

でも、そういうことなら、二転三転してしかも邪推になるかもしら
んけど、その種類の表現者にとっては、もしかしたら写真という媒
体を使わなくてもいいのではないかしら。こういうことするからよ
けいに、写真を簡単に信じないほうがいいとなるのでははないかし
ら。ほかの写真家は彼の写真の提出の仕方について、なんと言って
いるのかしら。
などと、彼の写真を見せられた私は考え込んだのでした。つづく。

 

ブログ249

 

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第248回 2021.05.24

 

「『見る』写真の『読み方』」

 

あるとき、カフェにお越しになったご近所の方が、
「あら、これ、私の父の本だわ」といって手に取られたのが、
「写真芸術論」(重森弘滝/美術出版社) でした。

 

なんと奇遇な! お父様の本が私どもブックカフェにあるなんて!
ということで、いろいろとお話が弾んだわけですが、筆者の重森さ
んは写真批評家であると同時に、東京綜合写真専門学校という学校
を設立して、新人の養成に力を注がれた方でした。
ということが、あとからわかった次第でした。(ついでながら、お
じいさんの重森三鈴さんは、高名な作庭家でした)

 

本は1967年の刊行ですから、いまからなんと50年以上も前のも
の。それを私は、いつかどこかの古本屋で買って(見返しに「贈
呈・東京写真専門学校」とハンコが押してあった)、つれづれに読
んでいたわけです。
その本が、カフェでお嬢さんと出会うこととなりました。

 

50年前の本といえども内容はいまでも新鮮で、私のような門外漢
にとって写真の歴史がよくわかり、写真家はなにを見てなにを考え
ているのかのヒントをくれるものでした。

 

とりわけ、現代は事実を事実として写真に撮るというだけではダメ
なのだ、「事実だから正しいという時代はすぎ、むしろ『事実だと
すれば疑わしい』時代なのである」として、「現代の写真家はその
意味で、自己のとらえた事実をさらに検証する作業が重要」になっ
てきた、と述べるあたり、さすがの慧眼といえるでしょう。

 

私なぞ単純に、写真とはその場で起こった事実をそのまま切り取る
もの、という意識で見ていましたが、そう単純なものでもないのだ
な。
写真における「事実」と「リアリティ」の違いが、写真家の意識の
なかで先鋭化する。さらに「既成事実を簡単に信じてはいけない」
とする60~70年代的時代意識において、自分の眼のとらえたもの
をきちんと検証することを求めているのだ。

 

てなことを、これも写真に造詣の深い友人と話していたら、彼から
は、
「写真の読み方」(名取洋之助/岩波新書) を紹介されました。

 

アマゾンで取り寄せましたけど、これも古い本だなあ。1963年の
刊行で定価130円とありましたよ。著者前書きは1958年の日付。

 

この本も、記録としての写真の正確性から論を起こして、写真の嘘
と真実、記号としての写真という流れで進みますから、やはり「事
実」と「リアリティ」の違いが大きな争点になっています。
戦後間もないこの時期は、いつもこの点が議論の的になっていたの
でしょう。いや、いつの時代でもそうなのでしょう。テレビの刑事
ドラマだって、いつでもそれぞれの登場人物ごとに違う「真実・リ
アリティ」と「事実」の違いがテーマになりますから。

 

名取さんは、自分は写真の真実性や記録性にたいする信頼は厚いの
だが、「レンズほど主観的なものはない」ということばをひいて、
見る人は写真家の「選択による嘘」に気をつけろと述べています。
写真は客観的なものでもないし、写真家はなにを撮ってどう見せる
かを意識的にやるのが仕事なのだからと。

 

ましてや、そこに写真家のキャプションが添えられたりしたら、
「見せたいもの」を見せるための写真になってしまうというのです。
というのも、その場合は、写真家が「自己のとらえた事実を検証」
し損なっていたり、「見る人を誘導する」可能性があるわけですから。
それだけでなく、写真家が「わざと」写さなかったもの、隠したも
のもあるかもしれないのですから。

 

となると私たちとしてはまず、報道にしろ風景にしろ点景にしろ、
世の中にあふれる写真を、そのまま簡単には信じないというところ
から始めるしかないのかな。
そして小説と同じように、写っているものについては吟味し、そこ
に写っていないものをも想像するという訓練もしていきましょうか。

 

そうした「見る側」の行為が、見なくてもいい写真を見るとき、そ
の写真における「事実」と「リアリティ」の違いになってあらわれる。
あ、重森さんのお父さん、こんなまとめで良かったでしょうか?

 

ブログ248

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第247回 2021.0518

 

「鎮魂の歴史はいまも続く?」

 

「古典」の読書を続けてきました。
不要不急だからこそ、家にこもっていままで読めなかった古典を読
むということもありますが、古典が古典たる所以はいずくにありや
という探求の姿勢も、コロナ禍下でブームになったりするかもしれ
ませんね。なにが流行るかわからないのが、ポストモダンの特徴ら
しいですから。

 

とりわけに古典には、たとえば能や語りの演目の中には、かなりの
割合で死者に対する「鎮魂」の役割を果たしたものがあるようです。
鎮魂の礼、怨霊を鎮める儀式、祟りを無くす、そういうお役目です。

 

それらは、非業の最後を遂げた者たちの怨霊を鎮めるために語られ
演じられてきたものです。
平家物語は、無残に滅亡した平家の怨みつらみを語ることによって、
平家一門の「祟り」が生き残った自分たちに及ばないようにと願い
つつ、琵琶法師たちによって広められたのでした。

 

隠岐の島に流された後鳥羽上皇とか、阿波で非業の死を遂げた崇徳
上皇とかの残念無念な気持ち(怨念)も、そのままにしておくと怨
霊になって暴れだすので、それはキチッと鎮魂しなければならない。
だから後世のひとは、能や物語によってそれを慰めて昇華しようと
した。だからこそ、とりわけ能などは、多くの残虐な所業をして怨
みをこうむった武士に好まれた芸能となった。
うん、なかなか説得力あります。

 

ところで、古典を読むことで鎮魂の歴史に加わり、それで温故知新
を試みるのなら、なにも日本にこだわることはありません。それこ
そわれらが師匠の中国に範をもとめなければなりますまい。

 

なにせ中国は、みなさんご存じのとおり、いま華流とよばれる映画
やテレビドラマも盛り上がり、そこでは秦の始皇帝だのそのおばあ
ちゃんだの、大奥みたいなところでの権力争いだの、劉邦と項羽や
三国志の戦いだの、とにかく三千年にわたる生存のための熾烈な争
いが繰り広げられているわけですから。

 

大河ドラマの素材なんて、きっと日本の百倍はあるでしょうしね。
逆に言えばそれだけ悲惨な物語、残酷なエピソード、死者の無念残
念怨念が存在し、それこそ鎮魂の必要なお話にあふれているのです。

 

「中国人物伝 Ⅰ・Ⅱ」(井波律子/岩波書店)

 

中国三千年の歴史を通史として勉強するのは骨が折れます。
なので、たとえばこういう本を手元に置いて、「古典の入口」として
パラパラと眺めてみると、おっと、そこには大変な怨みが渦巻いて
いるのをあらためて発見するのでした。

 

とりわけ「第一部 乱世の生きざま」としてまとめられている「春
秋戦国時代」は、残念無念怨念観念のオンパレード!
たとえば、前六世紀に楚という国(いまの湖北省)に生きた伍子偦
(ごししょ)という人は、王様に父と兄を殺されたりいろいろな裏
切りにあい、それにたいして壮絶な復讐劇を演じ、挫折し、波乱万
丈の生涯をおくります。

 

伍子偦は結局、自殺して果てるのですが、そのときの言葉がすごい。
「私の墓のそばに梓の木を植えよ。それで呉王夫差(自分を裏切っ
た王)の棺が作れるように。私の目をえぐり取って呉の東門にかけ
よ。それで越(敵国)の軍勢が侵入し、呉(自国)を滅ぼすさまを
見届けられるように」、ってんですから。ウワワッ、怖いし。

 

日本の梶井基次郎という作家が、鋭く細い目に特徴があったので、
友人から「おまえの目は伍子偦の目だ」と言われたという話が残っ
ていますが、二千五百年後の他国の学生にまで伝わる怨念話って、
なかなかないですよね。

 

そんな怨み話があると、日本では普通そのひとを祀る神社ができた
りして(法隆寺とか北野天満宮とか)怨念を鎮めようとするのです
が、あちらの国は違います。
その話から「日暮れて道遠し」とか「臥薪嘗胆」とか「会稽の恥」
とか「伍子偦の目」とかの、多くのことわざを残すのですね。
たぶんそれが、かの国における「死者の怨念」の鎮め方としての、
古典の役割なのではないかとも私は思いました。

 

中国の歴史に現れる怨念は、かくも強烈。
しかしいまや周辺に覇権を唱えて、アメリカとともに世界でもっと
も存在感のある国になった。
ただし、、、それだけに、いまもなお多くの怨念を生み出しているの
かもしれません。チベットで、新疆ウイグルで、香港で、いやたぶ
ん、中枢の権力内部の抗争においても。

 

かの国でこれからどんな物語が綴られて、怨念を鎮める古典になっ
ていくのか、いや、その前にコロナ禍にみまわれる世界の鎮魂が必
要になるのでしょうけど。

 

ブログ247

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第246回 2021.05.13

 

「温故知新とはなんぞや」

 

古典を繙くうちに、徐々にこちらの精神が飛翔しちゃうこともある。
とんでもないところに発想がひろがったりして、飛翔というか妄想
が広がるとでもいうか。
でも、私たちのご先祖様が、その時代にどんなことを考えどのよう
に生きていたのかを知りたい、という気持ちに変わりはありません。

 

それを大澤真幸さんという哲学者は、こんなふうに難解な表現で言
っていますね。
「謎はこうである。特殊な歴史的コンテクストに深く規定された特
異的な作品や思想が、普遍的な魅力、普遍的な妥当性を帯びて現れ
るのはなぜなのか?」

 

ほんとうは、その時代に生きた人がその時代の条件のなかで言った
り書いたはずのものが、なぜその後も、ずーっと後代の私たちにも
影響与えるのだろう? なぜ共感するのだろう? ご先祖様が感じ
考えたことと同じことを私たちも感じ考える。それはなんと不思議
なことだろう、という驚きです。

 

「論語」(岩波文庫/金谷治 訳注) 

 

今年のNHKの大河ドラマ「青天を衝く」の主人公、渋沢栄一も
座右の銘にしていた不朽の世界的古典。いまでも多く引用され、
学習される数々の名言文句にあふれています。
不要不急のときに読むべき古典といったら、これにとどめを刺す
のではないでしょうか。

 

ただ、大きな山のようにそびえるこの世界の古典にたいしては、
こちらもやはり「先達はあらまほしきことなり」とて、下記のごと
く学習の手引きをご用意しております。
「すごい論語」(安田登/ミシマ社)「あわいの時代の論語」(同/
春秋社)「一億三千万人のための論語」(高橋源一郎/河出新書)、

 

今回はこのような心強い援軍をもって、論語に立ち向かってまいり
ましょう。
そのなかにある有名なことばが「温故而知新」。
「子の曰わく、故(ふる)きを温めて新しきを知る、以て師と為る
べし」このように読み下しされています。
学校で習った時には、「ふるきをたずねて」と聞いたような気がす
るんですが、違いましたね。「あたためて」でした。

 

これを高橋源一郎さんは、「昔のことを研究するくらい誰にだって
できるんですよ。大切なのは、そうやって研究したことの中から、
いまに役立つなにかを見つけてくることですね。そういう人じゃな
くちゃ、先生なんかやっちゃいけませんよ」と、意訳しています。
いまに役立つ「普遍的な妥当性」という「知」をさぐるのが大事だ
よ、と。

 

安田登さんはもう少し詳しく分析をします。
まず、孔子の時代は「漢字」の成立していく過程の時代だった。
それを加味して読むと、「温故」の「故」は「固いこと」から転じて
「古いこと」の意味になる。そして「温」はじっくり煮込む、つま
り「寝かせる」含意がある。

 

さらに「知」は孔子の時代にはない文字で、「矢」が元になっている。
「新」は「斧」で「木」を切ったときに現れる切断面を表す。
とすると「温故而知新」とは、「長い時間をかけて古くなった固いこ
と(知識)をグツグツ煮ていると、ある日、『おお、こんな手があっ
たのか』と、ものごとのまったく新しい視点が、突然矢のように出現
する」ことであり、孔子のいう「知」とはそういうものだ、とするの
でした。

 

いいなあ。楽しいですね、先達に導かれて古典を読むことって。
探求とはグツグツ煮ることなのだし、煮込んでいるうちに新しいおい
しさに気づくことがある。
私は、両者のいいとこどりをして、「知とは、普遍的なものでもあり、
つど発見されるものでもある」と受けとめてみました。
渋沢もこうして事業を起こしていったのでしょうか。
「こうして」って、どのようにしてかわかりませんけど。

 

でも、渋沢にならって私たちも、もういちど論語を読み直しをしてみ
ましょうかね。
「子曰く、利をほしいままにして行えば、怨みを多くす」とか、「子
曰く、よく礼譲をもってすれば、国を治るにおいて、何かあらん」と
かに、普遍的な妥当性をみつけてみましょう。
ね、政治家や高級官僚や企業トップのみなさま。

 

ブログ246

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第245回 2021.05.03

 

「あみだ様を信じよ、という人」

 

私たちには、なにか絶対的で普遍的な基準が必要なのだ。
それは「阿弥陀様が誓ったこと」、つまり「弥陀の本願」である、
「衆生がみんな往生を遂げるまで、わたしはがんばる!」という
おことばであり、私たちはその誓願を信じ、それにすがって念仏
を唱えるべきなのだ。

 

そう言ったのが日蓮より前の世代の法然であり、それを継いだ親鸞
でした。
これも学校で習ったことでしたけど、忘れちゃいましたよねえ。
ならばいま、不要不急のときにこそ読み直してみましょう。

 

「歎異抄」(金子大栄校注/岩波文庫)

 

無人島に一冊持っていく本のトップに選ばれたことで、あらためて
脚光を浴びたのがこの宗教的古典でした。
親鸞のおことばを、親鸞亡き後に弟子の唯円がまとめたものです。
コロナ禍のおかげであらためて読めて、よかったです。

 

「念仏をまうす」ことは、たんに口先で南無阿弥陀仏と言えばいい
というものではなくて、「弥陀の本願」をそのまま身につけていく
ことである。それは心で思ったことを形にしていくことであり、
「縁を結ぶために名を唱える」のである。わかるかな。

 

「弥陀の本願には、老少善悪のひとを選ばれ」ない。だから、念仏
によってだれでもそれに与(あずかる)かることができる。
「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる
べき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐ
るほどの悪なきゆへに。」

 

はい、お待たせいたしました、ここに究極の安心理論が出てきます。
絶対真実の阿弥陀様を信じて念仏を唱えよ、それでオッケー! 
弥陀の誓願はひとえに「この」自分一人のためにある。それは私と
いう「個」と、個を超えた「絶対の超個」とが、一対一で向き合う
とき、すべてを阿弥陀様にゆだねる「他力本願」で成り立つのだ。
それでいーのだ、オッケーなのだ!

 

この思想こそは、心のなかに深く入り込んだ信仰なのだと思われ、
さらに言えば「他力」とは、思想とか自由意志とかを排した、キリ
スト教でいう「恩寵」をであり、私はここに日本ではじめて「個が
絶対を信じる」ということがはっきり自覚された瞬間ではないかと
思いました。

 

大げさでしょうか。
いえいえ。宗教学者の鈴木大拙は、平安末期から鎌倉時代にかけて
の争乱、疾病、大災害の襲い来る末法の時代に、日本人ははじめて
「霊性」に目覚めたという趣旨のことを言っています(「日本的霊
性」岩波文庫)。
つまり、これはぜんぜん大げさな話ではなく、この時代はいろいろ
な分野で、人の心と弥陀の本願的なものとの、つまり個と絶対的な
ものとの対話があったということなのです。

 

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひと
つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この
条、いったんそのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけ
り。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころ
かけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。」

 

有名なこのくだりは、正しい行ないをしていれば天国に行けるなん
て考えてても無駄だよ、そんなの確定じゃないよ、そうではなく、
阿弥陀仏に全力で頼る以外に道はないのさ。自助努力はムダ、他力
本願だけがオッケ―。そういう話でした。

 

つまり善人とは、自分の力を信じて、自力を頼んで往生しようとす
るひとだ。そういう種類の心の持ち主だ。
キリスト教でいえば、律法主義のパリサイ人みたいなひとだ。彼ら
は、自分をよくわかっているつもりなのだろう。かたくなに律法を
守って自分を律することで神の国に入れると考える、これが世にい
う善人なのだ。

 

いっぽう悪人とは、自力が無理だとわかっているひと、人間の無力
や断ちがたい煩悩に悩むしかないひと、業の深いひとだ。
おお、それならばそれは私だ。私は自分というものを理解できずに
いる、リスクの高い人間だ。そんな<わけのわからん奴>が、はたし
て自力で往生できるのか? いや、できるはずがない。私は、なに
か絶対的なものにすがるしかないのだ。
だから他力(弥陀の本願=恩寵)に向き合うしかない。

 

そういえば、鶴見俊輔さんはこのような意味で「自分は悪人だ」と
言っていましたし、評論家の秋山駿さんは、「この(歎異抄の)『悪
人』のところを『病人』と呼びかえれば、ごく自然な、ごくあたり
まえのことである」と言っていました。

 

そういうことならば私にも少しわかる気がします。
とうぜん、今の世の中でリスクが高いと思われている「不要不急」
や「役に立たない」や「不衛生」も、悪人の証拠である。と、威張
れるわけです。しかし威張ってどうする。

 

というわけで、今回も「古典」になにがしかのケリをつけるなんて
ことは到底できませんでしたが、少しでも爪痕を残しておきたいと
思いましたので、そこんとこよろしく。

 

ブログ245

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第244回 2021.04.27

 

「われを信じよ、というひと」

 

この読書ブログも、鴨くんと西行くんからよりディープな日本の古
典へと向かうかと思えば、そうはいかないのが人間の心の不思議な
ところ。
紫式部さん清少納言さん、その他のみなさん、すいません。

 

鴨くんも西行くんも、たぶん自分の心の偏屈さと強情さに手を焼い
ていたのだろうなあ、と感じて、そういえば彼らより少し後に生ま
れたもっと偏屈で強情っぱりなひとがいたなあと思いついたのでし
た。

 

「日蓮」(佐藤賢一/新潮社)

 

心を歌った西行くんにしろ、三界はただ心ひとつなりと喝破した鴨
くんにしろ、「ひとが生きるにおいて、なにごとも心とその働きこ
そが要因で起きる」という立場を強調したように思います。
つまり、なにごともあなたの心の持ちようだよ、ということ。

 

この時代、戦乱は続くは、地震や暴風でやられるは、大火事で都は
焼けるは、日照りや大雨で飢饉になるはで、大変な時代だった。
いまコロナ禍や地震、原発事故や毎年の台風被害に襲われている日
本と少しだけオーバーラップする不安の時代。
その不安を乗り越えるにはどうしたらいいのか?

 

ひとつには、世の中は移り変わるけれど、なにごとも心の中のでき
ごととしてとらえて、自分を強く持ちこたえようという、鴨くんや
西行くんの立場。
まわりの環境変化に右往左往せず、しっかりと心根を整えて乗り越
えなければならないという生き方です。

 

もうひとつは、いや、精神的に強いひとならそういうやり方もでき
るかもしれないけど、凡夫で弱い庶民には無理な話だ。飢えと死の
恐怖にさらされて生きる身には、もっと頼りになるものにすがりた
いじゃないか。いくら「心」に尋ねても、気の持ちようと言っても、
飢えはおさまらないし往生もできないと、自分を超えたなにか絶対
的なものを希求する立場でした。

 

法然、親鸞、道元、一遍、日蓮などの鎌倉新仏教とよばれる流派の
祖師たちは、この後者の立場に立って庶民を導こうとした。
は、はい。いいかげんなこと言って、専門家の方、すいません。

 

でも、とにかく助けてほしい、この状態から解放してほしい、この
ままではみじめに死ぬだけだ、地獄に落ちたくない、私たちにはな
にか絶対的な助け舟が必要だ、それによって安心(あんじん)を得
たい。その願いに、この時代の祖師たちほど真剣に向き合った人た
ちはいなかったはずです。

 

こういう声に仏教はどう応えるのか。
自分の心という、不安定で移ろいやすいものに頼ってはいられない。
貴族も天皇も頼りにならない。武家も個人を救えないし国家鎮護も
できていないじゃないか。いままでの仏教のように、護摩をたいた
り祈祷したりしていてもダメなのだ。

 

諸君、この世の果てにある彼岸から、来世をつかさどる阿弥陀様が
迎えに来てくれるのだ。だって阿弥陀様はそういう願(がん)をか
けられて、われわれ衆生を救おうとされているのだから。
阿弥陀様の願は絶対だ、それなら希望をもって念仏を唱えよう。
ものすごく簡単にいうと、浄土宗はこういう立場だった。

 

加藤周一先生によれば、法然から始まった鎌倉新仏教は、このよう
に信仰の徹底した個人化、内面化に特徴があったということです。
「それまでの仏教は、共同体ごとに儀礼をおこなっていいたが、社
会環境の変化(貴族社会から武家社会へ、天変地異や飢饉)をうけ
て、個人の生死の問題に係るようになった(「現世から浄土へ」)」
と。

 

さらに加藤さんは、こうした信仰の個人化と、その超越的な絶対者
への帰依が、仏教の民衆化への道を開いたのだとします。
世界にめを向ければ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、絶
対的に従う(帰依する)対象としての「唯一神」があたりまえの存
在だった。だってその神が世界を創造したのだから。
また中国の「天」も絶対のもので、人間の力に関係なく、その「命」
によって王朝が倒れたりする。

 

けれど日本では、超越的な絶対者が登場するのは史上はじめてので
きごとだった。
われわれ人間がいくらがんばっても、その考えを知ることもその力
を推し測ることもできない存在としての「超越的な絶対者」を措定
する精神が、こうして誕生した。

 

アニミズム的な八百万の神と神仏混合のほうがあたりまえで、呪術
的な世界観では、人間のほうが、祈りや呪いの力で神や運命を左右
しようとするものだったが、日本の仏教はこのときはじめて、超越
的な絶対者に直接対峙する「私」という存在を発見したのだ。
「こころ」と「いのち」をもつ「わたし」を。

 

本書の作者の佐藤さんによれば、浄土宗の阿弥陀様に代わって日蓮
さんが絶対的なものとしたのが、仏陀のことば、とくに法華経だっ
た。ところが日蓮さん、帰依とか念仏で止まったりはしなかった。
なぜか?
偏屈で強情っぱりなひとだったから。

 

なっ、来世の成仏ではなくて、現世でしあわせにならなきゃ意味な
いじゃないか! だっていまは国難だろ? 自分一人じゃなくて、
国全部をまるごと救わなきゃだめでしょ! 
じゃ、それに対してみんなで力を合わせようよ。念仏も座禅も護摩
祈祷も国難には効きゃしないよ。なっ、オレを、オレの言うことだ
けを信じてよ。

 

法華経を読んで、そこに書いてあることを信じなきゃ。そこには、
いま現在の困難だけでなく、近い将来に内乱が起こったり外国が攻
めてくるって書いてあるんだよ。
これ、オレの預言じゃないよ、お経に書いてあるんだよ、これホン
ト、当たるんだよ。その時にびっくりしても知らないよ!

 

こう説教して民衆を引きつけたのでした。
じっさいに預言は、北条家の内乱と蒙古襲来という形で当たっちゃ
った。それ見たことか!
日蓮は愛国主義者で法華経原理主義の過激派。偏屈で強情っばり。
他の意見も信仰も認めず、自分のいうことのみを信じよと説教した。
だから迫害されちゃった。でも多くの支持者・帰依者を生んだ。
この本にはそのあたりがよく描かれて、「不安の時代」に生まれた
ひとりの宗教リーダーの生きざまがわかりました。

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第243回 2021.04.19

 

「『こころ』が前面に出てくるとき」

 

そういえば鴨長明は「方丈記」の最後のほうに、
「三界唯一心(三界はただ心ひとつなり)」と書いていました。
三界とは一切の衆生(私たち凡庸な人間)の生死する三種の世界
(欲界、色界、無色界)のことで、人間の全世界を指すそうです。
ここで起きるすべてのことは、ひとの心から起きるのだ、彼はそ
う言うのです。

 

ひとの心が安んじていれば事物はそのように映り、そうでなけれ
ば、俗世間のわずらわしいことにあくせくするのみである。
このように、心が主人公なのである。だから「安心」も「不安」
も「幸福」も「不幸」も、すべて自分の心の中にある。
そう考えて自分で「ケリ」をつけよ、と。

 

このように、それぞれの個に特有の「心」というものがあらため
て見直されて、それが文学のなかに表立って現われてくるのが、
平安末期から鎌倉時代にかけての特徴的なできごとのような気が
いたします。
それが、旅や遍歴や遊行になったり、歌の世界で「ご先祖様」に
向けた精神の飛翔となったりするのではないでしょうか。
専門家の方、いいかげんなことを言ってすみません。

 

「山家集」(西行/後藤重郎校注/新潮社)

 

鴨長明よりほんのわずか前に生まれた同時代人である西行法師も、
歌のなかでずいぶん「心」ということばを使っています。
ちょっと目についたものを挙げても、
「吉野山こずえの花を見市し日より 心は身にもそはずなりにき」
「花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける」
「青葉さへ見れば心のとまるかな 散りにし花の名残り思へば」

 

とまあ、とくに桜を見ると、西行さんはすぐに「心」が揺れ動いて、
精神が飛翔してしまうわけですが、そればかりではありません。
心づよき、とか、心だくみ、心のとまる、心の奥、心が澄む、心の
果て、心通ふ、などのいまでも普通に使う表現もありますし、行か
ぬ心(ままならない心)、心の色を染め(仏道にまい進する)、ふり
さけし心(とくに望郷の苦しい気持ち)、心をつくす(もの思いを
する)、など解説を読まないと理解できない表現も多く使われてい
ます。

 

心浮かれる(なにかにあこがれ、魂が身から抜け出すありさま)な
んて、その気持ちはわかるけれども、私たちはきっと本来の意味か
らやや外れて理解しているのかもしれないなあ、とも思えます。
この時代には、「心」がたしかに物理的に胸の中にある「モノ」とし
て存在していて、それがアッチ行ったりコッチ行ったり、抜け出し
たり戻ったり揺れ動き、手ごわい痛みを伴って本人を悩ませていた
のでしょう。

 

ただ、西行にはそれだけでなく、客観的に観察すべき対象としての
「心」を歌ったものもあります。
「あながちに山にのみすむ心かな 誰かは月の入ると惜しまぬ」
「くまもなきをりしも人を思い出て 心と月をやつしつるかな」
「心なき身にもあはれはしられけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」

 

ね、例を挙げていけばキリがありませんし、いい歌ばかりなので
引用じたいが楽しくなってきましたが、
「心から心にものを思わせて 身を苦しむるわが身なりけり」
「われながら疑はれぬる心かな ゆえなく袖をしぼるべきかは」
「世の中を夢と見る見るはかなくも なほおどろかぬわが心かな」
など、だんだんと季語もない道歌のようになってまいります。

 

こう並べてまいりますと、西行さんの使う「心」ということばに、
私はある傾向を感じてしまいます。
それは、自分の心の動きは自分には制御できないのだ、じつは観察
しても観察してもわからない。その心と身との葛藤が私をいやおう
なく動かしている、だから神や仏にすがって解決することのできな
い問題を私は抱えているのだ、というあきらめに似た気持ちです。

 

誤解を恐れず言えば、「わからない」からこそ観察しつづけるしか
ない、という近代的な強さもここに感じるのです。
それは、「われ思う、ゆえにわれ在り」、と威張って歌ったデカルト
(歌ってないけど)の「われ」とは逆に、心が「在る」からこそ私
は苦しみ悩んで生きていくという宣言に思えるのですが、専門家の
方、またいいかげんなことを言ってすみません。

 

ところで何回か前に、「自分こそが一番のリスクだ」と書きました。
なぜなら、私たちにとって自分自身が自分に一番遠くて理解しにく
く、何をしでかすかわからない存在だからでした。
つまりそれは、自分は<他者>だということを意味しています。

 

私は、在るのは確かだが、自分にはよくわからない奴、すなわち自
分にとっての他者だ。
ということは、この訳のわからない自分という他者の、わけのわか
らない心を手なずけないかぎり、自分に安心は訪れず、不安のまま
残される。このへんのところ、なんとかならないかしら。

 

そこで、話はグッとでかくなりますが、世界中の宗教は、たぶんそ
のような精神の不安、つまり西行の「心」の場所と並行して始まっ
ているのではないでしょうか。自分という<わからん奴>の心をど
う扱えばいいのか、という問いが発端なのではないでしょうか。

 

西行にとっても、もっとも厄介な問題は、自分の「こころ」だった。
ただし彼は、その不安の解消のために一直線に仏道に入ったわけで
はなかった。吉野の山の庵に隠遁して、一僧侶として終わったので
はなかった。

 

彼は、そのような「こころ」をいたし方なく持ち、それをどうして
も「歌」として発出せざるをえなかった。彼はこうして「こころ」を
捨てられず持ち続け、最後には「いのち」にたどり着くのでした。
「こころ」を成り立たせる「いのち」に。

 

それがこの歌、
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」
もう「こころ」になんか迷わされたりしないのだ、私は私の「いの
ち」を感じるばかりだ、西行のそんなナマの声が聞こえてくるよう
な絶唱です。

 

ブログ243

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第242回 2021.04.12

 

「ご先祖様はなにを考えていたのか」

 

古典を繙くというのは、私たちのご先祖様がどんなこと考えて生き
ていたのかを知るということでもあります。
それを知ってどうなるの?というお声もあろうとは思いますが、
「異次元への精神の飛翔」とまで言われたんじゃ、不要不急とはい
え、私にとっては喫緊に必要な読書といって過言ではありますまい。
とりわけ、

 

「方丈記」(鴨 長明/岩波文庫)

 

のようなエッセイを読むにつけ、ああ、ご先祖様も私たちと同じよ
うなことを考え、同じように生きていたのだなと、やや安心したり、
異次元の世界も苦労が多いことだなアと思ったりします。

 

ごぞんじ、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまり
たるためしなし」と始まる高名な文章で、無常観なるものを表現し
ているといわれる名作。学校でそう習いましたよね。

 

でも、そんな大げさな言い方をしなくても、私たちが日ごろ実感し
ている生活のよしなしごとを書き綴ったものということでよろしい
のではないかと、改めて読んで私はそう思いました。
まだ私の精神は「飛翔」しませんね。

 

なにごとも変わっていく。地球環境もコロナ禍での生活も変わる。
自分の身の回りの親きょうだいも友人も世間様も、その様相を変え
ていく。
そういえば東京都心とか渋谷界隈とかの変化のしようったらないね。
これでオリンピックがあって人が動き、そのあと、残るものは残る
し消えるものは消えていくのだろうなあ。
無常観なんて、私ら凡人的にはそのくらいの感じです。はい、まだ
「飛翔」しません。

 

世界のあらゆるものは変化し、生成消滅しつづける。
ギリシアの哲学者ヘラクレイトスはこれを、「万物は流転する」とい
い、フランスのことわざには「ものごとは変われば変わるほど変わ
らない」とあり、生物学者の福岡伸一先生も、「動的平衡とは、変わ
らないために変わること」、とおっしゃる。

 

このへん、そうだよ、なにごとも変わるのが当たり前だよ、だから
こそ「変わること」よりも大切な「変わらないこと」を見なさいよ、
「どう変わらないか」を視なさいよ。そんなふうに言われているよ
うで、そうなるとこれは凡人的無常観とは逆の意味かもしれません。
はい、だんだん飛翔してきましたぞ。

 

さて、鴨長明が生きた12世紀後半から13世紀全般は、平安時代の
終わりから鎌倉時代のはじめで、これまた歴史の授業で習ったのは、
貴族社会が終わりを告げて武家が政治の中心になる時代ということ
でした。
それにあわせて、天変地異が多発した。
大火事に見舞われ、地震が起こり、大雨が来て、京の都も荒れ果て
ることになった。末法の世界。

 

長明が記すところでは、ある年の飢饉では多くの人が死んだので、
仁和寺の隆暁和尚というひとは、「数もしらず死ぬることを悲しみて、
その首(こうべ)の見ゆるごとに額に阿字(梵語)を書きて縁を結ばし
むるわざ(往生を遂げさせる)をなんせられける」、その数が二か月
で4万を超えたというのですから、すごいことでした。

 

ご先祖様のそんな記述を読む現代の私たち、たとえば文芸評論家の
堀田善衛さんは、「方丈記私記」(筑摩書房)の中で、自身が経験し
た戦災とその後の町の荒廃を、方丈記のこんなことば、
「朝に死に、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知
らず、生まれ死ぬる人、いずかたより来りて、いずかたへか去る。」
に託して書いていたことでした。

 

大震災やパンデミックをじっさいに経験している私たちも、方丈記
の世界観を、特別な無常観というよりむしろ自分のなかに落とし込
む、つまり「ケリをつける」ために読んでもいいかもしれません。
それが精神の飛翔になるのかどうかはわかりませんが、堀田さんに
とっても私にとっても大切なのは、「変わらないことを見る」こと
と、「どう変わらないかを観る」ことかもしれませんから。

 

ブログ242

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第241回 2021.04.04

 

「不要不急だからこその読書」

 

コロナ禍で緊急事態宣言が出たときは、いわゆる「お籠もり」の
生活を余儀なくされた方も多くおられると思います。
そんなときは、不要不急だからこそ読む本を手に取る、なんていう
読書のしかたがあってもいいかもしれませんね。
私も、なんの成算もなく書き始めるのはもうやめて、ちょっとはま
じめに読書と向き合う時間をもつことにしましょう。

 

たとえば、だれにとっても「宿題めいた本」というのがあって、昔
読んで感銘を受けた本とか、ずっと気になっていたけど積読(つん
どく)してた本とか、敬遠していたけど一度は自分のなかでケリを
つけたい本とか、あるのではありませんか?

 

そんな本こそ「不要不急だからこそ不要不急のブックカフェで読む
本」ではありませんか。とくに「古典」と呼ばれるものなんか、そ
の最たるものではないでしょうか。

 

「古事記を読む」(中西 進/角川書店)

 

「令和」という元号の生みの親とされる、中西先生の著作です。
古事記は、だれでも知っているニッポンの古典ですが、原文は難し
くて読むのは努力が要ります。そしてこの古典中の古典については、
私、引っかかるところが多々あるんです。

 

それを神話だからあたりまえでしょとか、口承だからとか、いや、
風土記や各氏族の伝承を寄せ集めたものだからとかいいますが、そ
んなことでごまかされてはいけないのではないか! 
それが私の気になっていたことでした。
ここは一番、探偵さんが崖の上で犯人を指名するように、キッチリ
とケリをつけなければっ! 訳と解説の中西先生、ヨロシク!

 

たとえば、スサノオの悪行に怒って、姉の天照大神(アマテラスオ
オミカミ)が天岩戸に「お籠もり」になるシーン。
もともとニッポンの神話体系において天照大神に与えられた宗教的
性格は、「女性的なもの、清なるもの、明なるものこそが勝利であ
るという価値観」だったと。

 

おっ?こっこれは、「エディプスの恋人(筒井康隆)」に出てくる
「意志=神」か! アマテラスが鈴木光ちゃんに見えてきましたぞ
(これについては、第238回を参照ください)。
それなのに暴れん坊将軍のスサノオ(んっ?スサノオはコロナ禍の
象徴か? はたまた男性神としての「意志」か?)が、その世界を
汚染し壊した。
で、アマテラスがいじけて引き籠もり、アマをテラさなくなった。

 

ここを中西先生は、
「光を喪失した世界である。その暗さの状態は、まさに永遠の夜が
経過していくごとくであったという。これは(中略)治定以前の世
界の叙述の際の一つのパターンなのである。世界は原始の世界に戻
っていく」と、抒情的に解説しておられます。
なぬ? いやいや、でも、それじゃポエムでしょう! 
暗い原始と明るい治定、そんな戦後の電球のコマーシャルみたいな
ことでケリをつけていいのか!

 

だいたいなんでスサノオは乱暴ばかりするのさ? 
このあとスサノオは神々に追放されちゃうんだけど、だったらハナ
からやれよ、などと私の疑問のケリがつきません。
それから、世の中真っ暗闇なのに、なんでアメノウズメの裸踊りが
見られたのさ? だいたい裸踊りのなにが笑えるのさ? 岩戸を開
けた猿田彦神は、なぜ現在カフェチェーン店の名前になってるのさ?
とか、いろいろツッコミたくなるわけです。

 

いや、でも、いまやってみて思ったんですけど、古典に対するこう
いうツッコミって、楽しいですね。こんなこというと本居宣長さん
に怒られるだろうけど、ポテチ食べながら恋愛系のテレビドラマを
見て、「そりゃないだろー」とかツッコミを入れているのと同じで、
言いたい放題なんですもの! 
というわけで、不要不急の読書にピッタリだったのでした。

 

そんななか、能楽師の安田登さんはこんなことを言います。(「野の
古典」紀伊国屋書店)
昔は「ハレ」と「ケ」があった。「ケ」とは日常生活を生きていく力
のこと。この力が弱まって「枯れる」と、「ケガレ(穢れ=エンガチ
ョ)」となる。

 

昔の人は、枯れてしまった「ケ」を取り戻すために、お祭りをした
りお祓いをしたりして、「ハレ(晴れ)」の時間と空間を作り出した。
そうやっていろいろな状況に「ケリ」をつけた。
だから「ハレ」は非日常だ。アマテラスが「お籠もり」になって
「ケ」がなくなり、それを取り戻そうとする天岩戸の前のダンス大
会は「ハレ」だ。ハレとはそういうふうにしてケリをつける場だ。

 

しかし現代はどうだ。
世の中の日常が、盛り場でお酒飲んだりカラオケ歌ったりの、お祭
り騒ぎの「ハレ」の場と空間ばかりになってしまった。
「ケ=毛」を出して裸踊りすることなんて、お花見やハロウィン同
様に日常茶飯事だから、そのくらいじゃ刺激がなくなっちゃった。
本来の「ハレ」はなくなった。

 

私たちは、コロナ禍で自分自身がお籠もりしているような状況では
「ケガレ」を祓えず、気持ちも「晴れ」ない。
となると、日常生活を生きる力としての「ケ」は、ハゲっぱなし、
失礼、枯れっぱなしだ。じゃあ、どーすりゃいいのさ。

 

こういうときに役に立つのが「古典」なのだ、と安田さんは言うの
でした。
「古典に描かれるまったく違う世界の物語に接することによって、
異質の世界、異次元への精神の飛翔をもたらしてくれるのです。」

 

つまり古事記でいえば、神話的なお話のわかりづらさこそが、私た
ちの心を開いてくれるときがある。引っかかるところがあっていい。
そして、スサノオがヤマタノオロチを退治したチカラや彼の乱暴が
みんなにかけた迷惑も、お籠り中の私たちの前の天岩戸を開いてく
れるパワーになるかもしれない。

 

そうか。
古典のわかりづらさへのツッコミは、異次元への精神の飛翔だった
のか! そういうことか。
そう考えると、話は現在に戻りますが、コロナ禍のような「非日常」
が、これからどういう経過をたどって「日常」に変化していくのか、
なにが私たちにパワーを与えてくれるのか、不安をとりのぞく手立
ては何かなど、まじめに考えくなりました。
キミキミ、ポテチ食べて笑いながら読むだけじゃダメだぜ!

 

ブログ241

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第240回 2021.03.28

 

「悪いお知らせ;世の中は不要不急では成り立っていないらしい」

 

今回も、成算も計画もなく感想文を書き始めております。
いいんだ、どうせだれも読んでいないんだから(笑)。

 

さてと、コロナ禍では「不要不急のお出かけは自粛ください」とい
うアナウンスが多く流れました、というあたりから始めてみます。
この自粛要請を聞いた私は、
「世の中は不要不急で成り立っとるんじゃ。ワシなんか、仕事でも
生活でも、ほんとうに急ぎでやらなきゃならないことなど、ありゃ
せんのじゃ。そんなワシから不要不急を除いたら、いったいなにが
残るっちゅうんじゃ!」と、叫びたくなりました。
叫びませんでしたけど。

 

だいたい歳をとればとるほど、不要不急が増えるのである。
買い物もそう、家事もそう、趣味の園芸もそう。だいたい考えごと
なんてのも「休むに似たり」というぐあいで、不要不急以外のなに
ものでもない。

 

だったらブックカフェも、不要不急の最たるものじゃないか!
ここでおしゃべりしたり本を読んだり、コーヒーやケーキを楽しむ
ことも、ブックコンシェルジュになれないでいるマスターの存在も、
不要不急だと言われたら返すことばがないである。
・・・だからそれが何だというんじゃ! 
とかなんとか、まずはアリの雄叫びのような「怒り」を発出してみ
ました。

 

そういえばエリック・ホッファーという港湾労働者で哲学者の方が、
「老人にとって新しいことは、たいてい悪い知らせである」と言っ
ておられましたな。
さらにある調査によると、現在のニュースはその九割がネガティブ
な、つまり私たちの不安をあおるようなニュースだというのです。
逆に良い知らせや、楽しくポジティブなニュースは一割しかないと。

 

私も、自粛要請はもちろんのこと、デジタル改革とかの新しいニュ
ースの多くが悪い知らせのように思えていましたが、そうでしたか、
その感触は在野の哲学者にも共有されていましたか。
こうして私は内堀も外堀も埋められてしまったかのような気分にな
って、よけいに成算や計画を見失うのでした。

 

ところが、他人に説明できないことや不要不急のことをすると、「自
粛警察」に注意される。
「きみきみ、なにを考えてるんだね」と。医療行為や買い物は「善」
だが、お花見や送別会おカフェでのおしゃべりは「悪」だぜと。

 

しかしですよ皆さん、それって納得できます? それって、
「今後もっとも警戒すべきなのは、、、他者を黙らせるために易きに
流れる人びとの心情(御田寺圭)」から発する、他人と違うことを非
難するという風潮であり、これこそ「誰もが告発者となりうる社会
(同)」の特徴ではないでしょうか。

 

そんなとき、いまの日本では、秩序からはみ出して生きるのは容易
ではないし、理解しにくい行動をとる者や、同調要請に与しない者
は疑いのまなざしで見られるが、はたしてそれは良いことなのか。
そう疑問を呈するひとがおられました。

 

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」
(熊代 亨/イーストプレス) でした。

 

たしかに、私たちだれもが、つねに理性的で他人に説明可能な行動
をとっているわけではありませんよ。そんなこと自分が一番知って
いる。
ということは、「私」は、つねに「必要」で「急を要する」ことだけ
を、タイミングよくしているわけではないのです。そういう意味で
はだれでも、世間から不審な行動とみられたり、秩序をはみ出した
りすることはあるのではないでしょうか。

 

もし皆さまがたもそうお感じになるとしたら、皆さまがたにとって
も、じつは自分が自分にのとって一番のリスク要因なのである、そ
ういうことではありませんか? いかがでしょう。
少なくとも私は、自分がいちばんリスクの高い奴だと思います。
だっていまだによくわからん奴だし。

 

自分が一番のリスクだということは、自分はやはり「偶然」の産物
であり、自分の考えも行動もなにかしらの偶然に左右され、それは
他人から不審の眼で見られる不確かな存在ということになります。
そうですよね?

 

熊代さんはこのあたりを、観点を変えてこう書きます。
たとえばだよ、この30年ほど使われ続けている「かわいい!」とい
うことばがありますねと。
この「かわいい」の意味するところは、「私にリスクを思い起こさせ
ない外見のこと」だろう。つまり私たちは、自分にとってリスクの
ないと認める対象物を「かわいい」と表現し愛玩しているのだと。

 

なるほどそうすると、「かわいい」は、「自分に害を与えないもの」
の意味だし、「かわいい!」と言う自分自身を、罪のない無垢の子ど
もへと変えるマジックワードともなるわけですね。

 

では「かわいい」は自己愛的な表現なのだ、そう考えられます。
さらに、「みんなにとってもそうだよね」、と確認し共感を誘うこと
で、自己愛を補強し、安心な仲間をつくるための戦術でもある。
「かわいい!」と言うことで、彼/彼女にとって、自分をもリスク
の対象からはずすことができ、よって、偶然の産物から「必然のア
イデンティティ」へと昇華した「かわいい自分」を確保できる。

 

こうしていまは、「かわいい」のような「アンチ・リスク」こそが、
自分がうまく生きるための「正義」となり「善」となるのでした。
さらに、たとえば「健康」も「清潔」も、「テキパキと仕事をする」
も「秩序を守る」という価値観も、リスクを軽減するという意味で、
「かわいい」同様に正義や善という価値を表すものと認められてい
るのではないでしょうか。

 

さて、ここで問題は、だとすると逆に「不健康」や「役に立たない」
や「不衛生」などは、必然的に「不正義・悪」だということになっ
てしまいます。
とうぜん「不要不急」もそうなってしまう、ですよね?

 

でも、それでいいのかなあ?
そんな価値観で生きることは、私の自由を高めたり幸福に結びつく
のだろうか。
そもそも、ほんとうに「不要不急」や「役に立たない」や「不衛生」
などを排除することが「善」で「正義」なのだろうか。
こんなことが、著者の熊代さん同様に、私の新しい問いになってま
いりました。この問いのゆくえにも、あいかわらず目算も成算も採
算もありはしませんけど。

 

ただひとつだけ。
「悪い知らせ」については、さきほどのホッファーさんは、こうも
言っていました。
「歳をとることは普通になることである。老齢は人間を平等にする。
われわれは、自分に起こったことが、歴史上、数えきれないほど起
こってきたことに気づくからである」と。(「魂の錬金術」作品社)

 

同じようなことは今までも起こってきたし、これからも同じことが
同じように起こるだろう。でも、いまあなたが生きているというこ
とは、それらを乗り越えて生き延びてきたということなのだ。

 

ということになると、まだ勝負はついてわけです。
とりあえず私も、一つひとつの悪い知らせに右往左往せず、「不要不
急」や「役に立たない」を安易に手放したりせず、「善いお知らせ=
福音」を待つことにしますわ。

 

ブログ240

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第239回 2021.03.22

 

「コロナ禍のあとの幸福論」

 

今回私は、とくになんの目算もなく書き始めているわけですが、と
いうことはつまり、なにを書くことになるかわからない状態なわけ
でして、えーと、その、なんだ、みなさんはどうでしょう、こんな
コロナ禍の渦中にいると、なにがしかの目標を設定して、それに向
かって計画をたて、コツコツと行動を積み重ねるというのが難しく
感じられたりすることってありませんか。

 

本の感想文も同じで、たとえすばらしい本を紹介しようとしても、
「こんな状況で、これがだれの、なんの役に立つだろう」と悲観的
になって、書き連ねるの逡巡してしまうばかりです。
読書じたいもそうですし、感想ブログの目標とか到達点とか、なん
らかの意義とか役割を見いだしづらくなるのをいかんともしがたい。

 

なにをするにつけても、どうなるんだろう、どうすればいいんだろ
うと、なぜこんなことしているんだろうって、不安が先に立つので
しょうね、きっと。
そういえばマハトマ・ガンジーは、「不安は私たちにとって最大の
敵だ。私たちは、最大の敵は憎悪だと思っているが、本当は不安な
のだ」といって、「不安」こそが私たちの感情を左右し、目標を定
めたり計画的に行動をするのを妨げる一番の要因だとしますが、ま
ったくそのとおりです。

 

先々のことはどうなるかわからない、という不安。
たぶん世界は悪い方向に向かっている、自分の行き先も見えにくく
なっている。それにはコロナ感染症とパンデミックだけでなく、地
球環境の悪化や、民族紛争や内戦、格差や貧困や差別や難民にテロ
といったぐあいに、いくらでも原因がある。

 

困ったものです。
たとえば、問題がコロナ感染だけであれば、理由がはっきりしてい
ているから、この状態をどう克服するかと、みんなで集中的具体的
に知恵をしぼれるでしょう。

 

しかし、グローバリゼーションとかデジタル化とかワクチン外交と
か安全保障の国どうしの駆け引きとか、多くの要因が複雑に絡み合
ってくると、私たちは「複雑な状況からくるあいまいな情報に耐え、
それをじっくり吟味する」ことができなくなってしまう。最初から
あきらめてしまう。
本当はその吟味プロセスこそが私たちを成長させるというのにもか
かわらず、です。

 

この状況は、不安からくる「不幸」というしかありません。
ん、なんか、このへんまでつらつらと書いてきて、ご紹介したい本
が浮かんでまいりましたぞ。

 

「幸福論」(寺山修司/筑摩書房)

 

寺山は、「幸福が終わったところからしか『幸福論』が始まらない
のだとしたら、それはなんと不毛なものであることだろう」と書き
ます。
私たちは、コロナ禍の前はなにを考え、なにを欲していたか、もう
忘れかけていませんか? コロナ禍の前が幸福な状態だったとした
ら、それとコロナ禍後の幸福とは異なってくるでしょうか?
ちょっとへんな問いですか。

 

寺山はつねづね、「小市民的幸福」という「家庭の幸福といった名
の反幸福的停滞」を憎悪していました。それは6~70年代の若者
に共通の姿勢でもありました。
彼の有名な、「書を捨てよ、街へ出よう」ということばもそうして
書かれ、彼の演劇もそこから生まれていったのでした。

 

少なくともあの時代は、誰にとっても「幸福」についての具体的な
イメージがあったので、小市民的とか停滞とかの「けなす」側のこ
とばが逆に生きていたのです。しかし、人間のウラ側を見ていた寺
山にとっては、目標とか計画ということばじたい、小市民的な幸福
だと思っていたのではないでしょうか。

 

そんなところも含めて、「読みどころ」に尽きない本ですが、なか
でもおもしろかったのは、「必然ということばは社会的であり、偶然
ということばは個人的である」などと警句を垂れながら、必然と偶
然を分類して「幸福」を考えているところです。

 

たとえば、
<偶然>          <必然>
詩              歴史科学  
ドストエフスキー      トルストイ
暴力             権力
高倉 健          三船 敏郎
ジャズ音楽         電子音楽
心              お金
・・・・・などなど。

 

おもしろいでしょ。なんとなくわかる気もしますでしょ。
で、このリストに沿って言えば、新型コロナウィルスに罹患するこ
とは「偶然」に入り、新型コロナウィルスの世界的蔓延(パンデミ
ック)は「必然」に入るかもしれません。どうかな?

 

そして、「幸福」は決して一つの状態ではない、と書く寺山にとっ
て、「不安」や「恐れ」は社会的必然で、「幸福」「不幸」は個人的
な偶然なのでしょう。
すると、コロナ禍のあとの「幸福のイメージ」をどこから汲みだす
かについては、「偶然の必然化」みたいな作業が必要だ。それが不
安を解消するために私たちが努力できる道なのかもしれない。

 

であるなら、「不安は自由のめまいである(キェルケゴール)」とい
うことばのとおりですね。不安は必然だが、自由は偶然だ。 
しかし私はいったいなにを言いたいのでしょう? 
どんな目標と計画と採算があってこれを書き始めたのでしょう?
どこにも着地できない文章を書いて、破綻して、どうするのか?
教訓。目算も計画もオチもなく感想文を書き始めることなかれ。

 

ブログ239

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第238回 2021.03.15

 

「神さまが登場する小説ってなんなのよ?」

 

あーなんと恐ろしい小説があったものです。
私はこれを読んだ時に、天井までぶっ飛びました(ウソですけど)。
なにせ、神様がでてくるのですから。
そんな小説って、いままでにありましたっけ?

 

あ、そういえば、おなじ作者の「モナドの領域(本誌第123回)」の、
人間と会話するおじさんのような神様をご紹介したことはありますが
、、、、、、彼は神様が好きなのか!

 

「エディプスの恋人」(筒井康隆/新潮社)

 

「家族八景」「七瀬ふたたび」に続く、七瀬シリーズ三部作の最終巻!
主人公はテレパス(精神感応能力)の超能力者、人の心が読める火田
七瀬。

 

最初の「家族八景」では、七瀬はお手伝いさんとしていろんな家庭で
働き、その家族の口に出せない思いや意識が、いやおうなく七瀬に入
り込んでくる。彼らの、なんとも人間的でババッちく醜い意識の流れ
が、まるで「下水道の腐った水」のように流れ込んで、彼女を悩ませ
たのだ。
腐った水はスキをみせるとこちらに入ってくるから、意識スイッチを
切って元から絶たなきゃダメ。

 

で、続編の「七瀬ふたたび」では、主人公七瀬は超美人に育っている。
そう、東大生で美人タレントの鈴木光ちゃんみたいな感じ。あ、この
へん、私の好みですからあしからず。
いろいろな事件をつうじて仲間になった、多彩な特殊技能をもつエス
パーたちとともに、エスパーを抹殺せんとする特殊警察と戦う七瀬。

 

彼女は攻撃的な武器をなんにも持っていないが、テレパスなので、仲
間のエスパーの心を通じて彼らの見聞きしたものがわかる。つまり認
識の視野がものすごく広がっているので、いわば戦いにおける情報の
中枢、総司令部だ。
戦いの過程で彼女は、仲間の保護者兼お母さんみたいな存在にもなる。
仲間は次々と権力に「抹殺」されてしまうのだが、その瞬間の意識ま
でありありと視えてしまい、そうやって何人もの「死」を経験するこ
とで、彼女は生きていけないほどの精神的ダメージを負ってしまう。

 

さて、そんな三部作を締めくくるのがこの「エディプスの恋人」です。
前作の戦いでエスパーの仲間たちを失った七瀬は、物語の最初から、
なぜかある町の高校の教務課職員としてふつうに生活している。
なぜか前作までのいきさつは忘れられている。 

      

この「なぜか」も、大きな問題なのですけど、それはそれとして。
彼女は、二年生の香川智広という生徒から目が離せなくなる。という
のも、彼が危険にあうと、なにかの「意志」が彼を守っているような
のだ。なぜだろう? その秘密を探っていくうちに七瀬のなかに、な
ぜか彼への恋愛感情が生まれる。

 

冷静なテレパスでひとの心の奥を知り抜いた美少女鈴木光ちゃん、失
礼、七瀬が恋をしてしまった! なぜだ? これも「彼」を守る「意
志」の仕業なのか? どーなるどーなる?

 

はい、これはもちろん、ある「意志」が「彼」と七瀬を近づけたので
すが、その理由は最後に示されます・・・いや、言っちゃうか、その
「意志」とは、彼香川智広の母親の失踪後の姿だったのだ!

 

その「意志」とは、「わたしはどこにでもいる」という存在であり、
「空間の一部を縮小し歪めた形態をとって出現」し、「宇宙の秩序を
つかさどる」存在であった。
ということは、それって「神様」、といっていいのでしょうね。
智広の母親は神様になっていた! なんと! 実の息子の人生に介入
する、彼の母親であった全能の意志。えーっ、そんなの、アリ?!

 

七瀬はその秘密を智広の父親から聞きます。
「超絶対者としての男性的な論理によって司られていた秩序が、まさ
にそれ故に宇宙のあちこちで破綻し、その破綻が拡がりはじめたため
に今度は意志力が疲弊し、それが、そもそも新しい意志としての珠子
(智広の母親)という女の個性が、古い宇宙意志より認められ注目さ
れるきっかけになったのです。」

 

ス、スゴイ‼ すごすぎる!
人間の女性が宇宙意志になってしまう? それも前任者と交代して?
前任者の「意志」は男性的だった? その論理が破綻して女性的な論
理に変わった? こっこれは、キャロル・ギリガン「もうひとつの声」
の神様小説版ではないか!(説明は省きますが、知りたい方は図書館
で借りて読んでください)

 

しかし他のだれがこんな、「神・宇宙意志・人間・男女の論理」の相
関を書くでしょうか? これぞ筒井ワールドといって過言ではありま
すまい。
森喜朗前オリンピック組織委員会会長が聞いたら、腰を抜かすのでは
ないでしょうか! 「話の長い女性が男性的な意志に代わって神にな
るなど、ありえない。きちんとわきまえなさい」って言うかもしれま
せんね。

 

というわけで、ここまで来てようやく、いろいろな「なぜか」が回収
されるのでした。七瀬から前作の記憶が失われたのも「意志」の仕業
でした。
そして小説の大団円。
その「意志」が智広と七瀬の「恋愛」に飛び入りしてきます。

 

「意志」が七瀬と一瞬だけ入れ替わる場面・・・。
すると「意志」は人間七瀬になり、七瀬の意識は「神」になる。
「偏在感があった。七瀬は『彼女』に替わり、太極に存在し、宇宙に
君臨していた。存在形態としてそれは宇宙そのものともいえた。超絶
対者としての、動物的視覚に依らざる認識的視野を持つことがどうい
うことであるのか、七瀬にはわかった。」 

 

スゴイッ! 七瀬は一瞬とはいえ、神様の視野をもつ経験をするので
す! 
おいおい、そんな経験させられたら普通の人間なら精神がぶっ壊れる
でしょ、とツッコミをいれたくなりますよね。しかし、一度はエスパ
ー仲間の情報中枢として認識の大きな広がりを経験し、あわせて仲間
の保護者兼お母さん役でもあった七瀬は、その超絶認識的視野にも耐
えられるのであったと。

 

・・・・・うわーっ! 宇宙的で壮大な神話的結末!
私は、立ち合いの張り手いっぱつで土俵に崩れ落ちた力士のように、
衝撃を受けたのでした。

 

ブログ238

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第237回 2021.03.08

 

「シューヘイマジックから逃れられない」

 

おとなの日本人ならだれでも、雨の休日に、家で寝そべりながら時
代小説、なかでも藤沢周平を読む楽しみというのを知っているはず
です。
はずです、なーんて断言しちゃいましたけど、おとなのあなたとし
たことが、その楽しみをまだ知らないとおっしゃる? 
おお、それは良かった。ぜひこれから味わってください。

 

「蝉しぐれ」(藤沢周平/文春文庫)

 

東北の小藩、海坂(うなばら)藩を舞台に、下級武士の子息、牧
文四郎の青春を描く長編小説! 
藤沢周平を読まれる方はごぞんじのとおり、下級武士や庶民を主人
公に平凡な日常がていねいに描かれ、そのうちに突如その平和を破
る事件が起き、主人公がまきこまれていきます。

 

すると私たち読者は、自分が江戸時代の小さな城下町のはずれにあ
る小さな役宅の囲炉裏端で、屋根の雨音を聴きながらページをめく
っている気分にさせられるでございます。

 

さて、シューヘイマジックのひとつに、剣術の稽古と上達のシーン
がありますね。主人公の文四郎も、ストイックに剣術のけいこに励
むまじめな青年だった。
そして心身ともに上達した彼が、その流派の門外不出の「秘剣」と
される剣の使い方を伝授されて、最後にそれを使って敵を倒すとい
う、シューヘイ得意の大団円マジックとなりますので、まずは、そ
の剣術のけいこの様子をちょっとのぞいてみましょうか。

 

「文四郎が剣を八双に引き上げると、兵馬も応じて八双に構えた。
今度は文四郎が打ち込んだ。・・・兵馬はその打ち込みをかわした。
足と肩をひいてかわしながら、竹刀は流れるように受けの形に変わ
っている。その受けに引いた竹刀が、そのまま攻撃のための左八双
に変わったのが犬飼兵馬の非凡なところだった。風をまく打ち込み
が、文四郎の胴を叩きに来た・・・」

 

つぎは剣の上級者、弥左衛門との稽古。
「すでに弥左衛門は構えている。さすがに一分の隙もなかった。
白髪痩身で、文四郎よりよほど小柄なその身体は、一本の扇子の陰
に半ばかくれたかのようで捉えどころがない。・・・すると弥左衛
門の身体が、一度ぬっとせり上がったように見えた。と思うと、つ
ぎにその身体は沈み込むように床を走ってきた。文四郎の胴を襲っ
てきたのは、扇子ではなく白刃のようだった・・・」

 

文四郎が「秘剣村雨」を伝授されるシーン。
「織部正は文四郎を青眼に構えさせ、しばらく気息をととのえてか
ら、ゆっくりと秘剣村雨の一ノ型に構えた。文四郎の胸に衝撃が走
った。織部正の構えが想像を絶したものだったからである。織部正
の右手の木剣は八双の位置で天を指していたが、左腕は軽く前方に
のびて何かの舞の型に見えた・・・」

 

このへんまでで、寝そべってこの本を読んでいた男の子は、やにわ
に庭に飛び出て棒切れを振り回し始めるのですね。
いやホント、そんなもんですって。

 

そんなおり、彼の父親は藩の世継ぎ問題の陰謀に巻き込まれて死に、
文四郎の生活が一変する。
一方、文四郎の幼馴染で、たがいに淡い恋心を抱き合っていたお駒
は、新藩主に見初められて江戸屋敷にあがり、子をもうける。する
と当然のようにあらたな世継ぎ問題が勃発。
父親の死の真相を探るとともに、仲間とともに家中の陰謀からお駒
を助け、鍛え上げた秘剣の腕を見せる文四郎のゆくえやいかに!

 

いいですね、このへん。おじさん、たまりません。
おじさんも庭に出て棒切れを振り回したくなってきます。
市井の平和な生活。主人公の成長。仲間との友情。お家の大事。父
親の死の真相。密かな恋心、正義を担うグループの忍苦、剣の修行
が報われる日、晴れて悪人たちの懲罰。
そして、幼馴染とともに、しみじみと蝉しぐれを聴く結末!

 

そういえばこの小説も、2005年に市川染五郎(現松本幸四郎)と木
村佳乃主演で映画化されていました。
ともあれ、ひいきチームのエースピッチャーが軽く投げて完封しち
ゃうのをビール片手にゆったり見ている、そんな気持ちによさに浸
れる逸品でございます。

 

ブログ237

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第236回 2021.03.01

 

「天下人秀吉は欲に生きたワルいやつ」

 

昨年(2020年)の大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、本能寺で
織田信長を倒した明智十兵衛光秀。
その光秀を破って天下人になる、国民的人気の高い豊臣秀吉。
このふたり、本当のところはどんなんだったのかなあ、とは誰でも
が空想することですね。どんな人間だったのか、自分の目で見てみ
たかったなあって。
ということで、わがオールタイムベストにも戦国時代小説が登場い
たします。

 

「妖説 太閤記」(山田風太郎/講談社文庫)

 

昭和40年といいますから1965年、前回の東京オリンピックの次の
年から雑誌に連載された、山田風太郎先生渾身の時代小説。
もちろん、それ以前に「甲賀忍法帖」をはじめ30数作の「忍法帖
シリーズ」で名をはせた先生ですから、単純な時代小説にはなりま
せん。というか、この小説の骨太の世界観があるから「忍法帖群」
がある、といっていいくらい、虚実とりまぜながらも骨太の壮大な
戦国絵巻となっております。

 

先生いわく、秀吉の出世欲の原動力は、主君信長の妹市姫への恋慕
と所有欲であった。秀吉はそのためになんでもした。
調略から謀略、スパイとフェイクニュースのばらまき、トップへの
忖度にライバルの蹴落とし、殺人教唆もするし、不正に取得したビ
ックデータの利用(ウソですけど)、CIAによる陰謀(も、しま
せんが)、忍法(は、使いませんし)など、あらゆることを総動員し
て、天下取り計画を一つひとつ積み上げていく。

 

悪い奴だなあ。欲望の権化だなあ。権力の亡者だなあ。
そう、秀吉はひどい奴なんです。ちょっと空想してみてください。

 

あの顔で(って、どの顔だ?)、お市の方をわがものにする算段を
し、頼りにしてさんざん使い倒して用済みになった軍師竹中半兵衛
を始末し、自分と同じ匂いのする黒田官兵衛に乗り換え、陰で信長
暗殺をそそのかし、攻城中の備中高松からすぐ戻れるようにあらか
じめ備え、本能寺後も信長の系譜になる子どもを一人ずつ殺し、、、、
、などなど、女と権力を得るためにはなんでもした。

 

ストイックな自己鍛錬など、まるでなし。欲のむき出し。
表題の「妖説」とはだから、歴史小説の体裁をとりながらも、主人
公秀吉の原動力となる「欲望」のありかを一つひとつ分析していく
という、医師山田風太郎先生ならではの、とっても現代的で精神分
析的な小説といえるかもしれません。

 

もう一点。
シェイクスピアが描いてみせたように、乱世でひとは策謀によって
権力を握り、暴君となり、へつらいを許し、妻子も側近をも疑う。
自分の「計画」のためには手段を選ばない。失敗しても懲りない。
そし独裁者となって権力を握るや、死ぬまで決してそれを手放さな
い。つまり、そういう種類の精神疾患を患っている。

 

彼は誰も信じないので、取り巻きはできるけれども友人はできず、
その意志は次世代には受け継がれず、そのうち次の権力者の策謀に
よって彼自身が消されていく。あるいはリア王みたいにヘタに権力
を手放すと、子どもにえらい目にあわされる。
こうして彼は孤独に死ぬ。

 

この本で描かれることもそれとまったく同じですから、「妖説」と
は、日本の乱世を舞台としたシェークスピア戯曲とも呼べるのでは
ないでしょうか。
褒めすぎですか?
いやいや、とんでもない。いくら褒めても良いのです。
大藪春彦とスタンダール、夢野久作とドストエフスキー、山田風太
郎とシェークスピア。大風呂敷のこの取り合わせ、いいじゃない!

 

ということでここには、その時代の「権力闘争の仕方」、「トップの
扱い方、忖度の仕方」、「女の落とし方」「勝つべくして勝つ準備」、
「敵の篭絡方法」「ライバルや同僚の足の引っ張り方」「右腕の使い
捨て方」「憎しみの吐き出し方」「自分の手を汚さない犯罪のやり方」
などのテーマで、まことにババッチくもエゲツナイ、権力について
の深い考察がちりばめられているのでした。

 

佐々木蔵之介の権力主義者秀吉にいいように動かされてクーデタを
おこした、長谷川博己の文民主義者明智光秀が、とってもかわいそ
うに思えてまいりましたね。
麒麟は来ない。来るのは猿。

 

ブログ236

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第235回 2021.02.23

 

「胎児も夢を見る」

 

などと、とつぜん言われてもお困りになるでしょうけど、そう始ま
る小説があるのですから仕方ありません。

 

「ドグラ・マグラ」(夢野久作/三一書房)

 

夢野久作、構想15年にして、第二次大戦前の1935年、すなわち
昭和10年にいきなり単行本として発表された(これは当時として
は珍しいことだったらしいです。普通は雑誌に連載された後に単行
本化された)、原稿用紙1500枚にわたる大長編作品。

 

犯罪小説であり、探偵小説であり、怪奇小説であり、医学小説(狂
人(当時の表現のママ)の解放治療という表現を作者は使っている)
であって、しかも神秘的なファンタジーであるという、いわば「総
合芸術」のような趣きのあるチョーすごい小説!

 

戦前にここまでの最長不倒距離をたたき出しておきながら、なんの
文学的名誉も与えられずに埋もれていた、いわば無冠の帝王のごと
き存在の夢野久作。その偉業、いまなおおそるべし。

 

冒頭、「巻頭歌」として、扉にこんな文句が掲げられる。
「胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいの
か」
ウワッ、なんとおどろおどろしい歌であることよ!
そしておもむろに物語が始まる。
「・・・・・ブウウーーーンンンーーーンンンン・・・・。
私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、
まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残
していた。」

 

こう語りはじめる主人公、じつは自分の名前もわからない。
なぜ、どこに自分が寝ていて、なぜこうして眼をさましたのか。
精神科医師の若林鏡太郎博士、正木敬之教授が登場するが、「狂人」
とされる主人公を治療しているのかどうかも定かでない。
逆にこいつら、なんか怪しいゾ、魑魅魍魎の世界だゾ。

 

読者も混乱します。
そして少し読み進むと、なんと、さきほどの「巻頭歌」と「ドグラ
・マグラ」と表題のある文書が登場する。えっ、この作者はだれだ?
うひゃーなんという入れ子構造だ! 夢野また夢の夢。さらなる
混乱!

 

こうして、大きな歴史の流れや大恋愛悲劇、当時の精神医学や昭和
初期の世相など、いろいろなものを巻き添えにしながら、小説は、
「『・・・・・アッ・・・・呉青秀(これが主人公のご先祖様のお
名前)・・・』と私が叫ぶ間もなく、掻き消すようにみえなくなっ
てしまった。『・・・・・ブウウーーーンンンーーーンンンン・・
・・。』」と、はじまりと同じ主人公のセリフで終わる円環構造で終
わる。
アイヤー、混乱の極致!!

 

主人公はほんとうに「狂人」なのか、あるいは治療の夢をみている
だけなのか。いや、ご先祖様の記憶がよみがえっているのか。
はたして彼は死に瀕しているのか、いや、夢見ているのが胎児とし
ての彼なら、じつはこれから生まれ出ようとしているのか。
そんな謎はどこにも回収されずに、正木博士の自殺とか、猟奇殺人
とか歴史上の犯罪とかが次々と明るみに出てくる。

 

私には小説の筋書き紹介はできかねます。
たぶんだれにもできないでしょう。
だから、松本俊夫監督、桂枝雀主演で映画化された際も、私は観ま
せんでした。「だから」ってこともないですけど、へんに脚本でキレ
イに整理されたものなど観たくないですものね。
気持ちの落としどころのないときは、そのままにしておきたい。

 

というのも、読者の脳髄のなかには筋書きとは別に、正木教授の言
う、「脳髄は物を考える処に非ず」とか、「記憶は遺伝する」とか、
「地球表面は狂人の一大解放治療場」とか、「胎児も夢を見る」など
というトンデモナイ学説が、重い石のようにどーんと居座ってしま
っているのですから。

 

ん?みなさんは、これらの説がただのトンデモ説だとお思いですか?
いやいや、なんのなんの。
実は、ものを考えているのは脳だけではないとか、腸は第二の脳と
か、先祖の心理は遺伝するとか、細胞に記憶が蓄積されるとか、胎
児も夢を見るとかの話は、100年後のいまでも研究されていること
なのです。

 

いや、ほんと。
たとえば本誌第68回でご紹介した「驚きの皮膚」でも、著者の傳
田さんは、「人間は頭脳だけでなく、皮膚でも情報処理をおこない、
考えている」と、書いていますし。
そんな現代医学との比較からも、夢野久作のすごさがわかります。

 

なんと振り幅の大きい小説なのでしょうか。
ドストエフスキーとかトーマス・マンとか村上春樹とかいってない
で(いわないか)、ぜひみなさまにも、戦前日本に奇跡的に生まれ
たこの超ド級の世界レベルのスーパーファンタジーの驚きを味わっ
ていただきたい!

 

ブログ235

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第234回 2021.02.15

 

「なぜギャンブルがひとを成長させるのか」

 

戦後日本を舞台にした青春小説は数々ありますけれど、「汚れた英雄」
と並ぶ日本文学史上の傑作だと私が思っているのが、

 

「麻雀放浪記」(阿佐田哲也/角川文庫)  です。

 

こちらは、阿佐田哲也(芥川賞作家色川武大のペンネーム)による
1979年の、戦後闇市ギャンブラー群像麻雀他賭け事テクニック暴
露大長編青春小説!
作家の分身を思わせる主人公の通称「坊や哲(まだ若いのでまわり
からそう呼ばれる)」は、上野の焼け跡にあるチンコロばくち場
(茶碗にサイコロをチンチロリンと投げ入れて、サイの目を競う博
打)に通い始めるところから、しだいに賭けごとの世界に入り込ん
でいく。

 

とりわけ賭け麻雀を通じて知り合う「ドサ健」「出目徳」「上州虎」
「ゼゲンの達」など、プロの勝負師との交流を通じて腕を磨き、勝
ったり負けたり、騙したり騙されたりのなかで、ま、よくいわれる
ように人生を学んでいくのでした。
ギャンブルにおいてもスポーツとおなじく、ひとはストイックな自
己鍛錬によって成長をしていく、という仕儀がよくわかります。

 

ちなみに、そのころの勝負師は本名を明かしていませんね。
なにせ、まっとうな人生をおくっているひとには見えない裏街道で
すからね。お遊びのような賭け方とは違って、札束や土地の権利書
や、場合によっては「連れ合い」なども飛び交うシノギの場ですか
ら、ちょっと間違えれば生死にかかわるという怖い世界。

 

のちにイラストレーターの和田誠さん(昨年亡くなられました。ご
冥福を祈ります)が監督し、主人公「坊や哲」に真田広之が扮し、
「ドサ健」に鹿賀丈史、「出目徳」が高品格、「上州虎」は名古屋章、
「ゼゲンの達」を加藤健一という、なんともピッタシカンカンの配
役で映画化されました。
(ゼゲン=女衒、なんてことばも死語ですし、「ドサ」とか「出目」
とかも解説しないとわからないでしょうけど)

 

こまるんですよねえ、こういういい俳優さんたちに演じられると。
なんだか、阿佐田さんの原作がまるで「アテ書き(その俳優さんの
ために、その人に合わせた人物を造形して脚本を書くこと)」のよう
に感じられるほどなんですから。

 

とりわけ、インチキなしで「天和(テンホー/最初に配られた配牌
ですでにアガっているという、麻雀の最高の役)ができていて、自
分でビックリして心臓発作で死んでしまった「出目徳」を、主人公
たちがリヤカー(人間が引っ張って、大きなものを運ぶ荷台)で埋
葬(遺体を崖から捨てるだけなんですけど)しに行くシーンなど、
東京の焼け跡の情景とあいまって、おもわず涙が滲んでくるという。

 

しかし、なんでこんなにいちいち用語説明をしなきゃならないんだ、
めんどくさいな、まったくもー!
・・・それはともかく。

 

男同士の勝負とはどういうことか。カネも家も連れ合いもすべて賭
けて、まるごと取ったり失ったりする勝負師にとって「勝負」とは?
「しのぎ」とはどういうものか。苦しいとき、劣勢で逆境のとき、
その場をどう処理して生き残るのが「正しい」のか?
「麻雀」とはどういう勝負か。「いかさま」はどうやるのか? 勝負
師どうしの友情や連帯ってあるのか? そもそもなぜ、ギャンブル
がひとを成長させるのか。
あれっ、物語に女性は登場するのか?(もちろんしますけど)

 

こういった疑問に多少でもご興味がわきましたら、ぜひご一読を。
四回転サルコー級のお薦め度ですから、ギャンブルにご興味のない
方でもぜーったい失望させません。
ちなみに和田版の映画は、第一部「青春篇」までの映画化で、原作
は第四部までありますので、どうかどっぷりと戦後日本のウラ社会
に染まってください。

 

ブログ234

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第233回 2021.02.09

 

「わがオールタイムベストの日本エンタメ小説」

 

マスターは日本の小説は読まないんですか? と聞かれて驚きまし
た。
「えっ、もちろん読みますよ。どうしてそんなことをお尋ねになら
れるのか?」「だって、このブログにはあまり日本の小説がとりあげ
られてないですもの」「ンムムムッ、そんなバカなっ!」
と、あらためて数えたところ、あらイヤダ、ほんとにそうでした。

 

「モナドの領域」(筒井康隆)、「想像ラジオ」(いとうせいこう)、
「檸檬」(梶井基次郎)、「項羽と劉邦」(司馬遼太郎)、「太公望」(宮
城谷昌光)、「太陽を曳く馬」(高村薫)、「神の子どもたちはみな踊る」
(村上春樹)、「日本沈没」(小松左京)、「柳生武芸帖」(五味康祐)、
「台所のおと」(幸田文)、「ゴサインタン」(篠田節子)の十一冊のみ。

 

230回のうち11回ですから、出場回数は5%に満たないのでした。
大変申し訳ない。反省する。
でもこの十冊だって、日本文学の最良の部分だということは間違いな
いので、その点だけはご理解賜りたい。
でもそこまでおっしゃるならば、満を持して、戦後日本文学の金字
塔、この傑作をご紹介せざるをえないではありませんか!

 

「汚れた英雄」(大藪春彦/徳間書店)

 

大藪春彦1969年の代表作。
主人公北野晶夫が、大いなる野望をもって、知恵と腕と男の魅力で、
オートバイレーサーとして世界に羽ばたいていく青春ロマン!                           
自分の持っているものはすべて使う、利用できるものはすべて利用
する、非情なまでの上昇志向に驚愕せよ!
そしてその裏にある彼の孤独を味わえ!

 

さらには、1950年代から60年代、ホンダをはじめとする日本のオ
ートバイメーカーが、戦後日本の復興のシンボルとして世界に羽ば
たいていく瞬間に立ち会える高揚感を感じよ!
これは、オートバイのメカとレースへの限りないオマージュでもあ
るのだ!

 

「朝霧に包まれた信州沓掛――現在の中軽井沢から北軽井沢に向け
ての上り坂を、18歳の少年がリヤカーを引いた自転車のペダルを
踏み続けていた。リヤカーには、キャンバスで覆われた単車が積ま
れている。」という出だしから、
「即死した晶夫を包んだまま、フォード・マークⅡのガソリン・タ
ンクが爆発した。火葬の赤黒い炎は霧を溶かし、天を焦がして燃え
さかる。」という最期の場面まで、原稿用紙にして2500枚の大長編
ながら、読み終わるとマラソンを二時間で走ったような充実した爽
快感を残す小説!
以上です。

 

どうですか? 
こんなありきたりのご紹介だけで、みなさんはどのくらい伝説の主
人公「北野晶夫」に感情移入できるでしょうか? 
小説の主人公ながら「伝説の」と書きたくなるくらいに、どれほど
当時の若者(私より上の世代ですけど)が大藪文学から受けたイン
パクトを看取できるでしょうか? 難しいですよね。

 

こういう時は、評論のプロのお力を借りてみましょう。
平岡正明さんは、「『汚れた英雄』は、現代の『赤と黒(スタンダー
ル)』だ」、そして「復讐の体系だ」といいます。
どういうことか。

 

これは、貧乏人が体力・知力・気力を総動員してのし上がっていく、
いわば「悪の成功物語」であり、戦後の闇市的混乱から徐々に「市
民社会」が立ち上がっていく時期に、なんとなく胡散臭い「豊かに
なっていく市民」に対する、下からの復讐物語なのだと。
ここに、19世紀フランスの「赤と黒」に匹敵するテーマ性がある。

 

さらに、「彼の描き出す細部のリアリズム(ドキュメンタリズム)に
湿度は低い。」
ここにまず、大藪作品に共通するハードボイルド性がある。
ここでいう「湿度の低さ」とは、ロマンチシズムとか純文学的装飾
を排した、作者のいわば「大陸的」な目線ということでしょう。

 

そして、「純文学(市民社会の文学、と読み替えてください)への
敵意は、戦後市民社会へのギラギラした敵意である。ハードボイル
ドの世界の市民社会との関係は、前者の後者に対する復讐の関係で
ある。」と、平岡さんは喝破するのです。

 

ということですから、大藪に触れる方はなにとぞご注意ください。
この小説を青春大河ドラマとして読んでも、階級闘争として、ある
いはハードボイルド小説とか「ビルドゥングス・ロマン(人間形成
小説)」とか、社会小説やバイクレース・エンタメ小説として読んで
もいいのだけれど、くれぐれも生白い顔の純文学として眉間にしわ
寄せて読んだら、ボウボウと燃えさかる大藪の中でケガするよ、と
なるわけです。

 

ブログ233

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第232回 2021.01.31

 

「どうにも阻止できない近未来」

 

やっばりね、あるんだよね、こういう小説。
やっぱりねというのも、本ブログ193回で取り上げた「ニック・ラ
ンドと新反動主義」に書かれた「暗黒啓蒙」や「加速主義」、そして
196回の「幸福な監視国家・中国」、197回「自由か、さもなくば幸
福か」、そして210回で取り上げた「悪のAI論」、さらに斉藤幸平
さんの「人新世の資本論」、などの社会観や文明観を総合したような
近未来小説があるのだろう、と思っていたからなのです。

 

「透明性」(マルク・デュガン/早川書房)

 

いまから50年ほどの近未来。
これはSFでしょうかね。いや違うかな。
小松左京さんによるSFの定義、「現実にはないこと」「常識では考
えられないこと」「普通ではない、異様・異常なこと」、には当ては
まらない小説なのでした。
だから、近未来想定小説とでもいうべきなのでしょう。

 

その点、本誌第134回の「服従」(ミシェル・ウェルベック)に近
い「もしかしたら、そうなっちゃうかも」的な感じもする未来です
し、「元アメリカ大統領」のトランプさんへの言及(彼が世界を悪
い方向に変えた、みたいな)もあったりしますので、かなり身近な
現実として感じられもします。

 

このへん、フランス人作家というのはみんな、けっこうあざとく時
事的な話題を取り上げますね。うまいなあ。
それはともかく。
50年後、トランプなどバカ者たちのせいで(!)地球環境はどんど
ん悪くなって温暖化が進んでいる。いわば新たな地質年代として、
人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える、いわゆる「人新
世」の時代が来ている。

 

いっぽうで、グーグルなどのデジタル・プラットフォーム企業はそ
の力をいっそう増し、人びとをたくみに支配している。
はい、ここらへんは、ピーター・ティールやニック・ランドの新自
由主義的な方法、つまり「ITによる各種リテラシーを備えて高度
に自立した個人と企業」が、国家を飛び越えて大きな権力を握って
いる、という世界観そのままでした。

 

「グーグルとその他のデジタル大企業は、2030年には無一種の横
断的な国家となって、どこにも税を納めず、自前のもの以外の法の
支配も受けていなかった。」

 

多くの人は、それと気づかず、自分の情報をプラットフォーム企業
に提供して報酬を得て、外部環境に目を向けずに安全安心に暮らす
ことを選択することで、支配されているのだ。
遺伝的傾向から心理傾向や主義まで、個人のすべての情報はデジタ
ル企業に「透明」に筒抜けになっていて、企業はそれを把握し分析
することで、「個人を脅かしたり何らかの不安を呼び起こす恐れの
ある、あらゆるリスクを減らす」ことができるようになった。

 

さらに、グーグルなどの企業はAIを駆使し、変化する地球環境に
でも生き続けられる、不老不死の方法を作ろうと画策している。
おおっ、ということになるとこれは、映画「マトリクス」の世界の
ちょっと手前くらいの未来かもしれません(映画を見ていない人は
すいません)。

 

「マトリクス」に登場する、究極のAIである「設計者」が世界を
組み立てなおす寸前の未来、つまり、人間とは地球に弊害をもたら
す存在だとAIに査定されてしまう直前の未来。
そこで危機感を抱いた主人公はどういう計画をたてて、どう行動し
たか。

 

そんななか、最先端のデジタル革命の流れに身を投じる人間であり
ながら、主人公は仲間(12人の使途と呼ばれる)とともに、とんで
もない壮大な計画に着手する。
それは、個人の全データを、鉱物から新たに造った身体に移植する
ことで、グーグルに先んじて死なない人間を作ろうというのだ。
そして、それにともなって人類のビックデータ・ファイルを握り、
グーグルの支配をひっくり返すという計画だ。

 

ただし、その「死なない人間化」は、彼女の会社が決めた基準に合
う人間だけに許される。
「従順にデータ収集された、最も影響されやすい人々が、永遠の命
に選ばれる第一基準を満たして恩恵に浴するのである。」

 

すごい計画ですねえ!
主人公の企業だけが、たぶん遠からず絶滅するであろう人類のなか
の選ばれた人間に、「永遠の命」を与えると約束することになる。
ということは、主人公は「預言者」となり、全データを透明に開示
して提供する「大衆」の「神」となって、世界に君臨することにな
る。だれもが彼女にひれ伏す。世界はどうすることもできない。

 

・・・と、ここから小説は、ここから二転三転の結末まですっ飛ん
でいくわけですが、それはそれとして、永遠の命など信じない愚直
な読者としては、とりあえず、主人公の計画の真の動機と目的だけ
は押さえておかねばなりますまい。

 

不死が得られるとなったら、欲望を満たすことに躍起になっている
人間の行動に変化を起こすことができるのではないか?
環境の変化に目を閉じ、ヴァーチャルな空間で自由を得たように錯
覚して安穏に暮らしている人間の意識が変わるのではないか?
このような過激なやり方でしか、地球を破壊している人間の意識と
行動は変わらないのではないか?
そしてこれれは、これまでの科学や哲学や宗教がなしえなかった革
命ではないか?

 

いま現在の現実に即して、こういう「大きな問い」を立てられると
ころもまた、フランス人作家のあざといところなんですけどね。

 

ブログ232

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第231回 2021.01.25

 

「では、ユーラシア大陸の近未来は?」

 

このところ、カフェで怖い思いをしながら読んだ、いわゆるディス
トピア(ユートピア・理想世界の逆で、暗く悲惨な世界)小説とし
て高名なものの一部をご紹介してまいりました。

 

あたりまえかもしれませんが、この分野の小説は、小説家の想像力
が試されるものですね。
フィクションとしての自由度が高い分、いわば土台をどこに造って、
そこからどこまでどうロケットを打ち上げるか、が作者の力量にか
かるわけです。
はやぶさ2のように、なにか小惑星の砂を持ち帰ることができるの
か、どうか。

 

作者の立ち位置と想像力の射程。
そして、お持ち帰り品の質。
読者にとっては、それが自分とその将来に大きくかかわりのある
「自分ごと」と感じられると、小説世界に飛び込むことができる。
逆に、「そうなるかもしれない未来」としては実感がわかないなあ
となると、なんじゃこれ、と本を閉じることになる。

 

そのうえ、作者が設定した土台を見ることによって、読者も、作者
がいま、現実をどう見ているかがわかってしまうということもある。
でもなあ、作家によって異なるさまざまな「現実」を見させられて、
説得されていくと、読者としては頭が混乱するだけじゃないか、い
や、それが作者の狙い何ではなかろーか・・・などとグチグチ考え
ていいても時間のムダというもの。
ちょっと毛色の異なるこんな作品を試してみることにしましょう。

 

「極北」(マーセル・セロ/中公文庫)

 

舞台はシベリア。 
土地は広いし、島国日本とは別の世界だし、海に沈まない大陸にい
るという安心感があるし、、、って、そんなことをいっている場合で
はない。
主人公の女性は、シベリアの街にひとり取り残されたサバイバー。

 

たぶん放射能事故かなにかによって世界は静まり返っていて、街
にひとはいなくなってている。周囲は無人のシベリア、どーなるん
だ?
他の町には生き残った人もいるみたいだけど、地続きとはいえ連絡
は取れないし、どう生活しているのかもわからない。

 

だから彼女は「毎日、何丁かの銃をベルトに差し、私はこのうらぶ
れた街の巡回に出かける」生活をおくっている。
寂しく、不穏で、ただし暴力的でハードボイルドな予感のする幕開
けです。

 

どうかな、世界がなんらかの形で終わって秩序が崩壊した姿を思い
浮かべていただきたい。映画「マッドマックス」のような。
ただし、あっちはオーストラリアの砂漠で、暑苦しいし汗くさいし
オートバイやジープが騒がしい。
こっちはシベリアの大地。寒い。音がなく静か。匂いも感じない。

 

生き残った者たちは徒党を組み、集落を作り、弱いものを奴隷のよ
うに扱っているらしい。この広いシベリアで、主人公の女性の、ひ
とりでどう生きのびるかの冒険が始まる。
主人公は、歩く、歩く。文明の利器が失われているので、とにかく
歩く。とらわれても逃げ出して、広く寒いシベリアを歩く。そんな
小説です、、、、って、それではご紹介したことになりませんかね。

 

さて、この本の特徴は、文明とその滅亡にたいする作者の誌的な情
感にあると私は感じました。
主人公が、父親のこんなことばを想い出すシーン。
「彼はよく言ったものだ。原始時代の泥の中から這い出して以来、
我々は『不足』によって形作られてきた。(中略)ときにものは
『決して十分ではない』し、またあるときには『ぜんぜん足りない』。
とにかく万民に行き渡るということがない。人類全体の物語とは、
生活の資を得ようと悪戦苦闘して、それに失敗する人々の物語でし
かない。」

 

その後、主人公はこんなふうにひとりごとを言う。
「祖先たちが苦労を重ねて勝ち得た知識を、私たちはずいぶん派手
に浪費してきたのだ。泥の中から僅かずつ積み上げられてきた、す
べてのものを。」そして、
「夜空は失われた言語の一ページのようになってきた。動植物の品
種のような、我々がかつて観察し、永遠のものとして名をつけたも
のが、その存在を抹殺されていく。」

 

別の登場人物は、自分がおこなう暴力行為を自己弁護して言う。
「おれがそんなことをするのは、女房や子供たちがそれをせずに済
むような世界を作るためだ。そいつは善と悪との間の選択じゃない。
『今こうであること』と『そうであるかもしれないこと』との間の
選択なんだ」と。

 

私たちはやはり、「存在を抹殺される」ものが増えるような、「そう
であるかもしれない未来」を想像しておくしかないのです。
この近未来小に説は、誌的で、しかも自分の責任として人類の過去
と未来を考えるようなことばの数々が並んでいます。
そしてこれは想像力の射程を試したものというより、現在を未来か
ら投射する映写機の役割を果たしている、といえるのでしょう。

 

ブログ231

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第230回 2021.01.17

 

「物語を語るわけ=シノギの技術」

 

ひとは厳しい状況におかれると、自分の〇〇度を上げ下げしたり、
状況を「物語」として整えたうえで、他人に語るなどによってその
場を切り抜ける、つまり「しのぐ」ことをします。
悲観的な近未来を描く小説に共通するのは、登場人物たちがどのよ
うにその状況をしのいだのか、その勇気と技術を見据えることかも
しれません。

 

「侍女の物語」(マーガレット・アトウッド/ハヤカワepi文庫)

 

これは1986年の作品ですから、いまから35年も前の小説。
どうやら北アメリカに「ギリアデ共和国」という国家が誕生してい
る。これはクーデターによってできた、聖書を字義通りに実践する
原理主義国家であり、隣国とは戦争状態にある。

 

訳者あとがきの、的を得た要約をお借りすると、
「出生率の低下に危機感を抱いていた権力側は、すべての女性から
仕事と財産を没収すると、妊娠可能な女性たちを「侍女」としてエ
リート層の男性の家に派遣する。」
出生率の低下には、たぶん放射能や化学薬品の影響があるらしく、
仮に子どもを産めたとしても五体満足な赤ん坊ではない確率が高く
なっている。

 

主人公も、子どもも本名も奪われ(やっぱり奪われ、失うのだ)、
侍女としての名前を付けられて「侍女度」を上げながら「奉公」す
る。その奉公とは、ご主人の子どもを産むことだ。そんな、女性に
とってはなんとも暗い状況が描かれていきます。

 

派遣される侍女の教育係として、「やり手婆(わかるかなー?)」の
ような「小母(おば)」と呼ばれる人たちがいて、彼女たちにこんな
ふうに言う。
「あなた方がやろうとしていることは危険です。でもあなた方は突
撃部隊なのです」と。つまり出産が彼女たちの戦いであり、それだ
けのために屈辱的な生活を強いられるわけ。
実際に侍女のなかにはつらい生活に自殺したり、逃亡したり、国の
ルールに逆らって殺される人があとを絶たない。

 

あるとき主人公は、神様にこんなふうに祈ります。
「あなたが何の仕事に携わっているかがわかればいいのですが。で
も、何で忙しかろうと、どうかわたしにこの苦境を切り抜けさせて
ください。」「きっとあなたは、ご自分が食い物にされているように
感じているでしょう。しかもこれが初めてではないでしょう。」「あ
あ、神様、これはジョークではありません。ああ、神様、どうした
ら生き続けることができるのでしょう。」

 

苦しんで生き続ける彼女の運命はいかに?
と、小説の筋書きはそれとして、では、この物語がどのような形で
書かれたのか、という点に目を移してみたいと思います。
というのも、主人公は文字も紙も奪われているので、自分でこの手
記を残せたわけではないはずだからです。

 

ね、このへん、いくら虚構としてのフィクションであっても、気に
なるでしょう? ことばを失った小説家がどのように「この物語」を
残せたのか、と同じ疑問です。
なおかつ、彼女が語る挿話でも、彼女自身が「いや、本当はそうで
はない」「実際は違う」と打ち消しつつ叙述をすすめる場面が数多く
あるのです。なにかおかしい。

 

どうやら、彼女はこの国の苦境から脱出し、口頭でこの物語を語った
らしい、それをだれかがテープ起こししたものらしい、ということが
最後に明かされます。ということになると、彼女が本当のことを語っ
ているのかどうか、それも怪しくなっていく。

 

つまり、もちろん小説全体がフィクションという虚構なのだけど、そ
の中で主人公が生き、感じたもの、そして語ったものも虚構かもしれ
ないという、二重三重のワナが仕掛けられているのですね。
仕掛けられているというと語弊がありますが、読者は簡単に「本当の
作者」にたどり着けないようになっている。だからよけいに不気味な
物語に感じる。

 

さらに主人公はこう語っています。                                                                                                                                          
「この物語がもっと違った物語であればいいのに。」
「わたしとしては、この物語が苦痛に満ちていることを申し訳なく思
う。この物語が、十字砲火を受けた体のような、あるいは力づくで引
き裂かれた体のような、バラバラの断片になっていることを残念に思
う。でも、わたしとしては変えようがないのだ。」

 

「結局のところ、わたしはこの物語をあなたに聞いてもらいたいから」
「何であれあなたに語りかければ、わたしは少なくともあなたを信じ
ることになる。あなたがそこにいることを信じることになる。あなた
を存在させることになる。我話す、ゆえに我在り」

 

主人公のこういう独白を読んでみなさんは、どう感じるでしょう?
ここで話しかけられている「あなた」は、救出先の人びとでしょうか、
私たち読者でしょうか、あるいは神様でしょうか。そして主人公は、
これを物語ることによって、ほんとうに逆境をしのげたのか?

 

私は思いました。物語を語るとき、ひとは必ずなにがしかの策略をめ
ぐらす。読むひとに対して。そして自分に対しても・・・

 

ブログ230

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第229回 2021.01.11

 

「どうやら未来では、なにかが失なわれていくらしい」

 

コロナ禍で、私たちはいろいろと失うものがありました。
勉学や遊びの機会から友だちづくりのチャンス、仕事そのものや財
産、なにかに対する信頼、そして近しい人たちの死とその弔いも奪
われていました。

 

おかげさまで、ブックカフェは失うものもなく、というか、もとも
と本とお客さま以外の財産を持っていないので、小イベントを中止
した以外は、ほとんどなにも失うことはありませんでした。
しかしお客様のお話を聴くと、離れた家族との面会とか、楽しみに
している合唱の練習とか、どの方もなにかしら失っておられる。
さらに悪いことには、将来にはもっと失うのではないかと悲観的に
考えておいでの方が多くおられます。

 

私たちは未来に対して分が悪く、得るものより失うものが多いので
はないか、子孫や若い方に残せるものは少なくなっているのではな
いか、いや、子孫をさえ失うのではないか。
そんな気にさせられたのが、コロナ禍のいちばんの影響だったかも
しれません。

 

「密やかな結晶」(小川洋子/講談社文庫)

 

この本、近い将来なのか遠い未来の物語かわかりません。
SFというまで「科学的」かどうかもわかりません。
わかりませんけれど、多和田さんととても香りの近い物語を綴るの
が、小川洋子さんのこの本だと思います。
彼女たちのミステリアスな本を読んでいると、なんだかカフェマス
ターとして熱々のコーヒーを淹れている自分のリアルな輪郭が、ボ
ヤーッとぼやけてくるような感覚に襲われてしまうのです。

 

主人公は女性の小説家。
彼女の住んでいる「島」は外界から孤立し、「記憶狩り」というも
のによって、住民の生活から少しずつなにかが「失われて」いく。
「失われる」となると、そのものの存在がいつのまにかなくなり、
人びとの記憶からもなくなっていく。
まるで安部公房の世界に迷い込んだかのようだ。

 

主人公の父親が研究していた「鳥」が失われる。鳥がいなくなる。
「フェリー」が失われる。外界との行き来ができなくなる。
「バラ」が失われると、散った花びらが川を埋め尽くすように流れ
ていき、人びとは育てていたバラをそこに捨て、そしてバラという
ものがあったことを忘れていく。
そのように喪失と消滅を静かに受け入れている。

 

しかしそんな世界にも、ほんの一部だけど、記憶を失わない人たち
がいる。「僕には分かるんだ。エメラルドの美しさも、香水の匂いも、
僕の心からは、何も消えないんだ。」
彼らは「失われたもの」を保管し、記憶にとどめ、そうしながらひ
っそりと暮らしている。というのも、ものを保管したり記憶を失っ
ていないことがわかると、「秘密警察」に連行されてしまうのだ。

 

いろいろなものが失われていく島で、小説家の主人公はどう生きて、
どう物語を紡いでいくのか?
そんな入れ子構造の物語を読む読者の私たちは、それをどう受け止
めればいいのだろう?

 

ところが小説では、私たちの力が及ばない結末が待っています。
あ、私たちの力が及ばないのはあたりまえでしたね。だって小説な
んですから。読者も、「そうなるかもしれない世界」に立ってみて、
失われた世界に向かってひたすら手を伸ばすしかないようです。

 

この小説では、ひとの体も、左足からはじまって徐々に「失われて」
いくことになります。失われたものに向かって伸ばす手さえ奪われ
てしまう。どうしようもない。
そして最後には「ことば」も失われていく。
えーっ‼ ことばを失った小説家の主人公は、どーなるんだ!
これは、、、これまた、ものすごく怖いお話だったではありませんか!

 

私たちの未来は、このように失われることの多い世界なのか、いや、
未来を想像する作家さんたちが、みんな「失われること」ばかり考
えているのでしょうか? だれの力も及ばないのか? 
秘密警察を怖がらずにことばを自由に紡げる世界は、未来にはなく
なっているのでしょうか。

 

ブログ229

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第228回 2021.01.04

 

「近未来の静かな日本のいいようのない怖さ」

 

近未来小説といえば、ドイツ在住のこの方の作品もインパクト充分
でした。
多和田葉子さんは、毎年、村上春樹さんと並んでノーベル賞候補に
名前を連ねておられる方です。私には、だれのなにがノーベル賞に
ふさわしいのかよくわかりませんが、この本も私たちに「そうであ
るかもしれない、ひとつの別の世界」の姿を強く想像させるもので
した。

 

「献灯使」(多和田葉子/講談社文庫)

 

大震災という「大災厄」に見舞われた近未来の日本。
そこは、「前回の大地震で海底に深い割れ目ができて、ぐっと大陸か
ら引き離されてしまった。」「東京23区全体が、長く住んでいると
複合的な危険にさらされる地域に指定され」、あらゆる価値が失われ
た場所となっている。

 

そのうえ、なぜかわからないけど、日本は世界から拒絶されて仲間
はずれになり、江戸時代のような鎖国状態に陥っているのだ。
「日本は悪いことをして大陸から嫌われたんだって、ひいばあちゃ
んが言ってた」などと学校では話されているし、外来語も禁止だし、
自動車やインターネットなどのテクノロジーはなくなっている始末。
ある意味、成長なき「定常型社会」ができあがっている。

 

ただ江戸時代と異なるのは、老人はいつまでも健康で長生きし(と
いうか死なない)、逆に子どもはからだが弱く、体力がなくてすぐ
死んでしまうという事態が起きていること。
主人公の「無名」という名前の少年は、ひいじいちゃんの「義郎」
と二人暮らし。手足が鳥のように細く、ひとりでは生活できないの
で、ひいじいちゃんがすべて面倒をみている。

 

物語ではこの二人の静かな生活が描かれ、やがて無名が大陸に送ら
れる「献灯使」に選ばれる(のか? このへんなんだかよくわから
ない)ところで、とつぜんの無名の死で終わります。

 

終わりはこんな表現です。
「『僕は平気だよ、とてもいい夢を見たんだ』と言おうとしたが、
舌が動かなかった。せめて微笑んで二人を安心させてあげたい。
そう思っているうちに後頭部から手袋をはめて伸びてきた闇に脳味
噌をごっそりつかまれ、無名は真っ暗な海峡の深みに落ちていった」

 

こ、これは、怖いですっ! この、死の描写は怖い。
孤立した国の、車も走らない都会の描写も怖いし、たんたんと描か
れる二人のしずかな生活の描写も怖いし、そのなかで描かれるささ
やかな幸福感も怖いし、死が突然襲ってくるのも怖い。
無名が死んだ後に残されたひいじいちゃんの悲しみはいかばかりか
と思うし、孤立無援の日本もかわいそうでならない。

 

・・・という感じで、家の土台から大水に流されてしまったような、
どうにもならない怖さを残しながら、読者は放り出されるのでした。
トホホ。

 

ブログ228

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第227回 2020.12.27

 

「ちょっと困る近未来を描かれてしまった」

 

コロナ禍のようなことがあって、人類はこれからコロナとともに生
きなければならないなんて言われると、ほう、そうか、私たちはい
ままでとは違う考えで違う生き方をしないといけないのだなと思わ
され、しかしその具体的なすべがわからないままです。

 

そうだ! わからないときにこそ小説を読まなければならない。
優れた小説から、優れたインスピレーションを受け取らなければな
らない! それも一人でお部屋ではなく、ブックカフェで! 
新しい生活のしかたを探し、「そうであったかもしれないこと」に想
いを馳せつつ、みんなと話さねばならない!

 

そして私たちは思い出すべきなのだ。
人間とは常に、ああなったらどーしよう、こうなったらどーしよう
と想像して、それによってリスクの総体を縮減し、もって繁栄を謳
歌してきたのだということを!

 

なぜなら、「そうなってほしい未来」を思い描くことはもちろん大切
だけど、「そうなってほしくない」「ちょっと困る未来」をもきちん
と想像してバツ印をつけておかないと、それが知らないうちにドン
ドン現実化してくることがあるからだ。

 

、、、なんぞというワケのわからないことを勇ましく申してみました
が、こんな傑作小説を読み直すのにコロナもクソもないもんで(失
礼!)、楽しみながらちょっとだけ考えてみる、ということでよろし
いかと存じます。

 

「すばらしい新世界」(オルダス・ハクスリー/ハヤカワepi文庫)

 

1932年の作品。しかし90年前という古さを感じさせません。
この小説は、「テクノロジーの発展による悲観的な未来社会」を描い
た古典という評価を得ています。もちろん、ここで描かれた予想の
多くが的中しているということも含めて。

 

近未来、大きな戦争によって世界は壊滅し、その後人類は平和で清
潔で安定した社会をつくっていった。
そこでは子どもは、セックスによって妊娠して生まれるのではなく
人工授精によって生まれ、遺伝子操作によって受精卵の段階から五
段階の身分に選別されるようになる。

 

身分、すなわち厳然たる階級社会だ。
自分で階級の「度」の上げ下げはできない。
しかしだれもがその階級で自足して生活している。
そんな、すべからく安定のための徹底した管理がゆきわたった「す
ばらしき世界」で、ひとはなにを望んでなにを求めて生きるのか?
・・・と、なんだか本のオビのような惹句になってしまいました。

 

さて私たちが「そうなってほしくない」と思うのは、ここに描かれ
た未来社会では、「政府が定めた世界観に逆らうことは許されてい
ない」というあたりです。「自由」が奪われている。
しかもその「自由」とは、「なにをしてもいい自由」ではなく、「自
由について考える自由」さえもが奪われているように感じる。

 

この点、たとえば「漂泊のアーレント 戦場のヨナス」(戸谷洋志
・百木獏/慶應義塾大学出版局)のなかでは、「すばらしき新世界」
では、すばらしき管理による表面的な快楽や満足が社会を覆ってい
ても、「そこには真の『自由』は存在しない」と解説されています。

 

同時代に友人として生きた哲学者ハンナ・アーレントと倫理学者
ハンス・ヨナスを論じたこの本では、アーレントとヨナスのいう
「自由」とは、たんに個人が好き勝手にふるまえるという意味では
なくて、「人間の活動によってこの世界にまったく新たな出来事が
もたらされるという意味での『自由=自発性』であった」と書かれ
ます。

 

とりわけハンス・ヨナスのように、医療テクノロジーの進展によっ
て不老不死が実現されたら、、、と仮定して生命倫理を考えていった
ひとからすれば、この「すばらしき新世界」で書かれていることは
たいへんな問題提起と受け止めたことでしょう。

 

人類が死ぬことがなくなってしまった場合、人類は新しい人間の誕
生を中止しなければならなくなる。ヨナスはそう考えた。
しかしそのまえにハクスリーは、人類は人工授精と遺伝子操作によ
って、生まれてくる子どもにあらかじめなんらかの刻印を押し、能
力と階級を決め、「自由」などということを考えさせない社会をつ
くるようになると予測し、ここに描いたのでした。

 

それこそ彼が「そうなってほしくない世界」として、考えに考え抜
いた結果でしょう。100年後に生きる私たちは、ハクスリーやヨナ
スの「想像」の恩恵を受けて、いままでそんな世界から逃れられて
いた。
しかし、、、この先はどうかな? 

 

ブログ227

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第226回 2020.12.20

 

「自分の〇〇度を調整して生きなければならない」

 

「黒人の命も大事(ブラック・ライブズ・マター)」という標語の
もとに行われている「人種差別撤廃運動」は、私たちにとって切実
に実感がわくというものではありません。

 

けれども、亡くなったノーベル賞作家トニ・モリスンの作品や、と
りわけこんな小説を読んでしまうと、ああ、こんな感じなのね、こ
りゃキツイわーと、黒人の具体的な「痛み」を感得することになり
ます。
きっと私の中の眠っていた想像力が賦活するのでしょう。
ただ、その感覚が鋭利な刃物のようにキツすぎると、ヤワな感性の
私は、人種差別の実態について気が滅入ってウンザリしてしまうだ
けなのですけど。

 

「フライデー・ブラック」(ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー/駒草出版)

 

ガーナ移民の両親をもつアメリカ人作家の短編集。
ぞっとするほど切れ味のするどい表現を駆使して、黒人の「痛み」
を表していく、その感性にまず脱帽します。

 

最初の一篇は「フィンケルスティーン5」。
主人公の黒人男性エマニュエルは、その時々の自分に行動を「ブラ
ックネス(黒人らしさ)」にして十段階で測り、調整することので
きる抑制的な社会人として暮らしている。

 

電話に出るときは、「ゆっくり深呼吸して、ブラックネスを10段階
中の、1.5」に落とし、公の場で人々に姿を見られる場合は、「4.0ま
でなら下げられる」。4.0とは、「笑顔を絶やさずに、両手を行儀よく
わきに置いたまま、決して大きく動かさず、静かに話す」ことだ。
彼は自省的に生活し、「ブラックネスを7.0近くに上げることすら、
ここ数年はなかった」。

 

日本人読者の私たちはここで、一般に黒人がどう見られているかに
思いをいたすことになります。
黒人は興奮しやすく、笑顔なく、体を大きく動かし、大きい声で話
すとされているらしいと。そこから話が始まります。

 

あるとき、フィンケルスティーン図書館というところで黒人の少年
少女5人が白人男性に殺されてしまう。それも、頭部をチェーンソ
ーで切断されて。
この事件の容疑者に対して無罪評決が出たことから、黒人「同胞」
による白人への報復が始まる。彼らは「ネイマー(名前を叫ぶ者)」
と呼ばれ、事件の5人の犠牲者の名前を叫びながら、復讐としてな
んの罪もない白人を襲っていく。

 

エマニュエルはそうした風潮にたいして、いままでよりも自制的に
対処しようとするが、あることがきっかけで自分からその流れに身
を投じていく。
いやおうなく、「ブラックネス」の段階を上げながら・・・

 

せっかく平穏に生きるための努力をしていたのに、実らなかった!
最期の最後で彼は、「ファイト・クラブ」の主人公のように「現実
世界のあらゆるもののボリューム」を下げ、「何が起きても腹は立
た」ず、「自分の言葉が法になる」ようには、できなくなってしま
ったのだ。

 

ううっ、なんという悲しい物語でしょうか。
そもそも自分のブラックネスの段階を上げ下げしながら暮らさなけ
ればならないというのは、どんなに苦しいことでしょうか。それは
自己のアイデンティティを偽り続け、未来を葬っていることにほか
ならないのですから

 

思えば私も、自分の「カフェマスター度」を上げ下げしながら暮ら
しているわけですが、その際とくだんのストレスを感じることはあ
りません。
あたりまえですねよ、その種類の「複数いる私」の「度」の上げ下
げ程度のことは、だれだってフツーに、なにげなく、問題なく、行
なっているはずです。

 

だから、常に鋭利なアイデンティティ感覚を背負いながら、社会の
なかでブラックネスの上げ下げをするというのがどんなにつらいこ
とか、私たちにはわからないのです。

 

そこで、こんなことばを想い出しました。
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それを物語れば耐え
られる」(ディーネセン「アフリカの日々」晶文社)
これがこの「フィクションである物語」に贈ることのできる最上の
称賛だと思います。作者も、これを読むアフリカ系の人たちも、き
っと「物語」として昇華されたことで「耐えられる」ことがあるの
かもしれません。

 

ただそうはいっても、なんというか、「そうであったかもしれないこ
と」を「なかったこと」にできるわけではありません。
もしこの物語がノンフィクションであったら、それに対しては堪え
ることができるだけです。でもそれが大事なときもある。
変な言い方ですけど、えい、じれったいな、うまく表現できません。

 

ブログ226

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第225回 2020.12.13

 

「ひとと世界はどうやって壊れていくのか」

 

以前ご紹介した「キャッチ22」の魅力が、主人公がだんだん「正
気」になっていく恐ろしさだったとすれば、この小説の恐ろしさ
は主人公とともに世界が壊れていく恐ろしさのように思います。

 

「ファイト・クラブ」(チャック・パラニューク/ハヤカワ文庫)

 

ブラッド・ピットが主演した、1999年の同名映画の原作。
ブラピのファンならずとも、名作として評価されていますね。

 

不眠で悩む主人公は、親友のタイラーとともに「ファイト・クラブ」
なる秘密の会をつくる。
ファイト・クラブは、男たちの殴り合いの場だ。
男たちは、なにかに引き寄せられるように真剣な戦いをし、そして
普段の生活に戻っていく。ここで身体の痛みを確かめ、生きている
実感を得るのだ。

 

「ファイト・クラブでの夜が明けると、現実世界のあらゆるものの
ボリュームが下がる。何が起きても腹は立たない。自分の言葉が法
になる」
他人から承認され、自己を承認することができるように感じる。

 

やがてタイラーは、ファイト・クラブの中に「騒乱プロジェクト」
を設立して、世の中に騒乱のタネを仕込んでいく。いたずら、ケン
カ、爆破騒ぎなどなど、世の中側からみたら迷惑千万な話だ。
しかしこのプロジェクトの最終目標は、「プロジェクトのメンバー
一人一人に歴史を支配する力が備わっていることを当人たちに認識
させること」だった。

 

つまり、身のまわりの世界にあきたらず、広い世界での承認を求め
るようになる。こうしてまず、自分の力を再確認することがいかに
大切で、いかに多くの男たちがその欲求ににさいなまれているかが
示される。

 

これはまことに現代を象徴する「欲求」です。
以前しつこく追いかけた「アイデンティティ」の、根幹にかかわる
欲求といえるでしょう。

 

主人公もタイラーも、それからファイト・クラブに集う男たちはす
べて、世の中に不満を抱いている。
ただしその不満を解消する手立てがないゆえに、真剣な殴り合いを
し、それによってお互いをリスペクトし、やがて宗教じみた断言を
する指導者(タイラー)に盲目的に従うことになる。

 

「ぼくらは世界を吹き飛ばして歴史から解放してやりたいと思った」
という剣呑な思いが、彼ら全員の動機の半分のようです。
動機のもう半分は、逆にそんな「自分」を吹き飛ばしたいというこ
とだ。彼らの不満はそこまで深く強く、まるで「絶望」のように心
の中に根を張っているのです。
これが現代のアメリカの病理だ、という言い方もできるかもしれま
せん。

 

さて、映画を観た方も多いでしょうから、ここからはネタバレも含
みますけれど、主人公はじつは二重人格でした。
彼は、起きて普通に働いているときは主人公人格。寝ると「タイラ
ー」になって夜中じゅう男たちを先導し、本人不在のまま主人公を
も振り回してしまう。
だから主人公は不眠で悩んでいるのでした。

 

最期に、で、この小説のすごいところ、、、
その一、小説のキモの部分がネタバレしてもおもしろい。
その二、キャッチ22とは逆に、ドンドン話がヘンテコになる。
その三、映画よりも一つひとつの描写や表現が独特で奇妙。まるで
自分というものを失った人間が世界を見ているような違和感に満ち
ている。
その四、のちに起きる都市でのテロ、ニューヨークの9.11、人びと
の分断と騒乱そして差別、トランプの登場、世界中のパンデミック、
大統領選の混乱など、いろいろな出来事の予兆が描かれているので
はないかとまで感じさせる予言性。

 

ということで、みなさま。自分の住んでいる家が、土台から崩れて
いくような感覚を味わいたかったら、ぜひ一度ご賞味くださいまし。
90m級ジャンプ台で120m跳んだくらいのお薦め度!

 

ブログ225

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第224回 2020.12.06

 

「人間って意外と真面目なので、『希望』の処方が必要なの」

 

アイデンティティを追っかけて行くうちに、何故かというかやはり
というか、人間の身体性の話になってまいりました。
自分は自分、その一番の根拠は、自分の身体。その一体感というか
統合感の自覚、ですから。

 

たとえば「感情」とくに「怒り」も、自己の統合性を守るためのも
のでしたし、帰属や部族をつくるのも、「自己の統合性を敵から守
る」という目的で、人間の自然な防御姿勢でした。

 

「免疫」もおなじく、自己の統合性のために、それを脅かすものを
隔離・排除して、自己のアイデンティティを守っていたのでした。
感情も、身体の免疫もおなじで、そういう材料を使ってどんな家を
建てるのかによって、そのひとがどんなふうに「自己の統合」しよ
うとしているかがわかるということもありそうです。
ただし、自分の意志ではどうにもできないこともありますけど。

 

さて、すべからく生き物は免疫をおこなうわけですが、そのバラン
スが崩れるとなにが自己か他者かわからなくなって自分を傷つけた
りする。いわゆる自己免疫です。
これも、怒りや帰属とおなじで、もともと自分を守るためのものだ
ったのが、かえって自分を壊していくことがあるのと似ています。

 

するとアイデンティティとは、いってみれば「材料」と「家」の
バランスのことかもしれません。そういう意味で、
「『セルフ』と『ナット・セルフ』とを区別するセルフ・システム
は、意識の健康の保護者です。それが麻痺すると、自他・内外の
区別がしばしば不明確になります」と書くのが、

 

「最終講義 ~分裂病私見」(中井久夫/みすず書房) でした。

 

中井先生は高名な精神科医で、じつは私どもブックカフェデンのご
近所にある青木病院というところで勤務されていたこともある方で
した。
こういうことがあると、勝手に少しだけご縁を感じてしまいます。

 

分裂病には門外漢である私が(だいたいすべてにおいて門外漢なの
ですが)、この本を読んで感じたこと。
ひとつ。人間ってあんがい真面目なので、だから精神病になるのだ
な。
「セルフ・システム」、つまり意識の「アイデンティティ障がい」
が精神病の引き金になる。そして他人と自分、世界と自分の区別や
境目が判然としなくなってしまう。

 

ということは、真面目に「自分」をやっているひとのほうがシステ
ム障害を起こしやすいということではないでしょうか。
だから先生は、「睡眠や夢や心身症が、日々分裂病から(おそらく
他のもろもろの障がいをもつ)人間を護っている」と書かれるので
はないか。

ここらへん、なんとなく「免疫の意味」に通じる気がしませんか?

 

ふたつ。病気への対処法について。
「大きな侵略(病気)に対しては『反撃の構え』ではなく、「屈服
の構え』で嵐が過ぎ去るのを待つ戦略が妥当」だと先生は述べます。
これって、いっけん消極的な態度のようですけど?

 

治療者としての先生は、「心の産毛(うぶげ)を大切にする治療」
とか、「なによりも『希望』を処方する」とか、「病気というのは人
生の仕切り直し」などという、ステキなことばを残されています。
つまり、本人ひとりではなく「みんなで待つ」という対処を大切に
されていたのでしょう。だからこれらはむしろ、侵略への積極的な
向き合い方かもしれません。

 

みっつ。突飛かもしれませんが、禅仏教との関連性。
山田無文老師は、悟りを開かれた時、光る星を見て「あ、私が光っ
ている」と思われたそうだ。
仮にもし、セルフ・システムが良い意味で失われるとしたら、「自
己と世界の区別がつかなくなる」という分裂症の症状と、「自己と
世界の同一」という禅の悟りの境地とは近いものに思われてなりま
せん。

 

たとえば言語を拒否して風狂に転じた普化禅師、まるで意味不明な
禅問答を残した雲門禅師などは、悪くとれば分裂病患者そのもので
はありませんか?
セルフ・システムの崩壊が精神分裂であり、その「意識的な消去」
が悟りである、と言えるのか言えないのか、そこはちょっと不明。

 

よっつ。このように、ひとの「病気」というのは単純なことではな
く、深いものなのでした。
伝染病である新型コロナ感染症も、それが人間の精神に与える影響
とか、とりわけセルフ・システム意識に与える影響は計り知れない
と考えられます。

 

しかし私たちにいつでも必要なのは、中井先生のように「なにより
も『希望』を処方」してくれる方です。
私は医師ではないけれど、先生のようになれるように努力しようと
思いました。「マスターでブックコンシェルジュの私が、君の『ス
ーパーシステム』という希望を処方してしんぜよう」って。

 

ブログ224

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第223回 2020.12.01

 

「『自己』って、あんがいファジー」

 

このところご執心(私だけですが)のテーマであるアイデンティテ
ィについてですが、ちょっと理解できたかな、と思ってしばらくた
つと、アレ、全然まだまだじゃないか、象のしっぽを触っただけだ
ったじゃないか、という感じです。

 

というのも、自己の本質とか属性ってなんだろうというお話も、社
会的な問題ではなく身体的・生理的視点から考えると、それはそれ
は広~い地平が待ち受けているわけですから。
たとえばこんなお話。

 

「免疫の意味論」(多田富雄/青土社) 

 

これは1993年の発行ですから、27年も前の本です。
しかし、コロナになぜ感染するのか、しないのか、してもなぜ症状
に差があるのか、発症したりしなかったりするのか、それを遺伝と
か階級とか、社会学的なアイデンティティとはまったく異なる文脈
で考える糸口を与えてくれます。
たとえ30年のあいだに科学的医学的に新たな知見が増えたとして
も内容が古びず、良い本は良い本のまま筆者とともにアデンティテ
ィを保つのだ、ということを私は強く申し上げたい‼

 

それはどういうところか?
「身体的に『自己』を規定しているのは免疫系であって脳ではない」
「免疫反応を起こすために必須の臓器が、胸腺である」
「免疫は、きわめて微細な個人の差をめざとく見つけて、『非自己』
として攻撃する」
「『自己』は、その成立とあいまいさと迂回性から考えても、そん
なに安定したものではありえない。免疫系をとりまく自己は次々に
変容する」

 

ウィルスが体内に入ってくる、それを免疫系が「自己ではないもの」
と認識し、攻撃してやっつける。そして「自分」というアイデンテ
ィティを確立している。
つまり「それ」が自己か自己でないかということは、免疫系が判断
している。判断して、自己でないものはやっつけ、でもやっつけき
れないと感染症状がでる。

 

たとえばサイトカインというのも新しく知ったことばでした。
免疫機能ががんばりすぎて、ウィルスやそれに無感染した細胞だけ
ではなく、もともとの健康な細胞まで攻撃して「自分」を弱らせて
しまうという「自己免疫疾患」なんてものにつながるという意味。

 

こうして社会系・文学系の世界からは考えられない「自己」の規定
をし、なーんだ、自己ってあんがいファジーだね、それはつまり
「スーパーシステム」というものなんだよね、と多田先生は教えて
くれるのです。

 

なんかかっこいいけど、「スーパーシステム」とはなにか?
それは、「刻々と変化する外部および内部環境に可塑的に適応して
自己組織化していく免疫のようなシステム」のことだそうです。
うん、むずかしい表現ですが、「自己は、ウィルス侵入とそれへの
免疫対応のような経験をくりかえすことによって、鋭敏で反応性の
高い「精錬された自己」に変わっていく、ということのようです。

 

なんか嬉しいシステムですね、ね?
そしてなんとなく、ビジネス系、とりわけ組織論などの他分野に喜
ばれそうな表現ですよね、ね?
つまり、自己とはなにか?という問いが、自組織はどうあるべきか?
とか、状況に応じて適応し、たとえばコロナ禍のような危機に対応
する「スーパーシステム」をつくるにはどうするか、なんていう具
体的な問いを導き出せそうですから。

 

そういえば、個人のアイデンティティを免疫系からみるという機会
を、コロナ禍は私たちに与えてくれたことは確かです。
多田先生はこの本では免疫系の解説を終えてから後半、「では自己は
どう維持されるのか」とか、「アレルギーとはなにか」とか、サイト
カインのような「自己免疫」にも触れていきます。

 

このへん、とっても面白くて、たとえばこんな記述があります。
「難病と呼ばれている一群の免疫学的な病気は(中略)、体制が崩
壊したときの恐怖。寄せ集めの連合軍に曖昧な指令が誤って伝えら
れたときの混乱、同士討ち、終わりを知らぬ破壊。」
自分のからだのなかではいろんな戦いが行われ、「自己」とはかくも
あいまいで、ファジーで、不確かで、スーパーシステムなものだっ
たとは知りませんでした!

 

そこで私は思いました。
いまコロナに対して私たちは、ファジーな条件の中でこの「スーパ
ーシステム」の能力を最大限に発揮してもらうすべを試さなければ
ならないではないか、と。「してもらう」っていうのも変ですが。

 

先生は、「免疫系は、『自己』に適応し、『自己』に言及しながら、新
たな『自己』というシステムを作り出すという意味で、終生自己組織
化を続ける」とおっしゃる。

また、「免疫対応によって、鋭敏で反応性の高い精錬された自己をつ
くる」ともおっしゃる。

 

となると、自分は、自組織は、自社会はどうあるべきかという問い
にたいして、不確かな自己(組織)の成熟をめざして、自己組織化を
ドライブする方法を見つけようじゃないか、という方向が見えてくる。
さすれば私たちは、身体とそれがつながっている社会の両方の「経営
者」として、スーパーシステムをめざすアイデンティティを獲得する
ことができるかもしれません。
なんと抽象的な結論であることか。すいません。

 

ブログ223

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第222回 2020.11.22

 

「アイデンティティ・ポリティクスのゆくえ?」

 

アメリカ大統領選挙が終わって、世の中すこし静かになりました。
しっかし、激しいいがみあいと口論の映像を私たちは見ましたねー。
なぜあそこまで激しく憎みあい、暴力沙汰になるまで至るのでしょ
うか?

 

自由を求める香港やチベットやウィグルではなく、あの民主主義国
家アメリカで、ですよ。
地域コミュニティを大事にし、ボランティアが盛んで、ノブレス・
オブリージュを大事にし、先人たちが注意深く法律と制度を磨き上
げた遺産を掲げ、他の国の民主化政策を批判し、世界じゅうからお
手本のようにいわれていたアメリカで、ですよ。

 

だって、アメリカの国民はたぶん、主義主張の違いでも、階級や性
差、収入によって赤と青の二つに割れたわけでもありますまい?
もちろん、それらを起因とする「アイデンティティ・ポリティクス」
もあっただろうけれど、むしろトランプ対アンチトランプという次
元で、自分たちこそが本線だ、正義だ、あいつら「が」間違ってい
る、として争っていたのではないですか?

 

いやいや、あるいは問題はもっと深くて、国民のほとんどが移民の
子孫で歴史的アイデンティティ感覚が薄いため、いったん割れると
よけい過激になり暴力的になるのでしょうか?
などと、私たちの頭も、少しく混乱しつつ見守ったわけでした。

 

「歪んだ正義」(大治朋子/毎日新聞出版)

 

普通の人がなぜ過激化するのか? 
これがこの本の副題でした。じつに興味深々です。
オビには、「『自分は絶対に正しい』と思い込むと、人間の凶暴性が
牙をむく。」とあり、さらに「テロリズム、学校襲撃、通り魔、コ
ロナ禍に現れた『自粛警察』に共通する暴力のメカニズムを、気鋭
のジャーナリストが解き明かす。」とあります。
ますます興味深々で、読まずにはいられないじゃないですか!

 

まず最初にお断りしなければならないのは、著者はジャーナリスト
であって研究者ではないこと。それから、イスラエルの大学でテロ
や紛争のなかでの「個人の過激化」を学習したこと。だから、決し
てたんなる社会時評や感染症や、大統領選挙の分析が目的の本では
ないことです。

 

さてでは、なぜ、ひとは過激化、凶暴化するのか?
まず、紛争などの厳しく追い詰められた環境になればなるほど、ひ
とは相手が自分の敵か味方か、これは善か悪かなどという「原始的
な二元論」の反応を起こしやすいのだ。
つまり、正義はこちらにあると思い込む。

 

つぎに、「こうした原始的反応の次に、外集団(自分たち以外の集団)
を人間とみなさない思考が表れる」らしい。
そして、いったん相手を人間ではないものと認識すると、相手集団を
「心を持たない愚鈍な人間以下のモノとみなすようになる。」
そして、対話なんてムダだ、やつらなんて粗暴に扱っていいのだ、と
暴力行為の正当化をするようになるというのです。

 

よくわかります。
追い詰められる→違うものを見る→異なる事実を正しいと思う→お互
いの間で議論にならない→→議論ではなく紛争・闘争になる、という
悪循環に陥るわけですね。
これでは平和な民主主義など、ひとたまりもありません。

 

アメリカの両陣営の争いは、その「闘争」が暴力的にまで「過激化」
したわけではなかったかもしれません。
ただ、トラ〇〇さんの言動はそれを煽るものであったことは確かでし
ょうし、彼の挑発に乗って、ということはつまり、追い詰められたよ
うに感じさせられて、「普通の人」が「普通の人」に対して侮蔑、差
別のことばを連ねたことは確かです。
だからこれはもちろん、ロシアKGBの陰謀でも中国の画策でもなん
でもなく、アメリカという国の自分の身体から出た病気です。

 

で、話は元に戻ってしまうかもしれませんが、私は、分断を煽ったト
ランプさんの本心を聞きたい気持ちを抑えられません。
「あなたのアイデンティティは、どこにあるのか?」って。

 

ブログ222

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第221回 2020.11.16

 

「シティズン・シップは、まだ、ない」

 

「アイデンティティというなら自分は世界市民だといえ、無知のヴ
ェールをかぶってみろ、そしてシティズン・シップを獲得しろ。
そうしたら集団・部族ごとの争いから手を引くことができる。自分
の主体性のヒントが見える。そして民主主義のカタチが見えてくる」
と、おっしゃる方がいる。

 

ところがそれに対して、
「そんな理想ごとばかり言ってんじゃねえ。グローバルな環境で多
様な価値観をもちつつ、自由で合理的な精神によって自立して生き
るなんぞという、そんなモダンで『リベラル』なやり方はリスクが
大きすぎるのだ。個人とか自由とかリベラルとか、それを土台にし
た民主主義なんて、荷が重くてしょうがないじゃないか。」
と、おっしゃる方がいるし、現に若者たちはそう感じているような
のです。

 

どういうことか?
若者たちは、逆に、自国ファーストという名のナショナリズム集団
だったり、自分の宗教、自分たちの人種、仲間、部族、そういう場
所に集って、「多数派」でいたいらしい。
なぜならそのほうが「安全」で「快適」だから。
そのほうが、自分がしっかりと守られてアイデンティティを確立で
きるような気がするから。変に個人の自由とか尊厳とか、自己責任
とか自助とか言われるより、そのほうがいい。

 

カロリン・エムケさんのいう「アイデンティティ戦術」も、與那覇
潤さんのいう「負の個人主義」も、じつはこの若者たちの行動とお
なじ構造にあるのかもしれません。

 

「アフター・リベラル」(吉田 徹/講談社現代新書)

 

というわけで、アイデンティティ問題は、今回私の中で「安全と居
場所を求める若者たちの問題」に変化してまいりました。
だってそうでしょう。                                                                                                                                          
高齢者は、「いまさらアイデンティティだのヘチマだの言われたって、
なんだっていうんだよ。もう遅いんだよ、静かにのんびり暮らさせ
てもらえればそれでいいんじゃよ。個人主義だとか民主主義だとか、
煩わしいことに巻き込まんでもらいたいものじゃ。」
と、言うでしょう。

 

働き盛りの人たちは、「仕事と子育てで忙しいんだから、自分のアイ
デンティティとやらに構っているヒマはないのよねえ。グローバル化
より自分の生活。自由や権利よりも収入。格差だけなくしてほしいの
よね。とにかくそういう難しい話、やめてくれるかな。」
と言う。

 

問題は、これからの未来を担う若者たちです。
彼らはいま、リベラルな社会の「自由」とか「自立」とか「自己責
任」とか、それにともなう「不平等」「格差」に嫌気がさしてきたよ
うに見える。
そしてそうした自分の感触を、立ち位置としてどう確立するかに悩
んでおられるようにみえる。

 

そこに「コロナ禍」だ。
とりわけコロナ感染禍は、「社会の抱える弱点を白日のもとに晒す」
ことによって「危機を生む原因であるとともに、その結果ともなっ
た」と、筆者は述べるのです。

 

つまり、若者はたぶんこう感じているのだろう。
「いまの社会のもろさによってコロナ禍は広がり、それによって格
差や不平等が広がり、オレはモロに悪影響を受けた。ここではオレ
はとっても生きにくい。金がない。生活が苦しい。居場所もない。
役割もわからない。助けてくれる人がいない。
しかしこれは今まで自分が気づかなかっただけで、もしかしたらこ
の状態こそが、いまのオレを作ってきた原因なのではないか。そし
てそれはこれからもずっと続くのではないか、クッソー」、と。
この心情は、「社会の抱える弱点」そのものではないか?

 

すると若者たちはどうするのでしょうか。
たとえば「強権に『いいね!』を押す若者たち」(玉川透/青灯社)
の分析によれば、
ひとつ。強い指導者を望む。
彼らは、極端には国が権威主義的な国家であってもよいと考えてい
る。そのほうが、自分が差別されにくく自分らしく暮らせるかもし
れないというのです。「能力の高いひとりの人がすべて決めればいい
じゃないスか」と。
だから中国やロシアの指導者とそのやり方に違和感をもたないよう
なのです。

 

ふたつ。自分がつねに「多数派」にいることを望む。
これからも同じ状況が続くのであれば、彼らは安全と安定を求めて、
自分たちがマイノリティに転落しないよう、マジョリティとしての
地位にしがみつこうとしているらしいのです。
「(選挙の)開票速報を見て、自分が多数派だったと分かったら、
なんだか安心しました」というぐあいに。

 

そして反対意見を不満に思い、頭から排斥する。
「なぜ選挙で決まった多数派の政権に逆らうのか?」「多数派の政
策(これが民意だろ!)を受け容れることが民主的なのではないか」
などとして。
このようにして、彼らは「野党嫌い」になるということらしい。

 

そして、連立で政権内部にいる政党のようにつねに多数派につき、
少数派や反対論に反感を抱く。それが彼らにとって「民主主義」だ
と考えられているのだそうです。
「選挙を通じて国民に選ばれた首相を批判することはできない。そ
れは『天にツバする』ことにななるから」と言った官僚もいたらし
いですから(こういう意識が「忖度」の温床ですよね)、これは若
者に限らない傾向のようです。

 

さて、みなさま。
このふたつの傾向が本当だとすれば、これまで見てきたアイデンテ
ィティをめぐる論議とあわせて、どのようなことが言えるのか。
とくに、これからの民主主義を担っていくはずの若者たちの意識は
どうなっていくのか?
・・・答えはまだ、ない。シティズン・シップも、まだ、ない。
というか、ぜんぜん、たどり着かない。困っています。

 

困りつつ、補足です。
関連するこんなことばを見つけましたが、いかがでしょう。
「独裁制では、極端に言えば、賢者は独裁者ひとりでいい。賢い独
裁者以外は全員、上の指示に従うだけの幼児で構わない。逆に、民
主制では、誰の指示がなくても、自律的にシステムのための最適解
を見出して、それを実行できる人をできるだけ多く要求する。民主
制は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、非民主制は
そうではない。」(内田樹/日本習合論/ミシマ社)

 

ブログ221

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第220回 2020.11.08

 

「アイデンティティ・ポリティクスから抜け出すために」

 

なんのかんのと、また難しい問題に手をつけつつ読書を続けている
わけですが、この「民主主義とアイデンティティの関係」を自分の
中で整理したいという一心で、考え方のの土台づくりをしているつ
もりです。なにとぞご容赦ください。

 

しつこいですが、問題はこうです。
自分はなになにだ(日本人だ、男だ、〇〇年代だ、収入がこれくら
いだ、、、、などなど)という意識が、なにかの社会的課題について
「自分の帰属先」や「居場所となる集団」や、強い感情に操られる
「部族」をつくる。

 

とりわけ、収入が上がらないのは景気が悪いせいだとか、中国や韓
国はけしからんとか、私たちが選挙で選んだアベ・スガ政権の政策
に反対するのは非国民だとか、ネット・コミュニティで無視された
とか、障がい者は私の生活を邪魔する、などという「思い込み」が、
他者と敵対する集団をつくる原因になりやすい。

 

自分のアイデンティティ確立のために、「自身の属する集団または
イデオロギーの価値をほかより高く見て、私を他者と区別する」。
じつはそれが、もう最初っから話し合いの場に立つことを拒否した
り、ことさらな差別をしたり、トラ〇〇さんのように極論や嘘を平
気で言ったりすることになって、公平・公正・熟議・少数の尊重・
平等、、、、などの民主主義の土台をゆるがしているのではないか?
この疑問を解きたいのです。

 

「『差別はいけない』とみんないうけれど」(綿野恵太/平凡社)

 

アイデンティティ・ポリティクスという、ちょっととっつきにくい
ことばがあって、それは、「社会的不利益をこうむっているアイデ
ンティティをもつ集団が結束して社会的地位の向上をめざす政治運
動」のことだそうです。

 

これじたいはいままでもずっと行われてきたことで、労働組合もそ
う、差別撤廃運動もそう、フェミニズム運動の一部もそうでした。
弱きもの、虐げられしもの、団結せよ! そして権利を取り戻せ!
みたいな感じですね。

 

ところが筆者は、この方法は容易に他者の排除につながりやすい面
がある、というのです。
そりゃそうですよね。
ある主張をもって団結すれば、それに反対する他者や集団と敵対し
やすくなりますから。

 

そしてその運動は、冷静な議論につながらず、議論がうまくいかな
ければそれだけ感情的に「怒りの部族」ができて、相手の話を聴か
ずに逆に差別・排斥する集団ができる。そうしてあっちもこっちも
炎上することになる。

 

最近では、そのようなかたちで社会の中でいくつもの場所で、いく
つもの種類の「分断」が起きているわけです。そういえばアメリカ
大統領選挙では、これがモロに表面化していた気もします。

 

でも、これが民主主義本来の、成熟した姿といえるのだろうか? 
いや、いえない。いえるとは思えない。
じゃあ、これを解決するためにはどんな方法があるのか。

 

筆者が提唱するのは、「アイデンティティ・ポリティクスから、シ
ティズンシップへ」というものでした。
「シティズンシップ」とは、リーダーシップとかメンバーシップと
いうことばがあるように、シティズン(市民)としてのありようと
いうことで、イギリスの学校などでは民主主義教育の柱として重要
視されている概念です。

 

この「シティズンシップ」、すなわち、同じ社会の市民として問題
を解決していこうという姿勢と能力そして技術、私たちはここを重
点的に高めなければならないと筆者は言います。
日本人、男性、年齢、職種や収入、趣味や興味、社会的階級などの、
社会的アイデンティティを構成する条件を「ひとまずわきに置」い
て、「市民」として問題をみたら、その問題はどう見えるだろうか? 
そこを出発点とするのです。

 

公共哲学にお詳しい方は、ここでジョン・ロールズ先生の「無知の
ヴェール」を思い起こすかもしれません。
なにかを選択したり判断するときに、自分についても他人について
も何も知らない状態であると仮定することによって、公平公正に状
況を見ることができ、それをもとに合意形成の土台ができるという
見込みをもつこと。
それを「無知のヴェール」をかぶる、と先生は表現していました。

 

たとえば、「障がい者は社会のお荷物だ」と考えて排除しようとする
人が、この「無知のヴェール」をかぶることで、「いまも。し、自分が
逆に障がい者だったとしたらどうだろう。どう扱われたいだろう」
と考える余地を与える手段ともいえます。

 

これはちょっとした倫理上の視点替えのテクニックかもしれません。
また、姿勢・能力・技術という、ひとの本質をつくる要素かもしれ
ません
私は、「帰属をいうんだったら、地球市民とか人類って言え、そした
ら今日の世界に一体感を感じられるようになる」だろう、というマア
ルーフさんのおことばを再度思い出しました。

 

差別はいけない、感情に流されてはいけない、ことさら怒りという
感情に逃げ込んで「部族」になってはいけない。じゃあ、どうする?
そのとき私たちは、「無知のヴェール」をかぶることで世界に一体感
を感じられるようになり、シティズン・シップをとれるようになるは
ずだ。それをめざそう。こういうメッセージです。

 

その通りだと思います。
ただ、そういうことは頭ではわかっても、現実には目の前の感情、
とりわけ怒りに流されてしまうのが我々の性(さが)というもの。
小学校教育から何年間もかけて学び、訓練していくイギリスでも
決してうまくいっているとはいえないのですから、シティズン・シ
ップが簡単に身につくということではありません。

 

だから、この「アイデンティティ・ポリティクス」から自由になる
のはとても難しいことだと肝に銘じて、お互い油断しないようにし
ましょう。

 

ところがわたしときたら、気にくわないニュースを見て、フンッ、
アベのバーカ、スガのインチキ、オマエのカーチャン、でべそ! 
なんていまだに言っているのですから、ホント驚きを隠せません。
こんな、幼児語のなかの幼児語を使っているようじゃ、私には、シ
ティズン・シップを身につける厳しく長い試練が待ち受けているよ
うです。

 

ブログ220

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第219回 2020.11.01

 

「ジシュクケイサツからの解放」

 

キンコンカーン。
ところで、新型コロナ・ウィルスの感染者に対してレッテルをはっ
たり、侮蔑的なことを言ったり、いわゆる自粛警察としてふるまっ
たりする例をよく耳にしました。
あなたはどうでした? ジシュクケイサツ、やっちゃいませんでし
た? 私、ちょっとだけ、やっちゃったかもしれません。

 

コロナによって表面化してきたことのひとつが、じつは、こうした
やり口に含まれている「私と彼らは違う」という意識だったかもし
れません。
私はちゃんとやっている、あいつらは自分とは違う、あの人たちは
なに考えてんだかわからん、そんな意識が差別を生み、怒りの感情
を育て迫害したりして、それでもって自身のアイデンティティーー
私はこれをねじ曲がったアイデンチィチィと表現して差別しており
ますがーーをつくりあげているのではないか?

 

私は自分の中のジシュクケイサツについてそんなふうに思ったので
すが、おなじような懸念は多くの人に共有されているような気もい
たします。

 

「憎しみに抗って」(カロリン・エムケ/みすず書房)

 

本のオビにあるように、「なぜ世界中で、他者への集団的な憎しみ
が高まっているのだろう」というのが、多くの難民を受け入れたド
イツのジャーナリストである筆者の基本の問いでした。
ドイツでももちろん、難民受け入れについて反対論があり、受け入
れた難民に対して憎しみをいだき、差別をする人は絶えなかった。

 

筆者はこう考えます。
ひとは不安があるときに、他人もしくは集団を憎むことによって自
らのアイデンティティを確立しようとする。「自身の属する集団ま
たはイデオロギーの価値をほかより高く見て、私を他者と区別する」、
そんな戦術をつかう。

 

そのときの相手先はだれでもいいのだ。
外人、異教徒、難民、移民、異性、障がい者、異なる所得階級、な
んでもいい。それらを「他者」として排除の対象にすることで、自
分の位置を確かめようとする。

 

さらに、そんな個別のもくろみとは別に、「憎しみと不安をあおる
ことで利益を得ようとする者たち」がいる。
それはある種の政治家、ジャーナリスト、マーケッターなどだ。
彼らはつねに集団の中に小さな差異をみつけ、大袈裟に取り出し、
「差異の論理」に従って社会を分断することによって自分の意見を
通しやすくしようと試みる。

 

しかし、それは民主主義社会にとってマズイことだ。
ひとをそのように特定の役割とか特徴でレッテルを張り、「フィル
ターのかかった眼で世界を見ている」と、その人はそのうち自身の
想像力が枯渇して現実を矮小化し、まわりの人間を、一人ひとり個
性をもった「個人」ではなく、なにかの「集団」というイメージで
しか見られなくなる。
そのなひとばかりできたら、民主主義なんて木っ端みじんなのだ!

 

・・・・はい、このあたり、いままで何回か確認をしてきたことで
すね。こうして各方面から確かめていくことで、自分の意見の土台
が少しだけしっかりしてきたような気がします。

 

えーっと、では元に戻って。
多様な個性をもった「個人」として見ない習慣がつくと、いっそう
怒りや憎しみに支配されやすくなる。それが人間の本性なのだ。
「私が不快に思うのは、人間を誹謗する排斥と攻撃のメカニズム、
それ自体だ」と、筆者は言います。
これは、ネットで他人を傷つける投稿をするひとも思い起こさせま
すし、たとえば「秋葉原」や「やまゆり園」の加害者をも思い出さ
せることばですね。

 

では、そんなメカニズムから解放されるにはどうしたらいいのだろ
うか? 
私たちはそれを真剣に考えなければなりません。

 

ヒントは「想像力」ということ。
それから「他者にレッテルを張らない」、ということ。
そのために他者の「複雑さ」や「弱さ」、「不純なもの」や「障がい」
「欠損」などを容認する土壌を社会につくること、ではないかと思
います。それが民主主義社会につながるような気がして。

 

筆者いわく、
「民主主義とは、動的で学習能力のある社会のことだ。そんな社会
はまた、個人および集団の犯した間違いを認め、歴史的な不正を正
し、互いに許しあう姿勢をも前提とする。」
「だが残念なことに、ソーシャルネットワーク内でのコミュニケー
ション方法といった構造的条件が、間違いを認め、互いに許しあう
ことのできる議論文化をますます困難にしつつある。」

 

良いおことばではありませんか! 
「民主主義とはまず人間としての自分と他人を尊重することであり、
それぞれが明確な主体(アイデンティティ)形成の基盤となるよう
なプロセスをつくることである。」
こういう「善い」おことばが、ドイツのメルケル首相の発言にも共
通していることを思えば、しっかり自立した個人のアイデンティテ
ィに支えられた、まるで体幹が強く鍛えられて揺らぎの少ない身体
のようなドイツの民主主義の強さを感じるのです。

 

キンコーンカーン、では今日はここまで。
あ、急いで補足です。
歴史学者の與那覇潤さんは、日本では「負の個人主義」が強い、と
いいます(朝日新聞2020.10.9「耕論」)。
負の個人主義とは、「おれはおまえとは別の存在だから、触るな、
不快な思いをさせるな」と考えることです。そして「自分と相手を
包む『われわれ』の意識がない」と。
だから、「自分を不快な気持ちにさせただけで領域の侵犯であり、
アウトだ」として、相手を糾弾するのだと分析します。

 

これは、「相手に迷惑をかけないことだけを絶対の規範とする」と
いう名の、「人間を誹謗する排斥と攻撃のメカニズム」であり、ジ
シュクケイサツとは裏表にある「主義」ではないでしょうか? 
こうした風潮が、コロナ禍でいろいろと露わになってきたのかもし
れません。

 

ブログ219

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第218回 2020.10.25

 

「そもそも民主主義とは?というところから考えると」

 

自分のアイデンティティの多様さと新鮮さを失わず、意味のない争
いをして民主主義を危険にさらさないためにはどうしたらいいか?
そういう問いがグイーッと背をもたげてきたわけですが、これでは
まだ「問い」として抽象的だし、「こなれてない」感がありますね。

 

争いをしないことが「善い」ということではない。
しかし「帰属」や「部族」にこだわっていると、意味のない敵対者
をつくってまっとうな議論に入りにくい。そこをどう乗り越えるか。
それが重要だと思われるのです。

 

しかし、この問いについては少しのあいだ床下で熟成させておくと
して、私たちが拠って立つ「民主主義」じたいについてもう一歩考
えを進めるために、これまでの常識を変えそうな本を読みましたの
で、このタイミングでご紹介させてください。

 

「民主主義の非西洋起源について」(デヴィッド・グレーバー/以文社)

 

これは、残念ながら今年(2020年)に若くして亡くなられたグレー
バーさんの、ほぼ遺著のような本です。

 

まず私たちが学校で習った民主主義とは、「国民が主権を持ち、み
ずからの自由と平等を保障する政治思想」というものでした。
それを具体的に実現する民主制国家とは、多数派による支配と少数
意見の尊重、法による支配と権利の平等、言論や結社の自由、代議
士を普通選挙で選出する「間接民主主義」、それから、えーと、そ
うそう、情報の公開などで構成される、と社会科の先生は言ってい
ました。

 

もう少しいうと、文部省の教科書「民主主義(1948年刊行)」(角
川ソフィア文庫)では、民主主義というと上記のような「民主政治」
のことだけだと考えがちだが、たいせつなのは、その根本にある
「人間の尊重」なのだと述べられています。
「人間が人間としての自分自身を尊重し、互いに他人を尊重しあう
ことは、政治上の問題や議員の候補者について賛成や反対の投票を
するよりも、はるかにたいせつな民主主義の心構えである」と。

 

だいたい、こうした理解でよろしいでしょうか?
そしてこの民主主義は、もともとは古代アテネの直接民主政を範と
し、西洋の国々が、とりわけその市民階級が、イギリスのピューリ
タン革命とかフランス革命とかアメリカ建国とかあれやこれやの血
なまぐさい運動を通して獲得してきた自由と人権と平等なのだ、と
いうのが私たちが学校で習った話だ思います。

 

ところが、この本の筆者は、イヤ、じつはそうではないのだ、と言
うのです。
え、違うの? ビックリしますねえー。
どう違うの? せっかくうまくまとめられたと思ったのに。
筆者はいったいなにを言いたいのでしょうか?

 

民主主義はもともとヨーロッパの「内部」だけにあったのではなく、
16世紀以降、西洋と他の世界とのマージナル(境界線)な領域に育
ったり発見されたものなのだ。
たとえば合意づくりのための「話し合い」の方法にも、西洋流の
「議会ルール」や「ファシリテーション」以外にも、アメリカ先住
民(インディアンと呼ばれる)やアフリカの村の方式をはじめとし
て世界中に存在する。
(そういえば日本にも、民族学者宮本常一さんが紹介した、「結論
が出るまで何日でも話し合う村のルール」(「忘れられた日本人」岩
波文庫)というのもありました。)

 

これらは、きわめて直接民主主義的なやり方だった。
ということになると、じつは近代19世紀以前のヨーロッパなんか
より、西洋が「未開で野蛮」と考えていた人びとの暮らす土地で、
とくに小さな地域共同体では、一人ひとりの人間を尊重した平等な
社会がつくられていたのだ。

 

じつはヨーロッパは、それら「非西洋起源の民主主義的政治」を少
しずつ導入して、少しずつルール化し、それを自分たちが理想形と
考えていた「アテネの民主政」に結びつけて作り上げたのだ。
そうしてできあがった作法を、彼らは自分たちのオリジナルな民主
主義だと主張する。

 

おいおい、でもそれって、パクリじゃない、ちょっとズルイよねー、
と筆者は考えるわけです。
じつは、イスラムならイスラム、中国なら中国、日本なら日本と、
それぞれ独自の文化のなかで育った「人間の尊重」の考えと「民主
主義」の土台があるのであって、その「非西洋的」な発祥部分を無
視してはいけない、とおっしゃるのです。

 

なるほど。そこは歴史的な事実として、わかった気がします。
では筆者は民主主義を、そのような事実に拠って「非西洋化」して、
そのうえでどうしたいのか? そこが問題ですよね。

 

ヒントは彼がこう述べるところ。
民主主義とは、「ある共同体と他の共同体が出会うとき、そのあい
だに開かれる空間においてこそ成立する」ものなのだ。たとえば、
大航海時代に西洋諸国が新大陸(アメリカ先住民)に出会った時の
ように。
そんな文化の出会いをもう一度やり直せないか。

 

もうひとつ、さらに民主主義を構成する大切な要素である「討議」
とは、「それを通して人びとの主体が構成されていくプロセス、さ
らには明確な主体形成の基盤となるようなプロセス」なのだ。
重要なのはここだと私は思います。
討議とは、結果を出すことや多数決に持ち込むことが目的なのでは
なく、「参加者の主体性が構成される」こと、つまり、人びとの
「アイデンティティ」を確立するための手段なのだ。人びとがそれ
を通して、こうなりたいという姿に成長するためのものなのだ。

 

だから異なる文化の共同体どおしであっても、ネット上にできた
「部族」であっても、お互いに自分たちの主体性を確立するような
形で「出会う」ことによって討議が始まり、民主主義は成立する。
筆者がそういうならば、私たちは感情的に敵対する愚を避け、民主
主義を危機にさらさないために、もういちどこの原点に戻って考え
ることといたしましょう。

 

民主主義とはまず、人間としての自分と他人を尊重すること。
それぞれが明確な主体(アイデンティティ)形成の基盤となるよう
なプロセスをつくること。
「投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実に
するのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をす
ら、引き起こしかねない。・・・重要なのは、自分の意見が完全に
無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいないようにするこ
と、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びと
さえもが、受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことであ
る。」でした。
キンコンカーン、本日はここまで。

 

 

ブログ218

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第217回 202010.19

 

「アイデンチィチィとミンチュチュギ」

 

コロナ禍によって、多くのことが表面化してきました。
そのなかには、「アイデンティティ」の不安とか、その結果とし
ての「人と人、集団間の分断」もあるように思えます。

 

たとえば、「コロナに罹る人と罹らない人の違いはなにか?」と
か、「重症化する人としない人の違いはなにか?」などが問題に
なると、人種とか国籍とか、階級、収入、地域、生活習慣など、
アイデンティティを構成する要素が必ず入り込んできます。

 

「入り込んでくる」というのは不正確な表現かもしれません。
じっさいは、どうしても私たちは「ひとのアイデンティティを構
成する要素」によってものごとを判断してしまうということなん
でしょう。

 

というのも、はじめての事態をなんとか理解しよう、適切に判断
しようとすると、他人と自分との違いを浮き彫りにして考えたほ
うが楽な場合が多いからです。
自分とあいつはここが違うからこうなったとか、こんな事態にな
ったのはかの人種がこんなことしたからだとか、あの国の指導者
が悪いからわれわれも苦しむのだとか、ありとあらゆるその手の
「理由づけ」をして、わかった気になる。

 

逆に、人間のこんな心情にも、フェイクニュースや陰謀論のつけ
込む余地ができてしまうのかもしれません。
つまり、「ひとの心のスキ」に入り込む「喪黒福造」(モグロフク
ゾウ/藤子不二雄先生の作品「笑ゥせぇるすまん」の主人公です)
の出番は、そもそも私たちのアイデンティティの上の不安にある。

 

じっさいのところ、アイデンティティを構成する要素なんか気に
しない人のほうが珍しいのです。
そういうひとは、自分が差別排外されるのを厭わず、他人をも差
別排外しない、フェイクに惑わされず心にスキのない、バウマン
さんのいう意味でのアイデンティティの確立した強いおひと、だ
といえるのでしょう。

 

ほんらいは、アミン・マアルーフさんが言うように、「帰属」をい
うんだったら地球市民とか人類って言え、そしたら「今日の世界
(という大きな集合・共同体)に一体感を感じられるようになる」
だろう、そして他人や他集団との違いよりもむしろ、「同じ部分」
に目がいくだろう、ってことなんでしょうね。
でも心の狭い私たち、残念ながらなかなかそう強くなれないよう
で。

 

「なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか」(渡瀬裕哉/すばる舎)

 

じつはコロナ禍のずっと以前から、現代社会は「アイデンティティ
の分断」という問題を抱えている、というのがこの本の筆者でした。
そんなことはその前からあったのだ、そしてそれがじつは、なにを
隠そう、民主主義の成熟によるものなのだ、という逆説とも思われ
る意見を唱えられているのです。

 

まずは復習です。
「アイデンティティの分断」とはどういうことか?
それは「政治的な意図を持って、人々に自らが属する集団に対して
過度の同一化(帰属意識)を促し、対立する集団に属する人々を敵
対勢力として認識させる社会状況」のこと。

 

たとえばマアルーフさんのように、世界市民としてのアイデンティ
ティを持てば世界中のひとが一体感をもてるはず。
ところが、いや、そんなことになってはイカンとして、むしろ人び
とを対立する集団・部族として組織し、それぞれを敵対化させよう
とするものたちがいる。そのほうが彼らにとって都合がいいから。

 

どういうことか。
じつは筆者の専門は「選挙戦術」であって、その視点でいろいろな
疑問をあげているのですが、その選挙屋の視点から見ると、
「民主主義社会におけるアイデンティティの分断は、選挙のマーケ
ティング技術の発展によってもたらされている」らしいのです。
つまり、候補者が票を集めるために、「本来は多様であるはずの人々
のアイデンティティを、画一的で単純なものに押し込めている」と
いうわけです。

 

たとえばアメリカの大統領選挙では、「中西部ラストベルトの白人
層」とか「収入が少なくて犯罪率の高い黒人層」とか「市民として
の義務を果たさないメキシコ移民」とかの画一的な表現でひとを規
定し、選挙を戦いやすくしている。

 

選挙戦術として、それら各層に見合った政策を立て、キャッチフレ
ーズをつくり、おだて、対立する層・集合を創り出して煽り、敵対
させ、層ごとに気に入りそうな政策を声高に述べ、かくして熱狂的
な支持者層をつくる。そういう戦術を使う。
つまりいろいろな種類の「怒りの部族」を作り上げて、それぞれを
うまく味方に引き込むのが、いまの選挙だというわけです。

 

筆者のこの分析には説得力がありますね。
「アンタはこういう人間のはずだ。アンタのアイデンティティはこ
こにある。だから現状に怒りを覚えているはずだ。だからこの政策
に賛同すべきだ。反対する奴らは敵だ。奴らはアンタの自由や財産
をおびやすかす。」とかなんとか言われれば、おお、そうだそうだ、
君はよくわかっている、君に投票しよう、となってしまう。

 

これは「マイクロ・マーケティング」という戦術だそうで、SNS
で取得した個人情報を分析して(その人がなにに「いいね」したか
によって、その人の性格や主義や不満のありどころを見て)、とりわ
けその人の「怒り」に焦点をあててメッセージを発し、こちらの望
む投票行動に誘導することでした。

 

「アイデンティティの分断が選挙のマーケティング技術の発展によ
ってもたらされている」というのは、原因と結果が逆なのかもしれ
ませんが、じつはここに、ウソとかフェイクニュースが入り込んで
くる余地が生まれているのだと説明されると、もっとも進んだ民主
主義国家アメリカの大統領選挙で起こっていることが納得できるよ
うな気がしますね。

 

しかし、それっておかしいじゃないですか!
それって、情報公開とか個人情報保護とか、公正公平とかに反する
風潮じゃないですか! 民主主義に逆行してるじやないですか!
ほんらい人間は、多種多様なアイデンティティを持ち、多くの善い
未来を仮定し、ときによってそれを変更し、発見し、発明し、そこ
で自由な選択肢を増やしていくことができるはずではないでしょう
か。

 

どこかのだれかに、とくに選挙のプロみたいなひとに、あなたはこ
ういうひとで、こういう感情をもつはすだ、だからアンタに有利な
こういう政策を掲げるワシに投票せよ、なんて言われたくないぞっ!

 

・・・ということで、アメリカのような国家が、大統領選挙をつう
じて国民間のアイデンティティの分断を生み出し、それが民主主義
そのものをも脅かしているのは確かなことのように、私にも思えて
きました。
で、どうするか?

 

そこで筆者は、「人々は自らのブランディングを再構築し、しなや
かで強靭な個人と社会を作り上げていくため、次々と目の前に現れ
るアイデンティティの分断に対し、どのような態度をとるのかとい
うセンスが問われることになる」と言うのです。

 

なっどうだ、わかったか、みんな。
政治家や知識人やマスメディアの「言葉」や、SNS上の幼児語に乗
せられて、自分の「怒り」を操られるな!        
自分の「わがまま」を取られるな!
そうしないと、アイデンティティはアイデンチィチィになり、民主
主義はミンチュチュギになり、われわれはセンスの悪い個人に成り
下がってコロナ渦を利用したえげつない戦術のえじきになり、意味
のない敵対者をつくって意味のない争いをして、意志に反して分断
されるぞ! 
・・・この本から私はこういうメッセージを受け取りました。

 

 

ブログ217

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第216回 2020.10.11

 

「崩壊の危機にあるアイデンティティ」

 

ことばといえば、とつぜんで恐縮ですが、「アイデンティティ」と
いうことばがよくわかりません。
いや、ことばの定義はなんとなくわかる。やや微妙だけど、嫌いな
ことばでもないでもない。でも実感がわきません。

 

「全世界に蔓延した新型コロナ・ウィルスによるアイデンティティ
崩壊」なんかになると、ぜんぜん意味がわからない。
なんだそれ?、、、などとうなだれて考えていたら、私ってすごいで
すね! 題名だけでもたくさんの関連本がカフェにありました。

 

「アイデンティティに先行する理性」(アマルティア・セン/関西大学出版会)
「アイデンティティと暴力」(同上/勁草書房)
「モダニティと自己アイデンティティ」(アンソニー・ギデンズ/ハーネスト)
「アイデンティティ」(フランシス・フクヤマ/朝日新聞出版局)
「アイデンティティ」(ジグムント・バウマン/日本経済評論社)
「アイデンティティが人を殺す」(アミン・マアルーフ/ちくま学芸文庫)

 

「君の読んだ本が君自身だ」というならば、私こそ「アイデンティ
ティ」そのものではありませんか! 違うか?
しかし、こんなに同じテーマの本を読みながらも、いまだに「よく
わかりませーん、先生」なんて言っているのは、どーゆーことだ!

 

まずはとにかく、これらの本の中からバウマンさんの本から定義を
お借りして、勉強を始めてみましょう。
「『あなたはだれ?』と尋ねられて、『私はかくかくしかじかの者で
ある』と答えられることがアイデンティティである。」

 

・・・っと、はい、とても簡単な定義でしたね。
「あたりまえのことじゃない」って拍子抜けしました?
だって、私は日本国籍をもつ者である、男性で、〇〇歳、既婚者、
調布在住の、カフェマスターである、なんてことはいくらでも答え
られますもの。こういった「かくかくしかじか」のネタなら、いく
らでもあります。ここまでならなんの問題もないし、確実に言える
ことばかりだし、自分は「崩壊」なぞいたしませんでしょう。

 

ところがもう少しツッこんで、私の社会的役割はなにかとか、どん
な宗教を信じているかとか、原発を廃止すべきか否かとか、なにに
怒りを感じるかとか、乃木坂のだれを押すかとか、隣の席でくさや
を食べている人を許せるかといったことになると、胸をはって堂々
と「私はかくかくしかじかの者」で、「これこれの意見・信念をも
つ者である」、と答えられるかどうか自信がありません。

 

つまり、人生観や信仰、主義主張や倫理観や嗜好性向なども自分の
アイデンティティを形成するのであるなら、私はそれらをひとつず
つハッキリ答えることができませんし、もしかしたら私の「かくか
く」は揺らぎっぱなしで、ときに「カクッと崩壊」することもある
かもしれない、そう感じてしまいます。

 

それに対してバウマンさんはこう言います。
いや、そうじゃないんだ、いまそうである自己を問題にするのでは
なく、「仮定された自己」、すなわち「それに向かって私が努力し、
それによって私が自分の行動を評価し、非難し、修正する基準」を
もつことが重要なのだ。
なぜなら、自分はこうありたい、将来こうなりたいという理想や希
望がアイデンティティを形成する大きな力になるからだと。

 

なるほど。つまりアイデンティティとは「ある」ものではなくて、
理想や希望に向かって「つくる」ものだということですね。
アイデンティティとは、生まれや育ちといった「与えられたもの」
だけではなく、自分のありたい姿、あるべき姿を描き、「あらたに
交渉しなおす」ものなのですね。

 

そうした意味をこめて、バウマンさんは、
「アイデンティティは発見されるというより、発明されるもの、努
力目標、目的、さらにはゼロから組み立てるものだ」というのです。
はい、とてもわかりやすくなりました。

 

さて、なんで私がこんな小難しいことを考えてきたのか?
アイデンティティというものを「帰属」、つまり「自分はどこに属し
ているか」とだけ小さく捉えてしまうと、自分の国、自分の民族な
どの「与えられたもの」や、われわれの宗教、われわれの文化、ネ
ット上の仲間などの「いま自分が属するいまの集合」が強調されて
しまいます。

 

すると、「私」はその集合の「感情」の影響を受けることが多くなり、
とりわけ強い感情である「怒り」に支配されたりする。すると「私」
は、自分たちの集合以外の国、民族、宗教、文化、部族にたいして
不寛容な態度をとることが多くなるのです。

 

どういうことか?
「自分がどこに属しているか」だけを考えることで、ひとは、「自
分の行ないによって、自分の人生全体で自分が本当に自分の主張す
る階級に属していることを証明する必要」にかられてしまうのだそ
うです。
なぜなら、そうしないと、逆に集団のなかで孤立してしまうから。

 

ひとは自分のほうから、「私はかくかくしかじかの者です」「だから、
みなさんのお仲間です」と申し立てなければ、逆に差別され排外さ
れ敵対されてしまいかねない。ネット上ではもちろんのこと、とり
わけ戦争とかパンデミックとか、集団がヒステリー状態にあるとき
には誹謗中傷が顕著に現れる。

 

差別排外されるのがイヤだから、ひとは先に帰属を明らかにして、
他人からされる前に先に他人を差別し排外し、中傷し敵対する。
原理主義や排外主義、ナショナリズムや差別が、こうして横行する。
たとえば、
「コロナに対して私はこんなに自粛しています。だから勝手な行動
をとるひとたちに怒りを覚えます。お上に言いつけて取り締まって
もらおう」と、「自粛側」の「部族」に立って怒り、それによって
身を護ろうとする。
こうして集合・部族どうしの分断がおきる。これが、アイデンティ
ティを「帰属」としてだけ考えてしまったときの悪い結末です。

 

どうでしょう。
たしかに、コロナ禍であらわになった、階級や収入による分断や、
国どうしのエゴによる対立や、民族・人種間の相克や差別が起きる
原因のひとつに、アイデンティティを「自分はこういうものだ」
「こういうもの以外のなにものでもない」「そうでない者はむしろ
敵だ」「わたし以外わたしじゃないの」などとする、かたくなな姿
勢があるといっていいのかもしれません。

 

このように、無理にでもいまの自分の帰属を決めてしまうほうが、
「アイデンティティ崩壊」を防げて楽に生きられる。そんな傾向
がコロナ禍によって増幅されて表面化してきているわけです。
これは解消できるのか、いや、そもそも解消すべきなのか否か?
難しい課題ですぞ、みなの衆!

 

ブログ216

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第215回 2020.10.05

 

「豊かなことばでたくさんのおしゃべりを」

 

ことばの問題は、難しくも面白いですね。
でも、自分のわがままとはいえ嫌いになることばが増えるというの
は、まったく不幸なことであります。使いたくても使えないことば
ができてしまって、まるで必要な食材がなくて料理が作れない時の
ような気分です、っても、料理しませんけど。

 

とくに政治家さんの使うことばがひどいですね。
ほんらい政治家さんというのは「ことばの専門家」のはずですよね? 
それはつまり、いろいろな難しい状況や複雑な案件をふつうの市民
にわかりやすくかつ丁寧に話すこと、それがお役割ですよね。
たとえばコロナ禍においては、ドイツのメルケルさんもイギリスの
ジョンソンさんも、国民に対してきちんとわかりやすく話していた
ように思います。
みなさんはどう感じられましたでしょうか? 

 

「言葉が足りないとサルになる」(岡田憲治/亜紀書房)

 

いずれにしろ私たちは、好きだろうが嫌いだろうが、いろいろな
ことばを使っておしゃべりをする。
ここで筆者が言うのは、そういうおしゃべりは「いつでも」良いこ
となのだ、ただしそのおしゃべりには条件がある。どんな言葉を使
ってもいいというものじゃないのだと。
条件とはなにか?
おしゃべりでは「幼児語を使ってはいけない」。
たとえば、「オレ的には」とか「ウゼェ」「チョーやばくネ」「って
ゆーか、アリっぽくね」みたいな言葉を使ってはいけない。

 

なぜか?
それらの「幼児語」はただの脊髄反射の結果であり、ほとんどな
にも意味しておらず、思考停止に拍車をかけ、現実を低く落とし
いれ、「本当に考えなければならないことを覆い隠す」からだ。

 

たとえば、日本のサッカーが強くなった理由には、「多くのひとが
たくさんの言葉を使ってサッカーについてしゃべったから」という
ことがある。サッカーを観る人が増え、サッカーをテーマにしたお
しゃべりと語彙が豊富になっていくと(オシム監督のように!)、
自然とサッカーのプレーのレベルが上がるものだ。
ただしかし、日本がどうしてもある線を突破して「世界の8強」に
なれないのは、逆に「まだまだ言葉が足りないからだ」。

 

足りない理由は、選手もサポーターも、まだ幼児語を使ってしゃべ
っていることにある。「堂安って、カッコよくね?」「〇〇のフェイ
ント、やばし!」みたいな。
さらに輪をかけるようにジャーナリズムも、選手インタビューで
「いまのお気持ちは?」とか幼児的な質問をくりかえす。
ナカタやホンダは、そんな質問に対して露骨に嫌な顔をしていた。
なぜなら、そんな単純で情緒的なやりとりが自分と日本のサッカー
の質の向上を妨げているのがわかっていたからだ。

 

さていかがでしょう。この理屈、おわかりいただけたでしょうか?
私の要約が悪いせいでわかりにくいかもしれませんが、これは、「私
たちが使う言葉が現実を作る」、「言葉によって観る対象の質が変わ
る」、あるいは「言葉が生まれると『そんなものないと思っていたは
ずの』現実が浮上する」、という意味での社会構成主義的な主張だと
思われます。

 

だから、プラスチック・ワードも「ウィンウィン」も「寄り添う」
も、じつはほとんどなにも意味していないという点で幼児語の一種
だし、一方で「なになにしてございます」みたいな言い回しも、目
の前の状況を型にはめて幼児化することばの一種であって、それが
いまの「8強になれない日本国の社会」を作っているのだ、こうい
うことなのでございますよ。

 

だから問題は大きく深いのです。
私が「嫌いだ」と言うのも無理ないと思っていただけますでしょう?
サッカーをめぐる「ことば」の話は、じつはいきなり私たちを取り
巻く社会や政治のことばや、日本の民主主義の話にまで直結してく
るのでございますから。

 

みなさんはどう思われますか?
「日本を、取り戻す(どこから?だれから?)」とか、「戦後レジー
ムからの脱却(なにから脱却し、どこへ行くの?)」とか、あるい
は「国難」「寄り添う」という表現を使い、「丁寧な説明をする」と
言い、逆に「国民の理解が進んでいない」と、意味不明の発言をし
た元首相。

 

質問に対し、理由を言わずに「ご指摘はあたらない」と、木で鼻を
くくったような答弁をし、「まったく怪文書みたいな文書」とか、
「(前事務次官は)出会い系バーに出入りして、云々」とか、子供
のケンカのような中傷をした元官房長官(現首相)。

 

彼らは「ことばのプロ」として、ことばで善い社会を創ろうという
気持ちで話していたのでしょうか? 質の良い現実を創ろうとして
いるのでしょうか? 自分の言葉は足りていると思っているのでし
ょうか?

国会中継のやりとりや記者会見を聞くと、彼らの話は「いつもの言
葉」を使って、「ある認識を『そういうことになっている』という
『いまさら言うまでもない前提』にする」ための儀式をしているよ
うに見えました。
筆者はその「儀式」のことを「政治」と、ちょっとだけ蔑んで表現
していますけどね。

 

そうした「政治」の観客役にさせられたジャーナリストは、「アベ
政治の継承」とか「岩盤規制改革」とか、これまた内容のよくわか
らないことをそのままコピペで国民に伝える。彼らも、「そんなも
のないと思っていたはずの現実」を作ることに加担し、「政治」と
いう「ある前提を作る儀式」の一員にさせられているのです。

 

なぜなら彼らは、それらの言葉が「ほとんどなにも意味せず、思考
停止に拍車をかけ、現実を低く落とし入れ、本当に考えなければな
らないことを覆い隠す」という意味で、すでに「幼児語」の部類に
入っているのを知っているのに、ああそれなのに、それなのに、そ
のまま使っているからです。

 

だとしたら私たちは皆、政治を語るとき、すでに幼児語でしか話し
合えないことばの貧困状態に陥れられているのではないでしょうか? 
これにどう対処すればいいのか。

 

私はこう思いました。
私たちは、ほんらいその道のプロであるはずの政治家やジャーナリ
ズムに「言葉」を任せたりせずに、自分たち自身でたくさんの豊か
な「ことば」を発明し、「彼らとは違う現実を創」らねばならない
と。

 

で、それをまずね、カフェでね、コーヒー飲みながらね、政治家さ
んや新聞やテレビで使われる言葉を使わずにね、おしゃべりしませ
んか、っていうお誘いなんですけどね。
筆者の、「幼児語だけを使っていると人生が眠る」とか、「豊饒な言
葉を使うことで豊かな内面と世界を作り上げる契機が与えられる」
という「おことば」を信じて。

 

ブログ215

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第214回 2020.09.28

 

「きらいになったことば」 

 

じゃあ、ってんで、私のわがままを言うと、最近特にきらいになっ
たことばがいくつかあって、できればそれを耳にしたくないという
ことがあるので、それを書き留めておきたいと思います。

 

たとえば「ウィンウィン」。
ビジネスなどの交渉事で、双方ともに利益がある結果を導くことが
できるとウィンウィンの関係になったといいますね。両方ともに勝
ったのだと。でもこれ、なんか嘘っぽくないですか。
とくに勝ち負けにこだわるトランプさんとかアベさんにこの言葉を
使われると・・・なんか違うような気がして。

 

また、言い回しでは、「なになにさせていただきます」ね。
「なになにします」でいいじゃないのか? とくにビジネスマン諸
君。自分たちがきちんと意思決定しておこなうことを、なにもへり
くだることはない。あとで怒られないために、あらかじめ謙虚姿勢
をとるような言い方をするな!

 

もっとひどいのは、「なになにしてございます」ね。
もう、ホンッとに、いやでイヤで嫌で、たまりませぬ! 
「してございます」とは、なにごとか! 「お示しをしてございま
す」だと! なんでこんな言い方がまかり通っているのか! 
とくに公務員諸君、やめてほしい。こんな言い回しを使わないでほ
しい。なぜ、ふつうに「しています」と言えないのか。

 

このような言葉は「聞き苦しい!」し、「聞きたくないっ!」
なんというか、これらのことばを使う人の本心はことばと別にあっ
て、彼らは「ことばを裏切り、虐待している」のではないかと感じ
てしまうのです。
「ことばの虐待」、ね、そういう感じ、しますでしょ?

 

おまえにそんなこと言える資格があるのか、と言われるのを覚悟で
言えば、ことばを虐待して空疎な日本語をあやつり、社会の健全な
精神を損なうひとが多すぎると思うのです。
ということで、

 

「沈黙する知性」(内田樹・平川克実/夜間飛行)

 

には、「ことば」と「知性」の関係についてのお話がありましたの
でご紹介しておきたいと思います。
ここでは、知性ってどういうものだろう?と考えてみて、「知性とは
かたちあるものではない。かたちをあらしめるものだ。『力』だ」と、
内田さんは言っているのでした。

 

ことばとは、それじたい良いも悪いもないはずです。
問題はそれを使うひと、使う目的、使う相手、などによって、こと
ばのもつ「力(パワー)」と「意味(内容)」が違ってきてしまうと
いうことなのです。
「言葉そのものはうんざりするほど大量に行き交っている。しかし、
それを生気づける『力』がない」。

 

そうなんです。
とくにコロナ禍のようなできごとがあると、いままで以上に、「うん
ざりするほど大量に行き交う」「力のないことば」について考えさせ
られてしまいます。
コロナ禍にともなって現れ、使われれば使われるほど逆に力を失って
いくことばに、私たちは出会ってきました。

 

たとえば「寄り添う」。
ほんらいは、とりわけ弱い立場にある相手の気持ちに共感して、身
をもって支える立ち位置のことでしょう。
これは、相手に「親身になって」、「一対一で」、「共に時間をかけて」
でなければ、使えないはずのことばじゃないでしょうか。

 

それが、某元首相(アベさんですけど)にこのことばを頻繁に使わ
れると、なぜかわからないけど腹が立つ。嘘をつくな、とまでは言
わないものの、どうか気安く使って「ことば」の生気とパワーを奪
わないでほしい、と叫びたくなる。
どなたかが、「ことばを制服みたいにしてほしくない」とおっしゃ
っていましたが、まったくそのとおり。

 

ほかにも「謙虚に」とか「丁寧な説明を」「責任は私に」とか、モロ
にうさん臭いですよね、匂いますよね。何回も何回も使われるとね。
よけいに怪しく感じますよね。
また「真摯に」とか(ウソばっかり!)とか、「身の丈にあわせた」
(そっちが合わせろよ!)とか、「躊躇なく」(ことばと行動を一致
させろよ!)とか、「スピード感をもって」「警戒感をもって」(なん
でも「感」つければいいってもんじゃないよ!)とか、、、、いろいろ
あるのですが、ああ疲れた、もうだんだん漫才のツッコミみたいにな
ってきてわれながら嫌になりました。

 

これらの多くは、政治家さんから聞くことの多い言葉だったことは
確かです。
彼らは、自分に被害がおよぶことを用心深く避けつつも、精神科医
春日武彦先生の、「自己顕示欲全開でしかも小賢しさと反射神経ばか
りがむやみに発達した連中なので、ことばに対する感性も謙虚さも
喪ってしまったのだ」という評価がお似合いになる方々かもしれま
せん。
いや、そう断定「させていただきます」。

 

そのように使われ方の問題で、あるいは使う人が裏切りと虐待をく
りかえして、その結果、「生気」がない、なんか嘘っぽいね、ヒンヤ
リしてるよねと言われ、だれからも使われずに惜しまれつつも世の
中から消えていった「言葉」のなんと多いことか(?)。

 

でも、そんなふうに使い捨てのように消えてしまったら、「寄り添う」
がかわいそうじゃないか!
もし、使われる「寄り添う」に知性と力があったなら、寄り添われる
はずの相手の心にダイレクトに届いて、ああ、この人と一回話してみ
たいな、と思うはずですし、若鮎のようにピチピチとした感触を受け
ることばになるはずです。でも、だれもそうは思わない。

 

「立場を異にする人々、思いを異にする人々が、にもかかわらず
『一緒にいる』ことのできる場を立ち上げることが『言葉の力』だ」。
「知性」のはたらきとは、このように、ことばの力や生気を引きだ
せることであって、それ以外にはないのです。

 

この本で平川さんが使われる「やりくり」「折り合い」「すり合わせ」
といったステキなことばも、私の好きな「良い加減」「見通しをつけ
る」「目線を低くして」といった表現も、ウカウカしていると小賢し
くて反射神経のいいだれかに「乗っ取られて」しまいかねません。

 

ということで、これはいつもお客様のお気持ちに寄り添ったおもてな
しをしてございます私マスターの、身の丈に合った謙虚かつ真摯な感
想であると存じてございますので、今後も危機感をもって検討させて
いただきたい・・・

 

ブログ214

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第213回 2020.09.20

 

「わがままの社会的効用」 

 

当カフェに、わがままをおっしゃるお客さんはおいでになりません。
椅子の座り心地が悪いとか、若いお母さんが連れてきた赤ちゃんが
うるさいとか、ケーキがおいしすぎるとか、マスターがカッコいい
のでなんとかしろとか、文句をいう方はいません。

 

あるいは新刊本を仕入れて貸してほしいとか(図書館ではないんで
すけど)、なぜ売ってくれないのかとか(本屋でもないので)、持参
したシャケ弁当をレンジで温めてくれとか(コンビニでもないし)、、
、そのようなわがままをおっしゃる方もいません。

 

わがままは、たいがいの場合はまわりのひとの迷惑です。
でも、そんな一人ひとりの「わがまま」には、カフェのマスターや
周囲のひとを困らせるだけではなくて、多くの人の共感を得て社会
的に前向きな効能があるものもあるんだ、というのが、

 

「みんなの『わがまま』入門」(富永京子/左右社)の考えでした。

 

目次をみただけでも、なんとなくわかっていただけると思いますが、
1時間目 私たちが「わがまま」言えない理由
2時間目 「わがまま」は社会の処方箋
3時間目 「わがまま」準備運動
4時間目 さて、「わがまま」言ってみよう!
5時間目 「わがまま」を「おせっかい」につなげよう
とあって、みなさん、「わがまま」の悪いイメージにとらわれず、
うまく使いこなして社会的に役立たせませんか、という提案です。

 

わがままといっても千差万別。
理屈に合わない子どものような主張もあるし、独りよがりで他人
の意見を聞こうとしない頑ななものもあるし、たんに他人を困ら
せたいがためのものもある。
もちろんそれらは、「意見をいう自由」というものをはき違えた、
ジコチュー(自己中心)のオレ様主義というものです。

 

しかし本来、社会的な課題をあつかう運動は、一人ひとりの「困り
ごと」から始まった「わがまま」から起きることもあるのだ。
ある一人の、「自分が困っていること」を解決したいという「欲求」
が、じつは「多くの人が困っていること」だったとわかることによ
って、だんだんと多くの人を巻き込む「意見」となり、理屈のとお
った「主張」となり、変更を求める具体的な「活動」や、もっと広
しめようという「運動」に育っていくからだ。

 

たとえば、満員電車の出勤はつらい。しんどい。なんとかなりませ
んか。すると、私もつらい。オレもしんどい、と賛同する人がでる。
じゃ、みんなでなんとかする方法を考えましょう。鉄道会社と勤め
先と自治体を巻き込んでとなる。
働き方を変え、保育の方法を変えて通勤時間を変え、輸送方法を変
え、省庁をまたぐ有効な関連法案を提案する、なんてことになる。

 

だから、わがままは、いちがいに悪いこととはいえない。
それは人間の感性や本能を開放して本音を引き出し、もって自由の
幅や能力の可能性を広げるときもあるのだから。そこを広げること
ができればいいのだ。

 

ただしかし問題は、いま社会のなかで、「わがまま」を言うことじた
いのハードルが高くなっていることだ。
「わがまま」は、誤解され、ネガティブに評価されている。
わがままを言うと即、「ふつうにしとけよ」「自分だけ目立つなよ」
「イベントは自粛しろよ」「マスクをつけろよ」的な同調圧力にさら
される。

 

あるいは「おお、貴重なご意見ありがとう」「あらまあ、あなたった
ら意識高い系ね」などと皮肉を言われたりする。
そうなると、わがままをいうにも腰が引けてしまうじゃないか。

 

しかしそんな状況においても、私たちは「わがまま」を言うべき時
がある。
ただし、つねに「私の『この不満』や『欲求』は、いま社会でどれ
くらいの汎用性があるのだろうか?」と確かめつつ、あくまで公共
の場で「わがまま」を言う必要がある。
プライヴェートの場で言っても、たんなるひとり言の愚痴になって
しまうから。ネット上での匿名投稿?そんなずるいことしちゃイカン。

 

自覚的にきちんと「わがまま」を言うことによって、その内容が自
分の権利を守ったり、問題の所在を明らかにしたり、共感を得て賛
同者をみつけることにつながるのだ。
それでこそ「私の不満」が、じつは「私だけの不満」ではなく「多
くの人の不満」だったことがわかるかもしれない。
その意味で「わがまま」は、「対立を生むし嫌がる人もいるかもし
れないが『やってもいい』ことなんです」、と筆者は言います。

 

つまり「わがまま」には、
① それが、政治を身近なものにしてくれる
② それが、他人の価値観を推し測る訓練になる
③ それによって、多くの人の隠れた願望や不満を形にできる
という効用があったのでした。これがこの本の結論でした。

 

「わがまま」を言うことは、なにかの当事者として声をあげること
だ。
もしそれが多くの人を巻き込めたら、多くの不満や願望を集めて
改善をもとめる「社会運動」になる。だから「わがまま」は、「自
分や他の人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人
の認識を変えていく」行動なのだ。

 

すると、もし仮に当カフェでわがままなご注文をされるお客さまが
いたとして、マスターの側からみたら、それはもしかしたらカフェ
経営の大きな課題をあらわにするものであり、正当な不満や怒りか
ら発せられた「わがまま」かもしれない、と疑うべきなのかもしれ
ませんね。
本を貸してほしい、売ってほしい、シャケ弁を温めろ!という不満
も、それが政治問題として他のお客様の不満と結びつき、その意識
を変えるきっかけになるかもしれません、もしかしたら。

 

でも、「仕事しないで遊んでいたいし、ついでにブックカフェに入り
浸って、お金払わないでコーヒーとケーキを食べて、一日中本を読
んでいたい」などという「わがまま」は、だれの共感もよばずに、
多くの人の不満や「困っている問題」につながることもなく、ひと
りでに朽ち果てていくことでしょう。
まちがいなく。

 

ブログ213

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第211回 2020.09.14

 

「読んだ本が、あなた自身だ」

 

読書はいいものだということを重々承知のカフェのお客さまから、
「本をもっと読みたいが、なにを選んだらよいのかわからない」と
いうお悩みを聞くことがあります。
そんなときこそ「ブックコンシェルジュ」としての私の出番!と、
張り切って言いたいところですが、まだまだ修行中の身、私が解決
するにはいささか難しいお悩みです。

 

ただ、そのお悩みをもう少し詳しく訊くと、「選ぶ時間がもったい
ない」とか「もっと効率的に読みたい」とかのお気持ちがあるみた
いなんです。
ほかにも「できればセンスの良いものを読みたい」とか、「自分に
似合った本を読みたい」というお気持もあるみたい。
とりわけ、お若い方にそんな傾向があるようで・・・。
本の選択についてのそんなご要望については、

 

「モヤモヤの正体」(尹 雄大/ミシマ社)

 

の著者は、こんなふうに分析しています。
「(だれもが)気づかないうちに、みんなが認める正しさを求める
といった、あらかじめ用意された時代の感受性の枠にはまってい
るのかもしれません」と。

 

どういうことでしょうか。
たとえば「時間がもったいない」とか「効率的に」という感覚は、
早い、安い、うまい、という価値が「正しさ」であって、それに
当てはまらない本や読書はまちがっていると感じてしまうことか
もしれない。それが感受性の枠、というか「罠」となってあなた
を縛っているのではないですか、と問いかけてくるわけです。

 

また「センスの良い」とか「自分に似合った」については、ほん
らい、自分の力と時間をかけて審美眼や眼力を磨くことが大切な
のにもかかわらず、その過程をパスして結果だけ求めてしまう性
向の表われかもしれない。
そういう性向に対しても、それは選択の失敗を恐れて、試行錯誤
をしたくないと思う結果ではないですか、と疑念を呈するのです。

 

そこで筆者は、そんな枠や罠に陥らないために、「(私の)本性は
私にとって常に謎であり、他者」だ、というところから考え始め
ようと提案します。

 

「センスの良い」なんて他人の決めることだし、「自分に似合った
もの」など、後からわかるものだ。たとえそれが本であっても、
そう簡単に出会えるものではない。出会えないというかむしろ私た
ちは、本の中に「まだ見ぬ<私>」を見出す努力をすべきなのだ。

 

そして、「私のなかにいる『あなた(本)』という名の他者を通じ、
私はあなたと出会うのです」と書きとめるのですが、こんな筆者の
ことばは、私にはしみじみと沁みてまいります。

 

「みんなが認める正しさ」や「感受性の枠」にはまるというのは、
自分ではあまり考えずに、お任せの価値間で楽ちんに生きることと
も言える。
しかしそれは、「自分の知らない他者」や「自分の知らない自分」
に出会わない世界で生きるという意味では、逆に怖いことでもあり
ましょう。

 

だからこそ本選びや読書においても、「どこかに正解があるはずだ
と、手にしたものをすぐさま放り投げるのではなく、つかんだ失敗
や間違いを余すことなく体験し、それを徹底して味わってみる」こ
とが大切だと、筆者は言うわけです。
それこそが、他人や本の、いやもっといえば絵画の、映画の、演劇
の、音楽の、世界の「わけのわからなさ」を、「わけのわからない
もの」としてまるごと理解する唯一の道なのだと。

 

私が思うに、どなたのことばか忘れましたが、
「背伸びをしてわからないことを咀嚼することでしか、ものはわか
るようにならない」ということもありますでしょう。
たとえば昔でいえば「論語」とかも、子どもにとって難しい文章や
プルーストのような長ったらしい文章を読むという行為も、「わけ
のわからなさ」を受け容れつつ脳内のシナプスとその接続を鍛える、
そんな効用があるのだと信じたいものです。

 

あ、なんと、どんな本を選べばいいかから話がズレズレになってし
まいました。なぜこんな話になってしまったのだ? 脳内シナプス
の接続がうまくいかなくなったか?
ただ、そうそう、ただ、これだけは申しあげておきたいのです。
読む本を選ぶにあたっては、どうかヒトのことを気にせずに衝動的
に選んで読んでください。

 

どうか、まわりや時代の空気に流されず、なんでもたくさん読んで
ください。
骨董を選ぶ「眼」も、本を選ぶ「眼」もおなじで、きっとそのうち
に「見る眼」も養われるだろうし、そうこうしているうちに、「買
った骨董が、あなた自身だ」といわれるように、「つきあっている友
人を見ればあなたという人物がわかる」といわれるように、「読んだ
本が私自身だ」と、自信をもって諦められるようになりますから。

 

・・って開き直ってどうする。
でもホント、約束する。そのうち善いことが、ある。はず。と思う。
自信をもってたくさん読んでほしい。では皆さんの健闘を祈る。

 

ブログ211

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第210回 2020.09.06

 

「読書は自分自身との対話だ」

 

ゲームは、点数というはっきりした結果が出る。勝敗がつく。
あるいは友だちと一緒に楽しめたり、攻略法を教え合ったりするこ
とで、オンラインゲームなら住む場所がどこであろうとコミュニテ
ィができたりする。
そんな、だれにも説明できる「おもしろさ」や「やる理由」があり
ます。

 

ネットではいくらでも知識を得ることができる。
わからないことはなんでもググれば答えが見つかるし、しかも早い。
しかも日々、新しい知識がアップデートされている。効率の良いこ
とこのうえない。
さらにネットでは新たな友人をつくれたり、遠方の人と顔を見なが
ら会話ができ、テレワークもテレビ会議もできる。場合によっては
ビブリオバトルもできる。
いずれも人間の能力や自由を拡大するのに役立つのでした。

 

それにくらべて読書はどーなのよ、って話です。
一人で黙々と読まなきゃならないし、何冊読んだって、なんぼ早く
クリアしたって点数は上がらないい。ライバルに勝つという結果も
ないし、学校の成績が上がるかといえば、そうもいかない。女の子
にもモテない。だれにも威張れないし実利にも役立つと思えない。
それなのに、どーして本を読むの?というのが、私のいまさらの疑
問なのです。

 

「読書をプロデュース」(角田陽一郎/秀和システム) 

 

いやいやとんでもない、本を読むのは良いことづくめだぞー、読書
はほぼメリットしかないぞー、というのがこの本の主張でした。
筆者は「さんまのスーパーからくりテレビ」や「中居正広の金曜日
のスマたちへ」など、多くのバラエティ番組のヒットプロデューサ
ーだった方です。

 

エライッ! よく言った!
筆者はご自分の経験から、本はぜったいに仕事に役立ち、読み手を
成功に導き人生を面白くすると、熱く語ってくれています。
そのうえで、それを証明するご自身の「本の読み方」を、自信をも
って開陳してくれるのです。

 

たとえばそれは、筆者の名づけるところによる「バラエティ読み」
なるものでした。いわく、
「ジャケ買いでよし」「途中でやめてよし」「併読してよし」「積読
(つんどく)もちろんよし」「感想文は書かなくていいし、メモも
とらなくてよし」、そして「速読はするな」、といったもので、われ
われのようなノンキな読者にとっては、たいへん心温まる方法なの
でした。(いま、こうやって感想文を書いていますけど)

 

それぞれの理由については「この本を読んで」いただくとして、著
者は、いずれにしろ読書はあなたのやりたいことを見つけてくれる
し、叶えてくれる良いものなのだというのです。

 

うーむ、それについては私も言いたいことや反論がありますが、た
だし、「読書するということは、想像力を磨くことだ」という筆者
のおことばには、もろ手を挙げて賛成しますね。なにせプルースト
さん由来ですもんね。

 

とくに、「読書しているあいだ、読み手は本に書かれた内容を頭の
中で想像するしかないのです」ということは、まさにその通りだと
思います。
読むという行為は、頭の中に入ってきた文字という記号を、具象化
したり構造化したりして、まるで目に見え音に聞こえるようにする
作業なのですから。

 

その意味で、小説を読むことこそ想像力を養い、ビジネスに役立つ
ものなのだ。ここが大切なところ。
なぜなら成功する仕事には必ずストーリーが必要だからだ。
モノやサービス(コト)は、ストーリー・物語がないと売れない。
ストーリーは絵や音としても他人に伝えられるものでなくてはなら
ない。さすれば、商品に物語をつけ、わかりやすいコンテンツとし、
消費者の側の物語をも想像し、それらをマッチングさせることが成
功への近道ではないか。筆者はこう言います。

 

私も、そんな筆者の意見に乗っかって、こう考えました。
小説についてもっといえば、「フィクションとは、単なる想像力の
産物というよりも、皮相な現実の裏に山のように控える実現されな
かった『現実』を読み取る洞察方法である(米原万理)」という言
い方もできる。

 

すると小説こそ、実生活に役立つのだ。実利があるのだ。
なぜなら、「実現されなかった現実」こそ、私たちが知らなければ
ならない「真実」である可能性があるからだ。
それについて、もしそうなっていたらどうだったろうと想像し、そ
れを「現実」として洞察し、そうならなかった「いま」の理由を想
像する。もし自分だったらどうだろうと想像し、そうならなかった
「いまの自分」を考える。頭の中でのこのトリプルアクセル級の作
業が、私たちの人生には必要なのだ。

 

そうだ、「現実」はどうあろうと、そうであったかもしれないこと
が「真実」ではないなどと、だれが言えるだろう。
それを知ることがあなたを二人分の人間に育てる。
「読書する一人の人間には二人分の価値がある」(エドモン・シャ
ロン/カミュを世に送り出したアルジェの書店主・出版人)。

 

さらに、読書という行為が、本に書かれた内容(と、その奥にある
現実)を頭の中で想像する作業なのであるなら、それは自分自身と
対話をすることと同じだ。
つまり読書は、「考えること」のレッスンであり、考えることはネッ
トの利用とは逆に「効率が悪いこと」の代表選手といえるのだ。
だから読書は、徒歩で一歩ずつ進むつもりのひとに向いている。

 

最後にもうひとつ。
効率悪く考えることは、小林秀雄が気づいたとおり、書き手の速度
やギアに自分を合わせていく作業であり、書き手の「手の動き」に
感応してそれを自分の身に引き受けることだ。するとそれは、想像
力と共感力をより高める行ないなのではないか。
こんなところで、いかがでしょう?

 

ブログ210

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第209回 2020.08.30

 

「だから読書をやめるとバカになるって言ったじゃないか」

 

インターネット利用やSNSやゲームはいいもの? 悪いもの?
当ブックカフェのお客さまにそう訊いたら、「そんなの悪いものに
決まってんじゃない。いまさらなに言ってんの、マスター!」と
言われることでしょう。

 

なにせ、当カフェのお客さまは本好きの、読書好きで読書脳を進
化させた、想像力を大事にする、アナログ派の、ブックカフェマ
スターの味方ばかりですからね。
ということになると、本件については、

 

「ネット・バカ」(ニコラス・カー/青土社) を参考に。

 

この本も題名がわかりにくいですね。
副題は「インターネットがわたしたちの脳にしていること」です
から、こっちを題名にした方がぜんぜんわかりやすいじゃないで
すか、ねえ。どうしてこういうタイトルにしちゃうかなあ。
小林製薬の「アイボン」とか「ガスピタン」とか「ハレナース」
なんていうわかりやすい商品ネーミングに学ぶべきだろ。

 

・・・それはともかく。
この本でもまず、読書をはじめとした「知的テクノロジー」が、
人間の脳の構造を変えてきたというところから話が始まります。
まずなんの前提もなく、読書をいきなり知的テクノロジーと表現
するところがすごいですけど、そこは大目に見てあげてください。

 

いわく、
「この四万年のあいだ、人間の脳の基本構造は変わっていない」
が、「脳は可塑的(変わりやすい)で、知的テクノロジーの使用に
よって脳内の回路(ニューロンの接続)が形成され、変化してい
る。」
そして「じつをいうと、われわれの生活のルーティンの多くは、わ
れわれが生まれるずっと前から使われていたテクノロジーに規定さ
れている。」と。

 

この場合の「テクノロジー」には、本だけでなく時計や電話やテレ
ビなども含まれますが、いずれにしろそうした新しいテクノロジー
で出てくると、その使用によって脳は変化し、人間の知的作業の質
が変わるというのです。
マクルーハンという人いわく、「長期的に見れば、われわれの思考
や行動に影響を与えるのは、メディア(テクノロジー)の伝える内
容よりも、むしろメディアじたいである」、だそうですから。

 

それが人間の歴史だった。つまり、脳の進化と思考・行動の変化が。
ここまでは前回本とほぼ同じ趣旨でした。
そこで問題は、本というメディアではなく、インターネットという
新たなメディアの普及が、脳にどんな影響を与えるか? になるわ
けですが、「バカになる」は言いすぎにしても、それは私たちが思
うより深刻な変化を脳にもちらしているらしいのです。

 

たとえば、
「ウェブ使用率が高い者ほど長い文章に集中するのが難しくなる」
ということがあって、これは科学的に実証されているらしい。
脳の使う部位が変われば集中のしかたも変わり、意識や思考も変化
するが、長い文章には集中できなくなって、ヘビに巻かれるように
長い文章に苦しめられてしまうと。

 

さらに筆者は、もともとひとは、読書において自分の内側の思念や
情動に深く関わろうとしてきた、と言います。
つまり、字を読むことで内省的になった、再帰的になった、思慮深
くなった、っていうことなのです。
なるほどそうですね、私なら「自分(自己)との対話をする作業が、
読書だ」とでも言いたいところです。自己言及的とかの言い方もで
きそうです。

 

おっとすいません、難しい「〇〇的」ということばを並べて、読ん
でいただいている方を煙にまこうとしてしまいました。こういうと
きは、書いている人間は自分がなにを言っているのかよくわかって
いないことが多いですので、お気をつけください。
、、、などと書くこと、これが「自己言及的」ということですね。

 

それはともかく、いっぽうネットの利用が広がってどうなったか。
人間は知識量と領域が増大して、より大きなデータにアクセスでき
るようになったが、そのせいでスキャニング(必要な情報を大きな
データから探し出す)や、スキミング(情報を不正に読み取ったり
複製する)を、より多くおこなわざるをえなくなった。
つまりネットは、本以上に「長期記憶の固定化を妨げ」て、記憶や
知識のアウトソーシング化を進める。

 

やはりそうですか。やはり脳が外部のクラウド頼みになって、自分
の役割の一部を「丸投げ」して「外部委託」してしまうのですか。
これらの点では、やはりソクラテスさん(前回登場)の心配が当た
っているのだしょうね。
知識なんてあそこに蓄えてあるから、いちいち覚えてなくても大丈
夫じゃないスか、スマホで調べればいいじゃないスか、って。

 

ほかにもまだ問題があります。
だれもがマルチタスク(ものごとを同時に処理する)をすることが
多くなって、じっくり考えることが少なくなり、独創性や創造性、
生産性の発揮に結びつきにくい脳の使い方になること。
(すいません、〇〇性ということばを乱発して)

 

私たちは、仕事でもなんでも速さ重視になり、効率性を追い求め、
白か黒かの決着をできるだけすばやくつけるようになってしまった。
これは思考のファーストフード化といえるのだ。だって、結果を早
く出すことは、考える過程を大事にすることとイコールではないの
だから。

 

これはきびしいご指摘です。みなさんも身につまされることがあり
ませんか? 私はあります。とくに仕事場では経験することばかり
でした。「スピード感重視」とか「結果を出す」とかいう標語でね。
じつは脳の変化は、こういうところにも現れる。

 

バカとまではいえないけど、こうした脳の変化に自分で気づいてい
るかどうかで、「再帰的」に自分の行動に大きな差ができてしまい
そうな気もいたします。
とりわけ、「関心のある情報の洪水にいつもおぼれているわれわれ
は、自動フィルター化に頼るほかないのであり、そのため新しいも
のや人気のあるものが『特権化』されることになる」と筆者はいう
のです。(すいません、「〇〇化」という表現が多くて。でも私のせ
いじゃないんで)

 

どういうことでしょうか。
私たちは、入ってくる情報をすべて自分の意思でスキャニングやス
キミングすることはできない。
そこで、グーグルさんやフェイスブックさんをはじめとする、ネッ
トのいろんなプラットフォームさんが、なにがしかの「アルゴリズ
ム」によって、あらかじめフィルターにかけてくれた情報に頼るこ
とになる。あるいはもっとお手軽な「おまとめサイト」もあるし。

 

そのアルゴリズムでは、とうぜん目新しいものやビックリするもの
が優先されて配信される。だってそのほうが注目率が高いから。注
目率が高く見る人が多ければ、プラットフォームやおまとめサイト
に入る利用料や広告料も増える。

 

フェイクニュースも同じ理屈で広まるのだ。
目新しくてビックリするようなものほど喜ばれる。
これが「(情報の)特権化」のはじまりだ。
そして、そういうものばかりに優先的に触れる私たちは、その優先
順位じたいを信じることになり、「内省的な、自分のなかでの自己
との対話」をしなくなり、らくちんばかりするようになり、、、そし
て、バカになる。
この「風が吹けば桶屋が儲かる」式の理屈の展開、わかっていただ
けましたかな?

 

ブログ209

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第208回 2020.08.24

 

「読書はいいもの?悪いもの?」

 

カフェのお客さんに「読書はいいもの?悪いもの?」、そう尋ねた
としたら、そりゃいいに決まっているでしょ、マスターったら、な
に言ってんだか、と変な顔をされるに違いありません。
永年本を読んできた私だって、あらたまってそんなこと訊かれたら、
どう答えていいか戸惑ってしまいます。

 

でも、フトわれに返って考えてみると、本を読んでいたことによる
決定的な効用というのが過去にあっただろうか、と疑わしくなるの
をいかんともしがたい。
学生時代に読書によって得したことあった? 成績あがった?
小説を読んでいたからこそのビジネスでの成功なんて、あった?
こんな本を読んでいたら女の子にモテたことって、あった? 

 

と、いま私は、過去半世紀分の人生を一瞬で振り返ってみたわけで
すが(笑)、読んだ本によって得したり実利に役立ったことがまった
く思い当たりませんでした、うーん、まことに残念です。
むしろ、読書の時間をほかのことに使った方が良かったんじゃね?
と思われることばかりでした。

 

読書はいいことなのか悪いことなのか。
役に立つのか立たないのか。
もしそれがわかれば、部屋でひとり、グズグズと本を読んでいた50
年前の自分に教えてあげたい。そして、もし「悪い、意味ない、役
に立たない、ムダ」なのなら、彼に「本読むの、やめときな」と言
ってやりたい。だからぜひこの問題は解決しておきたい。そこで、

 

「プルーストとイカ」(メアリアン・ウルフ/インターシフト)

 

を参考にしてみましょう。
こうして題名だけ挙げると、なんじゃこの本?と思われますが、副
題が「読書は脳をどのように変えるのか?」ですので、あしからず
お願いします。

 

しかし、「プルーストとイカ」とは思い切った題名をつけたものです。
フランスの小説家プルーストは、読書を、現実には到底会えそうに
ない人たちに会える「聖域」と呼んで大事にしていたのだそうです。
それは、「ある意味、私たちを作り上げているのは、私たちが読ん
だものなのだから。」(作家ジョゼフ・エプスタイン)という意味で、
自分の一部であるからという理由によってだったといわれます。

 

いっぽうで科学者たちは、イカの長い「中枢神経」を研究すること
で、読書などによって人間の脳のニューロンがどのように発火し、
興奮し、情報を伝えあうのかを解明してきた。
このプルーストの、いわば想像力の「聖域」と、イカの生物的な情
報伝達システム「中枢神経」との合わせ技で、ヒトはいったいどう
いう変化をとげてきたのか? これがこの本の骨格の問いでした。

 

まず、人間は古代に文字を発明してから何千年にもわたって使用し
てきたが、その結果は脳にどのような変化を与えたのだろう。
じつは人間は、ことばを発したり文字を読んだりすることで、脳の
中のそれまでとは違う部分を発達させてきたということが科学的に
わかってきた。
人間は「読字のための設計は脳をさまざまに、決定的な形で変化さ
せ、今なお進化させている。」
「人類は(文字の発明と文字を読むことで)それまでの数々のの記
憶の限界から解放」され、「時間の制約からも解放した。」

 

なーんだ、こむずかしい話かと思ったら、当然の結論じゃないか、
と思われることでしょう。文字と読字によって人間の脳は、他の動
物にくらべて独自の進化をとげた。それは素晴らしい「進化」だった。
じっさいそうなのです、当然といえば当然のことなのです。
しかしここにいたる前には、じつは哲学者ソクラテスによる強力な
議論があって、「文字」と「読字」についてもそれに縛られて評価さ
れることが多かったのでした。

 

みなさんご存じですね、ソクラテスさん。
対話によって相手の気づきを重視する教師であり、「無知の知」の
哲学者であるソクラテスさんは、リアルな対面による「発語」によ
る会話を重視し、じつは文字や読字、読書、書き言葉の普及を警戒
し、非難していたのでした。それはなぜか?

 

理由1 書き言葉は柔軟性に欠けるから。
 書きとどめられた言葉は「死んだ会話」だ。リアルな意味が失わ
 れている。なのにそれが真実だと誤解される可能性がある。それ
 に対して「話し言葉」、つまり「生きている言葉」は、意味、音、
 旋律、強勢、抑揚およびリ ズムに満ちた「動的実体」である。

 

理由2 書き言葉は記憶を破壊するから。
 知識や物語の暗記と異なり、書き言葉と読字によって人間は記憶
 に重きを置かなくなる。ソクラテスは、暗記と対話によって知識
 基盤を磨いていくことが大事だとした。

 

理由3 書き言葉は知識を使いこなす能力を失わせるから。
 読字によって表面的な理解しかしなくなるのは怖いことなのだ。
 書かれた文章はいたるところに漂い出して(いまでいえばコピペ
 だったり、リツイートされて)、それを理解できる者だけでなく
 関わりのない者の手にまで渡ってしまうのだ。

 

さすがに強力ですねえ!
この三点の強力な主張を乗り越えて、「読書はいいものだ」とするに
は、プルーストの文学とイカの脳の長きにわたる研究を経なければ
ならなかった。
ではどのようにソクラテスさんに反論できるのか。

 

読書は人間の脳を変え、これからも変えていく。それは人類の進化
とともに歩んできた脳の変化だ。人類って変化するものなのだ。
だから、文字も読書も人間の発達と人類の発展にとても役立ってき
たのだ。だから読書は文句なく、恥ずかしいことでも時間のムダで
もない。それはヒトにとって「いいこと」なのだ。

 

それをもっと文学的に表現すると、筆者の紹介する小説の一節、
「一冊の本が人の手から手へわたるたび、誰かがページに目を走ら
せるたびに、本の精神は育まれ、強くなっていくんだ」ということ
になります。
この「本の精神」は、「ひとの精神」と言いかえてもよいものかも
しれません。筆者も、読書の効能を補完するべく、「他人の思考を
理解できれば、くみ取れるものは二倍に増える。他者の意識と自分
自身の意識である。」と述べています。

 

いや、まてよ。
人類全体での読書の効能は筆者のいうとおりとして、脳の構造変化
も善しとするとして、でも、かくいう「私」個人の歴史における読
書の善し悪しは、また別の問題ではないか? 
そこんとこよく考えろよ、自分。
人類の脳の進化と自分の成長とをまぜこぜにするなよ、自分。
「私」ははたしてそのように読書してきたか? そういう自覚はあ
ったか? そして自分の脳の進化に、読書は寄与したのか? 

 

さらに疑問は広がります。
人類全体の話としても、では読書する機会が減っている現代人の脳
は、また別の部位が変わっていくのではないか? 私たちは、テレ
ビやネットやゲームの影響で、ソクラテスさんのまったく想定しな
かった世界へと来てしまったのではないか? 

 

人類は、ネットやプラットフォーム企業のアルゴリズムに支配され
て、脳の構造を変えつつあるのではないか?
だとすると、ネットやゲームは、いいもの?悪いもの? 
あー、問いの泥沼にはまってしまいました。

 

ブログ208

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第207回 2020.08.16

 

「アルゴリズムさんへの、シロートからの疑問」

 

前回、「優秀なアルゴリズムによる支配」とか、「なにがしかのアル
ゴリズムによってフィルターをかけられ、云々」と書いてしまいま
したが、この「アルゴリズム」とはなにか、もういちど確認したく
て、ちょっとググッてみました。(やっぱりグーグル使うんだ!?)

 

すると、「アルゴリズムとは、数学やコンピュータで、問題を解い
て解を得るための具体的手順を定式化したもの、およびその根拠」、
とありました。
たとえば、私がアマゾンで本を購入すると、その購入履歴から「あ
なたへのおすすめ本」を教えてくれるケース。

 

まず、販売代理店としてのアマゾンさんのコンピュータが、ご親切
にも、「この本を買ったこの人にとって次に読むべき本はなにか?」
という、たいへん興味ある「問題」を立ててくださり、この本を読
んだ人はあの本に興味があるに違いないという「解」を導き出して
くださり、この人に薦めれば買う公算が高いと考えて教えてくださ
る。
それを導き出す論理の道すじがアルゴリズムだということです。

 

つまりこの場合コンピュータさんは、この人間はこんな考え方をす
るこのレベルの人間だ、こいつの欲望はこんなところに潜んでいる、
だからこの本を薦めておけばこいつは買う、と論理的に示してくだ
さる。
私に代わって選択の範囲や選択肢の優劣を考えてくださり、私の次
の行動をしやすくしてくださるわけです。

 

そんなこと頼んでもないのに、高度な技術を使って、しかも無料で
していただけるなんて、なんとすばらしいことではありませんか!
そして彼は(男性か?)、そのあと、そっと監視している。
どーかなあ、買うかなあ、お、ポチッた、買った、ほーらね!思っ
たとおりだ! さあて、では次のお薦め本はどーするかなあ、フッ
フッフッ、、、となって結果アマゾンさんの売り上げが伸びる。

 

ま、アマゾンの売り上げの件はいいとして(笑)、ここからが問題
なのです。
こうして私がアマゾンのアルゴリズムさん(A)に頼っていると、
私の読みたい本が変わってくるのではないか。私の消費行動だけで
なく、思考や情動や欲望も変わっていくということがありはしない
か。
ひいては私の脳の構造も、利用するプラットフォームのアルゴリズ
ムさん(B)の論理に影響を受けて変化するのではないか。
私はそう感じたのでした。

 

「どの本を読めばいいかなあ」「これっすかね」「お、なるほどね」
「これ、あなたの今の仕事にモロでしょ」「たしかになあ、なぜわか
ったの?」「いやだって、長いつきあいじゃないですか」「助かるな
あ、君の考えとボクの好みはピッタリだよ」「本だけじゃなくて、異
性の好みも上司とのいさかいの原因もわかりますぜ」「ひゃー、君に
は隠し事ができないなあ。頼りになるよ」「私に任せてておいてくだ
さい」「うん、そうする」。

 

こんな会話が頭の中でおこなわれるとしたら、自分の思考や情動が、
そして行動が、いわば「洗濯機のお任せモード」のように、アマゾ
ンさんのシステムの中のアルゴリズムさん頼みになってしまうでは
ありませんか。

 

ちょっと飛躍しますが、私たちは心の中で「対話」をするように考
えごとをします。自分の中で、エゴとか神様とかと話をする、そん
な形の「思考」をしているのだと思います。
すると、もし仮にとんでもない空想が許されるとすれば、脳のなか
で「私」の対話の相手をしてくださる「エゴ」とか「神様」のかわ
りを、ある「アルゴリズムさん(C)」がすることになるのかもし
れません。

 

「こういう場合どうしよう?」「あなたはこう行動したらどう?」
「あ、そうですね、わかりました」「どう?よかったでしょ」「はい。
おかげで助かりました。」「ワタシの考えどおりにすれば、あなたの
お得になるのヨ」「これからもヨロシクお願いします」「了解、なん
かあったらお祈りで呼び出してね」「オッケー、グー〇〇」、とかね。

 

私がもし、心の中でこのようなおしゃべりをしながら生きるよう
になったら、ふだんの思考や情動や行動が変化するのは目に見えて
いますよね。

 

ようは、アルゴリズムさんたちは「人間の脳の外部化」の役割を果
たしていて、私たちが利用するアルゴリズムさん(A)も(B)も
(C)も、その一部を担っている。それはつまり私たちが「考える
こと」を外部委託している状態とも思えるのです。
しかもタダで。楽しみながら。なんの疑問も抱かずに。
こう考えるとちょっと怖い気がするのですが、しかし、

 

「アルゴリズム フェアネス」(尾原和啓/KADOKAWA)

 

は、そのことをむしろ楽観的に前向きに捉えようという本でした。
なんと長い前置きだったことでしょう!ごめんなさい。
さっそく筆者の主張をご紹介します。

 

いやいや、なんのなんの、フェアなアルゴリズムを使えば、人間の
能力は大きく広がるのだよ。
ネットもすべてのデジテル・テクノロジーも、脳にとってはプラス
アルファとして役立つのだ。だって普通の人間にはできないことを
してくれるのだからね、そりゃ多少は影響を受けたとしてもさ。そ
れくらいなんてことないさ。

 

問題は、そのとき、使うアルゴリズムが「フェア(公正公平)」な
ものでさえあればよいのだよ。
読む本とか住む場所、あるいは就くべき職業や適した伴侶やとるべ
き公共政策など、人間の意志決定を効率的に誘導してくれる手立て
として、フェアでありさえすればどんなアルゴリズムでも役立つ。
筆者はこう主張するのです。

 

そういえばこれもいまさらですが、アマゾンをはじめとしたGAFA
のような企業は、そのシステムや開発したアルゴリズムによって、
「あらゆるヒトとモノとカネと情報が行き交う場を提供することで
人間の自由を拡大した」、という意味で「プラットフォーム」と呼ば
れていたのでした。

 

そのプラットフォーム上では、「従来なら決して出会えなかったもの
(自分に合った本とか恋人とか職業とか)に、私たちはいまや瞬時
に出会え」るのだ。
AIもアルゴリズムもそのためにある、つまり、人間の自由と能力
と機会の拡大のためにあるのだ。それはすべてのひとに公平公正に
与えられた喜ばしいテクノロジーなのだ!
・・・だとしたら良いことづくめです。ありがたい話です!

 

とは思うのですが、この筆者の主張を聞いて、やはり私にはいくつ
かの疑念が湧いてきたのでした。
ではいったいだれが、それがフェアかフェアでないかを判断するの
か? 社会的に良いアルゴリズムとそうでないものを、どう仕分け
るのか? テクノロジーの善用と悪用はだれがどう判断するのか?

 

まず、こういうことはないだろうか?
アルゴリズムの製作者(プログラマー)は自分のアルゴリズムをブ
ラックボックス化するはずだ。そうでしょう?
だってそれは、アマゾンさんの「本のお薦め」のように儲けるネタ
だから。だから論理構造をオープンにしてみんなの眼にさらけ出す
ことなんて、しませんでしょ。AIの構造なんか、なおさらです。

 

そのブラックボックスの中味を、だれがフェアだと評価できるのか。
ムリでしょう、そんなの。「お薦め本」が自分にピッタリだったの
で結果オーライ、とばかり言ってはいられないでしょう? 
まずこれが一点目。

 

評価できないのであれば、すでに影響力の大きいアルゴリズムを駆
使して市場を席巻したアマゾンさんのような会社が、これからもい
っそう利用者への支配(表現がきつすぎますか? では利用者への
「影響」)を強めることになるのではないか。
そのように、いまあるプラットフォームだけが強くなるいっぽうと
いうのは、はたして公平なことなのだろうか、というのが二点目。

 

その会社は業績を伸ばすために、消費者個人だけでなく、さらに社
会全体にたいしても影響力を強めようとするのではないか。ひいて
は国家政策にも口を出すのではないか。企業として生き延びるために。
一企業がそのような影響力をもつことは、世の中にとってフェアな
ことなのか? はたしてそれは人びとの自由を広げ、幸福を高める
ことになるのか? これが三点目の疑問。

 

もすこし具体的な疑問にしてみます。
たとえば、フェイスブックの仮想通貨「リブラ」や、アリババの売
り出した、自分の社会信用スコアの点数によっては加入できたりで
きなかったりする生命保険など、開発者によってある価値観をもた
されたアルゴリズムで動く社会システム(政治、経済、福利厚生を
ふくむ)は、いったいフェアなものと言えるのか? 
みなさんはどう考えますか?

 

さらに疑問は膨らみます。
だいたい私たちはいまでも、自分のなにがしかのアクションがきっ
かけで、ネットのアカウントを停止されることがある。それが極端
になれば、ネットにつながれるかどうかも企業のアルゴリズムさん
の手に握られてしまうことになる。

 

そのとき私は、だれになんて文句を言ったらいいのだろう?
アマゾンさんのなかの数あるアルゴリズムのひとつのAさんへ、あ
なたの論理と判断は公平じゃないですよ、おかげで私は多大な不利
益をこうむりました、なんとかしてくださいよ、Aさんってば!・・・

 

って、いったい私は、さっきからだれにモノを尋ねているのでしょ
うか? それすらもわからなくなってきましたが、私たちはなんだ
かとっても危ない場所にいるような気がしてなりません。

 

私たちは油断していると、はい、みなさんの選択肢がひろがって自
由度が増しましたね、より公平公正になりましたね、良かったです
ねと言われて、まあなんと嬉しいことでしょう、ボカァ幸せだなあ
と脳が思わされ、しかしじつはそれはプラットフォームさんたちの
論理に支配されてモノを買っただけのことだった、なんてことにな
りませんか、先生?(って、だから、だれ?)

 

ブログ207

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第206回 2020.08.10

 

「デジタル・テクノロジーと私たち、なう」

 

デジタル・テクノロジーの進展はすさまじくて、がんらいアナログ
頭のブックカフェ・マスターにはとてもついていけません。
なにせ、いまだにガラケーを使っているくらいですから(笑)。

 

だからこういう問題は苦手なんだよなあ。
デジタル・テクノロジーの進展と倫理/道徳/政治との葛藤せめぎあ
い。でも関心はあります。情報もチェックしています。
たとえばインターネットの進展も、当初考えられていたようには人
びとの幸福の増進には結びついていないらしいとの報告も受けてい
ます(だれから?)。

 

それはひとつには、もともとSNSのようなショートメッセージの
やりとりは、論理的とか合理的に行われるのではなく、むしろ「ひ
との感情」を刺激して、とりわけ人びとの怒りを増幅してまとめ上
げ、その「怒り」どうしの反目によって人びとが分断されるのだそ
うです。

 

人びとはネット上で、わずかな感情のちがいですれ違う。
そして刺激され、怒りは増幅され、集団化し、その「怒り」の種類
ごとに「部族」にわかれていく。
世の中には大小いろいろな「怒り」があるので、ひとは、そのつど、
怒りの種類によってあっちこっちの「部族」に属することになる。

 

するとひとは自分の感情に引き裂かれ、いったい自分はいま主にど
んな感情に左右され、なにに怒っているのかわからなくなる。
そして、あらやだ、そんな私ってだれなの? と、「アイデンティテ
ィ」上の疑義にとらわれ、それが不安となり、はては他者や他の集
団への不信となり、争いの原因になるらしいのです。

 

極端にいえば、「食べ物の好みのちがい」とか「サッカーのひいきチ
ームの勝敗」などが「怒り」となってネットという増幅器に流され、
その結果、多くの人が疑心暗鬼にとらわれて民族紛争が起きたり、
宗教対立に発展するというような、いやいやもちろん極端に言えば
ですよ、極端にはそんな情けない状況を想像してみてください。

 

でもそれがデジタル・テクノロジーの進展によって、実際に起こっ
ているというのです。ということで、

 

「操られる民主主義」(ジェイミー・バートレット/草思社) を。

 

この本の原題を直訳すると「人びと対技術」で、副題は「デジタル
・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか」という、まじめな
タイトルでした。

 

いま、情報のプラットフォームを押さえた企業(GAFA=グーグ
ル、アマゾン、フェイスブック、アップル)は、人びとの生活から
情報を吸い上げ、それを活用して収益を上げ、事業のネタを太らせ
ている。

 

この、GAFAによるビックデータの解析と再利用が、じつはネッ
トに頼って生活するひとの感情に影響を与え、そうした「感情の刺
激と怒りの増幅」が、結果として消費や投票行動や政策決定などに
大きな影響を与えている。

 

それによって生み出された企業行動や公共政策は、実際には人々の
所得の格差を拡大したり、階層的分断をさらに広げたりしている。
そしてそれがまた、不安を煽り、怒りの増幅を生み、多種の「怒り
の部族」をつくる、そんな悪循環がみられるのだ。

 

つまりデジタルテクノロジーの進展にともなって、とりわけプラッ
トフォーム企業によって、私たちは団結とか宥和とか寛容から離れ
ていっている。
そうすると、データとAIにきわめて親和的な功利主義的発想が世
界を覆いつくして(たとえば単純な多数決とかトリクルダウン思想
とか)、最後には独自のデータと優秀なアルゴリズムが、企業や国家
の政策を決定していくことになる・・・と、このように筆者はデジ
タル・テクノロジーの現状をみています。

 

ここまではわかるとして、じつはここからがこの本の主眼でした。
問題は、このデジタル・テクノロジーの進展やらプラットフォーム
に、民主主義という制度がついていけていないということなのだ。
そう、筆者は断言します。
ほーら、とても難しい問題に突入していきますよ、ご覚悟ください。

 

そもそも民主主義は、テクノロジーの進展を想定して制度設計され
ていないのだ。人権とか自由とか、ガチリアルに顔つきあわせての
飛沫信頼を恐れない話し合いとか、そこからの合意形成とか少数意
見の尊重とか寛容とかが元手になっている。

 

だから民主主義は、デジタル・テクノロジーにはない「手触り感」
を大事にするシステムだったといっていい。
なにがしかのアルゴリズムでフィルターをかけられ、一定の論理構
造で導き出される結論など、じつは民主的な手続きを踏んだものと
は到底いえないのである。

 

そんなもん、まるで登場人物とストーリーが決められているバーチ
ャルリアリティのゲームを戦っているようなもんだ。そんなことや
ってたら、その条件に見合った意見しか出てこられないはずだし、
感情だけが先行して、いっそう「怒りの部族」ごとに争うことにな
りかねない!

 

そうではなく、ほんらい人びとにとって望ましいのは、アルゴリズ
ムもデータ解析も含めて、テクノロジーが「民主的な支配と行為の
もとに置かれていること」なのだ。 
筆者はこう主張するのです。

 

よくわかります。と思います。たぶん。そんな気がします。
小林秀雄に導かれて「モノ」を見る眼を養ってきた(?)私には、
これは、「デジタル・テクノロジーでさえ、それを民主主義に有効
活用しようとするなら、システムの作り手の手の感覚、つまりは
ひとのアナログの手触り感に支えられていなければならない」、と
いう主張に聞こえました。うーむ、ちょっと違うか。

 

ああそれなのにそれなのに、いまは逆に、多くの社会システムと民
主主義じたいがGAFAさんのプラットフォーム、すなわち一企業
の、しかもあらかじめ決められた舞台の上で、あらかじめ決められ
たルールとストーリーに支配されているではないか。

 

GAFAだけではない。トランプを見ろ、プーチンを見ろ、習近平
を見ろ。というか、それぞれの国のやり方を見ろ! 
こうなってみると「人々対技術」の戦いは、すでに「技術」が勝っ
たといえるのではないか? そしてそれによって、民主的な社会は
すでに破壊されてしまったのではないか・・・

 

・・・さて、どうでしょう。みなさんはこういう意見にたいして、
どんな感想をお持ちになりますでしょうか?
アナログ頭の自分の知らないうちに、理解できないデジタル・テク
ノロジーとアルゴリズムに支配されているのかもしれないと思うと、
とても私は幸せな気分にはなれませんでした。

 

ブログ206

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第205回 2020.08.03

 

「AIブックカフェ?」

 

陶磁器や石という「モノ」からだいぶ離れた話題になりますけど。
最近はとにもかくにもテクノロジーの進化であり、AIばやりなわ
けでして、家電から自動車からゲームから株取引からマーケティン
グや戦争まで、なんでもかんでもAI技術が入り込んでいます。

 

ああ、やはり「モノ」からはそうとう離れましたね。
むしろ真逆といってもいいですね。つくり手の「手」の動きなんて
見えませんし、私など想像すらおよびません。

 

このAIって人工知能のことですけど、そいつらは深層学習とやら
によってドンドン自分で進化していくっていうからすごいじゃあり
ませんか。最初に論理構造を決めて条件とデータを入力しておけば、
かってにドンドン知能を上げて賢くなってしまうというのですから。

 

どおりで囲碁でも将棋でも人間はAIに勝てなくなってしまったし、
美空ひばりの複製映像が新曲を唄っちゃうし、手塚治虫先生っぽい
新作マンガができちゃうし、AIにできることがものすごいことに
なっています。
だれですか、AIにそんなことやらせているのは?

 

じゃあ私だって、ブックカフェにAIが導入されたらどうなるか?
と、ちょっと想像してみましたね。

 

来店されるお客さまのうち、おなじみさんは顔認証によって判別し
てお好みの席にご案内し、AIロボットがお好みの飲み物やケーキ
をお薦めする。
席ごとに音が隔絶されているので、お好みの音楽を一人ひとりに届
ける。そうこうしていると、その方の好みに合ったコーヒーを淹れ
てメイドロボットがお給仕する・・・と、ここまではふつうのロボ
ットカフェ。

 

その方が以前に手に取った本の履歴やその日のお顔つきによって、
AIコンシェルジュによるお薦め本がディスプレイされる。
場合によっては、「まだ存在しない」が、お客さまに必要と思われ
る本を、コンセプトシートの姿で提示したりする。

 

さらに別の席にいる方とチャットでお話すよう促したり、その場で
仮想ビブリオバトル(書評ゲーム)で楽しめるようアレンジしたり、
お疲れになられたら読み上げソフトがお好みの声優の声を手配して
朗読サービスをしてくれる。

 

AIコンシェルジュは、お客さまの欲望やお悩みに対して、リアル
マスターよりいい仕事をいたします。
「(田口トモロヲのナレーション)こうして、本に関する仕事にま
たひとつ新しいものが加わることになった、それが『西調布のAI
ブックカフェ』である(音楽「地上の星」流れる)」

 

おおっ、いいじゃん・・・でも、まてよ? 
そうなるとマスター(ヒューマン)もブックコンシェルジュ(同じ
くヒューマン)もブック(モノ)も要らないんじゃない? 
というより、カフェ(場所)も要らなくない? 
そんなの困るじゃないか!

 

・・・というのはさておき、このようになんでもできそうなAI技
術は、じつはだれかに本気で悪用されるととても怖いんだぜ、とい
うのが、

 

「悪のAI論」(平 和博/朝日新書) の主張でした。

副題に、「あなたはここまで支配されている」とあるように、使われ
方によってAIは、国民監視の精度を上げ、個人のプライバシーを
侵し(中国を考えたときに触れました)、楽々と世論を操作して政治
を支配する奴が現われ(アメリカやロシアでおこなわれています)、
国民に上級下級の差別を引き起こし、知らないうちに兵器のターゲ
ットにされたり、自分のフェイクポルノが作られてしまったり(も
ちろん日本でも)するのだゾと。
というか、もうそうなっているのだゾと。

 

つまり人間は、利口なAIを、他人を支配する道具として使うこと
ができる。
だから国家とか権力者は、それを自分のものとしたがる。人々を支
配したり富を簒奪するには、情報ビックデータをAIを駆使して活
用すればよいのだ。

 

中国だけでなくロシアもアメリカも、政府や権力層の認識は変わら
ない。AIテクノロジーを使えば、監視でも選挙操作でも世論操作
でも思想統制でも国難のでっち上げでもライバル国の人心かく乱で
も、なんでもござれなのだ!

 

ところで、いま思ったのですが、こうした最新技術の悪用と善用の
違いはどこにあるのでしょうか? 
だれがそれを判断できるのでしょうかね? 
国家においても個人においても、そこは難しい問題です。

 

国家が善用すれば国民の安全安心が保たれ、悪用すれば権力の支配
が強まる。善用することで他人に幸福感を与えられるが、逆に自由
を奪うこともできる。その境目はどうなんでしょう。
少なくとも私には判別できません。
なんか倫理上の迷路に入り込んでしまう気がします。

 

ならばここで確認しておきたいことがあります。
それは、どんな種類のAIといえども、人間が開発するアルゴリズ
ムで動くコンピュータ・ソフトであることには違いがないというこ
とです。
だからそこに人間の手クセがでるはずです。そうですよね?

 

たとえば、この本で紹介されているアマゾンが開発しようとした人
材採用AIでは、AIによって採用にふさわしいとされた人が、な
ぜか男性ばかりだった。というのも、AIの学習に使ったデータに
は女性に関する情報が少なかったからだった。
こんなおバカなことが起こってしまうわけです。

 

つまりAIじたいは学習しだいでドンドン賢くなるといっても、そ
れを開発した人が賢くなかったり偏見があったりしたらどーしよう
もない。あるいは蓄積するデータに偏りがあったら、それまたどー
しようもないわけです。

 

「人間には思い込みや偏見がある」、そして
「人間の使うデータには偏りがある」。
だから人間の開発するAIの判断も、つねに正確で中立、しかも善
用されて安心・安全、ということにはならない。したがって、
「AIは時として差別的になる。人生の重要な選択をAIによって
勝手に決められてしまうこともある。」と筆者は書くのです。
このことを、私たちは深く心にとどめておかなければなりません。

 

いまはもう「ひとの感情」や「ゲームの勝敗」だけでなく、リアル
な政治や経済も、金融も軍事も、その大きな部分をAIが動かして
いると考えておいたほうがのですから。

 

いずれにしろ私たちは、「今、ここ」で、ふだんのあらゆる振る舞
いがだれかによってデータ化され、スコア化される世の中に生きて
います。
ブックカフェでどんな本を読んだか、だれと話したか、どんなこと
を話したかの情報が、もし仮に不法に取得され、監視され、AIに
よって評価分析され、それによって自分の生き方が半強制的に決め
られてしまうとしたら、つまり「悪用」されるとしたら・・・ウウ
ッ、怖いじゃありませんか。

 

すると私たちはどう振舞うべきなのか。
この問題はやはり時間をかけてじっくり考えなければなりませんね。
お気楽にAIブックカフェなんか夢想しているばあいではありませ
んでしたぞ!

 

ブログ205

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第204回 2020.07.27

 

「拾った石は捨てられない」

 

当カフェの小さな庭には循環式の璧泉(へきせん)があって、電気
スイッチを入れるとしずかに水がしたたり落ちる仕掛けになってい
ます。天気の良い日には涼しげな水音を響かせてくれています。
そこには、ご近所からいたただいたメダカも新しい住人になったと
ころです。
その壁泉の上部にある、水が流れ落ち始める「水貯め」のところに
小石が置かれているのですが、そこにはもとからの黒丸石にまじっ
て、私が拾ってきた各地の小石も置かれています。

 

近くの多摩川で拾った石、ドライブで寄った海岸の石、海外旅行の
遺跡で拾った石、いろいろあります。でも、もうどれがどれだかわ
からなくなった、たいした特徴もない石ばかりです。
なんでこんなもの拾ってきちゃったのかねえ、と自分でもあきれる
ようなものです。

 

これらは庭や床の間に置くような銘石ではなく、たんにひとの手が
加わっていない自然のモノ、金銭価値のないモノ、真贋もなにも関
係ない、骨董とかモノを見る目とか、作者の手とか精神性とか、難
しく考えなくていいモノたちでした。

 

ところが世の中には、そんな「なんでもない石」が自分に必要なの
だ、という方々がおられるので驚きます。
それは以前にご紹介した、道ばたのなんでもない石を拾ってきて机
の上に置いて対話をしていたという文芸評論家の秋山駿さんや社会
学者の岸政彦さんで、そういう方には私もおおいに勇気づけられて
きたのでした。なぜかわからないけど。
で、それとはやや趣が異なりますが今回は、

 

「いい感じの石ころを拾いに」(宮田珠己/中公文庫) をご紹介。

 

著者の宮田さんは紀行ライターで、多くの愉快な紀行文をものして
おられる方。それがなにを血迷ったか、「いい感じの石ころ」を探し
て日本全国の海岸を巡っていきます。
「いい感じ」ってどんな感じ? と訊かれても、宮田さんでない私に
はわからない。

ただ、道ばたのただの小石ではだめみたいで、海岸や河原であくま
で宮田さんが見て、触れて、握って、「ああ、いい感じだなあ」と
気に入った石、ということです。ここには真も贋も変も糞もない。

 

この本にはいろいろな種類の石の説明もあるし、いわゆる石コレク
ターと称される方へのインタビューもあります。もちろん、筆者た
ちが拾ったいい感じの石のカラー写真もあり、また、どの海岸では
どんな石が獲れるという情報も満載です。

 

その意味では「いい感じの石を探しているひとのための情報誌」と
いってもいい。
けれどもけっきょく、筆者が執念深く「自分にとってのいい感じ」
を探して、あちこちに出かけていくことに変わりはありません。
それを読者は「いい感じ」に追体験させていただくだけ。

 

本人も「私はいったい何をめざしているのだろう?」と、たびたび
反省していますが、
「とにかく海辺にしゃがみこんで、なんかいい感じのする石ころを
探しいていれば私は満足だった。そして、それ以上主張したいこと
は、とくにないのだ」と、開き直っていますね。
もちろん、石と対話したり、人生を考えたりすることもなし。

 

でも実際そのとおりなのでしょうね、それもわかります。
というのも、石ではないのですが、私も海岸で陶磁器の破片を探し
集めたことがあるからです。
とくに台風が去った後の海岸には、多くの破片が打ち上げられてい
る。

 

それを手に取りながら、この古伊万里の皿の破片はきっとこの沖で
船が沈み、積み荷が流れ出してこの海岸にたどりついたのであろう
な。絵付けと藍の染料から江戸時代後期のものと推測されるが、波
に洗われて破片のカドも「いい感じ」に丸くなり、高台のできも結
構なので、ここはひとつ家に持ち帰ってあげよう、などと愛でながら。
じつはそれらの破片もおなじ水場にあるんですけどね、持ち帰って
からあらためてそれらと「対話」することもありません。

 

それはさておき、この本には、ライターの武田砂鉄さん(ここでも
ご紹介した「コンプレックス文化論(文藝春秋社)」「紋切型社会
(朝日出版社)」などの著者)の解説がついています。
武田さんは10年くらい出版社で編集の仕事をしていたそうで、こ
の本の著者の宮田さん担当として引っ張りまわされ、「取材旅行」
という名目でいっしょに石探しにでかけていたのだそうです。
「取材旅行」ねえ・・・いいなあ、そんな「取材」。

 

本の中で、宮田さんにあっちこっちとつき合わされた「編集の武田
氏」は、最初はいやいや同行していたが、だんだん石に愛着がわい
て、さいごは熱心に海岸で石集めをしていたことになっています。
でも、武田さんによるあとがきを読むと、本人的にはそうでもなさ
そうでしたね。

 

石を探しに行った出張の報告書が書きにくかったとか、自分が会社
を辞める時にデスクの引き出しにある石をどうしたらいいか迷った
とか、そんなことを楽しげにグチってました。
そのお気持もわかります。
わかりますけれど、ただ、私自身の経験から言っても、「拾ったい
い感じの石(および、いい感じの陶磁器の破片)は捨てられない」
のですよ。はい。

 

ブログ204

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第203回 2020.07.20

 

「最初から最後まで『眼の人』であった」

 

出川さんの師匠が柳先生だとすると、小林秀雄や白洲正子の焼き物
における師匠が、青山二郎さんでした。
とにかく「モノを見る眼」に優れていて、焼き物を中心に骨董の真
贋を判断するのはお手のものだし、ひいては人間の「真贋」までを
ズバリと言い当てたというおひとです。

 

人間の真贋とはいったいいかなる「真」と「贋」なのか?
そんな疑問をもたれる向きもあるでしょうが、ともあれ天下の副将
軍水戸光圀公なみにスゴい人だったらしいです。
いや、小うるさいジイさんという意味で。

 

「青山二郎全文集」(青山二郎/ちくま学芸文庫)

 

彼が見出したり愛でた骨董や焼き物は、多くはその後いろいろな方
の手を通って美術館に収蔵されていまに伝わるのですが、彼の愛し
た骨董そのものにご興味のある方は、どうか別の資料をご参照くだ
さい。さすがに「さすがなモノ」を収集されています。

 

ここでは、骨董のプロ青山二郎による文芸のプロ小林秀雄観をのぞ
きつつ、彼の文章をみてみるとしましょう。すると、
「骨董弄り(いじり)は一生、大概感じで終わって仕舞うのが落ち
である。始めてからニ三年すると、小林の眼は漸く『物』が見える
様になってきた。個々の物が見えてくれば、後は割合に頭でいける
から彼の(お手のもの)に近くなる。」
みたいな文章に出くわします。

 

わかりにくいですね。
この、「物」が見えるとはどういう状態なのか? 
「頭でいける」とはどういうことか? 
やはりそこが私にはわからない。すいません。

 

青山は、「(モノが)見えるということは、小林の(お手のもの)の
頭の働きと違ふことを合せて悟らせる為に、私は先に喋らないこと
にしたのである」などと、師匠ぶってえらそーに言うのですから、
骨董のプロからすれば、眼と頭の違いは当たり前に説明できること
だったらしい、そういうことだけはわかりました。

 

ただ彼は、それを読者のわかるように具体的には教えてくれない。
ところで以前ご紹介したように、青山の最後の弟子の白洲正子の意
見も、青山に「見ること」を鍛えられた小林の文章は、それまでと
は明らかに変わったというものでした。
これもわかりませんでしたね。
ですので、いったん理解をあきらめることとします。すいません。

 

でもさー(グッと口調を変えて)、そんな青山だって、自分の気に
入ったモノを目の前にして、「他人が見たらカエルになれ!」なん
ていっていたひとなんだよ。おかしいよねえ?
これは、「このモノ」の良さや価値がわかるのは自分だけだぜ、見
る眼のあるのはオレ様だけさ、だから他人にはその良さの本質を
現わさずにいてくれ、このオレだけのモノであっていてくれ! と、
煩悩丸出しで叫んでいるようなものじゃないか。

 

こんなことから私は、彼は、なにかを他人と共有したり共感を求
めたりすることが苦手な、自分本位のひとだったのではないかと
邪推しましたね。
だって、ほんらい文章を書くというのも、なにかをだれかと共有し
たいという思いからやむなく生まれる行為であって、もし共有も共
感も求めないのならば、自分の思いを表そうとか、理解してもらう
ために平明な文章を書こうなどとは思わないでしょう?
「眼の人」青山の文章はわかりにくいのです。

 

小林が言うように、本来、多くの人の多くの視線や長い時間に耐え
られる強さをもった器物というのが「真」であるなら、長い間多く
の人の目に耐えられる文章は、だから「共感への渇望」に支えられ
ているといっていいのではないか。
小林はそれに気づいたのではないか。
いっぽう青山は気づかなかった。

 

小林は文章をも「モノ」としてじっと見ることによって、それを書
いた(作った)ひとの「(渇望の)手」をじかに見ようとした。
そのやり方こそが、なにかを直に理解してそれをだれかに直に伝え
るという意味で、独特の仕事の基調になったのではないでしょうか。

 

逆に青山は、自分の眼が一番確かなのだという自信家だった。
一瞬でモノの真贋を見抜いた。そして自分の眼でみたものに他人の
共感を得ようとか、自分の価値観を他人にわかってもらうために努
力しようなどとは、ぜんぜん思わなかった。
なぜなら彼は「見る」天才だったから。
他人が自分と同じように「わかる」とは思わなかったから。

 

もちろん私は青山という人間の真贋の判断をしているわけではあり
ません。
生まれながらの「眼の人(つまり天才肌の人)」は、「文の人(努力
して他人の共感を得なければならない生業の人)」になるのは大変
なのだ、モノを見る目と文章で表現することとは相当に離れた能力
なのだ、ということを思い知らされたのでした。
だからこそ、よけい小に林秀雄の努力のすごさに思い至る。

 

私はそんなことを思いながら、天下のご意見番の愛すべき天才頑固
ジイちゃん(たぶん)の青山先生に心の中でウィンクをして、去る
ことにしました。

 

burogu

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第202回 2020.07.15

 

「モノの精神性を問うのは悪いクセ?」

 

ちょうちん壺をはじめとして、私は朝鮮の焼き物が好きなもので、
李朝白磁の小壺や高麗青磁の小皿などをいくつか買い求めてカフェ
にもお目見えさせています。

 

そういえば小林秀雄もけっこう李朝ものが好きだったようですね。
戦前の文士は、川端康成もそうですが、李朝とか高麗とかにはまる
方が多かったらしく、それには日本の朝鮮統治時代における浅川伯
教と浅川巧という兄弟の尽力が大きかったそうです。
いまでいうと、インフルエンサーですね。

 

尽力、というのは、彼らは林業技師として働くかたわら、現地でも
見捨てられていた高麗・李朝の焼き物を高く評価し、窯跡の調査研
究をするとともに、朝鮮の民族的な器物全般を愛し、それらの収集
と保存、そして紹介に力を尽くしたという意味です。

 

けっして秀吉の軍隊のように、焼き物をあさったり工人を無理やり
連れてきたということではなく、あくまで朝鮮工芸のすばらしさ
を伝えた方々だったのですね。
(浅川兄弟にご興味のある方は、図書館で本を借りるか、映画「白
磁の人」(2012)のDVDをレンタルしてみてください)

 

その成果を見た当時のチョー強力インフルエンサーの柳宗悦が、
「インスタ映えはしないけど、こりゃスゲェー」とうなって、民芸
運動に結びつけたというのは有名な話・・・なんちゃって、そんな
ウンチクを述べながら焼き物を愛でるというのもお楽しみ、という
ことで、まずはご容赦ください。

 

「李朝陶磁新考」(出川直樹/創樹社美術出版)

 

私が朝鮮の器物に関心をもち始めたときに、おおいに参考にさせて
いただいたのがこの本でして、筆者出川さんは柳宗悦さんの弟子筋
にあたる方で、「先入観や既成観念にとらわれず、『直下に見よ』と
いう教えを大事にしている」、と述べています。

 

でました、「直(ちょく)」の字のついた「直下(じきか)」。
これは禅のことばでしたね。欲望や煩悩を離れて虚心坦懐に本質を
見よということで、小林のいうことと同様にモノの見方の基本中の
基本かもしれません。

 

でも、それができないんだよなあ、私らシロートには。
「これ、ホンモノかしら?」とか「いくらぐらいするかしら?」
「売ってるオジサンは信じられるかしら?」「友人は褒めてくるか
なあ?」などと、思わず心のなかで煩悩丸出しのおしゃべりをして
しまうのが私ら凡人なのですから。ン? それって私だけですか?

 

しかし、そういう煩悩だらけの人間から見ても、高麗の青磁や李朝
の白磁はふつうに美しい。
壺だけでなく梅瓶、徳利、猪口、角瓶、扁壺、筆筒、水滴、鉢に皿、
模様の描かれているのも描かれていないものも、ろくろのものも手
びねりのものも、なぜかスッキリとしたたたずまいのものが多い。
多少キズがあったとしても、それは見る際に苦にならないのです。

 

出川さんは焼き物について、
「一器のなかにひとつでも『みどころ』が見つかれば良く、形、文
様、色調、どれをとってもさほどではないというものは、いくら無
キズでも飽きる」といいます。

 

ここにはふたつの教えがあるのでしょう。
ひとつは、李朝の陶磁は中国のものとはちがって、完璧を追い求め
るというより「使われて光る美」があるので、完品かどうかなんて
ことよりも、そのモノのもつ「用の美」を発見しろという、師匠直
伝の「民芸運動的」な教え。

 

もうひとつは、だから博物館で眺めるのではなく、手元に置いて使
って、そして見て、見どころがあるかどうか、飽きるかどうか確か
めてみよという教え。

 

こうして筆者出川さんのように、ガチリアルに直下にモノを見てい
くと、モノの方から、ヤバイヨヤバイヨ-と訴えてくるものがある。
たとえば、師匠の柳先生は、李朝白磁の「白」は哀しみの色で、朝
鮮民族が喪に服すときの白衣のように感じられると書いたが、そん
なこたーない、と彼は反論するのです。
藍色の秋草の文様がはかなげで、それは朝鮮民族の歴史を反映して
いるなんて師匠は言うが、これも、そんなこたーない。

 

じつは朝鮮の工人だって、ほんとうはもっと上絵付けしたかったん
だけど、染付のコバルトが手に入らなかっただけだろう。裕福な中
国の官製染付磁器のようにベタベタとラピスラズリを塗りたくるわ
けにいかずに、ケチケチ使わなければならなかったんだ。
だから絵付けできなかったり薄い絵付けになり、いたしかたなくは
かなげな印象をあたえるモノになってしまったのだ、そんなことす
ぐわかるだろ。彼ら工人の気持ち、わかるだろと。

 

柳先生は、李朝時代は「動揺と不安と苦悶と悲哀に満ちた世界だ」
とか決めつけるけど、そんなわけないじゃないか。
それって先生のただの思い込み。やたらと精神論に持ち込む、あな
たのわるいクセ。

 

だって韓流ドラマをご覧になっている方のほうがお詳しいでしょう
が、300年以上続いた朝鮮の李朝時代って、いつでも日本や中国に
侵略されていたり悲哀に満ちた悲しい詩歌を歌っていたわけではな
い。
りっぱな王様がいて平和な時代が続き、ちゃんと恋愛や不倫や記憶
喪失があり、チョングムがいたり宮廷内のいじめとか出世物語もあ
ったのですから!

 

柳先生は思い込みの強い人なので困ってしまうなあ。
モノにたいして、思い込みで「民族の精神性」などをあてはめては
いけないんじゃないですか、先生。それでは「直下に見よ」という
先生ご自身の教えに反するではありませんか! 「見どころ」は別
のところにあるのだ!

 

・・・と私、自分の心の中での本とのおしゃべりをそのまま書いて、
出川さんの考えをだいぶ意訳したような気もしますが、彼はだいた
いそういうことを言っているんじゃないかと思いました。
いい加減ですいません。だから拡散しないでください、、、しないか。
でもこんな師弟対決だって、カフェでの私たちの楽しいネタになる
のだから、骨董趣味はやめられません。

 

ブログ

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第201回 2020.07.06

 

「モノを見る眼を養うと文学もわかる?」

 

ところで小林秀雄といえば、有名なことばに、
「美しい<花>がある。<花>の美しさといふ様なものはない」と
いうのがありました。
なんだか誌的で哲学的なことばなので、わかるようでわからないな
あと感じますが、みなさんはどう受けとめるでしょうか?
私がこのことばをはじめて知ったのは、

 

「遊鬼」(白洲正子/新潮社) で、でした。

 

白洲正子さんは多くの書物を書かれていてファンも多く、戦後の吉
田茂首相に仕えただんなさんの白洲次郎のファンもこれまた数多く、
いずれこの日誌にも取り上げたい本がたくさんありますが、今回は
とりいそぎこの本のなかの「小林秀雄の眼」と題された小文がすば
らしすぎるというご報告をさせてください。

 

私思うに、これ、数ある「小林秀雄の解読文」のなかで、最高傑作
じゃないかなあ。
たとえば、こんなことを断言されたらどうします?
「小林さんは骨董に開眼することによって文体も変わったので、文
体が変わるということは、思想の上にもある変化が生じたことに外
ならない。」
おおーっ、いったいどういうことだか、わからない!
たしかに小林も、「骨董に夢中になったおかげで、やっと文学がわ
かりかけてきた」と言っているらしいですから、白州さんの断言も
外れてはいないのでしょう。ここに小林の「眼と頭をつないでいる
もの」の秘密がありそうなのだけど、、、、、私にはわからない。

 

さらに白洲さんは、小林の処女作「様々なる意匠」から、こんなこ
とばを引っ張り出してきます。
「芸術とは感動の対象でもなければ思索の対象でもない。実践であ
る。」「重要なのは新しい形ではなく、新しい形を創る過程である。」
おおーっ、これも、、、、、よくわからない。

 

小林は、まるで修行のように骨董を見て、売り買いし、開眼した。
その後は「ゴッホ」を書くに際しては複製画を求め、「鉄斎」を書く
に際しては鉄斎の絵を、「梅原龍三郎」のときもその作品を買い、黙
って見続けることを続けて、そのうえで評論を書いた。

 

その文体は骨董にはまる前に比べて「わかりやすくなったわけでは
ない」が、だんだんと「言葉は抑えられ、饒舌は影をひそめて、平
明で読みやすい文章」になっていったと、そう彼女はそう断言する
のです。ただそれが、「彼の思想が変わった」ということや、「芸術
とは実践だ」「重要なのは過程だ」ということにどう結びついている
のか、私には見当がつかない。

 

自分の中にこの問題を沈めるために、謎として繰り返します。
骨董を見続けることによって、小林の思想と文章は自分の手のひら
にあるモノの手触りから立ち上げる平明なものになっていったらし
い。どういうことだ?

 

文学を語るプロの評論家の文章が、骨董を「見ること」で変わり、
その文体が変わり、その思想も変わっていったというのなら、私た
ちもモノを見る眼を養うことによって、文学や音楽や絵画の楽しみ
方を変えることができるのかもしれません。
それがだれにとっても正しい方法かどうかはわかりませんが、それ
によって<花>の美しさを語れるようになるかもしれない。

 

こうしてみると、すでに自分の中に沈んでいた問題が浮上してきて
合体する気がいたします。それは、
「生きている人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。
(中略)そこにいくと、死んでしまった人間といふものは大したも
のだ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種
の動物かな」、という小林のことばなのですが、この二つの謎が解け
るかもしれない。
・・・こう書いていて、やや方向感覚を失っている私ですけど。

 

ブログ201

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第200回 2020.06.30

 

「モノを見る眼の秘密とは?」

 

カフェの入り口の大窓のところに、目立たないですが高さ50セン
チほどの李朝の壺を置いています。たぶん、きちんとご覧になった
方はいないんじゃないかな、暗がりで見にくい場所ですし。

 

朝鮮李朝時代中期の白磁の壺、底と口がつぼまっていて真ん中の胴
体が膨らんでいるので、通称「ちょうちん壺」と呼ばれます。
かれこれ400年以上の年齢を重ねてきているので、それなりにシミ
が出ていたりカケがあったりですが、そこも「味が出てきたね」と
思えばひとしお愛おしい存在となりました。

 

これってホンモノですか?と言われると、それはどうかわかりませ
んけれど、焼き物なんて自分が「良い」と思えばホンモノですよね。
ま、自分の「モノを見る眼」を信じればいいのです。この壺は、オ
ホンッ、「お宝鑑定団」に出してもいいくらい。
ということで、ホンモノかニセモノかについてのこんな本を。

 

「真贋(しんがん)」(小林秀雄/世界文化社)

 

文芸評論家小林秀雄は「見る人」だと思われます。
「読む」のが仕事の「文芸評論家」なのにもかかわらず。

 

たとえば彼は、黙ってモノを見続けることは難しい、といいます。
「見ることはしゃべることではない。言葉は眼の邪魔になるもので
す」。「たとえば諸君が野原を歩いていて一凛の美しい花の咲いてい
るのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。
なんだ、菫の花か、とおもった瞬間に諸君はもう花の形も色も見る
のをやめるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。」

 

うーん、文芸評論家でこんなことを言うひとはいないでしょうよ。
だいたいはモノを見ながら、あるいは文章を読みながら、心の中で
おしゃべりをするという「思考」をしているものじゃないでしょう
か。そしてそれを文章にするのではないでしょうか。
小林こそが心の中でのモノとのおしゃべりを文章にしていた評論家
じゃないか。 

 

しかし小林の考えでは、黙ってモノを見るのは難しいことなのです。
ほんらい美しいものは私たちを黙らせるのだから、心の中のおしゃ
べりは余計なことなのだ。モノ(焼き物も絵も花も)がほんとうに
わかるというのは、「(モノに強いられた)こういう沈黙の力に耐える
経験をよく味わうことに他なりません。」
彼はそういいます。

 

そうなると、モノを見る目を養って真贋を見分けるということは、
なかなか困難な話に思えてなりません。
小林は「黙ってモノを見る」ことを修業したというのだけれど、
「何も考えずにたくさん見たり聴いたりすることが第一だ」
「解るとか解らないというのが、もう間違っている」
「諸君は試みに、黙ってライターの形を一分間眺めてみればいい。
一分間にどれだけたくさんのものが目に見えてくるかわかるだろう。
そして、ライターだけを眺める一分間がどれ程長いものかに驚くこ
とだろう」
とかなんとか、そんな修行じみたことを彼に勧められても、私たち
は困ってしまいます。

 

しかし、自分が見て、おもわず足を止めてしまったモノを、ひとつ
ひとつ黙って見続け、モノの沈黙に耐え、贖える(あがなえる)も
のならそれを買って持ち帰り、さらに自宅の部屋で眺めつづける。
すると見えてくるものがある。
小林はガンコにそう言うでしょう。

 

彼は多くの文芸評論を残しましたが、私の印象に強く残っているの
は、たしかに彼の眼が見た「モノ」の印象が、いわくいいがたい表
現で文章として刻まれていく過程の、なんというか「ためらいがち
な鑿(のみ)の痕」とでもいいましょうか。
そんな営みのにじみ出た文章だった気がします。

 

それが彼の「真贋」の見極めに深くつながる行為なのかもしれませ
ん。だとすれば、「見る」と「読む」の関係についても、たとえば
「国宝級の骨董には挿話がついて回っている」と言われ、「古い長も
ちのした伝説」はバカにならないと言われれば、そうなのかもしれ
ません。

 

どういうことかというと、見続けたひとと時間が長ければ長いほど、
多くの物語がそのモノについて回るようになる。もちろん箱や「箱
書き」も多くなる。ひとの「見たこと」を語り継ぐ気持ちが積み重
なっていく。わがちょうちん壺のシミの一つひとつにも物語がある。

 

「お宝鑑定団」でもその手の話が多いですものね。
その「お話」が、真贋の判断のよりどころにもなる。
つまり、自分の心のガードを下げて、モノについて回った挿話をも
素直に受け取る「術」を身につければ、「その中には古来多数の人々
の審美感(つまり「それらの人たちの眼」)が織り込まれている」と
確かに感じられる目が養われる。

 

たくさんの人が見て、使って、そこになにかを見つけて、物語にな
ったモノ。そのつらなりが「精神史」だということでしょうか。
「信楽にしても備前にしても、壺の工人たちは、石器時代からほと
んど変わらぬ壺を使うという日常生活の基本的な要求に黙従してき
たまでだ。革新も改革も知らず、捏ね上げた泥の塊り具合を注意深
く見守ってきたまでのことだ。」
その「見守ってきた」眼をも、小林は深く想像しようとしていた。

 

ただ彼は、「この無口な器物が語るのは、、、(中略)自然にじかに触
れている人間の手の表情のごときものである」として、なにごとに
おいても、それが焼き物であれ音楽であれ詩であれ、この「人間の
手の表情のごときもの」を直に見たい気持ちの強いひとだった。
だから精神史などとは言わずに、「手の表情」という表現を使います。

 

この点について小林の友人で骨董の師匠の青山二郎は、小林は座談
では(モノそれじたいの)イキイキとした話が出てくるが、文章に
なるとなぜか、作った人描いた人のことが主要な問題になってしま
う、と首をかしげています。

 

じつはこのへんに小林の「眼」の秘密、というか「真贋の判断基準」
というか、「眼と頭をつないでいるもの」の秘密というか、モノを見
ながらもそれを作った人の手の表情に思いをいたしてしまうクセ、
のようなものが隠されていると思うのですが、いかがでしょうか?

 

ブログ200

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第199回 2020.06.22

 

「当店の焼き物は・・・」

 

焼き物といっても、サンマやイワシのことではありません。
当カフェに飾ったり、使ったりしている陶磁器のことです。
当店で焼いているわけでもありません、あしからず。

 

そのなかでも私の一番のお気に入りは、屋久島在住の作家、山下正
行さんの作品。
蓮花やウミガメの形の香炉や、ちょっとした怪獣(ポケモン)のよう
な花活けや動物の置物など、どれも登り窯で焼しめた造形に自然釉
がかかって野趣あふれるできあがりとなっています。

 

お会いするとご本人はいたって温厚な方で、そのお人柄や屋久島の
自然の厳しさの両方が作品から感じられる気がいたします。
グッジョブ!です。
なので、焼き物好きのお客さんに「どこの作家さん?」と訊かれる
と、うれしくなってついつい山下さんのお人柄からご家族のことま
で、おしゃべりをしてしまうのでした。
とにかく日本は北から南まで焼き物天国で、飾りたいし眺めていた
いし使ってみたいと思わされる作品や作家さんが多いことです。
日本の焼き物文化って広くて根強いもんですねえ。

 

「日本陶磁の一万二千年」(矢部良明/平凡社)

 

これは題名どおり、縄文から近代までの陶磁器の変遷を、最近の考
古学的知見も入れながら解説してくれる本です。
といっても教科書的な羅列ではなく、著者曰く「精神史の展開」と
いう考察方法をとっているそう。

 

精神史の展開? それはいったい、どういうことだ?
「焼き物の技術革新や技術導入、そして様式革新や様式導入を見定
め、それらの要因はすべて焼き物を制作する側の人々の自律的判断
によって揺り動かされ発動することを定理とし、自らの精神が発動
しない限り、技術や様式の核心も導入もおこり得ないし、ここに民
族や個人の主体性が示される。」

 

ン? 様式の自律的判断? 民族や個人の主体性? 難しくなって
きましたぞ。
たとえば、「縄文土器から弥生土器への展開は、無窮動(はてしな
く動きつづけるの意)の美から、多様の統一による美への展開であ
り、両者はまったく次元のちがった創作原理にしたがった造形物で
あった」と筆者が述べるあたりなんですけど。

 

えーっと(苦笑い)、これはどういうことかというと、間違ってる
かもしれませんよ、間違っているかもしれませんが、それを私は
こう受け取りました。
縄文土器をつくった縄文人は、「無意識過剰」で、行くとこまで行
っちゃえとばかりゴテゴテと装飾したが、弥生人は違う。
弥生土器は「意識的」に作られて実用性を重視している。弥生時代
にはすでにことばも発達し、個人の自意識も集団意識も芽生えてい
る。だから焼き方や土などの技術革新を進めながら、用途と様式へ
のこだわりをもって多様な造形物を焼いていたのだ。

 

縄文と弥生では制作原理がそのように違う。そこにそれぞれのの時
代の民族の主体性を感じ取ることができるのだ。
つまり、焼き物という「モノ」は必然的に、それを作った人たちの
精神すべてを表してしまうものだという視点から、では、ある時代
のある焼き物が、どれだけその時代を生きた人々の思いを背負わさ
れているかを、筆者は「民族や個人の主体性」と表現し、それが歴
史となって積み重なる様子を「精神史の展開」と言った。
ちがうかな。

 

たとえば評論家小林秀雄さんの「茶人のモノに対する姿勢」につい
てのこんなことばが、「精神史」について考える補助線にならない
でしょうか。
「器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、(すなわち)美しい
器物を見ることとそれを使用することが一体になっていた。その間
に区別がない、そういう態度は、きわめて自然な健全な態度である。」
これは、できあがった器物が背負う時代の精神とは、それを見て使
う側の人々の「自然で健全」な思いによってつくられていくのだ、
ということでしょう。
あたりまえかな? 違うかな? さらに別の方向へズレたかな?

 

でもそこは強引に、山下さんの作品を、筆者の「精神史」や小林の
「自然で健全な態度」のなかに置いてみたらどんな位置を占めるの
だろうと考えてみる。
すると、一万二千年の歴史のなかで、ああここが山下さんの独創だ、
個性だ、時代性だ、主体性だ、ということがなんとなくわかってく
るような気もするのです。

 

山下作品を見て、ゴツイけどなかなかかわいい作品じゃん、という
第一印象レベルから、彼が登り窯で固く焼しめたかった気持ちに想
像がおよぶようになり、そこに込められた数々の技術のすばらしさ
に気がつき、さらに屋久島という大自然のなかで家族に支えられな
がら作品を作り続ける気持ちがわかるような気がしてくる。

 

それらをまとめて、
「山下さんの作家性とは、無意識のリリシズムに支えられた造形と、
小さな子どもたちや屋久島の太古の妖精たちにお便りを出すような
姿勢にあるのではないか」なんて、ちょっとカッコつけた「精神史」
的な解釈が可能になるかもしれません。

 

ま、たとえば、の話ですし、矢部先生の考えとはズレているかもし
れないし、そもそも精神性の解釈なんてことば遊びみたいなものだ
とも思いますですけどね。

 

でもそういう空想作業をつづけていると、お店にあるペルシャの陶
器とか高麗の皿などが、山下さんの幻獣と不思議に感応して、カフ
ェの空間がより豊かになるような気がするのです、、、精神史的に。
そして、このブックカフェがなにがしかの歴史を受け継いでいて、
それを私というマスターが具現化しているという、そんな確信が芽
生えるような気もしてきます。

 

ブログ199

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第198回 2020.06.13

 

「戦争はアタマのネジをはずすのだ」

 

はいっ、今回はわがオールタイムベストにもかかわらず、ご紹介の
しかたがムズいので、サクッといきましょう。
戦争小説は数々あれど、オドロキの、ビックリの、トンデモの本と
いえば、はい、これ。

 

「キャッチム=22」(ジューゼフ・ヘラー/ハヤカワ文庫NV)

 

読み始めて、いったいこれはなんの話だ?と思わないではいられな
い不思議な戦争小説です。
なんの話かわからない感じで始まっているのも理由があって、だん
だんと読み進めていくうちに、お、そういうこと!となっていくの
ですが、そういう、この小説の「読み方」みたいなものに納得でき
てくるとドンドンとおもしろくなってくる。

 

主人公ヨッサリアン大尉はアメリカ空軍のパイロットで、第二次世
界大戦の末期、イタリアの小さな島の基地からイタリア本土の敵基
地に攻撃をかけなければならないのですが、戦闘が怖くてイヤなの
で、なんとか出撃を避けようとします。
なので狂気を装う。
その結果、三人称の小説なのに、最初っから小説じたいの叙述じた
いに狂いが生じてくる。まずは、「そういうこと」。

 

もちろん作者はそれを意図的にやるわけです。
そして読者には、狂いが生じているのはヨッサリアンの頭の中だけ
でなく、ほかの登場人物もみんなおかしいということがわかってく
る。じつはみんな頭のネジがはずれている。
そして最後には、軍の規律として全員が守るべき「キャッチ=22」
というのが、じつはトンデモナク狂っているということがわかる。

 

でもそんなこといったら、小説じたいが狂っているということにな
るのだが、それを言ってはおしまいになるので、言わない。
「そういうこと。」

 

すごいでしょ。
ここでは、狂気と正気、タテマエとホンネ、事実とウソがすべて表
裏一体であり、じつはそれが戦争というものの異常な真実だという
ことが、ジワリジワリと読者の脳髄に沁み込んできて、ウィルスの
ように感染させられていくのです。
怖いでしょ?

 

こうして、背筋がゾゾゾッとなるような怖さを感じることもできる
し、アハハハ、こいつらみんなバカですねー、と笑いながら読みと
ばすこともできるし、なんだこれ!?とあきれて放り投げてしまう
こともできる。ということ。

 

ちなみにこの作者の別の小説、「なにかが起こった」(角川書店)な
んて、もっとすごいですよ。舞台が戦争から家庭生活に代わってい
ますが、そこで「なにが起こったんだろう?」と思って読むと、な
にも起こらないのですから。
なにも起こらないにもかかわらず、おもしろく読めてしまうという、
その理由がわかればりっぱな文芸評論になるのですけどね。

 

たぶん「キャッチ=22」も「なにかが起こった」も、主人公たち
登場人物がすべてどこかおかしいのだけど、それはじつは、読んで
いる私たちと似ているのだ、結局みんなどこかしらネジがはずれて
いるのだ、と感じさせられるのは確かです。
「そういうこと」なのだ。だからこの作者はすごいのだ。

 

ブログ198

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第197回 2020.06.08

 

「成熟と不時着のアオハル(青春)」

 

オールタイムベストのセレクション、DJを気持ちよく続けさせて
いただいておりますワタシ、カフェマスターだぜィ、みんな、ノッ
てるかーい、YO。

 

つぎは「星の王子様」で高名なフランスの作家サン=テグジュペリ
だけど、もしキミが彼のそれ以外の作品を読んでいないのなら、そ
れはラッキーというものだぜィ、YO。
だってこれから読めるんだから。
そこには珠玉のことばが満ちているんだ。とりわけキミたち若い方
に必要な、知恵と感受性に富んだことばの数々があるんだ、YO-
YO。

 

たとえば、たまたまキミが手に取った作品が、
「人間の土地」(サン=テグジュペリ/新潮文庫)

 

なら、そこにはこんなことばがつづられているよ。
「僕ら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える理由は、
大地が人間に抵抗するがためだ。」
どうです? まるでだれかが「今日から春だ!」と告げているよう
な、清々(すがすが)しいことばでしょう?

 

主人公の「ぼく」は、第二次大戦前のフランスの定期航空便の飛行
士。当時は、安全ではない飛行機での安全ではない飛行の時代。
大きな山脈を横断することが飛行士の「記録」として残され、尊敬
される時代です。
だから「大地が人間に抵抗する」と表現されるのでした。
彼は職業として飛行士を選び、そこで「人間に抵抗する」大地につ
いて考えをめぐらしていく。

 

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなけれ
ばならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあの
ともしびたちと、こころを通じあうことだ。」
このように彼は、自分を律して鍛える作業として世界に向かって飛
び立ちます。われわれ読者も、ここにこそ人間の自由と自立の原点
がある、と感じさせられるのです。すがすがしいなあ。

 

「でもマスターさあ、こんなの、100年近く前のロマンだよ」、
って、そう言われれば、まあ、それまでだけどね。
でも、いつの時代であってもきちんとした相手(たとえば大地とか、
神様とか)と、きちんとした戦いができることってうらやましいと
思わないかい?
ある意味、大地や海や神様が人間にとても近い存在だった、人間は
全力でそれらに立ち向かっていた、そんなステキな時代だったと思
いませんか?

 

たとえば、はじめてフランスからピレネー山脈を越えてスペインに
飛ぶことになった「ぼく」は、先輩のギヨメから、ゴーデスという
町の近くにある原っぱを囲んで生えている三本のオレンジの樹につ
いて、「あれには用心したまえよ、きみの地図の上に記入しておき
たまえ」と言われる。
「するとたちまちにして、その三本のオレンジの樹が、地図の上で
シエラネバダの高峰より幅を利かすことになるのだった。」
これが大地と人間の、じっさいの戦いの姿だったのですから。

 

宮崎駿さんはこの本の「あとがき」のなかで、
「風景は、人が見れば見るほど摩耗する。いまの空とちがい、彼ら
の見た光景は、まだすり減っていない空だった」と書いています。
だからね、三本のオレンジの樹が私たちの脳裏に残すイメージの、
なんと清真に屹立していることでしょうか。

 

「ぼく」はこうして、山岳を、草原を、砂漠を、海原を飛び、それ
らと戦いながら成長していきます。
そしてこの戦いをやめる時は死ぬときなのです、飛行機乗りにとっ
て。
「彼ら、ぼくらの僚友たちは、もう永久に戻ってこないのだ。彼ら
はあれほどしばしば自らの手でその空を耕したある南太西洋の波間
に眠っているのだ。メルモス(友人の名)は、自分の仕事の背後に
隠れてしまったのだ。麦刈り男が、きちんと束に結わえあげてしま
うと、自分の畑にごろり寝転ぶように。」

 

パイロットに限らず、いずれはだれもが波間に落ちたり、「三本の
オレンジの樹」や「一軒の農家」や「三十頭の羊」の近くに不時着
することになる。それはサン=テグジュペリにとって、人間として
あるべき姿なのです。
人間の成熟には「空」と「大地」が必要なのだ。それに加えて「砂
漠」や「海原」も・・・・。

 

訳者の堀口大學は、「この本は、人間本質の追求の書である」と書
きますが、サン=テグジュペリはその意味で、私たちに「成熟」の
しかたとともに「不時着」のしかたも教えてくれたのかもしれませ
ん。

 

ひとの成熟は、不時着とともにある。
そしてその「不時着」こそは、正しく彼の文学上の先輩で「砂漠に
隠れた」ランボーにつならり、さらに、「ぼくは二十歳だった。それ
がひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい
(アデン・アラビア)」、と書いたポール・ニザンにつらなるテーマ
なのだと、強く感じました。
若者よ、これが100年前の(フランスの)アオハルだったのだ!

 

ブログ197

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第196回 2020.06.01

 

「たまにはブッたまげたい方に」

 

驚く、ブッたまげる、足がふるえる、背筋が凍る、顔が紅潮する、
腰が抜ける、魂が持っていかれる、そんな経験をすることが少なく
なりました。
とくに歳を重ねてくると「平穏」を望み「予定調和」に慣れて、
たいがいのことを「ああ、知ってる、これはこういうことね、ハ
イハイ」、と自分に都合よく納得してしまい、いい意味で驚かされ
る体験が少なくなってくる気がします(新型コロナ・ウィルスは別
にして)。

 

ところがやはり、文学の力というのは怖ろしいもので、そうやって
油断をしていると突然背後からガツンとやられることがあります。
いまだにそんな嬉しい体験(新型コロナ・ウィルスは別にして)が
あるのですから、読書はやめられませんね。
ということで、今回ご紹介するのは、それっ、

 

「シャンタラム」(G・D・ロバーツ/新潮文庫) です。

 

なんじゃこれはー! ス、スゲェー!という驚きの小説。
しかし、どうやらほぼ事実にもとづいているというから、もいちど
ブッたまげるしかありません。
文庫本三冊で計1,000ページにおよぶ長い長い小説なので、スジ
書きなどをお伝えできるはずもないのですが、少しだけ私がブッた
まげた点を挙げてみます。

 

主人公リン・シャンタラムはオーストラリア人、30歳。
あ、ここはまだ驚く所ではありませんですよ、たんに主人公のご紹
介ですからね、焦らない焦らない。
彼は自分のことをこう書きます。
「私はヘロインの中に理想を見失った革命家であり、犯罪の中に誠
実さをなくした哲学者であり、重警備の刑務所の中で魂を消滅させ
た詩人だ。」なかなかの好人物のようです。

 

ではブッたまげたこと。
武装強盗で20年の懲役刑に服していたが、白昼に脱獄してインドに
逃げたこと。ひえーっ、どうやったんだ?

 

インドのボンベイ(ムンバイ)のスラム(新型コロナ・ウィルスは
大丈夫かなあ)に潜伏し、なんと無資格で住民の治療にあたって信
頼を得ること。あれまー、なんと!

 

だれかの陰謀によって投獄されるが、インドマフィアの親分にスカ
ウトされ、またまた裏街道に戻ること。んまー、マジッすか!

 

その親分の意を受けて、なんとソ連占領下(1983年ころ)のアフガ
ニスタンに行って戦うこと。うわっ、そんなのあり?
いったいなんだ、この展開は!と、みなさまにもいちいちびっくり
してほしいです。
しかし、読者がそうしてびっくりしているあいだに、主人公はイン
ド人の間で、とりわけスラムでの生活や裏社会のシノギの中で、精
神的に成長していくのです。

 

そうなんです、オーストラリア人のろくでもない若い犯罪者が、人
間として成長するには文庫本にして1,000ページの冒険が、いや失
礼、犯罪と脱獄が、いやいや失礼、血と涙が、正義と悪が、そして
信頼と裏切りが、罪と罰が、贖い(あがない)と赦しが、必要なの
でした。
そのすべてがここにある。

 

自分の知らない世界がたくさんあると知らせてくれる。
その世界に素手で触れているという感覚をもらえる。
そのようにしてブッたまげさせてくれる。
その意味でこれは、わがオールタイムベストに入るべき「冒険小説」
でした!

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第195回 2020.05.25

 

「だれにも自分だけの役割がある」

 

はーい、どんどん行きます、わがオールタイムベスト。
もちろん気分も上々! つづきましては、ヨイショっと、

 

「オウエンのために祈りを」(ジョン・アーヴィング/新潮社)

 

をお送りしましょう。
作者ジョン・アーヴィングは、アメリカの現代作家の中では珍しく
長編を数多く産みだされている方です。まだご存命ですね、はい。
「ホテル・ニューハンプシャー」「ガープの世界」「サイダーハウス
・ルール」など、映画化されたものも多いですね、はい。

 

彼の作品には、映像化したいという映画監督の気持ちをくすぐる要
素にあふれているのかもしれません。そして俳優も、演じてみたい
キャラクターを見つけやすいのかもしれません。
私はこれらの原作を読んで映画を観たのですが、逆に映画を観て原
作を読んだという人の気持ちもわかる気がします。

 

なかでもこの「オウエンのための祈り」は、映像化のネタだけでな
く、作家の「良いところ」がすべてあらわれているような気がして、
さらに主人公が少年だということもあり、アーヴングのなかでも私
のもっとも好きな作品です。
作家の「良いところ」とは何ぞや?といったご質問の声もおありで
しょうが、そのへんはいまのところ「なあなあ」にしておいてくだ
さいまし。

 

さてこの「オウエン」ですが、語り手ジョニーとその親友オウエン
・ミーニーのダブル主演。ふたりとも中学二年生(?)で、中二病
の真っ最中。
オウエンはいわゆる発育不全による五歳児ほどの小さなからだの、
「異星人みたいな」へんてこな声の男の子。
だから同級生からは差別され、いじめられている。でも彼はへこた
れたりしていないし、親友のジョニーがいる。

 

しかしあるとき、オウエンはある事故で親友ジョニーの若く美しい
母親を死なせてしまうことになる。
小説の出だしはこうです。
「つぶれた声を持つ一人の少年を、ぼくは終生忘れられないと思う
が、それは別にその声のせいではないし、彼がぼくの知る一番小さ
な人間だったからでもない。母の死に彼が関与していたからですら
ない。ぼくが神を信じる理由が彼にあるからなのだ。」

 

まあ、こんなふうにお話を始められたら、どうしましょう。
それはいったいどういうこと? どうしてそうなるの? 次はどう
なるの? と、子どものように続きを聞きたくなるじゃないですか。
オウエンのつぶれた声と小さなからだというハンディキャップには、
必ず意味があるはずだ。なにかの役割があたえられているはずだ。
それはいったいなんだ?と訊きたくなるじゃないですか。

 

ところで、アーヴィングの小説の特徴(良いところとは限らない)
にはいろいろあるのですが、ひとつには、いつもなにかしら「奇妙
な予定調和」がある、ということに私は気づいていましたね。
最初に提出された謎やほのめかしはかならずどこかで回収され、さ
さいなエピソードにも必ず意味がある。

 

読み進めていって、おお、あれはこういうことで、これはそういう
ことだったのねと、読者はきちんと納得させられるのです。ですか
ら、読み進めていく側には「安心感」のようなものが芽生える。
そこはなんというか、良し悪しではなくて、作家の手くせというか
サービス精神みたいなものでしょうか。
このへん、「ナウシカ」とは正反対に、「つねにアーヴィングという
万能の作者がいて、彼が筋書きと登場人物を動かしている」、とい
う作品であると了解しておいていいのかもしれません。

 

この「オウエン」でもそれはおなじです。
ただそれは、ハッピーエンドとはちょっと違う感じの「調和」です。
それは、、、そうだなあ、「大団円」ではないし、「運命」とも違うし、
宗教とか、「神や信仰にゆだねる無力な人間」というのともやや違う。

 

なんだろうな、いってみれば、日常生活の中にいきなり現われてし
まうゴジラのような亀裂(事件)があるのだけれど、それさえも飲
み込むような大きな川の流れがある。
あるいは、作者はその流れを信じていてそれを書こうとしているの
だという感触です。
けっこう奇想天外なエピソードを語りながら、にもかかわらずそう
いう流れをつくりだすテクニックに優れて、読者に信頼されるのが、
アーヴィングの「良いところ」だと私は思います。
わかりにくい表現ですみません。

 

でも、ここをちょっと深堀りしてみましょうか。
もしかしたら、アーヴィングは「おとぎ話」への指向が強い作家か
もしれません。
私たちは、布団の中で「むかしむかし、こんなひとがいてね、こん
なことをしたんだって」と彼が語る物語を聞くことになる。それは、
なにかに抱かれて眠くなるような感覚をもらえるお話。

 

「おとぎ話性」については、批評家の中沢新一さんがこんなふうに
言っています。
「おとぎ話の外の世界を支配しているのは、計算したり、打算的な
ことを考えたり、ものの善し悪しを自分の利害で判断したりする心
の働きだ。(中略)ところが、おとぎ話の世界を支配しているのは、
絶対的な善良さへの信頼と、ものを打算で判断しない贈与の精神な
のだ。」

 

そうだ、世界は矛盾と危険に満ちているし、神様は私の願いを優先
的にかなえてくれるわけではない。でもなにか善なるものがある。
これがまさしく、このオウエンの物語の底に流れているのと同じ世
界観だと思います。この、中二病の悪ガキなのに、絶対的な「善良
さ」と「贈与の精神」をもつオウエンの物語に。

 

そして「なにかとてつもなく純粋な力が、打算や思惑や世間の常識
などと言う愚かなものによって阻まれて、流動にとどこおりが発生
したりする事態を、なんとかとりのぞいていこうという意志」が、
おとぎ話を動かしている(中沢新一/音楽のつつましい願い/筑摩
書房)、と言われるならば、まさしくその調和への意志こそがこの
小説の主題なのだと思います。

 

だから読者は、この物語での「オウエンのための祈り」とは、神様
への祈りや願いではなく、ただただ「自分の役割をきっちり果たし
たオウエンのことを想う時間」のことであり、それが「私も自分の
役割に出会えますように」という祈りにつながるかのような感触を
持つことができる。

 

そう、それが私たちにできるすべてのことなのだ、と作者は言って
いるように思います。
「神様、彼に会ったら、よろしく伝えてください」と祈ることが。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第194回 2020.05.18

 

「厳選されたセリフの凄みをお楽しみください」

 

新型コロナの影響で図書館も閉まってしまい、家にある本を読み直
している方も多いことと存じます。
ということで、どんどん続けます、わがオールタイムベスト、続い
てはって、こっちはだんだんDJをやっているような楽しい気分に
なってきましたが、、、、次の曲は、えいっ!

 

「ロング・グッドバイ」(レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳
/早川書房)

 

です。なんとなんと、すばらしい作品がセレクトされました。
やっぱり、いい曲、失礼、好きな小説をご紹介するのは気分のいい
もんです。 
これはもう、厳選されたセリフの凄みがまさにハードボイルド中の
ハードボイルド。探偵小説の大家チャンドラーの1953年の作品です。

 

チャンドラー作品が大好きだ、という方は多いでしょう。
好きな方にはあらためてその魅力をお伝えするまでもありません。
ですのでここからは、まだ読んでない方のために、チャンドラーの
表現の凄みを村上春樹訳で、ほんのすこしだけお伝えすることにし
ますね。
それだけでリッチな気分! ヒアウィーゴー! チェキイッナウ!

 

私立探偵フィリップ・マーロウは、ひょんなことから億万長者の娘
シルヴィアの夫、テリー・レノックスと知り合い、友人になる。
こいつ、いいヤツなんだけど、酔っ払いだし、なにかウラがありそ
うだ。

 

酔っぱらったレノックスを見て、そこにいた女性がマーロウに言う、
「おうちを見つけてあげてちょうだい。トイレのしつけはできてい
るから--おおむね」。
ウヒャ、こんなこと言うんですよ、レノックスの美人の元妻は。

 

つぎは、男同士の会話。
テリー「僕は君を退屈させている。というか、僕は僕自身をすら退
屈させている。」
マーロウ「僕は退屈していない。私は修練を積んだ聞き手だからね。
なぜ君がお座敷プードルのような生活を好むのか、そのうちに理解
できるようになるかもしれない。」
ウヒャ、マーロウもこんな言い方するんですよ。

 

しかしレノックスは妻殺しの容疑をかけられ、自殺してしまう。
「彼はあまりにも深く喪われてしまっているので、ときとしてそん
な人物は現実には存在しなかったのではないかという気がするくら
いだ。彼女が頭の中で弄ぶために、架空の人物をつくりあげたんじ
ゃないかとね。」
はたしてその真相やいかに! ま、スジ書き紹介は不要ですね。

 

そしてお待ちかね、ハラハラドキドキ、格闘シーンも。
「しかし相手の狙いは私の右の手首だった。彼はそれを掴んだ。握
力もなかなかのものだ。彼は私をひねり、バランスを崩させた。ブ
ラス・ナックルをはめた拳が大きな弧を描くパンチとして繰り出さ
れた。」

 

さらに怪しげなヤツ登場、ウラにはウラのウラがある。
「彼は面白くもなさそうに笑った。『正しい相手に向かって、間違っ
たことを言う性分なんだよ』と彼は棘のある声で言った。『何か言い
分はあるか?』」
マーロウ「自分がごまかされているときは、匂いでわかるんだ。相
手が隠しごとをしているときもな。調子に乗っていると自分の足を
踏んづけることになるぜ。」

 

それから、登場する女性は、みんな美人で妖艶。
「私は(彼女を)じっと見ていた。その視線を彼女が捉えた、でも
彼女が一センチばかり視線を上げると、私の姿はその視野から滑り
落ちた。しかしなにはともあれ、私は息をのみっぱなしだった。」

 

そんな探偵フィリップ・マーロウの頭の中は、たとえば、
「もし私が質問し、彼が答えていれば、あるいは二人ばかりの人間
の命が救えたかもしれない。しかしそれはあくまで『あるいは』で
あり、どこまでいっても『あるいは』でしかない。」
「彼は明らかに何かになりきっている。何かのふりをする人間は、
いろいろとほかのふりもするものです。」

 

あるとき、警察とトラブったマーロウ、
「大都会では警官と握手はしない。握手するほど親しくなることは
ない。」「警部は更に深く私の方に身を屈めた。汗と腐敗のにおいが
鼻をついた。」
チンピラにすごまれたマーロウ、
「昨日の夕刊と間違えて、君の顔を踏みつけないように気をつけな
きゃな。」
ややしんみりとするマーロウ、
「夜はとてもしんとしていた。おそらくは死者からの手紙がいずこ
からともなく沈黙を招き入れたのだろう。」

 

・・・そしてラスト近くでの、この決めぜりふ、
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」
クーッ!決まったー。たまりませんなっ! ドントミスイット。

 

あ、言い忘れてましたが、探偵マーロウの例の名セリフ、「タフで
なければ生きていけない。やさしくなくては生きている資格はない」
は、残念ながらこの小説ではなく「プレイバック(清水俊二訳/ハ
ヤカワ文庫)」の方ですので、お間違えのないように。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第193回 2020.05.11

 

「わがオールタイムベスト ~とっても真面目な小説」

 

だれも君にそんなこと頼んでいないよ、というお声がするのは重々
承知のうえで、私にとってのオールタイムベストの小説のご紹介を、
再度させていただきたいっ!
と、そんなに肩に力をいれることもないのですが、当然ベストテン
入りする「ナウシカ」のことを書いていたら、ムラムラッとそうい
う気分になってしまいましたので、あしからずお許しください。

 

ということになると、
「クオ・ワディス」(シェンキェービィチ/岩波ワイド文庫)

 

は、お若い方にぜひとも読んでいただきたいと思う本のひとつです。

 

お話は紀元一世紀中ごろ、皇帝ネロの時代のローマ帝国。
そこでのローマの若き貴族と異民族皇女の恋の物語・・・なんてい
うと、こりゃもうたいへんな大河ロマンのはじまりはじまり、にな
りますよね、普通は。
だれもが、映画「ベン=ハー」とか「クレオパトラ」「グラディエ
ーター」なんかを想像しますよね。

 

じつに、こうしたハリウッド大作映画がこの小説をパクッた部分が
たくさんあるといわれるのには、もちろん理由があって、
・栄華を誇った一世紀中ごろのローマの貴族階級の生活と陰謀術策
・ベルディのオペラにありそうな豪華絢爛スペクタフルな宮廷生活
・皇帝ネロのとんでもない暴政と元祖ポピュリズムの描写
・闘技場でおこなわれるグロテスクで残虐な闘いの見世物

 

などがくわしく描かれるという背景があるなかでの、
・宮廷や政治に翻弄される男女の恋愛とそれが巻き起こす事件
という、もうだれでも頭の中で自分なりの古代ローマ(それがたと
え「テルマエ・ロマエ」でも)を思い描いてしまう、そういう小説
だったからなのでした。

 

とりわけ、ローマ貴族の生活のディテールや、奴隷とか解放奴隷っ
てどうなのよとか、大帝国を運営する皇帝と元老院の緊張関係やい
かにとか、貴族の晩餐で交わされる知的で退廃的な会話の真髄とか、
おいおい、あなたそこで見てたのかよ、と言いたくなるほどにリア
ルな描写がこの小説の持ち味です。
これを解説者は、「歴史再現力がすごい!」と表現しています。
いいことばですね、「歴史再現力」。

 

ということでこれは、歴史とくに古代ローマ好きの方やギリシャ・
ローマ文明に興味のある方だけでなく、ハーレクインロマンの愛好
者からハリウッド映画好きまで、多くの方にお勧めできる小説とな
っています。

 

ところがあなた、あにはからんやこの作品、そんな上っ面の面白さ
だけでは終わりませんのですよ。
19世紀末という「人間が真面目だった時代(あくまで私の個人的意
見です)」の、いかにも「真面目な国ポーランド(個人的意見です)」
の、「真面目そのものの作家(諸説あります)」であるシェンキェー
ビィチさんとしては、ヘタをすると俗に流されかねない歴史大河ロ
マン(当社比です)において、大きな主題としたいことが別にあっ
たのでした。

 

このへん彼も、少し前の世代の真面目な文豪、ユゴーやトルストイ
を意識したところがあったかもしれませんね。
その大きな主題というのが、
・奴隷や貧しい人たちの間での初期キリスト教の広まり、であり
・迫害されるキリスト教徒の悲惨な虐殺の描写、であり、
そしてなんといっても、それらのハイライトとしての、
・ローマにおける使徒ペテロとパウロの殉教、なのでした。
これこそ彼が描きたいものだったのです、歴史再現力を駆使して。

 

だから私たちは、豪華と悲惨、陰謀と純心、罪と罰、世俗と信仰な
どという、19世紀小説にありがちな両極の葛藤に心地よく巻き込ま
れつつ、小説の終盤にある、再臨したイエスにたいする「クオ・ワ
ディス・ドミネ(主よ、どこに行くのですか?)」ということばに
よって、それまでワイン片手に物語をほろ酔いで楽しんでいたとこ
ろを、ガツンと目覚めさせられるはめになります。

 

そしてこれこそが、真面目なシェンキェービィチさんの「大真面目
な策略」だったとわかるのです。

 

ブログ193

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第192回 2020.05.05

 

「ナウシカ、ナウシカ、ナウシカ」

 

当ブックカフェで、お客さんによく読まれる本に、
「風の谷のナウシカ(全七巻)」(宮崎 駿/徳間書店)があります。

 

たぶん、アニメ版の「ナウシカ」を観たことがあるのだろう方が、
「ん?」という感じで本棚から手に取られて読み始め、途中でやめ
られなくなるという風情で読まれています。
次のご予定を気にしながら全七巻のうち途中まで読み、時間が無く
なって名残惜しそうに帰られたり、あるいは半日ねばって全巻読み
終える根性のある方を、私は何人目撃したことでしょう。

 

「傑作だからしょうがないよね。」そうなんです。
1994年ですから26年前の刊行なのにもかかわらず、そこにある大
きなテーマと、とてつもない想像力に支えられたストーリー展開に
引き込まれ、途中で読むのをやめられなくなるのです。

 

私は読み直すたびに、とりわけ2011年のフクシマ原発の事故によ
って「人の住めない土地ができてしまった」世界、を先取りした宮
崎駿さんにびっくりさせられるのです。

 

「いずれにしろ、こういう傑作に対しては解説は要らないね。」
そうなんです。というか、どんな解説をしたとしても、「原作負け」
してしまうことになります。
「原作負け」なんてことばはないですけど、どう掘っても掘り切れ
ない深い鉱脈のようなもので、掘る側はさいしょから負けを覚悟の
戦いを挑むしかないのではないかと。

 

「ナウシカ考」(赤坂憲雄/岩波書店)

 

ところが、ワシがそう言ってるそばから、こういう解説本を出すん
だからなあ。やめときゃいいのになあ。強烈なパンチを浴びたら、
そこできちんと負けを認めてほしいものだがなあ。
稲葉振一郎さんの「ナウシカ解読」(勁草書房)も負けたのになあ。

 

いえいえ、誤解なきように。
もちろん筆者は見識あるりっぱな民俗学者なので、その見地から出
せる反撃のパンチがあると踏んでのことだと思いますが、それでも
やはり苦戦を強いられています。

 

というのも、
「わたしにとって『ナウシカ』は、まさしく一篇の思想の書として
読まれるべきテクストである。そこには宮崎駿という思想の到達点
が、あくまで可能性の種子として投げ出されている。」
ね、ここらへんで、もうダメでしょ? 

 

「思想の書として読まれるべきテクスト」というあたりで、もうダ
メでしょ? そうなんです。ちょっとガード高くして戦うからねー、
って言っているみたいでしょ? 
「思想の到達点とか可能性の種子」っていう表現も、オレ、がんば
って12ラウンド戦うぞー、負けるな自分、とか思いながら書いて
いる感じがしますでしょ?

 

違いますよ、私は、筆者をけなすつもりはまったくないのです。
とてもまじめな研究であることは確かですし、なによりこの本を読
んだおかげで、私もまた「ナウシカ」全七巻を読み直してしまった
のですから。
というのも、こうした評論の評価のポイントとして、解説されてい
る本を読みたくなるかどうか(解釈すべきテクストとしてではなく、
あらためて新鮮な気持ちで)、という点があるとしたら、この本は
そのお役目を立派に果たしてくれたのですから。

 

とくに筆者が、「(「ナウシカ」には)思いがけず語り手の影が希薄
である」とするあたりは、私も、それはたしかに重要なことかもし
れないと思い直しましたね。
「宮崎駿という作者自身が、この物語世界を外部から予定調和的に
抑え込んでいるようには見えない」というのです。つまり、作者が
全能の神様として全部のお話を取り仕切っているのではないのでは
ないか、というのです。
ほんらい作者とは、なにをどう描いてもいい「全能」のはずなのに。

 

わかりにくいですか?
筆者が言うのは、作者宮崎駿は、まず「火の七日間」という核戦争
の後の「人の住めない土地」ができてしまった物語世界を立ち上げ
たが、それを語りはじめたところ、あらまあ、なんということでし
ょう、作者の当初の構想で進めるはずの物語が、ナウシカをはじめ
とする登場人物たちが、作者の手を離れていつのまにか勝手に動き
始めてしまったようにみえる、というのです。
登場人物たちは、もはや全能の作者のいうことを聞いていないと。

 

これはもう、全面的に筆者のいうとおりだと思います。
そうなんです。そう感じられる、だからこそ「ナウシカ」は傑作な
んです。
だからこそ登場人物が、まるで自分の意志で動いているかのように
イキイキと活躍し、読者はそれを、まるですぐそばで見ているよう
な気持で読めるのです。
だからこそ子どもから私のような年代の大人まで、だれでも何回で
も読み直してワクワクさせられるんです。それは学者さんでもプロ
の評論家さんでも同じで、もう、しょうがないことなんです。

 

ところがしかし、そこで「なにか」を自分のなかで腑に落とそうと
してことばを綴ったり、多少でもポイントを稼ごうとしてナウシカ
以前の作品をもちだして比較したり、ドストエフスキーをポリフォ
ニー(多声音楽)として解読したバフチンを引き合いに出したりし
てしまうといった「手くせ」というものが、「評論家」にはある。

 

さらに作品を、現代の「思想」として解説しようとか、その行き先
と到達点を見出そうなどという、「自分の読解力で当該作品の評価
の道しるべを立てたい」という願望がある。
そのあげくに、あらら、かわいそうに、作品に返り討ちにあうこと
になるんです。筆者も解読のつもりで、結局作品をたんになぞって
しまうことになりました。残念です。

 

でもそこのお客様、そう、そこの、「ナウシカ」を途中の巻までし
か読めなかったあなた。解釈や解読の努力などうっちゃっておいて、
それと新型コロナなんかに負けないで、またカフェにおいでになっ
て原作の続きを最後まで楽しんでくださいね。
お待ちしています。

 

ブログ191

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第190回 2020.04.28

 

「国家と社会と個人、自由と寛容と幸福のバランスを」

 

カフェのなかで「リベラル」とか「保守」とかのことばは、あまり
使われることはありませんが、国家と社会と個人、そして自由と幸
福についてもう少し考えるならば、こんな本もあります。

 

「自由の命運」(アセモグル/ロビンソン/早川書房)

 

まず現在の世界の国々を見てみよう。
中国やロシアは権威主義的な国家運営をしている。
また、インドやトルコのように、経済的に発展途上で複雑な内部事
情をかかえている国は、これも国家安定のために、権力を強めて独
裁的な運営をしている。
(もちろんシリアやハンガリーもそうです。北朝鮮?忘れてた!)

 

いずれの国においても個人の自由はおびやかされ、リベラルな民主
政にはほど遠い。
(ハンガリーのオルバン首相なんて、「民主主義に自由はいらない」
と言ったそうです)

 

しかし国民は個人主義的に自分の幸福を追い求め、父権的な国家の
やりかたに満足している。
(むしろ、たとえば国家的な事業の推進とか、新型コロナウィルス
の封じ込めとかには強い権威が役立ったと胸を張っています)

 

いっぽう、イギリスやアメリカのように、歴史的に個人の自由を尊
重しつつ民主政をしいてきた国でさえ、ポピュリズムの台頭によっ
て個人の自由が侵害されている。
(そして既成の政治を腐敗していると批判し、昔の良い時代の栄光
を追ったり自国ファーストの愛国主義を煽ったり、外部に敵をつく
って国民を扇動したりしている。悪い意味での「保守」主義です)

 

心配だ、とても心配だ。われわれはどうしたらいいのか?
(なおカッコ内は、筆者の意見を受けた私のひとりごとでした)

 

結論。
われわれが歴史から学べることは、「国家」と「社会」と「個人」
がバランスよく発展しなければならないということだ。歴史上、衰
退した国家では、必ずこのバランスが崩れていた。
そのために、ではどうしたらいいのか。
それにはとりわけ「社会」の側にやいて、強い市民社会を構成する
個々の連携が必要になる。具体的には、企業による市場での自由な
経済活動だけでなく、自律的な個人をあつめた各種組合や中間団体
の役割を高めなければならない。

 

それらが「国家」と「個人」のあいだを埋める。
個人か国か、自由か幸福か、どちらかに片寄ろうとする流れを是正
することになる。
各種組合や中間団体が高い生産力をもって、積極的に政治参加する、
いわゆるボトムアップによって、専横的な国家では「強くなり過ぎ
た国家権力」を制限する体制をつくるべきだ。
いっぽう、個人の自由に片寄った国では、それによりポピュリズム
の流れをせき止めることができる。

 

じつは「個人の自由」は、こうした諸力によってつくられる「国家
と社会のバランス」のうえで、ようやく実現されるはずだ。
そしてこのバランスの上では、「自由」と「幸福」は(「リベラル」
と「保守」も)二者択一ではなくなるのだ。
民主的で平等で寛容な国家と国民は、こうして創られ栄えていく・・・

 

・・・はい、ものすごく簡単に要約しました。
やや抽象的になりましたが、この本には多くの事例が載っています
から、歴史上の多くの国家の衰退理由とともにとてもおもしろく読
むことができます。

 

ついでに申しあげますと、中国ではなく西洋において近代化が進ん
だ理由というのも、つきつめればこの「バランス」の有無にありそ
うです(しつこいなあ)。

 

筆者は、ヨーロッパにあった「集会と合意的意思決定の規範(参加
型の統治形態)」や、「キリスト教から取り入れられた国家制度と政
治的階級(法秩序と官僚制度)」というものが伝統と遺産となって、
国家と社会というふたつのバランスをつくる要因になったと紹介し
ています。
つまり、民主的な会合やワイロのない清潔な官僚制などが、「国家
(公)」と「個人(私)」のバランスを下支えしていたというのです。

 

もうひとつ、以前に触れた、中国ではなくイギリスで産業革命が起
こった理由についても、
「中世にイタリアのコムーネ(都市共同体)がイノベーションと経
済成長を下支えするようになった理由と同じだ。それは、(国家と
社会とのバランスが取れた結果)人々の自由と経済的機会が拡大し
た」ことによるのだ、と書きます。

 

そういえば、「国家主義に対抗できるのは個人主義ではない」、とい
う主張をされる方もおらました(内田樹さん)。
国家対個人では、とうてい勝負にならない。個人はいつでも負ける。
リベラルであろうが保守であろうが、それは同じだ。

 

国家に対抗できるのは「小さな共同体」であり、それはコムーネで
あったり村落共同体であったりテーマNPOであったり宗教団体だ
ったり各種組合だったり、いろんな形態の中間団体たちであり、
「ひとの集まり」の「集まり」である。
これらが「強い市民社会を構成する個々の連携」の好例となる。
アセモグルさんも汗をモグリながら、こう言うのでした。

 

国家と社会と個人のバランスをとること。
オーケー。私も今後、なにを見るにつけてもこの「国家と社会と個
人のバランス」を視点に判断するようにしよう。
そして、たぶん筆者の強調する「社会の強化」とは民主主義の強化
にイコールなのだから、それを観察する視点として、合意形成の方
法(熟議)、清潔な官僚制度、中間団体の活動、社会関係資本の発
展、各種の共同体の成熟、などを持つことにしましょう。
だって、カフェは「社会」の真ん中にあるのだから!

 

以上。それではまたお会いできる日を楽しみに! 

 

ブログ190

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第189回 2020.04.21

 

「リベラルと保守、その違いってわかりにくい」

 

そうこうしているうちに、たとえば評論家の中島岳志さんが、「リ
ベラル保守」という云い方をされているのを見て、それには私、少
なからずビックリさせられました。

 

あれっ? リベラルと保守って、あい反する主義じゃなかったんで
すか? それだとリベラルという食パンに保守という納豆を乗せた
ようになっちゃいませんか?
このところいろいろお勉強したので、だいぶ頭の整理ができてきた
と思っていたのに、まーたわかんなくなっちゃったなあ!
そもそも保守って、あまり個人の自由を認めず、士農工商とかカー
ストとかの階級区別も容認しつつ、伝統的な価値観で生活しようと
いう守旧派の人たちのことではなかったのですか?

 

「リベラル保守」(中島岳志/新潮文庫)

 

中島さんは、いやそうではないのだとし、フランス革命を批判して
国家統治の斬新的な改良を訴えたエドマング・バーグを援用して、
「リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守
思想家こそ、自由を援護すべきだと考えている」、とい言うのです。
納豆こそが食パンに合うのだと。ちがうか。

 

というのも、もともと保守にとって重要なのは、「(自由主義のよう
な)『あらゆるものからの自由』ではなく、『自分であることの理由
(今でいうアイデンティティ)』の意識化」だから、なのだそうです。
どういうことでしょうか。

 

バーグが愛する自由とは、孤立したバラバラの個人の「利己的な自
由(ワシ、なにしてもいいんだもんねー)」ではなく、「社会的に抑
制された自由」というものでした。
「社会的に抑制された」とは、私たちはもともと母語や教育、地域
社会や育った環境、貴族とか農民とかの出自などによって規定され
て生きているということで、その社会の中で長い年月をかけて育ん
できた、常識にかなった道徳的で規律ある自由っちゅーのがあるべ
きなのだ、というのです。

 

われわれ納豆は、大豆の一粒として単独で生きているのではない。
となりの豆とネバネバ菌でつながり、藁で包まれて、出されて混ぜ
られてご飯と一緒に食べられる、という条件のもとで生きる。
だから、そのような自己として「自分であることの理由の意識化」
ができれば、人間は自由になれるのだし、それによってのみ自由で
いられるのだ、だから保守主義こそが自由への道なのだ、と。

 

なるほど、ここにはまた、「コミュニタリズム(共同体主義)」のよ
うな、ほのかな納豆菌の香りもしていますしね。ちがうか。
バーグが主張したのは、
「伝統的な固定観念の中にこそ叡智が宿っており、歴史的に受け継
がれてきた暗黙知を尊重してこそ、人々の本当の自由が保持される」
ということだったのです。

 

曰く、あのなあ、声高に自由を主張して暴力的に革命を起こしたっ
て、なにも変わらないよ。まったくフランス革命のバカタレどもめ
が。それじゃあ、おまえたちのいう「本当の自由」なんか得られな
いし、「本当の自分」もわからないんだ。おまえたちは、じつは逆
にアイデンティティを、チィチィ鳴きながら失ってしまったのだ。
なーにが「自由・平等・博愛」だっつーの! 納豆は納豆としての
立場を大事にするところから始めなきゃならんのじゃ。

 

だから、わがイギリスのように、いままでの経験を大事にして歴史
に潜む叡智を継承し、王様は王様として、貴族は貴族として立てつ
つ、みんなでコモンセンス(常識)を磨きながら、少しずつ改革を
進めるべきなのじゃ。「長いあいだ持続してきたことには、それなり
の意味がある(西部邁)」っていうではないか。わかったか。
なんども言う。革命だのなんだのとバカ騒ぎをして我を忘れ、自分
の自由だけ主張して他人を疎外・迫害しているリベラリストのおま
えたちには、「本当の自分」の「本当の自由」など、発見できんぞ。

 

と、ここまでがバーグさんのご高説のなぞりでした。強い主張だ!
で、ここからは、それを踏まえての中島さんの主張。
ところでリベラルとは、人権を尊重し、人々の自由と平等をめざす
思想だったはずだね。だから寛容という「異なる他者を容認するた
めの社会的ルールや規範、常識の体系」が、もともと埋め込まれて
いるはずだ。そうだね。

 

そして、人間はほんとうの自由を得なければ、異なる他者を容認す
る寛容性など持てるはずがないではないか。そうだろう?
ということは、いいかね諸君、だからこそ、常識や歴史や漸進的な
改革を大事にする、バーグの「保守主義」のやり方こそが、本当の
自由・平等・寛容への道なのだ、わかったかね。

 

はい、先生、わかりました。
っていうか、まずもって、リベラルか保守かなんていうレッテルは
どうでもいいことなんですよね。だから、中島先生のおっしゃる本
質論はごもっともと感じたしだいです。
ただ先生も、保守思想家こそ、自由を援護する「べき」と言ってい
るので、現状はそうなっていないということもあるのでしょう。

 

さらにここからは私の感想ですが、「道徳」とか「規律」、「歴史」
「常識」「伝統」ということばが出てくると、それを聞いただけで
「保守」というより「右翼」とか「反動」に聞こえてしまうので困
るのです。

 

なんででしょうね? 
もちろん私の偏見なのですが、保守とか「本当の自分」ということ
ばに、なぜか「ふたたび偉大にする」とか「○○をとりもどす」と
いうだれかさんの標語のような懐古趣味や愛国主義、あるいは自分
ファースト・自国ファーストなどの匂いを感じてしまうのです。
昔は社会の道徳や家族の絆が生きていたとか、お年寄りを大事にし
たとか、みんな苦労して一生懸命働いたもんだとか、そんな囲炉裏
端の嘆きと憤りをも感じてしまいます。

 

もしかしたら保守主義のこういうあたりが、いまの日本では自民党
や日本会議の憲法改正案と関連してきて、「リベラル」からはちょ
っぴり不気味にみえるのかもしれないですね。
私は、いまの日本の「保守主義者」にかぎれば、「歴史の中の叡智」
や「培ってきた常識」を大事にする人たちとは思えないのです。

 

むしろ自分たちだけが自由で正しいという不寛容な精神をもち(あ
ら、リベラルと同じだ!)、古い価値観による道徳至上主義で、でも
成功体験があるもんだから自分に優しく他人に厳しく、不平等を容
認して公正さをあざわらい、内向きの愛国的精神が強く、天皇を利
用しようとしたりする、つまるところ「保守」なんかではなく「保
身」主義の「権力」主義者が多いと思うんです。

 

・・・って、まあずいぶん偉そうに悪口を並べて、方向ちがいの誤
爆をしてしまいましたなあ。元に戻れるか?

 

ブログ189

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第188回 2020.04.13

 

「しかしながらリベラルは弱し!」

 

リベラルとは「個人の自由を尊重」し、さらに「他者による制約や
支配から解放されて自己決定できる人のことであり、逆に他者の意
見や生き方への寛容さと公平さをもつこと/人」、でありました。

 

そんなリベラルですが、中国を筆頭に多くの権威主義的国家の台頭
をみるにつけ、そして民主政の国が力を弱めるにつれ、人々が自分
の自由を国にさし出して身の安全と幸福を求めるようになったこと
が疑われています。
てゆーか、「みんな中国みたいになってんじゃね?」ということで、
となると、「リベラルなんて、そんなもん終わってるんじゃね」、と
いわれるようになりました。

 

さらにもう一点、リベラルには、経済や財政の観点が抜け落ちるこ
とが多い」ともいわれています。
つまり、リベラルは権利擁護のための寛容や公平を実現するために、
大盤振る舞いを主張するが、分配すべき「社会経済的なパイ(原資)」
が縮小しているときには、それはできないのです。

 

たとえば「いつ自分もそうなるかわからないから、うちらも移民や
難民を受け入れたほうがよくない?」というリベラル的な考えは、
財政が苦しいときには、だれからも賛成されにくい。 

 

そんな、苦境に陥ったリベラルについて、私の心をよりピンポイン
トで指してきたのは、

 

「なぜリベラルは敗け続けるのか」(岡田憲治/集英社)

 

の筆者の、ひとりごとのようなご意見でした。
筆者は、自分はリベラルとして政治的な意見をいい活動してきたけ
れど、その歩みはやはり連戦連敗だったと反省をするのです。
どういうことか。

 

自分たちは、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪などの成立を許し
てしまった。これらの法律は、自分の「リベラル」という立場から
すると、自由や権利を制限するものとして容認しがたいものだった。
でも結果は負けた。
また、女性活躍や差別撤廃、ハラスメント防止や地球環境・生命倫
理・LGBT・原発廃止などの分野についても勝てていない。

 

なぜ自分は敗れ続けるのか。なぜ自分たちリベラルの主張する意見
は通らず、デモも書名も運動の成果には乏しく、反対する法律の成
立を許してしまうのか? 

 

それは、「私たちは、まったくもって『子ども』だった」からだ。
反対するだけの反対派だったからだ。
だから「リベラル」は、「清廉潔白で、心もまっすぐで、(中略)時
に『己に非なし』とするほど傲慢でかたくな」な人たち、などと世
間さまには映っているんだ。

 

そうかもしれません。たしかにリベラルは、自分たちのことを清廉
潔白だと思っているように見えるときがあります。
萱野さんも、「リベラルは現実を直視しないで、耳あたりのいい、
いっけん正しそうな主張ばかりする。そしてみずからを正義の代弁
者だと思い込むことが多く、実現しにくい主張を声高におこって嫌
われる」として、「リベラルは正義ぶる」と言っていましたね。

 

そこで筆者はこう続けます。
しかしそれでは多くの友だちはできないし、影響力ある「多数派」
はつくれないということがわかった。コメンテーターの進歩的文化
人じゃないんだ。そこをきちんと反省しよう。
まったく、「リベラル派の人間たちが自分たちのご都合主義に無自
覚なまま、独善的に『正義』を掲げるという『にぶさ』に、多くの
人がうんざりしている」と言われてもしょうがないのだ。

 

日本の野党を見ろ。リベラルとかいいながら、そんなふうに心が固
まっているから、負けてばかりいるんだ。
そして、「負けることにあまりに慣れすぎて負けグセがつき、負け
ることにカタルシスさえ覚えるような『心のこじらせ方』をしてし
まっている」のだ。
これではまるで阪神ファンだ(これは私の意見)

 

自己決定できる自由で自立した個人であることは、たしかに良いこ
とだ。
また、他者への寛容さをもち、社会の公平さを望むのも良いことだ。
だからといって、私は正しいのだと威張っているだけじゃヤバい。
それでは権威主義者やポピュリストや官僚エリートには勝てない。
国全体がナショナリズムや権威主義に傾くのを阻止できない。
やたら正論を振り回したり、第三者的に反対意見ばっかり言ってい
ても、やみくもに原発反対とか共謀罪阻止を掲げてもダメなのだ。

 

じゃあどうする?
もっとエゲツなく、ゼニカネや経済政策を話そうじゃないか。
リベラルというより、「リアリズム」に徹しようじゃないか。

そのうえで、自分たちの意見を多数派にしていくプロセスをつくり、
異なった意見をもつ人たちとの熟議の場をつくり、具体策を練り、
さらにそれを法案作成につなげようじゃないか・・・。

 

・・・と、こうした著者の主張を聞いて、私は異議なしです。
だって社会の諸問題は、話し合いの基盤を整えるところから始めな
ければならないのですから。そのとき、主義や立場の違いなどはあ
たりまえの前提であり、そこから話し合いが始まるのですから。

 

ということは、いくら効率が悪いと言われようがなにしようが、時
間をかけて話し合っていこうと覚悟を決めた人が多ければ多いほど、
自由で平等な社会がつくれるのです。
だから、だれをも排除せずにその「話し合いの場」に参加し、ゼニ
カネの話を真剣にして、そこで自分にできる役割を担って責任をと
ろうと考える人を、私はリベラルと呼びたい!

 

ブログ

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第187回 2020.04.08

 

「リベラルってなんだ?」

 

ブックカフェマスターとして世界情勢に目配りし、情報を収集し、
大所高所からの考察をおこなうことによって見識を高め、それをカ
フェでお客さまに提供して世界平和に寄与するという、たいへん有
意義な公共活動をしていたら、ある方に、
「マスターはリベラルですね」と言われた。

 

「えーっ、いったいどこがですか? そもそもリベラルってどんな
んでしたかね?」と尋ねても、「うーん、なんとなく」との、頼り
ないご返事。
じゃあいったい、リベラルってなんだ? と気になって、

 

「リベラリズムの終わり」(萱野稔人/幻冬舎新書)

 

を読んでみました。

 

まず、「〇〇」を勉強するために、いきなり「〇〇の終わり」とい
う書名の本を選んでしまうのはどうなんだっていう話ですね。
まるで連続テレビドラマの初回がいきなり最終回になったみたいな
ので、お若い学徒のみなさんには決してお勧めできる態度ではあり
ませんが、書店で目についてしまったのだからしょうがないのです。

 

ともあれ、「リベラリズム」とはなにか?
ひとの基本的人権を尊重し、思想の自由や表現の自由を第一に考え
ること。したがって思想、良心、信教の自由ならびに、生存権や労
働基本権、教育を受ける権利といった社会権を大事にする立場のこ
と。

 

辞書的に書くと難しい表現になりました。
「人権」とか「社会権」などのことばが出てくると、ちょっとだけ
頭も痛くなりますね。
ひらたくいえば、他者による制約や支配から解放されて、自由に自
己決定できる人や方法のことであり、いっぽうでは他者の意見や生
き方への寛容さと公平さをもつこと、となります。
あんまり「ひらたく」なりませんでした、すいません。

 

でもこう書くと、それってあたりまえでしょ、だれだってそう考え
ているに決まっているじゃない? と言われてしまいそうです。
しかし筆者は、このリベラリズムの考えが、じつはいま、力を失っ
てきたというのです。それはいったいどういうことか?

 

ひとつには、「リベラリズム」がだんだん「自由放任主義」の傾向
をもつようになったことがあると。
個人が自由を追求してきて、そのあげくが、「ワシ、なにしてもオ
ッケーだもんね、そんで、自分のこと以外はどーでもいいんだもん
ねー、だからアンタも勝手にすればいいじゃん。それが自由っちゅ
うもんだかんねー」、と考える人が増えた。
すると、「だからあ、強くて賢い人たちがあ、世の中をリードすれ
ばあ、いいじゃんかあー」と、政治も「お任せ主義」になった。

 

ふたつ。リベラリズムが、経済的には、自由な市場での競争を第一
とする資本主義、すなわち市場経済といつのまにか同化してしまい、
強いものと弱いものができて格差が広がってきた。
つまり、人の平等に力を尽くそうという考えや、ケインズの経済政
策のようなものが力を失い、「格差容認主義」になった。

 

みっつ。リベラルは文化的な色彩を強めてきた。
つまり「自由」の意味が、たとえば地球環境・生命倫理・LGBT
などにおける「ポリティカル・コレクトネス(政治的正義)」を声高
に言う姿勢という狭い意味に押し込められるようになった。これは、
ワイドショーでコメントを言う「進歩的文化人」に見られたい主義。

 

ただし、進歩的文化人というのは、多様性を頑固に容認するのだが、
じつは考え方も価値観もバラバラで、ひとつの集団としてパワーを
結集することが難しい。つまり、社会に影響を与えられるような大
きな意見のまとまりにはなりにくくなった。
文化的リベラルは、声はデカいがまとまらない。

 

よっつ。こういう状況で、まったく別のところから立ち上がってき
たのが、ナショナリズム、ポピュリズム、排外差別主義であった。
これらは「個人の自由と権利を大切にする」というよりはむしろ、
自分の自由と権利は担保しつつ、自分たちは多数派なのだと根拠の
ない主張をしつつ、意見の異なる他者には不寛容、という態度だ。

 

たとえば、ナショナリストは同胞に対して非寛容なことが多いのだ
が、それは、「国家を忠誠の対象にしておくと、なんの具体的な責
務も自分には発生しない」と思っているからだ。
ワシはお国に忠誠を尽くしているのだから、ウソをつこうがなにし
ようが、いいのだ。ワシの意見が正しいのじゃ。この意見をどんな
手を使ってでも多くの人に信じさせ、多数派になればいいのじゃ。

 

ポピュリズムも排外差別主義者もおなじ。
そんな中二病でジコチューで、無責任で、不寛容で、少数意見を黙
殺する、「自分は自由になんでも言うが、アンタの考えは間違ってい
るので認めない」主義の、ズルいひとが増えている・・・。

 

・・・この本を読んでの、私の理解はこんな感じでした。
ああこれじゃリベラリズムも終わりだ、ガックリ!
となってしまいます。ひとが「自由」をあきらめて国家権力による
「安全と幸福」を求めるのは、こういうところにも理由があるのか
もしれません。

 

そしてもうひとつ、「リベラル」は個人の考え方だけでなく、国家の
性格や民主主義に大きく関わる問題でもあります。
たとえば、ヤシャ・モンクという若手研究者も、「民主主義を救え!」
(岩波書店)のなかで、国家体制についてこんなことを言っていま
したので、最後にちょっとだけご紹介すると、

 

「リベラル・デモクラシー(カナダなどの自由民主主義)は、いっ
ぽうでは非リベラルなデモクラシー(ポーランド、トルコなど)へ
と、他方では非民主的なリベラリズム(EUなど)へと分岐してい
る。
さらには、もともと権威主義で独裁的な国家、ロシアや中国もあり、
人びとの声を自分だけが代弁できると主張するポピュリスト(アメ
リカ、イギリスなど)も目立ってきている」。

 

つまり「リベラル」を軸に仕分けすると、国家的にはこの四種類に
分化してきているというのです。
そうですお客さま、お気づきですね。これ、個人の立ち位置のちが
いとまったく相似ですよね? つまり国家の性質と個人の性向が、
とても似た方向に分化しているように見えるのです。

 

まとめます。いまや多くの国で、ナショナリズムやポピュリズムの
名のもとに、たとえみずからの自由を投げ出してでも、あるいは他
者への不寛容を強めて、強い国家権力にお任せして、幸福と身の安
全を求める人たちが増えている。

 

そんな人たちを「アンチ・リベラル」と名づけていいかどうかわか
りませんが、その流れには与(くみ)しないということであれば、
いきなりの結論で恐縮ではございますが、お客様、はい、私はリベ
ラルです。なにか問題でも?

 

ブログ187

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第186回 2020.04.02

 

「自由と幸福、どちらが大事なのか」

 

まじめなお勉強の続きですから。
でもほんとに、マジ、飛ばして読んでくださいね。あまりおもしろ
くありませんから。学校のレポートみたいだし。冗談も言えないし。

 

ということで、いまの中国は、ある方によれば、
「政府の監視下で政治的な議論はできなくても、生活の便利さは
享受でき、幸福に管理されて人生を謳歌できる社会」だ、といわれ
ています(水谷瑛嗣郎/朝日新聞)。

 

それから、中国で幸せに良い暮らしをするためには、いまでもワイ
ロは欠かせないようですね。
いい学校に入る、就職する、出世する、会社を興す、規制をくぐり
抜ける、档案を書き換える、なににつけても袖の下が必要になる。
個(私)としては国(公)に従順に従うと見せかけ、そのじつ国家
はまったく信頼できないので、抜け目なく生活の便利さと自分の幸
福を確保するために使うワイロ。

 

中国には「上に政策あれば、下に対策あり」ということばがあって、
「政府の命じたルールのすき間をぬって、なんとか私利・私権を確
保しようとする」のが中国の人だと、内田樹さんが紹介しています。
管理されて幸福に生活するが、最終的には国をあてにできないので、
ワイロなどで身の「安全保障」をする。

 

つまり中国では、「政策的な議論とか人権などの難しい話は面倒だ」
「自分の仕事や好きな趣味さえ自由にできれば十分幸福だ」と思う
個人(私)が多くなったのです。
それは統治・管理する側(公)にとっても都合がいいので、党・政
府もいっそう「幸福に管理されていただく」方向に国民を誘導する。
するとさらにワイロも増えることになります。

 

このようにワイロが、公私をつなぐ潤滑油のように欠かせない慣習
だとしたら、習近平さんがいくら腐敗根絶を指示してもなかなか止
まらないのも無理ありませんわ。
そして、こういうことが歴史上くりかえされていたのだとしたら、
これも中国が西洋に遅れをとった原因でしょう。

 

このようにしてカフェで中国のことを考えていたら、どうしてもこ
ういう本にブチ当たらざるを得ないのであります。

 

「自由か、さもなくば幸福か?」(大屋雄裕/筑摩選書)

 

えっ、なんですと? 「さもなくば」って、どーゆーこと?
まさか、「自由」と「幸福」が二者択一になるってゆーのですか? 
そんなの、カフェに入ったらコーヒーとケーキのどちらかを選べと
いわれたようで、いやいや私どっちも欲しいんですけどってびっく
りしましたが、この本の主旨はじつに明快でした。

 

筆者によると、
「19世紀には『自由で自発的で自己決定できる個人』という美しい
夢が見られた」が、混乱の20世紀を過ごしたあと、「21世紀は『個
人の幸福を配慮するために、その人格性や自律性すら危機にさらさ
れなければならなくなった。」

 

どういうことかというと、19世紀には多くの人の考えとして、「自
分自身の力で幸福に配慮できる自立的な個人」がいて、「その人たち
の集まりとしての社会と法治国家」が、西洋の理想だった。

 

ところが、国家間の戦争が増え、いろんな国家体制が試され、それ
がダメになり、冷戦があったり終わったり、内戦があって移民難民
が増えたりテロも横行したり、金融と経済が大きくゆれ動いて世界
中に貧困と格差が広がり、かくて人は、もう自力だの自己責任だの、
自分で幸福に配慮しろだのと言われるのに疲れてしまった。

 

自力で、めんどくさい手順を踏んで、デモで血を流したり仕事失く
したり、そんな苦労をして犠牲を払って手に入れなければならない
自由など、ごめんだ。その自由を元手に得る幸福など、無理だ。
そんな努力をするよりも、なにもしなくても「だれか強くて賢い人
たち」が私たちを守ってくれて与えてくれるような「楽ちんな安全
と幸福」を享受したい、と思うようになった。

 

はいはい、私もそれは、中国を例に出さずとも、現代の日本におけ
る現実感覚としてよくわかる気がしたのでした。

 

たとえば、別の本から抜き出してみますならば、
「(バブル後の)不況のなかで育った若者たちは、だまされていた
と気がついたんでしょうね。自由だ、自由だ、と言われて、実は捨
てられているのだと。そこで、身を守る術(すべ)を発達させる。
夢よりも用心。不自由でも安全。」
人格性や自律性を危機にさらすっていうのは、そういうことに通じ
ます。だからこの人たちはいずれ、個人情報を御上(おかみ)にさ
し出して生きることを選ぶのでしょう。

 

そして、「(逆に頭のいい若者は)結婚から国防まで、人を信じて任
せていては危ないと思い、国を見限る人もいた。」(片山杜秀「平成
史」小学館)
この人たちは国家による管理を嫌い、ワイロも使わず、自由を求め
て努力するのでしょう。

 

こうして、個人の自由と幸福が「どっちも」ではなくて、二者択一、
つまり「どっちか」の道を選ぶものになってきた。
もちろん統治する側は、多くの若者に対して、ハイハイ、みなさん
の幸福はわれわれが実現しましょうね。そのために、進化した技術
で統制いたしましょうね。これ便利ですよお、たとえばAI監視カ
メラなどのテクノロジーを駆使して、悪い人はドンドン捕まえちゃ
いますからねー。みなさんの生活の安全と安心は保証しますよー。
だから、みなさんはみなさんで、どうか一生懸命おカネ儲けをして
幸福になり、ついでに国家への奉仕に精出してくださいねー。
という顔を見せるようになってきた。

 

この現状認識を踏まえて、筆者はこう続けます。
われわれにとってどんな未来も選択可能なのだけど、いま自由・安
全・公正・幸福という「価値」は、たがいに両立しにくくなってい
るのだ。
だからわれわれは、中国のような監視社会のなかの「幸福」を望む
のか、それとも個人の「自由」を追求するのか、別の第三の道を探
るのか、自分たちで決めなければならない、と。

 

そのうえで、「いまは将来の不安に備える安心のシステムが求められ
る」ので、そうなるとついつい、権力や国家の機能の強化が期待さ
れやすいのだけど、そのときはどうしても、「国家による平等・公平
の実現への信頼回復が必要」になってしまう、と書きます。
そしてさらに、民主政を支える個人としての主体の確立も必要だ、
みたいなことも併せておっしゃっているので、私には、なんとなく
「いいとこ取り」の結論になっている気もいたしました。

 

今日はここまで。さらにお勉強はつづく。

 

ブログ186

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第185回 2020.03.26

 

「個の自由と国家の繁栄がせめぎあうとき」

 

ところで、テレビのバラエティーを観ていると、中国発の「トンデ
モ映像」というのが数多く紹介され、驚きと笑いを誘っています。
ビックリするような事故の瞬間とか、ダンプにひかれても奇跡的に
助かった人とか、街なかのおバカな夫婦喧嘩やおマヌケな宝石泥棒
とか。

 

これらはきっと、中国全土に張りめぐらされた監視カメラの映像の
流出なんでしょうね。
それは密かな流出というのではなく、中国では社会的制裁としてこ
うした映像を公共の場で流すらしいですから、その中でおもしろい
ものを各国のテレビ局が買っているのでしょう。
これじゃ、中国ではおちおちケンカもできやしない。

 

かくして、いまの中国では国民の一挙手一投足が見張られています。
とりわけ画像解析による顔認証が進歩して、個人の行動が特定しや
すくなっているようです。
こうなると、「档案」のような個人情報管理システムの重要性もいっ
そうわかろうというものです。一人ひとりの顔から言動からなにか
らなにまで当局に把握されて、それが国家の安全のためにビッグデ
ータとして保管活用されていくのですから。
これじゃ、おちおち仕事をさぼってカフェなんか行っていられやし
ない。

 

ちなみに中国政府はさらに、アリババなども全面協力して、全国民
に「社会信用スコア」を付与する巨大なシステムを作りあげようと
しています。
この「社会信用スコア」は、学歴、慈善活動、マナー違反、犯罪歴
などでポイントの加減がある個人ごとの「履歴」という点では档案
とおなじです。でも全国民14億人を対象に!ですよー。

 

ただし恐ろしいことに、自治区であるチベットや新疆ウイグルでは、
これに人種、宗教、思想、言語などのほか、海外留学中の子どもが
いるとか、国が指定するテロ関与国家に行ったことがあるかなども
「信用」を構成するポイント(もちろんマイナスに)として勘案さ
れるようです。
これじゃ、おちおちチベットやウイグルに生まれていられやしない。

 

このように中国では、国家によってスコア化された個人の「信用」
が、犯罪防止や金融の与信情報だけでなく、移動の自由から就職か
ら出産からビジネスの成否から人生設計まで、ひとのすべてを決め
る社会が実現しつつある。
といったことを解説してくれるのが、

 

「幸福な監視国家・中国」(梶谷懐・高口康太/NHK出版新書)

 

でした。
ほんらい近代国家とは、国民個人の情報を集めて監視するものでは
ありませんでした。そうではなく、個人として自立した人々が集ま
って、みんなで公のルール(法)を定めて活動をおこなうが、その
ときの個人の自由・平等・安全を保障する役目を担う、「機能」の
はずでした。

 

ただしそれはヨーロッパの話で、東洋は違うというご意見もあるで
しょう。中国を例に、そこらへんを少し整理しましょうか。
いまの中国では、「公」はすなわち「党独裁による国家運営の制度」
であり、それが「全体利益」を担う。いっぽう「個(私)」は、「自
己利益を実現する」主体であり、自分の幸福を追求するもの、とい
う構造になっています。
そしてもちろん、私よりもまずは公が優先される。だから個人情報
は国が管理することに抵抗が少ない。

 

そして公(オフィシャル)とプライベート(私)がバシッと分かれ
ていて、その中間にパブリック(公共)とかソーシャル(社会)が
なく、中間団体などがない。
ないというか少ない。表に出てきにくい。ネットも見張られていて
言論の自由がないから、出てこられない。

 

そういう意味で現代の中国は、「西洋流の民主的な近代国家」とは
異なるしくみの国です。
中国は、共産党が「きみら国民は、ワシら賢い党と政府にお任せな
ておきなさい。ルールはこちらで決めてうまくやってあげるから」、
という父権的な国家運営をしているわけです。

 

伝統的に、中国を筆頭にアジアでは、国民による指導者(公)への
依存が強く、それほうが自身の身の安全にも見合うのだという心情
が優勢。
そしてそのいっぽうで、目先の儲けのために「国家の統制に従う個
人や企業(私)が増加する」、と筆者は言うのです。
ああ、はいはい、企業でいえばファーウェイやアリババのことね。

 

いまの中国は、「公」として権威的で、いっぽう「私」としては、
だれもが自分の欲望の充足だけを図ろうとしている国である。そし
てこのふたつは、けっして矛盾しているわけではなく、こういう国
家観で動いているのが中国だ、と筆者はいうのです。

 

ただし問題は、そこでは自由で建設的な競争とか、自主性や自発性
の発露とか、、個人の尊厳や権利を尊重することとか、多くの意見を
集約して民主的な合意形成をするとか、少数を大事にするとか、社
会全体に寄与する個人の「公共的」な活動動機などが薄れてくるの
ではないかという懸念があることです。

 

つまり、いい意味での「世界や人類全体のプラットフォーム」をつ
くろうとする精神的な土壌が、中国にはないかもしれない。
だから、国が目をつぶってくれれば他人のアイデアをパクってもい
いのだ、自分たちのやり方がいちばん優れているのだ、なんていう
やや骨折した「活動動機」が横行してしまう素地がここにある。
このへんにも、いままで中国文明が西洋に遅れをとってきたことの
理由が潜んでいるかもしれません。

 

さてしかし、話にはまだ先があります。
この本の筆者は、逆に中国のように「AI、ビックデータ、ⅠoT
といった次世代の汎用目的技術をいち早く発展させた国が、つぎの
覇権国家となる」と述べていて、テクノロジーによる国家の安定と
繁栄が優先され個人の自由を制限する時代の到来を示唆しています。

 

おお、やはりあなたもそうお思いになりますか! 
やはりものごとは裏腹なのだなあ! 国家と個人、自由と安心、公
と私、進歩と停滞の関係として。

 

つまり筆者のこの予測の裏には、社会信用システムのような国民管
理とビックデータの利用とか、多彩なアルゴリズムを駆使したAI
の開発などにおいては、じつは国の繁栄を第一に考える国家のほう
が、個を大事にするリベラルで民主的な国よりも有利になるだろう
という強い推定があるのです。
だって、なにをやるにしたって、ゆっくりした民主的な合意形成よ
りも、強権発動と集中的な資源投下による開発のほうが、より早く
結果が出せますもんね、だれが考えたって。
じつはこれ、ロシアやアメリカも含めて世界的な潮流ですしね。

 

では中国は、じっさいどこに向かうのか? 
これについて、たとえばアメリカの政治学者パトリック・デニーン
さんは、朝日新聞に掲載された「自由主義の失敗」というインタビ
ュー(2019.9.19)のなかで、
中国は、民主化せずに高度な人工知能の技術を駆使した社会の管理
を進めているが、「AIという超人間的なものを使って経済成長と
社会安定を保つようになれば、人間の存在意義は揺るぎかねません」
と述べています。
「中国はそういう非人間的な方向に向かっているようにみえる」と。

 

それはもしかしたら、「サピエンス全史」を書いたユヴァル・ノア・
ハラリさんのいう、「人類の大半がまもなく『デジタル専制体制』の
下に置かれるだろう」という予測の実現なのかもしれません。
少なくとも中国では、個の自由と国家の安定は、せめぎあった末に、
個の自由が負け続けている、ように見える。つまり中国では、「アル
ゴリズムに支配される国民と、各地に出現した『お行儀のいい社会』」
(オビのキャッチフレーズから)ができあがりつつあるのでした。

話が長く広がってしまいましたが、今日もお勉強になりました。

 

ブログ185

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第184回 2020.03.21

 

「新たな産業革命は近代化に遅れをとった中国で起きるのか?

さ、今日も勉強の続きをいたしましょう。
興味のない方は、ドンドン飛ばしてくださいね。

 

では改めまして、「なぜ東洋は西洋に遅れをとったのか? なぜ近
代化に遅れたのか?」という問いを踏まえ、それをもう少し具体的
な疑問に掘り下げてみます。
するとひとつには、「産業革命はどうしてイギリスで起きたのか?
中国ではなくて」、ということが浮かんできます。

 

みなさんも、いったいどうして、進んだ文明をもった中国で近代に
産業革命が起こらなかったのか、気になりませんか?
その答えがわかれば、近代化して世界をリードしたイギリス・西洋
と、近代化に遅れた中国・東洋とのちがいもわかるのではないか、
そう思うのですが、いかがでしょうか。

 

「父が娘に語る経済の話。」(ヤニス・バルファキス/ダイヤモンド社)

 

著者はギリシャの経済学者で、2015年には破綻した国家財政を立て
直すために財務大臣としてEUとの調整にあたった方です。
思い出しますね、ドイツを中心にしたEU委員会が、「財政を緊縮
させないとカネ出さんぞ!」といってきたのにたいして、「そんな
の、やなこった」と突っぱねた骨のある方(結局負けましたけど)。

 

この本は、そんな方が、「経済」がどう生まれたかからはじまって、
資本主義やそれを支える「信用」や「人間のココロ」の問題(前回
チラッと触れました)まで幅広く、そしてわかりやすく教えてくれ
る入門書でした。
なにせ筆者は希臘(ギリシア)人ですからね、もうそれだけで3000
年の歴史を感じて、私なんかもうすでに、彼のおっしゃることをま
るでプラトンのおことばのように拝聴して信じてしまうのです。
希臘って、いまでもブランドですよねー。

 

さてみなさんは、経済の初歩の話がどう関係してくるんだ、とお思
いになりますでしょ? 
では再度、本日の疑問を書いて置きますと、「なぜ産業革命はイギリ
スで起きたのか?(中国ではなくて)」でした。

 

これについて、歴史の教科書であげられるのは、イギリスは島国で
大陸のフランス革命やその後の戦争に巻き込まれなかったからとか、
国際貿易や植民地支配が進んでいて資本の蓄積があったからとか、
石炭などの天然資源が豊富だったから、などの理由でした。

 

筆者はこれに加えて、イギリスの地方領主は軍隊を持たなかったの
で(中央集権が進んでいた)貿易しか自分たちを豊かにする道がな
かったという点、さらに、土地の所有権が集中していたので、工業
化するために農奴を追い出しやすかった点を挙げています。
つまり「囲い込み運動(学校で習ったエンクロージャー・ムーブメ
ントですね)」の流れで、地方で余剰人口という資源がうまれ、それ
が都市に流入したのでした。

 

そして、それらの条件があったところに「蒸気機関」という発明が
火をつけて産業革命が生まれ、ついでに資本家と労働者と格差とマ
ルクスとエンゲルスが生まれた、というしだい。
逆に、こうした一連の条件が中国には存在しなかった。
余剰資本、人的資本、金融資本、起業家による競争、発明を産業に
活かす意欲、イノベーションを連鎖させるインセンティブ、こうい
うものがなかった。

 

なぜか?
なぜなら中国には、なんでもそろっていたから。
当時の中国(明、清)はイギリスとは比べ物にならないほど豊かで、
自分たちの国だけでじゅうぶん充足していたから。多くの大発明も
あったけれど、それらが互いに連携して新たな方向を創ることはな
かった。

 

歴史上、たまーに「天」の意思で支配者が変わって王朝が交代して
も、あるいは蛮族に攻め込まれたり小国家に分裂しても、自分たち
の文明がいちばんで、自分たちこそが世界でいちばん偉い、という
精神的な「柱」は揺るがなかった。
技術の進歩や統治体制の変更に左右されない、変わらぬ確固たる精
神的基盤があったのだ。
はい、よくわかりました。「経済の教科書」的な知識として理解し
ました。

 

で、ここからは読み手の私の感想です。
ひるがえって、そうすると現在の中国で起こっていることは、よく
考えると産業革命時代のイギリスに似ていないかな?
どうでしょう?

 

共産党独裁なのに、市場経済で個人主義の社会構造、農村から都市
への人口(という資源)の移動、軍事力による少数民族の植民地化
や新たなシルクロードや南洋拠点の開拓、その政策のウラにある地
下資源の獲得の意欲、国民管理の徹底による統治の安定、そして個
人の意思や自由を制限することによる政策の効率性追求、ITやネ
ット関連への集中投資、などなど。

 

これらが中国の経済を大きく動かし、あらたな産業革命が起こりつ
つあるのではないだろうか? そしていま中国は、ジャーン、歴史
上初めて世界に乗り出そうとしているのではないか?
もちろんその過程で、搾取も格差も差別も圧制も腐敗も人権問題も、
過去にイギリスで起きたことがおなじように起きているのではない
か?

 

筆者も、こんな私の疑問に応えるかのように、けっして中国だけを
念頭に置いているわけではありませんが、これから社会の「映画
『マトリックス』化」が起きる可能性があると懸念しています。
つまり、経済学の見地からみても、「もはや人がテクノロジーに支配
されていることに気づくことすらできないほどの、完璧な機械化や
肉体の商品化、心の奴隷化」が現実となるのではないか、とするの
です。


小説「1984」のように、人間がテクノロジーに支配されるのではな
いかと。

 

これはこれは、大きな問題にブチ当たりました。
ことさら中国をあげつらうわけではありませんが、中国経済とその
産業思想の進みぐあいが、個人と国のあいだの問題や、テクノロジ
ーの進展の問題も含めてモデルとなり、今後の世界の趨勢を占うこ
とになるというのですから。
すっごく勉強になったじゃないか! お父さんがやさしく娘に説明
する経済のお話が、こんなことに結びつくなんて!

 

ブログ184

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第183回 2019.03.12

 

「世界史の謎 西洋文明vs東洋文明(中国)」

 

私ことブックカフェのオーナーも、毎日のんびりと店番して、お客
さまとコーヒーを飲みながら、ご近所のうわさ話にうつつを抜かし
ているわけではない。
日本と世界の情勢に目配りし、確かな情報を収集して見識を高め、
大所高所からの考察をお客さまに提供したりなんかして、もって世
界の平和に寄与している。
なに? そんなごたくは信じられないとおっしゃる?

 

では諸君に、勉強の成果のほんの一部をご覧にいれようではないか。
ただし、これからしばらくの回ではめんどくさい話が続くので、
そんなの興味ないよという方は、サクサク飛ばしていただきたい。

 

「世界史の哲学 東洋篇」(大澤真幸/講談社)

 

この本で大澤さんは、
「なぜ東洋は、とりわけ世界最高峰を誇った中国文明は、西洋に遅
れをとってしまったのか?」という問いを、約700ページにわたっ
て探究しておる。
粘着質系の社会学者たるもの700ページくらいは書かねばいかん、
という根性にまずは脱帽しておこう。

 

なぜ東洋は遅れをとったのか? なぜ近代化が遅かったのか?
こういうことが、現代の世界情勢と地政学的な国家間紛争の遠因に
もなっているのであるから、世界平和実現のためにはゆめゆめゆる
がせにできない問題なのである。
そのへんの理屈は、おわかりいただけるであろう。

 

たとえば明の時代、15・16世紀、どこよりも進んだ文明をもった中
国は、なぜか「世界」には乗り出すことをしなかった。
それにたいして西洋は大海原に乗り出して新大陸を発見し、植民地
をつくり、富を収奪して帝国をつくり、それで資本主義経済をこし
らえ、科学を発達させて産業革命を起こし、もって自由主義やら民
主主義やらを発展させて世界をリードすることになる。

 

なぜだ? なぜそうなる? なぜこんな差がついた?
本の結論はどうなんだ、わかりやすく教えなさい、と言われても、
私にはそれを要約してお伝えする能力はない。なんせ700ページも
ある本なのであるから。
あしからずお許しを乞うしだいである。

 

ただしひとつだけ。
ちがいを生み出すひとつの大きな要因として、市場とか金融資本と
は別に社会秩序を成り立たせている、「贈与」とか「負債」とか「儀
礼的交換」とか「互酬性」とかなんやかんやらの、「信頼関係による
社会の成り立ち」があるらしい。

筆者が示唆するのは、人間でも企業でも国家でも、自分さえよけれ
ばいいという自分本位の功利的な関係は衰退することが多く、むし
ろそれぞれの間の信頼にもとづく関係性が豊かな社会、すなわち近
代西洋の一部のような社会が、経済的にも政治的にも文化的にも発
展するのだ、ということである。

 

ここは以前「社会関係資本」として勉強したところでもあり、社会
学的、経済学的にたいへん妙味あるところなので、ご興味がある学
徒は私の代わりにいっしょうけんめい読んで、私にレポートを提出
するように。

 

ところで、読んでいてびっくりしたことがひとつあったので、それ
だけは特筆してご報告しておきたい。
現代中国には「個人档案(とうあん)」という、共産党の個人情報
文書がある。
あ、いまちょっと驚きました、「档案」って、漢字変換できました
ね。木へんに当たる、なんて字をみたのはじめてでしたので、「と
うあん」で一発変換されるとは思ってもみませんでした。
驚いた拍子に、ですます調になってしまいました。

 

「档案」とは、党員個人一人ひとりについての公文書という意味で、
内容的には一種の履歴書だが自分で書くものではなく、本人が見ら
れるものでもありません。
大学に入学すると同時にその人の個人档案が作成され、その人のあ
らゆる情報が教師や上司によって書き込まれていく。成績、思想傾
向、仕事の実績、態度などなどすべてが書きこまれ、スコア化され、
そしてそれが共産党本部の手元に随時貯められていき、その人の人
格も含めて人事情報として管理されるというのです。

 

すごい仕組みでしょ、びっくりしませんか? 私はびっくりしまし
た。これは党による個人情報、とくにエリート層の個人情報の生涯
にわたる徹底管理です。会社の人事管理の比ではありません。
でもよく考えてみれば、中国は「科挙」のお国柄ですから、それこ
そ官僚の管理としては当然の、伝統に則った制度なのでしょう。

 

しかしここで筆者は、人間はほんらい自由を好むのではないのか?
このように管理されるのは嫌ではないのか? 人は委縮するのでは
ないか? なぜこんなとてつもない制度が可能なのか?と問い直し、
そのうえで、もしかしたら中国の秘密がこのへんにあるのではない
か、というのです。

 

それに答える筆者自身の仮説として、ひとつには、中国人には「己」
を知る「他者」に徹底して帰依する態度があるのではないか。つま
り、頼るべきシステムとしての共産党に絶対の信頼を置きつつ、自
分の個人情報をすべて引き渡してもOKという心情があるのではな
いか、とします。

 

もうひとつ、彼らは、自分が歴史に「名」を留めることに人生の意
味を見てきたのではないか、ということを挙げます。
つまり、なにか絶対的な制度の中で、たとえば「王朝」のような確
実な体制の中で、だれもがその「正史」に名前を留めたいという欲
求があるのではないか、とするのです。
筆者はこのふたつの説を立て、だから個人档案のような個人情報の
引き渡しと管理の仕組みが生きているのではないかというのです。

 

うーむ、なるほど。そうなのかもしれません。
私はそれに加えて、科挙からえんえんと続く中央集権・文民統制の
歴史が、「個人は国家によって見張られ管理されてよいのだ。その
方が安心なのだ。それでいーのだ。おカネのことは別にして(少し
ぐらいの袖の下は見のがしていただいて)、ほかのことについては
お上(おかみ)にお任せするのだ」的な心情が培われてきたのでは
ないか、とも感じたのでした。

 

だって、そうとでも考えなきゃ、とてつもない数の監視カメラに見
張られ、とてつもない数の警察官にネットワーク上のコミュニケー
ションを監視される支配を良しとする、大多数の国民の態度を理解
するのは難しいですもの。
党員以外の国民が、国家による個人情報の管理はOKとする広範な
精神的基盤があるからこそ、党内の「档案」もなり立っているに違
いないのです。

 

問題は、こうした国家による個人の管理は、個人を委縮させて、自
由や創造性をそこなう可能性があり、なにより「個人よりも国家体
制の存続が第一」とか「なにかの折に、多少の人的犠牲が出ても、
良し」と考えるお国柄をつくってしまったのではないか、というこ
となのです。
それこそが、過去から現在まで、中国の近代化を阻害する要因だっ
たのではないかと。
あ、しまった、おもわずこの本の結論を言ってしまいました?

 

ブログ183

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第182回 2020.03.04

 

「だれもが来られる図書館を忘れないで」

 

本にまつわるお仕事といえば、もちろん、図書館を忘れるわけには
いきません。
とりわけ公共図書館は、ブックカフェと同様に(?)地域の大事な
コミュニティの場です。
そこで働く司書の方々のお仕事も、いまは本を探し出すお手伝いだ
けでなく、ビジネスに必要な情報を見つけてあげたり、地域活性化
の手伝いをしたり、子どもさんや、高齢者や障がい者のためのイベ
ントを企画したりと、さまざまに広がっています。

 

イベントといえば「ビブリオ・バトル」もありましたね。
以前にご紹介もした、一人ずつ五分で自分が好きな本を紹介し、そ
れを読みたくなった人の数を競うゲームですが、もちろん公共の図
書館でもずいぶん行われるようになり、司書の方が企画し司会役を
したりするようになりました。

 

ところがみなさん、図書館には人間(ヒューマン)だけが働いてい
ると思ったら大間違い。

 

「図書館ねこデューイ」(ヴィッキー・マイロン/早川書房)

 

そ、猫(キャット)も働いていたのでした。
アメリカはアイオワ州の北西部、スペンサーという小さな町。
寒い冬の朝、図書館の返却ボックスから救い出された子猫がいた。
(ここらへん、つい読み飛ばしてしまいますが、よくもまあ返却ボ
ックスに入れたものだということと、よくも本に押しつぶされなか
ったなあと思います)
彼はデューイと名づけられ、図書館で飼われることになる。
やがてデューイは成長するとともに、毎日入り口で来館者をお出迎
えし、館内を見回り、本を運ぶトレイに乗り、読書中の方のひざに
のぼって昼寝をするようになる。
それが彼の仕事になった。

 

子どもや障がい者にはゆっくり近づいて鼻をなすりつけ(ケアし)、
お年寄りには毛並みを撫でさせてあげる(セラピーする)。はては、
会議で煮つまったメンバーの目の前に来てニャーと鳴く(ファシリ
テーターしてる!)。
彼は、本を探したりビブリオバトルの司会はできないが、ヒト(ヒ
ューマン)の気持ちに寄り添うことのできる猫だった。
「彼(デューイ)はわたし(筆者/館長/ヒューマン)を心から信
頼した。スタッフ全員(ヒューマン)を心から信頼した。そこがこ
の猫のとても特別なところだった。完全なゆるぎない信頼。」と、筆
者の館長は懐かしんでいます。

 

最初は「猫なんか飼って大丈夫?」と懸念していた来館者や町の人
もデューイをかわいがるようになり、図書館の来館者はうなぎのぼ
りに増える。
つまりデューイは、町の人を癒し、さらに新たに呼び込むことで地
域コミュニティ活性化の火付け役になり、やがて評判が評判を呼ん
で遠方からも来館者を集めるまでになり、町の観光大使(アニマル)
としていわゆるインバウンドにも貢献したのでした。

 

そして筆者は最後にこう述懐します。
「りっぱな図書館は必要なものを与えてくれる。地域社会の生活に
すっかり溶けこんでいるので、かけがえのない存在になっている。
いつもそこにあるので、誰も気がつかないのがりっぱな図書館だ。」
おしまい。めでたしめでたし。

 

もう、ほんっとに、いい話。子どもさんに読んであげるにもぴった
りの本だと思います。
でもちょっと待ってください、図書館で働くのは猫だけではない。
ライオン(ネコ科)も来るのだ!

 

「としょかんライオン」
(ミシェル・ヌードセンさく、ケビン・ホークスえ/岩崎書房)

 

図書館にほんもののライオンが来てしまった! さあ、どうする?
館長のメリウェザーさんは、周囲の反対をよそに、ライオン君が図
書館のきまりを守るのならここにいてもいいと言います。

 

そこでライオンは、走ったり大きなうなり声を出さなければ図書館
で暮らせることになりました。
そして、シッポ(想像上のではない実際の)の毛で本のホコリを払
ったり、手紙に封をするために大きなベロで封筒をなめたり、小さ
な子どもたちを背中に乗せて高いところにある本に手が届くように
したりと、図書館のお仕事を手伝うのでした・・・。

 

その後、事件が起きてライオンは図書館に来られなくなりますが、
そこは絵本です、ちゃんとハッピーエンドが用意されています。
だから、新学期なんかに、子どもさんに読んであげるにはぴったり
だと思います。

 

ヒューマンだけでなく、猫もライオンも図書館でそれぞれ自分の役
割を果たしてお仕事ができる世界って、いいじゃないですか!
わがブックカフェも、動物が手伝ってくれる場所になれればいんだ
けど!

 

ブログ182

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第181回 2020.02.27

 

「本屋って、本来こういうものなのさ」

 

いまは町の書店がすっかり減ってしまいました。
生き残っているのは、ターミナル駅の大規模チェーン店か、テーマ
で勝負するインディペンデントな小規模書店になってしまいました。
ブックカフェなんてものも、そのうち絶滅するかもしれませんね。

 

でもちょっと前までは、骨のある、頑固で、自分の目にかなった本
しか置かない書店経営者もいましたね。
私たちは、そういう書店(古本屋や貸本屋をふくむ)に行って、恐
る恐る立ち読みしたりしていると、そのうち、新聞を読んでいたオ
ヤジさん(こころなしか松岡正剛さんに似ている)が、老眼鏡の奥
から上目づかいでにらんでくる。

 

それは、商売のじゃまだから、買わずに立ち読みするのをやめろと
いうことばかりではなく、「その本はいまのおまえにふさわしいの
か?」という問いかけでもありました。
すると私たちは、というか私は、その視線の問いに答えきれずにコ
ソコソと出ていくことになる。

 

こういうことから本屋は、よくいえば学校では習わないことを教わ
る場所だったし、本を通して自分と向き合う機会だった、、、、、あく
まで「よくいえば」ですよ。ふつうにいえば、オヤジと悪ガキの戦
いが繰り広げられていたのです。
なんの戦いだかわからんけど。

 

「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子/文藝春秋社)

 

文筆家、須賀敦子さんのファンは多い。私もそのひとりです。
その魅力はひとことで言えるものではありませんが、その原点とい
うか、すべての要素が詰まっているのがこの本だと思います。

 

これは、ミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店という左翼系の本
屋に関わる個性豊かな人々を描いたこの作品。ひと昔前まで存在し
ていた、本と店員の個性によってお客をつかむ書店の話です。
もしかしたら、このコルシア書店もモンテレッジォ村の行商の末裔
じゃないか?なんて思ってしまいます。

 

それはともかく、ミラノに個性的な書店を運営している若い人たち
がいて、そこに文筆家や作家や知識人がいて、周辺にはいかにもイ
タリアらしいおしゃべりなおじさんおばさんたちもいて、書店側と
客側のちょっとした戦いも繰り広げられる。
そうした下町の生活と筆者自身の若き日の思い出が、情感をもって
描き出されていきます。

 

コルシア書店の仲間たちはみな若く、主義主張をもち、仕事中も政
治論議を戦わしている。店員たちどうしも、店員と客も、店と街も、
闘っている。なんだかそういう「闘い」のさなかにある書店。
それはそうと、イタリア人の口の闘い(議論)はうるさそうですな。
村上春樹先生にいわせれば、彼らは「何はなくても意見だけは豊富
に持ち合わせている人々」らしいですからね。

 

それから、イタリアが舞台になるとどうしてこうも人間が個性的に
見えるのでしょうか。
イタリア人がそうなのか、こちらがそう見ちゃうからそう見えるの
か、書き手の描き方がツボにはまって上手なのか、そこらへんも
よくわかりませんけど。

 

そんななか、ひとりでイタリアに来て、本が好きで書店の店員ペッ
ピーノと結婚した若くかわいい日本人(著者)は、書店の仲間に加
わっていく。
このペッピーノも個性的な人物で、大竹昭子さんの表現を借りれば、
「本当の本読みであると同時に、コルシア書店の活動を通じて、社
会と繋がる生き方を模索」していた人のようです。
彼も闘っていたのです。

 

いっぽう、そんな書店に来るのは左翼系の論客であったり、政治に
は無関心でいつも入り口のそばにある椅子に座るテレーサおばさん
であったり、元貴族だったり、泥棒だったり、いろいろな人たち。

 

書店にはとくだんドラマチックな展開があるわけではなりません。
ただ、本を売ること、買うこと、作ること、読むこと、それら本に
関わる種々の行為が、まるでひとつの物語として一人ひとりの人間
とともに立ち現われてくるような気がします。
だから私たち読者は、イタリアのお話を読んでいるのに、なんとな
く郷愁をおぼえたりしてしまいます。

 

彼ら一人ひとりの毎日の生活に小さな湧き水があって、それがささ
やかな物語となり、やがて川の流れのように自然にコルシア書店に
集まってくる。
「本屋って、本来そういうところなのさ」って、イタリア人のおじ
さん(モンテレッジォ村出身)ならそう言うでしょうね。

 

「書店の入り口で、カルラがペッピーノと立ち話をしていた。(中
略)ガストーネがまたまたドロボウをして警察にあげられたと、カ
ルラはペッピーノに話していた。いったい、どういうことなのかし
ら。三人目の子供が生まれて、ガストーネもやっと落着いたと思っ
たのに。そういってカルラは、口惜しそうに唇を噛んだ。」
なんてことはない生活の一場面が、書店の立ち話として語られるだ
けです。でも、それがなぜか心を揺さぶる。

 

そして、登場するこれらの個性的な人々は、たぶん作者を含めてみ
な孤独を抱えているようにみえる。
「人間のだれもが、究極において生きなければならない孤独と隣り
あわせで、人それぞれが自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生
は始まらない」。
「コルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た
ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野で
はないことを知ったように思う。」

 

これらは筆者自身の素直なことばでしょうから、須賀さんにとって
書店は、それを取り巻く人々との戦いの場であり、自分自身と彼ら
の孤独という「普通のもの」を教えてくれる場所でもあったのです。
須賀さん、ありがとう! 
わがブックカフェも、コルシア書店のようであればいいんだけど。

 

ブログ181

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第180回 2020.02.20

 

「旅する本屋というお仕事」

 

かなり昔の話ですが、イングランド北西部からウェールズに入った
ところのヘイ・オン・ワイという小さな町を訪ねたことがあります。
ワイ河のほとりのヘイという名前の町、まわりは田園地帯で、車で
小さな川にさしかかると、たもとの店に「渡り賃」を払って渡らせ
てもらう橋もあったりする、昔ながらののんびりした町。

なんでわざわざその町に行ったかというと、そこは「本屋の町」と
して有名になったところなのです。
人口2000人足らずなのに、本屋が30軒以上ある。
もちろん本屋といっても新刊書店ではなく、ほとんどすべてが古本
(というか、イギリスにはもともと再販制度がなかったので)で、
それもいろいろ個性ある本屋が文字通り軒を連ねていました。

まず町の真ん中、小高い丘にある中世のお城に行くと、そこの中が
本屋。高い天井の広間に本がドーン。横の小部屋にも本がドーン。
階段を降りて街中に出るとあっちにもこっちにも、神田の古書街の
ように本屋の看板がバーン。

あとで聞いたら、町長を兼ねる(昔からの)城主様が本屋をやり始
めたら当たっちゃって本屋が増え、いわゆる「まちおこし」にもな
ってしまったようです。
現に、町の広い駐車スペースには、本好きの、というか本探しの好
きな団体客を乗せた大型バスがガンガン来てました。

それで思い出したのが、


「モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語」
(内田洋子/方丈社)


でした。

モンテレッジォは、イタリアのトスカーナ地方の山奥、位置はフィ
レンツェとジェノバのあいだくらいの小さな村です。
ここはじつは古本屋があるのではなく、さすがの松岡正剛さんもや
ったことのないであろう、「本の行商」で有名になった村でした。
本の行商、そうです、日本でいえば「富山の薬売り」みたいなシス
テムが作られていたのです。
世界にはいろんな特徴をもった村があるものです。

その昔(18・19世紀)イタリアでは本の行商があったんですよ、そ
してその行商人の子孫たちが、じつはいまでも各地で本屋を営んで
いるのですよ。
著者の内田さんは、ヴェネチアの本屋でそんな話を聞きます。
「何世紀にもわたり、その村の人たちは本の行商で生計を立ててき
たのです。今でも毎夏、村では本祭りが開かれていますよ」、と言
われ、それじゃあってんで村を訪ねることになります。

モンテレッジォは山奥の小さな山村であっても、そこは昔から交通
の要衝で、中世にはローマからシエナ、スイスのローザンヌ、フラ
ンスに入ってブザンソン、ランス、そしてイギリスのカンタベ
リーへと続く「フランチジェーナ街道」というのが通っていた。
いずれの都市も、中世からの大学があって出版業が盛んなところで
した。

行商人たちはその街道に沿って本を仕入れ、各自、お得意さんの待
つ町へと重い本をかついで売りに行っていたのでした。
活版印刷が発明され、書籍が普及し、文字を読める人が増え、それ
に応じて本の流通網ができていくが、なかには本を行商する人たち
がいた。モンテレッジォでは、小さな村のほとんどの男たちがその
商売に従事していた。背負子で担いだり、荷車をロバにひかせたり
して町々を回っていた。

なんて話を聞くと、あるうららかな春の日に、「おーい、今年も来
たよー」「新しい本、持ってきたよー」とかいう、男たちの呼び声
が聞こえてきそうじゃないですか!

逆に、行商人を待つ側の人たちの気持ちはどうだったかというと、
たとえば19世紀の後半には、
「『モンテレッジォの行商人から本を買うということは、独立への
第一歩を踏み出すということでした』と言う。これはイタリアの独
立運動のことだけを指したのではなく、一人前の大人として自我に
目覚める、という意味合いも含めて言ったに違いない。」
と筆者は書きます。

いいですね、本はそういう役目も果たしていたのです。
若者たちは、行商のおじさんの「おーい」ということばに呼応する
ように成長し、村の外の世界を見せられ、やがて巣立っていったの
でしょう。

こうして筆者の前には、イタリアの歴史や書店の歴史、つまりリア
ルな情報媒体としての本と、本による人のつながりの歴史が、重な
り合って現れてきます。
じっさい、彼ら行商人の子孫の営む書店の中にも、行商や露店の伝
統みたいな要素がたしかに生きているんです。それらは、現代風の
書店でありながら一人ひとりのお客さんの好みを押さえて仕入れす
るとか、客どうしのコミュニティをつくっているとか、若者の勉強
会を開くとか、そんなことをいまでもやっているのです。

行商人の末裔が各地の街に広がって本屋を営んでいるということを
みると、ヘイ・オン・ワイのような本屋の町が作られるのと同じよ
うに、本が素晴らしい贈り物であるという確かな実感に支えられた
お仕事だと強く感じます。
それを教えてくれた内田さん、ありがとう!
旅する本屋の精神が、わがカフェにも受け継がれているといいんだ
けど。

 

ブログ180

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第179回 2020.02.13

 

「本にまつわるすべての仕事をするひと」

 

本にまつわる仕事というと、これまでブックコンシェルジュや読書
履歴捜査官という、自分がなりたいものをご紹介してきましたが、
もちろんふつうに企画、編集、デザイン、印刷製本、流通卸、販売
など、いろいろな職種があります。

 

なかでも本に関わるプロフェッショナルというならば、ベストセラ
ーの編集者とか書店のベテラン店員さん、あるいは装丁の職人さん
とか図書館司書の方、そしてそうそう、批評家/評論家もそうです
ね。
これらのうちのひとつでも究められればすごいものですが、じつは
これらすべてを兼ね備えるひとがいまして、その方こそ、松岡正剛
さんなのでした。

 

「松丸本舗主義」(松岡正剛/青幻舎)

 

松岡さんは若い頃から「編集工学」というのを唱えておられます。
そのココロは、世の中すべからくモノゴトのつながりでなり立って
いるのだから、つながりを解き明かせば多くのヒミツが見えてくる
だけでなく、さらに新たな発想でモノゴトにつながりをつけること
によって、それが人類共有の「クリエイティブな知」となって残っ
ていくのであーる、というものです。

 

だから、もちろんご自分でもものすごい量の本を読みこんでいる博
学の思想家であるけれど、それだけでなく、自身が編集人として、
人類が蓄積している「知」をつなげて「新たな知恵」にしようとい
う、なんというか書物の鬼というか、知恵地獄の番人というか、ひ
とりエンサイクロペディア・ブリタニカとでも申しましょうか、い
ずれにしろまことに大それた野望をいだいておられる方なのでした。

 

私も一度お会いして会食しましたけれど、カッコいいんだ、これが。
とくに、美人秘書さん(差別用語じゃないですよね)に火をつけて
もらってタバコをくゆらす姿なんざ、孤高の哲学者か竹林の七賢人
って感じで、ワタクシ、もう、ヨダレを流しながら、想像上のシッ
ポを振りつつ正座して彼のお話を聞いたものでした。

 

それはともかく、書名の「松丸本舗」とは、そうした彼の「編集」
理念の現実化の試みの一環として、書店の丸善と組んで東京駅丸の
内北口オアゾビル丸善の一角にプロデュースした、書籍コーナーの
名称でした。

 

いやー、最初に行ったときはおどろきましたよ。
だって本の並べ方が普通とはぜんぜん違うのですから。
本って、書店でもだいたい図書館の分類コードに近い形で並べます
でしょう? 日本文学とかノンフィクションとか天文学とか。
それがここはそうじゃないのです。

 

彼はこう言うのです。
「分類はコンパイルであって、エディットではない。エディットと
は、いったん分類された情報に二次三次の編集をかけて、新たな関
係を発見することをいう」。
ウー、カッコいいー(想像上のシッポをパタパタパタ)。
このように、図書館の分類コードを崩して、もとの情報を読み替え
組み換え編み変えて、魔法のように別の情報群に創り変えるのです。

 

その編集のとっかかりとしては、たとえば「本」にいくつもの助詞
や助動詞をつけることから発想を得る、なんていう作業から始めて
いました。
「本が」「本に」「本の」「本で」とか「本から」「本なら」「本にも」
「本めく」というように付けてみる。こうした作業によって人の頭
脳のシナプスがビリビリと活性化し、「本が(生き物のように)動き
出す」。

そんな作業を段階的にいくつも進めて、なにかの「方向」ができて
も、それを壊してはまた組み立てしつつ、企画展示系書店コーナー
「松丸本舗」ができていったのでした。
すると、その本棚に並べられるコーナーの名称は「遠くから届く声」
であったり、「脳と心の編集学校」であったり、「日本イデオロギー
の森」であったりする。

 

こうした名称、つまり「新たな編集/新たな関係の発見」によって
生まれた「新たな分類」が、たぶんのべ数百もあったでしょうか。
そこには、そのテーマに関連するあらゆる本が、図書館でのジャン
ルを飛び越えて並び、お客さんを待ち受けることになるわけです。
どーだ、わしらを見てみろ!みたいな感じで。胸を張って。

 

松丸本舗はこんなコーナーでしたから、とうぜん本棚のつくりじた
いも違いますし、また、客側の目線も歩く導線も通常のようにはい
きません。
客は迷路のなかを歩くようにしてウロウロ動かされ、思わぬテーマ
の場所に出くわし、特製のデコボコ本棚によって目も上下ナナメと
動かされ、いろいろな本に行き当たっていくのです。
まるで本のテーマパークに来たようで、私も会社の仕事をサボって
遊びに行き、とても楽しい経験をさせていただいたものでした。

 

さて、その後「松丸本舗」は、三年ほど稼動して閉店することにな
り、最初のいきさつから閉店までの記録が収められたこの本が残さ
れたのでした。
ところで私には、ひとつだけ疑問あります。
いったい、松丸本舗の売り上げはどうだったのか?
普通の書店と比べて、単位面積あたりの売り上げはどうだったのか?
ここ、気になるでしょう? とくに営業関係のみなさん?

 

松丸本舗は、じっさいに歩いてみるとそれほど広いスペースではな
かったですけど、私はやけに疲れたことを想い出します。
そりゃそうでしょう、客は松岡さんに「編集」されて並べられてい
る本に圧倒されてしまうのですもの。客は、古今東西の知恵の結晶
たる何万冊もの書籍と編集しなおされた「知」の姿に、逆に、仁王
さまから見られているような気分になってくるのです。
どーよ、ワシを読んでみるかい、その力はあるのかい、お客さん?
と。

 

で、告白しますと、私はここで一冊も買うことができませんでした
(想像上のシッポがダラーン)。
わーっおもしろそうな本だなあ、いつか読みたいなあ、でも自分に
読む資格はあるかなあ、この本読んだらとなりの本も読まないとイ
カンなあ、おお、どうしよう、とりあえずいったんメモしておいて
図書館で借りてみよう、などと頭のなかがクルクルして、じっさい
に本を手に取ってレジに行くということにはならなかったのでした。

 

いまさらですが、すいませんでした。
三年で閉店とはなんとも残念、とか頭では思いながら、私は売り上
げにまったく貢献していなかったことを告白せざるをえません。
しかし松岡先生と丸善さんの試みは、その後、多くの書店の販売方
法に引き継がれているのは確かです。ただしそれらのほとんどは、
「編集」というよりは売らんがための「企画販売棚」になってしま
っていますけどね。

 

それはそれでしょうがありません。ほとんどの客は、私のような軟
弱者なのでしょうから。
ただ、そんな松岡先生の試みの一部が、わがブックカフェにも多少
は引き継がれている、、、のであったら、いいんだけどなあ。

 

 

ブログ179

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第178回 2020.02.06

「ムチャクチャしんどい旅路、というか逃避行」

いにしえ、仏教の経典を長安からインドにまで求めた三蔵法師や、
イタリアからシルクロードをたどって中国まで行ったマルコ・ポー
ロや、五体投地で聖地カイラスに行くチベットの巡礼や、日本中を
測量して歩いた「四千万歩の男」伊能忠敬も、それはそれはよく歩
いたもんだと感心しますが、現代でも、万やむを得ずとんでもない
距離を歩いてしまった、というか、歩かざるを得なかった人たちが
います。

そんな人たちのとんでもない旅路、

「脱出記」(スラヴォミール・ラウイッツ/ヴィレッジブックス)

は、副題の「シベリアからインドまで歩いた男たち」に惹かれて、
まさかガチでそんなに歩くことはなかろう、大ボラだろうなんて思
いながら読んだら、これがなんと、まごうかたなきノンフィクショ
ンでした。

第二次大戦中、25歳でポーランドの軍人だった筆者は、友好国であ
ったソ連にスパイ容疑で逮捕され、拷問のすえにシベリアで25年の
強制労働をいいわたされ、困難な列車長距離移動をする。
着いたところは第303収容所という、ヤクーツクという町の近く。
近くといっても町から何百キロも離れているんですけど、このへん、
せまい日本のわれわれには距離感がまったくつかめません。
いずれにしろ極寒の地、そこでの過酷な労働、このままでは死ぬ、
となって、筆者は六人の同志とともに脱出します。

ここからが逃避行です。その行程はすべて歩き。
彼らはなんとかバイカル湖にでて、イルクーツク近郊を通ります。
この何年か後、第二次大戦でソ連に抑留された詩人、石原吉郎は、
こんなふうに詠っています。
「忘れるものか/バイカルの/黝(くろ)き波たつ/氷点下/凍る
とばりの/そのかげで/僕をみている/君の目を/誰がその目を
/呼びかえす/遠い吹雪の/地平線/おき忘られた/韃靼の/ああ
生贄の/十余年・・・」。
うううっ、さ、寒い、きつい、つらい、しんどい。
私たちはこんな風景を、鼻水を流しながら想像することになります。

その後、ずーっと南下してモンゴルに入り(よかった、少し暖かく
なった)、無謀にも、って彼らには予備知識がないからしょうがない
んですけど、ゴビ砂漠を南北に縦断(暑い!)。砂漠では、長いとき
には12日間、飲まず食わずで歩く。
なんという強靭な体力と精神力の男たちでしょうか! 

一行はさらに中国の甘粛省から青海省を経てチベットへ、それから
ヒマラヤを超えて(寒いっ!)ブータンに入る。
ヒマラヤ越えのときは雪男(イエティ)らしきものを見かけるとい
うおまけもありつつ、インドに入って(あちちちっ!)カルカッタ
(現コルコタ)にいたる。
この決死行の最中で彼ら六人はいろいろな人に助けられ、うち一人
は亡くなり、途中から同行した少女も命を落とします。

なんと6500キロにおよぶ行程。
スポーツでも修行でもない逃避行。
あるとき、ヒマラヤの雪の斜面を仲間とともに滑り落ちることがあ
ったが、「この場面がいつまでたっても忘れられないのは、長かった
旅の全体を通じて、自分たちの足を使わずに進んだのがこの一区間
だけだったからだ」、ですって。
ということで、アパラチアン・トレイルの倍、6500キロ全部歩き。
信じられます? 途中でタクシー拾うとかサンダーバード2号を呼
ぶとか、なんとかならなかったのか!

さて、私が感心したのは、この本が英国で刊行されたのが1956年で
すから、スターリンが死んでまだ三年ほどの時点なのです。
そのとき、きっとこの筆者も、イギリスにいながらも身の危険を覚
悟しなければならなかったことでしょう。だってこの本も、まだバ
リバリに生きていた旧ソ連体制の内幕の暴露ですもの。
ヘタすると暗殺されかねません。しかしそこを頑張った。

ということで、この、まるでウソのようなこの旅路は、とんでもな
い戦争やとんでもない国家権力のおかげで、万やむをえず始まり、
万やむをえず後世に語り伝えられたものなのでした。

ブログ178

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第177回 2020.01.30

「大陸の人たちの、やはりとんでもない旅路」

歩く距離としては日本人よりも大陸の人々のほうがはるかにスゴイ
わけで、なかでも昔の大陸の人たちの移動はケタが違います。
なにせずっと地続きなのですから。
中国なんて昔っから、なんと、ここからここまで歩くのか!こんな
距離を移動するのか!というような話ばっかりです。
それこそ春秋戦国や三国志の時代から毛沢東共産党の大長征まで・
・・。そこで、

「ワイルド・スワン」(ユン・チアン/講談社) 

これは、筆者ユン・チアンの祖母から母、そして彼女自身まで三代
にわたる記録、ノンフィクションです。
彼女のおばあさんが満洲で生まれたのは清朝末期、ひどい方法で纏
足されたりしている。筆者自身は1952年の生まれで、文革(文化大
革命/毛沢東の指導の下に行われ、1966年から10年刊続いた階級
闘争)のときには紅衛兵(造反有理などという標語をかかげながら、
毛思想に心酔し、旧世代を多く粛清した)である世代。

文革のときには、だれもがなんとなく文革の方向はまちがっている
のではないかと思っていたが(とくに知識人層は)、ただし、毛沢東
本人だけは聖域でだれも逆らうものはいなかった。
とりわけ農村の十代の若者たちはくびきを外されたのように暴走し、
大人たちは逆に自己保身に走って密告し合い、それによって多くの
人がゆえなき犠牲になっていく。

とまあ、50年も前の中国の内紛について解説的なことを書くつもり
はなく、それがのちの天安門事件にどうつながっていくかを書くつ
もりもなく、さらにその流れでいまの香港のデモはなにをもたらす
のだろうかと思案するつもりでさえなく、私はただ、この本のクラ
イマックスが、主人公たちのとんでもない旅路だったというところ
をご紹介したかったのでした。

一家はもともと満洲でくらしていたが、両親は結婚後にまじめな共
産党員として四川省に赴任。もう長距離移動。その後、「大躍進時代」
という無茶な政策で大飢饉を経験したりする。
りっぱな共産党員だったのに、あろうことか文革運動のなかでゆえ
なく罪を着せられる筆者の父親。いっぽう母も「思想改造」のため
にチベットへ下放(かほう/都市で生活している人やインテリ、学
生などが農村に行かされて農業に従事する)される。またもや長距
離移動。
そして娘である筆者は文革の主役の紅衛兵になり、一家はバラバラ。

やがて父親の名誉を回復するため、母親は北京に陳情に行く。
じつはみなさん、私はこの陳情の旅こそが「とんでもなく大変な、
歩いて歩いて歩き倒す旅」だったように記憶していたのですが、い
ま読み返してみたら、それほど歩きばかりでいきあたりばったりの
旅ではありませんでした。
彼らは中国人らしく、ちゃんとツテを頼ったり、しっかりとした計
画のもとに行動しています。そこはなんか、「歩く」のテーマにこじ
つけてしまった感がありまして、すみません。

そのうえで私はあらためてこんな感想をもったのでした。
広ーい中国のなかでおこなわれた、彼らの人生における長い長い旅
こそが、20世紀の中国の人たちの多くが経験したことなのだ。とん
でもない旅は彼らにとってあたりまえの日常だったのだ、と。
革命家だけでなく、中国ではだれもが「長征」をしてきたのだ。

つまり、中国を理解しようと思うなら、あるいは中国人の考え方を
理解しようとするなら、広い広い国土と、たくさんたくさんの人間
と、だれもが長い長い年月をかけて、とんとんとんでもない旅をし
ていく、その固く固くなった足裏の皮膚に秘められた「決意」みた
いなものに触れる必要があるのだろう、と。

そしてそれが現代の「一党独裁市場経済全体主義官僚賄賂覇権国家
・中国」を理解する一歩になるのではないかと。
あれ、説得力ないな!


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ブックカフェデンオーナーブログ 第176回 2020.01.23

「歩くにしたって限度っちゅうもんがあるだろうに」

半径10メートルのカフェでちょこまか歩いている私でも、アメリ
カに南北の全長3000キロにもおよぶアパラチア山脈というのがあ
って、それが東部と中西部の境目になっているというのは知ってい
ました。
でもそれを全部踏破する「アパラチアン・トレイル」という行為が
あることは知りませんでした。みなさんはご存じでしたか?

しかし、いくら歩くにしたって限度っちゅうもんがあるだろうに。
南のジョージア州から北のメイン州まで3000キロ、もちろん何か月
もかけて山脈に沿って、尾根や山道を歩いていくんですよ。
日本でもいま「トレイル」ばやりのようですが、これはちょっと
ケタ外れの話です。まるで巡礼のような難行苦行、あるいは比叡
山千日回峰行のような修行のようなものではないでしょうか? 
あっそうか、山伏ね。たしかに。

「トレイルズ」(ロバート・ムーア/A&FBOOKs)

副題に「『道』と歩くことの哲学」とあるように、「歩くことを通じ
て、人間の存在と行動の起源に迫る」ということですので、この本
もとうぜん400ページちかい分量となります。
なんで「とうぜん」かは、わからんけど。
長く歩けば歩くほど、ひとは思索的になる、たくさんたくさん考え
てしまう、3000キロも歩けばなおのこと、とうぜん本も分厚くなる。
読むのにだいぶ時間がかかりました。

この筆者は自身で長いトレイルをしながら、「だれがこの道をつく
ったのだろう?」「どうしてそれは存在するのか?」「そもそも道は
なぜあるのか?」などとむやみに問いつつ、さらに、「そもそも動
物はなぜ動くようになったか?」「生物はどのようにして世界を認
識するようになったか?」「なぜ先導する者とあとからついていく
者がいるのか?」などと、思索の深みにズブズブはまっていってし
まうのでした。

ロバート君、あぶないぞ! 
こういう「問い」は、たしかに「人間の存在と行動の起源に迫る問
い」かもしれないけれど、じつは「答えのない問い」であり、「そ
もそも答えがあると期待してはいけない問い」なのだ。
そういう問いにはまるのは、やかんに頭がはまってしまった中国の
少年のように、あるいはフェリーニの映画「道」にはまって何回も
観てなんども泣いてしまうことのように、あぶないことなのだ。

人間、あんまり歩き過ぎるのも考えものです。
というのも、たとえば筆者は、
「蟻塚をつくるシロアリも、木をなぎ倒すゾウも、人の住まなくな
った家に茂るクズの蔓も、あるいは協力しあって草地を踏みならす
羊飼いとヒツジも、すべての生き物は自分の必要に合わせて世界を
つくりかえている」といって、「私たちが自然と呼ぶものは、ほとん
どがこうした小さな変化や適応の結果なのだ」とします。

地球上の生物が、みんなで少しずつこの自然をつくりあげていった。
そんなの当然じゃん、ねえ。筆者は考えすぎて一周360度回って元
の場所に着いたのです。だってNHK番組「昆虫すごいぞ!」のカ
マキリ先生こと香川照之さんも同じこと言ってましたもの。

ただし、いやいや、人間が思う自然は、他の生物が感じる自然とは
違うだろ。だからそのなかで人間があたりまえのように生きている
環境も、それは人間が一方的に思っているだけのことなんだろ。
筆者はそう考えてまた歩き続け、果てない思索を続けるのでした。

ところで話は変わりますが、ソクラテスはこんなことを言ったそう
です。
「(旅に出た)そのままの自分を、よろいをつけたまま一緒に運んで
帰ってきたのでは、なんにもならない」と。
この本のなかでも筆者は、トレイルをつづけながらドンドン持ち物
を少なくしていく種類のミニマリストに出会ってします。

その人はトレイルをするにあたって、「毎年毎年私は持ち物を減らし
て、そのたびに幸せになっている」と言うのです。
つまり彼にとっては、「よろい」を脱いでどんどん身軽になっていく
作業が「トレイル」なんですね。

そこで筆者は、そのようにして荷物を軽くするのは、恐れを捨ててい
くプロセスでもあるのだろうと考えます。
ひとの持ち物それぞれが、怪我や不快さ、退屈、攻撃など、そのひ
との恐れを表わしている。ひとはほんらい、自然の中でなにも持た
ずにいるときが最高に落ち着き、くつろぎ、自分らしくいられる。
それはつまり、環境/モノゴトをあるがままに受け入れられる状態に
あるということなんだ。
彼はそう言うのです。

私はそんな言葉を聞いて、それこそ「人間の存在と行動の起源」だ
ろうし、もしかしてそれをさらに突き詰めると、「思索」をも捨てる
作業ではないだろうか、と考えるにいたりました。
すると「持ち物を捨てるとは」は、人間があたりまえのように生き
ている環境を考え直すプロセスではないのか。世界と裸で向き合う
方法ではないのか。

そしてそれは、「少しずつこの自然をつくりあげていく」ことに参
加する作法のひとつではないのか、だとしたらやはり山伏だ、そう
私は思いつつ、自分の背負っている荷物とカフェを捨ててトレイル
したくなったのでした・・・ンンンッ、と、たぶん、しないか。

ブログ176

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第175回 2020.01.16

「ヒトたるもの歩かなきゃ。歩くように読まなきゃ」

一日中カフェで働くということは、半径10メートルくらいの範囲を
ちょこまかと歩いていることになります。
そんなことではいかん、それでは頭も体も腐ってしまう。私も外に
出て歩かなければ。と、思って読んだのが、

「ウォークス 歩くことの精神史」(レベッカ・ソルニット/左右社)

でした。
これは、ヒトはなぜ二足歩行をはじめたかという生物的なことから、
散歩の文化や都市の遊歩、そして歩行と思索の関係といった哲学的
なことまで網羅した、「歩くこと」じたいをいろいろな角度から360
度全方向から考えた本でした。

まずここにはたくさんの思想家や文学者が登場します。
とりわけ近世のイギリスからは、ワーズワース、ジョン・キーツ、
スチーブンソン、ジェーン・オースチンなど多くいて、彼らは人生
とか生活を「歩くこと」と密接に絡めて考えていた人たちのようで
す。
イギリス人って、歩くことが好きな人たちみたいですね。
ほかにもルソー、キェルケゴール、ソロー、現代人では「路上」の
ケルアックや「ソングライン」のチャトウィンなど多くの哲学者・
思想家のことばが引用されています。

全方向からですからね、錚々たるメンバー構成です。
とりわけルソーなんて、なんせ自称「孤独な散歩者」ですからね。
「これほどよく考えを巡らせて、はつらつとして、多くを経験し、
自分自身であったことは、徒歩で一人旅をしている間だけのことだ
った」、なんてカッコつけて書いているようです。

机の前に座っているより歩いている方が、自然を感じたりしながら
いい考えが浮かんだりする、というのが人の世の習いというもの。
「歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産む。風景を通過す
るにつれ連なっていく思惟の移ろいを歩行は反響させ、その移ろい
を促していく。」きっと、みなさんも同じでしょう。

その点では、巡礼なんかも同様です。
「歩きはじめた巡礼者の知覚する世界にはいくつか変化の兆しが現
れ、それは旅を通じて持続することが多い。時間間隔の変容、研ぎ
澄まされる感性、そして身体と風景の再発見。」
なんて書かれてますね。

少し目線を変えると、現代の「歩く人」、ブルース・チャトウィンは、
「われわれの革命の英雄たちも、十分に歩くまでは何ということの
ない人物だった。チェ・ゲバラの放浪、長征が毛沢東に与えたもの、
出エジプトがモーセに与えたものを考えてみよう」と言ってます。
それは、革命というものが、戦略的に「歩くこと」を必要としたと
いうことだけではなく、革命家がこころのなかで充分に革命を熟成
させ、人々がひとつにまとまるのに必要な時間と行動が、「歩くこ
と」だったということかもしれません。

かくして、筆者の歩くことへの思索はズブズブと深くなっていくの
でしたが、ところで筆者自身は、どちらかというと自然の中や放浪
や長征よりも、街なかの歩行に気持ちが向いているようでした。
それについては、「歩くということは外部に、つまり公共の空間に
いることだ。歴史ある都市ではこの公共空間にも放棄と侵食がおよ
んでいる」とか、「行進と街頭のお祭り騒ぎは、民主主義の示威行
動として好ましい部類に含まれる」とか書いています。

このように、自然の中を歩くか人工の街なかを歩くかの違いが、そ
のひとの思想の違いにも表れるということがあるのです。
街歩きでは、公共空間とか民主主義とかのことばが出てきがちです。
人のつながりとか人間環境とかね。どうしても社会のなかで生きる
個人を考えてしまう。

その点で忘れてならない思想家が、ウォルター・ベンヤミンさん。
1920年代にドイツからパリに来た異邦人であり、ルソーとおなじ
「孤独な散歩者」として街を歩き、ブラブラ歩き専門の「遊歩者
(フラヌール=フラガールではない)」として、「頭を上げずに、も
の思いとためらいが感じられる歩き方」で、人工の街パリの人工の
パサージュ(屋根のある小商店街)を歩きつつ思索を練りあげた。
街中の歩行者は、どちらかというとやや屈折した孤独な近代人とい
うことになりましょうか。

この本では、こうして「歩く」ことについての考察が延々と続き、
筆者は720度回って(ややしつこく書かれている面があるので、二
周しました)、全全全方角(三周しました)からいろんな種類の歩
行と思索をしているので、ご紹介しているときりがありません。
が、ともあれ、多くの思想家の多くの歩行による多くの思考が載っ
ている500ページもあるこの本を、休みなく走るマラソンのように
二時間で一気読みするというのもヤボなことです。

では、と、こういう本を読むにつけては、無理したりせずに「散歩
するように読む」こともありでしょう? 
あちらこちらに立ち止まりながら、遠くの景色を眺めたり、目につ
いた小道に入ってみたり、物陰に隠れている妖精に目をとめたり、
だれかの落とし物を拾ったり、カフェでお茶したりしながら読んで、
そこで小さなことばに出会っていく。
いちおう私はそうしました。
なので、読み終わるのにだいぶ時間がかかりました。

ブログ175

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第174回 2020.01.09

「私たちをボーッとさせる、とんでもない旅路」

世の中には、みずから進んで、あるいはなにかに強いられてやむを
得ず長い旅をする人たちがいて、カフェのような半径10歩くらい
の空間にいる私には、とても信じられない行路がそこに広がってい
ます。

とりわけ、どうしようもない運命に引きずられておこなう必死の旅
は人間の血や汗のにおいまでも感じられ、それが、見たこともない
風景や感じたことのない感情と入り混じって、活字をつうじて私た
ちをボーッとさせるのです。
これも文学というヤツの不思議な力というもので。

「今でなければ いつ」(プリーモ・レーヴィ/朝日新聞社)

第二次大戦末期、ロシアやポーランドからユダヤ人がパルチザンと
なって、ドイツ、オーストリアを経てイタリアのミラノにたどりつ
くまでの長い長い旅路の物語。

彼ら東欧のユダヤ人は、所属していたロシア赤軍からはぐれた者、
ポーランドのゲットーから逃げ出した者、ドイツ軍から隠れていた
者などからなる一隊で、彼らは力をあわせて戦いながら最終目的地
のパレスチナをめざします。
映画「栄光への脱出(エクソダス)」みたいに大がかりなものではな
いし、旅路のほとんどが小さなパルチザン部隊による戦闘です。

ところで、パルチザンの役割は私たち日本人にはなじみの薄いもの
ですが(日本人はパルチザンの経験がない!)、自国において味方の
正規軍とは別行動で、それに先んじて、敵陣に入り込んで破壊工作
やかく乱工作をすることにあります。
サッカーでいえば、だれにも知られずにドンドンとオフサイドをし
て相手ディフェンスをかく乱し、味方がゴールするのをアシストす
るようなものです。

だから「旅路」とはいえ、それはもちろん、もれなく「戦闘」の付
いた「行軍」だし、場合によっては正規軍より危険な任務を遂行す
ることになります。
そしてこのパルチザン一行の走行距離が、なんと2,000キロ以上! 
日本列島でいえば、端から端までのきびしい旅だ。

彼らはソ連軍(赤軍)のドイツ侵攻に先んじてドンドン進み、その
後、ソ連軍の前線に追いこされることでむしろその役割を失ってい
く。オフサイドしていたらいつのまにかゴールを通り越してグラン
ドを出てしまい、なおかつ試合がいつのまにか終っていたようなも
ので、見捨てられ感がハンパない。
しかし彼らも、最後にはなんとか自分たちの目的地のミラノにたど
りついて、さらにそこからパレスチナへの道が暗示されるあたりで
物語は終わります。

とんでもない旅路を読むことになってしまいました。
でも私たち読者は、この長い行軍をスゴイスゴイと感心ばかりして
いてもいられませんのです。
ヨーロッパ各地のユダヤ人がポグロム(抹殺)を逃れて、一人ずつ
少しずつ集り、ワンチームの「部隊」として戦い移動する、それが
いかに大変なことだったかということが、読み進むうちにわかって
くるからです。

部隊の中のロシア系のユダヤ人は、
「ユダヤ人として生きたいものはシベリアへ行け。シベリアが嫌な
ら、それはロシア人でいたいということなのだ。第三の道はない」
と言われて軍隊に入った。

ポーランド系のユダヤ人は、
「(自分たちは)異邦人、ロシア語はだますためにしゃべり、別の
奇妙なことばで考え、キリストを知らずに、わけの分からないバカ
げた掟に従い、ずる賢さだけがとりえで、金持ちだがおくびょうな
ものたち」と、さげすまれてきたと言う。

また自分たちユダヤ人の中も、
「部隊のものたちは、シオニスト(ユダヤ人はパレスチナに帰って
国をつくるべきだとする)だと公言していたが、その傾向は多彩で、
ユダヤナショナリストから正統マルクス主義者、ギリシア正教徒、
無政府主義的平等主義、トルストイ流の大地帰還運動まで」いろい
ろな考えのものがいる。

生まれ育ちも考え方も帰属もやりたいこともバラバラ。
でも周りからは一括でユダヤ人と言われる。
そんな我々はどこに向かったらいいのか?
主人公の一人で部隊のリーダーであるゲダーレは、行軍中に村人か
ら、「あんたたちはどこに行くのか?」と問われて、
「遠くだ。戦争が終わるまでドイツ軍と戦うつもりだ。だがわから
ん。たぶん戦争の後もだ。そして立ち去ることになる。パレスチナ
に行くつもりだ。ヨーロッパにはおれたちの居場所がない」と答え、
そして相手に、「言ってくれ。おれたちはおまえらの客なのか、囚人
なのか?」と尋ねる。

こういうことばを聞くと、どうころんでも彼らの旅に終わりがある
とは思えなくなります。
だって世界のどこにも居場所がないんですから。
そしてパレスチナだって安心安住の居場所ではないのですから。
仮に「神」が「この」戦争を終わらせても、旅は続き、「つぎの」戦
争が「別の」場所で始まる。それは不確かな予感でもなんでもなく、
目の前の現実として部隊のだれでもがわかっていることのようです。

いつでも厳しいなあユダヤ人の旅路は、と私はボーッと考えます。
なんとかポグロムを生き延びたこの作者レーヴィも、結局最後は自
殺だし。

ブログ174

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第173回 2020.01.02

「まっくろで反動でアナーキーな思想と私たちの未来」

もうやめます、はい、もうやめますので、新年早々あと一冊だけ黒
い表紙の新書を紹介させてください。
まずこの本、まっ黒さかげんが尋常ではない。
表紙はもちろん目次や扉もまっ黒で白ヌキ文字、本文の余白も全部
黒。だから余白ではなく「余黒」で、そのためじっさいは読みにく
さもバツグン。まっこと、おめでたい新年にはふさわしくありません。

内容もダークというかブラックというか、とんでもなくワケのわか
らない、しかし、なんかスルーしてはいけない気がして、ああどう
しよう、私にこの本をうまく説明できるでしょうか、いや、とにか
くチャレンジしてみないと・・・ああ、こまった。

「ニック・ランドと新反動主義」(木澤佐登志/星海社新書)

では行きます。新反動主義とはなにか?

近代の進歩主義や道徳観念は行き詰った。
自由や平等も、民主主義も、そして資本主義さえ先が見えない。
「私はもはや『自由』と『民主主義』が両立できるとは信じていな
い(ピーター・ティール)」とまでいう人がいるほどだ。
われわれがいま目の当たりにするのは、西洋の没落、綻びゆくアメ
リカ、国民国家の解体、人新世(新たな地質年代として、人類が地
球の地質や生態系に重大な影響を与えている時代のこと)のはじま
り、そして人類の滅亡への入り口ではないか。

世界の行く末はこんなにもマックロだ。ダース・ベイダーだ。
すると必要なことはなにか? 
新反動主義はまず、民主主義などという名の「大衆迎合的な」シス
テム兼イデオロギーは否定する。というのも、「民主主義は不信の的
となり、市場経済も不平等を拡大している。この二つが格差を生じ
させる原因」だからだ。

必要なのは、人間の生得的な差異や能力に基づいたヒエラルキーに
価値を認めつつ、近代以前の伝統的な文化や価値観に重きを置くこ
とだ。
どういうことか。
ニーチェのいうような「超人」の登場と、それによる統治が望まれ
るということだ。
世界の形態としては、すぐれた人材に率いられた独立した小都市国
家が乱立する政治システムこそが最善なのである。
それら都市国家は、企業的な競争理念によって運営され、ITなど
各種のリテラシーを備えて高度に自立した個人は、そこにおいて、
所属する国家を自由に選択して移動するのだある。

・・・と、こうした考えが「新反動主義」なのでした。
うひゃ。
「反動」の意味、わかりましたかね? すごい過激思想ですよね。
たしかにこれは、アカでもグリーンでもシロでもない、クロです。
個人の自由主義をとことん推し進めようとするリバタリアン(新自
由主義者)たちは、「小さな政府の実現」などの主張をとうに飛び
越えて、「各種のリテラシーを備えて高度に自立した個人」という
超人の登場をとうぜんのことして期待し、彼らがが「自由に移動す
る」という、そんな極北の地点に着地していたのです。
トランプ君もびっくり!

筆者はこれを、ピーター・ティール(ペイパル創業者でトランプ支
持者)、カーティス・ヤーヴィン、ニック・ランドなどの思想と、
「暗黒啓蒙(ほらね、黒でしょ)」「加速主義」などのキーワードに
よって解説してくれます。

私が感じましたのは、もしかしてこの新反動主義は、リバタリアン
思想が一周回ってアナーキーな無政府主義に通じてしまったのでは
ないか?ということでした。
そこんとこ、どうなんでしょうね? だれか教えてください。

書名にも登場していたニック・ランドなんて、
「人間、それは乗り越えられるべき何か、すなわち悩みの種であり、
重荷である」なんて、ひどいこと言うんですよ。
これ、人間不信じゃないですか。高度な知性と多くのリテラシーを
有する者だけが生き残れる、みたいな感じで、愚者や敗者を排除す
る論理じゃないですか。まるで映画「マトリックス」の「設計者」
が言いそうな理屈じゃないですか。

さらに彼は、「『平等』や『国家』は今や『自由』と『個人』にとっ
ての足かせになっていると感じる」とまで言うんですよ。彼らはき
っと、人間の限界を超えたいという欲望に駆られているんだね。

ともあれ、こうした考え方が、現在のネット社会やキャッシュレス
社会を生み出した起業家であるティールやヤーヴィンによって提唱
されてきたということは、きっちり押さえておかねばなりません。
つまりアメリカのシリコンバレーの企業は、GAFAたちが切り開
いた地平の上に乗っかり、そこからさらに新しい、自分たちだけの
経済秩序や世界システムを創ろうとしているからです。

彼らはこう言うでしょう。
現在の政府は要らない。とくにパターナリスティックな権威は要ら
ない。
どんな形であれ、権威や権力を振り回すシステムは、ぼくらには不
要だ。カネもモノもヒトも自由に流通する社会をITやネットワー
クのチカラで創るのだ。そのためにはAI、暗号通貨、ビックデー
タ、ゲノム編集、監視システムなどなど、なんでも利用するぜ。シ
ンギュラリティなんて、もう目の前に来ているのだ、さ、どーだ、
諸君と。

これは大丈夫か? 
新反動主義は、私たちの味方か敵か?
もしかしたら私たちの生を呪う思想ではないか? 
そして、テクノロジーの進歩が加速すればするほど、社会や人間観
のパラダイムを根本から変革するであろうという「加速主義」は、
スター・ウォーズの帝国のように私たちの自由や平和を阻害するの
ではないか? 
これ以外の「未来についてのグランドビジョン」は描けないのか?! 
私たちは、じつは本の表紙と同じで、お先マックロではないのか?
どうするジェダイの騎士たちよ?この「お話」のつづきはあるのか?

 

ブログ173

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第172回 2019.12.26

「国体ってなに? 天皇ってなに?」

ということで、ほんとにしつこくてすいません、黒い表紙の新書つ
ながりでご紹介しなければならない本として、

「国体論 ~菊と星条旗」(白井 聡/集英社新書)が、あります。

ベタにまっ黒な表紙に白抜きの題名と、なぜかオビの位置に、まる
でオビに書かれる感じでキャッチコピーと筆者の顔写真が印刷され
るという、シンプルなデザイン。
この表紙は、デザイナー原研哉さんによるものでした。さすがです。
インパクト充分です。

でも、あれ? 手元にあるのは第二刷だけど、その後の増刷からは
表紙の色が水色に変わっているぞ。どーしてそんなことしたんだろ
う? 黒表紙新書つながりのこの感想文が、つながらなくなっちゃ
うじゃないか!

それはともかく・・・。
「国体」とはいったいなんでしたっけか?
それはいまの私たちにはよくわからなくなっているが、いわゆる保
守系の方とか右翼系の方にとっては、明確に定義ができるものだっ
たのです。すなわち、
「神に由来する天皇家という王朝が、ただの一度も交代することな
く一貫して統治しているという、他に類を見ない日本国の在り方」
というものです。

いま平成が終わって令和がはじまった。
しかしそれは「国体」の面から見ると、新しい時代が始まったわけ
ではない。統治の基本である天皇家は変わらずに、天皇が変わった
だけだ。
もちろん、戦前だって天皇が直接統治していたわけではなく、天皇
は日本国体の象徴であり、統治は政府が行なっていた。これは、古
くからの天皇(神権)と幕府(俗権)の二重統治構造とまったくお
なじものだった。

と、ここまで、私の理解では、この二重統治構造とは、精神と肉体、
心と金、ハレとケ、権威と権力、それらがイイ感じのバランスを取
っていたということですね。
幕府側としては、じっさいの統治はウチらがやるから、天皇陛下は
民の気持ちをまとめる精神的な支柱でいてね、たまに困ったときに、
ちょっとだけお力を利用させてね、大嘗祭とか即位パレードなんて
そのいいチャンスなんですから、バンザイ三唱でも四唱でもします
んで、そこんとこヨロシク、とそんな感じ。

ところが筆者によれば、その国体はじつは一度崩れて再編されてい
る。じっさいは、一度「交代」しているのだというのです。
どういうことか。
もちろんそれは太平洋戦争の敗戦の時で、GHQによって統治の主
体が変わり、天皇は統治主体としての戦争責任はまぬがれたが、神
から人間となって統治の座から降りることになった。
つまりそれまでの国体は、いちど崩れたのでした。

じゃ、その間だれが統治したか?
もちろん、神に由来しないアメリカ人のコーンパイプをくわえたマ
ッカーサー君が直接統治した。
戦後の何年かは、マッカーサーが「天皇」であり、GHQが「幕府」
だった。つまり、菊に代わって星条旗が国体だった。
日本国民は、ほんらい天皇を敬っているはずの右翼の方々も含めて、
「マッカーサー万歳!」と万歳三唱していた。
つまり、彼を国体として崇めたのだった・・・。

そうそう、私もじつは、おかしいと思っていたんですよ。
天皇中心の国体を大切にする右翼の方々は、本来鬼畜米英みたいな
考えを持っておられると思っていたのに、なんでいまでもアメリカ
を支持し、日米安保体制を支持し、地位協定を認め、場合によって
は米軍基地建設に反対する沖縄の住民に「非国民!」ということば
を投げつけたり暴力をふるったりするんだろうって。

そっか、いっときマッカーサー、というかアメリカが国体だった、
それがDNAに刷り込まれてしまった、だから彼ら右翼の方々はア
メリカ支持、日米安保支持、ついでに嫌中・嫌韓なんですね。

で、かんじんの天皇はどうなったか。
天皇に期待されたのは和解のシンボルの役割だった。和解、すなわ
ち、他の国々との、国内の階級間の、沖縄との、「和解」です。
そしてGHQの占領が終了すると、天皇のお役割はさらに大きくな
り、憲法で規定された「象徴」というよりは、自然(環境や災害)
などへの祈りによる「共同体のまとめ役」を担わされるようになっ
ていった・・・。

ああ、それは重くてつらいお役目でしたね。
昭和天皇も上皇も、さぞかし神経が疲れましたでしょうね。
これから今上天皇もそうでしょうね。「まとめ役」、ほんとうにお疲
れさまです。
即位のパレードなんて、もうキャアキャアいってスマホをかざす見
物の方ばっかりで、アイドルなみの人気でしたもん。テレビで見て
いるこっちも疲れてしまいました。って、見てたのかい!

こうやって天皇家のみなさんも、「国体」から「統合の象徴」へ、そ
して象徴から「アイドル」、「ゆるキャラ」になっていってしまうの
かなあ。あ、失礼なことを言って申し訳ありません。
ただ、当カフェに来る子どもたちも、パレードでのお二人の手の振
り方を真似してましたもん。だからなんだってはなしですけど。
いまはたしかに、そのくらいのほうが「日本という大きな共同体の
まとめ役」にふさわしい立ち位置になるのかもしれません。

なにはともあれ、国体ということばの意味も戦前と戦後で異なり、
戦後に再編され、さらに平成、令和となってこのあともたぶん少し
ずつ変わっていくのだろう、ということがわかりました。

ブログ172

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第171回 2019.12.19

「執筆者の心意気と覚悟を感じる、保守と右翼観」

新書で、しかも真っ黒な表紙つながりでいうと、

「『右翼』の戦後史」(安田浩一/講談社現代新書)

を、ご紹介したくなります。
これは、雑誌記者出身のルポライターである筆者が、私たちにあま
りなじみのない「右翼」を、その思想系統や人のつながり系統ごと
に解説した本です。
この表紙がまたまた、目をガーンと打つような、スミ一色のまっく
ろけのけ。

それはともかく、右翼ってどんな人たちでしたかね?
天皇制を支持する方々ですか。戦後の焼け跡をヤクザさんたちと共
に暴力で勝ち残った人たちですか。もしくは政治の裏側でフィクサ
ーとして力を発揮した人たちかな。

私たちは知っているようで知らないことばかりです。
いま右翼の種類もほんとうにさまざまで、宗教右派もいれば新右翼
と呼ばれる団体もあるらしい。ビジネス右翼というのもいるらしい
し、左翼をつぶすだけが生きがいの人たちもいるらしい。
その行動や、主義主張のさまざまな色合いの違いを、きちんとした
取材をもとに、公正な表現でていねいに解説してくれるのが、この
本のいいところでした。
取材の過程ではいろいろと差しさわりやヤバいこともあったでしょ
うね。その意味で、筆者の心意気や覚悟を感じました。

さて、いまはネトウヨ(ネット右翼)という、おもにSNS上で愛
国的で差別的な極端な意見をのべる人たちが注目されています。
彼らは、ことさら嫌韓・嫌中発言をしたり、戦時中の日本軍の虐殺
はなかったと強弁したり、自分と異なる意見を持つひとの誹謗中傷
をしたり、展示会の展示が気に食わないので脅迫しちゃうといった
ひとたちなので、法律でその投稿を規制しようという動きまである
のはみなさんご存じのとおり。

でも「右翼」って、私の理解では差別主義的なひとでもたんに暴力
的なひとでもなく、もともともっと純粋に天皇中心の国体を守った
り、お国のためや虐げられた人々のために身をささげる、理想主義
の人たちだったのじゃなかったかなあ。

戦前には欧米列強に立ち向かい、政府の腐敗と財閥の驕りに憤り、
農村の疲弊に涙して、身を賭してテロに走り、あるいは「民族の触
覚」としての役割を果たしたといわれる「あの人たち」のことじゃ
なかったのかなあ。
頭山満や三島由紀夫がいま生きていたら、いったいどう言うだろう?

筆者も、「嘲笑と冷笑、そしてヘイトスピーチ。差別と偏見をむき
出しに『敵』を次々と発見しては、個別に撃破していく」、そんな、
ネット出自の日本版「極右」が暴れまくっている、と苦々しげに書
くくらいです。ネトウヨ、ちょっと困ります。

ところで単純な質問ですが、右翼と保守は違うのでしょうか?
このへんのところも、私たちにとって、ややボンヤリしています。
ネトウヨは、たしかに「右翼」そのものではないし、いわゆる「保
守的」な団体つまり、自民党と手を組んで政策(国旗国歌法制定、
外国人地方参政権反対、教育基本法改正など)をすすめた、話題の
「日本会議」や日本青年会議所(JC)などとは異なります。

たしかに異なるけれども、私にはやはり、彼らは心情的に同じ根っ
こをもっているように感じられます、ま、ボンヤリと、ですけど。

筆者も、「右翼はきわめて心情的なものである」「他者に対しては排
他的で、復古主義である」とし、また「保守」についても、「保守と
は思想ではなく、生き方の問題である。(本来は)伝統を尊び、時代
の流れに翻弄されることなく、地域や社会につくすことではないの
か」と、現在の右翼と保守の共通する立ち位置に疑問を呈していま
す。

そうだよ、「地域や社会につくす」右翼、昔の清水の次郎長や大前田
栄五郎のような侠客はどこに行ったのか、時代の流れに翻弄されな
い力はどこにあるのか、頭山満や三島由紀夫が生きていたらなんと
・・・などど、ボンヤリ考えてしまいます。

さらに筆者は、「右翼には具体的な設計図が存在しない」とも言いま
す。そこが右翼の特徴なのだと。
彼らには大きな構想がない、その場その場での反応で行動すること
が多い。まるでリアクション芸だ。だから未来予測がない。そこが
いまの日本の右翼の弱点なのだと。

そうそう、「具体的な設計図」という点では、いままさに「改憲」と
いう大きなテーマがありました。
憲法は、いってみれば「未来予想図」ですからね。少なくともここ
だけは、心情的であったり排他的であったりすることなく、また暴
力的であったり差別的であったりすることなく、キッチリと自分た
ちの未来を話し合っていかないと、後世の人から笑われてしまいま
すでしょう。
あいつら、ウヨクかどうかは別にして、バカだったねって。

だから、立場の違うウヨクであってもサヨクであっても、ホシュで
もカクシンでも、アカでもクロでもキイロでも、ネットでもガチリ
アルでも、憲法については同じ舞台で議論しなければなりません。
と、これは、地域と社会につくすつもりの、私ことカフェマスター
の心意気と覚悟(?)でした。

ブログ171


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第170回 2019.12.12

「岩波新書の心意気 ~きっと社内に野蛮な編集者がいたな」

私も会社づとめをしていたときは、なににつけても、だれかや何か
に支配されている感触がぬぐえなかったものです。
いまお勤めのみなさまはいかがでしょうか?
上司の命令、組織の論理、会社の使命、会議の空気、社内的立場、
そんなものがいつのまにか自分にとりついて離れない。それは、私
がトップに近い立場になって経営の意思決定をしたりするようにな
っても変わりませんでした。

会社づとめをしていたころは、動物園の動物よろしく、管理飼育さ
れている自覚がなかっただけなのかもしれませんですね。
というか、支配とか管理とかを人事評価とか給与査定ばかりに結び
つけて考たり、人事とか組織という便利な「システム」に乗っかっ
て、それを利用しつつもちょっとだけ不平不満を言って気を紛らわ
せていたのかもしれません。

じゃあ、会社づとめをやめてカフェという自営業をしているいまは
どうか? 支配されてる感はなくなったか?
やっぱりダメなんです。おなじなんです。
組織という形態からは「自由」になったけれども、もっと大きな社
会とか法律とかテクノロジーとかに支配される。

たとえば特定秘密保護法にビビリ、安保法制に青ざめ、原発再稼動
の論理に驚愕し、共謀罪で息が詰まり、ああ、マイナンバーなんて
ものもあったよなあ、と久しぶりに思い出す。
これらのできごとは、会社づとめであろうと自営業であろうと年金
ぐらしであろうとだれにも共通する、「支配されている感」を実感
する瞬間かもしれません。

それでもって、あれっ、香港で起こっていることって、じつは私た
ちに起きていることの延長線なのじゃない?と思ったりする。
いまごろ気がついたのかねと言われればそれまでですけど、森本さ
んの言うように、私は根本的なところまで考えがいたらない「正統
になりかわるつもりのない異端(非正統)」なのかもしれない、こ
のごろはそう思うようになりました。
でもそれだけではくやしいので、こんな本のご紹介を。

「アナキズム」(栗原 康/岩波新書)

まずは岩波新書編集部と岩波書店に敬意を表しましょう。
なぜって、この著者でこういうタイトルと内容の本を出すのですか
ら、その勇気に感服です。表紙もまっ黒けのけのけ。
新書だからこんな過激なことができたのでしょうか? 社内にアナ
ーキーで野蛮で乱暴力のある編集者がいたんでしょうか?

まずは筆者の文章です。たとえばフランスで起きたデモと暴動(黄
色ジャケットの)については、
「もはや経済がどうこうとか、よりよい労働をとか、そういうはな
しじゃない。もちろん貧乏人がコケにされているこのクソみたいな
社会にクソッたれってのはあるんだろうけど、ちょっとばかし仕事
をもらったって、ちょっとばかしカネをもらったって、だまりゃし
ないぞっていう気持ちがにじみでている。なめんじゃねえぞ!って
ね」、、、と、こんな文章が続くのです。

ここはじつは、まだ比較的穏便な表現のところを引用したのです。
なかにはもっと露骨な表現があるし、四文字表現もたくさんありま
す。ですから、よい子はマネしないでくださいね。

章や節の見出しの表現にしてからが、たとえば、「おまえはおまえ
の踊りを踊っているか?」「やられなくてもやりかえせ」「クリエ
イティブはぶちこわせなのでございます」「自分をなめるな、人間
をなめるな」「ダンスもできない革命ならば、そんな革命はいらな
い」。こんな感じで続くんですからね。
格調を重んじる天下の岩波書店の本でですよー。すごいでしょ!
えらいでしょ、よくやるでしょ! 
とはいえ、そんなところばかり褒めていないで、内容をきちんと
ご紹介しないといけないですよね。

まずアナキズムとはなにか?ということから。 
以前にもご紹介しましたが、念のためもういちどここでは、
「アナキズムとは、『支配されない状態』をめざすことだ」と、ひと
ことでいっておきます。それは究極の自由を求めること。
はい、以上、おわり。簡単ですね。だから試験には出ません。

そのうえで筆者は、
「いまは自由で民主主義的な社会であるはずなのに、なぜ私たちは
自由と感じられないのか? 息苦しいほどに束縛を感じてしまうの
はなぜか?」と、こうたたみかけ、そして「なにものにも縛られな
いためにはどうするか」と読者に問いかけてくるのです。

〇〇主義にたいして××主義で対抗できれば、まだ束縛への反抗の
しがいがある。しかしいまは、そうした立ち位置の「軸」がない。
私たちは、どうしていいかわからないままにヤバイことに対して黙
って傍観してると、権力や組織というものはそのスキに自己増殖し
ていき、それに飲み込まれていく。
それは政治にかぎらず、ビジネスでもどこでもおなじだ。

そんななかで、なにかを絶対に正しいなどと主張する奴らは、新た
な権力を打ち立てようとしているだけなのだ。
そんなの意味がないではないか。
たとえば、環境問題だってそうだ。
「エコ、エコって言ってる連中ってのは、それがぜったいにただし
いっておもっているぶんだけ、使命感がつよいんだ。マジこわい。」

いっぽう、現実にはたしかに自由が少なくなっている。
そして権力による縛りが強くなっている気がする。

では、どうする? 支配されない状態をめざすには?
大事なのは、
「いつだって、なんどだって、これがただしいっていわれている生
きかたをぶちこわすことができるかどうか。あたらしい生をつかみ
とれるかどうか。たとえ、それが予想外の結果をもたらしたり、マ
ジっすか、それ大失敗じゃんってなっちまったりしたとしてもね。
かまわずやれ」ということなのだ。

筆者はこんなメッセージ、というか檄、というかラップをガンガン
飛ばしまくります、四文字ことばも連発して。
ひとはもっと野蛮に生き、暴走し、気まぐれし、わがままを言わな
ければいけないぞ、そしてまずったらトンズラすればいい。それが
たとえまちがっていたとしても、その過激さこそが人間の可能性の
幅をひろげてきたのだ。それが「歴史」だ。まちがっても権力やシ
ステムにのみ込まれておとなしい奴隷になるな!と。

そういえば沖仲士の哲学者エリック・ホッファーも、「自由に適さ
ない人々は権力による支配を渇望し、そうでない人々は、放ってお
いてくれ、そうすれば私は成長し、学び、能力を発揮できると言う
だろう」、てなことを言っていました。
彼もまた自由を愛する哲学者でしたね。

私たちは、権力の支配のおよばない場所でちょっとだけ野蛮なおこ
ないをすることで、すこしだけ自分たちの可能性を広げることがで
きるのです。
そっか、いまからでも遅くないかな、できあいのシステムからはぐ
れて、野蛮に暴走するには。シニアになったからこそできる野蛮と
かアナーキーとか、あるよなきっと。
岩波書店編集部のなかにこんな本の企画を通す自由な野蛮人がいる
のなら、ブックカフェにも野蛮人オーナーがいてもいいんじゃない
か?

 

ブログ170




 

ブックカフェデンオーナーブログ 第169回 2019.12.05

「正統か異端か、正統か非正統か、それが問題だ」

当カフェの本棚にも、多くの新書が鎮座しています。
そういえば、新書という本の形態は日本だけのものでしょうか?
いや、そんなことはないですよね、版型としてはペンギンブックス
などに近いペーパーバックですし。もともとそちらのほうが、手軽
に安く買える本の本家だったのですものね。

でも日本には小説メインの文庫という形態もあるし、それとは別に
こんなにも多くの版元が競って〇〇新書という啓発書のシリーズを
出している国は、ほかにないんじゃないでしょうか。
ちなみに世界で最初の「文庫本」は、1501年にヴェネチィアでマヌ
ツィオ印刷所というところが、八つ折のコデックスというものを刊
行したのを嚆矢とすると、内田洋子さんの受け売りをさせてもらっ
ておきます。

そんな手軽な新書の中に、いまの自分の関心にピッタリとフィット
する内容にブチあたったりすると、ものすごく得をした気分になる
ものですよね。
800円(税抜き)で、お宝本見つけたぞ!って。

「異端の時代」(森本あんり/岩波書店)

はい、これはそんな意味で嬉しい本でした。

著者は国際基督教大学(ICU)の先生。
以前に出された「反知性主義(新潮選書)」(この「選書」という形
態と版型は日本独自のものでしょうか?)も、アメリカのピューリ
タン的な宗教感覚を中心に、キリスト教原理主義と反知性主義が政
治や生活にどう影響しているのかをわかりやすく解説してくれてい
ました。

今回はその続編ということでもないでしょうが、「知性と反知性」に
代わって「正統と異端」の関係をさぐっていきます。そして、じつ
にいまはその両方ともないのであって、とりわけ「非正統」はある
が「異端」はないのである、と主張するのです。
正統と非正統と異端? ややこしやー、ややこしやー、それはいっ
たいどういうことなのか?

本の前半で著者は、正統とは異端によって時間をかけて作られてい
くものだと述べます。
たとえば「正典(聖書のようなもの)」があったとしても、「正典は、
人々の間ですでに正統となっているものを反映する時にのみ、権威
をもつ」。だから、「正統と異端」ができて、そのあとで「正典」や
「教義」が徐々に整備されていくものなのだ。
正統は作ろうとしてつくれるものではなく、「正統は、それ自身で
は定義されえず、その容れ物を示すことによってしか特定できない
内容をもつ」のである、として様々な例証を上げるのです。

おわかりになりますでしょうか?
「正統」は容れ物であり、そこに入りきれないものを「異端」とし
て外部にオミットすることで、容れ物の形が明確になるというので
す。
んまあ、これは、ことばが先で意味は後でつくみたいなことをおっ
しゃっているのかなと理解できたとしても、こんな決めつけは、キ
リスト教、とくにカトリック的には問題ないのかなあ。だって、カ
トリック(正統)は、異端によって出来上がってきたって言ってい
るようなものじゃないですか?

つづけましょう。
ではたとえば憲法はどうか。その正統性はどこで保証されるのか。
筆者は「単に憲法が制定されていることと、それが人びとの間で広
く承認され尊重されていることとは別」でしょ、といいます。
つまり、その憲法が正統だという「権威」は人々の承認によって保
証されるのであると。さらにそれは本来、異端的な異論との闘いの
中で獲得されるはずのものだと。

ただしいまは、本来の権威ある正統(多くの人に承認された容れ物)
がなくなり、したがって異端もなりつつある。
「背景としての正統の消失に付随して、異端もまた明確な輪郭をも
つことが難しくなる」。
ようは、正統がなければ異端もなくなる。たとえばカトリックが弱
くなれば、異端も出てこない。おなじように憲法が権威を失うこと
で、「まっとうな」異論も力を失う。そして、たんに反対のための
反対である「非正統」が増える、と、こうおっしゃるのです。

けっきょく、いま世間にみられる異端は、「『正統になりかわる』な
どという骨の折れる仕事はしたくない」が、批判する側には身を置
きたいという「なんちゃって異端」なのである。
そういうなんちゃって異端の人々は、「批判することの代償を自分で
は払わない」のだ。無責任な言いっぱなしをするのだと。

また、「権力の座にある者に絶えず暴言を浴びせ、目上の立場にある
者を執拗に攻撃するという『御上(おかみ)たたき』は、やはり不
健全でいびつな権力観をあらわしている。」
そして、「(それまで正統とされてきた)体制を批判し、腐敗の刷新
を叫ぶ改革者もまた、自分一人ではあたらしい流れをつくることが
できない」で、正統も異端もどちらも、明確な権威を持てなくなっ
ているのだ。
(「これではまるでどこかの国の野党のようだ」「いまの与党は一強
なだけで、正統とはいえない」・・・とまでは著者は言っていません
が、読者がそう感じたとしても不思議ではない書き方をしています)

それならば、では、多くの国民の意見を吸い上げるポピュリズムは
どうか。
「ポピュリズムは一般市民に『正統性』の意識を抱かせ、それを堪
能する機会を与えているのである。人びとは、匿名であるままに、
みずからを安全な立場に置いた上で、この正統性意識を堪能するこ
とができる。」
プハーッ、うまい、この歯切れよくのど越しのいいスーパードライ
なおことば! クーッ、久々にしびれました。

そういえば著者は、前著「反知性主義」でも、
「必要なのは、単に現行の秩序の上と下を入れ替えるのではなく、
別の秩序でそれをぶっつぶす力である。自分も属しているその同じ
価値序列の上下をひっくり返すだけなら、それは単なるルサンチマ
ンの表出にすぎない。そうではなく、別の座標軸に立って新しい視
点を示す」ことが重要だと言っていました。

著者の問題意識はここでも変わらず、われわれは新しい視点に立っ
て新しい正統を作る努力をすべきであり、その方策をきちんと探す
べきだとし、そのために反知性主義を排すのです。
これは憲法改正問題とその議論のしかたに、きちんと反映させたい
主張だと思いました。

どうせ憲法改正を議論するなら、たんに現状追認(いまある自衛隊
を憲法で保証してあげようよ的な)をめざす「なんちゃって改正」
ではなく、きちんと「新しい異端」をつくる気概をもって議論しろ。
筆者はこう力強くプッシュなさるのです。

ブログ169

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第168回 2019.11.28

「雑、それは価値観の転換をはかるヒント」

当ブックカフェには、雑誌は少ないものの、種々雑多な本と、お客
さまがつくられた雑貨が雑然と並べられています。そこでは、雑な
性格で雑念ばかりのマスター(私)が、雑用をこなしている。

こうならべてみると、「雑」はマイナスイメージの強いことばです。
が、いやいやトンデモナイ、これから必要なのはそういう「雑」の
精神なのだ、じつは「雑」は強いのだ、雑草を見よ、踏まれても強
いだろう?「雑」な人間ほどイジメにも呪いにも負けないのだ、だ
から「雑」の価値観をもっと尊ぼうじゃないか、というのが、

「雑の思想」 (高橋源一郎/辻信一/大月書店)
「弱さの思想」(同)

の、お二人の主張でした。
ではそのお考えをちょっと聞いてみましょうか。

現代社会では、雑とか粗雑とか複雑とかが避けられている。
議論ではスッキリした論理とハッキリした証拠を提示しつつ相手を
論破せねばならない。部屋も仕事場も頭の中も整理整頓して、きれ
いにしておかねばならない。また、仕事でも生活でも自分の行動は
つねに説明できるようにし、コスパを優先して、生産性や効率性と
いったキレイな経済性を重視すべきとされる。

私たちはこのように、できるだけ粗雑や複雑さやあいまいさを排し
ていくことで他人との的確なコミュニケーションをとることができ、
理解を得られやすくなるのだ。
だから、ビジネスであれ政治であれ、いつでもどこでも通じる汎用
性あるわかりやすい価値観によって行動することが、もっとも効果
的な戦術なのである。それこそが予測しにくい世の中で確実に生き
るための強さであり、勝ち組になる秘訣なのだと。

たしかに、言われるとおりかもしれない。
しかしそのような近代合理主義的な思考は、ある意味、自分自身に
かけた「呪い」となって行き詰まりつつあるのではないか?
自分らしく生きるには他人との勝負に勝たなければならないと思い
込み(思い込まされ)、そのためには合理性や経済性が必要だと思
い込む(思い込まされる)ことは、現代人が自分で自分にかけた強
い呪いなのではないか?

だとすれば、私たちはそのような考え方から抜け出す時期ではない
だろうか。
もしかしたらいまは逆に、雑さや弱さが必要なのではないか?
複雑性とか非効率とか不便益とかが必要になっているのではないか? 

たとえば、あまりに清潔な環境を求めすぎて、逆に子供たちがアレ
ルギーとかひ弱になっていることは、なにかを示唆していないか?
学校や会社でもひとつの正解を求めすぎて、ひとの考えが硬直化し
てることはないか? ことばでは多様性をいいながらそのじつ、純
粋さへの信仰を固く守っていないか? だれもが説明責任を言い、
自己責任をあげつらい過ぎてはいないか?
明確さや効率や便利を求めすぎて、だれかが考えたアルゴリズムに
頼りすぎていないか?
 
雑草や雑木を見よ! 雑菌や雑穀を見よ! 雑種を見よ!
雑だからこそ生命力が強いのだ。雑は非効率だが多様性をもつのだ。
南方熊楠を聴け! 彼は体系を嫌い、あまりに整然とした分類を避
け、世界の混沌をそのまま受け取ろうとした。
吉本隆明を聴け! 彼も「だいたいで、いいじゃない」と言ってる。
鶴見俊輔を聴け! 彼のいう「プラグマティズム」とは、なにもの
も型にはめない「非原理主義」的な生き方のことだった。 

・・・お二人は(だいたい)このように述べます(一部にわたしの
個人的意見とつたない表現が混じっていることをご容赦ください)。
そのうえで高橋源一郎さんは、
「雑とは自由であること、予断をもたないこと、自由に動きまわれ
ることを意味しています」といいます。
なんかカッコイイ思想ではありませんか! ザッツ(雑)思想だ。
体系ではなく混沌、直でなく複、強さではなく弱さ、そのように価
値観の転換をはかることで解決される問題があるとすれば、「雑」も、
現代社会の呪いの解除法として有効に使えるかもしれません。

さて、ここでは特別なまとめなどございませんが、、、、
どうぞみなさま、雑然とした私どものカフェに雑談をしに来ていた
だければ、だれにとっても役に立たない、ムダだけれども呪いのか
かっていない、ドブ川に気持ちよく捨てることのできる、雑な時間
がお過ごしいただけるものと存じます。
雑駁ですがこれにて今回の雑文を終わらせていただきます。

 

ブログ168

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第167回 2019.11.21

「ふだんの生活をなにげに祝福してる人」

どういうことばや態度が「呪い」の反対の「祝福」になるのか、い
まいち具体的にわからないのでもう少し突っ込んでみないか、どう
せカフェはヒマなんだろうから、とおっしゃるあなたへ。

「ステキな奥さん ①ぶはっ/②あはっ/③うぷぷっ」
                 (伊藤理佐/朝日新聞出版)

の三冊を、おすすめいたします。
これは朝日新聞に連載されているエッセイをまとめたもので、ここ
にあるのは、リサさん(筆者)による、ふだんの生活のなかでの自
分や家族への祝福でした。
と私は感じました。はい。そしてさらには、他人や動物やモノやデ
キゴトや、つまり生活そのものへの祝福が綴られていると。はい。

どこにそれを感じたかというと、たとえば「家族のなかでも言って
はいけないこと」というのがある、とリサさんは言います。
それは「ダンナさんの運転に酔う」こと。
たとえ本当のことであっても、ダンナさんを小さく傷つけたり縛っ
たりするので、軽い気持ちであってもあえて言わないというのです。
とってもカンタンな注意、祝福の入り口、日常生活のちいさな知恵
だと思いました。

またたとえば、逆に「リサって、ジャンケン弱いね」と言われたあ
とのリサさんの反応も参考にしてみましょうか。
これって本当をいえば、「あなたは持っている運が少ない」みたい
な、「大切なものを否定された」気がすることばのはずです。つまり
大げさにいえば、近しいひとからの呪いのことばかもしれない。
ほかにも、「いつも味噌汁しょっぱいね」とか「太ったね」も「あ
なたの運転には酔う」も、もちろんおなじ危険をはらんだおことば
です。

でも、そうした、生活のなかでなにげに言われる「呪い」に育ちか
ねない発言を、筆者はきちんと自分のなかで「呪い」とは別に分別
して処理していきます。
ジャンケン弱い、「そだねー」と。太ったね、「そだねー」と。

別のエピソードにもその「処理」のしかたが述べられています。
ムスメの登校時間に家の前の横断歩道に「PTAバトロール隊」と
いう黄色い腕章をつけて立っていると、あるオジサマから「イトウ
さん、あなたは横断歩道が似合っている」と言われ、みんなに笑わ
れる。

しかし筆者は「何かが落ちた。見たら『腑』だった」と(良いほう
に)納得し、似合っているならばいたしかたあるまい、と考えて今
日も黄色い腕章をつけて立っている。
これこそがりっぱな、そして大人な、かつ太っ腹な身の処し方であ
り、世間に蔓延する呪い(もしくはその芽)を適切に処理する仕方
ではないでしょうか。

フフフ、そう言われるならばいたしかたあるまい、ま、そうかもし
らん、はい、確かにジャンケン弱いです、それがなにか? と軽い
フットワークでかわしていく。
同じようなことで、たとえば仲の良いオトナ女子の間には「ドブ川
に捨てる力」というのがあると書かれています。
それはどういう「力」かというと、嫉妬や妬みや悪口などの本音や
失言を二人の間ではいくら吐いても大丈夫という状態です。
会話のなかに危ないことばが出ても、二人ともそれをあまり真剣に
受けとめすぎずに「軽くよける」。
というか、流して捨てる。

すると、二人の間でたとえ「呪い」に育ちそうな危険なことばが飛
び交ったとしてもすぐに流されてしまうので、
「いつもありがとう、受けとめてくれなくて」
「こちらこそ、ドブ川に捨ててくれてサンキュー」
と大人の会話ができる関係になっている、らしい。いいじゃないで
すか!
筆者はこの天然由来の「ドブ川に捨てる力」を豊富に持つことで、
「のろい」を寄せつけない「よろい」を身につけているのです。

さて、ここまでは「呪い」のよけ方に関する話でしたが、そんな力
を持っている筆者には、「許したってぇ~」サンという不思議な人物
がでてくるらしい。
私は、この「許したってぇ~」サンというのが、なぜか祝福に関係
する重要人物のような気がして、特別にご紹介したかったのでした。

「いつ、わたしのところへやってきたのか、それともずっとわたし
の心の中に住んでいたのか」、それはわからないが、この「許した
ってぇ~」サン(たぶん関西の人)は、使い切った歯磨き粉のチュ
ーブを「グイグイ絞っているときに」やってくる。
ギュウとやっていると、「も、もう、許したってぇ~」と現れる。
「いやいや、まだまだ」とハサミでチューブを切って歯ブラシをゴ
シゴシ突っ込むと、「ゆ、許したってぇ~」と、さっきよりせつない
声を出す。それだけのひと。

えーと、これはどういう理由で祝福に関係していると思ったのか、
よくわかりませんが、、、なんとなくこの「許したってぇ~」サンが、
筆者の中で悪いものを「ドブ川に捨てる」担当であり、呪いの芽を
祝福に転じる切り換え役のような気がしたのでした。
ちがうかな。ちがうな。

それはともかく、たぶんこうした筆者の「生活に向き合う姿勢」は、
とくだん自分や相手を祝福しようと意識することなく、人と人や、
人とモノの関係を自然に整えていくことに気持ちを割き、それに役
立つことばや感じ方を自然に選び取ってきたからこそできあがった
ものではないかと思いました。

そうだとすれば、これはほんとうにだれにも必要な、「伸ばすべき」
能力と姿勢ですよね。英語を聴き取ったり話す能力の前に、学校で
先生が生徒に教えるべきものですよね。
そうだそうだ、人やものごとを幸せな方向に解釈して整えていく努
力ができることは、そりゃもうたいしたことなのだ、カフェでも見
習おう、と思う、すっかり呪い問題を解決した気になったマスター
でした。

 

ブログ167

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第166回 2019.11.14

「まだまだ奥深い、呪いの世界」

さて、当カフェで呪いが横行しているわけではありませんが、よの
なか的にはさまざまな呪いが蔓延しているように見えます。
たまたま、お若いお客さんの悩みを聴くことがあると、けっこうな
確率で「これは周囲からの呪いが関係してるな」と思われるものが
ありました。みなさん呪いに悩まされているみたい。
そこでこれまで何人かの先人から、そうした他者からの呪いを解く
方法を教わってきたのでした。

ところが、他者からではなく自分で自分にかけた呪いというのがあ
って、それは解くのがたいへん難しいといわれています。
評論家の内田樹(たつる)さんも、
「この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にか
けた呪いは誰にも解除することができない」と言っていますね。

「分で自分にかけた呪い」とは、どういうものか。
たとえば自己評価がとても低く、なににつけても自分が悪いんだ、
自分のせいなんだと思ってしまう「自己嫌悪」も、自分にかける呪
いの一種ですね。
若い頃にはわかりませんでしたけど、これがけっこう根深くて始末
に困るわけで、自分の経験からも自己嫌悪の解除は難しく時間もか
かる作業です(現在進行形)。

もうひとつ、だれか他人に呪いをかけているひとは、逆に自分で自
分に呪いをかけているといえるかもしれません。
他人を縛ろうという気持ちが自分に返ってきて、自分を縛りつける。
そのように逆方向で自分に呪いをかけるひとは、それを愛だとかそ
れゆえの怒りだとか、なんとも身勝手な理屈をつけている。
でも、それは生きる方法としてやるせないというか、迷路で袋小路
に陥っているネズミのような生き方ではないでしょうか。

「呪いの時代」(内田 樹/新潮社)

他人への呪いは自分に向かう。
この本で内田さんは、それを出発点にしてさらに視野を広げて呪い
を考えていきます。
「弱者たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、被害者たちは償いを
求めて呪いの言葉を吐き、正義の人たちは公正な社会の実現を求め
て呪いの言葉を吐く。けれども彼らはそれらのことばが他者のみな
らず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまり
に無自覚」だ、と述べるのです。

すると、世の中にあふれる嫉妬や恨みつらみは、下手をするとすべ
て自分に呪いをかけるタネ/ネタになってしまう。
それが嵩じると、たとえば「ネット上では相手を傷つける能力、相
手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われている」よ
うになり、その作業に勤しむひとは、自分に呪いをかける競争をし
ているようなものなのだ。

そう考えると、ネット上で毒をまきちらすひとばかりでなく、国会
の論戦やマスコミを交えた非難合戦もそう見えてきちゃう。
国と国の間では日韓や米中も同じく、呪いのかけあいをすることで
自分を縛っていることになりそうです。
そうなると、
「呪いは破壊することをめざすので、10年かけて築き上げた信頼関
係でも、(呪いによって)壊すのはわずか10秒で十分」ということ
になります。呪いが自分自身に向かい、自分たちを壊すまでいく。

こうして、世の中になんとも残念な状況ができあがってしまうとい
うのですが、とりいそぎ私は内田さんの主旨を了解しました。
でも、じゃあ、具体的にはどうしろというのでしょうか?

内田さんいわく、呪いの反対は「祝福」だ。
私たちは他人を祝福し、もって自分を祝福しなければならない。
それには「生身の、あまりパッとしないこの『正味の自分』をこそ、
真の主体として維持すること」だ。まずはそのように自分を受容し、
そうすれば他人を祝福することができる。そういう連環で他人と自
分を承認して生きることが「自分を祝福する」ことになる。
こうして自分を祝福できるひとは、他人に呪いをかけるヒマなどな
い。これが呪いの蔓延するこの社会を生きる方法なのだ。

そっか。そうでしたか。呪いの反対をすればいいのでしたか。
まず自分を受け容れる。そして相手を祝福する基盤をつくる。相手
の力を奪うのではなく力づけるようにする。するとそれがグルッと
自分にもどってきて、自分をなにかの束縛から自由にし、生きる力
を高めてくれる。
なんか一周まわって元の場所にきちゃったような気もしますが、ま、
いいでしょう、これがよく生きるための好循環を創る作業なのだと
考えて、ここから始めましょう。

では、好循環を苦心する「祝福のことば」にはどんなものがあるの
でしょうか?
私なりに考えてみたのですが、まずはたとえば「希望」「感謝」「信
頼」「安心」などを相手に手渡すことができることば、そういう種
類のものだろうと思われました。それは相手がくつろげて、自身の
力を感じられて、可能性に気づくような表現。
「お手柄!」「いい仕事した!」と褒めるのもそうでしょうし、「お
かげさまで」「ありがとう」もそうでしょう。また、「だいじょうぶ」
とか「抱え込むなよ」なども、使い方とタイミングを間違えなけれ
ばいいのかもしれません。

まずはありのままの自分を受け容れ、自分がまずくつろぎ、恨みつ
らみを捨て去り、虚心に世界と向き合い、暖かい心を紡ぎ、上機嫌
に、目の前の相手に祝福のことばを贈ることが必要だ。
みなさん、わかりましたね? 
はいっ!(祝福のためのいいお返事)

ブログ166

 

ブックカフェデンオーナーブログ第165回 2019.11.07

「呪いの怖さと奥深さと解除の方法と」

呪いのなかでもいちばん多く身近なケースというのが、親から子ど
もへの呪いかもしれません。
じつに、ふうちゃんもやっくんも(もう思い出しました?)、そうし
た親からの呪いに縛られ、自分を受け容れられなくなり、その状態
からの脱出にもがいていたのでした。

とするとひるがえって、私たち自身も、気がつかずに身内に呪いを
かけたりしているかもしれません。
私も、子どもにではなく逆に、老いて弱った親にかけている呪いが
あるかもしれません。あぶないあぶない。
だから、呪いなんて他人事だなんて言わずに、先輩方の経験を参考
にもうすこし考えてみましょう。

「根を持つこと 翼をもつこと」(田口ランディ/晶文社)

筆者のランディさんは、「人を呪うのなんて簡単ですよ」「繰り返し、
言葉に出せばいいんです」という秋山真人さんという方のことばを
きっかけに、呪いについて考えていきます。

まず、呪いとは、「呪ってやるーっ」「死んで祟ってやるー」「店を
つぶしてやるっ!」なんて力んで、丑三つ時に藁人形に五寸クギを
打ち込まなくてもいいんだって。
そんなに力まなくてもよい。呪うのはもっと簡単。
会うたびにその人に対して、たとえば「大丈夫ですかあ? 体調悪
くないですかあ? ちょっと顔色悪いですよ」と親切がましく言い
続ければいい。
すると相手は本当に気にしはじめて、やがてほんとうに体調を崩し
てしまう。のだ、そうです。

つまり呪いというのは、「てめえを、のろって、やるーっ!」と
強いパワーで意識的にされるよりも(それはそれでもちろん怖いで
すが)、むしろ、ふだんの会話の中でふつうのことばで日常的にお
こなわれることが多い、のだと。
しかもその多くは無意識的になされる、のだと。

だから身内からの呪いは繰り返されるがゆえによけいタチが悪いし、
電話でセールスの方からかけられるたまの呪いなんかよりいっそう
恐ろしい。
なぜなら、受ける側はそれが呪いとは気がつかないからです。
かつ、かける側も自分が呪いをかけているとは思わないからです。
身内ですから、とうぜんすべて愛情のもとに言っているのだと思い
込んでいるからです。受ける側も、愛情がゆえに言われているのだ
と思い込むからです。
つまり、双方ともに気づきにくい。

ランディさんいわく、「もともと呪いとは、相手を縛ってがんじが
らめにして生気を奪いとること」なのだと。そう、やっくんやふう
ちゃんが親から毎日受けたのがこれでした。
「あなたのためだから」「そんなことしたらあなたはダメになる」
「がんばればなんとかなるさ」「お願いだから私のことをわかって」
などと、ふつうに優しいことばをくりかえしくりかえし反復してか
けられることで、ひとは縛られていく。

つまり、「(多くの)呪いの目的は相手を遠ざけるためではなくて、
相手を縛るためなので、呪いを操る者は必ず相手の側にいる」の
です。
つまり呪いをかけるのはだいたいが近しい親しいひとで、そのひと
は「相手を縛りながら実は自らをも縛るのだ」ということらしい。
それこそが「愛情」だと思っている。双方ともそう思っている。
それは、DVよりもいっそう見えにくく怖いかもしれませんね。
父親や母親からのこんな「愛情」あることばが、呪いとなって子ど
もから生気を奪うことのなんと多いことか。

では、この呪いをどう解くか?
まずは前回同様に、相手が自分を縛って思うがままに動かそうとし
ているかどうかの見極めをつけることがたいせつ。気づくのは難し
いかもしれないけど、それができたら半分解いたも同然。
そのあとは、「言葉には言葉」で対抗するのが有効だそうです。
つまり、術にはまったかなと感じたときの解除の方法は、「自分が
信じていることを言う」、それも「声に出して」、だそうです。

どういうふうにか?
たとえばランディさんは、相手のことばに呪いを感じて、いかん、
この呪いは解かねばならんと思って、教えられたように自分が一番
信じていることばはなにかと考えて、とっさに「レット・イット・
ビー」を思いついた。それを言葉に出して、さらには歌っちゃって、
するとなんとなく気持ちがスッキリして、それで呪いは解除できた
みたい。

ほーっ、なるほどそういうテクがあるのですね。わかりました。
そうした比較的軽い呪いに対しては、あらかじめ自分が好きなこと
ばや信じていることばを用意しておく手はありそうですね。
「なんちゃって」でも「ケセラセラ」でもいい。もちろん「南無阿
弥陀仏」でもいいし、「オンマニペメフン」でもいい。
あ、そうか、短い念仏って、人生にかけられたいろいろな呪いを解
くために用意されたのかもしれません。いまごろ気がついた。

そういえば、邪気払いにつかう九字真法の「臨・兵・闘・者・皆・
陣・烈・在・前」も、それを唱えながら手を刀のようにして空を切
る作法とともに、お祓いの工夫だったのか、そっか。
いまごろ気がついたけど。なんか納得した。

私だったらなにかな? 自分が信じていることばってなにかな? 
やっぱり植木等「スーダラ節」かな。ことばだけでなく大きな声で
歌えちゃうという決定的な利点もあるしですね。
「♪わかっちゃいるけど、やめられないっと、ホレ、スィースィー
スーダララッタ、スラスラスイスイスイーッと♪」 
これで私にかけられた呪いは解かれ、祝福される。

ブログ165


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第164回 2019.10.30

「呪いを解く切り返しとは」

カフェのような自営業をしていると、日中さかんに売り込みの電話
がかかってきます。
何々をお買いになりませんか、電気とガスを一緒に契約するとお得
です、いまお使いの○○回線を代えませんか、ナントカビューでお
店の中の紹介をして集客しませんか、いま近所にいるのですが家の
外壁を直しませんかなどなど、とても頻繁に。

それにたいして穏便に対応できているうちはいいのですが、相手が
しつこかったり、こちらのご機嫌が芳しくなかったりするときもご
ざいます。
ややいい加減に「間に合ってます」とか「ハイハイ、またね」とか
ぶっきらぼうに対応すると、それまでやさしいお声だったお相手が、
「フンッ、お前の店なんかそのうちつぶれるかんなー」とお捨て台
詞をお吐きになられ、ブチッとお電話をお切りになることもござい
ます。

すると私は受話器を握ったまま、考え込むのです。
私はなにか悪いことをしたのだろうか。相手さまに失礼なことを申
しあげただろうか。そのせいで相手さまを怒らせ、ひいてはわがカ
フェの経営が危機に立たされるのだろうか。この先どうしたらいい
のだろう。どうすれば相手さまの怒りを解き、カフェもつぶれずに
すむだろうか、と。

・・・で、また、ハタと正気に戻るのです。
「つぶれるかんなー」というのは、神様のご託宣でも確かな予言で
もなく「呪いのことば」なのだ。私はそのことばに惑わされ、眩ま
され、いっとき信じ込み、みずからの行動が招いた結果だと思い込
まされてしまったのだ。
なるほど、すると私にはこういう本が必要なのだ。 

「呪いの解き方」(上西充子/晶文社)

呪いのことばを投げつける側は、それによって相手を自分の思うと
おりに動かそうとする、つまり支配しようとする。支配してモノを
買わせたりする。
それに対して真っ向から立ち向かおうとすると、じつは相手の土俵
に立たされることになり、はては言い負かされたりする。
いわば呪いにからめとられた状態になる。

私たちは普段の生活で、そのように「呪いのことば」にさらされて
いる。
親とか家庭の中もそう、仕事場でも政治の世界でもそう(筆者はこ
の分野がご専門でした)、呪いのことばはあちこちに蔓延している。
ハッキリした呪いばかりでなく、「そんなことすると恥かくぞ」「あ
なたのために言ってるの」「嫌ならやめれば」「若いっていいねえ」
などなどの「普通に使われる」ことばでさえ、使い方によっては相
手のこころを縛る「呪いのことば」になってしまう、私たちの気づ
かないうちに。と、筆者はいいます。

となると、そんな厄介な「呪い」と「呪いをかける人」に対して私
たちは、毅然と立ち向かわなければなりませぬ。
そうしないと、知らない間にやっくんやふうちゃんのように(覚え
てますか?)心が縛られてしまい、親や上司や政治家の意のままに
動されてしまいかねないのですから。

では、どう脱出するか? 
親から呪いをかけられたやっくんは、女装することでやっと解き放
たれた。親のいる土俵から、別の土俵に移ることができた。
そういえば、母親からの呪いを、マンションのリフォームという
「上書き」で解こうとした精神科医、春日武彦先生の話もご紹介し
ましたっけね(No.92)。どちらも長く苦しい闘いを経てようやく、
生きる次元を変えることができたのでした。
しかしそんなに苦労しなくても、もっとてばやく呪いを解くことが
できるんじゃないですか、というのが筆者の言いたいことでした。

私たちは背筋をのばして、「そういうあなたは自分で自分に呪いを
かけているのですよ」「私を縛ろうとしているだけなのですよ」「そ
れに気づいてください」と言うことができ、またそれを行動で示す
ことができると。
相手は自分を縛って思うがままに動かそうとしているだけなのだと
見極めがつきさえすれば、それを切り返す行動がとれるのだ。

どうです、みなさん。
みなさんは呪いに立ち向かえていますか?
ふつうに身の回りにある呪いに注意を怠らず、立ち向かう勇気を持
てていますか? まずはこの本を参考にして、相手のことばに性急
に反応したりせず、また安易に相手の土俵での言い返しなどをせず
に、冷静に対処してみるとしましょうか。

「店つぶれるからなー」にたいして、どーしよーどーしよーと、う
ろたえてはならない。また「おお、できるもんならつぶしてみろ」
と言い返してもならない。いずれも相手の土俵に立ってしまうこと
になるからです。
そんな露骨な呪いの電話への切り返しとしては、
「店つぶれるかんなー」「ワオッ、お兄さん、クールじゃん!」
「ン? プツン、プープープー・・・」、どうかな?

ブログ164

 


 

ブックカフェデンオーナーブログ第163回 2019.10.24

「『すごいヘン』を語らせたら『とってもすごいひと』」

美術史家のバルトルシャイテス、ご存じの方おられますでしょうか?
「あの」中世美術史家の碩学アンリ・フォションの弟子。
「あの」って、どの「あの」なのか知らんけど。
とにかく芸術に関する豊富な知識量とそれを縦横無尽につなげ合わ
せる天才で、とりわけヨーロッパ中世美術の研究や、古代から現代、
中東や東洋まで触手を伸ばした幻想芸術(つまり「ヘン」な芸術)
の謎解きでは大家とお呼びできる方です。

「その」ユルギス・バルトルシャイテス(だいたい名前がすごい。
立て続けに三回言ってみてください)の本を何冊かカフェに並べて
いたら、なんと驚いたことに、「わたくしが、『この』本の編集をい
たしました」というご近所のお客様がいてビックリ!
世の中、どこにどんな方が住んでおられるかわかんですなあ。
ともあれ「この」バルトルシャイテスさん、略称バルさん、ハエを
退治させたら、、、失礼、「ヘン」を語らせたらとってもすごいんで
す。「ヘン」の大家、すなわちヘンタイなのです、って、またまた
失礼!

今回はそんな「ヘンタイ本」四冊セット、まとめてのご紹介とな
ります。

「アナモルフォーズ ~光学魔術」
「アベラシオン ~形態の伝統をめぐる四つのエッセー」
「イシス探究 ~ある神話の伝承をめぐる試論」
「鏡 ~科学的伝統についての試論、啓示・SF・まやかし」
     (ユルギス・バルトルシャイテス/国書刊行会)

えっと、まずはこの著作集全四巻の表題とそれぞれのオビの惹句、
ならびに「幻想の中世(講談社)」と「異形のロマネスク(同)」
を訳された馬杉宗夫さんの二行解説を並べてみますので、そのオ
ドロオドロしさに驚いて座りションベンしないでくださいまし。

第一巻「アベラシオン」~視覚の神話、形態の伝説
自然の中にある異形や錯視を問題にする。たとえば「動物観相学」
では人間の顔にひそむ獣の寓話を、「絵の中の石」では、石の中に
生まれる図像体系が語られる。そこで常に見いだせるのは、視覚
的な誤差や偏差が生み出す奇妙な映像であり、云々。

第二巻「アナモルフォーズ」 ~光学の魔術、奇妙な遠近法 
ルネサンスの遠近法の分析から始まり、そこから派生していった
16世紀から19世紀にいたる時代の、異質な「幻想的で逸脱した側
面」、すなわち「逸脱した遠近法」にたどり着く。

第三巻「イシス探究」 ~幻想の東洋、西欧の夢想
人々の想像力をかきたて、心につきまとって離れない古代世界の
一つを選び(エジプト神話のイシス神)、、、、ある神話がつぎつぎ
に伝承されていく例を再現しようとする。

第四巻「鏡」 ~鏡面の魔法、光学の奇跡
鏡に映るわい曲の原理が言及され、鏡にまつわる百科全書ともい
える執拗なまでの視覚に対する執着ぶりがうかがえる。

ねーっ、すごいでしょう!
なんじゃこれっていう、「わけのわからなさ」と「ヘンさ」が満載
の、まるでインチキ錬金術師か詐欺師が書いた本みたいな怪しい
感じ、しません?
とにかくバルさんは博覧強記の学者で、おタクのようにも思える
方で、というのも「図像学」というのは、それこそ古今東西のい
ろいろな図像を別の図像と比較し、関連させ、系統立て、そこに
現われる人間精神の秘密を解き明かそうという大それたことを企
てるわけですから、もう関係ありそうなことはなんでも研究して
しまおうというわけで、ちょっとやそっとのおタクではありません。

じゃ、なんであなたはそんなバルさんの本を読んでいるのかと言
われますと、私はオタクではないので、そこはなんともお答えの
しようがない。
ただ、私はもともとヨーロッパの、とくにフランスのロマネスク
美術が好きなのですが、中世の10世紀11世紀に盛んに建造され
たロマネスク教会には、なぜかヘンな、気味の悪い、わいせつな、
できそこないのような、異質でわい曲された、もっというばエロ
・グロ・ナンセンスな装飾がたくさんあるのでした。

聖堂入口のタンパン(扉上)には、聖人とともに怪物たちが浮き
彫りされ、シャピトー(柱頭彫刻)には悪魔のようにみえる醜悪
なヤツがいて、天井の三角隅には人びとの敬虔な信仰を邪魔する
かのような異形なものたちがいて、そいつらはみんなして礼拝に
来る信者たちをにらんでいる。
なんじゃこいつらは!と思って、アンリ・フォション先生の本を
見たりしていたらバルさんにたどりついて、「ワシの本を読むのじ
ゃー」と、魔法の煙をかけられてイチコロのハエになってしまっ
た、というしだい。

しかしまことに申し訳ないことに、今回は本の魅力とすごさも、
そしてバルさんのヘンタイ度の高さも、うまくお伝えすることが
できませんでした。
ですので、ヨーロッパ芸術のなかの「ヘン」にご興味をお持ちの
方、また異形とか逸脱とか奇怪とか混沌とかの怪しい響きに引き
つけられるおタク傾向をお持ちのあなた、ぜひ当カフェでこれら
の本をパラパラッと観たあとで、図書館で借りてみてください。

ブログ163


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第162回 2019.10.17


「ヘンにもいろいろあってスゴイのだ」

いま私はカフェの片隅で好き勝手に、美術における「ヘン」を巡っ
ておりますが、西洋の芸術には「ヘン」に関連する別のキーワード
として「魔術」とか「魔法」があるようですので、もう少し突っ込
みたくなって本棚の奥からこんな本を引っ張り出してみました。

「魔術的芸術」(アンドレ・ブルトン/河出書房新社)

魔術といっても愉快なディズニーアニメや楽しいハリー・ポッター
のお話じゃないですからね。ん、あれっ、関係あるかな? 
いやいや、ともかくもっともっと西洋人の生活の基層に根強くある
信仰のようなものですからね。古代エジプトやギリシアから、ある
いはケルトの時代から、キリスト教の陰に隠れるようにして、人び
とに延々と引き継がれてきたものですからね。

問題は、その「魔術的なもの」が西洋人の精神にどう影響していて、
絵画などの美術にどのように現れたり隠れたりしているかでありま
して、それをシュールレアリストの巨漢、アンドレ・ザ・ジャイア
ント、もとい、アンドレ・ブルトンが解き明かしていくという、も
うマニア垂涎の書(なんのマニアだか)がこれなのでした。

能書きはいい加減にしてはやく内容を紹介しろ? 
ラジャー。と言いつつ最初にお断りしなければならないのは、西洋
の「ヘン」と日本の「ヘン」を同列に比較して彼我の芸術的個性の
違いを見ようと、ここまで続けてまいりました私の目論みは、もう
すでに破綻しております。
この試みはうまくいきませんでした。コトはそう簡単な話ではあり
ませんでした。理由はのちほどに。ご期待に沿えず残念です。
はいっ? 君に期待なんてしていない? それは失礼しました。

では、と・・・・「魔術的」は西洋美術の中心命題だ、と。
だから魔法、幻想、夢、錬金術、占星術、オカルト、奇怪、超自然
などのキーワードによって、多くの西洋芸術を解き明かすことがで
きる。
それらは、ふだんは「人の眼につかぬ、人の眼から隠され、秘めら
れている」ことであり、(西洋お得意の)理性とか進化とかとは正反
対の「非理性」、陽に対する「陰」、正統に対する「異端」、ただし、
人々のこころに大きな影響をあたえてきたものともいえる。
すると芸術作品とは、それらの秘密に迫ることで人間界のあれやこ
れやを解釈し直そうとするものとも考えられる。逆に言うと、多く
の芸術家は「魔術的ななにか」に支配され、無意識のうちに縛られ
ているといえるかもしれない。

こんなブルトンさんのご高説を読んで、私は思いました。
ひとは魔術によって超自然的な力を得て、特別な感覚を育て、他人
とは異なる偉業を成し遂げたいものなのだろう。
王様とか政治家がこの欲望に取りつかれると大層困るのだけど、詩
人や画家にこの欲望が強くなると、「自分をとらえて自分を昂揚せし
めるもの、自分の表現の調子にもっとも重大で、異論の余地ない効
力を与えるようなもの」として宝物のように大事に抱えることにな
る。それにあとから「魔術」と名づけたのだろうと。

その意味でいえば、西洋芸術の「ヘン」のひとつである「魔術」は、
いわば芸術を生み出す隠された源泉でパワーみたいなものであり、
あるいは人間の欲望そのものでもあるかもしれません。
ブルトンさんも、「魔術的芸術ということばは、一面、同義語反復
になる」と言っていて、魔術的な部分のない芸術などありえないと
断定しているのですから、それは彼の考える芸術の「キモ」にあた
ることなのだと思います。もちろん、フランス人なので「キモ」と
いうことばは使いませんが。

その証拠に、とまではいきませんが、本の中でブルトンさんが古代
から中世、近世、近代、現代と絵画芸術をたどって解説するとき、
時代が下るにしたがって、絵画のなかにむしろだんだん「魔術」の
表出度合いが下がっていくように私には感じられてなりません。

どうでしょうか。
北方ルネサンスのボッシュやグリューネヴァルトで強烈に感じられ
た魔術感は、近世のギュスターヴ・モロー、フリードリッヒになっ
てくるとなんか清潔になり、舞台装置のようになり、近代のゴーガ
ンやシャガールやピカソにいたって個人的、私小説風になり、他人
を寄せつけない夢のようになり、心理学のテーマのようになる。
そして、現代美術の抽象性にいたって、おどろおどろしいパワーと
しての魔術的要素は消滅する。

思うに、巨漢ブルトンはシュールレアリスムの理論的大黒柱でした
から、第二次大戦前後の現代美術がパワーを失ったようにみえるこ
とに失望していたのではないかな。
そして、おまいら、人間が本来もっていた魔術パワーを忘れたか、
見えないものをどう見るつもりなのか、秘められているものを懸命
に掘り出すのがゲージュツカの使命なのじゃぞ、バカモノ!と声を
あげた。
私にはわかるような気がしますね、岡本太郎さんも似たようなこと
言ってましたし。

この本を読む方は、しかし、ここでブルトンさんの取り上げた数々
の芸術作品(その中には古代の洞窟絵画から西洋以外の各地の「魔
術的芸術」も含まれています)の図版のすばらしさに感嘆し、驚愕
し、腰を抜かし、誠にこれらはすごくヘンで、なおかつこれらはい
までも力に溢れていると認め、日本にはこんなあからさまな魔術パ
ワーはなかった、その点では比較などできませんでしたと謙虚に頭
を下げ、彼の審美眼と作品選択の意図を楽しんでくださるようお願
いします。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ第161回 2019.10.10

「西洋美術にも『ヘン』はあるの?」

日本美術を鑑賞するポイントのひとつとしてなにかしらの「ヘン」
があるということはわかったが、歴史上、理論的に直線的に進化発
展してきたようにみえる西洋美術には、橋本さんや山口画伯のいう
ような意味での「ヘン」はないのじゃないか?

いやいや、そんなことはありません。
さにあらず、さにあらず。
西洋美術にも「ヘン」な部分はたくさんある、でも、なんというか
それは、「そこはかとないヘン」とか「プロの眼でよく見ないと観
て取れないヘン」ではなくて、「もうぜったいヘン」とか「キモい」
とか「こわい」とか「ありえなーい」とかいう、だれが見てもハッ
キリわかる種類のものが多い気がします。

「グロッタの画家」(東野芳明/美術出版社)

この本は1957年初版ですから、いまから62年前のものです。
私の手元にあるのは1965年の再販で、古本屋さんで手に入れたも
のですから、手に入れたときにはもう完全な「古書」ですね。
定価680円を200円くらいで買っているはずです。まことに古本ら
しいひなびた香りがいたします。
それはともかく、この本は、当時新進気鋭の美術評論家として売り
出した東野さんの出世作だったと記憶しています。

「グロッタ」というのは洞窟を意味し、まるで鍾乳洞のなかのよう
に気味の悪い、怪奇で異様というところから「グロテスク」の語源
となったことばです。美術の形式や時代区分ではありません。
筆者は、ひとは「グロテスク」ということばを使って、「人間が事
物の一種にほかならないこと、そして事物とはもともと柔らかな人
間の白い手に負えるものではないこと」をあきらかにしたのではな
いか、それを画家たちは意識的に強調して描いたのではないか、と
言うのです。

つまり、人間がつくる美術のなかには眼に親しいものや快いものば
かりではなく、「人の眼につかぬ、人の眼から隠され、秘められて
いる」ものが表現されることがある。
それらは怪奇とか奇異とか異様なものとみなされるが、しかしそれ
らをじゃまものとして排除するのではなく、それなりの役割がある
と積極的にとらえることで、「西洋のヘン」が浮かび上がってくる
というわけです。

どうでしょう?
ここに取り上げられている西洋の「ヘン」な画家は、北方ルネサン
スのボッシュやグリュネヴァルト、近世からはゴヤ、エルンスト、
ルドンなどの方々です。
たしかにね、「グロテスク」で「ヘン」な魅力をもつ作品を生み出さ
れた方々ですよね。もうあからさまに怪物とか、残酷な場面とか、
気味の悪い光景とか、そんなものばっかり描いていた、というかそ
ういうもので有名になった画家たちですもんね。

こういう「ケロッパ」、失礼、「グロッタ」系の「ヘン」は、解説さ
れなくても私たちにも「ヘン」と認識できます。どこからどう見て
もヘンですし、「隠され」たり「秘められ」たりしているわけでは
ありませんし、エロ・グロ・ナンセンスに近い(失礼!)ともいえ
ますので。
そこで、ひとつ疑問があるのですが、はたしてこれらの画家の作品
は当時から「ヘン」で「エロ・グロ・ナンセンス」とみられていた
のでしょうか? どうでしょう。

いや、これが、ぜんぜん「ヘン」とは思われていなかったのです。
だって、身分の高い人も聖職者も、金持ちも一般の人も、こぞって
かれらの絵を欲しがったのですから。
もし絵の発注者たちが、「なんてグロなんじゃー!」「キモイーッ」
「ありえなーい!」「神を愚弄しとるー」などと評価をしていたら、
そもそもこれらの絵は作成されず、いまに残ってもいないはず。

ということは、いまの私たちが「グロじゃー」「ヘンだー」と感じ
る部分を、じつは西洋美術の底に流れる通奏低音なのだと肯定的に
とらえるなら、ボッシュやグリュネヴァルトの宗教画から、近代の
ダダやシュールレアリスム、ダリやガウディの造形までを結ぶ太い
糸が見えてきてもおかしくないと思われる。

おかしくないどころか、やはりそこには「ヘン」の確かな伝統があ
るはずだ。筆者は「ヘン」という俗なことばは使ってないけど、そ
して、その「ヘン」は、受け取り方によっては二面性も矛盾もあり
そうだ。
ここでは便宜上「グロテスク」と表現されているが、言い方を換え
て、たとえば逆説、韜晦、喜劇、怪物、廃墟、悪魔などということ
ばにしてみると、それらはもしかしたら西洋芸術史の基層にあるも
ので、もしかしたら芸術解釈上とんでもない広がりがある概念かも
しれない!

・・・というのが、昔この本を読んで感じ、そしていま読み返して
あらためて感じ直したことでした。
はい、美術をめぐるこういう「ヘン」なところに足を突っ込むとす
っかり抜けられなくなって、自分の感覚もヘンになってくることが
あるんだけど、これがアナタ、楽しくてやめられないんですよー。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ第160回 2019.10.03

「『ヘン』は日本美術を見るヒント」

「ヘン」というワードが出たおかげでようやく「しのぶモード」か
ら離れられそうです。よかったよかった。
じつは、日本美術における「ヘン」の研究といえば、そのものズバ
リの題名の、

「ヘンな日本美術史」(山口 晃/祥伝社)

があったのでした。
山口画伯といえば、いま注目の「平成の絵師」とよばれる方。
画家というより絵師と呼びたくなるのは、大和絵や浮世絵のような
伝統的なスタイルの絵を描いていることもありますし、人物や建物
が密集するふすま絵や屏風絵を、芸術家っぽくなく、「ウォーリー
を探せ」みたいな細密で手がけておられることにもよります。
あ、そういえば、今年(2019年)のNHK大河ドラマ「いだてん」
のタイトルバックも山口画伯の手になるものでしたね。

画伯は日本絵画のなかに多様な「ヘン」を発見していきますので、
橋本治さんもこの本を読んだらきっと、「ん、ボクの言いたいこと
とほぼほぼ同じ」と思われたに違いありません。
ただし、絵を描くプロの目とはすごいもので、彼がブツ、失礼、証
拠物件、失礼、美術品のなかに発見する「ヘン」は、ああ、そうい
うふうに観ることではじめてそういうことが見て取れるのね、それ
はじっさいに描いている方だからこそ見抜けることなのね、と感心
させられることばかりなのです。

たとえば、国宝の「鳥獣戯画」。
画伯は「しっかりと技術のある人が描いた絵は、上手さへの志向が
素直で、とても潔いものであると感じられます」とし、墨はキレイ
だしデッサンはすごいし構成はみごとと、まずは褒めちぎります。

じゃあどこが「ヘン」かというと、ここには「ある種の力の抜けた
画調」というものがあって、わざとふにゃっと描かれたり、ちょろ
まかすというか、仕上げすぎていないところがある。
なぜか? それはたぶん、作者が観客の前で描いたせいではないか。
画伯はこう推測するのです。
そしてこの「仕上げすぎない」ことや「観客の前で描く」ことは、
日本美術を読み解く大きなヒントではないかと、こうおっしゃるの
です。

おもしろいでしょう? 
私たちが、「千年も前の絵なのにナウいね」とか「カエルやウサギ
がかわいいね」とか「この擬人化が日本のマンガの原点なんだね」
とか喜んで観ている絵に対して、プロは技巧の細部に表われた人間
くさい「手クセ」を見のがさないのでした。

画伯自身、自分の経験からしても、観客の前で描くとこのように
ふにゃっとなることが多いといいます。
その「ふにゃ」がどういう意味で「ふにゃ」なのか、なぜ「フニョ」
ではないのか、それは画を描かないしろうとにわからんのですけど
ね、ま、それはしょうがないとして。
そういえば、たとえば江戸時代の南画家たちや俳人なども、展示会
や飲み会で酔っぱらいながら観客の前で一幅の絵を描き、それを売
って生活していたのでした。

有名なのは江戸中期の画家、浦上玉堂。
武士だったのに脱藩して絵で暮らしを立てる、それは客に招かれて
酒を酌み交わしながら琴を弾き、興に応じて目の前で筆をとってサ
ラサラサラと絵を描いて売ること。それこそフニョというかボソッ
というか、ダボッというか、しろうと目にも「ヘタウマ」風の「ヘ
ン」さに満ちた山水画。もっといえば「いいかげん」。
そして彼は旅を続ける。 

書斎やアトリエではなく、観客や客の前で即興的に描いて即売るわ
けですから、ま、パフォーマンスアートというか大道芸というか、
投げ銭をいただくというか、各地でタンカ売をして旅する寅さんみ
たいというか、そういう世過ぎに変わりがないのでした。
だから完璧には仕上げない。いや、仕上げられない。いいかげんな
ところで、力を抜いてちょろまかす。
だから鳥獣戯画も、ある面で玉堂とおなじ性格を持った絵だとした
ら、それが「ヘン」という視点から見て取った日本絵画の伝統とい
うことになるのでしょう。

このように画伯は、「伝統的な絵巻」や「雪舟」や「洛中洛外図」
や「屏風絵」などからも、鳥獣戯画とは別のいろいろな「ヘン」な
要素、すなわち日本画の時代時代の「キモ」の要素なのですが、そ
れを取り出してくれます。
そして私たちがその「いろんな『ヘン』」をつなげて見ていくと、
あら不思議、西洋画とも中国画とも異なる日本美術史の大きな背骨
が見えてくるというしかけになっている。

ああ、橋本先生もきっと同じように日本美術のこんな背骨をご覧に
なって、それを絵画だけでなく文学や芸能などの世界にも応用しよ
うとしていたんでしょうね、って、おやおや、また「しのぶモード」
に戻っちゃったじゃないか。

 

 

 

ブログ160

 

ブックカフェデンオーナーブログ第159回 2019.09.26

「超人・橋本治さんをしのぶ」

ほんとにこのところしのんでばかりだけど、どうかしたの?マスタ
ー。
いや、どうもしてないのですけど、たまたまこんな展開になってし
まってすいません。

さて、今年(2019)亡くなった橋本治さんは多作な方で、女子校生
の語り口でつづられた小説「桃尻娘」以来、いったい何冊の本を出
されたことでしょうか。よくわかりませんが、ものすごい出版点数
です。
だれか正確に知っているひとがいたら教えてください。

とにかく彼は超人的といえる著作を残されています。
その守備範囲も、小説から日本の古典解説、美術評論から時事評論な
ど広いこと広いこと。出版界のイチローといっても過言ではない。
イチローより武骨なお顔ですけど、って失礼!
その多くの著作のなかでもイチバンの労作だと私が思うのが、この本。

「ひらがな日本美術史1~6」(橋本治/新潮社) です。

圧倒的な知識量と眼のつけどころ。目次は全部がキャッチーでとっ
つきやすく、ある美術品を「なになになもの」と形容しつつその
特色を素手でグイッとつかみだして解説されているので、しろうと
でも読み進めやすい。
たとえば、中宮寺の菩薩半跏思惟像は「不思議に人間的なもの」、
平等院の鳳凰堂は「テーマパークであるようなもの」。
どーです、お客さん、そのとおりでしょ。

また、「コミュニティであるようなもの」とはなんだろうと思うと、
東大寺南大門だったり、「まざまざと肉体であるようなもの」が、
稚児草子であったりしますから、目次を見て実物写真をながめるだ
けでも十分楽しくて、なんだか幸せな気分になります。
だから、読まずに見るだけでも、よし。

そうはいっても、少しはきちんと本のご紹介をして彼の業績をしの
ばなくてはいけません。
ではあらためて、橋本さんの美術論の真骨頂はどこか?
それはキャッチーでかわいい分類をして提示したことでしょうか?
いやいやそんな些末なところではなく、やはり彼の美術品にたいす
る目のつけどころです。

たとえば第六巻の最後の最後(第103回)で、縄文土器を再び取り
上げ、「縄文土器には自分の内部に直截的に訴えるなにかがある」と
して、その「なにか」とは、「自分に必要な『ヘン(変)』だ」とい
うのです。
そしてその「ヘン」は、とても重要なものであって、「近代以前の日
本美術のすごさは、必要な『ヘン』をきちんと把握してそれをきち
んと位置付けていたことである。」こう述べます。

ここでいう「ヘン(変)」とは、「意外なモノ」「キッチュなもの」「常
識外なモノ」などいろいろな意味合いが込められているようです。
これは岡本太郎さん(縄文の再評価)や辻惟雄さん(「奇想の系譜」)
にも通じる考えかたと感性であり、時代と正面から切結ぼうとした
橋本さんが「自分に必要」と感じたように、ノンキな私たちでも美術
品や歴史的遺物を見る際に覚えてよいことだと感じました。

つまり、学校で習うような発展史学的美術解説ではオミットされるよ
うな、しかしその時代ごとの制作者によって意識的に特徴づけられた
(きちんと把握して位置付けられた)「ヘン」を、日本美術を観ると
きのひとつのモノサシとして持っておいてよい、と教えられたのです。

そんな目であらためて観てみると、国宝になっているような美術品の
なかにも、「ヘン」なものってけっこうありますよね。
縄文の、子どもが作ったようなアレとか、桃山の壊れかけているよう
に見えるソレとか、偶然できちゃったとしか思えないコレとか、なん
ともバランスが悪い江戸時代のアレコレとか、いっぱいある。
そうか、「ヘン」は魅力的だなあ。

じつは当カフェにも、オモチャとかガラクタとか骨董品とか「なんか
ヘン」なものが置いてあります。
ご来店のみなさまには、マスターが「それらは自分に必要なヘンなも
のなのだ」、と思っているのだとご許容いただき、しかしじつは、それ
らこそみなさま方の感性のありようを測るヘンなモノたちでもあると
ご了解をお願いしつつ、「ヘン」にたいする対峙法を教えていただいた
「ヘンなひと」橋本さんのご冥福を祈りたいと思います。



ブログ159

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第158回 2019.09.19

「(元の)安富歩教授をしのぶ」

最近なんだかしのんでばかりいて申し訳ありません。
カフェをやっていると「しのぶ体質」になるのかなあ?

それはともかく、今回しのぶ安富教授は現役バリバリの東大の先生。
もちろんご存命で、先日(2019年7月)の参議院選挙では、れいわ
新選組の比例代表候補にお名前を連ねておいででした。
私はいちどしかお会いしていませんが、そのときは、頭が切れて弁
が立つという、まことにもうパリパリ音がするくらい典型的なエリ
ート教授のオーラを醸し出されていました。
ではなぜそんな先生をしのんだりするのかというと、

「そして<彼>は<彼女>になった」(細川貂々/集英社)

に描かれている顛末をお伝えしたいと思ったからです。
忘れないうちに書いておきますが、これは全編細川貂々(てんてん)
さんのマンガとして描かれた、安富先生(やっくん)とパートナー
のふうちゃんが主人公のリアルな物語です。

お会いした時に鼻っ柱のつよそうな男前の先生だと第一印象を受け
たのも、読んでいた先生の著書、
「原発危機と東大話法」(明石書店)
「生きるための経済学」(NHKブックス) 
のひとことひとことに、キップの良さを感じていたからです。

たとえば、
「多くの学問分野は、なんらかの矛盾によって成り立っていますが、
そこが盲点となって隠微されつつ共有されることで分野が成立して
います。」とか、
「『専門家』は『専門用語』を必要とするのです。そうすることで
『専門外』の人々を排除して、『盲点』が露呈しないようにするため
です。」あるいは、
「専門家や行政は、ことばの言い換えをさかんにおこなう。たとえ
ば「原子炉の老朽化」を「高経年化」に、「原子力の危険性を審査す
る委員会」を「原子力安全委員会」に、、、」
ここには、自身も属する専門家集団やエリート知識人をバッサリ切
る日本刀のような表現が豊富にありました。

すこし脱線します。
先生はそこまでは言っていませんが、私思うに、エリートや専門家
のこういう意図的な言い換え(東大話法)が極端になると、「最終
的解決(怖いー)」とか「医学的処置(怖いー)」とか、マッド官僚
的ともいえるトンデモ表現が横行することになりかねない。
つまり先走って申せば、専門家やエリートが、専門用語や東大話法
や行政用語を、権威維持のためにうまいこと使おうとすることは、
それこそハラスメントやネトウヨ的言辞、それから権威主義や全体
主義やらなんやらかんやらと地つづきの所業になるのだなと思わさ
れます。

ところで、えーと、で、なんの話でしたっけ?
そうそう、私がお会いしたときの先生はサムライっぽい「寄らば切
るぞ」的な方だったのですが、それがなんとアナタ! しばらくし
てテレビを見ていたら、先生が茶色に染めた長い髪にスカートをは
き、お化粧などされて出演されておられるではありませんか。
思わず私はブラウン管(古い)に、「セ、センセイ、ど、どないし
たん?」と駆け寄ってしまったのでした。

そうです。先生はそのときすでに、「女装する東大教授」としてメデ
ィアにひっぱりだこになっていたのでした。
ここでやっと本題に戻ったわけですが、この本の書名である「<彼>
は<彼女>になった」とは、先生が性転換をしたというわけではな
く、一人の男性が女装してキレイになっていくその前に精神的に追
い詰められていた理由だったり、女性パートナーのふうちゃんとの
出会いだったり、そのふうちゃんのほうの、やっくんと出会う前に
受けていた苦しみへだったりを経て、ようやくたどりついた、やっく
んの<女装>という立ち位置のことなのでした。

じつはふたりとも、親(母親)や家庭(連れ合い)からの、なんと
いうか「呪い」のようなものをかけられていて、精神的に追い詰め
られていた。
こうした「近しい人からの呪い」について、やっくんは「生きるた
めの経済学」でこう書いています。
「ハラスメントを受けた人が、その苦しみに耐えかねて『これは仕
方がないことなんだ』と自分に言い聞かせることで痛みを感じない
ようにするとき、その人は呪縛にかかっている。」

そのような呪いにたいして、ふたりは困難を抱えていた者どうしの
「同志愛」でむすば、共同して戦うパートナーになる。
そこでやっくんの「女装」は、「呪い」を解く魔法として使われた。
女装という魔法の助けを借りてやっくんは呪縛から逃れてそれまで
の自分から脱皮していく。そしてそれを援けることによって、同志
のふうちゃんも救われていく。

やっくんは呪いを解き、その後もバリバリの教授として各種のハラ
スメントの構造などを独自の視点で解き明かすお仕事をしていく。
じっさい先生は、女装して<彼女>になってからパワーアップして
いるといっていい。
さらにそれにともなって、テレビで見る先生がその美しさをドンド
ン増していくのはいかなることか。

みなさんには解き明かせますでしょうか?
この、ひとりのエリート学者における、学問の業績、近親者からの
呪い、精神の不調、同志パートナーとの出会い、女装による呪縛か
らの解放、ハラスメントの深い理解、自身の美しさの向上・・・と
いう波乱万丈・紆余曲折の人生劇場を!
簡単に理解できないかもしれないけれど、私たちも少しだけ元のや
っくんの呪いにからめとられた生き方をしのび、女装後の解放され
た生き方から「自由」へのヒントをもらっておきませんか?

ブログ158

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第157回 2019.09.12

「すべての道はどこかに通じる」

私どものカフェは二車線道路に面しているにもかかわらず、また、
目印になる信号やお店があるにもかかわらず、初めておいでになる
お客さまから、「たどり着けないんですけどおー」というSOSの
お電話をいただくことがあります。

これは以前にも書きましたが、カフェの入り口があまり目立たない
という問題と、さらに二車線道路の両側が同じ番地だという、行政
上の問題があるのでした。道があとから通ったので、番地がかみし
もの二手に分かれてしまったわけ。

さらにそれに気づかないナビやグーグルマップみたいな文明の利器
が、住所検索では道の反対側ばかり表示をするというおバカなこと
をするので、宅急便さんでさえ迷ったりして、たどり着くための二
重苦を形成しておるのです。
おいこら、責任者出てこいっ(怒)!

ところが、そんな環境や理屈にはぜんぜん関係なく、もう最初っか
ら道を間違える方というのがおられる。間違える気が満々な方です。
最寄り駅を出てから地図とは反対方向に行ってしまったり、信号を
わたって反対側に曲がってしまったりして「たどり着けないんです
けどおー」と電話してくる、いわゆる「方向音痴」と思われる方々
です。
んっ?方向音痴、差別用語じゃないですよね。

だっておかしいじゃないですか。
なぜ右と左とを間違えるのか。なぜ100メートルのところを300メ
ートルも行き過ぎてからおかしいと気づくのか。なぜカフェの帰り
には、出口を出てから来た方向と反対に行ってしまうのか。私には
わかりません。
しかし、そんな方々にも朗報というか、福音がございました。

「どこでもない場所」(浅生 鴨/左右社)

この本は、いろいろな職業を経験されていまは小説も書いておられ
る筆者の、人生における方向音痴とか、迷子とか、どう混乱してき
たかとか、自分はいったいどうしたいのかといった悩みとか、仕事
はなんでも受けてしまう受注体質の巻き込まれ型の悲しみとか、ご
みの分別がわからないとか、なんだかんだというエッセイ集です。

筆者の浅生(あそう)さんの言うところでは、
「目的地さえなければ方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い」
ということなのです。
おお。これは仕事や人生において福音となるべき真実かもしれませ
ん。出版社の名前も「左右社」。いい名前ではないですか。

この本にはそんな、いまの世の中ではやや生きづらいだろうと思わ
れる方向音痴型のひとの特徴が詰まっています。たとえば、
やるなと言われればやりたくなる。
応援されたり励まされるとやる気がうせる。
一方的にかけられる期待は重圧なので逃げ出してしまう。
母親が納豆が嫌いだったので自分は納豆が好きになる。
だれかに言われたひとことでその後のふるまいを変えてしまう。
旅や仕事ではかならずトラブルにみまわれる。
・・・などなど。じっさいこれらは、けっこう誰でも共感すること
ばかりですし、中二病といやあ中二病かもしれませんし。

でもどうでしょう。
たぶん、若い頃からのこうした右往左往がいまの自分という人間を
つくり、たぶん、目的地に向かおうとして方向を間違え、いいかげ
んにしろ自分!などと自分を鼓舞しつつ自己受容できず、それに疲
れて生きているのが私たちなのではないでしょうか。
そしてあるとき、ハッと思うのです。
オレの目的地ってどこだったっけ?と。

きっと、いやたぶん、すべての道はどこかに通じているのだから、
そのうち目的地もみつかるのではないか。
もしかしたらゴサインタンかカムイミンタラにたどり着いちゃうか
もしれないけれど、まちがえてブックカフェデンにたどり着くかも
しれないではないか。
当カフェに来ようとされているお客さま、とりわけ方向音痴方面の
方、どうかそのくらいの余裕のお気持ちでお越しくださいまし。

 

ブログ157

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第156回 2019.09.05

「久世さんのラストソング」

お客さまが少ないカフェの雨の午後。
亡くなった方をしのんでばかりいるのもどうかと思いますが、ちょ
っとだけおセンチになって、自分より前の世代の方の声を聴きたい
気分のときがあります。

「ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング」(久世光彦/文春文庫)

これは、自分が死ぬときにいったいどんな歌を聴いていたいだろう
という想像からはじまる、歌についてのエッセイ集です。
「末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最
後に何か一曲、何でもリクエストすれば聴かせてやると言ったら、
いったい私はどんな曲を選ぶだろう」とはじまります。

筆者は、いざそのときになって考えても迷うばかりだろうから、今
のうちに決めておこうじゃないかといろいろ思案するわけですが、
そう簡単には決まりません。
それはテレビドラマ「時間ですよ!」や「寺内貫太郎一家」のディ
レクターをされた久世さんであっても、いや、そういう業界で多く
の楽曲と多くの歌手に接してきた方だからこそ、よけい決めるのが
難しいはずです。

そりゃそうでしょう。
私たちだって、いざラストソングを決めろといわれたら迷います。
あれもいいなこれもいいな、あの歌手の歌声が大好きだ、いや若い
ときにハードローテーションしたこのグループも捨てがたい、意識
が遠のいていくときに仮にこんなメロディと詞が聞こえていたら幸
せに死ねるのじゃないかな、いや、逆に未練が残ってしまうかもし
れないな、するといっそ讃美歌とか御詠歌とかのほうがいいんじゃ
ないだろうか、いやしかしそれでは選びがいがないというものだ、
藤圭子の立場はどうなる、美空ひばりのことを忘れたか。

たぶん自分もその時はもうボケちゃってるだろうから、リクエスト
しても「そんな歌は見つかりませんでした」なんて言われ、「えっ?
ウッソー、天城峠を越えたらリンゴの樹の下から青い山脈が見えた
っていうあの有名な曲だよ、あるはずだよー」「ありません」。
さあどうしたものか・・・などと、グズグズ考えるだけでしょうね。

読んでいくと久世さんも、じつはそんな感じになっていきます。
聴くと必ず泣いてしまう曲が取り上げられてその理由が想い出とと
もに話される。なかには戦前の古い曲、軍歌、唱歌、私たちの知ら
ない曲も多い。
想い出の詰まった戦後の流行歌が取り上げられる。「りんご」のつい
た曲、「長崎」のついた曲、古賀メロディーに映画の主題曲、ワルツ
にジャズにブルースにハワイアン。
そして、すでに亡くなった友人の好んだ曲や友人を思い出すことに
なる曲、好きな詩人や作曲家、それからご自分が演出したテレビド
ラマに関わった小林亜星さんや向田邦子さんや俳優さんたちにまつ
わる曲。
曲が曲を呼ぶ感じで、どんどんどんどん増殖しています。必ずしも
ラストソングを選ぼうということでは終わらなくなってくる。

わかりますねえ、この気持ち。
もともとこれは雑誌の連載エッセイで、企画としても最後にラスト
ソングをどうしても一曲に絞れということではなかったでしょうか
ら、いきおい、お話は自分の思い出深く好きな曲の総ざらいになっ
ていきます。

でも、それでいいじゃないですか。
私たち、やや後の世代の読者も、久世さんの人生で出会った楽曲を
思い出しながら共有して噛みしめることができるのですから。なん
というか、昭和をかなり濃い密度で生きた一人のパイセンが出会っ
たできごとと、それにまつわる楽曲を追体験できるのですから。
こんなときに「好きな楽曲履歴捜査官」がいたら、久世さんのどん
な性格を言い当てることでしょうかね。

それはともかく、世代の違うお若いみなさんも、大丈夫ですよ。
自分の知らない古い曲が取りあげられていても、そこには配慮深く
詞がきちんと載せられていて、それを読むだけでも時代の様相がわ
かることもあります。だからお若い方にも通じる久世さんのラスト
ソング(ス)がここにあり、それに刺激を受けてみなさん自分のラ
ストソングを考え始めるはずです。そういう本なのです。

ちなみに私のラストソングはというと・・・。
いまパッと思い浮かぶのは、フレッド・アステアの歌う「チークト
ゥチーク」かな。「ヘヴン、アイム・イン・ヘヴン♪」と歌いだす
あれ。映画の中では、想いがかなってジンジャー・ロジャースと踊
るあの歌。映画「グリーンマイル」で、無実の黒人が死刑の直前に、
映画のこの場面を観ながら泣くシーンもよかったですね。
おセンチですけど、ね?

ブログ156

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第155回 2019.08.29


「本にまつわるお仕事」

かねがね私はブックコンシェルジュになりたいと申しておるわけで
すが、もともとそれはキムタク主演の検事ドラマ「ヒーロー」に出
てくる、田中要次さん演じるカフェの寡黙なマスターにあこがれた
からでした。

ダーツなどもある、今どきのおサレなカフェなのに、客が「食べて
ェなあ」とつぶやくと、なんでも「あるよ」と出してくれる。
カフェの常連客であるキムタクさんが、たとえばなんとなく韓国料
理のサムギョプサルが食べたくなって、食べてェなあ、でもここに
はないだろうなあとつぶやくと、カウンターの中から「あるよ」と
ひとこと言って出してくれる強面(こわもて)のマスター。

それをブックカフェでやりたいのですね。
お客さんが、いまこんなことで悩んでいるんだけど、それに効く本
ないかなあなどとつぶやいていると、カウンターの中から「あるよ」
と出してあげる。「まさかこんな本ないよなあ」とひとりごとをいう
と、「あるよ」と出してくれて、それがそのひとの心がまさに欲して
いた本だったりする。
本にまつわる仕事として、そんなカフェのマスターって、よくない
ですか?

「あるかしら書店」(ヨシタケシンスケ/ポプラ社)

みなさん大好き、ワタシも大好き、絵本作家のヨシタケシンスケさ
ん。
お客さんが「こんな本あるかしら」と尋ねると、強面ではなく優し
く「ありますよ」といそいそと出してくれる書店の主人。いいマス
ターだなあ、りっぱなコンシェルジュだなあ、髪の毛うすいけど。

たとえば「ちょっとめずらしい本あるかしら」と訊かれると、「あ
あ!ありますよ!」とマスターは言って、「しかけ絵本」とか「『作
家の木』の育て方」「二人で読む本」「月光本」などを出してくる。
これらは、そんじょそこらの「めずらしい本」ではないんです。
たとえば「しかけ絵本」でも、じっさいに「とび出す絵本」はたく
さんあるけれど、マスターが出してくるのは「とけ出す絵本」だっ
たり「かけ出す絵本」だったり、「なき出す絵本」「のび出す絵本」
など、とんでもないヤツらばかり。

さすが絵本作家さん。私たちがいっしょうけんめい想像しても想像
しきれない本ばかりが登場します。
それがたまらなく嬉しく楽しい。
これは、本と本屋さんと本好きなひとへのやさしさが詰まっている
絵本ですから、子どもさんだけでなく大人も笑いながら楽しめるの
でした。

さて、そんな本屋さんに、「本にまつわる仕事の本ってありますか?」
と尋ねてきたお客さんがいます。
そこでマスターが最初に出す本が「読書履歴捜査官」という本。
捜査官は「容疑者が今まで読んできた本を見抜く超能力で事件を解
決する」人でした。
犯人の居場所をつきとめ(「先日『日本の崖100選』を読みましたね」)、
崖の上で犯人を説得し(「『父の心得』を読んでいた頃のことを思い出
すんだ!」)、去っていく(「本が好きな人に本当の悪人はいないのさ」
とつぶやいて)。

たしかにこれも、「あるかしら書店」同様に、本にまつわる仕事では
ある。
ということで私は、目標をブックカフェのコンシェルジュから本の探
偵さん、さらに本の探偵さんから読書履歴捜査官にくら替えすること
にいたしました。
やっぱり髪の毛のうすい書店の主人より、さらには「あるよ」のマス
ター(田中要次さんも薄かったなあ)より、「読書履歴捜査官」のほ
うが、髪の毛5ミリほどカッコいいし。

 

ブログ155


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第154回 2019.08.23

 

「作家の勇気と気概をみる」

人間の生き方の問題に真正面からぶつかっていく、勇気のある作
家たちがいます。
彼らが創りあげる小説は私たちをもの思いに誘います。おもしろ
いとかすばらしいとかいうよりも、噛みしめているうちに味の出
てくるスルメのようなモノかもしれません。
たとえば、

「ゴサインタン ~神の座」(篠田節子/文春文庫)

は、どうでしょう。

ゴサインタンとは、ネパールからみたヒマラヤの山の名のひとつ。
カムイミンタラに似ている? いや、似ていない。
ネパールから連れてこられた女性と世帯をもった大地主の農民が、
その女性が生き神様になってしまったことでいろいろ奇跡のような
できごとが起こって困惑しまくる。

彼はおカネやら土地やら家作やらを全部失くしてしまい、気がつい
たら無一文に。いっぽう妻のまわりには、いつのまにか小さな教団
のようなものができるが、そのうちに教主に祭り上げられた当の妻
が失踪してしまう。

なぜだ? なぜオレをこんな目にあわせた後に、急にいなくなる?
主人公は妻を追って彼女のふるさとであるネパールに行き、ゴサイ
ンタンのふもとのちいさな村で、すっかり神が「落ちた」女性と再
会。そして彼は日本を捨ててここで生きる決心をする。
こんなあらすじでした。

そう結婚後、妻となった女性を通して彼に下された神のおことばは、
厳しいものだったのでした。
捨てなさい。すべてを捨てなさい。ひとが強くなるとは弱いものを
飲み込んでいくことになるのだから、そうなってはいけない・・・
はい、これで主人公の全財産が、パア。
その財産はじつは先祖代々いわくつきのもので、世渡り上手、つま
り「強さ」を求めた先祖たちが貯め込んだものだった。それが、外
国から来て神様が乗り移った妻のことばでパア。ことごとく他人の
手に渡っていく。

この小説の結構は、だからひとつには、主人公が妻をとおして現わ
れた神のおことばに引きずられて(それを信じて)、先祖から受け継
いだ財産を次から次へと失っていく過程の描写にあるのだと思いま
した。
なすすべもなくそれを茫然と見送る主人公の気持ちに、読者は自分
の心を探りながら(なすすべもなくじゃなくて、なんとかしろよ!
とか、ツッコミをいれながら)、振り返って自分の財産とか所有物
になんとなく思いをいたしながら、ちょっと慌てたりする。
まるで作者から読者の顔面に、次から次へと問いのストレートパン
チがのびてきて、それをどうよけるかと考えるときのようです。

では、ここで問題です。
全財産をなくしてネパールに行った主人公に、いったいどんな救い
があるというのでしょうか?
日本を捨てた自分の行動に満足する? 妻への愛に目覚める? は
たまた、悟りを開く? 

そこらあたりが、私がもの思いに沈むことになるポイントでした。
どうでしょう、たとえば小節の最終盤、失踪した妻の住む村に着く
手前で主人公は、「自分はだれでもない。名もなく、素性もわからず、
心さえない。永遠の闇の中を一瞬走るパルスのようなものだ。」
と感慨をのべます。

そして、
「あれが神か、と輝和(主人公)は深い藍色をした空にそびえる神
の座の白い峰に向かい手を伸ばした。あれが神だ。淑子(ネパール
人の妻、主人公が勝手に日本名をつけた)は長い年月をかけて、自
分をここに導いた。あの神の存在を知らせるために。」
これらのことばが解答のヒントにならないでしょうか。

なんだ、小説の結末としては主人公のこんな感慨で終わるのか、と
思われるかもしれません。しかし、主人公はこう続けるのです。
「違う。あれは神などではない。神はそびえる。神は罪のないもの
を殺し、罪のある者もないものも救う。神は突然現われ、何も告げ
ずに去る。神に倫理はなく、もちろん論理もない。」

私は、この小説が書かれたのがオウム事件のすぐあとだったことを
考えると、人間の理屈など通じずひとの持つすべてを奪う神という
ものを設定するのに、作者はそうとうの勇気がいったと思います。
そう、私思うに、この主人公はそう簡単には救われない。
ハッピーエンドとか私たちが考える「救い」など、そんな安易なも
のは、ない。作者はそう言うのです。やはり勇気のある人だ。

作者は読者にたいして、何回もくりかえしてこんなストレートパン
チを出してくる、その、なんというか単純明快で武骨な攻め方にも
さらに勇気を感じます。
たぶん、テーマが変わっても、この作者は同じような気概とやや素
朴なテクニックと根性で話を紡いでいくのでしょうね。
なんだか格闘家への称賛みたいになってしまいましたけど。

ブログ154

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第153回 2019.08.14

「中二病をぶっとばせ!」

中二病で思い出したのが、イギリスの中学生のお話。
同じ中学生でも、親の育て方だけでなく、生活環境や社会情勢や学
校教育の影響で精神的な成長に大きな差がでるものだなあと、あた
りまえのことに今さら感じ入ったのが、

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
 (ブレイディみかこ/新潮社)

でした。
筆者のブレイディみかこさんは、アイルランド人のご主人とイギリ
ス南部のブライトンという町に住む、元保育士で現在ライターの方。
底辺保育園で働いた経験を活かし、「子どもたちの階級闘争」「ヨー
ロッパ・コーリング(当ブログのNo.15でご紹介しました)」など、
説得力あるリポートを出し続けています。

この本は、彼女が中学生になった息子の学校生活をおもにつづった
ものですが、イギリスの底辺層に足場を置きつつ階級社会や差別の
現状をみるという、変わらぬ姿勢を持って書かれています。
題名は、そんな彼女の息子が人種差別を感じながら、「自分は東洋人、
日本人で、白人でもイングランドではないアイルランド系で、町で
も学校でもちょっと気分が重い」と言ったことばからつけられてい
ます。

イギリスでもロンドンのような大都会以外の町では、人種・宗教・
職業・所得・住所(貧困層の住む公営住宅か否か)などによる強い
差別があり、このレポートにも実態が細かに報告されていました。
が、にもかかわらず、その影響がもっとも先鋭化されるだろう公立
の中学校で、息子はたくましく成長していく。
それを見守るお母さんの筆者。
私の印象としては、宮下奈津さんよりもずっと京塚昌子さんに近い
肝っ玉母さん(わかんないかなあー)でしたね。

ところでなぜ中二病を思い出したかというと、母親が自分のことを
書いているのを知った息子が、「自分の走り書きを勝手に使うな」
「著作権料を払え」などと小うるさく詰め寄るところでした。
ま、子どもはそんなもんです。どこでも同じ。

そんな肝っ玉母さんの育て方もあっただろうけれど、この息子の中
二病克服には、やはり学校教育の好影響が大きかったようです。
入学していきなり二か月後に上演する演劇のオーディション(コミ
ュニケーション能力育成のため)があったり、ちょっと道を踏み外
した生徒と校長先生がグランドでサッカーやってたり、制服の買え
ない底辺層の生徒のために、先生を含めたボランティアチームが古
い制服の仕立て直ししたり、先生たちも保護者たちもたくましい。

すると、「今日は学校で何したの?」「女性器を見たよ」「は?」「ラ
イフ・スキルの授業で性教育やってるんで」なんていう会話もあっ
て、ドッキリもさせられます。
これはアフリカ系移民のために、彼らが夏休みに帰郷(したことに)
して中学生の娘にFGM(女性割礼)をさせないための、夏休み前
だからこそ行われた、目的のはっきりした授業であることが、おっ
母さんにもあとでわかったりする。

ここにはそんなドキッとすることもさりげなく書かれていて、この
息子がじつは体外受精で生まれたこともサラッと書かれます。
息子はそんなこと気にもかけず、つまらない中二病などに関わり合
うこと少なく、ズンズン前へ進む。

私がそんな息子の成長をいちばん感じたひとコマがありました。
期末試験に「エンパシーとは何か」という問題が出た。息子は「自
分で誰かの靴を履いてみること」と答え、良い点をもらった。これ
は英語の定型表現で、他人の立場に立ってみることを意味していた。
おお、なんと的確でいい解答じゃないですか! 息子えらい!

エンパシーは日本語で「共感、感情移入」などと訳されますが、筆
者はこう解説してくれます。
「(イギリスの学校教育では)シンパシーは、他人の感情や行為の
『理解』なのだが、エンパシーは感情や経験などを理解する『能力』
とされる」と。
エンパシーは「能力」なのだ。だから学校で生徒に教えられるし、
教えて伸ばさなければならないものなのだ。差別社会にあって、も
っとも重要な能力だ。だからとうぜんテストにも出る。
息子はそれを立派にクリアしたのでした。

成長する中学生の息子もそうだけど、こうしてみると、なんという
かイギリスとはしぶとい国だなあ。
サッチャーの新自由主義があり、第三の道があり、保守党の緊縮財
政があり、移民がカンガン増え、それにたいする不満がたまり、な
にごとにも格差が広がり、ブレグジットが起こり、メイ首相もダメ
で、特権階級の貴族の末裔みたいだけどとっちゃん坊やで悪役レス
ラーみたいな顔つき(なんとヒドイ差別発言だ!)のボリス・ジョ
ンソンが出てきちゃった。
にもかかわらず、この本を読んでイギリスはしぶといと感じる。

イギリスの多様性の伝統とリアルな階級や差別、そしてそれに対す
る下からのナマナマしい闘いは、公立学校のレベルではエンパシー
教育やシティズンシップ教育、さらにライフ・スキル教育に反映さ
れていて、それらはきっとじっくり熟成されつつ子どもたちによっ
て活かされていくに違いないと感じる。
この息子のように、差別も格差も中二病も乗り越えるに違いない。
そう思わせる何かを感じるのです。

ただ、、、でもやっぱりなあ、ボリス・ジョンソン自身が中二病っぽ
い気がするんだよなあ。あの見た目のお姿がなあ・・・。
そこんところ、どうなんでしょう?


ブログ153

 

ブックカフェデンオーナーブログ第152回 2019.08.08

「中二もおじさんも同じ」

男子なんて単純だから、だいたい中学あたりで性格が固まって、そ
れがおじさんになっても持続するという傾向があるのでしょう。
そう思いませんか?
宮下さんのだんなさんも同じかもしれないし、ブックカフェ(ここ
だって神様の遊ぶ庭です)で遊ぱせていただいている私こと、マス
ターもおなじ、そんな男子仲間です。

ただし、そのように育ったおじさん男子ならだれでも、
「わたしは、13歳でいることがあまり得意ではなかったのだ(得意
な者がいるだろうか?)」(デヴィッド・Ⅼ・ユーリン)などと、遠い
目をして言うはずです。それぐらいの、なんというか病気の自覚は
あるのです。
なので、以前登場いただいた「劣化オッサン」も、おじさんになっ
てから劣化した部分はあるでしょうけど、中二ぐらいで心ならずも
獲得し、治らなくなっちゃった性質もあるのだと思われますね、
残念ですけど。

だって、誰も聞いてないのに自分語りを始めるとか、自分の判断が
つねに正しいと言うとか、自分の行動に甘く他人に厳しいとか、そ
んなことおじさんは中学生のころからずっと同じことしてますよ。
だからおじさんは劣化して劣化オッサンになったのではなくて、そ
ういう中二の自分を、抑圧しながらも遠い目をしながら無意識的に
強化してきたわけのです。
どうですか?おじさんのあなた。イヤイヤそんなこたぁないよ、と
思うなら、

「中二病取扱説明書」(塞神雹夜/新紀元社)

を読んでみてください。
中二病とは、タレント伊集院光さんがラジオ番組で提唱したとされ
ることばで、「男子が中学二年時あたりに取りがちなイタイ行動・
思考」という意味です。
「自分を認めてもらいため、無意味にキャラづくりする」とか
「他人や社会を否定し弱い自分を保護する」という傾向をもつひと
を指すことばになっているそうです。
この本はそんな行動や思考のネタ集でした。

もう、読めばそのまま「はいはい、あるある!」となる本なので、
なんの注釈もいりません。ですので、挙げられている中二病の特徴
をちょっとだけ抜き書きするならば、
「いろいろ過去があってね・・・と自慢げに自分の過去の思い出を
 語る」(きっと「遠い目」をしてるな)
「余裕だよ」とか「楽勝」ということばを連発する(根拠のない自信)
「勉強しないことで逆に優越感を得る」(たんなる見栄ですけど)
「自分の体の中に何か邪悪なものがいる(と、まわりに公言して注目を
 あびたい)」
「手袋はオープンフィンガーグローブ」(ロケンロール!)
「血、死、闇などダークなことばを好む」(怖いものなどないさ!)
「だれも本当の俺をわかっちゃいねえ、という」(自分でもわからない
 ですけど)
「映画や音楽に対し、〇〇年代に限る。最近のはてんでダメという」
 (知識と感性を誇りたい)
「メディアから得た情報を、あたかも自分が考えていたことのように
 他人にいう」(パクッてなにが悪い)
・・・などなど(カッコ内は私の感想)。

ま、とにかくこんな調子のチェックリストになっていますから、ご自
分でいまの自分の「中二病度」を測ってみるのも一興でしょう。
あなたはどれくらい当てはまりますかね?
またお若い方は、先輩や上司や親の言動を、とりわけ飲み会なんかで
の行動をこれでチェックしてみても面白いかもしれません。
えらそーにしている彼らの(ワシらオッサンの)「中二度」がわかるは
ずです。

ちなみに私(「憂国の戦士」と呼んでほしい)は、、、残念ながらチェッ
クリストにいくつも当てはまるものががあったんだよな。
おいおい、オレを中二病ってか!この本うっぜーんだよ。

ブログ152

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第151回 2019.08.01

「移住計画にはなにが必要か」

自宅でブックカフェをやっていると、他の場所に引っ越すとか、ま
してや移住するなどという考えはもはやとうてい浮かびません。
そんなしんどいこと、だれがしますか。

ところが誰でも、仕事に疲れてとか、失恋してとか、本が重しにな
ってきてそこから自由になりたいとか、なにか気持ちがムズムズッ
と動いて北海道あたりに移住したいなあなんて思ったこと、一度や
二度はあるのではないでしょうか? 
「北の国から」の五郎さんのように純と蛍を育てたいとか、退職し
てTBSテレビ「人生の楽園」を見たらムラムラッときてとかね。

「神様たちの遊ぶ庭」(宮下奈都/光文社)

作家の宮下さんが北海道は帯広郊外、十勝岳のふもとのトムラウシ
に家族と引っ越した。
それはだんなさまの発案だったが、14歳、12歳、9歳のこどもたち
も異存なく、山村留学の形でとりあえず一年暮らすことになった。
新たな住まい近くの山の名が「カムイミンタラ」、アイヌ語で「神々
の遊ぶ庭」。ゴサインタンに似ている。いや似ていない。

ちなみに、日本(ヤマト)では古来「神遊び(カムアスビ)」とい
って、ちゃんと遊べるのは神様だけらしいですね。人間は八百万
(やおろず)の神様たちの「遊び」を真似することではじめて楽し
むことができるといわれてきました。
だから「カムイミンタラ」は神様たちが遊び、それを人間が見て楽
しむという場所なのかもしれません。
あ、しまった、アイヌの考え方とヤマトの考え方は違っていたかも
しれません、すいませんでした。

それはともかく、子どもたちが通うことになる小中学校は併置校で、
小中学生の生徒があわせて10名。そこで留学生を受け入れている。
へき地や離島への山村留学はいま流行っていて、都会から多くの子
どもたちが留学しているようですね。
カムイミンタラという大自然に家族で移り住んだ宮下さんご家族は、
結果的には一年しかいなかったけれど、その一年の子どもたちの濃
ゆい生活が綴られた日記エッセイがこれでした。

さてこのカムイミンタラは、エゾシカやキタキツネやエゾリス、そ
れに熊(出そうで出ませんが)とか、自然に囲まれ「庭」ですから、
小説家としては身の回りで起きることを観察して書くことには事欠
かなかったでしょう。
しかしこの本では、そうした自然の営みや小説家的感興よりもむし
ろ、ひとの暮らしぶりが主人公になっていました。

とりわけ子どもたちが通う学校の授業や活動、そして町の行事。
学校では学年をまたいで授業があるので、あまりコセコセしない。
詰め込まない。文字どおりの「ゆとり教育」。
課外授業は、夏はトムラウシ登山(過去に遭難事故があったりして
結構ハードなコース)、冬はスキーにスケート(校庭に水を撒いて
凍らせる)、部活はバトミントン(少人数で、室内でできるから)、
そして季節ごとの町のイベントやお祭り、仮装大会などでは、校長
先生から町の人たちから親たちまでみんなで協力しておこなう。

ということで、そこはまるで大人も子どもも共に学ぶコミュニティ
スクールだった、いや、たぶんそれが神様の遊ぶ庭で人間も楽しま
せてもらうということだった。
こんな話を読まされたら、とくに子どもさんのいるご家庭なんかた
まらんでしょうな。(ラップ調で)ウチらも行きたい行かせたい、
いちどは山村留学してみたい、ついでに仕事もやめちゃいたい、、、
なんて声が出るでしょうな。
ウンウン、わかる、その気持ち。

ところで、多くのエピソードのなかで私がいちばん気に入ったのが、
宮下さんの12歳になる次男の話でした。
母親がこの一年の話を月刊誌で連載すると聞いた次男、自分のこと
はあまり書かないでくれといい、書く場合も名前は仮名にしてほし
いと母親に頼みます。
自分で選んだその仮名は、「漆黒の翼」。のち「英国紳士」に変更。
しかし彼は、学校では「ボギー」と呼ばれていることがのちに判明
する。名前にはそれぞれ理由があるらしいのだけれど、よくわから
ない。

こういう、自意識過剰でちょっと生意気な、自分でもどうしたいの
かわからない、なんというか中学二年生あたりの特有の状態って、
みなさんも自分や子どもを省みて思いあたることありませんか?
そしてそんな次男をグッと受けとめるお母さん、はい、大雪山のよ
うに強くたくましいお母さん、好感をもって読めました。

さてでも、結局最後までよくわからなかったのが宮下さんのだんな
さんのことでした。
このエッセイにだんなさんはあまり登場してきません。引っ越した
いと言いだした張本人なのに、エピソードもほとんどありません。
どんな仕事しているのか、なぜ北海道に移住したかったのか、移住
先でなにをしたのか、わかりません。書かれません。仮名もなし。

そうじて彼は、そのときそのときの思いつきで動いているような印
象があります。
だから私思うにたぶん、このだんなさんこそが、中二くらいの心の
持ち主だったんじゃないかな。ちょうど次男さんと同じくらいの。

いや、知らない方に対してたいへん失礼な言いようで申し訳ありま
せんが、でもそんなだんなさんだったからこそこの家族は彼につい
ていって、神様たちの遊ぶ庭で楽しむことができたんじゃないかな。
そう思いたいです。
ということで、家族で移住するような新しい経験のためには、一家
に二人くらいは中二の男子がいたほうがいいみたいです。

ブログ151

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第150回 2019.07.25


「描かれた世界をそのまま信じるわけではないが」

探偵小説を読む私たちは、探偵さんによって再構築された「犯人の
目に映った世界」を味わうことになります。
どういうことかというと、探偵さんによって犯人が崖の上で名指し
され、その犯行の謎が解かれる。すると私たちにも彼を取り巻く人
間関係や社会的課題が理解できるようになり、あー犯人はこういう
世界に自分が住んでいると思っていたのだ、とわかるはずなのです。

そして読者はそれに満足して、いままでの自分の世界に安心して帰
ることができる。
これがほんとうの「一件落着!」ということになります。
ところが、そううまくチャンチャンとはいかないこともあります。

カフェの本棚からオーナーの住んでいる世界を理解するくらいなら
ともかく、「探偵さんによって明らかにされたその世界」が複雑で、
もしかすると犯人がわかっても、彼が住むのがいっそう複雑な世界
だったりすると、私たちは困ってしまうのです。

その世界は、われわれのなじみのない世界で、そこでは多様なひと
の怒りが多様に渦を巻いている。
犯人の犯行理由はからみあっていて、犯人は自分の犯行を後悔せず
悔悛せず償いもしていないようだ。
すると私たちは、あれっ、スッキリ解決したはずなんだけど、なん
だか便秘がつづいているみたいだ。どーしたんだ、この気持ちは?
五差路の交差点の真ん中にポツンと取り残されたかのような不安を
感じることになるのです。

つまり、犯罪としては解決されて犯人もあきらかになったけれど、
それを引き起こしたもともとの現実世界が、私たちの想像を絶する
わかりにくさだったということがわかることになる。
これが、じつはすぐれた探偵小説の深さ、そして小説に映しとられ
た現実社会の苛烈さということかもしれません。

「頭蓋骨のマントラ」(エリオット・パティスン/ハヤカワ文庫)

これはチベットを舞台にした20年前に出された探偵小説です。
チベットの奥地ラドゥン州の強制労働収容所でくらす中国人の元監
察官(犯罪を摘発する探偵さん)が、囚人の身分のまま、そこで起
こった殺人事件を解きほぐしていく。
彼は政府の大物がからんだ汚職事件を追求したことから、中央(北
京)を追われて収容所で強制労働をさせられているのだった。これ、
中国でいまでもよく聞く話ですから、舞台設定としてリアルです。

強制労働につく主人公の探偵さんの精神力は鋼のように強いもので、
それはたとえばこんなことばに現われます。
「以前、ある僧侶と知り合いでした。(中略)正義を追求するか、
役人の要求通りにことを運ぶかのジレンマに陥ったとき、その僧侶
はなんといったと思います? われわれの人生は、真実を知るため
の実験に使われる道具なのだと」。
・・・強く、気高いことばですね。ハードボイルドだなあ。テレビ
ドラマ「相棒」の警部、杉下右京さんが言いそうなことばでもある。
じっさいの元ネタはダライ・ラマですが。

それはともかく、収容所では探偵さんだけが漢人、まわりの囚人は
みなチベット人、彼は父親から老荘思想を教わったが、いまはチベ
ット僧へのリスペクトを深めているという設定で話が進みます。
ここで起こった殺人事件は、チベット伝説の魔神タムディンの仕業
とされるが、チベットを支配する中国の官僚組織や、アメリカの鉱
山開発企業とその研究者や、中国軍の破壊から守られ隠されたチベ
ット仏教の寺や、主人公を監督する軍人やチベットの若者などが入
り乱れて、もうそれこそ複雑怪奇な現実を構成しつつどこでなにが
起こっても不思議ではない状況がある。

ということになると、ほら、どの時点でどのように探偵さんが切り
取っても、つまりどのように解決にいたっても、私たちに残される
世界はいぜんとして複雑で矛盾だらけなままだろうとも予想される
わけです。

なんせチベットですから。
チベット情勢はこの小説の書かれた20年後のいまも変わっていない。
というか、中国支配が一段と進んでいます。何十万人の漢人が移住
し、チベットの首都ラサは漢人の住む中国の街になってしまった。
登場人物のひとりが言います。
「チベットにいると自分の中のなにかが変わってしまうのよ。ここ
ではすべてが生々しい。」

漢人の主人公も述懐して、
「彼ら(チベットの高僧たち)はあまりにも偉大で、自分はあまり
にも卑小だ。彼らはあまりにも美しく、自分はあまりに醜い。彼ら
は完全にチベットに根ざしていて、自分は完全に根無し草だ。」

ところがそんな彼も、チベットの高僧(リンポチェ)にこうたしな
められる。
「友よ、あなたはまだ望みに身を焦がしている。そのために自分は
世界を敵に立ち向かえるという誤った考えをいだいてしまうことに
なる。そのためにもっと大事なことから目をそらされてしまう。そ
して世界は犠牲者と悪漢と英雄で成り立っていると思い込んでしま
うのだ。」
単純に白黒つけてわかりやすく解決、なんてことはないのだよ、と。

そんなチベットの、政治と宗教と人種と価値観がぶつかり合う最前
線では、ものごとは単純には進まず、時間もまっすぐには進まない。
「人の生は一直線に、暦をたどって毎日同じだけ進んでいくのでは
ない。そうではなく、ある瞬間から別の瞬間へと、魂を揺り動かす
ような重大な決断をするたびに飛躍していくのだ。」

引用が多くなってすみません。
どうも私は、これらのことばに惹かれるのですが、いずれもふつう
の探偵小説ではなかなか出会えないおことばだとも思います。
ここにも、チベットという複雑な世界で起きる事件を解決しようと
する探偵さんの、解決してからなおもつづく苦悩がある。
そして、小説で描かれた舞台をそのまま信じるわけではないが、あ
る面、すでにその背景を信じつつ読んでいて、さらに主人公の探偵
さんとチベットの将来についていっしょに考え込んでしまう読者の
苦悩もある。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第149回 2019.07.18

「イヤーな味わいだけど手ばなせない小説」

アメリカ大統領はあいかわらずお元気のようですが、それはそれと
して。
同じアメリカの同じような田舎の話でも、これだけ味が違うのかと
思わされる小説が、

「フラナリー・オコナー全短編(上・下)」(筑摩書房) でした。

舞台はアメリカ南部ジョージア州。時代は1950~60年ころ。
この地方は、南北戦争を背景にした「風と共に去りぬ」で描かれた
通り、綿花を育てるに適した豊かな黒い土があり、1800年代のはじ
めから何百万人もの奴隷を使って大規模なプランテーションが経営
されてきた土地柄です。

そんなことでこの地域は、黒人奴隷の肌の色と土壌の色から「ブラ
ックベルト」と呼ばれるようになったのでした。
もちろんいまでもそこにはアフリカ系の住民が多く住んでいるので、
2008年の大統領選挙ではバラク・オバマ支持者の層がこのブラック
ベルトに沿っていたといわれています。ラストベルトよりだんぜん
歴史の厚みがある土地柄です。

さて、こんなジョージアで生まれ育った作者は、どうやらこうした
南部の、南北戦争や奴隷解放からつづく南部人のやや屈折した生活
感情を背負ってしまった方のようです。
それは、どの作品にも人種差別や移民排斥などの偏見に満ちた負の
遺産のカゲが濃いことがあるからわかります。アメリカのロードム
ービーでもよくお目にかかりますけれど、差別や偏見に満ちた南部
社会とそこに暮らすたまらなく保守的な人たちが登場します。
牧場や農園の退屈な暮らしにあきあきしているのに、そこから出ら
れないで他人を排除しようとする人たちばかりなんです。

たとえばある女性の農園主は、ポーランドからナチスドイツを逃れ
てやってきた移民を受け入れるのだけれど、彼らに対して、
「あの人たちがくぐってきたことを思えば、手に入るものはなんで
もありがたいんですよ。ああいう所から逃げてきた、こういう所へ
来られる幸せを思えばね」、などと、まったくの上から目線で言って
ます。
まるでビビアン・リーが言いそうなせりふではありませんか。

あるいはまたべつの白人女性の農園主の、息子へのこんな表現が、
読む側の気持ちをガックリ萎えさせたりもします。
「奴隷のように身を粉して、汗水たらして働いてここを持ちこたえ
てきたのに。私が死ぬのを待って、くだらない女と結婚してこの農
園に入れて、なにもかもだめにするってわけね。」
あーあ、このお母さんも言っちゃうんだ、呪いのことばを。

主人公たちは、南部だからこその自分の生い立ちや家族の歴史など
に強いプライドをもついっぽう、しかし「自分が、じつはなにもの
でもなかった」「ふつうの人間だった」という残念な現実に気づき、
自分でもびっくりして他人を傷つけたり、それによって自分をさら
に傷つけたりしていくのです。

だから、どの話の結末もハッピーエンドになりません。
うひゃ、このひとたちは、どうなっちゃうんだろう? とか、あれ
ー、この流れだと結末はたぶんヤバイだろう! とか思っているう
ちに、案の定、登場人物は死んじゃったり殺されちゃったりする。

すると訳者が書くように、
「主人公たちは、自分のつごうで、誰かがじゃまだと思う。その人
にいなくなってほしい。その思いを推し進めた結果が殺人になる。
他を排除しようとした者は、その行為が実行された時点で、自分の
おぞましい実像を突きつけられる」。

私たちはそこに、南部の生活の転倒した苦さをジワッと味わうこと
になります。
登場人物はみんな「ふつうのひと」なのにもかかわらず、ある意味
とても不器用でグロテスクで残念なひとたちなのです。
これがじつに「ワインズバーグ オハイオ」と正反対でして、ふつ
うに描かれている人たちなのだけどグロテスクで残念、グロテスク
で残念と描かれている人たちだけれどふつう。

ああイヤだイヤだ。悲しい。つらい。こころが温まらない。
ほのぼのとしない。全米も泣かない。ハックルベリーやトム・ソー
ヤーが恋しい。なんだったらO・ヘンリーでもいい。
でも、しかし、であるにもかかわらず、ここにもアメリカの、今に
続く「ふつう」が見えることは確かです。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第148回 2019.07.11

「若いときに読んでも役に立たなかったね(たぶん)」

ということで、じつはここに、誘惑の実践を路上でのナンパという
かたちで「裸で、丸腰で」おこない、ナンパ相手の女性だけでなく
世界ともガチで対決しようとした勇敢な男子のナマナマしい記録が
ありまして、それこそ、

「声をかける」(高石宏輔/晶文社) でした。

ご紹介する前に、この本はR18だと思いますので、そのおつもりで
お読みください。
というのも、フィクションなのかノンフィクションなのかわからな
いけれど、ディテールからなにからとてもリアルなこの本は、いっ
てみればナンパの現場中継みたいな迫力で読むものを圧倒し、感覚
を刺激するからです。

これまた、私の若い時代にこの本を読んでいたらどうだったろう、
と思わず考え込んでしまう、そんな力強い細部の状況描写と相手と
自分の心理状態の分析、そしてそこから導き出される説得力ある考
察が、説得力バツグンなのです。

まずはその筆力に脱帽でした。
たんなるストリートファイターでも、風俗系ルポライターでもない
な、この作者。ただものじゃありません。いってみれば「四畳半襖
の下張り」のような、名の知られた大文豪の隠れた仕事みたいな感
じなんです。
(あとで筆者はカウンセラーだということがわかりました。でもそ
れまでに、いろいろな経験を積んだのでしょうね)

では、どこでもいいけど、ぱっと開いたページから、その情景描写、
心理分析、そして彼の感情や情動のあらわれを引いてみましょうか。
すると、こんなことばが聴こえる。
「話しかける相手に何らかの関心を持てなければ、声をかけること
はできない。気持ちを落ち着かせた。なにも考えず、期待をしない。
そうなるために、目に映っている人々の歩みを、どこに焦点を合わ
せることもなく感じていた。」

また、
「一対の脚の動きに注意が向いた。それは柔らかく、地面に吸い付
くように下りていき、それからまたすっと地面から引き離された。」
あるいは、
「ぼくにはすべての人間が寂しさからどうにか逃れようとしている
ように見える。人々の個々の動きは、寂しさが導き出すバリエーシ
ョンに過ぎないように感じられていた。」

私は、ナンパ師/誘惑者がひとを観察している視線を、こんな角度
から覗くことになろうとは思いもよりませんでした。
とくに「なにも考えず、期待をしない」ということばです、
へえーっ、ということは、このひとはすでに「裸で、丸腰で、相手
と対決」しているじゃないか! 達人佐伯氏のいうことを実践して
いるではないか! ってことは、このひとはすごく正直でオープン
なひとなのではないだろうか、大文豪のくせに(だから違うって!)。
それゆえに、路上ではじめて見る他人をこのように観察し、さらに
振り返って観察している自分を観察して的確に表現することができ
るのだ。

ただし、たぶん彼はその時点で、観察に応じて動く自分のこころを
のぞき込むことに夢中になり、そこからなにかを見つけたいという
強い欲望から離れられなくなってしまったのではないか。
私はそんな疑問にかられます。

というのも彼は内面でこんな作業をしながら、しかし自分でも理解
できない焦燥感にせきたてられるように、日々路上で、クラブで、
ナンパを繰り返し、結果がうまくいってもいかなくてもナンパを繰
り返すのですから。
ナンパした女の子に「そういうのやめられればいいね」と言われな
がらも、さらにナンパを繰り返すのです。

私たち読者は最後まで読んでも、なぜ彼がいつまでもナンパを繰り
返すのか、なぜ自分のこころをのぞき込み続けるのか、その理由が
わからない。そんなに「世界と対峙」したいか?
もしかして彼はナンパという行為に「居付き」、そこから逃れられ
なくなっているのではないか。ほかのやり方ができなくなっている
のではないか。

彼の望みは、まったく見ず知らずの他人となにかしらの会話をし、
自分とのあいだの距離を測り、その距離を縮めて向こうの身体まで
たどりつき、さらにその奥にあるはずの心を見たい、そしてそれに
よって自分を知りたいのだ。

でもその望みは叶わない。
物理学でいう不確定性原理みたいなもので、相手も自分も、測ろう
知ろうとすれば変化してしまい、そのうち掌の氷が溶けるようにス
ルリと手から漏れてしまう。
ほんらいそれが「裸の」人間というものなのでしょう?
どうでしょう?

彼も、それを知ってか知らずか、こんなふうに述べています。
「他人の体は神聖であるのに、どうしてこうも簡単に触れること、
触れさせることができてしまうのだろうか。そして、触れてしまう
と、ついさっきまでの緊張感は途端に失われてしまう。」
バカだなあ、そんなこと最初っからわかるだろうが。

こうして私たちには、彼はやはり「世界と抱き合う」ことができず
に対峙してしまうひと、もしくは救いをもとめて得られないでいる
探究者/求道者のように見えてくるのです。
彼は、自分はなぜナンパするのかとか、最終的になにを求めている
のかとか、どうなったらやめられるのかといった問いには、たぶん
本気で答えを出そうとはしていないのかもしれません。
人間は他人をとおしてのみ自己を認識できるということばどおり、
彼はこうして、ナンパで出会う人を通しての自分探しをいつまでも
やめられなくなっているのです。

私たち読者は、この本のリアルさは作者(主人公)の切実な探究心
のたまものだということを理解すればするほど、その真摯さとは彼
が「裸」になっていることによるものだと納得すればするほど、で
もそれはどうあっても彼個人の問題ではないかという疑問にさらさ
れ続けることになります。
そんなこともあり、私は、これは自分が若いときに素通りした本だ
ろうけど、いまでは自分に関係しないという意味で少し理解できる
なとも思ったのでした。屈折した言い方ですいません。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第147回 2019.07.04

「若いときに読みたかった・・・けどね」

カフェのようにお客さま相手の仕事をしていると、もし自分のコミ
ュニケーション能力がもっと高かったら、そしてそれを有効に客寄
せとか営業に使えたら、どんなにか繁盛店になることだろう、など
と妄想するときがあります。

ひどい妄想ですね。
でも、なんとなくわかっていただけるでしょうか? 
もうちょっと他人とうまくしゃべれたり、そのおかげで世渡りがう
まかったり、口説きとか誘惑とに優れていたら、いまごろどんな人
生だったろうってウットリ考えるようなもので、いい大人としてど
うなんだという話ですけど。

そんな、ココロがちょっと後ろ向きになっていたとき、おもしろい
本があるものだなあ、と感心させられながら読んだのが、

「誘惑論・実践編」(大浦康介/晃洋書房) でした。

この本は、学者さんである筆者が「ナンパの達人」佐伯孝三という
架空の人物との対談の形をとって進めるフィクションなのですが、
この佐伯氏というのがナンパ理論をきわめていて、「誘惑に関して長
いあいだ後進の指導にあたってきた人」という設定になっています。
ただのナンパ師ではないのだゾ、理論家で指導者で達人なんだゾ、
というわけです。
いいですね、「誘惑とナンパにおける後進の指導」って。
もちろん私も速攻で弟子になりたいと思ってしまいます。

ただ読んでいくうちに、誘惑とは口説きのテクニックのことだけで
はなく、その道の有段者になるためには心身ともにたいへんな修行
が必要らしいことがわかってきます。
そう、これは誘惑の実践を踏まえた、コミュニケーションと人間性
の本質に迫るまじめな研究なのでした。だからナンパについても、
コミュニケーション論としてきちんと成立しているわけです。

まず理論面で参照されるテキストがすごいんです。
スタンダール「赤と黒」やジッド「狭き門」、それからマルグリット
・デュラスといった文学系、キルケゴールの「誘惑者の日記」にバ
タイユの「有罪者」といった哲学系、さらにはフロイトやミルトン
・エリクソンの心理学、ジンメルやボードリヤールなどの社会学、
そしてもちろんドン・ジュアン(ドン・ファン)やカサノヴァなど
の実戦系に、、、、ああ疲れた。
まだまだありますけれど、いずれも人類の叡智の詰まった古典中の
古典ばかりでした。

達人佐伯氏は、これら人類の叡智について豊富な知識をもち、なお
かつそれらを自由自在につなぎ合わせ、独自の理論に仕立てて、そ
れを惜しみなく後進に伝えようとするのです。

いっぽう、とはいえ誘惑の技術面についても、筆者はスポーツや剣
豪の例をあげて、その間合いの取り方とか人間心理にもとづく出会
いと探り合いの結構を解説していきます。
それも、正攻法からはじまって、「じらし戦術」「幻惑戦術」「落差
戦術」など、ナンパですぐ応用できそうな必殺・裏技テクニックも
紹介されていますから、すぐ使える技術を学んでその道の達人にな
りたい!と思っている人にもじつはお勧めでした。
私も若い頃に弟子になっていればなあ・・・ブツブツブツ。

こうして達人佐伯氏とインタビュアー大浦先生との対話は、ナンパ
や口説きや誘惑からはじまってズンズンと深いところに入っていき、
よりスリリングなものになっていきます。
そこで名言も登場しますね。
たとえば、達人佐伯氏いわく、「口説き文句を用意するな」。
これはどういうことか? 誘惑を志す君たちはかっこいいセリフを
覚えてその台本どおり相手にアタックするのではなく、君そのもの
として裸で、丸腰で、相手と対決しろというのです。
そして、「肩の力を抜いて、世界を抱擁するような気持で、真正面
から『驚くこころ』をもって、世界と向き合ってほしい」と。

誘惑とは誘惑相手をとおして世界と向き合う作法なのだ。
誘惑者である君は、つねに新鮮な気持ちで相手に向き合わなければ
ならないし、それは人間として裸一貫になって自分のすべてを相手
にさらけ出すことだし、それこそが世界に相対することに他ならな
いのだ。オープンに、マインドフルに。すると君は世界というもの
を新鮮に受けとめて驚くことができる。
これが誘惑というものの本質だ。
こうおっしゃっているのです。達人、あなたのことばは深いです。

ところで著者には、「体面的 ~見つめ合いの人間学」(筑摩書房)
という著書もあって、そこでは人と真正面から向き合うことや見つ
め合うことの難しさ、怖さ、そしてその必要性までを分析していま
す。
「見つめ合う二人のあいだに生じる不可思議な磁場は、人間社会に
特有の<抑制>と<作法>が試される場であると同時に、動物的交
感の入り口である」というように、こちらは学術的に難しく表現さ
れていましたけど、顔やまなざしをコミュニケーションの「裸(人
間vs.人間の)の部分として捉えるところは同じでした。

いやー、いずれにしろこりゃあ、私のように、とりわけ異性関係に
不遇で未熟で悩み多かった若いときに読んでも、たどりつけない境
地だったかもしれませんね。
実践的に、いや路上の実戦で参考にできることなどなかったかもし
れません。誘惑とかナンパとは、こんなにも深遠な思想に裏づけら
れるものとは夢にも思いませんでした。

ただ、いまカフェのオーナーとしての私も、技術に走るのではなく、
なるべく「丸腰」で「裸」で「新鮮な気持ち」で「オープンに」お
客さまと、そしてお客さまをとおして世界と向き合おう。営業に役
立てようなどというよこしまな考えは捨てよう。
この本を読んでそう固く決意した午後でした。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第146回 2019.06.29

「あらためて山岸俊男先生をしのぶ」

昨年(2018年)、社会心理学者の山岸俊男先生が亡くなられました。
私は、直接ご面識があったわけではないけれど、なにかいままで
とてもお世話になったような気がして、あらためてご冥福を祈りた
いと思います。

先生のご専門は、社会を構成する人と人の間の関係性の問題でした。
それをさまざまな実験の成果をもとに、社会学的かつ心理学的に考
察していくという、えーと、つまり、なんというか、社会集団の心
理の解明とでもいいましょうか、そんなご研究でした。
私には、どっちにしろこうした研究書の紹介などうまくできるわけ
ありませんから、手元にある本の題名だけ挙げてみます。

「信頼の構造 ~こころと社会の進化ゲーム」(東京大学出版会)
「社会心理学キーワード」(有斐閣)
「心でっかちな日本人 ~集団主義文化という幻想」(日本経済新聞社)
「社会的ジレンマのしくみ ~自分一人ぐらいの心理の招くもの
  (サイエンス社)
「日本の『安心』はなぜ、消えたのか ~社会心理学から見た現代
  日本の問題点」(集英社インターナショナル)
「『しがらみ』を科学する ~高校生からの社会心理学入門」
  (ちくまプリマー新書)

こうやって書名を並べてみるだけでも、集団・心理・信頼・安心・
しがらみ、、、と、先生の研究テーマが見えてきますでしょう。
私がお世話になったというのは、集団がどんな理屈でどんな回路で
動くかということについて大きなヒントをいただいたこと、とりわ
け人間社会が人と人との信頼関係によってできあがっていると教え
ていただいたことでした。
ジレンマ、ヒューリスティックス、リスキー・シフト、グループダ
イナミクスなんていうカタカナことばにも慣れました(慣れさせら
れました)。

先生の著作がきっかけで、社会心理学にも興味をいだくようになっ
たこともあります。
なかでも、社会関係資本(人と人のつながりをその人の「資本」と
考えて、それが増えると個人としての収入や地位や影響力が増し、
また地域やコミュニティとしても活動がうまく回るという考え方)
に目を開かせていただきました。(それに関する本は、またあらた
めてご紹介する機会があると思います)

ほう、すると君は、先生からのそれらのご教示を、実際に仕事や生
活でどう活かしたのかね? なんて尋ねないでくださいね。
先生の著作によって私の人間関係が良くなり、社会関係資本が増え、
結果、私のなかで力強く活かされている。はずです。そう思います。
思いたいです。そうでなければなりません。
カフェの経営だってもちろん、信頼・安心・しがらみなどによって
左右されるのですしね。

それとは別に特筆すべきは、私は先生の著作に促されて「社会関係
資本とファシリテーション」という大論文をものしたことがあった
のでした。
それは、会社でデスク仕事をするフリをしながらひそかに内職して
書いたものだったことを告白しなければなりません。すいません。

というのも、じつはその当時、日本ファシリテーション協会という
NPO法人の立ち上げに参加したあとで、その理念と活動の普及に
先生の研究を役立てたいと思ったからなのです。
ファシリテーションと社会関係資本とは切っても切れない関係にあ
るってことを世間様に知らしめ、もってファシリテーション理論の
確立と確かなる実践をめざそうと。それができたらなんとカッコイ
イことだろうと。そう考えていたのでした。

そのもくろみはしかし、私の論文がほとんどだれの目にも触れずに
終わったことによって頓挫しました。残念!
さらに、そんな隠密活動・内職生活のせいで、職場の周囲からは白
い眼でみられ、社内の人間関係もややこしくなって、私の社内関係
資本はガックリと弱まったのでした。
つまり私は、先生のお仕事を社内的に活かすことができずに終わり
ました。先生、ごめんなさい、私は不肖の読者でした。
けっきょく人間関係とか集団心理とかは、、、んんん、めんどくさい!

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第145回 2019.06.20

「いまさらながら鶴見俊輔さんを悼む」

私の手元には、自分の気に入った古今の賢人たちのおことばを集め
たノートがあります。
「賢人のおことばノート」というのですが、たまにそれを引っ張り
出して、お客さまのとだえたカフェの営業中に読み返したりするの
も楽しいものです。

こうした抜き書きって、とりわけ思春期などにだれもがすること
でしょうが、その時そのときの気分とか抱えている問題などによっ
て、自分のアンテナにひっかかってくるものが違うのが後になって
わかる。だからおとなになっても楽しめるというものです。
まるで、おいしいと感じる料理がそのつど変わっていくように。

そんな賢人のなかでも、いにしえの方ではなく現代人で、ああ、で
ももうこのひとのナマのお声は聴けないのだな、この方の作った料
理は食べられないのだな、と寂しくなる方がいて、その方のことば
にはよけいに愛着がわいてメモしてしまうということがあります。

「思想をつむぐ人たち」(鶴見俊輔/河出文庫)

鶴見さんは日本の思想家のなかでも特異な場所に立っている方かも
しれません。
戦前にアメリカにわたって哲学を勉強し、太平洋戦争勃発によって
帰国。そのとき米国移民局に、「自分は無政府主義者だから、どち
らの国家も支持しない」といって相手にあきれられたとか。
戦後は「思想の科学」という雑誌の編集人をし、小田実らとベ平連
(ベトナムに平和を!市民連合)の活動にかかわり、2015年に93
歳で亡くなるまで、マンガや大衆芸能から政治思想にいたるまで、
無政府主義者らしい(?)自由で柔軟な考えを発信していました。

特異な場所に立っているというのは、彼はアメリカでプラグマティ
ズムの影響を受けたらしいけど、〇〇主義とか〇〇哲学の学者さん
というわけではないことです。
また派閥とか仲良しグループを作ったりせずに、いってみれば身ひ
とつでいる。そんな自分を「悪人」と定義して、国家とか戦争とか
大きなものにたいしても、おそれることなく向かっていた実践家で
あり、だからこそ歯に衣を着せぬ物言いをしたおひとだった。
だから私は、彼もまたフール・オン・ザ・ヒルのひとりではないか
と思っています。

そんな方ですから、どの本、どの発言からでも独特な、他とは違う
視点のインパクトある「おことば」はたくさん獲れるわけです。
ちょっとだけパラパラッとページをめくると、そこには、
「哲学とは、当事者として考える、その考え方のスタイルを自分で
判定するものだ。」
なんておことばが飛び出してくる。

また、難民キャンプでコレラで死んでいく子供に人工呼吸をほどこ
す女性のことばを紹介して、
「死を救うことはできませんが、死の状態を救済することはできる
のです。つまり、だれかの上にやってきた死が、意味を会得する手
助けをすることはできます」。

あるいは、イラストレーターの南伸坊さんを評して、
「この人は、テレビに出ている時にさえ、日常の信念を生きている
という印象を与える。その印象のもとは何かというと、彼のオムス
ビ型の顔にあるように思える。顔の形が、思想のあり方を表現する
例・・・」

足尾銅山の田中庄造について、
「形としては彼のしたことで成功したものはないと言ってよい。だ
が、最初の難破が次の難破へとしっかり接続している。」

そんなこんなで、今日もたくさんのおことばを、「獲ったどーっ!」
ということになります。
でもキリがないので、このへんでやめておきましょう。なんか「天
声人語」の、亡くなった方を悼む篇を書く材料を集めているような
気がしてきましたし(笑)。
でも、みなさんも、こういうことばだったら、ずっと読んでいたい、
聴いていたいと思いませんか?

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第144回 2019.06.13

「カフェに並べられない天才マチァアキを、どうしても悼む」

ブックカフェの本棚にはなかなか出せない本、というのがあります。
たとえば大藪春彦先生の本、またたとえば団鬼六先生の本などなど。
なかなかねえ、ちょっと恥ずかしいしねえ、探偵さんに見られたら
ねえ、どうしようかと思っちゃいます。
そのうちのひとつが、平岡正明さんの本。

平岡正明(マチャアキ)、1941年生まれ、2009年に68歳で逝去。
早稲田大学一年の時に共産主義者同盟(いわゆるブント)に入り、
60年安保に参加。その後、ジャズ、革命、犯罪、映画、歌謡曲、極
真空手、それから落語や新内や浪曲などの大衆芸能ほか、幅広い
ジャンルでの評論活動をし、しかしながら、その底につねに革命を
追い求める姿勢を崩さなかった人。

私が彼を天才だと思うゆえんは、彼の文章です。
いきあたりばったりでハチャメチャに流されているようで、しかし
論理的かつ感情的であり(このふたつが矛盾しない)、たゆたうよう
な長い旋律で奏でられ、そのうちに、おお、ここに連れていかれる
のかと気づく、ドライブのかかった、まるでジャズの長いソロアド
リブを聴くようなものだからです。
読むうちに、どうしてもそのパワーに身を委ねてしまう。

それは彼が、文章だけで暮らしていた「評論家」とは違って、じっ
さいに活動(意味、わかりますね)をしながら、つど、対象にぶち
あたりながら書かれてきたということも大きいのでしょう。
つまり、現場の身体的な動きと文章が連動している稀有な評論とで
もいいましょうか。

だから彼の本は、その内容にしろ文章にしろ、だれでも気軽につま
み食いで読めるようなものでもありません。とんでもない発想がと
んでもない結論につながり、ときには論敵をケチョンケチョンにや
っつけ、ときに誤読誤爆自爆し、それらがなぜかジャンルを超えた
地平にたどり着く。
だから、ヒマなときにちょっと味見しようかな、などと思うとやけ
どをしてしまうのです。

たとえば、著書の題名だけ並べてみてもすごいですよ。
「ジャズ宣言」「永久男根16」「韃靼人ふうのきんたまのにぎり方」
「あらゆる犯罪は革命的である」「海を見ていた座頭市」「官能武装
論」「若松プロ、夜の三銃士」エトセトラエトセトラ。
ね、差別発言で申し訳ないけど、おんな子どもの読めそうなタイト
ルじゃありませんでしょ。
私なんて、これらの本を書店で注文するとき(まだアマゾンがない
時代)苦労しましたもの。とくに「韃靼人ふうの・・・」。

なんせ革命的で過激でアナーキーで、なおかつ下半身関係もないが
しろにしない「活動」の軌跡がこれらの本となって結晶したのです
からね。
ということで私のなかでは、天才マチャアキの本は、「女こども」を
含めていろいろなお客さまの来られるカフェの本棚に置くには適さ
ない、という判断にいたっておりますです。

ところで、彼の残した有名なことばには、たとえば「ジャズはジャ
ズ喫茶で聴くものだ」というのがありますが、それには、おなじく
一世を風靡した「山口百恵は菩薩である」ということば同様に、い
くつもの象徴的で実践的な意味が込められていますから(!)、いわ
ゆる賢人のおことばとか「私の人生を変えた一句」とかにはなりえ
ません。
つまり、「賢人のおことばノート」をつけていたとしても、それには
「獲れない」のです。

しょうがないんです。そういうおひとであり、そういう本なのです。
だから読む側は、ただただ、天才の天才ならではの表現とあきらめ
て、ちょっと熱い温泉に浸かるようにその文章のリズムに身を任せ
るのが正しい読み方ということになります。
それができるかできないか。
いってみれば、ジャズ喫茶の入り口ですき間からほのかに流れてく
る音を聴いて、思わず入ってしまうか、あるいは背をむけて別の店
に行くか。

さらに思い出します。
じつに私は、高校生のときに学校の近くの左翼系書店でマチャアキ
本に出会って(その奏でる音を聴いてしまって)、この奏者は天才
だと感じ(「なんという野太い音だ!」と思って)、買ってジャズ喫
茶に入って読み通し、そのときから50年、彼のすべての本を買って
読んできましたから(エヘン、って威張れることでもないですが)、
総数なんと110冊(金額にして30万円くらい?)にもなります。

そういえば彼の著作は、ひどいときには初版2000部というときもあ
ったようですから、すべての著作を読むようなコアな読者は2000人
と考えていいのでしょう。
私はそのなかの一人として、あまり自慢にならない誇りを感じつつ、
もはや彼の新著は読めないんだと自分に言い聞かせつつ、自分の心
の一部とともに、カフェの本棚に出せない彼の本を書庫に眠らせて
いる、というしだいです。
と、こう書いてきて、どんどん悲しくなってきました(泣)。

ところが、そんな私の太平の眠りを覚ます本が出てしまいました。
「平岡正明論」(大谷能生(よしお)/Pヴァイン)
いやいや、この本のご紹介はいたしません。
やめてよー、寝ていた子どもを起こすようなことは(泣笑)。

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ブックカフェデンオーナーブログ第143回 2019.06.06

「『見る』から『やる』へ」

当カフェでは毎月サロンコンサートを行っていますが、このところ
お正月にお招きしているのが、ヴァイオリンの早川きょーじゅさん。
もちろんヴァイオリンのコンサートなのですが、「おしゃべりヴァイ
オリン」というキャッチフレーズのとおり、救急車やF1の音模写
だったり各国語のあいさつをマネたりして笑いをとる、まことお正月
にピッタリのおめでたい音芸を披露されます。
だから「きょーじゅ」という芸名も、ひらがななわけ。

そんなことを想い出していたら、この本を紹介したくなりました。

「ものがたり 芸能と社会」(小沢昭一/白水社)

歌は世につれ世は歌につれ、のことばどおり、「芸能と社会は連動し
てます」というのがこの小沢さんの本、というか口演のまとめです。
「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を思い出すような語り口でつづら
れていきます。

え?「小沢昭一の小沢昭一的こころ」、知りません?
TBSラジオで昭和48年から40年間、一万回以上放送されていた、
伝説のあの番組を?
山本直純作曲の「おーとーこ四十代はのぼりざかー、花咲くとーき
も、もおーまーぢーかー♪」というテーマソングとともに、小沢さ
んのダミ声で「このつづきは、あしたのこころだー」と終わるあの
番組、知らない? そーかあ、そだねー、しょうがないよねえ。
私とっても好きだったんですよねー、「子ども電話相談室」とともに。

それはともかく、学術的なことと自身のフィールドワーク(旅や聞
き取りですね)や経験をまぜこぜにして、日本の芸能を「遊び」「生
業(なりわい)」「商い」「宴会」「信仰」「悪所」「スポーツ」「テレビ」
などのキーワードによって解き明かしていくこの口演は、とても楽
しい社会科(むずかしい社会学ではなく)のお勉強となりました。

とくにすばらしいのが最終章で、文化人類学者の梅棹忠夫理論を援
用しながら、「これからは『見る芸能』から『やる芸能』へと変わる」
と述べるところ。
カラオケもそう、ストリートパフォーマンスもそう、テレビにおけ
るシロウト進出もそう、芸能に関わるなにもかもが、見るのではな
くて自分が演じることが主になってくるだろうと。
逆に言うと、プロはいらなくなるだろうと、こうおっしゃる。

あ、言い忘れましたが、この本は1998年の刊行ですから、いまから
20年前です。いまでは誰もが言いそうなことだけれど、きっちり20
年先んじている。
「見る」より「やる」ということでは、スポーツもその流れでしょ
うし、お笑い方面でもシロート芸としての一般化もそう、芸術方面
では赤瀬川原平さんや森村泰昌さんもそう。「やる」というところを
強調して、パフォーマンスアートなどということばもありました。

いまなら、ハロウィンの仮装やらなんちゃらゲームやらスポーツやら、
そういうものすべてが「やる芸能」に含まれてくるんでしょうな。
「やる芸能」の範疇がとてつもなく広くなってきている。

さらに、「(梅棹先生いわく)すべての人間がパフォーマントである。
同時にアーチストでもあるというようになりつつある。」ですと。
あ、言い忘れましたがこのご託宣がなんと1971年です。ということ
は、いまから50年ちかく前の診断だ、どうだ、梅棹理論すごいだろ、
と小沢さんが自分ごとのように威張るのも無理ありません。

そして、「この、『する芸能』こそが芸能だ。見る芸能というようなも
のは、ある種の文明の中間地帯に発生した、いわば派生的現象だ。」
というおことばも、深いものに感じられます。
ここには芸能へのオマージュ、とくに小沢さんが生涯かけて追っかけ
た「放浪芸」や伝統芸への共感、それからご自身が長年続けられた
「ひとり舞台」や俳句(俳号は変哲)、それらの土台が確かにあると
感じられました。

きょーじゅにも教えてあげようっと。
それと、私もなにかやろうっと。芸能を!

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第142回 2019.05.30

「自分の代わりに探偵さんに示してもらう世界」

私どものようなブックカフェでは、棚にどんな本が置かれているか、
つねにお客さんに見られていることになります。
個人営業の店ですから、お客さんはとうぜん、置かれている本がオ
ーナーの趣味や好みを表わしていると思うことでしょう。本を通し
てオーナーの性格や普段の考え方、それにいままで生きてきた個人
史や隠しているつもりの秘密までも、もしかしたら推測できちゃう
かもしれません。

「あー、ここの店主は遊び人だな。若いころから勉強もせんで遊ん
でばっかりいたな、きっと。趣味はあれとあれとあれ。でも勉強も
趣味も中途半端で終っている感じがある。そんな粘りのなさゆえか、
しくじりも多かったとみえる。それをなんとか取り戻そうと仕事関
連の勉強もしてみたが、残念!いまだに空回りしとるようじゃ・・・」
なんてね。
プロの読み手だったらそれくらいの推理は朝飯前でしょうし、本に
詳しいプロの探偵さんがいたら、オーナーがどんな犯罪に手を染め
てきたか(!)までわかってしまうのではないでしょうか。
おーこわっ。

「探偵小説の社会学」(内田隆三/岩波書店)

によれば、歴代の探偵小説の名探偵たちは(デュパンやホームズや
ポアロや、あの人やこの人も)、もちろん犯人の考えたことや心理を
たどって犯罪の全貌を暴いていくのです。
ただし、それだけではない。
犯人だけではなく、また犯行のすじみちだけでなく、被害者を含め
た関係者それぞれの個人史を推測し、さらに現場に残されたり語ら
れたりする微小なブツとかコトバとの接点を突き詰めようとするの
だそうです。
関係者「それぞれ」の個人史、ですよ。この意味わかりますでしょ
うか? なんせ「社会学」ですからね。

探偵さんは、犯人とその動機と犯行方法だけを明らかにしているの
ではない。
世界は広く多様だ。ひとの心も深く暗い。
犯人・被害者一人ひとりの心も深く広く、そのぶん隠されたグロテ
スクな部分や人にいえない秘密も多い。そんな人間が複数集まれば
それだけ現実世界も広く、闇も深さを増していく。
探偵さんにはそれがわかっている。だから犯罪の全貌にたどりつく
ためには、関係者一人ひとりの個人史とその接点を解明する必要が
あるのだ。

ふだん私たちは、触れずにいたり目をそむけて見ないようにしてい
るものが多いけれど、探偵さんは事件の全貌を示すために、犯人を
取り巻く複雑な現実を切り取り、ワンプレート料理のようにまとめ
て差し出すことができる。
つまり、その時点の犯人・被害者・関係者すべてのひとの目に映っ
た世界を再構築するのだ。

するとそれを読む人は、架空の事件であるにもかかわらずリアルさ
にたじろぎ、犯行そのものに犯人の世界観を見る気がする。
さらには、そこから振り返って自分の心の中を覗いて比較したり、
自分の心の中にも同じものを発見してさらにびっくりしつつ、カタ
ルシスを覚えることになる。
そこに探偵小説の妙味があるんだ、というのです。

筆者が「犯人以外の容疑者も、内面に殺意を持ちながらも(中略)
みずからはその欲望を実現しなかったのである」、あるいは、
「ジジェクによれば、探偵による解決は、これらの容疑者たちをそ
の欲望にまつわる罪悪感から解放することになる」、
などと書くとき、その「容疑者たち」のなかには、読者である私た
ちも含まれているわけですね。
だから私たちは、自分にできないことを犯人や探偵さんに代行して
もらい、それで満足を覚えることになる。場合によっては、その犯
行に人間の心の深い闇と世界の広がりを見せてもらって、深い納得
を感じたりする。
カタルシスというのはそんな意味です。

ところで別枠で記しておきますと、そんなことを語る筆者の「社会
学的」な表現はとってもカッコイイものでしたよ。
「探偵は、現在を、それが蓄えている『過去』の深さにおいて目覚
めさせる。」
いいでしょう? 意味はよくわからないけど。
「探偵小説とは、探偵に導かれ、読者が(自分の見ている夢に陶酔
するために)その深い眠りに入ることをいうのだろう。」
ね、すごいでしょ? さらに意味がわからないけど。
社会学というのは(見田宗介さんもそうだけど)、ときどきこうした
詩的でわからん表現が飛び出すこともある学問なのかもしれません

 

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ブックカフェデンオーナーブログ第141回 2019.05.23

「なぜこの本が売れるのか?」

マスター、このカフェにはベストセラーになった本はあまりないね。
そうかなあ、そうですねえ、そう言われるとあんまりないですね。
どうして置かないの?
置かないなんてことはないですけど、たまたまですよ。まあ、ベス
トセラーは図書館にありますし。
でも、自分で買って読んだベストセラーもあるでしょ?
はい、もちろんですよ。最近も買いましたよ、ベストセラーの本。
ところで、本が読まれないというこのご時世に売れるっていうのは、
どういう本なんだろうね?
はて、どういう本なんでしょうねえ。でもそう、たしかに、ベスト
セラーになる本にはそれ相応の理由があるみたいですね。たとえば、

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎/マガジンハウス)

は、コペル君というあだ名の中学生がいろいろ悩み、叔父さんの助
言をもらいながら成長していく話。昭和12年刊。
学校での下層階級出身者への差別、友情、上級生からのいじめなど
がコペル君の悩みとして取り上げられ、さらに資本主義や共産主義
思想、英雄論などの入り口という一般教養も扱われる。
90年近く時を隔てた現代にも共通するテーマが、読む人のこころを
とらえて考えさせられるポイント満載の書。

・・・というのが、売れる理由でしょうね。
でも、じっさいにこの本を買うのはコペル君と同年代の中学生では
ない、と思うのです。たぶんその親が買って、こどもに読ませてい
るのではないですか。こういう本を読んでコペル君のように素直に
考えるひとになってほしい、という願いをこめて。
ということは、この本が売れる理由は、中学生くらいの子どもを持
つ親(約一千万人)の方がけっこう買ったということでしょう。

もうひとつ、売れる理由として、叔父さんの存在、というか不在と
いう問題もありますでしょう。
コペル君はお父さんを亡くしているので、叔父さんがいろいろ話し
相手になってくれるのですが、じつにこの「おじさん」という存在
が、いま私たちにとって貴重になっているのです。
毎日顔をつき合わせる親ではない、身内だけど第三者、良いことも、
ときには悪いことも教えてくれる存在。親には話せないことでも、
相談に乗ってくれるひと。以前はだれにもそういう人がいましたよ
ねえ。私にもパチンコや花札を教えてくれた下町のおじさんがいま
したよ。なんだ、悪いことばかりじゃないか。
しかし、今は、いない。

もしかしたらいま、そんな「おじさん」が求められているのかもし
れない。
それも売れる理由に関係しているかもしれないと思いました。
叔父さんはコペル君に説教をたれるのではなく、彼の「自分で考え
て解決する」力、つまり自立をうながすアドヴァイスをしていく。
なんともうらやましいではありませんか。
この「劣化していない、おじさんらしいおじさん像」を求めて、あ
るいはそんな存在をめざして本を買う人もいたのではないかなあ。

ベストセラーといえば、
「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社)

これは世界的なベストセラーです。もちろん、面白いです。
人類(ホモ・サピエンス)は、認知革命、農業革命、科学革命の三
つの革命をしながら文明を築きあげてきた。
とりわけ認知革命において、「ないものを想像する」力を得て、共同
生活をはじめることができた。
それにって神話をつくりあげ、宗教、他人との協力、交易、さらに
は想像上の秩序としての国や国民や正義や法律やなどという「虚構」
を育て、現代につづく社会を発展させてきたのだ。

この本では、人類の文明史が小気味よく整理され、「ああ、そういう
ことだったんだ」と納得されます。まるで、歴史の授業ではよくわ
からなかった個々のできごとの理由が、山川出版社の時代別歴史地
図によって、全体像として頭の中に沁み込むように・・・というの
が売れる理由なんでしょう。

でも、売れた理由はそれだけではないはずです。
私は、この本は多くのビジネスマンが、仕事のために買ったのだと
思いますね。
それもただ教養を高めるだけではなく、たぶんこんなすじみちで。
人類の文明には革命的な段階がある → 認知、農業、科学と来て
次はなにか? → その秘密を先取りできれば、あらたなイノベー
ションのヒントが得られる → それをうまくプレゼンに活かせた
ら、俺の企画は通りやすくなるんじゃないか → そうだ、プレゼ
ンの資料にこの部分をちょっと引用しちゃおう! みんな俺の教養
の深さに驚くぞ、きっと。 
みたいな。

いや、すいません。
どちらの「売れる理由」も、私の邪推かもしれません。
これから読む方は、なんの先入観もなく邪念なく素直に澄み切った
清流のような心持ちでお読みくださることが肝要かと存じます。
そこのところどうぞよろしくお願いいたします。

わかったよ、マスター。

 

ブログ141

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第140回 2019.05.15

「なにをごとも入り口が大事で」

当カフェは、建物の場所としては道に面しているのですが、店の玄
関が5メーターほどのアプローチを通った建物内側にあり、またカ
フェの内部も歩道側からは直接見えず、看板もひっそりと簡易なた
めに、お客さまによく「入り口がわかりにくい」とか「入りにくい」
と言われます。
すいません。そんなカフェに、よく来ていただけました。

だいたい、屋号の「DEN」が隠れ家とか小さな書斎という意味で
すので、「入りにくい問題」もあるていどしょうがないじゃないか
という話なんですが、「入り口」の造作が原因でお客さまにご不便を
おかけしているというか、むしろ客の「入り」と「売り上げ」にマ
イナスの影響を与えているとなれば、それはいけません。

やはり店の入り口が入りやすいと、フリのお客さんでもドンドン入
られるでしょう。それはとうぜんの話。
いっぽう、ちょっと強引にめせんを変えますけれど、文章の出だし
もカフェの入り口と同じで、最初の一行でグッと引き込まれると、
あとはズンズン読んでしまうということがあります。

キャッチーなものもあるし、「ン?」という不思議な感じに誘われ
るものもあるし、もしやこれは自分に向けて書かれたのではないか
っ!と思うようなものもあるでしょう。
逆に最初の一文でつまずくと、なんか入りづらいよねーみたいに感
じて、またこんどにしよーかー、カフェのマスターの顔も見えない
しー、と読む気がそがれてしまう。
やはりなにごとも「入り口」が大事ですね。
その入口の良さといえば、

「頭の中身が漏れ出る日々」
「生きていてもいいかしら日記」
「私のことはほっといてください」
「すべて忘れて生きていく」(北大路公子/PHP文芸文庫)

に収められているものは、それぞれ、なかなかに考え抜かれていて
秀逸でした。
筆者は北海道在住のエッセイストで、どうやら毎日文章を書いたり
書かなかったり、昼酒をのんだりのまなかったり、好きな相撲を見
たり、寒い冬を憎んだり、河童やなんやらのことを妄想したりしつ
つ、身のまわりのできごとをトンデモなく笑える話に仕立て上げて
いる方。

たとえば「朝の三時半に目が覚める」、という出だしで始まるのは、
私たちにはそれぞれ同じ日の同じ時刻に生まれた「裏の人」がいて、
自分とその人はつねに差し引きゼロの関係にある、という、じつに
テツガク的(?)な推論でした。

自分が目を覚ますと「裏の人」が寝につく。
自分が酒飲みなら「裏の人」は下戸だ。でも最近自分は、歳のせい
で酒量が落ちてきたから、裏の人はなにかつらいことでもあって酒
が増えているのかもしれない。
こんな妄想をウトウトしながな続けていって、たいした結論も出ず
にまた寝てしまうというなんとも平和な話なのですが、それがおも
しろくって、最初の一行から読むのをやめられなくなります。

いやいや、公子さんの一つひとつのエッセイのおもしろさを紹介し
ていってはキリがありません。
ただ彼女は、「自分は『この人はいついかなるときもバカバカしい
ことを書いている』と思われたい」と言っているので、その崇高な
る志には多大なる敬意を表しておきたいと思います。

で、その、文章の入り口、出だしの問題です。
「その日、世界は救われた。」とはじまる、「丸川寿司男の数奇な運
命」というエッセイがあります。
とつぜんの来客に慌てふためく家族と、そのせいで自分があわてて、
寿司の出前を一般のおうちに間違い電話してしまうという、サザエ
さん的ドタバタがあって、そこから筆者の妄想が、自分のした間違
い電話が原因であれやこれやが起こって、ついには宇宙人から地球
を救う救世主が誕生するというところにまで行く、崇高でおバカな
話でした。

で、これの最後の一文がまたいいんですよ。
自分のかけた間違い電話に落ち込んでいた筆者は、妄想上で救世主
の誕生にまでいたるまでを妄想し終えて、「なんだか猛烈に気分が
よくなって、届けられた寿司を照れながら食べたのである。」
入口と出口のこの落差!この決着!この、「照れながら」の輝き!
 
また、「久しぶりに『見届けたい』と思った」とはじまる、「北海の
盗み見の白熊、敗北す」は、クソ暑い36度の夏の日に、手をつない
で歩いている若いカップル(顔は汗をかいている)のうしろを歩き
ながら考えをめぐらす筆者の話。
彼らはいったいどういう状況なのか。
「(この二人は)もしかしたら暑さのせいで「つないだ手を離せなく
なったのかもしれない。二人の掌があっというまにどろどろぬるぬ
るになってしまって。」と、どーでもいい妄想がはじまる。

筆者はそのあと二人とおなじ電車に乗るが、自分が下りる駅が先だ
った。降りがけに見ると、二人の目の前の座席がひとつ空き、男の
子が女の子に座るよう促している。
いま、二人のどろどろぬるぬるになってくっついたはずの手は、離
れようとしているのか!どうなのか?見届けたいっ!
しかしその後は人ごみで見えない・・・。
で、「今もテレビドラマの最終回を見逃したような気持である。」

入口がよくて、出口もいい。
いや、つまりなんですな、こういうことですかな。
「出だし」は「シメ」の良さによっても引き立つ。両者の対等不可分
な関係によって。
ということは、もちろんカフェに入ってくるときもそうだが、カフ
ェを出る時も、お客さんがどんな顔しているか? その両方が問題
だということですかな。この最後の一文は、やや強引でしたか?


ブログ140

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第139回 2019.05.09

「素顔の作家と作品」

この小説の意味ってどういうことだろう、などと、文学作品の解釈
や味わい方に迷いが生じると、私など、ついついその作家のじっさ
いの生きざまにヒントを求めてしまいます。
たとえば、太宰治の女性関係と作品との関係とか、ドストエフスキ
ーの作品に、死刑執行寸前で許されたり収容所生活の経験がどう活
かされているかとか、ランボーの詩に、文学を捨ててアラビアで武
器商人になる未来のきざしを探したりとか。

まあ、私は半分楽しみながらそんな推理をするのですが、きっとみ
なさんもそんな経験があるのではないでしょうか。
もちろんその推理には正解はなく、せいぜい作家たちの、複雑怪奇
で迷路のように入り組んだ感性や性格や心情にちょっとだけ触れた
気がして、「ま、そんなものかな」とか、「なんだ、イメージ違うじ
ゃん!」とか、勝手に思うだけなんですけれども。

もちろん私とて、文学作品はそれ

 

じたい独立して楽しむべきだと思
うのではありますが、大学教授じゃあるまいし、いちカフェで本を
読むシロート探偵としては、そう簡単に作家の素顔と作品との関連
をさぐることをやめられません。
で、私たち読み手のそんな「知りたい」思いが、ときにひどくなっ
てしまって、三島作品の中に作家の自決とそこにいたる思考やら深
層心理やらをむりやり見つけようとする「謎解き」にいたったりす
るのですね。わるいクセだなあ。

「この人、カフカ?」(ライナー・シュタッハ/白水社)

カフカといえば? そう、村上春樹先生の「海辺のカフカ」、違うっ
て。あ、そうか、カフカといえば、そうそう、ミュージシャンで女
優のシシド・カフカ! イヤ違うって。
チェコ出身のユダヤ系作家で、今世紀はじめころに「変身」とか
「城」とかを書いたフランツ・カフカだってば。

私なんか、「変身」ででっかいゴキブリみたいな虫に変身したグレゴ
ール・ザムザのかわいそうなイメージが強いばかりで、その後「城」
とか「審判」を途中で投げ出した思い出しかありません。
私のなかでは、小説としてどう味わったらいいかわからない、やや扱
いに困る作家というところです。

その作品については、不条理、寓意、暗いユーモア、救われなさ、そ
んなことばばかり浮かんできてしまいますし、だから作家本人はきっ
と、暗い性格で神経症的で世紀末的感性と価値観の持ち主だったんじ
ゃないか、などと思ってしまう。
つまり、カフカの作品は読んでいてくつろげなかったのでした。
だいたい「カフカ/迷宮の悪夢」だったっけかな?そんな題名のへん
な映画を観てしまったことがあり、その暗いプラハのイメージも、自
分のなかでカフカの小説の扱いを悪くしたようです。

ところが、カフェのお客さまに薦められてこの本を読んだところ、な
んとなんと、おもしろいじゃありませんか。いやなにがって、当の、
海辺にいないほうのカフカさん本人の、その人となりが。
ここには90ほどのエピソード、日記、手紙、云いつたえなどが載せら
れているのですが、まるごとカフカの人間性がバクハツしているとい
っていいものでした。
なかでも、私がもっとも好きになったエピソードが、恋人だったドー
ラが記す、これでした。

自分たち二人が公園を歩いていると、小さな女の子が泣いている。
どうしたのかと尋ねると、人形を失くしたのだという。するとカフカ
は、うん、じつは君の人形は旅に出ただけなんだ、といって、自分は
その人形からの手紙を家に預かっていると女の子にいう。
その後カフカは家に戻るとすぐに「人形からの手紙」を書き、翌日か
ら毎日、その女の子に手紙をわたす。そこには、旅に出た人形がいろ
いろな冒険をし、いろんな人と知り合いになり、成長するさまが書か
れていた。
その手紙は三週間つづき、さいごは人形が幸せに結婚して、もうその
女の子には会えなくなりました、さようならと綴られるところで終る
・・・。

これが作家だ。これがカフカだ。
そんな手ごたえのあるエピソードではないですか? 
なんというか大間の一本釣りで、100キロ級のマグロがヒットしたと
きのアタリの感覚がある。マルっとくつろいで全身をあらわにしたカ
フカがそこにいる、そう感じたのでした。

この話を伝えたドーラは、話の最後に、
「フランツは子どもの小さな葛藤を芸術によって解消したのだった、
秩序を世界にもたらすために自分が意のままに使える、もっとも効果
的な手段によって」と書きます。
彼の創作の秘密をあえてその私生活から拾いだそうとするなら、彼が
このようにして「秩序を世界にもたらす」努力をしていた、とまわり
から見られていたということは、とても重要なヒントになるでしょう。
この「努力」こそが、作家を作家たらしめるのだ。
うん、ホントに、いい手ごたえだった。

ところで、この本を私ことブックカフェマスターに紹介してくださっ
た方は、じつはここに描かれていた別のエピソードを私に読ませたか
ったのでした。
それはカフカが親しい友人に語った短編の構想でしたので、最後にい
そいで引用しましょう。

「ある男が、こんな集いの場は開けないか、と考えている。
招待されずとも自然と人が集まってくる。人々はお互い、出会って、
会話して、観察しあう。この宴はだれもが自分の趣味にしたがって、
自分の思いどおりに、だれにも負担をかけずに設定できる。好きなと
きに好きなように現われ去ることができ、ホストに感謝などせずとも
よいが、しかしいつでも、心から、歓迎される。
この奇妙な思いつきが最後に実現するとき、読者は気づくことになる、
孤独な人間を救済しようというこの試みは--最初の喫茶店を作る人
間を生み出すことになったのだ、と。」

ああ、これもいい話だ。
Mさん、ありがとうございます。当カフェにぴったりのお話でした。
というか、この話と当カフェを関連させて気にしていただいたことに、
二重に感謝です。こんな夢が、カフェをカフェたらしめるのだ。
不遜ではありますが、、、カフカとは友達になれそうな気がしてきた。

 

ブログ139

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第137回 2019.04.27

「劣化と害と不便はちがうもの」

世の中なんでも便利になってしまって、たいしたものです。
その気になれば、家から一歩も外に出なくても生きていくことがで
きる。
在宅でパソコンに向かって仕事をし、ネットで生活必需品を取り寄
せ、宅配のお弁当やレシピつきの料理素材を頼むこともできる。監
視カメラと警備会社が安全と安心を、ⅠOT家電や遠隔医療が健康
を管理してくれて、AIロボットが話し相手になってくれる。
本を読むにも、たいがいの調べ物もスマホでできてしまう。

それにひきかえ私どものカフェはといえば、おいでいただくにも歩
いてこなきゃならないし(専用駐車場「非」完備)、Wi-Fiは使
えないし(あるけど教えない)、お恥ずかしい限りです。
しかしこの、「不便」というものをもっと積極的に見直そうという、
じつにもって偉いというか、アナログというか、りっぱな思想をお
持ちになっているのが、

「不便益のススメ」(川上浩司/岩波ジュニア新書)

でした。
この「不便益」とは、どういうことか? 
筆者は四象限で説明しています。
まず、ヨコ軸に「便利・不便」、タテ軸に「益・害」をとる。
便利になって益があると「便利益」、これはわかりやすい。世の中が
前に進むための原動力のような、進歩とか改善とか創造とか、人類
に欠かせないことばが浮かんでくる象限です。

つぎに、その反対の象限をみると、不便で人に害を与える困ったこ
とのあつまりが「不便害」、これもとうぜんですね。
問題は、便利だけど害があると「便利害」の象限と、不便だからこ
そ益があるという「不便益」の象限です。

世の中どんどん便利になって、便利が人間に益をもたらすと思われ
がちだが、そうとばかりもいえないのではないか。
たとえば、夜中にも皓々と明かりをつけて営業するコンビニ。
たしかに便利でお弁当もおいしいけれど、売れ残り商品の破棄の量
はハンパなく、人手不足なので外国人留学生をこき使い、資源のム
ダによって地球環境に負担をかけている。
そこまで視野を広げて、便利さが最後には自分のくびを絞めている
のであれば、それは「便利害」と呼べるのではないか。
「役に立つ」とか「より便利になる」ということが、必ずしも自分
たちを幸せにするわけではないのではないか。益とはなんじゃい! 
自動化・効率化・高機能化・AI化ってナンボのもんじゃい!って
話です。

では問題の、そんな「便利害」の対極の象限にある「不便益」とは
なにか。
それをわかりやすくモノで表わすとどんなものが考えられるか。
たとえば「足こぎ車いす」。
すべての車いすユーザーが両足が効かないのではなく、片足だけが
動かない人や足に力が入りにくい人もいる。その人たちが使う、手
で車輪を回すのではなく足でペダルをこいで動かす車いす。もちろ
ん不便だが、リハビリになったり気持ちが上向きなるなど、利用者
の心に対する「便益(精神的に前向きになるなど)」が見込まれる。

たとえば「かすれていくナビ」。
自分が何回か通った道は、ナビ上で表示がかすれていく。「もう覚え
たからボヤかしてもいいでしょ」って判断して。
すると人はナビに頼らずに道順をおぼえ、逆にいままでちゃんと見
ていなかった景色などに気がつくようになる。
ひとの能力や気づきを促す、そんなこともまた「便益」とカウント
できるのではないか。

ほかにも、以前ここでご紹介した「弱いロボット」(岡田美智男/医
学書院)のなかの、「自分ひとりではゴミを拾えないが、まわりの人
に助けてもらってゴミを回収するおそうじロボット(まわりの人の公
共心を刺激する)」などが紹介されています。

それからモノではなくても、「京都の街を左折オンリーで巡っていく、
つまり右折するためには三回左折をしなければならないツアー(路地
や小さなものの発見が便益)」とか、いろいろな「不便だけど、なにか
しらいままでにない益があるモノ・コト」が紹介されています。

そもそも不便益には、不便が生み出すイノベーション(という益)と
いう意味あいもあったのだ。
日本の街は込み入っていて、目的地に行くのが苦労するのでナビが発
展した。ガソリンが高くて困っていたのでハイブリッド車の開発が進
んだ。こういうやつが「不便が生み出した益」です。
中国では、車が増えて大気汚染がひどくなったのでレンタサイクルの
システムや電気自動車の普及が加速し、にせ札が多いので電子決済が
主役になった。
こういうのも、すなわち不便だからこそなされた改善や創造なのだ、
どうだ、不便益の源がこんなところにあるんだよ・・・。

こう聞いていくと、不便益って面白いですね。
ただ、こういうテーマでしかつめらしく議論をしたりすると、ついつ
い人間にとって善いイノベーションとはなにかとか、生産性とはなに
かとか、国民総幸福度とかブータンとか宗教心とかAIとかシンギュ
ラリティとか、専門家以外にわけのわからない内容になりがちです。

でもちょっとユーモアもまじえつつ、ただしヒトの目線で真剣に「不
便益」を研究し、遠くへ矢を放つようにして不便益グッズを生み出し
ている方々がおられると思うと、とっても嬉しくなってしまいます。
こうして、不便でアナログで手間ヒマがかかってアクセスが大変なモ
ノやコトが時代のトレンドになっていくかもしれませんしね。

ということで、わたしどもブックカフェも、よりいっそう不便益を追
求して、それをみなさまに実感していただけるよう努力してまいりま
す・・・って、便利になるような改善はしないってことを高らかに宣
言しているだけじゃないか。
そんなお声も聞こえてまいりますが、気にしない気にしない。

ブログ137

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第136回 2019.04.18

「いっぽうドイツではどうだ?」

なんの気なしに紹介された本が、ぴったり自分のツボにはまってし
まってビックリすることがあります。それがまたタイミングよく、
いま気にかかっていることにも大きく関係したりするとなれば、こ
れはもう、偶然という名の必然というもの。

「わたしの信仰」(アンゲラ・メルケル/新教出版社)

アンゲラ・メルケルさんは、ご存じドイツの首相。
旧東ドイツ出身で牧師の娘。物理学を学び博士号をとる。その後政
界に出て、キリスト教民主同盟という政党のリーダーとなる。
いまではEUのリーダーであり、トランプのアメリカに代わって自
由主義社会の守護者とまで呼ばれている、という方です。

この本は、自身の信仰と政治との接点にかかわる講演集であり、キ
リスト者としての愛とか希望とかを語りつつ政治というナマナマし
い現実にむきあう姿を映し出しています。

これを紹介してくれた方は、「内容が重い」という表現を使われまし
たけど、じっさい、ごくごく個人的な内面の「信仰」と、広く開か
れなければならない「政治」とが、彼女の中でいったいどう結びつ
いているのかというポイントで読んでいくと、それはたしかに比重
の高い話になっていまして、何回も読まなければ受けとめきれない
気がします。
トランプさんのツイッターとか、安倍さんの本とかとは別物ですね。

さて、このように誠実に信仰と政治の間で生きる人は、当然のごと
く多くの重い「問い」を抱えていくことになります。
「何が良いことであり、何が神から求められているのか、自分には
はっきり分からない」、そして、「わたしたちは神から、苦しみを減
らし、病人を援けよと命じられてはいなかったでしょうか?」
移民について「あの人は来てもいいが、この人はダメなどと、どん
な基準で言えばいいのでしょうか?」
いずれも答えることの難しい問いです。

この本は、だからある面、メルケルさんが「問い」を自分と聴衆に
投げかけ、一緒に答えを探していこうという問答集のようなものと
いえます。
環境、教育、保育、それから高齢化、経済、遺伝子工学や生命倫理、
そしてEUの未来、キリスト教によって育まれたヨーロッパのリベ
ラルな伝統、それらすべてについて、ひるまず勇気をもって自身の
信仰を語ってさらに聖書の解釈をしていく。それを政治に活かそう
としていく。
感服するしかありません。

こうした信仰と思考の結果として、彼女の意思決定や行動は、ひと
つには「ヨーロッパの『強さ』からくる責任の自覚」によって決め
られることになります。
それは貧困の克服であったり、弱者への援助や支援であったり、持
続可能な経済やエネルギー対策として政策化され実現される。

もうひとつは「キリスト教の『寛容』の精神からくる責任の自覚」
によって進められる。
それは、信教の自由の保証や難民の受け入れ、ヨーロッパ以外にも
およぶ人権の援護、などなどです。
そして、それらの政策決定にの反対や疑義があっても、彼女はめげ
ずに、「信仰がわたしたちに、良い意味で論争し、最善の道を求め
る能力を与えてくれた」と信じるのです。信仰のある方は、いい意
味での「思い込み力」をお持ちだし、とりわけ彼女は「祈る力」を
お持ちのようだ。

最後に、やや長い引用を。
「キリスト教信仰は責任ある自由を可能にするだけではありません。
キリスト教信仰は信頼を育て、新しい課題も克服できるという確信
を得させてくれます。わたしたちは毎日それを行っているのです。
多くの事案があまりにもゆっくりとしか進まないと思う人がいるか
もしれません。互いに陰で悪口ばかり言いあっていると思う人もい
るでしょう。

しかし、世界を良くしたいという共通の意思は確かに存在している
のです。その限りで、わたしたちは正しい道を歩んでいます。それ
は、わたしたちに方向付けとなる内面的な価値基準が与えられてい
ることと関係があります。これは賜物であり、これからの歳月もあ
なたやわたしたちに伴ってくれるものですーー願わくは、わたした
ちがこの賜物を豊かに正しく使うことができるといいのですが。」

このことば、どうですか?

 

ブログ136

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第135回 2019.04.11

「モノの見方を変えて<私>をデザインしなおす」

何回も申しあげるようで恐縮ですが、カフェという閉ざされた空間
に長くいると、モノの見方が凝り固まってくる気がしてしょうがあ
りません。

これこれはこうこうこういうもんだ、と決めつけて見てしまう。
モノの見方が固まってくると、触れる情報も出す情報もかたよって
しまい、考え方も一辺倒になってしまう。
ちょっと前につかっていた比喩でよろしければ、頭の中の小人たち
が錆びついてしまって、ぜーんぜん動かなくなってしまう。

さらには、自分に向けた情報に接しても投げやりな態度をとったり、
もっと正しい情報をよこせ!などと八つ当たりし、あろうことか、
やはりこのワタシの見方が正しいのだと他人様に押しつけてしまう。

もちろんこれには歳のせいもあるのでしょうけどね。だって、年老
いたわが両親のやっていることと同じですもの。
でも、そんな生き方のほうがラクチンに生きられる。聞かなかった
情報など自分と関係ないし、見方を押しつけられたひと様のことな
んか、知ったことではないぜ・・・ということで。
実際のところ、この症状にたいしてどんな薬があるのでしょうか?

「まなざしのデザイン」(ハナムラ チカヒロ/NTT出版)

は、アートとかデザインを切り口にしていますが、そんなふうに劣
化・硬化・加齢状態に陥ったしまった自分の穴からどうやって抜け
出すかをテーマにした本で、展開されているお話は書名から受ける
感じよりもはるかに広大かつ普遍的なものでした。

たとえばこんな定義があっちこっちに散らばっているあたりがです。
いわく、アートとは「問い」であり、デザインはその「解決」であ
る。いわく、社会はそれぞれの時代において常識という名の壮大な
想像を共有している。

うーん、どうみてもカッコイイですね。
そんなこと言われると、問いとしてのアートや解決としてのデザイ
ンが、どのようにモノの見方を変えることにつながってくるのか、
訊きたくなるじゃありませんか。
そのうえで頭を柔軟にする薬となるのか、そして「常識という名の
壮大な想像」をどう打ち破れるか、ついつい筆者とともに考えたく
なるじゃありませんか。

まず、なぜモノの見方を変える必要があるのか?の整理から。
それは、私たちの人生にはそれぞれの局面で「居付く」危険に出会
うからだ。「居付く」とは、思い込みの穴に陥って出られなくなる
ことであり、ある状態に安住したりある状況に縛りつけられたりし
て、自分の考えや動きが不自由になることだ。

だれだってそんな「居付き」から離れて、自由に創造的に生きたい
ではないか。オッサンという位置に居付いてしまっては、なんとも
不自由だ。苦しい。嫌だ。カッコ悪い。そう感じる。
しかし私たちはじつは、モノの見方を変えることで居付きから逃れ
ることができるのだ。

ではモノの見方を変える、とはどういうことでしょうか。
筆者はまず、主体(見る側)と客体(見られる側)との関係性を、
「素材」「分類」「道具」「型」というキーワードをもとに変更する
のがよいと説きます。
見方を変えるとはそれまでの常識を問い直すことであるから、モノ
をそれまでの「素材」「分類」「道具」「型」といった分類や範疇か
ら外して、見たり使ったりする。
そうすることで、見る側と見られる側のあいだの関係性に「異化作
用」を起こすことができるというわけです。

どういうことか。
たとえば有名な話で、マルセル・デュシャンという芸術家は、男子
便器をひっくり返して「泉」と名づけて美術展に出品したが、それ
がモノと自分の関係を異化すること、つまり常識を文字通り「ひっ
くりかえす」ことだった。

説明するのもなんなんですが、これはつまり、できあいの「小便器」
を「道具」としてだけ考えるのは、ヒトとモノのひとつの関係性に
すぎないわけです。そんなあたりまえの考えに、君は居付いてはい
ないか? 常識にとらわれていないか?
では便器を「ひっくりかえす」とどうなるか。小便の吸い込み口が
上になったらどうなるか。それを「(水の吹き出す)泉」と名づけ
たらどうか。それは別の用途、別の範疇のモノになるのではないか。
そしていっぽう、それを美術展に出品された「芸術」として見るあ
なた方は、どう感じるのか。
こんな問題提起によってひとの心に起こるのが、異化作用です。

これ以上の説明を省略しますけど、私はこんなことを思いましたね。
そんな「異化(いか)作用」と同様に「他己(たこ)作用」という
のもあるのではないかと。イヤ、ホント、マジで。
客体(見られる側)の分類を変えて自分とモノの関係を変えるのが
「異化」ならば、自分を見る見方を変えて、まるで自己を他人のよ
うに見ることによって世界(客体)を違った形で見る「他己作用」
もあるのではないかと。

そう、じつはこの本でも後半で、「自分を発見」し「無意識を見つ
める」というぐあいに、外部の関係性の世界を見ることから自分の
内部へと、まなざしの対象が変わっていきます。
そして、「私たちが世界をニュートラルに捉えられないのは、自分
という存在に執着があるからである」といいます。まったく同感で
す。これ自分への「居付き」ですね。
また、「何かにまなざしを向ける時は、必ず自分のフィルターを通
して見る」という。これもその通り。

そしてそのうえで、「まなざしのデザインの本当の目的は、<私と
いう妄想>を見破ることである」と、断言するのです。
いいこと言うなあ。私とは妄想なのだ。そうか、なるほど、頭のな
かの小人たち(錆びついている)にあやつられないようにしようと
いうわけか!そのための「まなざしのデザイン」か!
つまり異化作用を推し進めて自分をも異化し、今までの思い込みや
ら数々の居付きから逃れ、それによって他己の視線にまで至るとい
うことなんです。

スゴイことになってきましたね。
「モノの見方が変われば、自分の中での風景が変わる」とは、なん
というか、「川が流れているのではなく、自分が流れているのだ」と
か、「山も動く」とか、まるで禅仏教の公案を聞いているようです。
驚きました。そうやって「私」をデザインし直せっつーんです。

まるで、剣豪のテクニックを聞きに行ったら、「まずおまえの精神を
叩き直さねばならん!」って云われてしまったようで、自分をどう
発見するかの話になってしまいました。うーん、当然といえば当然の
帰結かもしれませんが、オッサンにはやや荷が重くなってきました。
(そんなことできたら劣化してないよー、とひとりごとを言う)

 

ブログ135


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第134回 2019.04.04

「情報リテラシーの劣化を食いとめる五つの『問い』」

劣化しているといえば、自分でいちばん劣化しているなあと感じる
のが、いわゆる「情報・メディアリテラシー」能力、つまり各種の
情報機器やメディアをどう使いこなすかというあたりです。
はい、まったく使いこなせていません(きっぱり)。

カフェに一日いると、まずは、いそいで正しい情報を取得していそ
いでそれを加工処理していそいで得意先に行ってプレゼンする、な
どという作業が必要ありません。
生き馬の目を抜くビジネスの最前線ならともかく、こっちにも目の
前の業務とお客様があるし、国際政治経済情勢もすぐにはお客さん
の入りに影響しないし、情報の正しさの度合いもさておき、とりあ
えずボーッと過ごしていても大丈夫だろ?チコちゃん?というわけ。
  
でもそんな安易なことを続けていくと、いざというときにパソコン
も使えず、スマホで必要な情報にアクセスできず、さらに悪いこと
には知らないうちにフェイクニュースにだまされたりしてしまう。
とはいえフェイスブックとかツイッターとかおまとめサイトに頼っ
たりするのも危なっかしい。
いろいろな場所で「情報環境汚染」が広がっているのだから、、、、、
というあたりも、なんとなく理解はしているんです。

このへんはとりわけ、認識/理解能力も劣化してだまされやすくな
ってボケの一歩手前にいるわれわれオッサンにとって、一番気をつ
けなければならないあたりかもしれませんから。

「情報戦争を生き抜く」(津田大介/朝日新書)

には、そんなオッサンへの数々の親切な忠告に満ちていて、とても
助かります。津田さん、いつもお世話になります、って、知り合い
でもなんでもないですけど、あなたのご発言を信用してます。
この本では、いまのネットの中でなにが行われているか。世論を誘
導するしかけがどう動いているか。それをだれがどういう理由で利
用しているか。とりわけ、ヘイトスピーチやフェイクニュースはど
ういうふうに拡散するか、などがわかります。

すべてが怖い話で、ウッカリノンビリ、ボーッと暮しているのはや
はり危ないとあらためて思わされるのですが、なかでもいくつか気
にかかる記述があったので、ここに書き抜いておきましょう。
フェイスブックCEOのザッカーバーグのアドバイザーだった人が、
こんなことを言っている。
「フェイスブックは動物的本能、つまり原始的な恐れや怒りの感情
に訴えている」と。だから「中毒になるように設計されたシステム」
だ。だからこそ、フェイクの拡散や選挙の介入などに利用されるの
だと。
おおー、なるほどなあ、やっぱりねえ。トランプ大統領のコミュニ
ケーション方法のときに考えたとおりだな。
気をつけるようにしましょう、ね、ご同輩。

また津田さんは、ネットが新聞などのマスメディアと異なる点は、
「読まなくてもシェアする人が多い」ところだ、と分析します。
もともとナナメ読みすることの多いニュースだけど、さらに無料で
読めて、タップで簡単に操作できるメディアだ。すると見出しがち
ょっと気になれば軽い気持ちでシェアしてしまう。
なるほど、そりゃあ、フェイクだろうとなんだろうと拡散しますわ。
これも怖いことです。

では、その恐ろしさがわかっていても、なぜひとはフェイクニュー
スを拡散してしまうのか? その理由について彼は、「ひとには目新
しさへの欲求があるからだ」とする研究を紹介しています。

それによると、正しいニュースは「悲しみ」や「予測」「喜び」「信
頼」などの反応を引き起こすが、フェイクニュースは「驚き」や
「恐怖」「嫌悪」といった未知のものへの反応を引き起こす。
ひとは「正しさ」よりもむしろ、こういう「新奇性」に弱いんだ。
つまり、はじめて聞くこととか、イヤなことだけどひとの知らない
こととか、不気味だったりすることから目を背けられない。無視で
きない。むしろそういうの、好き。週刊誌に載る「嵐」のスキャン
ダル記事くらいに、好き。もしかしたらデタラメかもと思っていて
も、好き。
だから思わず何の気なしに、あるいは自慢げに堂々と、あるいは秘
密を共有するかのようにヒッソリと、シェアしてしまう。

たしかに、ソーシャルメディアには、その手のことがあふれてます。
というか、やはり動物的本能に訴える写真週刊誌と同じで、その手
のことで成り立っているのかもしれません。
しかし、現代人のこの新奇性への好みが、ひいてはフェイクやデマ、
バッシングや差別や過激思想の拡散に、強くつながっているとした
ら、どうします、皆さん?

私は思う。
こうしてネットの住人の一部はたとえ年齢的には若かろうがなにし
ようがわれわれオッサンと同じく劣化の道を歩むのだそしてそれに
引っ張られて世の中がさらに劣化していくのだ反知性主義やポピュ
リズムに向かうのだそしてこのようにして民主主義は崩壊し権力は
独裁化しそれを推進したのがネットの住人とわれわれ劣化したオッ
サンであったと後世に語り継がれるようになるのだ怖い!

・・・ともかく、だから情報をなにげなく受け取ってそれをなにげ
なく右から左に流すようなことばかりしていると、どーなるか知ら
んぞ、若い衆! ということを津田さんになりかわって言いたかっ
たのでした。

最後にひとつ。
このような風潮にたいしてニュースを出す側、つまりジャーナリズ
ムがどうすべきかについて、ハーゲルップという人の「建設的なニ
ュースを報道するための問いかけ」というのが紹介されていました
ので、オッサンなりにこれは重要と思い、メモメモしておきます。

自分の出すニュースの内容として、下記を省みることが大事だ。
1 そのことで独自の(特別の)発想はどこにあるか?
2 なにが解決になり得るか?
3 ほかの人はその問題にどう関わってきたか?
4 我々はそこからなにが学べるか?
5 もし違う風であることが可能なら、なぜ我々にそれができない
 のか?

こうした検討を経ることによって、情報はポジティブな内容になる
はずなので、ジャーナリズムはこのような作法によって常に自分を
律し、責任をもって世の中に建設的なニュースを出すべきだ、と。
そうだそうだ。これには大賛成だ。

そして、これは情報を出す側だけでなく、受け取ってそのあとSN
Sやカフェでのご近所話などで拡散してしまう側の私たちも、リテ
ラシーの劣化を食いとめる手段として自分の中でおなじように問う
ておくべき項目なのだ。
そう思いませんか、ご同輩ならびに若い衆!


ブログ134

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第133回 2019.03.29

「劣化した世代からのお詫び」

カフェでお若い方の話題についていけないとか、AIとかiOTの
話がわからないとか、ネットのフェイクニュースを信じちゃうとか、
「セカイ系」の物語に感情移入できないとか、そんなもろもろがあ
るたびに自身の不明を恥じるとともに、理解力とか好奇心とか学習
意欲とかが劣化しているのではないかと疑ってしまいます。

その疑いは、たしかに的を得ている。
本当はどんなものでも材料にして、自分と世界をつなげる想像をし
ていかなければいけないのに、それを私はサボっているのです。
セカイ系物語にひたる方々のことをあれこれ非難がましく言ってい
る場合ではありませんでした。

なんてことを思いつつ世間に目をむけてみると、私と同年代のおじ
さんたちが企業や政界で、不正融資だの粉飾決算だの文書改竄だの
不要忖度だのをやり、スポーツ界でもセクハラやパワハラで話題を
さらい、はては酔っぱらって痴漢して駅員に逆ギレしたりしていま
したね。

これは、おじさんたちが、自分の世界と外の世界とのつながりが自
覚できずに、ましてそのための努力もしていないことの証拠のよう
なできごとです。社会性とか倫理観とか道徳心なんていうりっぱな
話の前に、まずは人間性や感受性すら劣化しているのではないかと
思われる事態でした。

これらの現実を踏まえて、いや、そんなに肩に力を入れて踏まえな
くてもいいんですが、はたしてわれわれ50~60歳代のおじさんは本
当に劣化しているのか? あるいは感情とか、理解力や好奇心や倫
理観や好奇心や想像力や対人能力や広い世界への想像力やらが、劣
化しているのか? 

そんな問いに、ハイそうです、じつにもって劣化してます、どうい
うことかというと、、、と答えているのが、

「劣化するオッサン社会の処方箋」(山口 周/光文社新書)でした。

たしかに今、おじさんは劣化して「オッサン」になってしまった。
その特徴はといえば、次の通り。
1.古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
2.過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない
3.階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る
4.よそ者や異質なものに不寛容で、排他的である

どうでしょう? よく言われることばかりかもしれませんが、身に
覚えがあるような、ギクッとなるような特徴ばかりです。
ン?あなたはギクッとなりませんでした? ほおっ、そこがまた不
思議なもので、「自分に限ってそんなことはないっ!」と思ってい
ることも、気づかないうちに固くなったパッキンのゴムのように劣
化の症状かもしれませんから、ご同輩、ご注意ご注意。

ではなぜこのような劣化が見られるようになってきたかというと、
この世代の人たちは、団塊の世代の築き上げたシステムにタダ乗り
して安易に生きてきたので、「システムを批判的に考える」ことを
避けてきたからだ、と著者はいうのです。
つまり、アンタら他人のふんどしで相撲をとって、自分の頭で考え
てこなかったじゃないかと。
だから感情も理性も衰え、基本的な教養の習得もおろそかになり、
かくして人的資本(能力)や社会資本(つながり)を弱めたじゃん
かと。

そのうえ、「ソコソコの大学を出てソコソコに働いているのに、家庭
でも会社でもリスペクトされず、ジャマ者扱いされるという状況を
生み出してきた社会にたいして、一種の怨恨を抱え込んで」きたの
だ、アンタらは。
その怨念(!)も原因となり、さらに劣化したのだ!と。

キビシーご指摘、ありがとうございます。
ハイハイ、そうですそうです、まったくもって自分たちの責任です。
私どもは先達の尻馬にのって生きてきました。戦後日本の高度成長
にタダ乗りしました。安穏に平和にすごさせていただきました。
また私どもは、あろうことか、自分がまわりから正当に評価されて
いないなどと逆恨みして、逆ギレしたりもしてました。また、安逸
な生活を続けた結果、他人さまの気持ちにたいする想像力も、あげ
くはリスクにたいするや警戒心も失い、リスクの分担も嫌がってい
ました。
ということで、さきの四つの特徴は、まったくもって私どもの不徳
の致すところ以外なにものでもありません。

となると、品質をごまかす大企業の不正も(責任者はだいたい私と
同世代)、スポーツ界のゴタゴタも(監督や理事は同世代)、安倍首
相(私と同い年)の心のこもらないことばも、ゴーン氏(ほぼ同い
年)の不正蓄財(の疑い)も、高級官僚(だいたい同い年代)のイ
ンチキやごまかしや忖度も、議員や部長さん(もう全員すべて私と
同じ!)のウソやパワハラやセクハラも、みんな私どもの共同責任
です。

私ども「おじさん」は、りっぱな「劣化オッサン」になったのです。
じつを申せば、これらの行ないとそれによってできた現実のすべて
が、私どもオッサンにとって自分と世の中を結ぶよすがであり、い
わばわれわれの「リアルなセカイ系物語」だったのです。

じゃ、どうすればいいのか。
これからの日本を背負っていくお若い方がたは、この劣化したオッ
サンの実態を参考にどう生きればいいのか? 
その処方箋は、どうかこの本を読んで自分の頭で考え、学習してく
ださい。
劣化したオッサンの一員でもあるカフェのオーナーから正解を訊こ
う、反面教師から知恵をもらおう、などという安直な道は、くれぐ
れも選ばないように。
だって、私のこの「お詫び」的な文章には、ぜんぜんココロがこも
ってないことぐらい、すぐおわかりになりましたでしょう?
フンッ、ドーモすいませんでしたね。

 

ブログ133


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第132回 2019.03.21

「『セカイ系』というつながり方」

ブックカフェのマスターとしてちょっと困るのは、あまり自分にな
じみのない不得意分野の話題を、お客さんからふられることです。
ええ、ええ、もちろん不得意分野は理科系をはじめとしてたくさん
あるのですが、なかでも日本の現代小説やライトノベル、それとマ
ンガなどの話題にはついていけなくて、申し訳ない。

不得意分野には、知らないことばもたくさん出てきて困ります。
たとえば、ある種の物語やアニメなどでは「セカイ系」という分類
が使われますね。ガンダムとか、エヴァンゲリヲンとか。
セカイ系って、それ、なんなん?

どうやら「セカイ系」とは、「じっさいは四畳半の世界のなかの『ち
っちゃなボク』なんだけど、すごい壮大な歴史観に自分がつながっ
ていると自覚できると胸を張れる、みたいな物語世界(鈴木謙介)」
のことのようです。

北朝鮮とか中東とかのセカイ情勢とはとりあえず関係ないらしい。
物語の形式の、ひとつの「系」らしい。
それは「壮大な歴史観」、つまり大きな物語との「つながり」のしか
たであり、つまりそこでは、「主人公のボク」がいまここで生きてる
理由が明確に示され、あるいはその秘密が明らかになり、世界のな
かで「ボク」の存在意義が示され、居場所が確定するらしい。

そんな物語の種類を「セカイ系」というのだそうです。
だから、普通の学生生活をおくっている主人公の「ボク」が、ひょ
んなことから「セカイの秘密」に触れたり、とつぜん、大きな悪か
ら世界を守る使命を背負わされたちゃったりして、そして「壮大な
歴史観に自分がつながっていると自覚」することになる、らしい。

ほう、そうですか。スゴイじゃないですか!
で、いきなりでなんなんですが、でも私は、自分がいま理解したこ
の「セカイ系物語」に違和感があります。
というのも、もしかしてこうしたセカイ系物語を愛する方は、今の
自分の身のまわりの世界にご不満があるだけでなく、自分の知らな
いことに対する怖れもお持ちなのではないか、と思えたからです。
さらには、リアルでオドロオドロしい世界とのつながりを忘れるふ
りをしている。
だからこそ、「そのボク」に「現実の自分」を重ね合わせられる。

背景にはこんな感情があるのではないか。
自分の周辺のことは、身近で理解できるがゆえに不満がある。いっ
ぽう、外の広い世界の動きはよく理解できないから恐ろしい。
じゃあどうするかっていっても、自分から広い世界に飛び出すのは
危ないし、そこでなにかを変えるのも骨が折れる。
自分はいませっかく静かに「いい子」で生きているのだから、外に
生息する(らしい)邪悪な物が自分の身の回りに侵入してくるのも
勘弁してほしい。で、とりあえずセカイ系物語に身を託して置く。

もしそうだとすると、セカイ系物語とは、自分の分身である「主人
公=ヴァーチャルなボク」が、邪悪なものから「セカイ」を救うこ
とで「今のボクの世界」を守り、「分身のボク」がそうした役割をり
っぱに果たすことで、リアルなボクの存在証明(つながり感の充足
と居場所の確保)をしてもらって、ボク自身を安心させたいという、
きわめて受け身の心情のたまものなのではないか。

セカイ系物語は、そんなメンタリティをもつ人たちの総意でつくら
れている。かもしれない。
だとすると、彼らは物語を自分たちに都合いいように創作している
のだ。必然的に、そうなる。
するとアニメやラノベやゲーム業界の商業上の理由からも、その
「セカイの秘密」はいつまでたっても明らかにされず、世界征服の
陰謀は退治できず、セカイの危機はいつまでも解消されない。

だって、秘密が明らかになったり危機がなくなったりすると、せっ
かく「ボクたち」が創りあげた物語が終わってしまうもん。
物語が終わってしまったら、ボクたち、困るじゃないか!
・・・こうしてセカイ系物語はネバーエンディングストーリーと
なり、消費され続けていくのであった。そんなことを思いながら、

「サブカルの想像力は資本主義を超えるか」(大澤真幸/角川書店)

を読んだのでした。前置きがむちゃくちゃ長くなり、申し訳ない。
この大澤先生の分析でも、まず、「君の名は。」のストーリーなどは、
「取り立てて特別なことのない平凡な主人公たちが、世界を破滅か
ら救うカギをもっている」というタイプのもので、「セカイ系」の
一種であるとします。
そして、キミとボクの入れ替わりやほのかな恋という身近な世界が、
おおきな世界の人びとの救済というテーマと直接つながっている。

こうしたセカイ系物語は、先生のご専門の社会学的言辞であらためて
いうと、
「国民国家のもつ普遍性や世界性というものに対する信頼感が消えて、
かつ、それを超える社会に対するイメージを描くことができない。そ
うしたときに逆流現象が起きて、直接的で身近な関係が普遍的な世界
の代理物になる」のだそうです。
なんじゃって? えーとまあ、むずかしい表現ですけど、ま、話の流
れからなんとなくわかっていただければ嬉しいです。

いきなり結論部分のご紹介になってしまいましたが、大澤さんの問題
意識はもともと、学問の役割とは、わたしたちの内輪の世界と外の世
界とのつながりを説明していくことだし、だから学者は世界における
われわれの位置をしめしていかなければならない、だからワシ(大澤)
も、サブカルだ、オタクだなんぞとバカにしてないで、鋭意、セカイ
系物語世界を研究するのだというところにあります。

さらに、ワシら学者もセカイ系物語を研究するが、読者のあんたたち
もその成果を材料にして、自分と世界をつなげる作業を自分の力でし
なければならんぞよ、というメッセージを発しておられるのです。

つまり、どんな物語であれ、それを咀嚼して、その「考え方のスタイ
ル」を判定し、自分のなかで場所を与えなさい。世界とのつながり感
というのは、そういう自力の作業によって保たれるのだ。それがあな
たという「小さな自分」と、外に広がる「大きな世界」とを結ぶ手助
けとなってあなたの居場所を定め、生きる力を強めるはずだ。
セカイ系物語にひたるだけではそれができないのじゃ。
ただし、そのときはあんたがたも、想像力をもっと豊かに使えるよう
にしなければいかん、それが正しい「つながり」をもつ秘訣なのじゃ。

・・・先生のこのメッセージ、たしかに私は受けとめさせていただき
ました(誤解、誤読、誤配かもしれないけど)。

 

ブログ132

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第131回 2019.03.15

「生者と死者のはざまのビミョーな世界」

東北の大震災から8年。
もうそんなに経ってしまったんですね。そういえば阪神淡路からも
24年。なんと。こりゃすごい。いやになるほど、はやい。
こうしてウカウカとしているうちに私たちは歳を重ね、町の外見は
跡形もなく復興してしまい、オリンピックだの万博だのが「また」
おこなわれるのでしょう。
しかしそのいっぽうで、東北ではいまもなお、行方不明者が2,500
人以上もいる。そしていまでもなお各被災地に入って、地元の人た
ちに協力して復興に携わったり、その心のケアをしている人もいる。
そんな立派な方々が多くおられることを私たちは知っています。

私は残念ながら、なかなか現地に行くことができません。
ただ、そんな私にもまだ、自分のいるここでやるべき作業が残って
いるような気もしています。
それがなんなのか、ちょっとよくわからないですけど。

「想像ラジオ」(いとうせいこう/河出書房)

この小説の主人公は、東北の大震災と津波によって、海沿いの小さ
な町を見下ろす杉の木のてっぺんに引っかかってあおむけになりな
がらも、みずからDJアークと名のり、「想像」という電波にのせて
ラジオ番組をオンエアしているひと。
この本はDJアークのひとり語りで構成されているけれど、もちろ
ん、このひとはもう津波で亡くなっていることがわかってくる。

こういう設定の小説ですから、読んでいない方にはわかりにくいけ
ど、わかってください。彼の放送は、聴ける人にはいつでも聞ける
し、聞けない人には聞こえないラジオ番組というわけです。
するとあらかじめ私の感想の結論をいえば、この小説じたいも、読
める人にはいつでも読めるし、読めない人には読めないものでした
・・・結論になっているか?

DJアークは、そう言ってよければ、杉の木のてっぺんで「死んで
も死にきれないでいる」ので、あおむけに空を見上げながら、想像
上のリスナーに向かって語りかけ、好きな音楽を想像でかけている。
彼のことばは、おもに彼と同じように「まだ死にきれないでいる死
者」には届くみたいだ。彼らはまだ見つけられていなかったり、ま
だ弔いのされない、いわば居場所の定まらない人たちだろう。

死んだDJアークの「居場所」は本来、そんな杉の木のてっぺんで
はないはずだ。彼も「成仏」しなければならない。しかし彼には、
自分の愛する妻と子どもの安否がわからない。それを知るまではテ
コでもその中途半端な場所を動かないつもりだろう。
だから、杉の木に引っかかっている彼は、生者としても死者として
もカウントされないままだ。

生と死のはざま。これは、悲しくつらい場所です。
さらにいえば、このDJアークと、読者であり生者であるわれわれ
との間の関係は、よけいに不安定といわざるをえません。
というのも、DJアークは、そのラジオの声が届く人(つまり死者)
からは絶大な承認と共感を得られるけれど、肝心の妻や子ども、あ
るいはほかの生者にその声が届かないのです。生者のなかで彼の声
が届くのは、ほん一握りのひとたちだけなのですから。

そしてその「ほんの一握りの生者」とは、大切なひとを亡くして悲
しんでいるひとや、自分の想像のなかでまだその亡くなった人と対
話をしているような人で、彼らだけがDJアークの放送を求め、彼
を承認するのです。
したがって、リアル世界の読者であり生者であるわれわれと、フィ
クションで生死のはざまに居るDJアークとの距離は、さらに限り
なく遠いことになる。もしかしたら、私と2500人の行方不明者との
あいだくらいに。
そんなこともあって、読める人にはいつでも読めるし読めない人に
は読めないと書いたのでした。

いやー、いまさらですが、小説とは面白いものですね。
この本もそうですし、9.11の世界貿易センタービルで死んだひとの
息子が父親の姿を想像する姿を描いた「ものすごくうるさくて、あ
りえないほど近い」(ジョナサン・サフラン・フォア/NHK出版)
もそうでしたが、私たちには、死者のことを想像することで、いま
生きている自分たちへの死者からの承認をもらえるのではないかと
いうひそかな期待があります。
それは、いまその本を読む読者としてです。

読者としては、想像上の彼らから承認だけでなく、できれば共感や
赦しももらいたい。自分たちの選択や判断を認めてもらいたい。
「その後」の生き方や暮らし方への理解ももらいたい。
もちろん一番いいのは、こちらからの一方的な想像だけでなく、彼
らとじっさいに話ができることだ。それができてはじめて、生きて
いる自分の居場所が見つかったと思えるかもしれない。
こう思うのは人間のさがでしょうか? どうでしょう、南師?

 

ブログ131

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第130回 2019.03.08

「カバーデザインのふしぎ」

英語圏に育った移民が作者の本のご紹介が続きますが、これは、申
しあげたように新潮社のこのシリーズのせいです。
これらは当ブックカフェに面差しで置くのにはたいへん適した、好
ましい本たちだと、ひきつづき納得している私、マスターでした。
ということで、

「オープン・シティ」(テジュ・コール/新潮クレストブックス)

のカバーデザインは、厚紙の巻かれたものが中央に立てられ、それ
にはパステルカラーに色分けされた街路の地図らしいものが描かれ
ている。そこに七羽の小鳥がやってきて羽を休めているという、美
しいイラストでした。
鳥の種類はよくわかりませんが、淡い色どりのスズメくらいの大き
さの鳥たちで、まるでその羽音が聞こえてくるようで、それがまた
心地よいハーモニーを奏でてくれているようにも感じられます。

物語はニューヨーク。マンハッタンを散歩する精神科医。
さいしょのページから鳥の描写が出てきます。編隊を組んだ雁の渡
り、鳩、ミソサザイ、コウライツグミ、アメツバメ、、、、それらが
やがていろいろな国のラジオのアナウンサーの声とまじりあい、い
ろいろな国の音楽や文学とまじりあうように描写されて、物語が開
幕する。

このカバーデザインは、多種多様な人種の街と、そこで暮らす--
鳥のように、と形容してしまっていいのでしょうか--いろいろな
民族的ルーツをもった人々がこの本の主人公だ、と表わしているか
のようです。

主人公もまるで小鳥のように街を飛び回り、歩き、人を観察し、職
業として患者の話を聴き、移民たち(他の鳥たち)と議論し、それ
とともに自分の過去やルーツに思いを馳せるという、外から飛来し
てきた人として、都会での孤独な生活をしている。
しかし・・・このように、都会をいかにも軽やかに飛び回っている
かに思える主人公にももちろん孤独と葛藤があり、それがやがて埋
め合わすことのできない過去として目の前に立ちあがってくる・・・。

かくして多くのことが、そして秘められていたことがザワザワとう
ごめきだす。
本を読み進めていく私たちは、カバーの鳥たちが表すように見えた
ハーモニーは、単純に幸せな調和を表わすだけのものではなかった
ことがわかってきます。

だれにでも「開かれている」街ニューヨークは、もちろんだれでも
来て住むことのできる「オープンなシティ」そのものなのでしょう。
しかし、小説の最後のほうで語られる「毎日自由の女神にぶつかっ
て死んでいく何羽もの鳥たち」の話からは、そこで暮らす移民たち
の孤独や根のなさ、それから「やむなくついた傷」のようなものを
連想さられずにはいられません。

ということで、私にとって「この街」は、自分もそこに居たいとい
うよりは、どちらかというと怖い場所に思われてきました。
なんと臆病なワタシ。
そんな感想も含めて、なんか不思議な余韻を残すカバーデザインで
したなあ。

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第129回 2019.03.01

「カバーデザインは語りかける」

題名もいいしカバーもいい。そんな小説は捨てがたい。

カバーデザインは、カフェの本棚に飾られるためにも重要だし、読
んだ後にそれを見ただけで内容や作者や、その「構え」を思い起こ
せるという大事なお役目もこなしています。とうぜんですけど、ま
るでファッションがその人の人柄を表わすように。
だからきっと、そこに醸し出される出版社の「構え」も、書店で本
を買うときの読者からの信頼を勝ちとる役割を担っているのでしょ
うね。
「ん、この版元の本は買って大丈夫」って。

「千年の祈り」(イーユン・リー/新潮クレストブックス)

この本のカバーデザインは、中国風の低い衣装ダンス(朝鮮のバッ
タリのような)の上に、いくつかの骨董品が置かれた写真でした。
たぶん明器(人を葬るときに使う容器)であろう青銅製の壺を花器
がわりに、その前に青磁と白磁の器が置かれ、その横に鉄製であり
ましょうか、足の部分を失った馬の置物が置かれています。
こんな素直なデザインですが、パッと見ただけでもう中国の香りが
匂いたつような気がして、エスニックな雰囲気にグッと誘われます
ね。作者の民族性を強調するカバーデザインです。

表題作は、離婚した娘を案じて、中国から父親がアメリカに来てい
る話でした。
父親を迎えてしばらく一緒に暮らす娘は、父親を疎んじているが、
それは最後に明かになる父親の過去の嘘によるものだ。娘に相手に
されない父親は、公園でイラン人の移民の夫人と知り合いになる。
ふたりともカタコトの英語しかしゃべれないが、母国語どうしで話
してもなんとなく話が通じる、つまり心が通うようになったようだ。

タイトルの「千年の祈り」とは、中国のことわざで、「だれかと同じ
船で川を渡るには300年祈らなければならない」ということで、父
親がイラン人の婦人に、
「お互いに会って話すには長い年月の祈りが必ずあったんです。こ
こに私たちがたどり着くためにです」と話す、そんな意味合いだっ
た。

父親はさらにこう続ける。
「どんな関係にも理由がある。それがことわざの意味です。夫と妻、
親と子、友達、敵、道で出会う知らない人、どんな関係だってそう
です。愛する人と枕を共にするには、そうしたいと祈って三千年か
かる。父と娘なら、おそらく千年でしょう。人は偶然に父と娘にな
るんじゃない、それは確かなことです。」

父と娘がきちんとした父と娘になるには、千年の祈りが必要だ。
その祈りとは、ひとのひとへの祈りだ。どんな出会いも関係づくり
も祈りの努力によるものだ。偶然でも運命でもない。神様や時間の
問題でもない。
この父親はたぶんそう言いたいのでしょうし、じっさいこのあと故
国に帰っても、死ぬまで祈り続けるのでしょう。

私たちもきっと同じです。(そして以前ご紹介した「へんな子じゃ
ないもん」の、祖母と母親と子ども(作者ノーマさん)もきっと同
じです。)
私たちも、そして作中の娘も、もし自分がだれになにを祈っている
のかを知り、だれとの関係をつくることを祈っているのかを理解す
れば、この父親の悲しみも嘘も理解できるのかもしれません。

人生のなかで長いあいだ続けられる祈りは、ひとが生きるために欠
かせない毎日の食事のようなものかもしれません。だから、ほんと
うの「祈り」とは、そこに期待される「ご利益」よりもむしろ、神
様も時間も場所も関係なく、それだけで自然に成り立つものかもし
れません。
と、またわかりにくいことを言ってみました。

最後にひとつだけ疑問を。
中国には本当にこんなことわざがあるのかなあ。
だってこのことばって、ちょっとカッコよすぎる気がしませんか? 
このことわざは、それだけでいくつものストーリーができてしまい
そうになるほど想像を刺激するし、奥が深くて格調も高く感じられ、
作りものだとしたら、ちょっとズルイ気がしませんか? 

ところが、そんな疑問を抱きつつこの本の美しいカバーデザインを
みていると、
「はい、お尋ねの件ですが、そのことわざは実際に三千年前の殷周
の時代からございまして、、、、」
などと、中国の歴史の先生からおだやかに教え諭されている気にさ
せられるわけですが。

ブログ129

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第128回 2019.02.22

「カバーデザインのたのしみ」

私は新潮社の関係者でもなんでもないので、宣伝をしているつも
りはないのですが(笑)、新潮クレストブックスという翻訳文学の
シリーズは、すばらしいカバーデザインが多くて嬉しくなります。
ブックカフェに置くにはもってこいの、気持ちのいいものばかり。

きっとシリーズ全体を統括する、優れたデザインセンスをもつディ
レクターさんがいるのだろうな。
それとこのシリーズの特徴として、祖国を離れた移民とかその子孫
とか、いろいろな民族的ルーツをもった作家が多いことがあります
が、これはきっと、こうした傾向の好きなプロデューサーさんがい
るのだろうな。ということで、

「停電の夜に」(ジュンパ・ラヒリ/新潮クレストブックス)

のデザインは、十数種のスパイスが入ったスパイスボックスを上か
ら映した写真と、その中央やや上にタイトルと作者名をクレジット
したもので、ボックスの中にはセージ、クミン、サフラン、トウガ
ラシ、シナモン、グローブ、月桂樹の葉、、、などなど色とりどりの
スパイスがあり、もうすでに豊かな多様性を醸しだしています。

作者のジュンパ・ラヒリは、両親ともカルカッタ出身のベンガル人
で、ロンドンに生まれアメリカで成長しています。ポートレートを
見ると、これがまた目の覚めるような彫りの深い美人さん。

ということになると、これからこの本を読むひとはこんなふうに感
じていいのでしょう。
アメリカの都会で移民として暮らし、多様な人種や文化に接した作
家の経験が、スパイスボックスのような豊かな色鮮やかさをもつ
短編に結実し、作家・内容・装丁すべてが調和した幸せな本になっ
たのだろう、と。

そのとおり、ここに収められている短編は、エスニック料理そのも
のの味というわけではないが、心のなかに遠いふるさとを抱える移
民たちの気持ちが香るものでした。

表題作は、インド系移民らしき30歳代の夫婦の物語。
あるとき五日間にわたって夜の八時から一時間の停電が知らされる。
彼らはその時間、ろうそくを灯しながら、いままでお互いに黙って
いたささいなことを打ち明け合うことになる。
それで夫婦の間がどうなるのだろうか、と読者は覗き見でもするよ
うに話につきあっていくと、ああ、やはり物語は単純にはいかない
のだった。

その、「単純にいかなさ」とか「期待の裏切られかた」のなかに、
なにかちょっとこう香辛料の香りがある、ような気がするのです。
・・・と、単純な読者(私)はこうやってカバーデザインの影響に
さらされてしまう。

ところで、ニューヨークタイムスの辛口のコラムニストであるミチ
コ・カクタニ(この人に泣かされた作家は何人もいるという)は、
この作家を評して「きわだって構えの美しい、高雅な作家だ」と言
ったそうです。
この、「作家の構えの美しさ」とはどういうことでしょうね?

私思うに、作家の作法のひとつとして、作中の人物を力づくで動か
そうとしないことがあるのではないでしょうか。なんというか、無
理にお話を作らない覚悟みたいなものが。
それは、読者に共感を強いる(お涙ちょうだい的な)ような書き方
をしないとか、あるいは作中に運命とか偶然を使わないとか、そん
な作法を含むことのような気がします。

この夫婦の話も、お互いの性格やこれまでの生活の背景がきちんと
あって、そのうえで「ひと」としてきちんと自立して動いている、
そんなふうに感じられ、それもまた作者の「構え」なのだと思いま
す。
ほらね、こういうふうに「構え」という表現を使うと、サリーを着
た美人さんの作家が、タイプライターを前にして優雅に踊りのポー
ズをとっているところを想像しちゃったりするでしょ? 
読者(私)はそうやって、カバーデザインの影響にさらされるわけ
ですよ。え? あなた、そんな想像はしないって? そうかなー?

それはともかく、この作者は、そうしようと思えばできるのに、民
族性を振りかざしてウケようとはしていない。そして、主人公夫婦
の普通の日々を細かいディテールで書くことで、リアリティを支え
ている。それがよくわかる。
だから物語の流れが自然で、まるで透き通った小川のせせらぎのよ
うに心地よく受けとめることができるのです。
そのような意味で、鼻筋、もとい、背筋のとおった書き手の姿勢が、
「美しい構え」として辛口の批評家をもうならせるのでしょう。

そしてこのカバーデザインは(原著オリジナルではなく日本でのデ
ザインらしいですが)、そうしたもろもろの意味を含めて、小説と
その作者の構えをすべて表わしている--物語の香りと多文化のも
つ美しさですが--ような気にさせられて、辛口の読者(私?)を
も、うならせるのでした。

ブログ128


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第127回 2019.02.15

「カバーデザインのおまじない」

本のカバーデザインがすばらしいと、それだけで嬉しくなって読ん
でみたくなってしまいます。
この気持ち、フト入った書店で、なにかに惹かれてフラフラッと棚
に近づき、なんとなく手に取ってパラパラッとページをめくる間も
なく、そのまま持ってトコトコとレジに行くという、いわゆる「本
に呼ばれた事故」の経験者にはわかっていただけることでしょう。

私どものようなブックカフェでも、店主お気に入りのカバーデザイ
ンの本は、やはり本棚に「面差し(表紙が見えるように置くこと)」
で置きたくなりますね。すると本棚が、まるで宝箱をひっくりかえ
したようになるのです(ちょっと大げさ)。たとえば、

「サフラン・キッチン」(ヤスミン・クラウザー/新潮クレストブックス)

のカバーは、コバルトブルーのイスラムタイルが組み合わさったデ
ザインで、小説の主要舞台であるイランという国を表わした美しい
ものでした。
私、こういう素敵なカバーの本にはもれなく「呼ばれ」ちゃいます。

主人公はイラン女性マリアム。第二次大戦後のイランの国情不安の
時代に育ち、わけあってイギリスにわたって結婚し、サラという娘
をもうける。
これは、イランとイギリスというふたつの文化のはざまの物語であ
り、マリアムとサラという母娘の物語であり、マリアムの過去(イ
スラムの小さな村の生活)への旅の物語でもあります。

印象的なのは、登場人物が、イランやイギリスで生きるうえでなに
を選択しなければならなかったか、なにを捨てなければならなかっ
たかという問いに真正面から向き合う姿です。
この本では、マリアムの、
「いろんな自由があるけれど、そのそれぞれに代償があるのよ。愛
する自由、旅する自由、所属する自由。どれかを選ぶと、べつのも
のをあきらめなきゃならないの」、ということばで、選ぶことの困
難と選ぶことによる責任が示されることになります。

そういえば「ソフィーの選択(ウィリアム・スタイロン/新潮社)」
もそうでした。
戦争の時代はとくに、どちらかを選ぶことが、どちらを選ぼうが自
分の大事な人を傷つけることになるという意味で、選択とは厳しい
代償を覚悟しなければならない行為だったのでした。
やはり、平和な時代とはそんな厳しい選択を迫られずにすむときだ
し、平和な国とはそういう厳しい選択に迫られない国なのだ、とい
うことを肝に銘じたいですね。

さてこの本の登場人物たちも、そうした厳しい選択を重ねるなかで
お互いを認め合い、そして許し合いながら生きる力を得ていきます。
まるで消化しにくい食べ物を栄養に変えるかのように。
そして彼らは、その選択が消化できようができまいが、次の選択を
していくのです。あるときは強いられてやむを得ず、あるときは人
間として力強く誇り高く生きるために、または人生の特別な瞬間の
ために、いやむしろ普通の生活の普通の行為として・・・。

その選択のなかで、娘サラ・マザールがかけることばが、たとえば
すばらしい赦しのことばとして、こう受けとめられる時が来る。
「うん、その言葉で、きみはぼくたちみんなを自由にしてくれたよ、
サラ・マザール--きみ自身を含めてね。それぞれが自分の望みど
おりにできるように」と。
こんな、他人への意図せざる赦しのことばは、自分の苦しい選択と
いう行為を通じてしか得られないし与えることのできないことばで
しょう。そしてまた、それを「赦し」として受けとめた側も、多く
の苦しい選択をしてきた人にちがいない、そう感じられます。

私たちは選択のしがらみと責任で自分と他人をしばり、さらに不自
由にしてしまうことが多い。まるでなにかを選ぶたびに重しが増え
るかのように。しかしそこから私たちは、他人を自由にしてあげる
赦しと祝福のことばを見つけることができるし、それを相手にあげ
ることによって自分も自由になれる。

・・・とは、なんかよくわからない呪文を述べているような気もし
ますが、魅力的なカバーデザインからも、そんなおまじないをかけ
られてしまったのかもしれません。

ブログ127

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第126回 2019.02.08

「確かに生きて暮していた人たちの手触り」

アメリカのトランプ大統領が票田にしている、いわゆる「ラストベ
ルト(錆びついた地帯)」は、伝統的な産業が衰退して工場労働者
が失業し、苦しい生活を強いられている地域といわれて有名になり
ました。

でもそこには西部開拓時代から豊かな農業があり、ちいさな町があ
り、それらはいずれも古き良きアメリカの象徴として、アメリカ人
の心のよりどころとされていたはずです。
私の大好きな映画「フィールド・オブ・ドリームス」(原作は「シ
ューレス・ジョー/パトリック・キンセラ」)の舞台もオハイオの
ちいさな町のトウモロコシ畑ですし、ボールゲーム(野球)ととも
にアメリカ人の「心のよりどころ感」をジンワリと表してくれてい
ました。
そして、そのもう少し前の時代のオハイオを舞台にした小説、

「ワインズバーグ、オハイオ」(シャーウッド・アンダーソン/新潮文庫)

も、そうした「心のよりどころ感」が確かに感じられる作品のひと
つです。
これは題名そのままに、オハイオ州のワインズバーグという架空の
小さな町の20世紀はじめごろのお話で、そこに住む住民一人ひとり
の、なんというか「銘々伝」みたいな逸話が、若き新聞記者ジョー
ジ・ウィラードの目をとおして語られていきます。まるで大昔にい
た人物たちの伝説のように。

ただしそこでは、なにか英雄的な行動とか劇的なドラマが起きたり
するわけではなく、普通の人の普通の日々の生活が、たんたんとつ
づられていくだけの連作なのです。(ものすごく昔、アメリカのテレ
ビドラマに、「ペイトンプレイス物語」というのがありましたけど、
雰囲気はあのセピアカラーの物語に近いものです。でもこのドラマ
知ってる人は少ないだろうな)

ここに登場する一人ひとりの住民はごく普通のひとなのですが、た
しかに少しずつ変わっていて、本の最初に、「これは、いびつな者た
ちの書だよ」という宣言みたいな章で予告されているのですが(原
語では「グロテスク」という言葉で)、グロとかいびつというよりは、
「少し残念な人たち」くらいに表現したほうがよさそうです。

たとえば、ハゲで小男のビドルボームは「いつでも怯えており、じ
ったいのない一連の疑念に苛まれていた。」
ジェシー・ベントリーは「狂信者だった。別の時代と場所に生まれ
た男であり、そのために苦しんだし、ほかの者たちも苦しめた。」
ジョー・ウェリングは「アイデアに取りつかれるのであり、一つの
アイデアによって発作を起こすと、手がつけられなくなるのだ。」
セス・リッチモンドは、「『無闇に深遠なやつ』と言われていた。『近
いうちにここから出ていくよ。見ているといい』」

こんな人たち・・・。
イヤイヤ、このようにつまみ食いしても、登場人物たちとこの町の
魅力をわかっていただくのは難しいですよね。たぶん、読まずに共
感していただくのは難しいことでしょう。
でも読み終わってみるとよくわかるのですが、彼らの「いびつさ」
とか「残念さかげん」「グロテスクぐあい」は、けっして異常なも
のとかデモーニッシュなものではないのです。その欲望とか夢とか
期待などは、私たちとまったく変わりないものですし、もうなんと
いうか、自分の帽子のなじみある匂いを思い出させてくれるような、
そんな人たちでもありました。

私たちとよく似たそんな登場人物たちのもつ弱さ、欠点、そしてそ
れによって失われてしまった生活、破れた夢、でも必死にしがみつ
こうとしている明日への希望、それらがすべて愛おしく、たぶんワ
インズバーグという町では彼らのそうしたいびつで変な部分が積み
重なって話され、町の新聞で伝えられ、それによって町として形づ
くられていったのだろうなということがわかります。

ここは架空の町だけど、きっとどの町でもこれらに似た人がいて、
似たことがあったのでしょう。
「スモールタウンこそアメリカの基本」ということばがあるそうで
すけど、ここには確かに普通の人たちの普通の夢があり、それがや
やいびつな形に現われ、そして町ができ、またややいびつな希望に
よって人が動き回り、それによってまた町が大きくなり、そういう
町がたくさん合わさってアメリカという国をつくった。

なので、産業がさびれるとメディアはそこをラストベルトなどと名
づけるけれど、こうして作られた小さな町々がなければアメリカで
はない、ということもよくわかるのです。
この小説の中には、アメリカをつくった人々が確かに暮らしている。
そして彼らの一人ひとりの物語は確かな手ざわりを残し、読む側は
じかに触れて彼らが愛おしくなる。ここにアメリカの「普通」がみ
える。
つまりすばらしく嬉しい作品なのです。もはや古典の部類に入る本
かもしれないけど、絶賛おすすめ中!

 

ブログ126

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第125回 2019.02.01

「特殊な世界のたどりつく先は?」

どうにもややこしい問題にはまり込んでしまったようで、その細か
く枝分かれした道のひとつをなんとなくトボトボと歩いていたら、
うわっ、こんな所にでてきてしまいました。

「服従」(ミシェル・ウェルベック/河出書房新社)

フランスで発表されて大きな衝撃を与え、2015年に日本で刊行され
てベストセラーになった小説です。

ときは2022年、フランスはイスラム系移民が増えていた。大統領
選挙ではイスラム系の候補が勝ち、その政党が政権を握る。
ユイスマンス(小説家で19世紀の耽美派の巨匠)を専門にする主
人公の大学教授は、最初、その事態もたいしたことにはならないだ
ろうとタカをくくっていたが、穏健な政策をかかげていたかにみえ
た政権党はじょじょにその本性をあらわし、フランスはイスラムの
国になっていく・・・。

これはビックリ、典型的なディストピア(ユートピアの逆)小説で
す。なにせ、キリスト教と植民地主義と合理精神で「特殊」になっ
た西欧の、その一方の雄フランスが、移民の増加によってついには
イスラム教の価値観に覆われる国になってしまうというところまで
「特殊」になっていくのですから。

この主人公は政治的なことはあまり真剣に考えない享楽的なひとで、
なんとなく理由も確信もなく楽天的に暮らし、社会や周囲のひとが
ドンドンドンドン状況に対応して変わっていくのにも無関心でいる。
そして最後には、やはりなんとなくという感じで自分もイスラム教
に改宗することで、それまでの「良い生活」を続けることに甘んじ
ようと決心する。
「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないも
のだ。ぼくは何も後悔しないだろう」などと言いつつ。
ひえーっ、この主人公の述懐、怖いですねー。自分だったらどうす
るだろう?

しかしこの主人公は特別なひとではなく、もちろん他の登場人物も
イスラム政党を選んだフランス国民も、ごく一般的な常識をもった
フランス人たちなのです。
さ、どうでしょう。
なにがって、これまで何回か追ってきた宿題についてです。

特殊なすじみちで自らのアイデンティティをつくってきたヨーロッ
パの、そのなかのフランスが、その特殊さによって移民の増加を招
き、移民が同化し共存し、文化は多様となり、そこまではいい未来
だったかもしれないが、そこで暮らすごく一般的な常識をもったフ
ランス人が、ついにはキリスト教国でもなければ自由・平等・博愛
の国でもなければ、EUの理念を追求する国でもない未来を選んで
しまうことになる。

つまりこの本では、「オリエンタリズム」などの考え方のワク組みを
真っ向から崩すことになる未来予測が、ガツンと出てきてしまった
のです。そんなワク組みなど軽く乗り越えて、現実はドントンドン
ドン別の道を進むだろう、っていうのです。
小説とはいえ、この想定は怖いですねえ、ブルブルブルッ。

でも、おかしいな。私はなんでこんなところに行きついてしまった
のだろう? 細い道のいくつか、たとえば遠いところにいる人たち
への共感とか、パレスチナの人々の尊厳とか、それらの対岸にある
ヨーロッパの特殊性とかをトボトボしていただけなのに・・・。

ブログ125

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第124回 2019.01.25

「やっぱりヨーロッパは自分の首を絞めていた、で日本は?」

おもわず何回もこの話題が続いておりますが、、、。
そんなポストコロニアリズム的な考え方からすると、ヨーロッパ
「が」特殊だ、と。世界はもう、ヨーロッパが「特殊」になる前に
は戻らない、と。責任者は出てこないし。怒ってもムダだし。
それは重々わかっているが、なぜか頭にくる。

ところがそんなことにおかまいなく、現実はドンドンドンドン先に
進んでいて、西欧諸国は力を失い、すべてにおいて先進的な取り組
みと思われたEUは肥大して政策的に行き詰まり、移民がドンドン
ドンドン増えて、政治・経済・文化の危機を迎えている、らしい。
いまこのとき、このようにしてヨーロッパのアイデンティティは揺
らいでいる・・・というのが、

「西洋の自死」(ダグラス・マレー/東洋経済新報社)

の見立てでした。「自死」とはなんとも強い表現ですね。原題では
「ストレンジ・デス」、つまり「奇妙な死」となっていました。
では、なにが奇妙で、なぜ訳者はそれを自死と訳したのか? 

移民の増加が問題なのだ。
若年層の工場労働者確保のためなどの理由で、ヨーロッパはこれま
で多くの移民を政策的に受け入れてきた。ドイツのトルコ移民、フ
ランスのイスラム系移民、イタリアやスペインの地中海対岸アフリ
カ諸国からの移民など、1970年代から継続的に受け入れてきた。
もちろん、それぞれの旧植民地からの移民難民も多い。

その後、中東でつづく紛争や、2011年のアラブの春、2015年から
つづくシリア内戦、イスラム国の伸張などにより、難民がトルコ国
境ギリシア国境を通りぬけ地中海を渡って、ドンドンドンドン、ヨ
ーロッパに押し寄せた。
自由で平等で進歩的で安全で、多くの収入が得られて社会保障が充
実しているヨーロッパは、移民難民の最終目的地だ。
だから彼らは、いちど来たらもう帰らない、帰れない。

移民難民の増加は私たちが日本から見ているよりもすごくて、たと
えばこの一年間の数は300万人とかいわれ、またたとえばロンドン
の住民の半分は移民か難民、もしくはその一世代二世代あとの人々
なのだ。

うわーっ、そんなだったの? 
どおりでワールドカップサッカーの出場チームが、肌の色がさまざ
まの多国籍軍にみえるわけですわ。
移民の比率がそこまで増えると、「一定の文化の継承」とか「似た
価値観をもつ」などが難しくなり、「同じ言語と宗教をもつ民族国家
としてのアイデンティティ」が揺るぐのは間違いありません。

ヨーロッパは、こうした流れを政策として進めてきたのです。
だから筆者は「奇妙」と名づけ、訳者は「自死」と翻訳したのでし
た。西欧の現状は、だれからも強制されたのではなく、自分の手で
行なってきた結果なのだといっているのです。

筆者の見立てを続けましょう。
この事態の背景には、ヨーロッパの人たちに、「かつての帝国主義
(植民地主義)に対する罪悪感」があり、「移民の受け入れに反対す
るのを極度にためらう心理」がある。そのため、移民に反対すると、
それだけで「遅れているヤツだ!」「人種差別主義者だ!」「多文化
共生をなんだと心得る!」、などと思われる可能性があったのだ。

また、人権援護の名目で軍事介入したイラク、アフガニスタン、リ
ビアなどを破綻国家にした失敗への責任感もあった。さらにさかの
ぼって、ナチスによるユダヤ人差別と迫害の歴史もあった。
こうしたことすべてが「歴史的罪悪感」として沈殿し、西欧諸国に
共通する罪と恥の意識となったのだ。

いっぽうで、多くの西欧人は、移民や難民の受け入れはやはり基本
的に正しいことだ、公正なことだと考えている。それにともなう
「人種や文化の多様性の推進」も、原則として支持されている。
ドイツのメルケル首相はけっして孤立しているわけではない。彼女
は、自由・平等・博愛の精神とおなじように長い時間をかけてつく
りあげられてきた理想を語っているのだから。
しかし、その結果がいまの移民と難民の数として現れたのだ。いず
れにしろ、もうあと戻りできない。

筆者のこうした悲観的な意見は説得力があります。
ただし私は、この考えにそうだそうだと言ってるだけではいけない
ぞ、以下のような、いくつかの考えや問いを付け足さなければ公平
ではないだろうな、と思いました。

・少なくともヨーロッパは、暴力を受けたものが他のものに暴力を
 ふるう連鎖を止めようとしているではないか。
・それはイスラエルとか中国とかロシアとか、あるいは他のイスラ
 ム系諸国とも明らかに異なる、成熟した態度ではないか。
・だから、筆者は「欧州の疲労」とか「実存的な疲れ(なんじゃそ
 れ?)」とか、ヨーロッパは「文化的資産を食いつぶしている」、
 あるいは「基盤となる物語を失った」と書くけれど、それはやや
 大げさではないか。
・ヨーロッパでのテロの増加は、筆者の言うようなイスラム教だけ
 の問題ではないのではないか。生活の貧困、同化の失敗もある。
 それに、あまりに急激に増えた移民難民の数を考えると、失敗と
 いう表現を使うのはいかにもかわいそうだ。長い目でやや楽観的
 に見ると、同化・共生の途中経過における齟齬とあつれき、とい
 う見方もできるのではないか。

・一番の問題は、では私たち日本はどうか?ということだ。
 日本は西欧のようには特殊ではないのか? 西欧のような偏見の
 なさとか、心の広さとか、反人種差別とかを美徳として養ってき
 たか? というか、どんな美徳や正義を養ってきたのか? 自由
 ・平等・博愛の精神はあるか? そしていま、人口減少やそれに
 ともなう若年労働者の減少をどうするか、真剣に考えているか?
 それを移民・難民問題とセットにしてきちんと議論しているか? 
 入国管理法の改正は、なにをどこまで考慮に含めているのか? 
 などなど。

ようは西欧を鏡として見て、日本はどうだ? 日本は大丈夫か?
っつーことなんですけど・・・。もしかしたら日本の方がもっと特
殊になってるのかもしれませんぜ、皆の衆。さらにつづく。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第123回 2019.01.18

「ヨーロッパこそ特殊、という見方」

パレスチナやイスラエル、そして紛争続くシリアといった中東世界
のことを、遠く離れた日本の片隅の小さなカフェから見る、しかも
報道やノンフィクションではなく文学をとおして見る、いや読む。
そんな行為が、自分の生活にとってどのような価値をもつものかは
わかりません。しかし、なにかからご指名をうけてしまった気もす
るし、つきつけられた問いに答えたいし、なによりもっと知りたい
という気持ちがおさえられません。

簡単には知りえない、むずかしい現実。
なにせ、どんな報道もある程度はなにかしらの色に染まっていて、
信じられるものばかりではない。、また、第二次大戦後の70年間で
グチャグチャになって、さらにいままたグチャグチャになろうとし
ている中東世界を、私たちが簡単に理解できるとも思えない。

とはいえ、確実な情報が少ないのであれば、よけいに想像力の力を
借りるしかない。そこに文学の出番がありました。
さらに、簡単には理解しがたいものには、なにがしかの「考え方の
ワク組み」を使ってみることができるかもしれない。ここに思想の
出番があります。
そこでひとつの「考え方のワク組み」を得るために、

「ポストコロニアリズム」(本橋哲也/岩波新書)

を読んでみました。
ポストコロニアリズムとは、どういうものか?
それは、植民地主義のすさまじい暴力にさらされてきた人々の視点
から逆に西欧近代の歴史をとらえかえし、現在におよぶその影響を
考察しようとすることのようです。

ようは、西洋中心で語られてきた歴史ではなく、植民地化され搾取
されてきた側から歴史をとらえ直すことです。
するとまず、これまでの教科書的な歴史観である、「先に進歩した西
洋が遅れていた非西洋(中近東やアフリカやアジア)を征服したが、
やがて非西洋が力をつけて植民地主義を克服して独立し、近代国家
の仲間入りを果たす」、という認識が誤りだとするのです。

むしろ逆に、「植民地支配の歴史が、『特殊な地域』としてのヨーロ
ッパを形づくってきた」と考えなれればならないらしい。
つまり、大航海時代以降に暴力的に植民地をたくさん持ってしまっ
たことによって、西洋こそが自分自身を「特殊な国」にしたてあげ
てきたのではないか。中近東やアフリカや東洋の遅れた国々が特殊
なのではなくて、それらを植民地にした国が、そのことによってい
びつで特殊な国になってしまったのではないか。

この本ではこんな考え方が、フランツ・ファノン、エドワード・サ
イード、ガッサン・カナファーニー、ガヤトリ・スピヴァクなどの
思想とともに述べられていきます。
おお、なんとすばらしい思想家のラインナップでありましょうか!

たとえば、エドワード・サイードの著書「オリエンタリズム」から
は、「オリエントを自分とは異なるものとして疎外することによっ
て、ヨーロッパのアイデンティティは成立してきた。」
「我々、西方ヨーロッパは、合理的・平和的・自由主義的・論理的
であり、彼ら東方オリエントは、すべてその正反対とされる。」
などということばが引用されます。

ヨーロッパはこう考えて行動することで、いまのヨーロッパになっ
たのだというのです。世界中の「自分と異なる文化」を異物として
認識し、それらを合理的に攻撃し、論理的に殲滅し、それらの要素
を自分のからだと心からそぎ落とすことによって、彼らは「自由で
平和なヨーロッパ」という自我を確立した。
インカを滅ぼしたコルテスの時代から、いやもっと昔、十字軍がア
ラブ世界に侵入した時代から、いやじつは、東方の世界を「アジア」
と名づけた古代ギリシアの時代からずっと・・・。

なるほど、こうなるとまるで、ヨーロッパ(というひと)の精神を
読み解くフロイト理論みたいですね。
たしかに、あらためて考えてみると、近代ヨーロッパの自由・平等
・博愛という理想や、個人の尊厳とか表現の自由などという価値観
も、いってみれば、彼らからみて野蛮で未開の地域を「鏡」として
発展させてきたように思えます。

どういうことかというと、奴隷制がアテネの民主政を成りたたせて
いたように、植民地支配がヨーロッパの進化論、なかでも優生思想
や進歩主義、あるいは革命思想や民主主義などを成り立たせ、発展
させる基盤となっていたのかもしれないということです。
はい、なんとなくわかるような気がしてきましたゾ。
西洋は、東方世界を疎外して自己を確立したから、いびつな性格に
なってしまった。

また、それには植民地が経済的な寄与もした。
西洋は、植民地を支配し管理し搾取し管財することによって、さら
にそれらの国の考え方を吸収しつつ反発することによって、ようや
く自分自身を確立することができたのだ。まるで召使いがいないと
自分が何者だかわからず、ひとりではなにもできない貴族のように。
ひるがえって、中国とかペルシャとかは、なんというか、自分の力
で中国になりペルシャになったといえるような気がするのです(意
味通じますでしょうか?)。

こういうことですから、つまり・・・ヨーロッパ「が」、特殊なん
ですよね。なんて弱いやつらだったんだ、って話です。

そしてそんなヨーロッパが、たとえばとりわけイギリス大英帝国が
第二次大戦後に、自身は戦争でヨレヨレになりながらもプライドを
捨てきれずに裁判官みたいなまねをして、ユダヤ人にパレスチナの
地を約束してしまい、自分では責任とれないくせに中東の分割を進
めてしまい、西洋中心の国連がそれを後押しした、というのが、こ
の70年間のグチャグチャの始まりだったわけです。

どーすんだ、アラビアのロレンス君! まったくもう。
西方ヨーロッパが海に乗り出さずに、アメリカやアフリカや中東や
インドやアジアを征服せず、植民地もつくらなかったらこんなこと
にはならなかったじゃないか! だいたい、何世紀ものあいだ植民
地をかえていた西ヨーロッパ列強諸国は、いま現在、どこも多民族
国家になって、これらの国のサッカーチームはどこもアフリカ系の
人々がたくさんレギュラーにいるから強いんじゃないか! 
責任者でてこい、もとに戻せ!

・・・本の紹介が中途半端に終わり、さらになにに対して怒ってい
るかわからなくなりましたが、なんだか頭に来た。
ポストコロニアリズムのような「考え方のワク組み」を採用すると、
少しは中東のことが理解できたような気がするものの、あらためて
しみじみと腹が立つったらありません。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第122回 2019.01.10

「パレスチナを想いつつ、想像の共同体の一員に」

かつてユダヤ人がそういわれたように、いまはパレスチナ人が「離
散の民」「流浪の民」とよばれています。
彼らはたくさん殺され、たくさん難民キャンプに暮らし、いまでも
国際政治のしがらみのどまんなかにあって、長引く戦乱から逃れ続
けています。いっぽうイギリスは紛争から手を引き、アメリカはイ
スラエルの後押しをし、ロシアは隣国シリアの利権をねらう。
私たちはそんな報道記事を読み、ニュース映像を見て、もっと目を
開けてしっかり見ろと言われながらも、見られたり見られなかった
りしている。
そして「彼らはいったい、この先どうなるんだ?」と不安に思う。

たとえばパレスチナ出身のエドワード・W・サイードは、「パレスチ
ナとは何か」(岩波書店)のなかで、
「私たち(パレスチナ人)が過去のパレスチナから離れれば離れる
ほど、私たちの身分はいっそう怪しくなり、私たちの存在はますま
す分裂し、私たちのあり方(プレゼンス)は、さらに間歇的なもの
となる」といいます。
つまり、自分たちはいったい何者なんだ?というのです。

イスラエルに追い出され、同じ民族のアラブ諸国にじゃま者あつか
いされ、国連からは見放され、あるものは国境としてつくられた高
い塀の中に閉じ込められ、あるものは諸国を転々としている、そん
な自分たちは、いったい何者なんだ? 
「私たちは存在しているのだろうか。いかなる証拠があるというの
か(サイード)」と嘆くのも当然のことです。

その嘆きになにかしらの形で応えるには、日本に住む私たちも彼ら
の存在を確かめるための証拠あつめを手伝わなければならないでし
ょう。そのための参考資料としては、もちろんジャーナリスティッ
クな現場報告も貴重ですが、同じようにお役に立つのが、

「アラブ、祈りとしての文学」(岡 真理/みすず書房) です。

これは文学評論ですが、この本のオビがまたカッコいいんですよ。
「小説を読むことは他者の生を自らの経験として生きることだ。絶
望的な情況におかれた人々の尊厳を想い、非在の贖いとしての共同
性を希求する新たな批評の到来。」
ね、すごく格調高い文章でしょ? 想像力を刺激しますでしょ?
他者の生とか、人びとの尊厳とか、非在の贖い(あがない)とか、
これはきっと、みすず書房の女性編集者(きっと30歳代後半、大
学ではジャーナリスト志望だった)あたりの手わざでしょうな。

おっといけません、いけません、オビの文章なんかにひっかかって
いる場合ではない。内容のご紹介をしなければ。
この本は、広い地域にいるアラブ人作家をあつかいながら、とはい
え読む側の印象としては、サイードやカナファーニーなどパレスチ
ナに深く関係する書き手への共感的な解説がつよく印象に残る評論
でした。
そして筆者の、アラブ世界で社会的弱者になってしまった人々にた
いするつよい関心とあいまって、私たちに、文学からなにを受け取
れるのかのヒントを与えてくれるものでした。

そのなかで、いちばん考えさせられたのが、やはりこの問い。
ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを
繰り返すのか? 残酷なことをされた人々が、なぜ他の人に残酷な
ことをするのか? なぜ迫害は連鎖するのか?
そして筆者はこの問いを、
「ホロコーストというレイシズム(人種差別)による悲劇の経験を、
私たちはいかにして、イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人に対す
るレイシズムを克服する契機となしうるのか」、と言い直します。

前回と同じ問いですが、ヘタに関わると自分たちの頭も複雑骨折し
そうな難しい問いです。しかしこの問いは私たちも避けられません。
おおげさにいえば、正義とはなにかということ、そして逆に、ひと
はなぜ不正義の連鎖に加担するのか、ということなのですから。

ただし筆者のこの問いは、「解きがたい問い」を他人に投げかけっぱ
なしにするのではなく、イスラエルもパレスチナもともに、解決に
向かって前に進むためになにが必要かを考えようしている。
さらには、おなじ問いを遠く離れた私たち日本人にも共通のものに
しようとしている、そう感じられます。
つまり、互いの非難に終わるのではなく協力して解決するための問
いであり、さらには自分たち(筆者を含めた私たち)もその問いを
引き受けようというのです。

よけいわかりにくくなったかもしれません。
どんな民族でも国でも、同じようなことを過去に行い、同じような
体験を持ち続けたり、逆にそれを忘れたふりをしたりしている。
つまり、自分たちもいつまた弱者とか被迫害者とか被追放者となる
かもしれないし、その逆になるかもしれないということに想像がい
たらないでいる。じつは、そのどちらになったとしても、「私たち
は存在しているのだろうか」というサイードの疑問は、自分たちの
影のようにいつまでもついて回るはずなのに、です。

ぜんぜんわかりにくくなりましたか。すいません。
しかし私たちはアラブの小説を読んで、少しは混乱してもいいので
はないでしょうか。私はそんな気がします。混乱し、とまどい、自
分が混乱したりとまどっていることにいらだつのですが、それは神
様も、殺された子どもも、難民も、たぶん許してくれるのではない
かと思うのです。

すると、
「死者たちの痛みと夢を分かち持つかぎりにおいて私たちはみな、
『このようなことが決して起こらないこととしての祖国』(これは
カナファーニーの表現でした)と、起こらなかったけれども起こり
えたかもしれない別の世界の可能性を想像する共同体の一員となる
だろう」という筆者の感想--これは「祈り」ですね--が、ダイ
レクトに私のなかに染み込んでくるのでした。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第121回 2018.12.28

「祖国を失った人々のまごうことなき現実」

小説が自分の知らない世界に目を開かせてくれる。
それは、私たちがなんとなく目をそむけている現実にひき会わせて
くれるということもありますし、報道やノンフィクション以上に私
たちの想像力をかきたてて、もっと知りたいと思わせてくれること
でもあります。
書斎やカフェや電車でそんな小説を読む私たちは、「この状況に目
をそむけていていいのか?」とか、「きみだったらどうするか?」と
いう、本の向こう側からの指さしにさらされるときがあります。
そんなとき、あなたならどう応えますか?

「ハイファに戻って」(ガッサーン・カナファーニー/河出書房新社)

は、日本から遠く離れたパレスチナを舞台にした短編。
パレスチナの海岸にある都市ハイファ出身のサイードは、妻ソフィ
アとともに20年ぶりに故郷のハイファに帰る。1948年にハイファ
は、突然イギリス軍の攻撃をうけ民衆は追放され、そのとき新婚で
生まれたばかりの子どもをもつサイード夫妻も同じように街を追わ
れ、その後、街はイスラエル軍に占領されたのだ。

その20年後、ハイファがイスラエル領として確定してしまったの
で、彼らはようやく故郷を訪れることができるようになった。
つまりそれは、パレスチナ人の彼らが、いまはイスラエル領になっ
た故郷の町へと「他国を訪問する」という形でだ。元の自分たちの
家がどうなっているかを見て、なによりそのとき生き別れた息子ハ
ルドゥンの消息を求めて・・・。

記憶を頼りに探し当てたわが家は、とうぜん、ユダヤ人入植者によ
って接収されていた。そして、生き別れたハルドゥンは、彼らの息
子として、つまりユダヤ人として育てられ成長していた。ドウフと
いう名前を与えられて、しかもパレスチナと戦うイスラエル軍の兵
となって。

サイードと妻ソフィアはパレスチナ人。
彼らが故郷を追われた後、ハルドゥンのつぎに別の町で生まれた次
男ハーリドは、パレスチナの軍隊であるフェダイーンに入隊してい
る。
いっぽう、サイードの家を接収してハルドゥンを育てた夫婦の妻ミ
リアムは、ユダヤ人。父を第二次大戦中にアウシュヴィッツで亡く
し、その後ワルシャワからイスラエルに逃れてきた。夫はシナイ半
島で戦死、そしてサイードの息子ドウフを、アラブ人でありながら
ユダヤ人としてイスラエル軍の兵隊に育てた! 
となるとハルドゥン=ドウフは、実の弟のハーリドといずれは戦場
で戦うことになるだろう。なんてことだ、なんたるめぐりあわせだ。

ユダヤ人として育てられ教育を受けたドウフは、実の親と再会して
その事情を知った後でも、自分を見捨てた彼らを恨み、自分を置き
去りにした生みの親を卑怯だといい放つ。
それは、置き去りにされたものとしては当然の感傷かもしれない。

これは悲劇としかいいようがありません。
しかしそれだけでなく、もっと根本的なことも私たち読者に突きつ
けられていたのです。
それは、人種差別や内戦で残酷な扱いを受けた人々(ユダヤ人)が、
それを理由に別の場所で別の人々(パレスティナ人)に残酷な扱い
をする、その連鎖の恐ろしさです。
なんでこんなことになってしまうのだろう。

主人公サイードのことば、
「私たちは彼(ハルドゥン)を失ったのだ。しかし疑いなく、こう
なっては彼は自らをも喪失してしまっている。」
つまり、この小説の登場人物はユダヤ人入植者の夫婦も含めてみな、
死んだ人以外は例外なく「みずからを喪失したもの」たちなのです。
「祖国とはなんだろう?」サイードはそう自問し、答えます。「祖国
とは、このようなすべてのことが起こってはいけないところのこと
なのだよ」。

さて、この本の著者カナファーニーも、1972年に36歳でテロにあっ
て殺されます。「そのようなこと」が起こってはならないはずだった
のに・・・。
このように、遠い日本からはよく見えないパレスチナのこと、イス
ラエルのこと、祖国を失った人々のこと、私たちが目をそむけてい
るかもしれないその現状。それはだれにとってもイタイ現実だけれ
ど、おまえも目を開けて見ろと指さしされた以上、もっと知らなく
てはなりません。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第120回 2018.12.21

「だれを対話の相手に選ぶか ~独学の哲学者」

おもしろいことに、そんな16世紀のモンテーニュ氏を対話の相手
にして、自分の思索を深めた20世紀のアメリカ人がいます。
エリック・ホッファーは1902年生まれ、ドイツ移民の子息で、目
を患ったために学校に行けず、アメリカ中を季節労働者として渡り
歩きながら独学で勉強し、晩年はサンフランシスコで沖仲士(船の
荷卸や荷積みをする肉体労働者)として働きながら独自の哲学を紡
いだ方でした。

彼の自伝には、34歳の冬にモンテーニュと出会い、「読むたびに私
のことが書かれている気がしたし、どのページにも私がいた」と書
かれています。だから彼は、本のなかのモンテーニュと対話しなが
ら生活した。友人と話すときもたびたびモンテーニュを引用するも
のだから、どんな議論になっても「モンテーニュはなんて言ってる
んだい?」と聞かれるほどになってしまった。

そういうことって、ありますよね。
なにかにつけ、「あの人」はこの件についてどう感じて、どう言って
いるんだろうと、気になってしょうがない人がいることって。
たぶん、ある意味、「その人」に恋しちゃったようなもんでしょう。
自分でもよくわからないけど、その人といつもなにかしら頭のなか
で話し合ってしまう、そういうことってありますよね。

ホッファーは神様でも恋人でも友だちでもなく、たまたま出会った
モンテーニュを対話の相手に選んだ、それがよくわかるのが、
「人々にまじって生活しながら、しかも孤独でいる。これが、創造
にとって最適な状況である」などとうそぶく、

「波止場日記」(エリック・ホッファー/みすず書房) でした。

この日記のなかには、みずからの思索を立ち上げて自分を確立させ
ようとする彼の「エセー(試み)」の努力がつまっています。
たとえば、「自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかが
まったく念頭にないことに気づくと、うれしくなる。いつも感じて
いるのだが、自己にとらわれるのは不健全である。」なんてね。

または、
「世間は私に対して何ら尽くす義務はない、という確信からかすか
な喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかであ
る。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の
著述を毎日。これが、わたしにとっては生活のすべてである。」

あるいは、「しなければならないことをしないとき、人間は孤独を感
じる。能力を十全に発揮-成長-するときにのみ、人はこの世に根
をおろし、くつろぐことができる。」
そんなときはたぶん、
「この惑星上においては人間は異邦人である、と考えるといつも興
奮をおぼえる。この世界ですっかりくつろいだ気分になるというの
は、動物の性質を共有するということである」、となったり、
「私たちのすることはすべて適切であり、言うことすべてに意味が
あり、見るものすべてが忘れがたい」、そんな状態のときなのだ。

えっと、「くつろぐ」ということばに反応して少しだけ寄り道いた
しますが、「ある人の価値は、なによりも、その人がどれくらい自
分自身から解放されているかによって決まる」といったのがアイン
シュタインでしたし、「くつろぐとは、右手のすることを左手に知
らさないことだ」とするのが禅仏教の教えでした。
「くつろぐ」ということばでも、けっこういろいろ言えるものです。
カフェでお茶してくつろいでいるだけが「くつろぐ」ではない。

それはともかく・・・どーですかお客さん、まるで400年の時を隔
てて、モンテーニュの声を聞くみたいでしょう?
彼は「エセー」を読んで、自分にもなにかこういったものが書ける
かもしれないと考え、書いた。そしてそれを読んでいるこの私にと
っても「どのページにも私がいる」と思えるものでした。

ただ、違いという意味では、ホッファーとモンテーニュを大きく分
かつのが、「労働」に関するところではないでしょうか。
自分では肉体労働をしない16世紀の貴族であるモンテーニュとち
がって、紹介所から派遣されて肉体労働をこなす日雇いの日々をお
くるホッファー。彼はどうあっても自分の肉体と会話し、その日の
体調の言い分を思索に反映せざるをえません。
たとえばこんなふうに、
「午前五時。独善的になっている。長い仕事の後にはいつもこうな
る。仕事は蟻を残忍にするばかりでなく人間をも残忍にする(と、
トルストイがどこかで言っていた)」。

彼にとっては、日々の労働と自分の思索が、はなれがたく結びつい
ている。というか、労働じたいから思索がはじまる。精神と肉体は
いっしょのものだ。両者があいまって独自の思索が生まれるという
信念をもっている。
小人の比喩でいうと(だいぶ飽きましたけど)、私には、彼の中の
精神派と肉体派の小人が真剣に対話する姿が目に浮かびましたね。

その点で彼はモンテーニュよりも、哲学と神学の優秀な学徒であ
りながら過酷な工場労働者となって祈りにも似た思想を世におくり
出した、シモーヌ・ヴェイユに近いのかもしれません。
この日記が思索の断片であるにもかかわらず、「知識人と大衆」と
か「労働意欲の問題」とかの、なんというか現在につうじる「3K
現場的」な骨太のテーマが立ち現われてくるのは、彼が身体の言い
分を聴きつつ思索したところに要因がありそうです。

すると彼は、モンテーニュとではなく、モンテーニュの衣を借りて
自分のなかの肉体労働者、つまり1959年のアメリカの、不安定な
雇用条件の大衆(その多くは黒人や移民)と対話をしていたといえ
るのかもしれませんね。もちろんこれが正しく「考える」という行
為でしょうし、彼はそのように哲学者としての王道を歩んだのだ、
と思いました。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第119回 2018.12.14

「自分と対話して、それをオープンにした人」

対話にはいろいろな形があるでしょう。
家族や隣人との一対一の対話もあり、集団での対話もあるでしょう。
イエス・キリストを仲介に立てての神様との対話もあるでしょう。
ところが、いや、そんなことの前にとりあえずいまの自分自身と対
話し、それをそのまま書いてみんなに見せちゃおう、としたのがモ
ンテーニュというおひとでした。

なんとまあオープンで、ぶっちゃけな人だったのでしょう。しかも、
16世紀のフランスの話ですよ。まわりにあるのは、神とか信仰とか
の抹香くさい話か、さもなければ王権とか陰謀とか戦争とかの生臭
い話ばっかりだった時代。
だから迷惑な話ですよ。まわりの人からみたら、この「オープンな
ひと」というのも、逆にずいぶんやっかいなジジイだったと思いま
すね(じつはジジイというほどの年寄りではなかったけど)。

「ミシェル 城館の人 ⅠⅡⅢ」(堀田善衛/集英社)

ときは16世紀フランス、宗教戦争という名のもとにカトリックとプ
ロテスタントの激しい抗争、王家と貴族どおしの仁義なき戦いが延
々と繰り広げられていたとき、新興貴族ミシェル・ド・モンテーニ
ュ氏は戦乱から身を離し、宮廷生活から逃れ、自分の城の塔にこも
って「エセー」という随筆を執筆した。

「エセー」は、ミシェル・ド・モンテーニュ氏が「自己のみを研究
の対象」としてつづった「自己探求の試み」でありました。それは、
「自身を隣人か一本の立ち木のようなものとして」眺める、つまり
自己との対話に他ならないものでありました。
えーと、だから、小人どおしの話しあいを上から客観的に眺めるご
本人がいて、その内幕をぜんぶお見せしましょうということですね。

そして、「自分の思想と語り合うことほど、その人の心しだいで惰
弱な仕事ともなり、強烈な仕事ともなるものはない」とかなんとか
言いながら、つまり弱気になったり強気になったりしながら、塔の
部屋のなかで自分と向き合っていたのです。

彼は、宗教の争いやそれをきっかけにした王家の権力争いに倦んで
いたのでしょう。日本でいえば、戦乱に倦んだ西行とか、世の無常
を観じた兼好法師みたいなひとでした。
ただ、そのころは宗教の時代ですから、なにを考えるにも神様抜き
には考えられないはずです。カトリックとプロテスタントの違いだ
けでなく、王家の正統あらそいや国の治めかたにも信仰は大きくか
かわる話でしたし、貴族と庶民の関係も、どう働いて日々の糧を得
るかにしても、生きるうえでの倫理や道徳の問題にしても、すべか
らく神様抜きには考えようがなかったはずです。

ところがおもしろいことに、「エセー」の中には新約聖書からの引用
がない。神様のことばもイエスのことばもない。神様の教えにぜん
ぜん頼っていない。だから、神様とは対話していない。
西行や兼好法師のような宗教(こちらは仏教)的な感慨も、ない。
つまりモンテーニュは、神を信じる敬虔なカトリック教徒でありな
がら神やイエスを対話の相手とせずに、自分とだけ対話することを
選んだ。教会で神父に懺悔したり、イエスを行動指針にしたり、カ
フェのマスターと神様の愚痴をいいあったり(まだカフェはなかっ
たけど)するより、ひとり自分の部屋で、ギリシアやローマの古典
をひもときながら自分と対話(思索)することを選んだわけです。

堀田さんよれば、だから「モンテーニュが『エセー』をつくり、『エ
セー』がモンテーニュをつくった」ということになります。
このことば、よく理解できますよね。つまり、土をこねて自分とい
う器を作るように、自分と対話することで自分を練りあげていった
のです。

さて、堀田さんのような手練れの文学者の案内によって、こうして
モンテーニュの歩みをたどることができるのは、まことに楽しいか
ぎりです。まるでベテランのガイドさんに世界遺産をじっくり案内
してもらっているようなものです(三巻もあるので、ちょっと長め
の疲れるツアーですけど)。
もちろんここではモンテーニュの思想をご紹介することはできませ
んし、堀田さんのガイドの方法、つまり思想家の評伝を書く作法に
踏み込むこともできません。ですので、ここではやはり「対話」を
キーワードにして、少しだけ16世紀フランス・ルネサンスの一人の
思想家の「思考」に想いをはせることにしましょう。

さて、神様のような絶対的な存在と対話をすることは、時として息
苦しい思いをさせられることになるのはまちがいない。モンテーニ
ュも「あの超越的な思想というやつは、近づくことのできない高い
場所のように、私を恐れさせる」といいます。(これにたいして、
神様や「超越的な思想」とタイマンで対話しようとしたのがパスカ
ルでした。勇気あるなあ、あのひと)

神学論争なんて学者さんや教会の偉いさんたちのする特権的なこと
だし、だいいち現実のこの泥沼の戦争状態の解決に役立っていない。
そんな、よりよく生きるために役立たないものなら、私にゃ関係な
いものだ。だいたい「人間の知識はすべて相対的なもの」なんだ。
その意味では、神父も学者も、偉い人も農民も、王様も乞食も、誰
もが五十歩百歩さ。
彼はこう考えていたはずです。

ただ、「普遍にして絶対的な真理が神様のもとにしかないとしても、
『相対的な真理』を見出す手段はある」、と彼は言い、それは堀田
先生の表現では、「モンテーニュ氏の答えは単純かつ明快である-
-話し合え、というものであった」。
へえー、ほーっ、だれと? 他人と!
絶対的な神様ではなく、他人と話し合え。それが自分を鍛えるのだ。
それが長い間自己を探究し、自分自身と話し合って得た彼のひとつ
の結論なのだった・・・と堀田先生はいいます。

ありゃりゃ。
相対的な真理を得るためには他人と話し合え、ですと?
対話の相手とすべきものが、神様から自分自身へ、そして自分自身
から他人へと変わってきてしまいました。おもしろいですね、一周
廻って隣に戻ってきた感じです。やっぱり「もともと私たちは、他
人がいなければきちんと考えなれない」のかしら。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第118回 2018.12.07

「だれと対話するか? だれを相手にどこへ行く?」

カフェでお客さんとお話ししたり、ワークショップに参加している
とき、ときとして、自分の考えと相手の方の考えがあわさって化学
変化を起こし、考えてもいなかったアイデアが膨れるときがありま
す。まるで小麦粉がイースト菌によって何倍にもなるような感じで。
それを「新しいコトの創造」とまでいうのは、あまりカッコよすぎ
てはばかれますけれど、自分たちの意識や考えが上の次元に引き上
げられて、見える景色が広がったような晴れがましい気分になるの
です。
対話の力が偉大だと思うのは、まさにそういうときです。

さてそこで、あらためて考えますに、自分の「思考」というものは、
自分の心のなかで「対話」をすることではないでしょうか?
どうでしょう? 
いきなり「対話」をこんなところにまで広げていいのかな、という
気もしますけれど、とりあえず、思考とは「自分の中での対話」と
いうことでよろしくお願いしたい。

自分のなかで何人かの小人が、身体や内臓の情報やら外部からの刺
激などによってどうしよどうしよと右往左往し、ああだこうだと勝
手にしゃべっているのが「感情・意識」で、それを小人どおしで話
しているのが「思考」ではないかと私は思うのです。
「オレこう思うんだけど、キミどう?」「いやワシはこう思う」って。

すると、自分のなかの多種多様な主張である小人どうしの間で、質
の良い対話ができれば、それは創造的な「思考」になるはずです。
えーと、なに言ってんだかわからんとか、ご異論とかもおありでし
ょうが、とりあえずそういうことでよろしくお願いをしたい。

自分の頭の中で何人かの小人が、あーでもないこーでもないと話し
あっている。ただ、たいがいそれは一方的な意見の応酬で、つまり
は川の流れに浮かんでは消える泡のよう妄想に近いものだ。なので、
それだけでは「私の思考」は千々に乱れるばかりだ。

だとすると、その「小人どおしの主張しあい」を、もう一人の「私」
がそのヨコで冷静沈着に客観的に見ることができれば、どんなにか
いいのに。そうすれば、妄想とか小さな感触とかが、より大きな考
えにまとまったり新しいアイデアが生まれるかもしれない。つまり
「私」がファシリテーターになって彼らの話し合いを活性化し、ま
とめていくことができたら、どんなにいいだろう・・・。

さて、すでに私の頭のなかの小人の話しあいになっちゃっています
が、ふと思いついちゃったのは、じつはぜんぜん別のことでした。
小人たちではなく、心のなかで「神様」と自分が対話しているのが、
信仰をもつ方の対話の作法なのではないかと思っちゃったのです。
とりわけユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった、一神教信仰
の方がたの信仰とその意識のありようではないかと。
飛躍しすぎかもしれませんが、これまた、とりあえずそういうこと
お願いしつつ、サクサクと

「キリスト教は役に立つか」(来住英俊/新潮選書)

のご紹介にうつりたい。
来住(きし)さんはカトリックの神父さん。
ま、宗教についてのいろいろ難しい話はおいておいて、神様は自分
の対話の相手としてお友だちのようにつきあえばいいんですよ、と
いった雰囲気で、「キリスト教は役に立つ」「それは孤独にも効く」
とおっしゃって、頭のできの悪い私たちを優しく慰めてくれる本で
した。
祈りとは対話である。神はいつもそこにいる。神には文句も言える。
だから神との対話は生きる役に立つ、神父はこうおっしゃるのです。
おおそうか、対話だけでなく、神様には文句を言ってもいいのか!
そんなら、ケンカも議論もラップもツイートもできる。

ひとが心の中でおこなう対話は、往々にして堂々巡りする。頭のな
かの小人たちは一人ひとり勝手なやつなので、すぐ一人よがりにな
り、現実離れして妄想におちいり、煩悩にはまりこんでしまう。
しかし神様との対話は自問自答ではないから、堂々巡りしない。
そう神父は言い、「自分の言葉が何かにぶつかって、受けとめられ
ているという感覚がある」として、アビラのテレジアという方の、
「キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリスト
と、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩む
ことである」ということばをひきます。

これが信仰の要点のひとつだというのです。
さすれば、私たちがよく聞く「なぜ人間イエス・キリストは神に遣
わされたのか」というお話も、それはイエスが私たちと神との対話
を仲立ちしてくれるからだ、という意味合いなら嬉しい知らせなの
かもしれません。
だって私たち弱い人間は、絶対的に偉くて間違えのない神様と向き
合って対話するなんて、耐えられそうにないからです。できれば生
身のからだをもつ隣のおじさんみたいな人に、対話の仲立ちという
か仲介役というかファシリテーターをしてほしいのです。また、そ
うすれば、頭のなかの未熟でおバカな小人たちのふるまいに悩まさ
れずにすむというわけです。

ということで私たちは、(写真を拝見しても)ものすごく隣のおじ
さんみたいな来住神父に、宗教なんてそう難しく考えないで、いつ
も対話相手が確実にそばにいてくれるんだくらいに思っておけばい
いんだよと言われては、神様とのあいだの敷居がちょっと低くなっ
たような気がしてくるし、「神様と対話しつつ考える」という行為が
少しだけ確からしく思えてくるのです。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第117回 2018..11.30

「勝ち負けのない、創造的な対話(社会的理性)のために」

カフェでも家庭でも、会社でも公園でも、国会でも国どおしでも対
話が必要である。なぜならば、圧力や権威や暴力に頼っていても正
しい関係はつくれないし、不要な思い込みや忖度は正さなければな
らないし、怒りや憎しみのぶつけ合いは紛争を招くばかりだからだ。
湧きあがる感情は大事にしつつも、そのナマの表出(とくに怒り)
をうまく乗り越えて、真摯でオープンな対話をすることこそが私た
ちの共存共生を保証し、住みやすく安全な世界を創るのだ。
・・・てなことは、じつはだれでも頭ではわかっているはずです。

ところがなかなかそれができない。
不機嫌に相手の言葉尻をとらえたり(いまなんつった?えっ!)、
怒りが憎しみに変わったり(ざけんなよ、先公!)、「コト(問題じ
たい)」を話していたのに「ヒト」を対象にしたり(あいつの性格
と顔と趣味が悪い!)、相手に呪いをかけたり(おまえなんか、そ
のうちカバに食われるからな!)する。
あげくは思わず手や足を出したりしてしまう(パシッ)。

逆に、感情的になるのを怖れるあまり、理性や論理を大事にしすぎ、
あるいは議論のルールに頼りすぎて萎縮し、自分を押さえて本音を
だせなかったり、なにも言えなくなってしまう。
ああ、困ったものです。ホント、真剣な対話は難しいッス。では、
どうしたら私たちはきちんとした対話を続けられるのでしょう?

「ダイアローグ」(デヴィッド・ボーム/英治出版)

筆者の主張でまず押さえておかなければならないことは、対話とは
「勝ち負け」で終わるものではないということです。
いっぽう、黒人の作法もトランプ大統領も、「勝ち負け」を重視して
いましたね。会社の会議でも夫婦のあいだでも、けっこう勝ち負け
を気にします。しかし対話は勝負ではない。意見の優劣を決めるも
のではない。ここ、いちばんたいせつなところですね。

また対話とは、なにかを「決定」するためのものではないというこ
ともあります。つまり意思決定のための議論や論争ではない。国会
審議でも営業会議でもディベートでもない。ここも重要。
さらに、人に「話せ」とか「話すな」とか強制するものでもない。
さらに対話は、説得とか妥協とか、調整とか合意形成でも、もちろ
ん取引でもない。ではなにか?

それは私たちが、もともとの思い込みや偏見や暗黙の了解から離れ
て、自由な思考の流れを作ることだ。ひとりで、ではなく、集団で
おこなう知性の働きだ。つまり、ことばを交わしながら、集団でな
にかを新しく「創造」することなのだ。もしかしたらことばも交わ
さず、沈黙を大事にすることもあるだろう。そしてその「なにか」
とは、方策かもしれないし、ことばとか考え方かもしれない。

もともと私たちは、他人がいなければきちんと考えなれないのだ。
だから、みんなの力をあわせて、新しい道を創造しなければならな
い。そのためにまずは、自分の怒りや憎しみなどの負の感情はじゃ
まになるので、いったん保留しなければならないのだ。
筆者はこういうことを、口を酸っぱくして繰り返します。
私思うに、こうした姿勢は社会を支える基本ダシみたいなものです
ね。ダシがしっかりしていないと料理は成り立たない。

さて、もともと理論物理学者のボームが、なぜこんなにも「対話」
を薦めるのか、それもまたおもしろい問いになるかもしれません。
彼はとにかく「創造的な変化」にこだわるのです。どんな話し合い
にも「はじめは思いもしなかった創造的な変化」がなきゃつまらな
いじゃないか。科学的な実証や合理的な理論で構築される物理学で
あっても、みんなの知恵による「思いがけない発見」がある。
ならば、学問だけでなくどんな分野でも、だれもが楽しくなる「解」
や「発見」があるはずじゃないか、と言っておられる気がします。

しかし通常の話し合いでは、なかなかうまく対話できない。
というのも、「賢い人」や「強く怒る人」に場が支配されたり、ひっ
ぱられることが多いからです。
たとえば、私たちの身のまわりにも、賢くて議論に強い人がおられ
ます。その人たちは論理的に自分の意見を開陳し、反論にあっては
すばやくそれを論破しようと身構えている。とりわけビジネスや政
治の世界では、そうした「議論」における受け答えのはやい人ほど
「仕事ができるリーダー」と思われています。
たしかに、そういう人の、しっかりした職業観と専門知識に裏づけ
られたすばやい判断こそ、集団をリードするのかもしれません。

しかし、ちょっと踏みとどまって考えてみると、もしかしたらそう
いう「頭のいい人」ほど、ボームのいう創造的な対話には不向きな
人かもしれません。
というのも、彼らは自分のもつ固く確かな地盤(信念や知識や能力)
に自信があるからこそ判断がはやく(ゴーンさんみたいに)、受け答
えがはやく(さんまさんみたいに)、迅速な意思決定ができるのでし
ょう(安倍さんのように)? そしてすばやく解答を得ることを話
し合いの最大の目標にしているのでしょう? つまり彼らは、「早い、
安い、うまい」を目標にしているのではないでしょうか。

しかし創造的な対話で必要なのは、「確固たる信念」とか「変えよう
のない前提」ではなく、また「早い、安い、うまい解答」でもなく、
それによる説得・妥協・調整・合意形成でもない。逆に、そうした
ものから離れることによって新しいものを探そうという、謙虚で柔
軟な姿勢です。
いいかえれば、時間をかけてゆっくり場と心を温めて、参加者全員
で協力して問題に取り組もう、それがたとえ遠まわりだったとして
も、けっきょく「創造」への近道になるという覚悟と姿勢なのです。

これをボームは、「コヒーレント」という物理学の用語を使って説
明しますけど、ま、この専門用語はご愛嬌のようなもので、人と人
がどううまく交わっていくか、干渉しつつ交響していくか、それを
対話の場でどう試していくかの、ひとつのたとえとして持ち出して
いるわけです。対話のイメージとしてですね。

ということで、対話にご興味のある方、もうすこし対話が必要だと
自覚されている方々、謙虚な政治家の方々、そしてアマチュアスポ
ーツ協会の幹部やコーチの方々、夫婦げんかしている方々、そして
もちろん、感情の処理でお悩みのすべてのみなさま、私、ぜひボー
ム先生のご先導により一緒に対話していきましょう。
ついでに対話の共通イメージをつくるために、「コヒーレント」を
辞書で引いてみてくださいね。

 

ブログ117

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第116回 2018.11.23

「もっとうまく怒るために」

カフェのなかで怒ったり怒られたり場面に遭遇することは、あまり
ありません。
みなさん和やかに談笑されていたり、本を読んだり勉強されていま
すし、たまさか飲み物をお出しするのが遅れても、「遅いっ!」と
怒る方もいません。ありがたいことです。ホント、お客さまには感
謝です。

カフェはともかく、私たちは公の場で、怒って声をあげるというこ
とが少なくなってきたように思いませんか? ご近所でも会社でも、
路上でも電車でも、大声できちんと怒ったり叱ったりしている方を
見ることが少なくなったように思いません?
そのかわりにといってはなんですが、見聞きすることが多くなった
のは「理不尽にキレる」とか「いきなり暴力」とかの場面です。も
しかすると、私たちの「怒りの許容値」や「怒りの表出の作法」の
ようなものが変わってきたのでしょうか? 
こんな本を手がかりに、それを少し考えてみましした。

「怒りの作法」(小川仁志/大和書房)

の著者は哲学者ですが、まず、「怒る」ことは良い変化を起こすため
のパワーでもあり武器でもあるのだとして、「怒り」をポジティブに
とらえるところから始めます。

怒りとは、感情というエネルギーの表れだ。だから、自分の本音をあ
らわにして意見を主張するために必要なものである。そして、怒るこ
とが自分や周囲や社会を変えていくのだ、と著者は言います。
さらに、「怒りとは訴えだ」とか「怒りは、しばしば道徳と勇気の武
器なり(アリストテレス)」ということばを引いて、私たちを鼓舞し、
導こうとします。

たとえば議論において、怒りを押し込めて冷静に、理性的に話すこ
とをめざすだけだと、本音が出ずに話し合いの結果が中途半端にな
ったり、ストレスがたまる。つまり、もともとあったはずの自分の
意見のパワーを弱めてしまう(前項にみた「白人」の作法のように)
のだ。

まずは、おっしゃるとおりだと思います。
「あらゆる感情、とくに怒りは正しい(平岡正明)」でしたものね。
ところが逆に、私たちはふだん、こんなふうに感じているのです。
「人前で怒るのはみっともない」「怒ると感情的な人間だと思われ
て、家庭でも会社でも嫌がられる」「道徳の時間で、感情をコント
ロールしろと教わった」「社会の一員としては、よりよい共同生活
のために、感情をあらわにしないほうがいい」などと。
それじゃ、いかんのだ。

ともあれ、自分がおかしいと思うことに対して怒ることは、自分に
とっても社会にとっても必要なのです。そうしないと、いつまでた
っても解決しない問題がある。できあいのシステムや社会体制に流
されるだけになってしまうかもしれません。だから私たちは、正し
く怒ることを学ばねばならないのです。

では、正しく怒るとはどういうことか。
正しく怒るとは、ほんらい、しかるべき事柄に対し、しかるべき人
に対し、しかるべき方法としかるべき時に怒ることをいう。それは
難しいことなので訓練も必要になる。
しかしいまは、そんな訓練だの努力だののへったくれもなく、間違
った怒り方ばかりが目につく。だれもが、いつでもどこでも、八つ
当たりしたり、電車の中でキレたり、家族に呪いをかけたり、ネッ
ト上でディスったり、怒りを憎しみというマイナスの感情に変えた
り、あげくは暴力に走ったり・・・。
・・・ってことは、だめじゃないか、日本人!

著者も怒ってます、はい。私たちは正しく怒られちゃいました。
ただ筆者は、具体的な「正しい怒り方の作法」についてはあまり詳
しく述べていないので、それについては、独自のテクニックをもっ
た黒人の方々や、マンガとか映画などに教わることにして、機会を
あらためて考えてみましょう。

ただ、私の心に浮かんだのはこんな問いでした。
「怒りをナマの怒りのままに放置せずに、それを問題解決に結びつ
けるには何が必要か?」
「自分の私的な怒りの感情を、どうしたら公的な(他の人にも共通
の)ものに変えられるか?」
どうでしょう、これはまっとうで、スジのいい問いでしょう?

ん? いや、まてまて、この問いへの回答はすでにトランプ大統領
が実践しているのではないだろうか。
ああ、またトランプが出てきてしまった!
彼は、演説やツイッターで怒ってみせ、彼の個人的な怒りを公(お
おやけ)の怒りに換え、あるいは逆に、怒りを表現しそこなってい
た人たちの怒りを代弁し、怒りそのものを問題解決のパワーにして
いるんじゃないのか?もしかしたらすごく意識的に、テクニカルに。

そうだとしたら彼は、正しいかどうか分からないけど、「民衆の怒り
を取り込む方法」を身につけた、したたかでクレバーな政治家とい
うことになります。それは、もしかしたら歴史上の数々の権力者・
政治家にも共通していたことでもあります。
それははたして政治的に正しい作法なのか? 怒りの効能の悪用じ
ゃないのか、はたしていかに? つづく。

 

ブログ116

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第115回 2018.11.17

「トランプ的コミュニケーションへの疑問」

アメリカの中間選挙が終わりましたが、あいかわらずトランプ大統
領の発言にはびっくりさせられることが多いですね。論争相手への
批難のしかたや、差別発言に乱暴なことばづかい、というかことば
の意味の意図的な変更、それにとんでもないフェイクに大げさなウ
ソや脅し。そしてこれらを駆使したツイッターの乱用という、派手
な空中戦による「平手打ち」の連打、、、。

ある論評にこんなことが書かれていました。
これらの発言は、自分の意見や政策を通すためのディール(取引)
の一環なんだと。つまり最初は大きく強く、ウソまがいのことも含
めて大げさに出ておいて相手をびっくりさせ、最終的には少し妥協
しつつも自分の有利になるようにまとめる、そんなビジネスの駆け
引きを政治に取り入れているんだと。

そうなのかもしれません。たしかにそうでしょう。
しかし最近私が思ったのは、彼はこれらのスキルを、アメリカ黒人
(アフリカ系)のコミュニケーション文化から学んだのではないか
ということでした。
えっ、どういうことよ? その根拠は? はい、それは、

「即興の文化」(トマス・カーチマン/新評論)

に書かれている、黒人と白人(欧米系)の、討論における行動様式
の違いの分析にあります。いわく、
「黒人の様式は声高で、活気に富み、問題を参加者一人一人に関わ
ることとして捉え、論争的である。」これに対して白人は、「その逆
に声を低く落とし、感情をこめず、個人の問題に引き付けない。」
つまり「白人は『議論』という、理性的なコミュニケーションモー
ドをとるが、黒人は『論争』という、感情のほとばしる関与の形式
を用いる。」

白人(欧米人)のメンタリティというか伝統というか、それは論理
性であり、冷静さを大事にすることであり、相手の「人格/ヒト」
ではなくそこから距離をとって、議題としての「内容/コト」を重
視して理性手的に議論を進める傾向が強い。それがよしとされる。
黒人様式はその逆だ。論争は相手との勝負だ。だから黒人は、議論
/論戦に勝つために、やたら対決的に、大げさに、タフに、相手を
パフォーマンス、思考、口数、話しっぷりで圧倒しようとする傾向
がある。だから感情に訴えることが多い。それがよしとされる。

「論争にせよ、ウーフィング(侮辱のうなり声をあげる)にせよ、
あるいは毒づいたり、サウンド(悪口を言いあう)したり、大言壮
語(オレのほうがこんなにスゴイ)したり、ラップ(口喧嘩)した
り、ラウドトーク(まわりの人に聞こえよがしに言う)することに
せよ、黒人の言語行動はどれもこれも活気にあふれ精力的だ。」
集会での演説の映像などでよく見るコールアンドレスポンス(呼び
かけと応答)も、大げさ表現やスタンドプレイも同じように、黒人
のコミュニケーションの様式のひとつなのです。

さてこうなってくると、「黒人様式」と「白人様式」の違いを「感情
的」と「理性的」という表現だけではとらえきれなくなってきます。
もちろんコミュニケーション方法の違いはあるものの、それととも
に、黒人の「感情を素直に表すことが善」という、永年培われてき
た文化的価値観とその原因も探らなければならなくなってくるから
です。

それについては、たとえばこんな例があげられています。
「立腹している人に向かって黒人は、『誰かがあんたを怒らせたん
じゃなくて、あんた自身が怒ったんだよ』というようなことをよく
言う」。これは、「非難された本人が反応したときに、非難は非難と
して成立するという黒人の見方(いろいろ言ってみて、そのうちど
れかが当たればそれで勝ちという考え方でもある)」によるものだ。
つまり、図星をさされたから、もしくは痛いところをつかれたから
アンタ怒ったんだろう?という攻め方をする。
そう来るか。けっこう実戦的なケンカ手法ですね。

そういえば、敬愛するジャズ評論家の平岡正明氏は、「どんな感情を
もつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい」
と書き、とりわけジャズにおけるアメリカ黒人の感情の表出のしか
たを支持し、「(革命のためには)感情をやつら(敵/白人)に渡す
な」と檄を飛ばしたのでした。
革命うんぬんはともかく、長く差別されていて社会的弱者であった
黒人の側は、なにごとにつけ強い感情をもつことが「善」とされ、
それを大事にしたコミュニケーション様式をつくりあげてきたのは
確かだと思います。

「一方白人は、非難されただけで非難は非難として成立すると考え
る。人の感性つまり自尊心を保護する社会的責任は、まずは他者の
側にあるというのが白人の考え方」だからだ。
自分を非難するのなら、その非難の根拠をまずは相手が明確にしな
ければならないし、それしだいでは「私」の自由とか権利などの侵害
にあたると考える。そして相手に対し、「キミたち、社会の、そして
議論/討論のルールを忘れるなよな」、という原則重視の姿勢に入る。
まるでトランプとヒラリーの論戦をみるようではありませんか!

みなさんはどう思われるでしょうかね。
黒人に、と、もはや一般的には書けなくなりましたが、もしこうい
うコミュニケーション特性の違いがあるとしたら。日常会話や話し
合い、ケンカのしかたや異性の口説き方など、ほかの人とは違うル
ールで人間関係が動いている人たちがいるとしたら。
これは確かに、対話、議論、論争など、民主主義的な社会を構成す
る「ことばの世界」で、両者の感情と理性をどうやって噛み合わせ
ればいいのか、という問題につながっていくでしょうね。

だから、、、だから、もしかしたらトランプ大統領は、伝統的な黒人
文化のなかの大言壮語や毒づきやラップやウーフィングやラウドト
ークを勉強して身につけ、それを政治においてもその効果を十分計
算して実戦的に使っているのではないでしょうか。
ただし、自分と相手の感情と理性をうまく融合させて新たな解決策
を探ろうなんてことをいっさい考えずに。
だとしたら、すごい! というか、ひどい!

 

ブログ115

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第114回 2018.11.09

「真摯な保守思想とその挫折」

カフェのお客さまと政治ついて話し合い、憲法改正問題を議論し、
現在のリベラリズムやポピュリズムの状況についてうんちくを傾け
あい、議会や民主主義について熱く語るなどといったことは、、、、
まずありません。また、忍法ツイッターの術についてみんなで掘り
下げて分析することも、ありません。

もしそういうテーマで話しあうとしたら、そのときは専門的な知識
をもった方にそばにいてほしいですし、さらには、ベテランのファ
シリテーターがいてほしいものです。そうでないと、地に足をつけ
た議論にならずに、お互いが言いたいことを言うだけでことばが空
中をさまようだけになってしまいますもの。
私たちは、そんな「空中戦」をば、実りのある「地上戦」にしなけ
ればなりませんでしょう? 国民の代表の頭のよい人たちが集まっ
ている国会でだって、空中戦ばかりに見えるのですから。

むずかしい議論を「地上戦」にもちこむためには、まずは一つひと
つのことばの意味を共有する必要がありそうです。そうでないと、
議論の前提が不確かなものになって、お互いの間で話がかみ合わず
にとんでもない誤解を生んでしまうからです。
たとえば「自由」とか「人権」などという、だれにとっても大事で、
憲法でもたくさん出てくることばであっても、ひとによって思って
いる内容が違い、それによって議論にならないということがありま
すもの。そこでこんな本を参考にしてみたいのです。

「昔、言葉は思想であった」(西部 邁/時事通信社)

西部先生は今年(2018年)にみずから命を絶って、いろいろな意味
で世間を騒がせましたが、60年安保から学生運動や保守思想の論客
として多くのメディアにも登場した方でした。
この本では、経済、社会、政治、文化の四分野から108のことばを
選び出し、それぞれのことばの意味合いがその語源から遠ざかって
しまったがゆえに、その意味合いが多岐にわたるようになって、議
論では使いにくくなったことを憂い、ことばの意味をきちんと整え
ることで、求められる熟議のための共通の基盤を作り直そうとして
います、、、たぶん。

たぶん、というのは、西部先生のおことばがやや断定的で、そこか
らして先生の主旨がちょっと頭に入ってこないなあと、読んでいて
感じる人もいるのではないかと思うからです。その一人が私でした。

たとえば「権利(ライト)」という言葉について、
「『国民の権利』は、国家の歴史がもたらした『道理(リーズン)』
にもとづきます。人間性が正しいのではなく、正しいのは道理のほ
うだ。むしろ人間性の発揮のしかたが道理によって差配されるべき」
だと先生は書き、イギリスの保守思想家エドモンド・バークの「人
間の権利は認められないが、英国人の権利ならば盛大に認めよう」
ということばを引用しています。
つまり、普遍的なヒューマニズムをもとに「人間の切実な欲求はす
べて権利である」とするのは、正しい(ライト)わけではない。じ
つは、それぞれの国や民族や伝統の中で獲得され正当化されてきた
ものこそが、「その国民」の「その権利」なのだ、と考えておられ
るのです。

わかりますでしょうか?
先生によれば、「これこれが人間の持って生まれた普遍的な権利だ」
とは言えずに、「これこれが『今の日本国民』としての『私』の権利
だ」と、限定的にしか言えないのです。あくまで、「いまの常識とし
て正当だと思われる権利」が「その国のそのときの人権概念だ」と
いうのです。

たとえば、極端かもしれませんが、施設で身体拘束されている高齢
の認知症患者がいたとして、「その人の人権(ヒューマンライツ)を
守れ」といって拘束を外させることが正しいかどうかは、わからな
い。なぜなら、「これまでの老人介護の伝統と今の日本の福祉の現状
から、拘束しないことが本人の『権利』ならびに『公共の福利』と
認めてよいかどうか」という、現実的な論点があるからなのです。

いえいえ、誤解のありませんように。この例は私がもちだしたもの
であり、さらに今の日本現状において拘束も認められるなんて言い
たいわけじゃありませんから。あくまで、伝統とか文化とか、その
ときの社会・経済状況とか人々の精神とか、それらをあわせた「常
識」が、そのつど「人権」という言葉の定義を決めるのだ、と先生
はおっしゃっているのだ、と私が受けとめただけ。

おなじ観点からすると、中国とかミャンマーとか、あるいはイスラ
ム圏の国々における、少数民族や女性の人権や自由の問題も、その
国ならではの考え方や伝統と現状があるしそれを優先して考えなけ
ればならないので、簡単には西洋の考え方が通じない、ってことに
なります。先生はそうおっしゃっている。普遍的に正しいとか、絶
対的に善だ、ということばは使えないのだと。

ちなみに、先生は保守思想の論客とされていましたが、この本のな
かの「保守(コンサーヴァティヴ)」の解説では、保守思想の徳義
として「活力・公正・節度・良識」があげられ、視点として「懐疑
・斬新・全体・伝統」があげられています。
保守思想とはこのように、常識とか伝統といった、長い間に培われ
た人間の総体的な良識を信じ、そこに足場をおくことにあるようで
す。さらに、理想とか革命とか極端なことや、「絶対」などという
ことばを排し、現実的に一歩ずつ改善を進めるためのプラグマティ
ックな方法論を探そうとするようです。
目線を広く深くとりつつ、慎重に目前の一歩を踏み出そうというこ
となんですね。(だからバーグはフランス革命を批判したのでした)

さて、ここでいったん立ち止まって。
どうなんでしょうかねえ。まず、自由とか人権とかいうことばじた
いが西洋発祥のものですから、それを「今の日本」とか「今のミャ
ンマー」とかに当てはめるとどうなるか、と考えることは必要だと
思います。ほんらいのことばの意味を、そのときどきでどうアジャ
ストすべきかと考える。それは、いい。
また、なにか問題があっても、現実的に一歩ずつ改善すべきだとい
うことも必要なんでしょう。それが本当の保守思想だということも
またわかりました。これも、いい。

なので私は、先生の、ことばに対する真摯な姿勢をすばらしいと感
じ、でもそれゆえに、先生の言うことと、現在使われていることば
の意味やその使われ方の乖離が甚だしくなってしまったとも感じます。
ことばの定義は大事なことだが、これまた「ほんとうは」とか「本
来は」「元々」「古来」などにこだわっていると、そもそも対話や議
論の場に入ることすらできなくなってしまうのではないだろうか。
だから、そんな理由もあいまって、先生の保守思想じたいも理解さ
れにくくなってしまったんじゃないか。
それも先生の絶望を強めたのかな、と感じます。

そしてまたしても、いきなりの結論。
私たちはなにかしらの理想的な目標がないと、どこに向かって改善
・改革しているのか分からなくなる時が多いはずです。その過程で
は、ことばの意味はどんどん変わってこざるを得ないはずです。
ということは、私たちは、理想に向かいつつ、ことばの意味を新し
く自分たちで創って、その意味を確かめ合い、それをもとに階段を
上るように議論していかなければならないのではないでしょうか。
やや強引な三段論法かもしれませんけど。
さてみなさん、真摯な議論では、このような強引な三段論法的な結
論をだしてはいけません。じつはこれが「空中戦」の一例でした。

 

ブログ114

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第113回 2018.11.03


「もっと突き詰めたい『社会的理性』」

カフェの仕事は、毎日のルーチンをこなしてお客様の応対をします
から、大きな社会的課題にぶちあたったり、「公(おおやけ)」に重
大な関わりがあるようなことは、それほどありません。
だから、ちょっとだけ「スキマ」を想像したり、それによってコミ
ュニティカフェのまねごとをしたところで、それが日本経済や社会
公共に寄与するのしないのなどという問題ではないんです。

私たちの日々の生活のほとんどは、そういうものですよね。
暮らしのなかで私たちのおこなう一つひとつの判断は、そのつど勘
にたよったり、経験を重視したり、そのときの感情によって決めて
しまいます。それこそ、ほぼ、思い込みや勘違いで暮らしているよ
うなものです。
ふだんはそれで大丈夫なんです。それでいいーんです。
ところが、やや政治とか公共政策むきのはなしになり、それがみん
なの生死にかかわるような大問題になってくると、私たちは感情や
カンに頼って判断していると、それこそとんでもないことになりま
す。たとえば先日読んだ、

「啓蒙思想2.0」(ジョゼフ・ヒース/NTT出版)

には、副題に「政治・経済・生活を正気に戻すために」と記されて
いて、筆者は、いまの世の中では理性がしっかり働いていないこと
が多すぎるじゃないか、と嘆いています。いまの状況は正気じゃな
いぜ、って。
オビに書かれている惹句には、「メディアは虚報にまみれている。
政治は『頭より心』に訴えかける。真実より真実っぽさ、理性より
感情が優る、『ファストライフ』から抜け出そう!」とあります。
なかなか強いことばですね。
そして、とくに政治においては、政策の議論そのものよりも、感情
に訴えててっとりばやく有権者の懐につけ入ろうとするアプローチ
ばかりが目立つ、それはダメじゃん、と嘆くのです。

どういうことか。
たとえばトランプ大統領のように、ツイッターを多用するとどうな
るか?ツイッターは字数による制限があるから、理性的な討論には
不都合で、それは「言葉による平手打ちのけんかを助長している」
ことになる。
なるほど、平手打ちのけんかね。たしかに、そんなけんかは本人は
楽しいでしょうし、また、そのけんかを見ている側も楽しいですも
のね。まるでショーアップされたドツキ漫才を見ているような気に
させられますし。

ではなぜ、ツイッターのようなお手軽なメディアを政治家が使うの
か?
それは、今の政治ではスピードある解決が求められ、そのためには
大衆に感情で訴えかけ、過激なアピールポイントだけを強調するこ
とが必要だからだ。ツイッターはけんかだからそれに適している。
理路整然としたことばで議論するよりも、短いことばで感情に訴え
かけると、大衆の笑いとか怒りなどのを引き起こして、味方に引き
入れやすい。
しかし考えてほしい。こういうやりかたが続くことできちんとした
討論が消え、「右か左かではなく、クレイジーか非クレイジーかに
分かれていく」のは間違いない。これが悪しきポピュリズムだ、と
筆者はバッサリ切り捨てるわけです。

もしそのとおりだとすると、イヤになっちゃいますよね。
たぶん、ツイッター上では、議論の相手を「クレージー」だとして、
よりクレージーだと主張した方が勝つ、なんて風潮が、今たしかに
ありますでしょう。
国会での議論は議論にならず、質問にきちんと答える人はいない。
質問にたいしてはぐらかし(朝飯論法)、質問に答えずに自分の主張
を返し、できあいのことば(「遺憾」とか「前向き」とか)を繰り返
し、言いたくないことは言わず、そのかわりにヤジや相手の揚げ足
をとってポイントを稼ぎ、それをおもしろおかしくメディアにあげ
ることに懸命になる。目標は大衆の心情に取り入ることだけ。
これがいわゆる、山田風太郎先生もビックリの忍法ツイッターの術。

私たち大衆も、けっこうそんなあおり忍法(ラップですね)にのっ
かってしまって、責任をもってみずからの理性で考えることをしな
くなっているのではないか。まるで、何ラウンドあるかわからない
ボクシングの試合を見せられ、そのケンカのありさまを楽しんでい
るだけではないか。
そうだとすると、私たち、メディアでしか政治に触れることの少な
い「大衆」はどうすればいいのでしょうか?

ここでは、説かれているヒントのうち、ふたつをご紹介いたしてお
きましょう。
ひとつは、理性による合理的思考の有効活用。
とりわけ、「合理的思考は難しく時間を要するのだから、みなさん
自制して、即断を避けろよ」、つまり時間をかけろ、といういうア
ドバイスです。そういえば、わが丸谷才一先生も同じことをおっし
ゃっていましたし、意外と、経験や常識を重んじる保守思想に通じ
ることをおっしゃっているようです。

でもこれだけだと、いままでの啓蒙思想と変わらない? ですよね。
そこで、「啓蒙思想2.0」の「2.0」たるものはなにか?
それは、もうひとつのヒントとしてのこんなことば。
「合理性が高度な足場によっており、この足場が外的かつ社会的で
あることを認めれば、理性は一種の社会的事業(プロジェクト)だ
と考えられるようになる。」
ああ、難しい表現ですね。どういうことか。

私思うに、たぶんですが、合理的思考をひとりの孤立した個人の理
性による営みだと考えずに、それは多くの人の力を集めた集団行動
によって生まれるものと考えるべきだ、ということではないでしょ
うか。
ひとりの人間個人の理性にたよるのではなく、集団による社会的理
性、つまり人々の交流、連帯、協働などの集団行動における合理的
な判断が、私たちの足場として必要不可欠なのだということではな
いか。これは、ルソーの「一般意志」とちょっと似ているけれど、
交流、連帯、協働という自発的で意志的な行動の面が強調されてい
るのだ、と受け取りました。
みんなで一つずつ確実にレンガを積み上げて、しっかりした建物を
建てようじゃないか、それこそ社会的事業というものだ、と。私た
ちは現場で、この社会的理性なるものを実践できるのか否かと。

ブログ113

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第112回2018.11.2

「コミュニティカフェの役割--スキマを埋められるか?」

住宅街の小さなわがブックカフェは、いちおう「コミュニティ・カフ
ェ」をめざしています。
コミュニティ・カフェとはなにかといえば、地域の人の交流であった
り情報交換だったり、居場所づくりだったりという、その地域の方々
の動きが活発になる場、というくらいのものです。社会貢献とかなん
とか、あまり立派なことをガチでめざしているわけではありませんの
で、その点あしからず。

ですので、やっていることといえば、ご近所の方々とサロンコンサー
トを開いたり、ガレージセールをしたり、各種のご案内(とくに困っ
ている人の居場所づくりやNPO活動の紹介など)を置いたりする
くらいでしょうか。
つまり「地域の情報や人のハブ(パブではなく)」になれればいいな、
くらいに思っています。そんなコミュニティ活動のことを考えて読ん
だのが、

「実践 日々のアナキズム」(ジェームズ・スコット/岩波書店)

いきなりまたアナキズムなんて書名をもちだして、驚かれたかもしれ
ませんが、これは、けっして無政府主義とかの意味ではないのです。
この筆者の問題提起はおもに、
「個人やコミュニティは、自立して自らを組織化する力を失いつつあ
るのではないか」というものでした。「経済的な強制力、少数によっ
て支配された市場、メディア統制、政治献金、抜け道の用意された立
法措置、選挙区分の再編成、弁護士を使った法知識の利用などによっ
て、政治的影響力へのアクセスが不平等になり」、その結果、自由と
自律がむしばまれているのではないかと。
いまのシステムは、なーんか変だぞ、ということなんですね。

たしかに、世界じゅうで金持ちがいっそう金持ちになり、社会的弱者
がどんどん底辺に落されて行って格差が広がっているという現状をみ
れば、とうぜんの問題提起だと感じます。だから著者の言う、「服従
をしいる権威的な権力や、既得権を強化するシステムや、強者を優遇
して弱者を弱いままに据え置く政策」に対して、私たちはどうすれば
いいのか?そういう疑問がフツフツと湧いてきてしまいます。

その問題は、じつはどうやら選挙でもデモでも、言論活動でも、はた
またSNS上のグチりあいやディスりあいでも、解決しそうにない。
それならば、と筆者は言います。
身近な実践の中で、いまのシステムや主流になっている考え方に反乱
をおこしても、いいんじゃないか? つまり、日々の暮らしの中から
社会を変えていくことはできるのじゃないか。政治や行政や経済など
の手の届かない、というか、それらの「スキマ」のところで活動して
いくことで、それが可能なのではないかと。

いかがでしょう。
これだけではちょっと「抽象的なスローガン」に聞こえるかもしれま
せん。ただ、これを「カフェ」で具体的におこなうとしたら、いろい
ろなことが考えられそうです。つまり私たちが、というより私が、日
ごろ感じる共感や同情を、「社会のスキマ」への想像力として起動する
具体的な方策という意味でです。

たとえば、地域の方々に、行政による公的なものではない情報をお知
らせしたり、朝晩になんとなく街路に目配りしたり(これはその昔、
ジェイン・ジェイコブズという都市活動家が主張した、地域商店の役
割でしたが)、居場所に困っている人に席と飲み物を提供したり。
もしかしたら、そんな程度の「日々の小さな行動」でしかないかもし
れませんし、反乱とも変革ともいえないようなものかもしれませんが。

それにつけても、地域には政治・行政・経済の「スキマ」がたくさん
目につきます。そのスキマには、一人暮らしの高齢者、虐待を受ける
子どもや親、引きこもりの若い方、病気や障がいをもつ方が暮らして
いる。そのスキマを埋めて、弱者を弱いままにしないようにし、自分
の住む地域をみんなで元気にしていくために、わが小さなカフェでも
できることがある。そう意を強くしました。なんとマジメな!

 

ブログ112

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第111回 2018.10.19

「共感も、ときには危ないゾ(宣言)」

カフェマスターとしての私は、お客さんとお話しするときには、で
きるだけの共感をもってお話を聴くように心がけています。
その方のお話をまるではじめて聞くように聴き(ほほーっ)、相手の
気持ちに寄り添って(そうなんですか)、理解しようとする(なるほ
ど)こと。それはコミュニケーションの第一歩だと思いますし、と
ても難しいことですけど当然の態度だと思っていました。

というのも、たとえ自分の理解力が高くなくても、共感力を高める
ことで、人間関係と社会生活はうまくいくはずですものね? 私たち
はそう教えられてきましたし、その通りだと思って生きてきました。
それが自分の人間としての力を高め、対話の場としてのカフェの価
値を高め、ひいてはカフェのご来店者を増やし、経営がうまくまわ
ることにつながる。

ところが、それはある面正しいかもしれないけど、いつでも正しい
わけではなく、また人間としてもそればかりじゃダメかもよ、もし
君がまじめに道徳的な生活をおくろうとするなら、それだけではア
カンかもよ、というのが、

「反共感論」(ポール・ブルーム/白揚社)

の主張でした。ひえーっ、共感だけじゃアカンかもしれないの? 
困りましたね。まずは筆者の主張を聞いてみましょう。
社会生活、とくに道徳的な課題に直面したとき、人には共感能力が
求められ、他人への共感や同情によって善き行いに導かれると思わ
れがちだが、安心していてはいけない。
というのも、ひとつには、共感はもともと家族とか身内とか、自分
が好もしいと思っている個人に対してはたらくのであって、顔の見
えない他人、たとえば地球の裏側で飢えている子どもにたいしても
同等の強さで抱かれるものではないからだ。すると、共感という第
一次的情動に従って行動を起こすことが、必ずしも道徳的に正しい
とは言えなくなる。

もうひとつには、共感じたいがマイナスにはたらく場合がある。
それは、医師や看護士などの医療職とか、セラピストやカウンセラ
ーなどの福祉職だ。そういう仕事の方にとっては、目の前のクライ
アントに過剰に共感することによって判断が狂わせられることがあ
るだろう。彼らは、一歩引いて、あるいは一段高い視点で人を診る
ことが求められる。私たちが判断を誤らないようにするには、共感
を超えた理性の働きが必要なのだ。

なるほど。
私たちは共感能力こそが、社会で集団生活をおくるための根本にあ
ると思い込んでいましたが、必ずしもそうではないのかもしれない
というのです。共感という接着剤のようなもので他人とぴったりく
っつくだけでは、うまくいかないことも多いのかもしれない。
そして、血縁者や目の前の人への共感と、知らない他人や遠くで飢
えている人への同情は、かならずしもそのあとに同じような行動に
結びつく感情とはかぎらないというのです。

なるほど。そうすると、怒りとか悲しみとかの感情についても同じ
ことが言えるのかもしれませんね。つまり、、、うまく言えませんが、
自分の感情と行動をごちゃまぜにするな、ということかな。
単純に、困っている人への共感が自分を正しい方向に導いてくれる
なら、こんなに助かることはないんですけどねえ。

すると、じゃあ、そういうことをわかったうえで、自分を、さまざ
まな人間関係のなかで「社会・道徳的に正しい行動」に結びつけて
くれるものは、はたしてどういう感情なのだろうか? あるいは、
わき起こってしまった感情をどう処理すれば、適切な行動に結びつ
けやすいのだろう? という素朴な疑問が湧いてきます。

自分でもよくよく考えてみると、まず、他人への共感とか、それに
よって「相手の立場に立ち」、そのうえで「正しい行動をする」なん
てことが、思ったほど簡単なことではないことはわかります。
たとえば、だれかがテーブルの脚に自分の足の小指をぶつけて、「イ
テーッ」と叫んでいる。自分もよく同じことをやるからその痛みは
わかるし、十分に共感し同情できる。その人の痛みは、私の痛みの
感覚としてハッキリとリアルに共有できる。そこまでは、いい。
ただ、そこからが問題なのです。

目の前で痛がっている人は、そこでなにを思ったか?
「クッソー、こんなところにテーブルを置いたの誰だ!」「嫁のやつ
だ、あいつが動かしたんだ」「ぶつけたのは、これで今週二回目だ、
なんてツイてない」「そういえば最近ツイてないことが多いぞ」「そ
んでもって明日からまた嫌な仕事だ」、「世の中には、足の小指を一
度もぶつけることなく、大金を稼いでいるヤツもいるのに」、、、など
と考えたかもしれない。

私としては、「痛み」までは共感できるけど、そのあとその人の頭に
湧いた怒りやら悲しみやら妄想やらまでは、とても共感できない、
というか、わからない。それは当たり前のことです。とすると、目
の前の人の痛みの共感からだけでは、「私」が、なにか社会に役立つ
道徳的な行動は起こすまでには至らないのは当然です。その人の頭
に浮かんだいろいろな感情を想像して、さらにそれに共感できるか
どうかが問題になってきます。

で、突然のシメで恐縮ですが、私はこう考えました。
自分のなかに起きる他人への共感や同情には、過剰に信頼を置かな
いようにします。とくにそれが、自分が道徳的に正しい行動を求め
られているようなときには。そのかわりに、遠くの他人の気持ちま
で想像することと、いっときの共感や同情に流されずに、理性的に
判断することに努力します(宣言)。

ただ、カフェの営業時間内では、あまり道徳的に追い詰められるこ
ともないでしょうから、テーブルの脚に小指をぶつけて痛がってい
る目の前の方への共感を全面的に打ち出してお話しようと思います。
どうでしょう、こんなところで。
えっダメ? キレイにまとめようとするな? 

 

ブログ111

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第110回 2018.10.14

「介護のなかにある、お詫びと赦し」

カフェでは介護の話をお聴きすることが多くなりました。
もちろんそのお客様のご両親の介護の話が中心ですけど、それには
老化あり、身体の障がいあり、病気あり、認知症あり、その全部
いっぺんにというのもあり。
どういう治療や介護サービスを受けたらいいか、入るとしたら
(入れるとしたら)どの医者や施設がいいかなど、話がつきません。
みなさん悩んで苦労してる。
私にも年老いた両親がいるだけに、介護の先輩たちの経験談には、
いちいちうなずくことばかりですし、そのなかにかいま見える家族
の状況や歴史にも心惹かれます。そんなときに読んだのが、

「へんな子じゃないもん」(ノーマ・フィールド/みすず書房)

筆者は1947年、東京にアメリカ人の父と日本人の母のあいだに生まれ、
いまは家族でアメリカに住んでいる方。1995年、80歳代なかばの
祖母が脳出血で寝たきりになり、その看病で母親を手伝うために
夏の間日本に里帰りしていました。
その、日々の看病のこまごまとしたことが、冷静かつ細心の注意に
よってつづられています。そして紡ぎ出される文章は、たとえば、
「彼女の世話のかなりの部分が、赤ん坊の世話に似ているのはもち
ろんだ・・・(しかし)話すことができなくなった大人の顔が、
どんなに変わってしまうものか、わたしは知らなかった」
「彼女のもの言わぬ顔を見ていると、これまたきわめて彼女らしい、
抗議も要求もしない、隠遁なのだと思わずにはいられない」
「わたしが彼女のからだに触れるのは、もう彼女に語りかけるだけの
忍耐づよさがなくなってしまったせいだと、自分でも思わざるを
えない」、そして「彼女のことを書くのも、おなじ理由からなのだ」。
そのまま書き写すしかないような痛切な文章ですが、このように祖母
を看病できる孫娘じたい、なかなかいないと思います。
また、筆者は「(看病に)忍耐強さがなくなった」と書きますけれど、
看病に疲れて逃げているわけではないのだと思います。というのも、
ハーフとして生まれた自分、母親に代わって自分を育ててくれた祖母、
そんな自分たちをとりまく家族や親せきを思い、そしてそこから、
平和と繁栄のカゲに隠された日本の戦後史、沖縄、従軍慰安婦、原爆
などの大きな歴史にも思いを馳せていくのですから。つまり、とっても
ドメスティックな「家族の歴史」と「家庭内の介護」がマクロな「日本
の戦後の歴史」に、まるで天地を結ぶクモの糸のように、筆者のなかで
むすびついていくのですから。
そしてたぶん、その細い糸をたどるようにして、母や祖母へのいたわり
とお詫びが、彼女たちからの赦しに結びついてくる。
「(祖母の看病を一心に引き受けながらも、親戚の厳しい目にさらされ
る母に対して)『よくもまあ、やってられたねえ。お母さんはわたし
よりしたたかなのねえ』、これに母は、しんそこ共感をもって応える。
『鈍感なだけよ』」
あるいは、まだ口のきけたときの祖母に、
「『おばあちゃま、(「あいの子」と呼ばれたわたしのような)へんな
子をお医者さんのところに連れて行くのは、いやじゃなかった?』、
長い沈黙のあと、『へんな子じゃないもん。自慢の子だもん』」
看病や介護のあいだには、このような形のさまざまな、一方からの
お詫びが述べられ、他方からの赦しが与えられるのかもしれません。
それを、読者である私たちも、自分のなかで個人の感情(ライフヒ
ストリー)と家族の生きざま(ファミリーヒストリー)と、さらに
は自分の生きた時代状況にむすびつける作業をすることで、彼らの
承認と赦しに参加していくことになります。
このように、それぞれの介護の現場でそれぞれの歴史が交差する。
「私たちはそれ(看病や介護)を、このさきも他者とともに生き続
けられるように、自分たちのためにする。」
このことばを、筆者のこだわる日本の戦後史、たとえば沖縄問題や
従軍慰安婦問題、原爆などの大きなトピックにからめなおしてて説明
してもいいのかもしれませんが、私にはここでこれ以上付け加える
ことはできません。

 

ブログ18101

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第111回 2018..10.19

「共感も、ときには危ないゾ(宣言)」

カフェマスターとしての私は、お客さんとお話しするときには、で
きるだけの共感をもってお話を聴くように心がけています。
その方のお話をまるではじめて聞くように聴き(ほほーっ)、相手の
気持ちに寄り添って(そうなんですか)、理解しようとする(なるほ
ど)こと。それはコミュニケーションの第一歩だと思いますし、と
ても難しいことですけど当然の態度だと思っていました。

というのも、たとえ自分の理解力が高くなくても、共感力を高める
ことで、人間関係と社会生活はうまくいくはずですものね? 私たち
はそう教えられてきましたし、その通りだと思って生きてきました。
それが自分の人間としての力を高め、対話の場としてのカフェの価
値を高め、ひいてはカフェのご来店者を増やし、経営がうまくまわ
ることにつながる。

ところが、それはある面正しいかもしれないけど、いつでも正しい
わけではなく、また人間としてもそればかりじゃダメかもよ、もし
君がまじめに道徳的な生活をおくろうとするなら、それだけではア
カンかもよ、というのが、

「反共感論」(ポール・ブルーム/白揚社)

の主張でした。ひえーっ、共感だけじゃアカンかもしれないの? 
困りましたね。まずは筆者の主張を聞いてみましょう。
社会生活、とくに道徳的な課題に直面したとき、人には共感能力が
求められ、他人への共感や同情によって善き行いに導かれると思わ
れがちだが、安心していてはいけない。
というのも、ひとつには、共感はもともと家族とか身内とか、自分
が好もしいと思っている個人に対してはたらくのであって、顔の見
えない他人、たとえば地球の裏側で飢えている子どもにたいしても
同等の強さで抱かれるものではないからだ。すると、共感という第
一次的情動に従って行動を起こすことが、必ずしも道徳的に正しい
とは言えなくなる。

もうひとつには、共感じたいがマイナスにはたらく場合がある。
それは、医師や看護士などの医療職とか、セラピストやカウンセラ
ーなどの福祉職だ。そういう仕事の方にとっては、目の前のクライ
アントに過剰に共感することによって判断が狂わせられることがあ
るだろう。彼らは、一歩引いて、あるいは一段高い視点で人を診る
ことが求められる。私たちが判断を誤らないようにするには、共感
を超えた理性の働きが必要なのだ。

なるほど。
私たちは共感能力こそが、社会で集団生活をおくるための根本にあ
ると思い込んでいましたが、必ずしもそうではないのかもしれない
というのです。共感という接着剤のようなもので他人とぴったりく
っつくだけでは、うまくいかないことも多いのかもしれない。
そして、血縁者や目の前の人への共感と、知らない他人や遠くで飢
えている人への同情は、かならずしもそのあとに同じような行動に
結びつく感情とはかぎらないというのです。

なるほど。そうすると、怒りとか悲しみとかの感情についても同じ
ことが言えるのかもしれませんね。つまり、、、うまく言えませんが、
自分の感情と行動をごちゃまぜにするな、ということかな。
単純に、困っている人への共感が自分を正しい方向に導いてくれる
なら、こんなに助かることはないんですけどねえ。

すると、じゃあ、そういうことをわかったうえで、自分を、さまざ
まな人間関係のなかで「社会・道徳的に正しい行動」に結びつけて
くれるものは、はたしてどういう感情なのだろうか? あるいは、
わき起こってしまった感情をどう処理すれば、適切な行動に結びつ
けやすいのだろう? という素朴な疑問が湧いてきます。

自分でもよくよく考えてみると、まず、他人への共感とか、それに
よって「相手の立場に立ち」、そのうえで「正しい行動をする」なん
てことが、思ったほど簡単なことではないことはわかります。
たとえば、だれかがテーブルの脚に自分の足の小指をぶつけて、「イ
テーッ」と叫んでいる。自分もよく同じことをやるからその痛みは
わかるし、十分に共感し同情できる。その人の痛みは、私の痛みの
感覚としてハッキリとリアルに共有できる。そこまでは、いい。
ただ、そこからが問題なのです。

目の前で痛がっている人は、そこでなにを思ったか?
「クッソー、こんなところにテーブルを置いたの誰だ!」「嫁のやつ
だ、あいつが動かしたんだ」「ぶつけたのは、これで今週二回目だ、
なんてツイてない」「そういえば最近ツイてないことが多いぞ」「そ
んでもって明日からまた嫌な仕事だ」、「世の中には、足の小指を一
度もぶつけることなく、大金を稼いでいるヤツもいるのに」、、、など
と考えたかもしれない。

私としては、「痛み」までは共感できるけど、そのあとその人の頭に
湧いた怒りやら悲しみやら妄想やらまでは、とても共感できない、
というか、わからない。それは当たり前のことです。とすると、目
の前の人の痛みの共感からだけでは、「私」が、なにか社会に役立つ
道徳的な行動は起こすまでには至らないのは当然です。その人の頭
に浮かんだいろいろな感情を想像して、さらにそれに共感できるか
どうかが問題になってきます。

で、突然のシメで恐縮ですが、私はこう考えました。
自分のなかに起きる他人への共感や同情には、過剰に信頼を置かな
いようにします。とくにそれが、自分が道徳的に正しい行動を求め
られているようなときには。そのかわりに、遠くの他人の気持ちま
で想像することと、いっときの共感や同情に流されずに、理性的に
判断することに努力します(宣言)。

ただ、カフェの営業時間内では、あまり道徳的に追い詰められるこ
ともないでしょうから、テーブルの脚に小指をぶつけて痛がってい
る目の前の方への共感を全面的に打ち出してお話しようと思います。
どうでしょう、こんなところで。
えっダメ? キレイにまとめようとするな?

 

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