ブックカフェデンオーナーブログ第157回 2019.09.12

「すべての道はどこかに通じる」

私どものカフェは二車線道路に面しているにもかかわらず、また、
目印になる信号やお店があるにもかかわらず、初めておいでになる
お客さまから、「たどり着けないんですけどおー」というSOSの
お電話をいただくことがあります。

これは以前にも書きましたが、カフェの入り口があまり目立たない
という問題と、さらに二車線道路の両側が同じ番地だという、行政
上の問題があるのでした。道があとから通ったので、番地がかみし
もの二手に分かれてしまったわけ。

さらにそれに気づかないナビやグーグルマップみたいな文明の利器
が、住所検索では道の反対側ばかり表示をするというおバカなこと
をするので、宅急便さんでさえ迷ったりして、たどり着くための二
重苦を形成しておるのです。
おいこら、責任者出てこいっ(怒)!

ところが、そんな環境や理屈にはぜんぜん関係なく、もう最初っか
ら道を間違える方というのがおられる。間違える気が満々な方です。
最寄り駅を出てから地図とは反対方向に行ってしまったり、信号を
わたって反対側に曲がってしまったりして「たどり着けないんです
けどおー」と電話してくる、いわゆる「方向音痴」と思われる方々
です。
んっ?方向音痴、差別用語じゃないですよね。

だっておかしいじゃないですか。
なぜ右と左とを間違えるのか。なぜ100メートルのところを300メ
ートルも行き過ぎてからおかしいと気づくのか。なぜカフェの帰り
には、出口を出てから来た方向と反対に行ってしまうのか。私には
わかりません。
しかし、そんな方々にも朗報というか、福音がございました。

「どこでもない場所」(浅生 鴨/左右社)

この本は、いろいろな職業を経験されていまは小説も書いておられ
る筆者の、人生における方向音痴とか、迷子とか、どう混乱してき
たかとか、自分はいったいどうしたいのかといった悩みとか、仕事
はなんでも受けてしまう受注体質の巻き込まれ型の悲しみとか、ご
みの分別がわからないとか、なんだかんだというエッセイ集です。

筆者の浅生(あそう)さんの言うところでは、
「目的地さえなければ方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い」
ということなのです。
おお。これは仕事や人生において福音となるべき真実かもしれませ
ん。出版社の名前も「左右社」。いい名前ではないですか。

この本にはそんな、いまの世の中ではやや生きづらいだろうと思わ
れる方向音痴型のひとの特徴が詰まっています。たとえば、
やるなと言われればやりたくなる。
応援されたり励まされるとやる気がうせる。
一方的にかけられる期待は重圧なので逃げ出してしまう。
母親が納豆が嫌いだったので自分は納豆が好きになる。
だれかに言われたひとことでその後のふるまいを変えてしまう。
旅や仕事ではかならずトラブルにみまわれる。
・・・などなど。じっさいこれらは、けっこう誰でも共感すること
ばかりですし、中二病といやあ中二病かもしれませんし。

でもどうでしょう。
たぶん、若い頃からのこうした右往左往がいまの自分という人間を
つくり、たぶん、目的地に向かおうとして方向を間違え、いいかげ
んにしろ自分!などと自分を鼓舞しつつ自己受容できず、それに疲
れて生きているのが私たちなのではないでしょうか。
そしてあるとき、ハッと思うのです。
オレの目的地ってどこだったっけ?と。

きっと、いやたぶん、すべての道はどこかに通じているのだから、
そのうち目的地もみつかるのではないか。
もしかしたらゴサインタンかカムイミンタラにたどり着いちゃうか
もしれないけれど、まちがえてブックカフェデンにたどり着くかも
しれないではないか。
当カフェに来ようとされているお客さま、とりわけ方向音痴方面の
方、どうかそのくらいの余裕のお気持ちでお越しくださいまし。

 

ブログ157

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第156回 2019.09.05

「久世さんのラストソング」

お客さまが少ないカフェの雨の午後。
亡くなった方をしのんでばかりいるのもどうかと思いますが、ちょ
っとだけおセンチになって、自分より前の世代の方の声を聴きたい
気分のときがあります。

「ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング」(久世光彦/文春文庫)

これは、自分が死ぬときにいったいどんな歌を聴いていたいだろう
という想像からはじまる、歌についてのエッセイ集です。
「末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最
後に何か一曲、何でもリクエストすれば聴かせてやると言ったら、
いったい私はどんな曲を選ぶだろう」とはじまります。

筆者は、いざそのときになって考えても迷うばかりだろうから、今
のうちに決めておこうじゃないかといろいろ思案するわけですが、
そう簡単には決まりません。
それはテレビドラマ「時間ですよ!」や「寺内貫太郎一家」のディ
レクターをされた久世さんであっても、いや、そういう業界で多く
の楽曲と多くの歌手に接してきた方だからこそ、よけい決めるのが
難しいはずです。

そりゃそうでしょう。
私たちだって、いざラストソングを決めろといわれたら迷います。
あれもいいなこれもいいな、あの歌手の歌声が大好きだ、いや若い
ときにハードローテーションしたこのグループも捨てがたい、意識
が遠のいていくときに仮にこんなメロディと詞が聞こえていたら幸
せに死ねるのじゃないかな、いや、逆に未練が残ってしまうかもし
れないな、するといっそ讃美歌とか御詠歌とかのほうがいいんじゃ
ないだろうか、いやしかしそれでは選びがいがないというものだ、
藤圭子の立場はどうなる、美空ひばりのことを忘れたか。

たぶん自分もその時はもうボケちゃってるだろうから、リクエスト
しても「そんな歌は見つかりませんでした」なんて言われ、「えっ?
ウッソー、天城峠を越えたらリンゴの樹の下から青い山脈が見えた
っていうあの有名な曲だよ、あるはずだよー」「ありません」。
さあどうしたものか・・・などと、グズグズ考えるだけでしょうね。

読んでいくと久世さんも、じつはそんな感じになっていきます。
聴くと必ず泣いてしまう曲が取り上げられてその理由が想い出とと
もに話される。なかには戦前の古い曲、軍歌、唱歌、私たちの知ら
ない曲も多い。
想い出の詰まった戦後の流行歌が取り上げられる。「りんご」のつい
た曲、「長崎」のついた曲、古賀メロディーに映画の主題曲、ワルツ
にジャズにブルースにハワイアン。
そして、すでに亡くなった友人の好んだ曲や友人を思い出すことに
なる曲、好きな詩人や作曲家、それからご自分が演出したテレビド
ラマに関わった小林亜星さんや向田邦子さんや俳優さんたちにまつ
わる曲。
曲が曲を呼ぶ感じで、どんどんどんどん増殖しています。必ずしも
ラストソングを選ぼうということでは終わらなくなってくる。

わかりますねえ、この気持ち。
もともとこれは雑誌の連載エッセイで、企画としても最後にラスト
ソングをどうしても一曲に絞れということではなかったでしょうか
ら、いきおい、お話は自分の思い出深く好きな曲の総ざらいになっ
ていきます。

でも、それでいいじゃないですか。
私たち、やや後の世代の読者も、久世さんの人生で出会った楽曲を
思い出しながら共有して噛みしめることができるのですから。なん
というか、昭和をかなり濃い密度で生きた一人のパイセンが出会っ
たできごとと、それにまつわる楽曲を追体験できるのですから。
こんなときに「好きな楽曲履歴捜査官」がいたら、久世さんのどん
な性格を言い当てることでしょうかね。

それはともかく、世代の違うお若いみなさんも、大丈夫ですよ。
自分の知らない古い曲が取りあげられていても、そこには配慮深く
詞がきちんと載せられていて、それを読むだけでも時代の様相がわ
かることもあります。だからお若い方にも通じる久世さんのラスト
ソング(ス)がここにあり、それに刺激を受けてみなさん自分のラ
ストソングを考え始めるはずです。そういう本なのです。

ちなみに私のラストソングはというと・・・。
いまパッと思い浮かぶのは、フレッド・アステアの歌う「チークト
ゥチーク」かな。「ヘヴン、アイム・イン・ヘヴン♪」と歌いだす
あれ。映画の中では、想いがかなってジンジャー・ロジャースと踊
るあの歌。映画「グリーンマイル」で、無実の黒人が死刑の直前に、
映画のこの場面を観ながら泣くシーンもよかったですね。
おセンチですけど、ね?

ブログ156

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第155回 2019.08.29


「本にまつわるお仕事」

かねがね私はブックコンシェルジュになりたいと申しておるわけで
すが、もともとそれはキムタク主演の検事ドラマ「ヒーロー」に出
てくる、田中要次さん演じるカフェの寡黙なマスターにあこがれた
からでした。

ダーツなどもある、今どきのおサレなカフェなのに、客が「食べて
ェなあ」とつぶやくと、なんでも「あるよ」と出してくれる。
カフェの常連客であるキムタクさんが、たとえばなんとなく韓国料
理のサムギョプサルが食べたくなって、食べてェなあ、でもここに
はないだろうなあとつぶやくと、カウンターの中から「あるよ」と
ひとこと言って出してくれる強面(こわもて)のマスター。

それをブックカフェでやりたいのですね。
お客さんが、いまこんなことで悩んでいるんだけど、それに効く本
ないかなあなどとつぶやいていると、カウンターの中から「あるよ」
と出してあげる。「まさかこんな本ないよなあ」とひとりごとをいう
と、「あるよ」と出してくれて、それがそのひとの心がまさに欲して
いた本だったりする。
本にまつわる仕事として、そんなカフェのマスターって、よくない
ですか?

「あるかしら書店」(ヨシタケシンスケ/ポプラ社)

みなさん大好き、ワタシも大好き、絵本作家のヨシタケシンスケさ
ん。
お客さんが「こんな本あるかしら」と尋ねると、強面ではなく優し
く「ありますよ」といそいそと出してくれる書店の主人。いいマス
ターだなあ、りっぱなコンシェルジュだなあ、髪の毛うすいけど。

たとえば「ちょっとめずらしい本あるかしら」と訊かれると、「あ
あ!ありますよ!」とマスターは言って、「しかけ絵本」とか「『作
家の木』の育て方」「二人で読む本」「月光本」などを出してくる。
これらは、そんじょそこらの「めずらしい本」ではないんです。
たとえば「しかけ絵本」でも、じっさいに「とび出す絵本」はたく
さんあるけれど、マスターが出してくるのは「とけ出す絵本」だっ
たり「かけ出す絵本」だったり、「なき出す絵本」「のび出す絵本」
など、とんでもないヤツらばかり。

さすが絵本作家さん。私たちがいっしょうけんめい想像しても想像
しきれない本ばかりが登場します。
それがたまらなく嬉しく楽しい。
これは、本と本屋さんと本好きなひとへのやさしさが詰まっている
絵本ですから、子どもさんだけでなく大人も笑いながら楽しめるの
でした。

さて、そんな本屋さんに、「本にまつわる仕事の本ってありますか?」
と尋ねてきたお客さんがいます。
そこでマスターが最初に出す本が「読書履歴捜査官」という本。
捜査官は「容疑者が今まで読んできた本を見抜く超能力で事件を解
決する」人でした。
犯人の居場所をつきとめ(「先日『日本の崖100選』を読みましたね」)、
崖の上で犯人を説得し(「『父の心得』を読んでいた頃のことを思い出
すんだ!」)、去っていく(「本が好きな人に本当の悪人はいないのさ」
とつぶやいて)。

たしかにこれも、「あるかしら書店」同様に、本にまつわる仕事では
ある。
ということで私は、目標をブックカフェのコンシェルジュから本の探
偵さん、さらに本の探偵さんから読書履歴捜査官にくら替えすること
にいたしました。
やっぱり髪の毛のうすい書店の主人より、さらには「あるよ」のマス
ター(田中要次さんも薄かったなあ)より、「読書履歴捜査官」のほ
うが、髪の毛5ミリほどカッコいいし。

 

ブログ155


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第154回 2019.08.23

 

「作家の勇気と気概をみる」

人間の生き方の問題に真正面からぶつかっていく、勇気のある作
家たちがいます。
彼らが創りあげる小説は私たちをもの思いに誘います。おもしろ
いとかすばらしいとかいうよりも、噛みしめているうちに味の出
てくるスルメのようなモノかもしれません。
たとえば、

「ゴサインタン ~神の座」(篠田節子/文春文庫)

は、どうでしょう。

ゴサインタンとは、ネパールからみたヒマラヤの山の名のひとつ。
カムイミンタラに似ている? いや、似ていない。
ネパールから連れてこられた女性と世帯をもった大地主の農民が、
その女性が生き神様になってしまったことでいろいろ奇跡のような
できごとが起こって困惑しまくる。

彼はおカネやら土地やら家作やらを全部失くしてしまい、気がつい
たら無一文に。いっぽう妻のまわりには、いつのまにか小さな教団
のようなものができるが、そのうちに教主に祭り上げられた当の妻
が失踪してしまう。

なぜだ? なぜオレをこんな目にあわせた後に、急にいなくなる?
主人公は妻を追って彼女のふるさとであるネパールに行き、ゴサイ
ンタンのふもとのちいさな村で、すっかり神が「落ちた」女性と再
会。そして彼は日本を捨ててここで生きる決心をする。
こんなあらすじでした。

そう結婚後、妻となった女性を通して彼に下された神のおことばは、
厳しいものだったのでした。
捨てなさい。すべてを捨てなさい。ひとが強くなるとは弱いものを
飲み込んでいくことになるのだから、そうなってはいけない・・・
はい、これで主人公の全財産が、パア。
その財産はじつは先祖代々いわくつきのもので、世渡り上手、つま
り「強さ」を求めた先祖たちが貯め込んだものだった。それが、外
国から来て神様が乗り移った妻のことばでパア。ことごとく他人の
手に渡っていく。

この小説の結構は、だからひとつには、主人公が妻をとおして現わ
れた神のおことばに引きずられて(それを信じて)、先祖から受け継
いだ財産を次から次へと失っていく過程の描写にあるのだと思いま
した。
なすすべもなくそれを茫然と見送る主人公の気持ちに、読者は自分
の心を探りながら(なすすべもなくじゃなくて、なんとかしろよ!
とか、ツッコミをいれながら)、振り返って自分の財産とか所有物
になんとなく思いをいたしながら、ちょっと慌てたりする。
まるで作者から読者の顔面に、次から次へと問いのストレートパン
チがのびてきて、それをどうよけるかと考えるときのようです。

では、ここで問題です。
全財産をなくしてネパールに行った主人公に、いったいどんな救い
があるというのでしょうか?
日本を捨てた自分の行動に満足する? 妻への愛に目覚める? は
たまた、悟りを開く? 

そこらあたりが、私がもの思いに沈むことになるポイントでした。
どうでしょう、たとえば小節の最終盤、失踪した妻の住む村に着く
手前で主人公は、「自分はだれでもない。名もなく、素性もわからず、
心さえない。永遠の闇の中を一瞬走るパルスのようなものだ。」
と感慨をのべます。

そして、
「あれが神か、と輝和(主人公)は深い藍色をした空にそびえる神
の座の白い峰に向かい手を伸ばした。あれが神だ。淑子(ネパール
人の妻、主人公が勝手に日本名をつけた)は長い年月をかけて、自
分をここに導いた。あの神の存在を知らせるために。」
これらのことばが解答のヒントにならないでしょうか。

なんだ、小説の結末としては主人公のこんな感慨で終わるのか、と
思われるかもしれません。しかし、主人公はこう続けるのです。
「違う。あれは神などではない。神はそびえる。神は罪のないもの
を殺し、罪のある者もないものも救う。神は突然現われ、何も告げ
ずに去る。神に倫理はなく、もちろん論理もない。」

私は、この小説が書かれたのがオウム事件のすぐあとだったことを
考えると、人間の理屈など通じずひとの持つすべてを奪う神という
ものを設定するのに、作者はそうとうの勇気がいったと思います。
そう、私思うに、この主人公はそう簡単には救われない。
ハッピーエンドとか私たちが考える「救い」など、そんな安易なも
のは、ない。作者はそう言うのです。やはり勇気のある人だ。

作者は読者にたいして、何回もくりかえしてこんなストレートパン
チを出してくる、その、なんというか単純明快で武骨な攻め方にも
さらに勇気を感じます。
たぶん、テーマが変わっても、この作者は同じような気概とやや素
朴なテクニックと根性で話を紡いでいくのでしょうね。
なんだか格闘家への称賛みたいになってしまいましたけど。

ブログ154

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第153回 2019.08.14

「中二病をぶっとばせ!」

中二病で思い出したのが、イギリスの中学生のお話。
同じ中学生でも、親の育て方だけでなく、生活環境や社会情勢や学
校教育の影響で精神的な成長に大きな差がでるものだなあと、あた
りまえのことに今さら感じ入ったのが、

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
 (ブレイディみかこ/新潮社)

でした。
筆者のブレイディみかこさんは、アイルランド人のご主人とイギリ
ス南部のブライトンという町に住む、元保育士で現在ライターの方。
底辺保育園で働いた経験を活かし、「子どもたちの階級闘争」「ヨー
ロッパ・コーリング(当ブログのNo.15でご紹介しました)」など、
説得力あるリポートを出し続けています。

この本は、彼女が中学生になった息子の学校生活をおもにつづった
ものですが、イギリスの底辺層に足場を置きつつ階級社会や差別の
現状をみるという、変わらぬ姿勢を持って書かれています。
題名は、そんな彼女の息子が人種差別を感じながら、「自分は東洋人、
日本人で、白人でもイングランドではないアイルランド系で、町で
も学校でもちょっと気分が重い」と言ったことばからつけられてい
ます。

イギリスでもロンドンのような大都会以外の町では、人種・宗教・
職業・所得・住所(貧困層の住む公営住宅か否か)などによる強い
差別があり、このレポートにも実態が細かに報告されていました。
が、にもかかわらず、その影響がもっとも先鋭化されるだろう公立
の中学校で、息子はたくましく成長していく。
それを見守るお母さんの筆者。
私の印象としては、宮下奈津さんよりもずっと京塚昌子さんに近い
肝っ玉母さん(わかんないかなあー)でしたね。

ところでなぜ中二病を思い出したかというと、母親が自分のことを
書いているのを知った息子が、「自分の走り書きを勝手に使うな」
「著作権料を払え」などと小うるさく詰め寄るところでした。
ま、子どもはそんなもんです。どこでも同じ。

そんな肝っ玉母さんの育て方もあっただろうけれど、この息子の中
二病克服には、やはり学校教育の好影響が大きかったようです。
入学していきなり二か月後に上演する演劇のオーディション(コミ
ュニケーション能力育成のため)があったり、ちょっと道を踏み外
した生徒と校長先生がグランドでサッカーやってたり、制服の買え
ない底辺層の生徒のために、先生を含めたボランティアチームが古
い制服の仕立て直ししたり、先生たちも保護者たちもたくましい。

すると、「今日は学校で何したの?」「女性器を見たよ」「は?」「ラ
イフ・スキルの授業で性教育やってるんで」なんていう会話もあっ
て、ドッキリもさせられます。
これはアフリカ系移民のために、彼らが夏休みに帰郷(したことに)
して中学生の娘にFGM(女性割礼)をさせないための、夏休み前
だからこそ行われた、目的のはっきりした授業であることが、おっ
母さんにもあとでわかったりする。

ここにはそんなドキッとすることもさりげなく書かれていて、この
息子がじつは体外受精で生まれたこともサラッと書かれます。
息子はそんなこと気にもかけず、つまらない中二病などに関わり合
うこと少なく、ズンズン前へ進む。

私がそんな息子の成長をいちばん感じたひとコマがありました。
期末試験に「エンパシーとは何か」という問題が出た。息子は「自
分で誰かの靴を履いてみること」と答え、良い点をもらった。これ
は英語の定型表現で、他人の立場に立ってみることを意味していた。
おお、なんと的確でいい解答じゃないですか! 息子えらい!

エンパシーは日本語で「共感、感情移入」などと訳されますが、筆
者はこう解説してくれます。
「(イギリスの学校教育では)シンパシーは、他人の感情や行為の
『理解』なのだが、エンパシーは感情や経験などを理解する『能力』
とされる」と。
エンパシーは「能力」なのだ。だから学校で生徒に教えられるし、
教えて伸ばさなければならないものなのだ。差別社会にあって、も
っとも重要な能力だ。だからとうぜんテストにも出る。
息子はそれを立派にクリアしたのでした。

成長する中学生の息子もそうだけど、こうしてみると、なんという
かイギリスとはしぶとい国だなあ。
サッチャーの新自由主義があり、第三の道があり、保守党の緊縮財
政があり、移民がカンガン増え、それにたいする不満がたまり、な
にごとにも格差が広がり、ブレグジットが起こり、メイ首相もダメ
で、特権階級の貴族の末裔みたいだけどとっちゃん坊やで悪役レス
ラーみたいな顔つき(なんとヒドイ差別発言だ!)のボリス・ジョ
ンソンが出てきちゃった。
にもかかわらず、この本を読んでイギリスはしぶといと感じる。

イギリスの多様性の伝統とリアルな階級や差別、そしてそれに対す
る下からのナマナマしい闘いは、公立学校のレベルではエンパシー
教育やシティズンシップ教育、さらにライフ・スキル教育に反映さ
れていて、それらはきっとじっくり熟成されつつ子どもたちによっ
て活かされていくに違いないと感じる。
この息子のように、差別も格差も中二病も乗り越えるに違いない。
そう思わせる何かを感じるのです。

ただ、、、でもやっぱりなあ、ボリス・ジョンソン自身が中二病っぽ
い気がするんだよなあ。あの見た目のお姿がなあ・・・。
そこんところ、どうなんでしょう?


ブログ153

 

ブックカフェデンオーナーブログ第152回 2019.08.08

「中二もおじさんも同じ」

男子なんて単純だから、だいたい中学あたりで性格が固まって、そ
れがおじさんになっても持続するという傾向があるのでしょう。
そう思いませんか?
宮下さんのだんなさんも同じかもしれないし、ブックカフェ(ここ
だって神様の遊ぶ庭です)で遊ぱせていただいている私こと、マス
ターもおなじ、そんな男子仲間です。

ただし、そのように育ったおじさん男子ならだれでも、
「わたしは、13歳でいることがあまり得意ではなかったのだ(得意
な者がいるだろうか?)」(デヴィッド・Ⅼ・ユーリン)などと、遠い
目をして言うはずです。それぐらいの、なんというか病気の自覚は
あるのです。
なので、以前登場いただいた「劣化オッサン」も、おじさんになっ
てから劣化した部分はあるでしょうけど、中二ぐらいで心ならずも
獲得し、治らなくなっちゃった性質もあるのだと思われますね、
残念ですけど。

だって、誰も聞いてないのに自分語りを始めるとか、自分の判断が
つねに正しいと言うとか、自分の行動に甘く他人に厳しいとか、そ
んなことおじさんは中学生のころからずっと同じことしてますよ。
だからおじさんは劣化して劣化オッサンになったのではなくて、そ
ういう中二の自分を、抑圧しながらも遠い目をしながら無意識的に
強化してきたわけのです。
どうですか?おじさんのあなた。イヤイヤそんなこたぁないよ、と
思うなら、

「中二病取扱説明書」(塞神雹夜/新紀元社)

を読んでみてください。
中二病とは、タレント伊集院光さんがラジオ番組で提唱したとされ
ることばで、「男子が中学二年時あたりに取りがちなイタイ行動・
思考」という意味です。
「自分を認めてもらいため、無意味にキャラづくりする」とか
「他人や社会を否定し弱い自分を保護する」という傾向をもつひと
を指すことばになっているそうです。
この本はそんな行動や思考のネタ集でした。

もう、読めばそのまま「はいはい、あるある!」となる本なので、
なんの注釈もいりません。ですので、挙げられている中二病の特徴
をちょっとだけ抜き書きするならば、
「いろいろ過去があってね・・・と自慢げに自分の過去の思い出を
 語る」(きっと「遠い目」をしてるな)
「余裕だよ」とか「楽勝」ということばを連発する(根拠のない自信)
「勉強しないことで逆に優越感を得る」(たんなる見栄ですけど)
「自分の体の中に何か邪悪なものがいる(と、まわりに公言して注目を
 あびたい)」
「手袋はオープンフィンガーグローブ」(ロケンロール!)
「血、死、闇などダークなことばを好む」(怖いものなどないさ!)
「だれも本当の俺をわかっちゃいねえ、という」(自分でもわからない
 ですけど)
「映画や音楽に対し、〇〇年代に限る。最近のはてんでダメという」
 (知識と感性を誇りたい)
「メディアから得た情報を、あたかも自分が考えていたことのように
 他人にいう」(パクッてなにが悪い)
・・・などなど(カッコ内は私の感想)。

ま、とにかくこんな調子のチェックリストになっていますから、ご自
分でいまの自分の「中二病度」を測ってみるのも一興でしょう。
あなたはどれくらい当てはまりますかね?
またお若い方は、先輩や上司や親の言動を、とりわけ飲み会なんかで
の行動をこれでチェックしてみても面白いかもしれません。
えらそーにしている彼らの(ワシらオッサンの)「中二度」がわかるは
ずです。

ちなみに私(「憂国の戦士」と呼んでほしい)は、、、残念ながらチェッ
クリストにいくつも当てはまるものががあったんだよな。
おいおい、オレを中二病ってか!この本うっぜーんだよ。

ブログ152

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第151回 2019.08.01

「移住計画にはなにが必要か」

自宅でブックカフェをやっていると、他の場所に引っ越すとか、ま
してや移住するなどという考えはもはやとうてい浮かびません。
そんなしんどいこと、だれがしますか。

ところが誰でも、仕事に疲れてとか、失恋してとか、本が重しにな
ってきてそこから自由になりたいとか、なにか気持ちがムズムズッ
と動いて北海道あたりに移住したいなあなんて思ったこと、一度や
二度はあるのではないでしょうか? 
「北の国から」の五郎さんのように純と蛍を育てたいとか、退職し
てTBSテレビ「人生の楽園」を見たらムラムラッときてとかね。

「神様たちの遊ぶ庭」(宮下奈都/光文社)

作家の宮下さんが北海道は帯広郊外、十勝岳のふもとのトムラウシ
に家族と引っ越した。
それはだんなさまの発案だったが、14歳、12歳、9歳のこどもたち
も異存なく、山村留学の形でとりあえず一年暮らすことになった。
新たな住まい近くの山の名が「カムイミンタラ」、アイヌ語で「神々
の遊ぶ庭」。ゴサインタンに似ている。いや似ていない。

ちなみに、日本(ヤマト)では古来「神遊び(カムアスビ)」とい
って、ちゃんと遊べるのは神様だけらしいですね。人間は八百万
(やおろず)の神様たちの「遊び」を真似することではじめて楽し
むことができるといわれてきました。
だから「カムイミンタラ」は神様たちが遊び、それを人間が見て楽
しむという場所なのかもしれません。
あ、しまった、アイヌの考え方とヤマトの考え方は違っていたかも
しれません、すいませんでした。

それはともかく、子どもたちが通うことになる小中学校は併置校で、
小中学生の生徒があわせて10名。そこで留学生を受け入れている。
へき地や離島への山村留学はいま流行っていて、都会から多くの子
どもたちが留学しているようですね。
カムイミンタラという大自然に家族で移り住んだ宮下さんご家族は、
結果的には一年しかいなかったけれど、その一年の子どもたちの濃
ゆい生活が綴られた日記エッセイがこれでした。

さてこのカムイミンタラは、エゾシカやキタキツネやエゾリス、そ
れに熊(出そうで出ませんが)とか、自然に囲まれ「庭」ですから、
小説家としては身の回りで起きることを観察して書くことには事欠
かなかったでしょう。
しかしこの本では、そうした自然の営みや小説家的感興よりもむし
ろ、ひとの暮らしぶりが主人公になっていました。

とりわけ子どもたちが通う学校の授業や活動、そして町の行事。
学校では学年をまたいで授業があるので、あまりコセコセしない。
詰め込まない。文字どおりの「ゆとり教育」。
課外授業は、夏はトムラウシ登山(過去に遭難事故があったりして
結構ハードなコース)、冬はスキーにスケート(校庭に水を撒いて
凍らせる)、部活はバトミントン(少人数で、室内でできるから)、
そして季節ごとの町のイベントやお祭り、仮装大会などでは、校長
先生から町の人たちから親たちまでみんなで協力しておこなう。

ということで、そこはまるで大人も子どもも共に学ぶコミュニティ
スクールだった、いや、たぶんそれが神様の遊ぶ庭で人間も楽しま
せてもらうということだった。
こんな話を読まされたら、とくに子どもさんのいるご家庭なんかた
まらんでしょうな。(ラップ調で)ウチらも行きたい行かせたい、
いちどは山村留学してみたい、ついでに仕事もやめちゃいたい、、、
なんて声が出るでしょうな。
ウンウン、わかる、その気持ち。

ところで、多くのエピソードのなかで私がいちばん気に入ったのが、
宮下さんの12歳になる次男の話でした。
母親がこの一年の話を月刊誌で連載すると聞いた次男、自分のこと
はあまり書かないでくれといい、書く場合も名前は仮名にしてほし
いと母親に頼みます。
自分で選んだその仮名は、「漆黒の翼」。のち「英国紳士」に変更。
しかし彼は、学校では「ボギー」と呼ばれていることがのちに判明
する。名前にはそれぞれ理由があるらしいのだけれど、よくわから
ない。

こういう、自意識過剰でちょっと生意気な、自分でもどうしたいの
かわからない、なんというか中学二年生あたりの特有の状態って、
みなさんも自分や子どもを省みて思いあたることありませんか?
そしてそんな次男をグッと受けとめるお母さん、はい、大雪山のよ
うに強くたくましいお母さん、好感をもって読めました。

さてでも、結局最後までよくわからなかったのが宮下さんのだんな
さんのことでした。
このエッセイにだんなさんはあまり登場してきません。引っ越した
いと言いだした張本人なのに、エピソードもほとんどありません。
どんな仕事しているのか、なぜ北海道に移住したかったのか、移住
先でなにをしたのか、わかりません。書かれません。仮名もなし。

そうじて彼は、そのときそのときの思いつきで動いているような印
象があります。
だから私思うにたぶん、このだんなさんこそが、中二くらいの心の
持ち主だったんじゃないかな。ちょうど次男さんと同じくらいの。

いや、知らない方に対してたいへん失礼な言いようで申し訳ありま
せんが、でもそんなだんなさんだったからこそこの家族は彼につい
ていって、神様たちの遊ぶ庭で楽しむことができたんじゃないかな。
そう思いたいです。
ということで、家族で移住するような新しい経験のためには、一家
に二人くらいは中二の男子がいたほうがいいみたいです。

ブログ151

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第150回 2019.07.25


「描かれた世界をそのまま信じるわけではないが」

探偵小説を読む私たちは、探偵さんによって再構築された「犯人の
目に映った世界」を味わうことになります。
どういうことかというと、探偵さんによって犯人が崖の上で名指し
され、その犯行の謎が解かれる。すると私たちにも彼を取り巻く人
間関係や社会的課題が理解できるようになり、あー犯人はこういう
世界に自分が住んでいると思っていたのだ、とわかるはずなのです。

そして読者はそれに満足して、いままでの自分の世界に安心して帰
ることができる。
これがほんとうの「一件落着!」ということになります。
ところが、そううまくチャンチャンとはいかないこともあります。

カフェの本棚からオーナーの住んでいる世界を理解するくらいなら
ともかく、「探偵さんによって明らかにされたその世界」が複雑で、
もしかすると犯人がわかっても、彼が住むのがいっそう複雑な世界
だったりすると、私たちは困ってしまうのです。

その世界は、われわれのなじみのない世界で、そこでは多様なひと
の怒りが多様に渦を巻いている。
犯人の犯行理由はからみあっていて、犯人は自分の犯行を後悔せず
悔悛せず償いもしていないようだ。
すると私たちは、あれっ、スッキリ解決したはずなんだけど、なん
だか便秘がつづいているみたいだ。どーしたんだ、この気持ちは?
五差路の交差点の真ん中にポツンと取り残されたかのような不安を
感じることになるのです。

つまり、犯罪としては解決されて犯人もあきらかになったけれど、
それを引き起こしたもともとの現実世界が、私たちの想像を絶する
わかりにくさだったということがわかることになる。
これが、じつはすぐれた探偵小説の深さ、そして小説に映しとられ
た現実社会の苛烈さということかもしれません。

「頭蓋骨のマントラ」(エリオット・パティスン/ハヤカワ文庫)

これはチベットを舞台にした20年前に出された探偵小説です。
チベットの奥地ラドゥン州の強制労働収容所でくらす中国人の元監
察官(犯罪を摘発する探偵さん)が、囚人の身分のまま、そこで起
こった殺人事件を解きほぐしていく。
彼は政府の大物がからんだ汚職事件を追求したことから、中央(北
京)を追われて収容所で強制労働をさせられているのだった。これ、
中国でいまでもよく聞く話ですから、舞台設定としてリアルです。

強制労働につく主人公の探偵さんの精神力は鋼のように強いもので、
それはたとえばこんなことばに現われます。
「以前、ある僧侶と知り合いでした。(中略)正義を追求するか、
役人の要求通りにことを運ぶかのジレンマに陥ったとき、その僧侶
はなんといったと思います? われわれの人生は、真実を知るため
の実験に使われる道具なのだと」。
・・・強く、気高いことばですね。ハードボイルドだなあ。テレビ
ドラマ「相棒」の警部、杉下右京さんが言いそうなことばでもある。
じっさいの元ネタはダライ・ラマですが。

それはともかく、収容所では探偵さんだけが漢人、まわりの囚人は
みなチベット人、彼は父親から老荘思想を教わったが、いまはチベ
ット僧へのリスペクトを深めているという設定で話が進みます。
ここで起こった殺人事件は、チベット伝説の魔神タムディンの仕業
とされるが、チベットを支配する中国の官僚組織や、アメリカの鉱
山開発企業とその研究者や、中国軍の破壊から守られ隠されたチベ
ット仏教の寺や、主人公を監督する軍人やチベットの若者などが入
り乱れて、もうそれこそ複雑怪奇な現実を構成しつつどこでなにが
起こっても不思議ではない状況がある。

ということになると、ほら、どの時点でどのように探偵さんが切り
取っても、つまりどのように解決にいたっても、私たちに残される
世界はいぜんとして複雑で矛盾だらけなままだろうとも予想される
わけです。

なんせチベットですから。
チベット情勢はこの小説の書かれた20年後のいまも変わっていない。
というか、中国支配が一段と進んでいます。何十万人の漢人が移住
し、チベットの首都ラサは漢人の住む中国の街になってしまった。
登場人物のひとりが言います。
「チベットにいると自分の中のなにかが変わってしまうのよ。ここ
ではすべてが生々しい。」

漢人の主人公も述懐して、
「彼ら(チベットの高僧たち)はあまりにも偉大で、自分はあまり
にも卑小だ。彼らはあまりにも美しく、自分はあまりに醜い。彼ら
は完全にチベットに根ざしていて、自分は完全に根無し草だ。」

ところがそんな彼も、チベットの高僧(リンポチェ)にこうたしな
められる。
「友よ、あなたはまだ望みに身を焦がしている。そのために自分は
世界を敵に立ち向かえるという誤った考えをいだいてしまうことに
なる。そのためにもっと大事なことから目をそらされてしまう。そ
して世界は犠牲者と悪漢と英雄で成り立っていると思い込んでしま
うのだ。」
単純に白黒つけてわかりやすく解決、なんてことはないのだよ、と。

そんなチベットの、政治と宗教と人種と価値観がぶつかり合う最前
線では、ものごとは単純には進まず、時間もまっすぐには進まない。
「人の生は一直線に、暦をたどって毎日同じだけ進んでいくのでは
ない。そうではなく、ある瞬間から別の瞬間へと、魂を揺り動かす
ような重大な決断をするたびに飛躍していくのだ。」

引用が多くなってすみません。
どうも私は、これらのことばに惹かれるのですが、いずれもふつう
の探偵小説ではなかなか出会えないおことばだとも思います。
ここにも、チベットという複雑な世界で起きる事件を解決しようと
する探偵さんの、解決してからなおもつづく苦悩がある。
そして、小説で描かれた舞台をそのまま信じるわけではないが、あ
る面、すでにその背景を信じつつ読んでいて、さらに主人公の探偵
さんとチベットの将来についていっしょに考え込んでしまう読者の
苦悩もある。

 

ブログ150

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第149回 2019.07.18

「イヤーな味わいだけど手ばなせない小説」

アメリカ大統領はあいかわらずお元気のようですが、それはそれと
して。
同じアメリカの同じような田舎の話でも、これだけ味が違うのかと
思わされる小説が、

「フラナリー・オコナー全短編(上・下)」(筑摩書房) でした。

舞台はアメリカ南部ジョージア州。時代は1950~60年ころ。
この地方は、南北戦争を背景にした「風と共に去りぬ」で描かれた
通り、綿花を育てるに適した豊かな黒い土があり、1800年代のはじ
めから何百万人もの奴隷を使って大規模なプランテーションが経営
されてきた土地柄です。

そんなことでこの地域は、黒人奴隷の肌の色と土壌の色から「ブラ
ックベルト」と呼ばれるようになったのでした。
もちろんいまでもそこにはアフリカ系の住民が多く住んでいるので、
2008年の大統領選挙ではバラク・オバマ支持者の層がこのブラック
ベルトに沿っていたといわれています。ラストベルトよりだんぜん
歴史の厚みがある土地柄です。

さて、こんなジョージアで生まれ育った作者は、どうやらこうした
南部の、南北戦争や奴隷解放からつづく南部人のやや屈折した生活
感情を背負ってしまった方のようです。
それは、どの作品にも人種差別や移民排斥などの偏見に満ちた負の
遺産のカゲが濃いことがあるからわかります。アメリカのロードム
ービーでもよくお目にかかりますけれど、差別や偏見に満ちた南部
社会とそこに暮らすたまらなく保守的な人たちが登場します。
牧場や農園の退屈な暮らしにあきあきしているのに、そこから出ら
れないで他人を排除しようとする人たちばかりなんです。

たとえばある女性の農園主は、ポーランドからナチスドイツを逃れ
てやってきた移民を受け入れるのだけれど、彼らに対して、
「あの人たちがくぐってきたことを思えば、手に入るものはなんで
もありがたいんですよ。ああいう所から逃げてきた、こういう所へ
来られる幸せを思えばね」、などと、まったくの上から目線で言って
ます。
まるでビビアン・リーが言いそうなせりふではありませんか。

あるいはまたべつの白人女性の農園主の、息子へのこんな表現が、
読む側の気持ちをガックリ萎えさせたりもします。
「奴隷のように身を粉して、汗水たらして働いてここを持ちこたえ
てきたのに。私が死ぬのを待って、くだらない女と結婚してこの農
園に入れて、なにもかもだめにするってわけね。」
あーあ、このお母さんも言っちゃうんだ、呪いのことばを。

主人公たちは、南部だからこその自分の生い立ちや家族の歴史など
に強いプライドをもついっぽう、しかし「自分が、じつはなにもの
でもなかった」「ふつうの人間だった」という残念な現実に気づき、
自分でもびっくりして他人を傷つけたり、それによって自分をさら
に傷つけたりしていくのです。

だから、どの話の結末もハッピーエンドになりません。
うひゃ、このひとたちは、どうなっちゃうんだろう? とか、あれ
ー、この流れだと結末はたぶんヤバイだろう! とか思っているう
ちに、案の定、登場人物は死んじゃったり殺されちゃったりする。

すると訳者が書くように、
「主人公たちは、自分のつごうで、誰かがじゃまだと思う。その人
にいなくなってほしい。その思いを推し進めた結果が殺人になる。
他を排除しようとした者は、その行為が実行された時点で、自分の
おぞましい実像を突きつけられる」。

私たちはそこに、南部の生活の転倒した苦さをジワッと味わうこと
になります。
登場人物はみんな「ふつうのひと」なのにもかかわらず、ある意味
とても不器用でグロテスクで残念なひとたちなのです。
これがじつに「ワインズバーグ オハイオ」と正反対でして、ふつ
うに描かれている人たちなのだけどグロテスクで残念、グロテスク
で残念と描かれている人たちだけれどふつう。

ああイヤだイヤだ。悲しい。つらい。こころが温まらない。
ほのぼのとしない。全米も泣かない。ハックルベリーやトム・ソー
ヤーが恋しい。なんだったらO・ヘンリーでもいい。
でも、しかし、であるにもかかわらず、ここにもアメリカの、今に
続く「ふつう」が見えることは確かです。

ブログ149

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第148回 2019.07.11

「若いときに読んでも役に立たなかったね(たぶん)」

ということで、じつはここに、誘惑の実践を路上でのナンパという
かたちで「裸で、丸腰で」おこない、ナンパ相手の女性だけでなく
世界ともガチで対決しようとした勇敢な男子のナマナマしい記録が
ありまして、それこそ、

「声をかける」(高石宏輔/晶文社) でした。

ご紹介する前に、この本はR18だと思いますので、そのおつもりで
お読みください。
というのも、フィクションなのかノンフィクションなのかわからな
いけれど、ディテールからなにからとてもリアルなこの本は、いっ
てみればナンパの現場中継みたいな迫力で読むものを圧倒し、感覚
を刺激するからです。

これまた、私の若い時代にこの本を読んでいたらどうだったろう、
と思わず考え込んでしまう、そんな力強い細部の状況描写と相手と
自分の心理状態の分析、そしてそこから導き出される説得力ある考
察が、説得力バツグンなのです。

まずはその筆力に脱帽でした。
たんなるストリートファイターでも、風俗系ルポライターでもない
な、この作者。ただものじゃありません。いってみれば「四畳半襖
の下張り」のような、名の知られた大文豪の隠れた仕事みたいな感
じなんです。
(あとで筆者はカウンセラーだということがわかりました。でもそ
れまでに、いろいろな経験を積んだのでしょうね)

では、どこでもいいけど、ぱっと開いたページから、その情景描写、
心理分析、そして彼の感情や情動のあらわれを引いてみましょうか。
すると、こんなことばが聴こえる。
「話しかける相手に何らかの関心を持てなければ、声をかけること
はできない。気持ちを落ち着かせた。なにも考えず、期待をしない。
そうなるために、目に映っている人々の歩みを、どこに焦点を合わ
せることもなく感じていた。」

また、
「一対の脚の動きに注意が向いた。それは柔らかく、地面に吸い付
くように下りていき、それからまたすっと地面から引き離された。」
あるいは、
「ぼくにはすべての人間が寂しさからどうにか逃れようとしている
ように見える。人々の個々の動きは、寂しさが導き出すバリエーシ
ョンに過ぎないように感じられていた。」

私は、ナンパ師/誘惑者がひとを観察している視線を、こんな角度
から覗くことになろうとは思いもよりませんでした。
とくに「なにも考えず、期待をしない」ということばです、
へえーっ、ということは、このひとはすでに「裸で、丸腰で、相手
と対決」しているじゃないか! 達人佐伯氏のいうことを実践して
いるではないか! ってことは、このひとはすごく正直でオープン
なひとなのではないだろうか、大文豪のくせに(だから違うって!)。
それゆえに、路上ではじめて見る他人をこのように観察し、さらに
振り返って観察している自分を観察して的確に表現することができ
るのだ。

ただし、たぶん彼はその時点で、観察に応じて動く自分のこころを
のぞき込むことに夢中になり、そこからなにかを見つけたいという
強い欲望から離れられなくなってしまったのではないか。
私はそんな疑問にかられます。

というのも彼は内面でこんな作業をしながら、しかし自分でも理解
できない焦燥感にせきたてられるように、日々路上で、クラブで、
ナンパを繰り返し、結果がうまくいってもいかなくてもナンパを繰
り返すのですから。
ナンパした女の子に「そういうのやめられればいいね」と言われな
がらも、さらにナンパを繰り返すのです。

私たち読者は最後まで読んでも、なぜ彼がいつまでもナンパを繰り
返すのか、なぜ自分のこころをのぞき込み続けるのか、その理由が
わからない。そんなに「世界と対峙」したいか?
もしかして彼はナンパという行為に「居付き」、そこから逃れられ
なくなっているのではないか。ほかのやり方ができなくなっている
のではないか。

彼の望みは、まったく見ず知らずの他人となにかしらの会話をし、
自分とのあいだの距離を測り、その距離を縮めて向こうの身体まで
たどりつき、さらにその奥にあるはずの心を見たい、そしてそれに
よって自分を知りたいのだ。

でもその望みは叶わない。
物理学でいう不確定性原理みたいなもので、相手も自分も、測ろう
知ろうとすれば変化してしまい、そのうち掌の氷が溶けるようにス
ルリと手から漏れてしまう。
ほんらいそれが「裸の」人間というものなのでしょう?
どうでしょう?

彼も、それを知ってか知らずか、こんなふうに述べています。
「他人の体は神聖であるのに、どうしてこうも簡単に触れること、
触れさせることができてしまうのだろうか。そして、触れてしまう
と、ついさっきまでの緊張感は途端に失われてしまう。」
バカだなあ、そんなこと最初っからわかるだろうが。

こうして私たちには、彼はやはり「世界と抱き合う」ことができず
に対峙してしまうひと、もしくは救いをもとめて得られないでいる
探究者/求道者のように見えてくるのです。
彼は、自分はなぜナンパするのかとか、最終的になにを求めている
のかとか、どうなったらやめられるのかといった問いには、たぶん
本気で答えを出そうとはしていないのかもしれません。
人間は他人をとおしてのみ自己を認識できるということばどおり、
彼はこうして、ナンパで出会う人を通しての自分探しをいつまでも
やめられなくなっているのです。

私たち読者は、この本のリアルさは作者(主人公)の切実な探究心
のたまものだということを理解すればするほど、その真摯さとは彼
が「裸」になっていることによるものだと納得すればするほど、で
もそれはどうあっても彼個人の問題ではないかという疑問にさらさ
れ続けることになります。
そんなこともあり、私は、これは自分が若いときに素通りした本だ
ろうけど、いまでは自分に関係しないという意味で少し理解できる
なとも思ったのでした。屈折した言い方ですいません。

ブログ148

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第147回 2019.07.04

「若いときに読みたかった・・・けどね」

カフェのようにお客さま相手の仕事をしていると、もし自分のコミ
ュニケーション能力がもっと高かったら、そしてそれを有効に客寄
せとか営業に使えたら、どんなにか繁盛店になることだろう、など
と妄想するときがあります。

ひどい妄想ですね。
でも、なんとなくわかっていただけるでしょうか? 
もうちょっと他人とうまくしゃべれたり、そのおかげで世渡りがう
まかったり、口説きとか誘惑とに優れていたら、いまごろどんな人
生だったろうってウットリ考えるようなもので、いい大人としてど
うなんだという話ですけど。

そんな、ココロがちょっと後ろ向きになっていたとき、おもしろい
本があるものだなあ、と感心させられながら読んだのが、

「誘惑論・実践編」(大浦康介/晃洋書房) でした。

この本は、学者さんである筆者が「ナンパの達人」佐伯孝三という
架空の人物との対談の形をとって進めるフィクションなのですが、
この佐伯氏というのがナンパ理論をきわめていて、「誘惑に関して長
いあいだ後進の指導にあたってきた人」という設定になっています。
ただのナンパ師ではないのだゾ、理論家で指導者で達人なんだゾ、
というわけです。
いいですね、「誘惑とナンパにおける後進の指導」って。
もちろん私も速攻で弟子になりたいと思ってしまいます。

ただ読んでいくうちに、誘惑とは口説きのテクニックのことだけで
はなく、その道の有段者になるためには心身ともにたいへんな修行
が必要らしいことがわかってきます。
そう、これは誘惑の実践を踏まえた、コミュニケーションと人間性
の本質に迫るまじめな研究なのでした。だからナンパについても、
コミュニケーション論としてきちんと成立しているわけです。

まず理論面で参照されるテキストがすごいんです。
スタンダール「赤と黒」やジッド「狭き門」、それからマルグリット
・デュラスといった文学系、キルケゴールの「誘惑者の日記」にバ
タイユの「有罪者」といった哲学系、さらにはフロイトやミルトン
・エリクソンの心理学、ジンメルやボードリヤールなどの社会学、
そしてもちろんドン・ジュアン(ドン・ファン)やカサノヴァなど
の実戦系に、、、、ああ疲れた。
まだまだありますけれど、いずれも人類の叡智の詰まった古典中の
古典ばかりでした。

達人佐伯氏は、これら人類の叡智について豊富な知識をもち、なお
かつそれらを自由自在につなぎ合わせ、独自の理論に仕立てて、そ
れを惜しみなく後進に伝えようとするのです。

いっぽう、とはいえ誘惑の技術面についても、筆者はスポーツや剣
豪の例をあげて、その間合いの取り方とか人間心理にもとづく出会
いと探り合いの結構を解説していきます。
それも、正攻法からはじまって、「じらし戦術」「幻惑戦術」「落差
戦術」など、ナンパですぐ応用できそうな必殺・裏技テクニックも
紹介されていますから、すぐ使える技術を学んでその道の達人にな
りたい!と思っている人にもじつはお勧めでした。
私も若い頃に弟子になっていればなあ・・・ブツブツブツ。

こうして達人佐伯氏とインタビュアー大浦先生との対話は、ナンパ
や口説きや誘惑からはじまってズンズンと深いところに入っていき、
よりスリリングなものになっていきます。
そこで名言も登場しますね。
たとえば、達人佐伯氏いわく、「口説き文句を用意するな」。
これはどういうことか? 誘惑を志す君たちはかっこいいセリフを
覚えてその台本どおり相手にアタックするのではなく、君そのもの
として裸で、丸腰で、相手と対決しろというのです。
そして、「肩の力を抜いて、世界を抱擁するような気持で、真正面
から『驚くこころ』をもって、世界と向き合ってほしい」と。

誘惑とは誘惑相手をとおして世界と向き合う作法なのだ。
誘惑者である君は、つねに新鮮な気持ちで相手に向き合わなければ
ならないし、それは人間として裸一貫になって自分のすべてを相手
にさらけ出すことだし、それこそが世界に相対することに他ならな
いのだ。オープンに、マインドフルに。すると君は世界というもの
を新鮮に受けとめて驚くことができる。
これが誘惑というものの本質だ。
こうおっしゃっているのです。達人、あなたのことばは深いです。

ところで著者には、「体面的 ~見つめ合いの人間学」(筑摩書房)
という著書もあって、そこでは人と真正面から向き合うことや見つ
め合うことの難しさ、怖さ、そしてその必要性までを分析していま
す。
「見つめ合う二人のあいだに生じる不可思議な磁場は、人間社会に
特有の<抑制>と<作法>が試される場であると同時に、動物的交
感の入り口である」というように、こちらは学術的に難しく表現さ
れていましたけど、顔やまなざしをコミュニケーションの「裸(人
間vs.人間の)の部分として捉えるところは同じでした。

いやー、いずれにしろこりゃあ、私のように、とりわけ異性関係に
不遇で未熟で悩み多かった若いときに読んでも、たどりつけない境
地だったかもしれませんね。
実践的に、いや路上の実戦で参考にできることなどなかったかもし
れません。誘惑とかナンパとは、こんなにも深遠な思想に裏づけら
れるものとは夢にも思いませんでした。

ただ、いまカフェのオーナーとしての私も、技術に走るのではなく、
なるべく「丸腰」で「裸」で「新鮮な気持ち」で「オープンに」お
客さまと、そしてお客さまをとおして世界と向き合おう。営業に役
立てようなどというよこしまな考えは捨てよう。
この本を読んでそう固く決意した午後でした。

ブログ147

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第146回 2019.06.29

「あらためて山岸俊男先生をしのぶ」

昨年(2018年)、社会心理学者の山岸俊男先生が亡くなられました。
私は、直接ご面識があったわけではないけれど、なにかいままで
とてもお世話になったような気がして、あらためてご冥福を祈りた
いと思います。

先生のご専門は、社会を構成する人と人の間の関係性の問題でした。
それをさまざまな実験の成果をもとに、社会学的かつ心理学的に考
察していくという、えーと、つまり、なんというか、社会集団の心
理の解明とでもいいましょうか、そんなご研究でした。
私には、どっちにしろこうした研究書の紹介などうまくできるわけ
ありませんから、手元にある本の題名だけ挙げてみます。

「信頼の構造 ~こころと社会の進化ゲーム」(東京大学出版会)
「社会心理学キーワード」(有斐閣)
「心でっかちな日本人 ~集団主義文化という幻想」(日本経済新聞社)
「社会的ジレンマのしくみ ~自分一人ぐらいの心理の招くもの
  (サイエンス社)
「日本の『安心』はなぜ、消えたのか ~社会心理学から見た現代
  日本の問題点」(集英社インターナショナル)
「『しがらみ』を科学する ~高校生からの社会心理学入門」
  (ちくまプリマー新書)

こうやって書名を並べてみるだけでも、集団・心理・信頼・安心・
しがらみ、、、と、先生の研究テーマが見えてきますでしょう。
私がお世話になったというのは、集団がどんな理屈でどんな回路で
動くかということについて大きなヒントをいただいたこと、とりわ
け人間社会が人と人との信頼関係によってできあがっていると教え
ていただいたことでした。
ジレンマ、ヒューリスティックス、リスキー・シフト、グループダ
イナミクスなんていうカタカナことばにも慣れました(慣れさせら
れました)。

先生の著作がきっかけで、社会心理学にも興味をいだくようになっ
たこともあります。
なかでも、社会関係資本(人と人のつながりをその人の「資本」と
考えて、それが増えると個人としての収入や地位や影響力が増し、
また地域やコミュニティとしても活動がうまく回るという考え方)
に目を開かせていただきました。(それに関する本は、またあらた
めてご紹介する機会があると思います)

ほう、すると君は、先生からのそれらのご教示を、実際に仕事や生
活でどう活かしたのかね? なんて尋ねないでくださいね。
先生の著作によって私の人間関係が良くなり、社会関係資本が増え、
結果、私のなかで力強く活かされている。はずです。そう思います。
思いたいです。そうでなければなりません。
カフェの経営だってもちろん、信頼・安心・しがらみなどによって
左右されるのですしね。

それとは別に特筆すべきは、私は先生の著作に促されて「社会関係
資本とファシリテーション」という大論文をものしたことがあった
のでした。
それは、会社でデスク仕事をするフリをしながらひそかに内職して
書いたものだったことを告白しなければなりません。すいません。

というのも、じつはその当時、日本ファシリテーション協会という
NPO法人の立ち上げに参加したあとで、その理念と活動の普及に
先生の研究を役立てたいと思ったからなのです。
ファシリテーションと社会関係資本とは切っても切れない関係にあ
るってことを世間様に知らしめ、もってファシリテーション理論の
確立と確かなる実践をめざそうと。それができたらなんとカッコイ
イことだろうと。そう考えていたのでした。

そのもくろみはしかし、私の論文がほとんどだれの目にも触れずに
終わったことによって頓挫しました。残念!
さらに、そんな隠密活動・内職生活のせいで、職場の周囲からは白
い眼でみられ、社内の人間関係もややこしくなって、私の社内関係
資本はガックリと弱まったのでした。
つまり私は、先生のお仕事を社内的に活かすことができずに終わり
ました。先生、ごめんなさい、私は不肖の読者でした。
けっきょく人間関係とか集団心理とかは、、、んんん、めんどくさい!

 

ブログ146

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第145回 2019.06.20

「いまさらながら鶴見俊輔さんを悼む」

私の手元には、自分の気に入った古今の賢人たちのおことばを集め
たノートがあります。
「賢人のおことばノート」というのですが、たまにそれを引っ張り
出して、お客さまのとだえたカフェの営業中に読み返したりするの
も楽しいものです。

こうした抜き書きって、とりわけ思春期などにだれもがすること
でしょうが、その時そのときの気分とか抱えている問題などによっ
て、自分のアンテナにひっかかってくるものが違うのが後になって
わかる。だからおとなになっても楽しめるというものです。
まるで、おいしいと感じる料理がそのつど変わっていくように。

そんな賢人のなかでも、いにしえの方ではなく現代人で、ああ、で
ももうこのひとのナマのお声は聴けないのだな、この方の作った料
理は食べられないのだな、と寂しくなる方がいて、その方のことば
にはよけいに愛着がわいてメモしてしまうということがあります。

「思想をつむぐ人たち」(鶴見俊輔/河出文庫)

鶴見さんは日本の思想家のなかでも特異な場所に立っている方かも
しれません。
戦前にアメリカにわたって哲学を勉強し、太平洋戦争勃発によって
帰国。そのとき米国移民局に、「自分は無政府主義者だから、どち
らの国家も支持しない」といって相手にあきれられたとか。
戦後は「思想の科学」という雑誌の編集人をし、小田実らとベ平連
(ベトナムに平和を!市民連合)の活動にかかわり、2015年に93
歳で亡くなるまで、マンガや大衆芸能から政治思想にいたるまで、
無政府主義者らしい(?)自由で柔軟な考えを発信していました。

特異な場所に立っているというのは、彼はアメリカでプラグマティ
ズムの影響を受けたらしいけど、〇〇主義とか〇〇哲学の学者さん
というわけではないことです。
また派閥とか仲良しグループを作ったりせずに、いってみれば身ひ
とつでいる。そんな自分を「悪人」と定義して、国家とか戦争とか
大きなものにたいしても、おそれることなく向かっていた実践家で
あり、だからこそ歯に衣を着せぬ物言いをしたおひとだった。
だから私は、彼もまたフール・オン・ザ・ヒルのひとりではないか
と思っています。

そんな方ですから、どの本、どの発言からでも独特な、他とは違う
視点のインパクトある「おことば」はたくさん獲れるわけです。
ちょっとだけパラパラッとページをめくると、そこには、
「哲学とは、当事者として考える、その考え方のスタイルを自分で
判定するものだ。」
なんておことばが飛び出してくる。

また、難民キャンプでコレラで死んでいく子供に人工呼吸をほどこ
す女性のことばを紹介して、
「死を救うことはできませんが、死の状態を救済することはできる
のです。つまり、だれかの上にやってきた死が、意味を会得する手
助けをすることはできます」。

あるいは、イラストレーターの南伸坊さんを評して、
「この人は、テレビに出ている時にさえ、日常の信念を生きている
という印象を与える。その印象のもとは何かというと、彼のオムス
ビ型の顔にあるように思える。顔の形が、思想のあり方を表現する
例・・・」

足尾銅山の田中庄造について、
「形としては彼のしたことで成功したものはないと言ってよい。だ
が、最初の難破が次の難破へとしっかり接続している。」

そんなこんなで、今日もたくさんのおことばを、「獲ったどーっ!」
ということになります。
でもキリがないので、このへんでやめておきましょう。なんか「天
声人語」の、亡くなった方を悼む篇を書く材料を集めているような
気がしてきましたし(笑)。
でも、みなさんも、こういうことばだったら、ずっと読んでいたい、
聴いていたいと思いませんか?

 

ブログ145

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第144回 2019.06.13

「カフェに並べられない天才マチァアキを、どうしても悼む」

ブックカフェの本棚にはなかなか出せない本、というのがあります。
たとえば大藪春彦先生の本、またたとえば団鬼六先生の本などなど。
なかなかねえ、ちょっと恥ずかしいしねえ、探偵さんに見られたら
ねえ、どうしようかと思っちゃいます。
そのうちのひとつが、平岡正明さんの本。

平岡正明(マチャアキ)、1941年生まれ、2009年に68歳で逝去。
早稲田大学一年の時に共産主義者同盟(いわゆるブント)に入り、
60年安保に参加。その後、ジャズ、革命、犯罪、映画、歌謡曲、極
真空手、それから落語や新内や浪曲などの大衆芸能ほか、幅広い
ジャンルでの評論活動をし、しかしながら、その底につねに革命を
追い求める姿勢を崩さなかった人。

私が彼を天才だと思うゆえんは、彼の文章です。
いきあたりばったりでハチャメチャに流されているようで、しかし
論理的かつ感情的であり(このふたつが矛盾しない)、たゆたうよう
な長い旋律で奏でられ、そのうちに、おお、ここに連れていかれる
のかと気づく、ドライブのかかった、まるでジャズの長いソロアド
リブを聴くようなものだからです。
読むうちに、どうしてもそのパワーに身を委ねてしまう。

それは彼が、文章だけで暮らしていた「評論家」とは違って、じっ
さいに活動(意味、わかりますね)をしながら、つど、対象にぶち
あたりながら書かれてきたということも大きいのでしょう。
つまり、現場の身体的な動きと文章が連動している稀有な評論とで
もいいましょうか。

だから彼の本は、その内容にしろ文章にしろ、だれでも気軽につま
み食いで読めるようなものでもありません。とんでもない発想がと
んでもない結論につながり、ときには論敵をケチョンケチョンにや
っつけ、ときに誤読誤爆自爆し、それらがなぜかジャンルを超えた
地平にたどり着く。
だから、ヒマなときにちょっと味見しようかな、などと思うとやけ
どをしてしまうのです。

たとえば、著書の題名だけ並べてみてもすごいですよ。
「ジャズ宣言」「永久男根16」「韃靼人ふうのきんたまのにぎり方」
「あらゆる犯罪は革命的である」「海を見ていた座頭市」「官能武装
論」「若松プロ、夜の三銃士」エトセトラエトセトラ。
ね、差別発言で申し訳ないけど、おんな子どもの読めそうなタイト
ルじゃありませんでしょ。
私なんて、これらの本を書店で注文するとき(まだアマゾンがない
時代)苦労しましたもの。とくに「韃靼人ふうの・・・」。

なんせ革命的で過激でアナーキーで、なおかつ下半身関係もないが
しろにしない「活動」の軌跡がこれらの本となって結晶したのです
からね。
ということで私のなかでは、天才マチャアキの本は、「女こども」を
含めていろいろなお客さまの来られるカフェの本棚に置くには適さ
ない、という判断にいたっておりますです。

ところで、彼の残した有名なことばには、たとえば「ジャズはジャ
ズ喫茶で聴くものだ」というのがありますが、それには、おなじく
一世を風靡した「山口百恵は菩薩である」ということば同様に、い
くつもの象徴的で実践的な意味が込められていますから(!)、いわ
ゆる賢人のおことばとか「私の人生を変えた一句」とかにはなりえ
ません。
つまり、「賢人のおことばノート」をつけていたとしても、それには
「獲れない」のです。

しょうがないんです。そういうおひとであり、そういう本なのです。
だから読む側は、ただただ、天才の天才ならではの表現とあきらめ
て、ちょっと熱い温泉に浸かるようにその文章のリズムに身を任せ
るのが正しい読み方ということになります。
それができるかできないか。
いってみれば、ジャズ喫茶の入り口ですき間からほのかに流れてく
る音を聴いて、思わず入ってしまうか、あるいは背をむけて別の店
に行くか。

さらに思い出します。
じつに私は、高校生のときに学校の近くの左翼系書店でマチャアキ
本に出会って(その奏でる音を聴いてしまって)、この奏者は天才
だと感じ(「なんという野太い音だ!」と思って)、買ってジャズ喫
茶に入って読み通し、そのときから50年、彼のすべての本を買って
読んできましたから(エヘン、って威張れることでもないですが)、
総数なんと110冊(金額にして30万円くらい?)にもなります。

そういえば彼の著作は、ひどいときには初版2000部というときもあ
ったようですから、すべての著作を読むようなコアな読者は2000人
と考えていいのでしょう。
私はそのなかの一人として、あまり自慢にならない誇りを感じつつ、
もはや彼の新著は読めないんだと自分に言い聞かせつつ、自分の心
の一部とともに、カフェの本棚に出せない彼の本を書庫に眠らせて
いる、というしだいです。
と、こう書いてきて、どんどん悲しくなってきました(泣)。

ところが、そんな私の太平の眠りを覚ます本が出てしまいました。
「平岡正明論」(大谷能生(よしお)/Pヴァイン)
いやいや、この本のご紹介はいたしません。
やめてよー、寝ていた子どもを起こすようなことは(泣笑)。

ブログ144

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第143回 2019.06.06

「『見る』から『やる』へ」

当カフェでは毎月サロンコンサートを行っていますが、このところ
お正月にお招きしているのが、ヴァイオリンの早川きょーじゅさん。
もちろんヴァイオリンのコンサートなのですが、「おしゃべりヴァイ
オリン」というキャッチフレーズのとおり、救急車やF1の音模写
だったり各国語のあいさつをマネたりして笑いをとる、まことお正月
にピッタリのおめでたい音芸を披露されます。
だから「きょーじゅ」という芸名も、ひらがななわけ。

そんなことを想い出していたら、この本を紹介したくなりました。

「ものがたり 芸能と社会」(小沢昭一/白水社)

歌は世につれ世は歌につれ、のことばどおり、「芸能と社会は連動し
てます」というのがこの小沢さんの本、というか口演のまとめです。
「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を思い出すような語り口でつづら
れていきます。

え?「小沢昭一の小沢昭一的こころ」、知りません?
TBSラジオで昭和48年から40年間、一万回以上放送されていた、
伝説のあの番組を?
山本直純作曲の「おーとーこ四十代はのぼりざかー、花咲くとーき
も、もおーまーぢーかー♪」というテーマソングとともに、小沢さ
んのダミ声で「このつづきは、あしたのこころだー」と終わるあの
番組、知らない? そーかあ、そだねー、しょうがないよねえ。
私とっても好きだったんですよねー、「子ども電話相談室」とともに。

それはともかく、学術的なことと自身のフィールドワーク(旅や聞
き取りですね)や経験をまぜこぜにして、日本の芸能を「遊び」「生
業(なりわい)」「商い」「宴会」「信仰」「悪所」「スポーツ」「テレビ」
などのキーワードによって解き明かしていくこの口演は、とても楽
しい社会科(むずかしい社会学ではなく)のお勉強となりました。

とくにすばらしいのが最終章で、文化人類学者の梅棹忠夫理論を援
用しながら、「これからは『見る芸能』から『やる芸能』へと変わる」
と述べるところ。
カラオケもそう、ストリートパフォーマンスもそう、テレビにおけ
るシロウト進出もそう、芸能に関わるなにもかもが、見るのではな
くて自分が演じることが主になってくるだろうと。
逆に言うと、プロはいらなくなるだろうと、こうおっしゃる。

あ、言い忘れましたが、この本は1998年の刊行ですから、いまから
20年前です。いまでは誰もが言いそうなことだけれど、きっちり20
年先んじている。
「見る」より「やる」ということでは、スポーツもその流れでしょ
うし、お笑い方面でもシロート芸としての一般化もそう、芸術方面
では赤瀬川原平さんや森村泰昌さんもそう。「やる」というところを
強調して、パフォーマンスアートなどということばもありました。

いまなら、ハロウィンの仮装やらなんちゃらゲームやらスポーツやら、
そういうものすべてが「やる芸能」に含まれてくるんでしょうな。
「やる芸能」の範疇がとてつもなく広くなってきている。

さらに、「(梅棹先生いわく)すべての人間がパフォーマントである。
同時にアーチストでもあるというようになりつつある。」ですと。
あ、言い忘れましたがこのご託宣がなんと1971年です。ということ
は、いまから50年ちかく前の診断だ、どうだ、梅棹理論すごいだろ、
と小沢さんが自分ごとのように威張るのも無理ありません。

そして、「この、『する芸能』こそが芸能だ。見る芸能というようなも
のは、ある種の文明の中間地帯に発生した、いわば派生的現象だ。」
というおことばも、深いものに感じられます。
ここには芸能へのオマージュ、とくに小沢さんが生涯かけて追っかけ
た「放浪芸」や伝統芸への共感、それからご自身が長年続けられた
「ひとり舞台」や俳句(俳号は変哲)、それらの土台が確かにあると
感じられました。

きょーじゅにも教えてあげようっと。
それと、私もなにかやろうっと。芸能を!

 

ブログ143

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第142回 2019.05.30

「自分の代わりに探偵さんに示してもらう世界」

私どものようなブックカフェでは、棚にどんな本が置かれているか、
つねにお客さんに見られていることになります。
個人営業の店ですから、お客さんはとうぜん、置かれている本がオ
ーナーの趣味や好みを表わしていると思うことでしょう。本を通し
てオーナーの性格や普段の考え方、それにいままで生きてきた個人
史や隠しているつもりの秘密までも、もしかしたら推測できちゃう
かもしれません。

「あー、ここの店主は遊び人だな。若いころから勉強もせんで遊ん
でばっかりいたな、きっと。趣味はあれとあれとあれ。でも勉強も
趣味も中途半端で終っている感じがある。そんな粘りのなさゆえか、
しくじりも多かったとみえる。それをなんとか取り戻そうと仕事関
連の勉強もしてみたが、残念!いまだに空回りしとるようじゃ・・・」
なんてね。
プロの読み手だったらそれくらいの推理は朝飯前でしょうし、本に
詳しいプロの探偵さんがいたら、オーナーがどんな犯罪に手を染め
てきたか(!)までわかってしまうのではないでしょうか。
おーこわっ。

「探偵小説の社会学」(内田隆三/岩波書店)

によれば、歴代の探偵小説の名探偵たちは(デュパンやホームズや
ポアロや、あの人やこの人も)、もちろん犯人の考えたことや心理を
たどって犯罪の全貌を暴いていくのです。
ただし、それだけではない。
犯人だけではなく、また犯行のすじみちだけでなく、被害者を含め
た関係者それぞれの個人史を推測し、さらに現場に残されたり語ら
れたりする微小なブツとかコトバとの接点を突き詰めようとするの
だそうです。
関係者「それぞれ」の個人史、ですよ。この意味わかりますでしょ
うか? なんせ「社会学」ですからね。

探偵さんは、犯人とその動機と犯行方法だけを明らかにしているの
ではない。
世界は広く多様だ。ひとの心も深く暗い。
犯人・被害者一人ひとりの心も深く広く、そのぶん隠されたグロテ
スクな部分や人にいえない秘密も多い。そんな人間が複数集まれば
それだけ現実世界も広く、闇も深さを増していく。
探偵さんにはそれがわかっている。だから犯罪の全貌にたどりつく
ためには、関係者一人ひとりの個人史とその接点を解明する必要が
あるのだ。

ふだん私たちは、触れずにいたり目をそむけて見ないようにしてい
るものが多いけれど、探偵さんは事件の全貌を示すために、犯人を
取り巻く複雑な現実を切り取り、ワンプレート料理のようにまとめ
て差し出すことができる。
つまり、その時点の犯人・被害者・関係者すべてのひとの目に映っ
た世界を再構築するのだ。

するとそれを読む人は、架空の事件であるにもかかわらずリアルさ
にたじろぎ、犯行そのものに犯人の世界観を見る気がする。
さらには、そこから振り返って自分の心の中を覗いて比較したり、
自分の心の中にも同じものを発見してさらにびっくりしつつ、カタ
ルシスを覚えることになる。
そこに探偵小説の妙味があるんだ、というのです。

筆者が「犯人以外の容疑者も、内面に殺意を持ちながらも(中略)
みずからはその欲望を実現しなかったのである」、あるいは、
「ジジェクによれば、探偵による解決は、これらの容疑者たちをそ
の欲望にまつわる罪悪感から解放することになる」、
などと書くとき、その「容疑者たち」のなかには、読者である私た
ちも含まれているわけですね。
だから私たちは、自分にできないことを犯人や探偵さんに代行して
もらい、それで満足を覚えることになる。場合によっては、その犯
行に人間の心の深い闇と世界の広がりを見せてもらって、深い納得
を感じたりする。
カタルシスというのはそんな意味です。

ところで別枠で記しておきますと、そんなことを語る筆者の「社会
学的」な表現はとってもカッコイイものでしたよ。
「探偵は、現在を、それが蓄えている『過去』の深さにおいて目覚
めさせる。」
いいでしょう? 意味はよくわからないけど。
「探偵小説とは、探偵に導かれ、読者が(自分の見ている夢に陶酔
するために)その深い眠りに入ることをいうのだろう。」
ね、すごいでしょ? さらに意味がわからないけど。
社会学というのは(見田宗介さんもそうだけど)、ときどきこうした
詩的でわからん表現が飛び出すこともある学問なのかもしれません

 

ブログ142

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第141回 2019.05.23

「なぜこの本が売れるのか?」

マスター、このカフェにはベストセラーになった本はあまりないね。
そうかなあ、そうですねえ、そう言われるとあんまりないですね。
どうして置かないの?
置かないなんてことはないですけど、たまたまですよ。まあ、ベス
トセラーは図書館にありますし。
でも、自分で買って読んだベストセラーもあるでしょ?
はい、もちろんですよ。最近も買いましたよ、ベストセラーの本。
ところで、本が読まれないというこのご時世に売れるっていうのは、
どういう本なんだろうね?
はて、どういう本なんでしょうねえ。でもそう、たしかに、ベスト
セラーになる本にはそれ相応の理由があるみたいですね。たとえば、

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎/マガジンハウス)

は、コペル君というあだ名の中学生がいろいろ悩み、叔父さんの助
言をもらいながら成長していく話。昭和12年刊。
学校での下層階級出身者への差別、友情、上級生からのいじめなど
がコペル君の悩みとして取り上げられ、さらに資本主義や共産主義
思想、英雄論などの入り口という一般教養も扱われる。
90年近く時を隔てた現代にも共通するテーマが、読む人のこころを
とらえて考えさせられるポイント満載の書。

・・・というのが、売れる理由でしょうね。
でも、じっさいにこの本を買うのはコペル君と同年代の中学生では
ない、と思うのです。たぶんその親が買って、こどもに読ませてい
るのではないですか。こういう本を読んでコペル君のように素直に
考えるひとになってほしい、という願いをこめて。
ということは、この本が売れる理由は、中学生くらいの子どもを持
つ親(約一千万人)の方がけっこう買ったということでしょう。

もうひとつ、売れる理由として、叔父さんの存在、というか不在と
いう問題もありますでしょう。
コペル君はお父さんを亡くしているので、叔父さんがいろいろ話し
相手になってくれるのですが、じつにこの「おじさん」という存在
が、いま私たちにとって貴重になっているのです。
毎日顔をつき合わせる親ではない、身内だけど第三者、良いことも、
ときには悪いことも教えてくれる存在。親には話せないことでも、
相談に乗ってくれるひと。以前はだれにもそういう人がいましたよ
ねえ。私にもパチンコや花札を教えてくれた下町のおじさんがいま
したよ。なんだ、悪いことばかりじゃないか。
しかし、今は、いない。

もしかしたらいま、そんな「おじさん」が求められているのかもし
れない。
それも売れる理由に関係しているかもしれないと思いました。
叔父さんはコペル君に説教をたれるのではなく、彼の「自分で考え
て解決する」力、つまり自立をうながすアドヴァイスをしていく。
なんともうらやましいではありませんか。
この「劣化していない、おじさんらしいおじさん像」を求めて、あ
るいはそんな存在をめざして本を買う人もいたのではないかなあ。

ベストセラーといえば、
「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社)

これは世界的なベストセラーです。もちろん、面白いです。
人類(ホモ・サピエンス)は、認知革命、農業革命、科学革命の三
つの革命をしながら文明を築きあげてきた。
とりわけ認知革命において、「ないものを想像する」力を得て、共同
生活をはじめることができた。
それにって神話をつくりあげ、宗教、他人との協力、交易、さらに
は想像上の秩序としての国や国民や正義や法律やなどという「虚構」
を育て、現代につづく社会を発展させてきたのだ。

この本では、人類の文明史が小気味よく整理され、「ああ、そういう
ことだったんだ」と納得されます。まるで、歴史の授業ではよくわ
からなかった個々のできごとの理由が、山川出版社の時代別歴史地
図によって、全体像として頭の中に沁み込むように・・・というの
が売れる理由なんでしょう。

でも、売れた理由はそれだけではないはずです。
私は、この本は多くのビジネスマンが、仕事のために買ったのだと
思いますね。
それもただ教養を高めるだけではなく、たぶんこんなすじみちで。
人類の文明には革命的な段階がある → 認知、農業、科学と来て
次はなにか? → その秘密を先取りできれば、あらたなイノベー
ションのヒントが得られる → それをうまくプレゼンに活かせた
ら、俺の企画は通りやすくなるんじゃないか → そうだ、プレゼ
ンの資料にこの部分をちょっと引用しちゃおう! みんな俺の教養
の深さに驚くぞ、きっと。 
みたいな。

いや、すいません。
どちらの「売れる理由」も、私の邪推かもしれません。
これから読む方は、なんの先入観もなく邪念なく素直に澄み切った
清流のような心持ちでお読みくださることが肝要かと存じます。
そこのところどうぞよろしくお願いいたします。

わかったよ、マスター。

 

ブログ141

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第140回 2019.05.15

「なにをごとも入り口が大事で」

当カフェは、建物の場所としては道に面しているのですが、店の玄
関が5メーターほどのアプローチを通った建物内側にあり、またカ
フェの内部も歩道側からは直接見えず、看板もひっそりと簡易なた
めに、お客さまによく「入り口がわかりにくい」とか「入りにくい」
と言われます。
すいません。そんなカフェに、よく来ていただけました。

だいたい、屋号の「DEN」が隠れ家とか小さな書斎という意味で
すので、「入りにくい問題」もあるていどしょうがないじゃないか
という話なんですが、「入り口」の造作が原因でお客さまにご不便を
おかけしているというか、むしろ客の「入り」と「売り上げ」にマ
イナスの影響を与えているとなれば、それはいけません。

やはり店の入り口が入りやすいと、フリのお客さんでもドンドン入
られるでしょう。それはとうぜんの話。
いっぽう、ちょっと強引にめせんを変えますけれど、文章の出だし
もカフェの入り口と同じで、最初の一行でグッと引き込まれると、
あとはズンズン読んでしまうということがあります。

キャッチーなものもあるし、「ン?」という不思議な感じに誘われ
るものもあるし、もしやこれは自分に向けて書かれたのではないか
っ!と思うようなものもあるでしょう。
逆に最初の一文でつまずくと、なんか入りづらいよねーみたいに感
じて、またこんどにしよーかー、カフェのマスターの顔も見えない
しー、と読む気がそがれてしまう。
やはりなにごとも「入り口」が大事ですね。
その入口の良さといえば、

「頭の中身が漏れ出る日々」
「生きていてもいいかしら日記」
「私のことはほっといてください」
「すべて忘れて生きていく」(北大路公子/PHP文芸文庫)

に収められているものは、それぞれ、なかなかに考え抜かれていて
秀逸でした。
筆者は北海道在住のエッセイストで、どうやら毎日文章を書いたり
書かなかったり、昼酒をのんだりのまなかったり、好きな相撲を見
たり、寒い冬を憎んだり、河童やなんやらのことを妄想したりしつ
つ、身のまわりのできごとをトンデモなく笑える話に仕立て上げて
いる方。

たとえば「朝の三時半に目が覚める」、という出だしで始まるのは、
私たちにはそれぞれ同じ日の同じ時刻に生まれた「裏の人」がいて、
自分とその人はつねに差し引きゼロの関係にある、という、じつに
テツガク的(?)な推論でした。

自分が目を覚ますと「裏の人」が寝につく。
自分が酒飲みなら「裏の人」は下戸だ。でも最近自分は、歳のせい
で酒量が落ちてきたから、裏の人はなにかつらいことでもあって酒
が増えているのかもしれない。
こんな妄想をウトウトしながな続けていって、たいした結論も出ず
にまた寝てしまうというなんとも平和な話なのですが、それがおも
しろくって、最初の一行から読むのをやめられなくなります。

いやいや、公子さんの一つひとつのエッセイのおもしろさを紹介し
ていってはキリがありません。
ただ彼女は、「自分は『この人はいついかなるときもバカバカしい
ことを書いている』と思われたい」と言っているので、その崇高な
る志には多大なる敬意を表しておきたいと思います。

で、その、文章の入り口、出だしの問題です。
「その日、世界は救われた。」とはじまる、「丸川寿司男の数奇な運
命」というエッセイがあります。
とつぜんの来客に慌てふためく家族と、そのせいで自分があわてて、
寿司の出前を一般のおうちに間違い電話してしまうという、サザエ
さん的ドタバタがあって、そこから筆者の妄想が、自分のした間違
い電話が原因であれやこれやが起こって、ついには宇宙人から地球
を救う救世主が誕生するというところにまで行く、崇高でおバカな
話でした。

で、これの最後の一文がまたいいんですよ。
自分のかけた間違い電話に落ち込んでいた筆者は、妄想上で救世主
の誕生にまでいたるまでを妄想し終えて、「なんだか猛烈に気分が
よくなって、届けられた寿司を照れながら食べたのである。」
入口と出口のこの落差!この決着!この、「照れながら」の輝き!
 
また、「久しぶりに『見届けたい』と思った」とはじまる、「北海の
盗み見の白熊、敗北す」は、クソ暑い36度の夏の日に、手をつない
で歩いている若いカップル(顔は汗をかいている)のうしろを歩き
ながら考えをめぐらす筆者の話。
彼らはいったいどういう状況なのか。
「(この二人は)もしかしたら暑さのせいで「つないだ手を離せなく
なったのかもしれない。二人の掌があっというまにどろどろぬるぬ
るになってしまって。」と、どーでもいい妄想がはじまる。

筆者はそのあと二人とおなじ電車に乗るが、自分が下りる駅が先だ
った。降りがけに見ると、二人の目の前の座席がひとつ空き、男の
子が女の子に座るよう促している。
いま、二人のどろどろぬるぬるになってくっついたはずの手は、離
れようとしているのか!どうなのか?見届けたいっ!
しかしその後は人ごみで見えない・・・。
で、「今もテレビドラマの最終回を見逃したような気持である。」

入口がよくて、出口もいい。
いや、つまりなんですな、こういうことですかな。
「出だし」は「シメ」の良さによっても引き立つ。両者の対等不可分
な関係によって。
ということは、もちろんカフェに入ってくるときもそうだが、カフ
ェを出る時も、お客さんがどんな顔しているか? その両方が問題
だということですかな。この最後の一文は、やや強引でしたか?


ブログ140

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第139回 2019.05.09

「素顔の作家と作品」

この小説の意味ってどういうことだろう、などと、文学作品の解釈
や味わい方に迷いが生じると、私など、ついついその作家のじっさ
いの生きざまにヒントを求めてしまいます。
たとえば、太宰治の女性関係と作品との関係とか、ドストエフスキ
ーの作品に、死刑執行寸前で許されたり収容所生活の経験がどう活
かされているかとか、ランボーの詩に、文学を捨ててアラビアで武
器商人になる未来のきざしを探したりとか。

まあ、私は半分楽しみながらそんな推理をするのですが、きっとみ
なさんもそんな経験があるのではないでしょうか。
もちろんその推理には正解はなく、せいぜい作家たちの、複雑怪奇
で迷路のように入り組んだ感性や性格や心情にちょっとだけ触れた
気がして、「ま、そんなものかな」とか、「なんだ、イメージ違うじ
ゃん!」とか、勝手に思うだけなんですけれども。

もちろん私とて、文学作品はそれ

 

じたい独立して楽しむべきだと思
うのではありますが、大学教授じゃあるまいし、いちカフェで本を
読むシロート探偵としては、そう簡単に作家の素顔と作品との関連
をさぐることをやめられません。
で、私たち読み手のそんな「知りたい」思いが、ときにひどくなっ
てしまって、三島作品の中に作家の自決とそこにいたる思考やら深
層心理やらをむりやり見つけようとする「謎解き」にいたったりす
るのですね。わるいクセだなあ。

「この人、カフカ?」(ライナー・シュタッハ/白水社)

カフカといえば? そう、村上春樹先生の「海辺のカフカ」、違うっ
て。あ、そうか、カフカといえば、そうそう、ミュージシャンで女
優のシシド・カフカ! イヤ違うって。
チェコ出身のユダヤ系作家で、今世紀はじめころに「変身」とか
「城」とかを書いたフランツ・カフカだってば。

私なんか、「変身」ででっかいゴキブリみたいな虫に変身したグレゴ
ール・ザムザのかわいそうなイメージが強いばかりで、その後「城」
とか「審判」を途中で投げ出した思い出しかありません。
私のなかでは、小説としてどう味わったらいいかわからない、やや扱
いに困る作家というところです。

その作品については、不条理、寓意、暗いユーモア、救われなさ、そ
んなことばばかり浮かんできてしまいますし、だから作家本人はきっ
と、暗い性格で神経症的で世紀末的感性と価値観の持ち主だったんじ
ゃないか、などと思ってしまう。
つまり、カフカの作品は読んでいてくつろげなかったのでした。
だいたい「カフカ/迷宮の悪夢」だったっけかな?そんな題名のへん
な映画を観てしまったことがあり、その暗いプラハのイメージも、自
分のなかでカフカの小説の扱いを悪くしたようです。

ところが、カフェのお客さまに薦められてこの本を読んだところ、な
んとなんと、おもしろいじゃありませんか。いやなにがって、当の、
海辺にいないほうのカフカさん本人の、その人となりが。
ここには90ほどのエピソード、日記、手紙、云いつたえなどが載せら
れているのですが、まるごとカフカの人間性がバクハツしているとい
っていいものでした。
なかでも、私がもっとも好きになったエピソードが、恋人だったドー
ラが記す、これでした。

自分たち二人が公園を歩いていると、小さな女の子が泣いている。
どうしたのかと尋ねると、人形を失くしたのだという。するとカフカ
は、うん、じつは君の人形は旅に出ただけなんだ、といって、自分は
その人形からの手紙を家に預かっていると女の子にいう。
その後カフカは家に戻るとすぐに「人形からの手紙」を書き、翌日か
ら毎日、その女の子に手紙をわたす。そこには、旅に出た人形がいろ
いろな冒険をし、いろんな人と知り合いになり、成長するさまが書か
れていた。
その手紙は三週間つづき、さいごは人形が幸せに結婚して、もうその
女の子には会えなくなりました、さようならと綴られるところで終る
・・・。

これが作家だ。これがカフカだ。
そんな手ごたえのあるエピソードではないですか? 
なんというか大間の一本釣りで、100キロ級のマグロがヒットしたと
きのアタリの感覚がある。マルっとくつろいで全身をあらわにしたカ
フカがそこにいる、そう感じたのでした。

この話を伝えたドーラは、話の最後に、
「フランツは子どもの小さな葛藤を芸術によって解消したのだった、
秩序を世界にもたらすために自分が意のままに使える、もっとも効果
的な手段によって」と書きます。
彼の創作の秘密をあえてその私生活から拾いだそうとするなら、彼が
このようにして「秩序を世界にもたらす」努力をしていた、とまわり
から見られていたということは、とても重要なヒントになるでしょう。
この「努力」こそが、作家を作家たらしめるのだ。
うん、ホントに、いい手ごたえだった。

ところで、この本を私ことブックカフェマスターに紹介してくださっ
た方は、じつはここに描かれていた別のエピソードを私に読ませたか
ったのでした。
それはカフカが親しい友人に語った短編の構想でしたので、最後にい
そいで引用しましょう。

「ある男が、こんな集いの場は開けないか、と考えている。
招待されずとも自然と人が集まってくる。人々はお互い、出会って、
会話して、観察しあう。この宴はだれもが自分の趣味にしたがって、
自分の思いどおりに、だれにも負担をかけずに設定できる。好きなと
きに好きなように現われ去ることができ、ホストに感謝などせずとも
よいが、しかしいつでも、心から、歓迎される。
この奇妙な思いつきが最後に実現するとき、読者は気づくことになる、
孤独な人間を救済しようというこの試みは--最初の喫茶店を作る人
間を生み出すことになったのだ、と。」

ああ、これもいい話だ。
Mさん、ありがとうございます。当カフェにぴったりのお話でした。
というか、この話と当カフェを関連させて気にしていただいたことに、
二重に感謝です。こんな夢が、カフェをカフェたらしめるのだ。
不遜ではありますが、、、カフカとは友達になれそうな気がしてきた。

 

ブログ139

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第137回 2019.04.27

「劣化と害と不便はちがうもの」

世の中なんでも便利になってしまって、たいしたものです。
その気になれば、家から一歩も外に出なくても生きていくことがで
きる。
在宅でパソコンに向かって仕事をし、ネットで生活必需品を取り寄
せ、宅配のお弁当やレシピつきの料理素材を頼むこともできる。監
視カメラと警備会社が安全と安心を、ⅠOT家電や遠隔医療が健康
を管理してくれて、AIロボットが話し相手になってくれる。
本を読むにも、たいがいの調べ物もスマホでできてしまう。

それにひきかえ私どものカフェはといえば、おいでいただくにも歩
いてこなきゃならないし(専用駐車場「非」完備)、Wi-Fiは使
えないし(あるけど教えない)、お恥ずかしい限りです。
しかしこの、「不便」というものをもっと積極的に見直そうという、
じつにもって偉いというか、アナログというか、りっぱな思想をお
持ちになっているのが、

「不便益のススメ」(川上浩司/岩波ジュニア新書)

でした。
この「不便益」とは、どういうことか? 
筆者は四象限で説明しています。
まず、ヨコ軸に「便利・不便」、タテ軸に「益・害」をとる。
便利になって益があると「便利益」、これはわかりやすい。世の中が
前に進むための原動力のような、進歩とか改善とか創造とか、人類
に欠かせないことばが浮かんでくる象限です。

つぎに、その反対の象限をみると、不便で人に害を与える困ったこ
とのあつまりが「不便害」、これもとうぜんですね。
問題は、便利だけど害があると「便利害」の象限と、不便だからこ
そ益があるという「不便益」の象限です。

世の中どんどん便利になって、便利が人間に益をもたらすと思われ
がちだが、そうとばかりもいえないのではないか。
たとえば、夜中にも皓々と明かりをつけて営業するコンビニ。
たしかに便利でお弁当もおいしいけれど、売れ残り商品の破棄の量
はハンパなく、人手不足なので外国人留学生をこき使い、資源のム
ダによって地球環境に負担をかけている。
そこまで視野を広げて、便利さが最後には自分のくびを絞めている
のであれば、それは「便利害」と呼べるのではないか。
「役に立つ」とか「より便利になる」ということが、必ずしも自分
たちを幸せにするわけではないのではないか。益とはなんじゃい! 
自動化・効率化・高機能化・AI化ってナンボのもんじゃい!って
話です。

では問題の、そんな「便利害」の対極の象限にある「不便益」とは
なにか。
それをわかりやすくモノで表わすとどんなものが考えられるか。
たとえば「足こぎ車いす」。
すべての車いすユーザーが両足が効かないのではなく、片足だけが
動かない人や足に力が入りにくい人もいる。その人たちが使う、手
で車輪を回すのではなく足でペダルをこいで動かす車いす。もちろ
ん不便だが、リハビリになったり気持ちが上向きなるなど、利用者
の心に対する「便益(精神的に前向きになるなど)」が見込まれる。

たとえば「かすれていくナビ」。
自分が何回か通った道は、ナビ上で表示がかすれていく。「もう覚え
たからボヤかしてもいいでしょ」って判断して。
すると人はナビに頼らずに道順をおぼえ、逆にいままでちゃんと見
ていなかった景色などに気がつくようになる。
ひとの能力や気づきを促す、そんなこともまた「便益」とカウント
できるのではないか。

ほかにも、以前ここでご紹介した「弱いロボット」(岡田美智男/医
学書院)のなかの、「自分ひとりではゴミを拾えないが、まわりの人
に助けてもらってゴミを回収するおそうじロボット(まわりの人の公
共心を刺激する)」などが紹介されています。

それからモノではなくても、「京都の街を左折オンリーで巡っていく、
つまり右折するためには三回左折をしなければならないツアー(路地
や小さなものの発見が便益)」とか、いろいろな「不便だけど、なにか
しらいままでにない益があるモノ・コト」が紹介されています。

そもそも不便益には、不便が生み出すイノベーション(という益)と
いう意味あいもあったのだ。
日本の街は込み入っていて、目的地に行くのが苦労するのでナビが発
展した。ガソリンが高くて困っていたのでハイブリッド車の開発が進
んだ。こういうやつが「不便が生み出した益」です。
中国では、車が増えて大気汚染がひどくなったのでレンタサイクルの
システムや電気自動車の普及が加速し、にせ札が多いので電子決済が
主役になった。
こういうのも、すなわち不便だからこそなされた改善や創造なのだ、
どうだ、不便益の源がこんなところにあるんだよ・・・。

こう聞いていくと、不便益って面白いですね。
ただ、こういうテーマでしかつめらしく議論をしたりすると、ついつ
い人間にとって善いイノベーションとはなにかとか、生産性とはなに
かとか、国民総幸福度とかブータンとか宗教心とかAIとかシンギュ
ラリティとか、専門家以外にわけのわからない内容になりがちです。

でもちょっとユーモアもまじえつつ、ただしヒトの目線で真剣に「不
便益」を研究し、遠くへ矢を放つようにして不便益グッズを生み出し
ている方々がおられると思うと、とっても嬉しくなってしまいます。
こうして、不便でアナログで手間ヒマがかかってアクセスが大変なモ
ノやコトが時代のトレンドになっていくかもしれませんしね。

ということで、わたしどもブックカフェも、よりいっそう不便益を追
求して、それをみなさまに実感していただけるよう努力してまいりま
す・・・って、便利になるような改善はしないってことを高らかに宣
言しているだけじゃないか。
そんなお声も聞こえてまいりますが、気にしない気にしない。

ブログ137

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第136回 2019.04.18

「いっぽうドイツではどうだ?」

なんの気なしに紹介された本が、ぴったり自分のツボにはまってし
まってビックリすることがあります。それがまたタイミングよく、
いま気にかかっていることにも大きく関係したりするとなれば、こ
れはもう、偶然という名の必然というもの。

「わたしの信仰」(アンゲラ・メルケル/新教出版社)

アンゲラ・メルケルさんは、ご存じドイツの首相。
旧東ドイツ出身で牧師の娘。物理学を学び博士号をとる。その後政
界に出て、キリスト教民主同盟という政党のリーダーとなる。
いまではEUのリーダーであり、トランプのアメリカに代わって自
由主義社会の守護者とまで呼ばれている、という方です。

この本は、自身の信仰と政治との接点にかかわる講演集であり、キ
リスト者としての愛とか希望とかを語りつつ政治というナマナマし
い現実にむきあう姿を映し出しています。

これを紹介してくれた方は、「内容が重い」という表現を使われまし
たけど、じっさい、ごくごく個人的な内面の「信仰」と、広く開か
れなければならない「政治」とが、彼女の中でいったいどう結びつ
いているのかというポイントで読んでいくと、それはたしかに比重
の高い話になっていまして、何回も読まなければ受けとめきれない
気がします。
トランプさんのツイッターとか、安倍さんの本とかとは別物ですね。

さて、このように誠実に信仰と政治の間で生きる人は、当然のごと
く多くの重い「問い」を抱えていくことになります。
「何が良いことであり、何が神から求められているのか、自分には
はっきり分からない」、そして、「わたしたちは神から、苦しみを減
らし、病人を援けよと命じられてはいなかったでしょうか?」
移民について「あの人は来てもいいが、この人はダメなどと、どん
な基準で言えばいいのでしょうか?」
いずれも答えることの難しい問いです。

この本は、だからある面、メルケルさんが「問い」を自分と聴衆に
投げかけ、一緒に答えを探していこうという問答集のようなものと
いえます。
環境、教育、保育、それから高齢化、経済、遺伝子工学や生命倫理、
そしてEUの未来、キリスト教によって育まれたヨーロッパのリベ
ラルな伝統、それらすべてについて、ひるまず勇気をもって自身の
信仰を語ってさらに聖書の解釈をしていく。それを政治に活かそう
としていく。
感服するしかありません。

こうした信仰と思考の結果として、彼女の意思決定や行動は、ひと
つには「ヨーロッパの『強さ』からくる責任の自覚」によって決め
られることになります。
それは貧困の克服であったり、弱者への援助や支援であったり、持
続可能な経済やエネルギー対策として政策化され実現される。

もうひとつは「キリスト教の『寛容』の精神からくる責任の自覚」
によって進められる。
それは、信教の自由の保証や難民の受け入れ、ヨーロッパ以外にも
およぶ人権の援護、などなどです。
そして、それらの政策決定にの反対や疑義があっても、彼女はめげ
ずに、「信仰がわたしたちに、良い意味で論争し、最善の道を求め
る能力を与えてくれた」と信じるのです。信仰のある方は、いい意
味での「思い込み力」をお持ちだし、とりわけ彼女は「祈る力」を
お持ちのようだ。

最後に、やや長い引用を。
「キリスト教信仰は責任ある自由を可能にするだけではありません。
キリスト教信仰は信頼を育て、新しい課題も克服できるという確信
を得させてくれます。わたしたちは毎日それを行っているのです。
多くの事案があまりにもゆっくりとしか進まないと思う人がいるか
もしれません。互いに陰で悪口ばかり言いあっていると思う人もい
るでしょう。

しかし、世界を良くしたいという共通の意思は確かに存在している
のです。その限りで、わたしたちは正しい道を歩んでいます。それ
は、わたしたちに方向付けとなる内面的な価値基準が与えられてい
ることと関係があります。これは賜物であり、これからの歳月もあ
なたやわたしたちに伴ってくれるものですーー願わくは、わたした
ちがこの賜物を豊かに正しく使うことができるといいのですが。」

このことば、どうですか?

 

ブログ136

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第135回 2019.04.11

「モノの見方を変えて<私>をデザインしなおす」

何回も申しあげるようで恐縮ですが、カフェという閉ざされた空間
に長くいると、モノの見方が凝り固まってくる気がしてしょうがあ
りません。

これこれはこうこうこういうもんだ、と決めつけて見てしまう。
モノの見方が固まってくると、触れる情報も出す情報もかたよって
しまい、考え方も一辺倒になってしまう。
ちょっと前につかっていた比喩でよろしければ、頭の中の小人たち
が錆びついてしまって、ぜーんぜん動かなくなってしまう。

さらには、自分に向けた情報に接しても投げやりな態度をとったり、
もっと正しい情報をよこせ!などと八つ当たりし、あろうことか、
やはりこのワタシの見方が正しいのだと他人様に押しつけてしまう。

もちろんこれには歳のせいもあるのでしょうけどね。だって、年老
いたわが両親のやっていることと同じですもの。
でも、そんな生き方のほうがラクチンに生きられる。聞かなかった
情報など自分と関係ないし、見方を押しつけられたひと様のことな
んか、知ったことではないぜ・・・ということで。
実際のところ、この症状にたいしてどんな薬があるのでしょうか?

「まなざしのデザイン」(ハナムラ チカヒロ/NTT出版)

は、アートとかデザインを切り口にしていますが、そんなふうに劣
化・硬化・加齢状態に陥ったしまった自分の穴からどうやって抜け
出すかをテーマにした本で、展開されているお話は書名から受ける
感じよりもはるかに広大かつ普遍的なものでした。

たとえばこんな定義があっちこっちに散らばっているあたりがです。
いわく、アートとは「問い」であり、デザインはその「解決」であ
る。いわく、社会はそれぞれの時代において常識という名の壮大な
想像を共有している。

うーん、どうみてもカッコイイですね。
そんなこと言われると、問いとしてのアートや解決としてのデザイ
ンが、どのようにモノの見方を変えることにつながってくるのか、
訊きたくなるじゃありませんか。
そのうえで頭を柔軟にする薬となるのか、そして「常識という名の
壮大な想像」をどう打ち破れるか、ついつい筆者とともに考えたく
なるじゃありませんか。

まず、なぜモノの見方を変える必要があるのか?の整理から。
それは、私たちの人生にはそれぞれの局面で「居付く」危険に出会
うからだ。「居付く」とは、思い込みの穴に陥って出られなくなる
ことであり、ある状態に安住したりある状況に縛りつけられたりし
て、自分の考えや動きが不自由になることだ。

だれだってそんな「居付き」から離れて、自由に創造的に生きたい
ではないか。オッサンという位置に居付いてしまっては、なんとも
不自由だ。苦しい。嫌だ。カッコ悪い。そう感じる。
しかし私たちはじつは、モノの見方を変えることで居付きから逃れ
ることができるのだ。

ではモノの見方を変える、とはどういうことでしょうか。
筆者はまず、主体(見る側)と客体(見られる側)との関係性を、
「素材」「分類」「道具」「型」というキーワードをもとに変更する
のがよいと説きます。
見方を変えるとはそれまでの常識を問い直すことであるから、モノ
をそれまでの「素材」「分類」「道具」「型」といった分類や範疇か
ら外して、見たり使ったりする。
そうすることで、見る側と見られる側のあいだの関係性に「異化作
用」を起こすことができるというわけです。

どういうことか。
たとえば有名な話で、マルセル・デュシャンという芸術家は、男子
便器をひっくり返して「泉」と名づけて美術展に出品したが、それ
がモノと自分の関係を異化すること、つまり常識を文字通り「ひっ
くりかえす」ことだった。

説明するのもなんなんですが、これはつまり、できあいの「小便器」
を「道具」としてだけ考えるのは、ヒトとモノのひとつの関係性に
すぎないわけです。そんなあたりまえの考えに、君は居付いてはい
ないか? 常識にとらわれていないか?
では便器を「ひっくりかえす」とどうなるか。小便の吸い込み口が
上になったらどうなるか。それを「(水の吹き出す)泉」と名づけ
たらどうか。それは別の用途、別の範疇のモノになるのではないか。
そしていっぽう、それを美術展に出品された「芸術」として見るあ
なた方は、どう感じるのか。
こんな問題提起によってひとの心に起こるのが、異化作用です。

これ以上の説明を省略しますけど、私はこんなことを思いましたね。
そんな「異化(いか)作用」と同様に「他己(たこ)作用」という
のもあるのではないかと。イヤ、ホント、マジで。
客体(見られる側)の分類を変えて自分とモノの関係を変えるのが
「異化」ならば、自分を見る見方を変えて、まるで自己を他人のよ
うに見ることによって世界(客体)を違った形で見る「他己作用」
もあるのではないかと。

そう、じつはこの本でも後半で、「自分を発見」し「無意識を見つ
める」というぐあいに、外部の関係性の世界を見ることから自分の
内部へと、まなざしの対象が変わっていきます。
そして、「私たちが世界をニュートラルに捉えられないのは、自分
という存在に執着があるからである」といいます。まったく同感で
す。これ自分への「居付き」ですね。
また、「何かにまなざしを向ける時は、必ず自分のフィルターを通
して見る」という。これもその通り。

そしてそのうえで、「まなざしのデザインの本当の目的は、<私と
いう妄想>を見破ることである」と、断言するのです。
いいこと言うなあ。私とは妄想なのだ。そうか、なるほど、頭のな
かの小人たち(錆びついている)にあやつられないようにしようと
いうわけか!そのための「まなざしのデザイン」か!
つまり異化作用を推し進めて自分をも異化し、今までの思い込みや
ら数々の居付きから逃れ、それによって他己の視線にまで至るとい
うことなんです。

スゴイことになってきましたね。
「モノの見方が変われば、自分の中での風景が変わる」とは、なん
というか、「川が流れているのではなく、自分が流れているのだ」と
か、「山も動く」とか、まるで禅仏教の公案を聞いているようです。
驚きました。そうやって「私」をデザインし直せっつーんです。

まるで、剣豪のテクニックを聞きに行ったら、「まずおまえの精神を
叩き直さねばならん!」って云われてしまったようで、自分をどう
発見するかの話になってしまいました。うーん、当然といえば当然の
帰結かもしれませんが、オッサンにはやや荷が重くなってきました。
(そんなことできたら劣化してないよー、とひとりごとを言う)

 

ブログ135


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第134回 2019.04.04

「情報リテラシーの劣化を食いとめる五つの『問い』」

劣化しているといえば、自分でいちばん劣化しているなあと感じる
のが、いわゆる「情報・メディアリテラシー」能力、つまり各種の
情報機器やメディアをどう使いこなすかというあたりです。
はい、まったく使いこなせていません(きっぱり)。

カフェに一日いると、まずは、いそいで正しい情報を取得していそ
いでそれを加工処理していそいで得意先に行ってプレゼンする、な
どという作業が必要ありません。
生き馬の目を抜くビジネスの最前線ならともかく、こっちにも目の
前の業務とお客様があるし、国際政治経済情勢もすぐにはお客さん
の入りに影響しないし、情報の正しさの度合いもさておき、とりあ
えずボーッと過ごしていても大丈夫だろ?チコちゃん?というわけ。
  
でもそんな安易なことを続けていくと、いざというときにパソコン
も使えず、スマホで必要な情報にアクセスできず、さらに悪いこと
には知らないうちにフェイクニュースにだまされたりしてしまう。
とはいえフェイスブックとかツイッターとかおまとめサイトに頼っ
たりするのも危なっかしい。
いろいろな場所で「情報環境汚染」が広がっているのだから、、、、、
というあたりも、なんとなく理解はしているんです。

このへんはとりわけ、認識/理解能力も劣化してだまされやすくな
ってボケの一歩手前にいるわれわれオッサンにとって、一番気をつ
けなければならないあたりかもしれませんから。

「情報戦争を生き抜く」(津田大介/朝日新書)

には、そんなオッサンへの数々の親切な忠告に満ちていて、とても
助かります。津田さん、いつもお世話になります、って、知り合い
でもなんでもないですけど、あなたのご発言を信用してます。
この本では、いまのネットの中でなにが行われているか。世論を誘
導するしかけがどう動いているか。それをだれがどういう理由で利
用しているか。とりわけ、ヘイトスピーチやフェイクニュースはど
ういうふうに拡散するか、などがわかります。

すべてが怖い話で、ウッカリノンビリ、ボーッと暮しているのはや
はり危ないとあらためて思わされるのですが、なかでもいくつか気
にかかる記述があったので、ここに書き抜いておきましょう。
フェイスブックCEOのザッカーバーグのアドバイザーだった人が、
こんなことを言っている。
「フェイスブックは動物的本能、つまり原始的な恐れや怒りの感情
に訴えている」と。だから「中毒になるように設計されたシステム」
だ。だからこそ、フェイクの拡散や選挙の介入などに利用されるの
だと。
おおー、なるほどなあ、やっぱりねえ。トランプ大統領のコミュニ
ケーション方法のときに考えたとおりだな。
気をつけるようにしましょう、ね、ご同輩。

また津田さんは、ネットが新聞などのマスメディアと異なる点は、
「読まなくてもシェアする人が多い」ところだ、と分析します。
もともとナナメ読みすることの多いニュースだけど、さらに無料で
読めて、タップで簡単に操作できるメディアだ。すると見出しがち
ょっと気になれば軽い気持ちでシェアしてしまう。
なるほど、そりゃあ、フェイクだろうとなんだろうと拡散しますわ。
これも怖いことです。

では、その恐ろしさがわかっていても、なぜひとはフェイクニュー
スを拡散してしまうのか? その理由について彼は、「ひとには目新
しさへの欲求があるからだ」とする研究を紹介しています。

それによると、正しいニュースは「悲しみ」や「予測」「喜び」「信
頼」などの反応を引き起こすが、フェイクニュースは「驚き」や
「恐怖」「嫌悪」といった未知のものへの反応を引き起こす。
ひとは「正しさ」よりもむしろ、こういう「新奇性」に弱いんだ。
つまり、はじめて聞くこととか、イヤなことだけどひとの知らない
こととか、不気味だったりすることから目を背けられない。無視で
きない。むしろそういうの、好き。週刊誌に載る「嵐」のスキャン
ダル記事くらいに、好き。もしかしたらデタラメかもと思っていて
も、好き。
だから思わず何の気なしに、あるいは自慢げに堂々と、あるいは秘
密を共有するかのようにヒッソリと、シェアしてしまう。

たしかに、ソーシャルメディアには、その手のことがあふれてます。
というか、やはり動物的本能に訴える写真週刊誌と同じで、その手
のことで成り立っているのかもしれません。
しかし、現代人のこの新奇性への好みが、ひいてはフェイクやデマ、
バッシングや差別や過激思想の拡散に、強くつながっているとした
ら、どうします、皆さん?

私は思う。
こうしてネットの住人の一部はたとえ年齢的には若かろうがなにし
ようがわれわれオッサンと同じく劣化の道を歩むのだそしてそれに
引っ張られて世の中がさらに劣化していくのだ反知性主義やポピュ
リズムに向かうのだそしてこのようにして民主主義は崩壊し権力は
独裁化しそれを推進したのがネットの住人とわれわれ劣化したオッ
サンであったと後世に語り継がれるようになるのだ怖い!

・・・ともかく、だから情報をなにげなく受け取ってそれをなにげ
なく右から左に流すようなことばかりしていると、どーなるか知ら
んぞ、若い衆! ということを津田さんになりかわって言いたかっ
たのでした。

最後にひとつ。
このような風潮にたいしてニュースを出す側、つまりジャーナリズ
ムがどうすべきかについて、ハーゲルップという人の「建設的なニ
ュースを報道するための問いかけ」というのが紹介されていました
ので、オッサンなりにこれは重要と思い、メモメモしておきます。

自分の出すニュースの内容として、下記を省みることが大事だ。
1 そのことで独自の(特別の)発想はどこにあるか?
2 なにが解決になり得るか?
3 ほかの人はその問題にどう関わってきたか?
4 我々はそこからなにが学べるか?
5 もし違う風であることが可能なら、なぜ我々にそれができない
 のか?

こうした検討を経ることによって、情報はポジティブな内容になる
はずなので、ジャーナリズムはこのような作法によって常に自分を
律し、責任をもって世の中に建設的なニュースを出すべきだ、と。
そうだそうだ。これには大賛成だ。

そして、これは情報を出す側だけでなく、受け取ってそのあとSN
Sやカフェでのご近所話などで拡散してしまう側の私たちも、リテ
ラシーの劣化を食いとめる手段として自分の中でおなじように問う
ておくべき項目なのだ。
そう思いませんか、ご同輩ならびに若い衆!


ブログ134

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第133回 2019.03.29

「劣化した世代からのお詫び」

カフェでお若い方の話題についていけないとか、AIとかiOTの
話がわからないとか、ネットのフェイクニュースを信じちゃうとか、
「セカイ系」の物語に感情移入できないとか、そんなもろもろがあ
るたびに自身の不明を恥じるとともに、理解力とか好奇心とか学習
意欲とかが劣化しているのではないかと疑ってしまいます。

その疑いは、たしかに的を得ている。
本当はどんなものでも材料にして、自分と世界をつなげる想像をし
ていかなければいけないのに、それを私はサボっているのです。
セカイ系物語にひたる方々のことをあれこれ非難がましく言ってい
る場合ではありませんでした。

なんてことを思いつつ世間に目をむけてみると、私と同年代のおじ
さんたちが企業や政界で、不正融資だの粉飾決算だの文書改竄だの
不要忖度だのをやり、スポーツ界でもセクハラやパワハラで話題を
さらい、はては酔っぱらって痴漢して駅員に逆ギレしたりしていま
したね。

これは、おじさんたちが、自分の世界と外の世界とのつながりが自
覚できずに、ましてそのための努力もしていないことの証拠のよう
なできごとです。社会性とか倫理観とか道徳心なんていうりっぱな
話の前に、まずは人間性や感受性すら劣化しているのではないかと
思われる事態でした。

これらの現実を踏まえて、いや、そんなに肩に力を入れて踏まえな
くてもいいんですが、はたしてわれわれ50~60歳代のおじさんは本
当に劣化しているのか? あるいは感情とか、理解力や好奇心や倫
理観や好奇心や想像力や対人能力や広い世界への想像力やらが、劣
化しているのか? 

そんな問いに、ハイそうです、じつにもって劣化してます、どうい
うことかというと、、、と答えているのが、

「劣化するオッサン社会の処方箋」(山口 周/光文社新書)でした。

たしかに今、おじさんは劣化して「オッサン」になってしまった。
その特徴はといえば、次の通り。
1.古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
2.過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない
3.階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る
4.よそ者や異質なものに不寛容で、排他的である

どうでしょう? よく言われることばかりかもしれませんが、身に
覚えがあるような、ギクッとなるような特徴ばかりです。
ン?あなたはギクッとなりませんでした? ほおっ、そこがまた不
思議なもので、「自分に限ってそんなことはないっ!」と思ってい
ることも、気づかないうちに固くなったパッキンのゴムのように劣
化の症状かもしれませんから、ご同輩、ご注意ご注意。

ではなぜこのような劣化が見られるようになってきたかというと、
この世代の人たちは、団塊の世代の築き上げたシステムにタダ乗り
して安易に生きてきたので、「システムを批判的に考える」ことを
避けてきたからだ、と著者はいうのです。
つまり、アンタら他人のふんどしで相撲をとって、自分の頭で考え
てこなかったじゃないかと。
だから感情も理性も衰え、基本的な教養の習得もおろそかになり、
かくして人的資本(能力)や社会資本(つながり)を弱めたじゃん
かと。

そのうえ、「ソコソコの大学を出てソコソコに働いているのに、家庭
でも会社でもリスペクトされず、ジャマ者扱いされるという状況を
生み出してきた社会にたいして、一種の怨恨を抱え込んで」きたの
だ、アンタらは。
その怨念(!)も原因となり、さらに劣化したのだ!と。

キビシーご指摘、ありがとうございます。
ハイハイ、そうですそうです、まったくもって自分たちの責任です。
私どもは先達の尻馬にのって生きてきました。戦後日本の高度成長
にタダ乗りしました。安穏に平和にすごさせていただきました。
また私どもは、あろうことか、自分がまわりから正当に評価されて
いないなどと逆恨みして、逆ギレしたりもしてました。また、安逸
な生活を続けた結果、他人さまの気持ちにたいする想像力も、あげ
くはリスクにたいするや警戒心も失い、リスクの分担も嫌がってい
ました。
ということで、さきの四つの特徴は、まったくもって私どもの不徳
の致すところ以外なにものでもありません。

となると、品質をごまかす大企業の不正も(責任者はだいたい私と
同世代)、スポーツ界のゴタゴタも(監督や理事は同世代)、安倍首
相(私と同い年)の心のこもらないことばも、ゴーン氏(ほぼ同い
年)の不正蓄財(の疑い)も、高級官僚(だいたい同い年代)のイ
ンチキやごまかしや忖度も、議員や部長さん(もう全員すべて私と
同じ!)のウソやパワハラやセクハラも、みんな私どもの共同責任
です。

私ども「おじさん」は、りっぱな「劣化オッサン」になったのです。
じつを申せば、これらの行ないとそれによってできた現実のすべて
が、私どもオッサンにとって自分と世の中を結ぶよすがであり、い
わばわれわれの「リアルなセカイ系物語」だったのです。

じゃ、どうすればいいのか。
これからの日本を背負っていくお若い方がたは、この劣化したオッ
サンの実態を参考にどう生きればいいのか? 
その処方箋は、どうかこの本を読んで自分の頭で考え、学習してく
ださい。
劣化したオッサンの一員でもあるカフェのオーナーから正解を訊こ
う、反面教師から知恵をもらおう、などという安直な道は、くれぐ
れも選ばないように。
だって、私のこの「お詫び」的な文章には、ぜんぜんココロがこも
ってないことぐらい、すぐおわかりになりましたでしょう?
フンッ、ドーモすいませんでしたね。

 

ブログ133


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第132回 2019.03.21

「『セカイ系』というつながり方」

ブックカフェのマスターとしてちょっと困るのは、あまり自分にな
じみのない不得意分野の話題を、お客さんからふられることです。
ええ、ええ、もちろん不得意分野は理科系をはじめとしてたくさん
あるのですが、なかでも日本の現代小説やライトノベル、それとマ
ンガなどの話題にはついていけなくて、申し訳ない。

不得意分野には、知らないことばもたくさん出てきて困ります。
たとえば、ある種の物語やアニメなどでは「セカイ系」という分類
が使われますね。ガンダムとか、エヴァンゲリヲンとか。
セカイ系って、それ、なんなん?

どうやら「セカイ系」とは、「じっさいは四畳半の世界のなかの『ち
っちゃなボク』なんだけど、すごい壮大な歴史観に自分がつながっ
ていると自覚できると胸を張れる、みたいな物語世界(鈴木謙介)」
のことのようです。

北朝鮮とか中東とかのセカイ情勢とはとりあえず関係ないらしい。
物語の形式の、ひとつの「系」らしい。
それは「壮大な歴史観」、つまり大きな物語との「つながり」のしか
たであり、つまりそこでは、「主人公のボク」がいまここで生きてる
理由が明確に示され、あるいはその秘密が明らかになり、世界のな
かで「ボク」の存在意義が示され、居場所が確定するらしい。

そんな物語の種類を「セカイ系」というのだそうです。
だから、普通の学生生活をおくっている主人公の「ボク」が、ひょ
んなことから「セカイの秘密」に触れたり、とつぜん、大きな悪か
ら世界を守る使命を背負わされたちゃったりして、そして「壮大な
歴史観に自分がつながっていると自覚」することになる、らしい。

ほう、そうですか。スゴイじゃないですか!
で、いきなりでなんなんですが、でも私は、自分がいま理解したこ
の「セカイ系物語」に違和感があります。
というのも、もしかしてこうしたセカイ系物語を愛する方は、今の
自分の身のまわりの世界にご不満があるだけでなく、自分の知らな
いことに対する怖れもお持ちなのではないか、と思えたからです。
さらには、リアルでオドロオドロしい世界とのつながりを忘れるふ
りをしている。
だからこそ、「そのボク」に「現実の自分」を重ね合わせられる。

背景にはこんな感情があるのではないか。
自分の周辺のことは、身近で理解できるがゆえに不満がある。いっ
ぽう、外の広い世界の動きはよく理解できないから恐ろしい。
じゃあどうするかっていっても、自分から広い世界に飛び出すのは
危ないし、そこでなにかを変えるのも骨が折れる。
自分はいませっかく静かに「いい子」で生きているのだから、外に
生息する(らしい)邪悪な物が自分の身の回りに侵入してくるのも
勘弁してほしい。で、とりあえずセカイ系物語に身を託して置く。

もしそうだとすると、セカイ系物語とは、自分の分身である「主人
公=ヴァーチャルなボク」が、邪悪なものから「セカイ」を救うこ
とで「今のボクの世界」を守り、「分身のボク」がそうした役割をり
っぱに果たすことで、リアルなボクの存在証明(つながり感の充足
と居場所の確保)をしてもらって、ボク自身を安心させたいという、
きわめて受け身の心情のたまものなのではないか。

セカイ系物語は、そんなメンタリティをもつ人たちの総意でつくら
れている。かもしれない。
だとすると、彼らは物語を自分たちに都合いいように創作している
のだ。必然的に、そうなる。
するとアニメやラノベやゲーム業界の商業上の理由からも、その
「セカイの秘密」はいつまでたっても明らかにされず、世界征服の
陰謀は退治できず、セカイの危機はいつまでも解消されない。

だって、秘密が明らかになったり危機がなくなったりすると、せっ
かく「ボクたち」が創りあげた物語が終わってしまうもん。
物語が終わってしまったら、ボクたち、困るじゃないか!
・・・こうしてセカイ系物語はネバーエンディングストーリーと
なり、消費され続けていくのであった。そんなことを思いながら、

「サブカルの想像力は資本主義を超えるか」(大澤真幸/角川書店)

を読んだのでした。前置きがむちゃくちゃ長くなり、申し訳ない。
この大澤先生の分析でも、まず、「君の名は。」のストーリーなどは、
「取り立てて特別なことのない平凡な主人公たちが、世界を破滅か
ら救うカギをもっている」というタイプのもので、「セカイ系」の
一種であるとします。
そして、キミとボクの入れ替わりやほのかな恋という身近な世界が、
おおきな世界の人びとの救済というテーマと直接つながっている。

こうしたセカイ系物語は、先生のご専門の社会学的言辞であらためて
いうと、
「国民国家のもつ普遍性や世界性というものに対する信頼感が消えて、
かつ、それを超える社会に対するイメージを描くことができない。そ
うしたときに逆流現象が起きて、直接的で身近な関係が普遍的な世界
の代理物になる」のだそうです。
なんじゃって? えーとまあ、むずかしい表現ですけど、ま、話の流
れからなんとなくわかっていただければ嬉しいです。

いきなり結論部分のご紹介になってしまいましたが、大澤さんの問題
意識はもともと、学問の役割とは、わたしたちの内輪の世界と外の世
界とのつながりを説明していくことだし、だから学者は世界における
われわれの位置をしめしていかなければならない、だからワシ(大澤)
も、サブカルだ、オタクだなんぞとバカにしてないで、鋭意、セカイ
系物語世界を研究するのだというところにあります。

さらに、ワシら学者もセカイ系物語を研究するが、読者のあんたたち
もその成果を材料にして、自分と世界をつなげる作業を自分の力でし
なければならんぞよ、というメッセージを発しておられるのです。

つまり、どんな物語であれ、それを咀嚼して、その「考え方のスタイ
ル」を判定し、自分のなかで場所を与えなさい。世界とのつながり感
というのは、そういう自力の作業によって保たれるのだ。それがあな
たという「小さな自分」と、外に広がる「大きな世界」とを結ぶ手助
けとなってあなたの居場所を定め、生きる力を強めるはずだ。
セカイ系物語にひたるだけではそれができないのじゃ。
ただし、そのときはあんたがたも、想像力をもっと豊かに使えるよう
にしなければいかん、それが正しい「つながり」をもつ秘訣なのじゃ。

・・・先生のこのメッセージ、たしかに私は受けとめさせていただき
ました(誤解、誤読、誤配かもしれないけど)。

 

ブログ132

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第131回 2019.03.15

「生者と死者のはざまのビミョーな世界」

東北の大震災から8年。
もうそんなに経ってしまったんですね。そういえば阪神淡路からも
24年。なんと。こりゃすごい。いやになるほど、はやい。
こうしてウカウカとしているうちに私たちは歳を重ね、町の外見は
跡形もなく復興してしまい、オリンピックだの万博だのが「また」
おこなわれるのでしょう。
しかしそのいっぽうで、東北ではいまもなお、行方不明者が2,500
人以上もいる。そしていまでもなお各被災地に入って、地元の人た
ちに協力して復興に携わったり、その心のケアをしている人もいる。
そんな立派な方々が多くおられることを私たちは知っています。

私は残念ながら、なかなか現地に行くことができません。
ただ、そんな私にもまだ、自分のいるここでやるべき作業が残って
いるような気もしています。
それがなんなのか、ちょっとよくわからないですけど。

「想像ラジオ」(いとうせいこう/河出書房)

この小説の主人公は、東北の大震災と津波によって、海沿いの小さ
な町を見下ろす杉の木のてっぺんに引っかかってあおむけになりな
がらも、みずからDJアークと名のり、「想像」という電波にのせて
ラジオ番組をオンエアしているひと。
この本はDJアークのひとり語りで構成されているけれど、もちろ
ん、このひとはもう津波で亡くなっていることがわかってくる。

こういう設定の小説ですから、読んでいない方にはわかりにくいけ
ど、わかってください。彼の放送は、聴ける人にはいつでも聞ける
し、聞けない人には聞こえないラジオ番組というわけです。
するとあらかじめ私の感想の結論をいえば、この小説じたいも、読
める人にはいつでも読めるし、読めない人には読めないものでした
・・・結論になっているか?

DJアークは、そう言ってよければ、杉の木のてっぺんで「死んで
も死にきれないでいる」ので、あおむけに空を見上げながら、想像
上のリスナーに向かって語りかけ、好きな音楽を想像でかけている。
彼のことばは、おもに彼と同じように「まだ死にきれないでいる死
者」には届くみたいだ。彼らはまだ見つけられていなかったり、ま
だ弔いのされない、いわば居場所の定まらない人たちだろう。

死んだDJアークの「居場所」は本来、そんな杉の木のてっぺんで
はないはずだ。彼も「成仏」しなければならない。しかし彼には、
自分の愛する妻と子どもの安否がわからない。それを知るまではテ
コでもその中途半端な場所を動かないつもりだろう。
だから、杉の木に引っかかっている彼は、生者としても死者として
もカウントされないままだ。

生と死のはざま。これは、悲しくつらい場所です。
さらにいえば、このDJアークと、読者であり生者であるわれわれ
との間の関係は、よけいに不安定といわざるをえません。
というのも、DJアークは、そのラジオの声が届く人(つまり死者)
からは絶大な承認と共感を得られるけれど、肝心の妻や子ども、あ
るいはほかの生者にその声が届かないのです。生者のなかで彼の声
が届くのは、ほん一握りのひとたちだけなのですから。

そしてその「ほんの一握りの生者」とは、大切なひとを亡くして悲
しんでいるひとや、自分の想像のなかでまだその亡くなった人と対
話をしているような人で、彼らだけがDJアークの放送を求め、彼
を承認するのです。
したがって、リアル世界の読者であり生者であるわれわれと、フィ
クションで生死のはざまに居るDJアークとの距離は、さらに限り
なく遠いことになる。もしかしたら、私と2500人の行方不明者との
あいだくらいに。
そんなこともあって、読める人にはいつでも読めるし読めない人に
は読めないと書いたのでした。

いやー、いまさらですが、小説とは面白いものですね。
この本もそうですし、9.11の世界貿易センタービルで死んだひとの
息子が父親の姿を想像する姿を描いた「ものすごくうるさくて、あ
りえないほど近い」(ジョナサン・サフラン・フォア/NHK出版)
もそうでしたが、私たちには、死者のことを想像することで、いま
生きている自分たちへの死者からの承認をもらえるのではないかと
いうひそかな期待があります。
それは、いまその本を読む読者としてです。

読者としては、想像上の彼らから承認だけでなく、できれば共感や
赦しももらいたい。自分たちの選択や判断を認めてもらいたい。
「その後」の生き方や暮らし方への理解ももらいたい。
もちろん一番いいのは、こちらからの一方的な想像だけでなく、彼
らとじっさいに話ができることだ。それができてはじめて、生きて
いる自分の居場所が見つかったと思えるかもしれない。
こう思うのは人間のさがでしょうか? どうでしょう、南師?

 

ブログ131

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第130回 2019.03.08

「カバーデザインのふしぎ」

英語圏に育った移民が作者の本のご紹介が続きますが、これは、申
しあげたように新潮社のこのシリーズのせいです。
これらは当ブックカフェに面差しで置くのにはたいへん適した、好
ましい本たちだと、ひきつづき納得している私、マスターでした。
ということで、

「オープン・シティ」(テジュ・コール/新潮クレストブックス)

のカバーデザインは、厚紙の巻かれたものが中央に立てられ、それ
にはパステルカラーに色分けされた街路の地図らしいものが描かれ
ている。そこに七羽の小鳥がやってきて羽を休めているという、美
しいイラストでした。
鳥の種類はよくわかりませんが、淡い色どりのスズメくらいの大き
さの鳥たちで、まるでその羽音が聞こえてくるようで、それがまた
心地よいハーモニーを奏でてくれているようにも感じられます。

物語はニューヨーク。マンハッタンを散歩する精神科医。
さいしょのページから鳥の描写が出てきます。編隊を組んだ雁の渡
り、鳩、ミソサザイ、コウライツグミ、アメツバメ、、、、それらが
やがていろいろな国のラジオのアナウンサーの声とまじりあい、い
ろいろな国の音楽や文学とまじりあうように描写されて、物語が開
幕する。

このカバーデザインは、多種多様な人種の街と、そこで暮らす--
鳥のように、と形容してしまっていいのでしょうか--いろいろな
民族的ルーツをもった人々がこの本の主人公だ、と表わしているか
のようです。

主人公もまるで小鳥のように街を飛び回り、歩き、人を観察し、職
業として患者の話を聴き、移民たち(他の鳥たち)と議論し、それ
とともに自分の過去やルーツに思いを馳せるという、外から飛来し
てきた人として、都会での孤独な生活をしている。
しかし・・・このように、都会をいかにも軽やかに飛び回っている
かに思える主人公にももちろん孤独と葛藤があり、それがやがて埋
め合わすことのできない過去として目の前に立ちあがってくる・・・。

かくして多くのことが、そして秘められていたことがザワザワとう
ごめきだす。
本を読み進めていく私たちは、カバーの鳥たちが表すように見えた
ハーモニーは、単純に幸せな調和を表わすだけのものではなかった
ことがわかってきます。

だれにでも「開かれている」街ニューヨークは、もちろんだれでも
来て住むことのできる「オープンなシティ」そのものなのでしょう。
しかし、小説の最後のほうで語られる「毎日自由の女神にぶつかっ
て死んでいく何羽もの鳥たち」の話からは、そこで暮らす移民たち
の孤独や根のなさ、それから「やむなくついた傷」のようなものを
連想さられずにはいられません。

ということで、私にとって「この街」は、自分もそこに居たいとい
うよりは、どちらかというと怖い場所に思われてきました。
なんと臆病なワタシ。
そんな感想も含めて、なんか不思議な余韻を残すカバーデザインで
したなあ。

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第129回 2019.03.01

「カバーデザインは語りかける」

題名もいいしカバーもいい。そんな小説は捨てがたい。

カバーデザインは、カフェの本棚に飾られるためにも重要だし、読
んだ後にそれを見ただけで内容や作者や、その「構え」を思い起こ
せるという大事なお役目もこなしています。とうぜんですけど、ま
るでファッションがその人の人柄を表わすように。
だからきっと、そこに醸し出される出版社の「構え」も、書店で本
を買うときの読者からの信頼を勝ちとる役割を担っているのでしょ
うね。
「ん、この版元の本は買って大丈夫」って。

「千年の祈り」(イーユン・リー/新潮クレストブックス)

この本のカバーデザインは、中国風の低い衣装ダンス(朝鮮のバッ
タリのような)の上に、いくつかの骨董品が置かれた写真でした。
たぶん明器(人を葬るときに使う容器)であろう青銅製の壺を花器
がわりに、その前に青磁と白磁の器が置かれ、その横に鉄製であり
ましょうか、足の部分を失った馬の置物が置かれています。
こんな素直なデザインですが、パッと見ただけでもう中国の香りが
匂いたつような気がして、エスニックな雰囲気にグッと誘われます
ね。作者の民族性を強調するカバーデザインです。

表題作は、離婚した娘を案じて、中国から父親がアメリカに来てい
る話でした。
父親を迎えてしばらく一緒に暮らす娘は、父親を疎んじているが、
それは最後に明かになる父親の過去の嘘によるものだ。娘に相手に
されない父親は、公園でイラン人の移民の夫人と知り合いになる。
ふたりともカタコトの英語しかしゃべれないが、母国語どうしで話
してもなんとなく話が通じる、つまり心が通うようになったようだ。

タイトルの「千年の祈り」とは、中国のことわざで、「だれかと同じ
船で川を渡るには300年祈らなければならない」ということで、父
親がイラン人の婦人に、
「お互いに会って話すには長い年月の祈りが必ずあったんです。こ
こに私たちがたどり着くためにです」と話す、そんな意味合いだっ
た。

父親はさらにこう続ける。
「どんな関係にも理由がある。それがことわざの意味です。夫と妻、
親と子、友達、敵、道で出会う知らない人、どんな関係だってそう
です。愛する人と枕を共にするには、そうしたいと祈って三千年か
かる。父と娘なら、おそらく千年でしょう。人は偶然に父と娘にな
るんじゃない、それは確かなことです。」

父と娘がきちんとした父と娘になるには、千年の祈りが必要だ。
その祈りとは、ひとのひとへの祈りだ。どんな出会いも関係づくり
も祈りの努力によるものだ。偶然でも運命でもない。神様や時間の
問題でもない。
この父親はたぶんそう言いたいのでしょうし、じっさいこのあと故
国に帰っても、死ぬまで祈り続けるのでしょう。

私たちもきっと同じです。(そして以前ご紹介した「へんな子じゃ
ないもん」の、祖母と母親と子ども(作者ノーマさん)もきっと同
じです。)
私たちも、そして作中の娘も、もし自分がだれになにを祈っている
のかを知り、だれとの関係をつくることを祈っているのかを理解す
れば、この父親の悲しみも嘘も理解できるのかもしれません。

人生のなかで長いあいだ続けられる祈りは、ひとが生きるために欠
かせない毎日の食事のようなものかもしれません。だから、ほんと
うの「祈り」とは、そこに期待される「ご利益」よりもむしろ、神
様も時間も場所も関係なく、それだけで自然に成り立つものかもし
れません。
と、またわかりにくいことを言ってみました。

最後にひとつだけ疑問を。
中国には本当にこんなことわざがあるのかなあ。
だってこのことばって、ちょっとカッコよすぎる気がしませんか? 
このことわざは、それだけでいくつものストーリーができてしまい
そうになるほど想像を刺激するし、奥が深くて格調も高く感じられ、
作りものだとしたら、ちょっとズルイ気がしませんか? 

ところが、そんな疑問を抱きつつこの本の美しいカバーデザインを
みていると、
「はい、お尋ねの件ですが、そのことわざは実際に三千年前の殷周
の時代からございまして、、、、」
などと、中国の歴史の先生からおだやかに教え諭されている気にさ
せられるわけですが。

ブログ129

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第128回 2019.02.22

「カバーデザインのたのしみ」

私は新潮社の関係者でもなんでもないので、宣伝をしているつも
りはないのですが(笑)、新潮クレストブックスという翻訳文学の
シリーズは、すばらしいカバーデザインが多くて嬉しくなります。
ブックカフェに置くにはもってこいの、気持ちのいいものばかり。

きっとシリーズ全体を統括する、優れたデザインセンスをもつディ
レクターさんがいるのだろうな。
それとこのシリーズの特徴として、祖国を離れた移民とかその子孫
とか、いろいろな民族的ルーツをもった作家が多いことがあります
が、これはきっと、こうした傾向の好きなプロデューサーさんがい
るのだろうな。ということで、

「停電の夜に」(ジュンパ・ラヒリ/新潮クレストブックス)

のデザインは、十数種のスパイスが入ったスパイスボックスを上か
ら映した写真と、その中央やや上にタイトルと作者名をクレジット
したもので、ボックスの中にはセージ、クミン、サフラン、トウガ
ラシ、シナモン、グローブ、月桂樹の葉、、、などなど色とりどりの
スパイスがあり、もうすでに豊かな多様性を醸しだしています。

作者のジュンパ・ラヒリは、両親ともカルカッタ出身のベンガル人
で、ロンドンに生まれアメリカで成長しています。ポートレートを
見ると、これがまた目の覚めるような彫りの深い美人さん。

ということになると、これからこの本を読むひとはこんなふうに感
じていいのでしょう。
アメリカの都会で移民として暮らし、多様な人種や文化に接した作
家の経験が、スパイスボックスのような豊かな色鮮やかさをもつ
短編に結実し、作家・内容・装丁すべてが調和した幸せな本になっ
たのだろう、と。

そのとおり、ここに収められている短編は、エスニック料理そのも
のの味というわけではないが、心のなかに遠いふるさとを抱える移
民たちの気持ちが香るものでした。

表題作は、インド系移民らしき30歳代の夫婦の物語。
あるとき五日間にわたって夜の八時から一時間の停電が知らされる。
彼らはその時間、ろうそくを灯しながら、いままでお互いに黙って
いたささいなことを打ち明け合うことになる。
それで夫婦の間がどうなるのだろうか、と読者は覗き見でもするよ
うに話につきあっていくと、ああ、やはり物語は単純にはいかない
のだった。

その、「単純にいかなさ」とか「期待の裏切られかた」のなかに、
なにかちょっとこう香辛料の香りがある、ような気がするのです。
・・・と、単純な読者(私)はこうやってカバーデザインの影響に
さらされてしまう。

ところで、ニューヨークタイムスの辛口のコラムニストであるミチ
コ・カクタニ(この人に泣かされた作家は何人もいるという)は、
この作家を評して「きわだって構えの美しい、高雅な作家だ」と言
ったそうです。
この、「作家の構えの美しさ」とはどういうことでしょうね?

私思うに、作家の作法のひとつとして、作中の人物を力づくで動か
そうとしないことがあるのではないでしょうか。なんというか、無
理にお話を作らない覚悟みたいなものが。
それは、読者に共感を強いる(お涙ちょうだい的な)ような書き方
をしないとか、あるいは作中に運命とか偶然を使わないとか、そん
な作法を含むことのような気がします。

この夫婦の話も、お互いの性格やこれまでの生活の背景がきちんと
あって、そのうえで「ひと」としてきちんと自立して動いている、
そんなふうに感じられ、それもまた作者の「構え」なのだと思いま
す。
ほらね、こういうふうに「構え」という表現を使うと、サリーを着
た美人さんの作家が、タイプライターを前にして優雅に踊りのポー
ズをとっているところを想像しちゃったりするでしょ? 
読者(私)はそうやって、カバーデザインの影響にさらされるわけ
ですよ。え? あなた、そんな想像はしないって? そうかなー?

それはともかく、この作者は、そうしようと思えばできるのに、民
族性を振りかざしてウケようとはしていない。そして、主人公夫婦
の普通の日々を細かいディテールで書くことで、リアリティを支え
ている。それがよくわかる。
だから物語の流れが自然で、まるで透き通った小川のせせらぎのよ
うに心地よく受けとめることができるのです。
そのような意味で、鼻筋、もとい、背筋のとおった書き手の姿勢が、
「美しい構え」として辛口の批評家をもうならせるのでしょう。

そしてこのカバーデザインは(原著オリジナルではなく日本でのデ
ザインらしいですが)、そうしたもろもろの意味を含めて、小説と
その作者の構えをすべて表わしている--物語の香りと多文化のも
つ美しさですが--ような気にさせられて、辛口の読者(私?)を
も、うならせるのでした。

ブログ128


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第127回 2019.02.15

「カバーデザインのおまじない」

本のカバーデザインがすばらしいと、それだけで嬉しくなって読ん
でみたくなってしまいます。
この気持ち、フト入った書店で、なにかに惹かれてフラフラッと棚
に近づき、なんとなく手に取ってパラパラッとページをめくる間も
なく、そのまま持ってトコトコとレジに行くという、いわゆる「本
に呼ばれた事故」の経験者にはわかっていただけることでしょう。

私どものようなブックカフェでも、店主お気に入りのカバーデザイ
ンの本は、やはり本棚に「面差し(表紙が見えるように置くこと)」
で置きたくなりますね。すると本棚が、まるで宝箱をひっくりかえ
したようになるのです(ちょっと大げさ)。たとえば、

「サフラン・キッチン」(ヤスミン・クラウザー/新潮クレストブックス)

のカバーは、コバルトブルーのイスラムタイルが組み合わさったデ
ザインで、小説の主要舞台であるイランという国を表わした美しい
ものでした。
私、こういう素敵なカバーの本にはもれなく「呼ばれ」ちゃいます。

主人公はイラン女性マリアム。第二次大戦後のイランの国情不安の
時代に育ち、わけあってイギリスにわたって結婚し、サラという娘
をもうける。
これは、イランとイギリスというふたつの文化のはざまの物語であ
り、マリアムとサラという母娘の物語であり、マリアムの過去(イ
スラムの小さな村の生活)への旅の物語でもあります。

印象的なのは、登場人物が、イランやイギリスで生きるうえでなに
を選択しなければならなかったか、なにを捨てなければならなかっ
たかという問いに真正面から向き合う姿です。
この本では、マリアムの、
「いろんな自由があるけれど、そのそれぞれに代償があるのよ。愛
する自由、旅する自由、所属する自由。どれかを選ぶと、べつのも
のをあきらめなきゃならないの」、ということばで、選ぶことの困
難と選ぶことによる責任が示されることになります。

そういえば「ソフィーの選択(ウィリアム・スタイロン/新潮社)」
もそうでした。
戦争の時代はとくに、どちらかを選ぶことが、どちらを選ぼうが自
分の大事な人を傷つけることになるという意味で、選択とは厳しい
代償を覚悟しなければならない行為だったのでした。
やはり、平和な時代とはそんな厳しい選択を迫られずにすむときだ
し、平和な国とはそういう厳しい選択に迫られない国なのだ、とい
うことを肝に銘じたいですね。

さてこの本の登場人物たちも、そうした厳しい選択を重ねるなかで
お互いを認め合い、そして許し合いながら生きる力を得ていきます。
まるで消化しにくい食べ物を栄養に変えるかのように。
そして彼らは、その選択が消化できようができまいが、次の選択を
していくのです。あるときは強いられてやむを得ず、あるときは人
間として力強く誇り高く生きるために、または人生の特別な瞬間の
ために、いやむしろ普通の生活の普通の行為として・・・。

その選択のなかで、娘サラ・マザールがかけることばが、たとえば
すばらしい赦しのことばとして、こう受けとめられる時が来る。
「うん、その言葉で、きみはぼくたちみんなを自由にしてくれたよ、
サラ・マザール--きみ自身を含めてね。それぞれが自分の望みど
おりにできるように」と。
こんな、他人への意図せざる赦しのことばは、自分の苦しい選択と
いう行為を通じてしか得られないし与えることのできないことばで
しょう。そしてまた、それを「赦し」として受けとめた側も、多く
の苦しい選択をしてきた人にちがいない、そう感じられます。

私たちは選択のしがらみと責任で自分と他人をしばり、さらに不自
由にしてしまうことが多い。まるでなにかを選ぶたびに重しが増え
るかのように。しかしそこから私たちは、他人を自由にしてあげる
赦しと祝福のことばを見つけることができるし、それを相手にあげ
ることによって自分も自由になれる。

・・・とは、なんかよくわからない呪文を述べているような気もし
ますが、魅力的なカバーデザインからも、そんなおまじないをかけ
られてしまったのかもしれません。

ブログ127

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第126回 2019.02.08

「確かに生きて暮していた人たちの手触り」

アメリカのトランプ大統領が票田にしている、いわゆる「ラストベ
ルト(錆びついた地帯)」は、伝統的な産業が衰退して工場労働者
が失業し、苦しい生活を強いられている地域といわれて有名になり
ました。

でもそこには西部開拓時代から豊かな農業があり、ちいさな町があ
り、それらはいずれも古き良きアメリカの象徴として、アメリカ人
の心のよりどころとされていたはずです。
私の大好きな映画「フィールド・オブ・ドリームス」(原作は「シ
ューレス・ジョー/パトリック・キンセラ」)の舞台もオハイオの
ちいさな町のトウモロコシ畑ですし、ボールゲーム(野球)ととも
にアメリカ人の「心のよりどころ感」をジンワリと表してくれてい
ました。
そして、そのもう少し前の時代のオハイオを舞台にした小説、

「ワインズバーグ、オハイオ」(シャーウッド・アンダーソン/新潮文庫)

も、そうした「心のよりどころ感」が確かに感じられる作品のひと
つです。
これは題名そのままに、オハイオ州のワインズバーグという架空の
小さな町の20世紀はじめごろのお話で、そこに住む住民一人ひとり
の、なんというか「銘々伝」みたいな逸話が、若き新聞記者ジョー
ジ・ウィラードの目をとおして語られていきます。まるで大昔にい
た人物たちの伝説のように。

ただしそこでは、なにか英雄的な行動とか劇的なドラマが起きたり
するわけではなく、普通の人の普通の日々の生活が、たんたんとつ
づられていくだけの連作なのです。(ものすごく昔、アメリカのテレ
ビドラマに、「ペイトンプレイス物語」というのがありましたけど、
雰囲気はあのセピアカラーの物語に近いものです。でもこのドラマ
知ってる人は少ないだろうな)

ここに登場する一人ひとりの住民はごく普通のひとなのですが、た
しかに少しずつ変わっていて、本の最初に、「これは、いびつな者た
ちの書だよ」という宣言みたいな章で予告されているのですが(原
語では「グロテスク」という言葉で)、グロとかいびつというよりは、
「少し残念な人たち」くらいに表現したほうがよさそうです。

たとえば、ハゲで小男のビドルボームは「いつでも怯えており、じ
ったいのない一連の疑念に苛まれていた。」
ジェシー・ベントリーは「狂信者だった。別の時代と場所に生まれ
た男であり、そのために苦しんだし、ほかの者たちも苦しめた。」
ジョー・ウェリングは「アイデアに取りつかれるのであり、一つの
アイデアによって発作を起こすと、手がつけられなくなるのだ。」
セス・リッチモンドは、「『無闇に深遠なやつ』と言われていた。『近
いうちにここから出ていくよ。見ているといい』」

こんな人たち・・・。
イヤイヤ、このようにつまみ食いしても、登場人物たちとこの町の
魅力をわかっていただくのは難しいですよね。たぶん、読まずに共
感していただくのは難しいことでしょう。
でも読み終わってみるとよくわかるのですが、彼らの「いびつさ」
とか「残念さかげん」「グロテスクぐあい」は、けっして異常なも
のとかデモーニッシュなものではないのです。その欲望とか夢とか
期待などは、私たちとまったく変わりないものですし、もうなんと
いうか、自分の帽子のなじみある匂いを思い出させてくれるような、
そんな人たちでもありました。

私たちとよく似たそんな登場人物たちのもつ弱さ、欠点、そしてそ
れによって失われてしまった生活、破れた夢、でも必死にしがみつ
こうとしている明日への希望、それらがすべて愛おしく、たぶんワ
インズバーグという町では彼らのそうしたいびつで変な部分が積み
重なって話され、町の新聞で伝えられ、それによって町として形づ
くられていったのだろうなということがわかります。

ここは架空の町だけど、きっとどの町でもこれらに似た人がいて、
似たことがあったのでしょう。
「スモールタウンこそアメリカの基本」ということばがあるそうで
すけど、ここには確かに普通の人たちの普通の夢があり、それがや
やいびつな形に現われ、そして町ができ、またややいびつな希望に
よって人が動き回り、それによってまた町が大きくなり、そういう
町がたくさん合わさってアメリカという国をつくった。

なので、産業がさびれるとメディアはそこをラストベルトなどと名
づけるけれど、こうして作られた小さな町々がなければアメリカで
はない、ということもよくわかるのです。
この小説の中には、アメリカをつくった人々が確かに暮らしている。
そして彼らの一人ひとりの物語は確かな手ざわりを残し、読む側は
じかに触れて彼らが愛おしくなる。ここにアメリカの「普通」がみ
える。
つまりすばらしく嬉しい作品なのです。もはや古典の部類に入る本
かもしれないけど、絶賛おすすめ中!

 

ブログ126

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第125回 2019.02.01

「特殊な世界のたどりつく先は?」

どうにもややこしい問題にはまり込んでしまったようで、その細か
く枝分かれした道のひとつをなんとなくトボトボと歩いていたら、
うわっ、こんな所にでてきてしまいました。

「服従」(ミシェル・ウェルベック/河出書房新社)

フランスで発表されて大きな衝撃を与え、2015年に日本で刊行され
てベストセラーになった小説です。

ときは2022年、フランスはイスラム系移民が増えていた。大統領
選挙ではイスラム系の候補が勝ち、その政党が政権を握る。
ユイスマンス(小説家で19世紀の耽美派の巨匠)を専門にする主
人公の大学教授は、最初、その事態もたいしたことにはならないだ
ろうとタカをくくっていたが、穏健な政策をかかげていたかにみえ
た政権党はじょじょにその本性をあらわし、フランスはイスラムの
国になっていく・・・。

これはビックリ、典型的なディストピア(ユートピアの逆)小説で
す。なにせ、キリスト教と植民地主義と合理精神で「特殊」になっ
た西欧の、その一方の雄フランスが、移民の増加によってついには
イスラム教の価値観に覆われる国になってしまうというところまで
「特殊」になっていくのですから。

この主人公は政治的なことはあまり真剣に考えない享楽的なひとで、
なんとなく理由も確信もなく楽天的に暮らし、社会や周囲のひとが
ドンドンドンドン状況に対応して変わっていくのにも無関心でいる。
そして最後には、やはりなんとなくという感じで自分もイスラム教
に改宗することで、それまでの「良い生活」を続けることに甘んじ
ようと決心する。
「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないも
のだ。ぼくは何も後悔しないだろう」などと言いつつ。
ひえーっ、この主人公の述懐、怖いですねー。自分だったらどうす
るだろう?

しかしこの主人公は特別なひとではなく、もちろん他の登場人物も
イスラム政党を選んだフランス国民も、ごく一般的な常識をもった
フランス人たちなのです。
さ、どうでしょう。
なにがって、これまで何回か追ってきた宿題についてです。

特殊なすじみちで自らのアイデンティティをつくってきたヨーロッ
パの、そのなかのフランスが、その特殊さによって移民の増加を招
き、移民が同化し共存し、文化は多様となり、そこまではいい未来
だったかもしれないが、そこで暮らすごく一般的な常識をもったフ
ランス人が、ついにはキリスト教国でもなければ自由・平等・博愛
の国でもなければ、EUの理念を追求する国でもない未来を選んで
しまうことになる。

つまりこの本では、「オリエンタリズム」などの考え方のワク組みを
真っ向から崩すことになる未来予測が、ガツンと出てきてしまった
のです。そんなワク組みなど軽く乗り越えて、現実はドントンドン
ドン別の道を進むだろう、っていうのです。
小説とはいえ、この想定は怖いですねえ、ブルブルブルッ。

でも、おかしいな。私はなんでこんなところに行きついてしまった
のだろう? 細い道のいくつか、たとえば遠いところにいる人たち
への共感とか、パレスチナの人々の尊厳とか、それらの対岸にある
ヨーロッパの特殊性とかをトボトボしていただけなのに・・・。

ブログ125

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第124回 2019.01.25

「やっぱりヨーロッパは自分の首を絞めていた、で日本は?」

おもわず何回もこの話題が続いておりますが、、、。
そんなポストコロニアリズム的な考え方からすると、ヨーロッパ
「が」特殊だ、と。世界はもう、ヨーロッパが「特殊」になる前に
は戻らない、と。責任者は出てこないし。怒ってもムダだし。
それは重々わかっているが、なぜか頭にくる。

ところがそんなことにおかまいなく、現実はドンドンドンドン先に
進んでいて、西欧諸国は力を失い、すべてにおいて先進的な取り組
みと思われたEUは肥大して政策的に行き詰まり、移民がドンドン
ドンドン増えて、政治・経済・文化の危機を迎えている、らしい。
いまこのとき、このようにしてヨーロッパのアイデンティティは揺
らいでいる・・・というのが、

「西洋の自死」(ダグラス・マレー/東洋経済新報社)

の見立てでした。「自死」とはなんとも強い表現ですね。原題では
「ストレンジ・デス」、つまり「奇妙な死」となっていました。
では、なにが奇妙で、なぜ訳者はそれを自死と訳したのか? 

移民の増加が問題なのだ。
若年層の工場労働者確保のためなどの理由で、ヨーロッパはこれま
で多くの移民を政策的に受け入れてきた。ドイツのトルコ移民、フ
ランスのイスラム系移民、イタリアやスペインの地中海対岸アフリ
カ諸国からの移民など、1970年代から継続的に受け入れてきた。
もちろん、それぞれの旧植民地からの移民難民も多い。

その後、中東でつづく紛争や、2011年のアラブの春、2015年から
つづくシリア内戦、イスラム国の伸張などにより、難民がトルコ国
境ギリシア国境を通りぬけ地中海を渡って、ドンドンドンドン、ヨ
ーロッパに押し寄せた。
自由で平等で進歩的で安全で、多くの収入が得られて社会保障が充
実しているヨーロッパは、移民難民の最終目的地だ。
だから彼らは、いちど来たらもう帰らない、帰れない。

移民難民の増加は私たちが日本から見ているよりもすごくて、たと
えばこの一年間の数は300万人とかいわれ、またたとえばロンドン
の住民の半分は移民か難民、もしくはその一世代二世代あとの人々
なのだ。

うわーっ、そんなだったの? 
どおりでワールドカップサッカーの出場チームが、肌の色がさまざ
まの多国籍軍にみえるわけですわ。
移民の比率がそこまで増えると、「一定の文化の継承」とか「似た
価値観をもつ」などが難しくなり、「同じ言語と宗教をもつ民族国家
としてのアイデンティティ」が揺るぐのは間違いありません。

ヨーロッパは、こうした流れを政策として進めてきたのです。
だから筆者は「奇妙」と名づけ、訳者は「自死」と翻訳したのでし
た。西欧の現状は、だれからも強制されたのではなく、自分の手で
行なってきた結果なのだといっているのです。

筆者の見立てを続けましょう。
この事態の背景には、ヨーロッパの人たちに、「かつての帝国主義
(植民地主義)に対する罪悪感」があり、「移民の受け入れに反対す
るのを極度にためらう心理」がある。そのため、移民に反対すると、
それだけで「遅れているヤツだ!」「人種差別主義者だ!」「多文化
共生をなんだと心得る!」、などと思われる可能性があったのだ。

また、人権援護の名目で軍事介入したイラク、アフガニスタン、リ
ビアなどを破綻国家にした失敗への責任感もあった。さらにさかの
ぼって、ナチスによるユダヤ人差別と迫害の歴史もあった。
こうしたことすべてが「歴史的罪悪感」として沈殿し、西欧諸国に
共通する罪と恥の意識となったのだ。

いっぽうで、多くの西欧人は、移民や難民の受け入れはやはり基本
的に正しいことだ、公正なことだと考えている。それにともなう
「人種や文化の多様性の推進」も、原則として支持されている。
ドイツのメルケル首相はけっして孤立しているわけではない。彼女
は、自由・平等・博愛の精神とおなじように長い時間をかけてつく
りあげられてきた理想を語っているのだから。
しかし、その結果がいまの移民と難民の数として現れたのだ。いず
れにしろ、もうあと戻りできない。

筆者のこうした悲観的な意見は説得力があります。
ただし私は、この考えにそうだそうだと言ってるだけではいけない
ぞ、以下のような、いくつかの考えや問いを付け足さなければ公平
ではないだろうな、と思いました。

・少なくともヨーロッパは、暴力を受けたものが他のものに暴力を
 ふるう連鎖を止めようとしているではないか。
・それはイスラエルとか中国とかロシアとか、あるいは他のイスラ
 ム系諸国とも明らかに異なる、成熟した態度ではないか。
・だから、筆者は「欧州の疲労」とか「実存的な疲れ(なんじゃそ
 れ?)」とか、ヨーロッパは「文化的資産を食いつぶしている」、
 あるいは「基盤となる物語を失った」と書くけれど、それはやや
 大げさではないか。
・ヨーロッパでのテロの増加は、筆者の言うようなイスラム教だけ
 の問題ではないのではないか。生活の貧困、同化の失敗もある。
 それに、あまりに急激に増えた移民難民の数を考えると、失敗と
 いう表現を使うのはいかにもかわいそうだ。長い目でやや楽観的
 に見ると、同化・共生の途中経過における齟齬とあつれき、とい
 う見方もできるのではないか。

・一番の問題は、では私たち日本はどうか?ということだ。
 日本は西欧のようには特殊ではないのか? 西欧のような偏見の
 なさとか、心の広さとか、反人種差別とかを美徳として養ってき
 たか? というか、どんな美徳や正義を養ってきたのか? 自由
 ・平等・博愛の精神はあるか? そしていま、人口減少やそれに
 ともなう若年労働者の減少をどうするか、真剣に考えているか?
 それを移民・難民問題とセットにしてきちんと議論しているか? 
 入国管理法の改正は、なにをどこまで考慮に含めているのか? 
 などなど。

ようは西欧を鏡として見て、日本はどうだ? 日本は大丈夫か?
っつーことなんですけど・・・。もしかしたら日本の方がもっと特
殊になってるのかもしれませんぜ、皆の衆。さらにつづく。

 

ブログ124

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第123回 2019.01.18

「ヨーロッパこそ特殊、という見方」

パレスチナやイスラエル、そして紛争続くシリアといった中東世界
のことを、遠く離れた日本の片隅の小さなカフェから見る、しかも
報道やノンフィクションではなく文学をとおして見る、いや読む。
そんな行為が、自分の生活にとってどのような価値をもつものかは
わかりません。しかし、なにかからご指名をうけてしまった気もす
るし、つきつけられた問いに答えたいし、なによりもっと知りたい
という気持ちがおさえられません。

簡単には知りえない、むずかしい現実。
なにせ、どんな報道もある程度はなにかしらの色に染まっていて、
信じられるものばかりではない。、また、第二次大戦後の70年間で
グチャグチャになって、さらにいままたグチャグチャになろうとし
ている中東世界を、私たちが簡単に理解できるとも思えない。

とはいえ、確実な情報が少ないのであれば、よけいに想像力の力を
借りるしかない。そこに文学の出番がありました。
さらに、簡単には理解しがたいものには、なにがしかの「考え方の
ワク組み」を使ってみることができるかもしれない。ここに思想の
出番があります。
そこでひとつの「考え方のワク組み」を得るために、

「ポストコロニアリズム」(本橋哲也/岩波新書)

を読んでみました。
ポストコロニアリズムとは、どういうものか?
それは、植民地主義のすさまじい暴力にさらされてきた人々の視点
から逆に西欧近代の歴史をとらえかえし、現在におよぶその影響を
考察しようとすることのようです。

ようは、西洋中心で語られてきた歴史ではなく、植民地化され搾取
されてきた側から歴史をとらえ直すことです。
するとまず、これまでの教科書的な歴史観である、「先に進歩した西
洋が遅れていた非西洋(中近東やアフリカやアジア)を征服したが、
やがて非西洋が力をつけて植民地主義を克服して独立し、近代国家
の仲間入りを果たす」、という認識が誤りだとするのです。

むしろ逆に、「植民地支配の歴史が、『特殊な地域』としてのヨーロ
ッパを形づくってきた」と考えなれればならないらしい。
つまり、大航海時代以降に暴力的に植民地をたくさん持ってしまっ
たことによって、西洋こそが自分自身を「特殊な国」にしたてあげ
てきたのではないか。中近東やアフリカや東洋の遅れた国々が特殊
なのではなくて、それらを植民地にした国が、そのことによってい
びつで特殊な国になってしまったのではないか。

この本ではこんな考え方が、フランツ・ファノン、エドワード・サ
イード、ガッサン・カナファーニー、ガヤトリ・スピヴァクなどの
思想とともに述べられていきます。
おお、なんとすばらしい思想家のラインナップでありましょうか!

たとえば、エドワード・サイードの著書「オリエンタリズム」から
は、「オリエントを自分とは異なるものとして疎外することによっ
て、ヨーロッパのアイデンティティは成立してきた。」
「我々、西方ヨーロッパは、合理的・平和的・自由主義的・論理的
であり、彼ら東方オリエントは、すべてその正反対とされる。」
などということばが引用されます。

ヨーロッパはこう考えて行動することで、いまのヨーロッパになっ
たのだというのです。世界中の「自分と異なる文化」を異物として
認識し、それらを合理的に攻撃し、論理的に殲滅し、それらの要素
を自分のからだと心からそぎ落とすことによって、彼らは「自由で
平和なヨーロッパ」という自我を確立した。
インカを滅ぼしたコルテスの時代から、いやもっと昔、十字軍がア
ラブ世界に侵入した時代から、いやじつは、東方の世界を「アジア」
と名づけた古代ギリシアの時代からずっと・・・。

なるほど、こうなるとまるで、ヨーロッパ(というひと)の精神を
読み解くフロイト理論みたいですね。
たしかに、あらためて考えてみると、近代ヨーロッパの自由・平等
・博愛という理想や、個人の尊厳とか表現の自由などという価値観
も、いってみれば、彼らからみて野蛮で未開の地域を「鏡」として
発展させてきたように思えます。

どういうことかというと、奴隷制がアテネの民主政を成りたたせて
いたように、植民地支配がヨーロッパの進化論、なかでも優生思想
や進歩主義、あるいは革命思想や民主主義などを成り立たせ、発展
させる基盤となっていたのかもしれないということです。
はい、なんとなくわかるような気がしてきましたゾ。
西洋は、東方世界を疎外して自己を確立したから、いびつな性格に
なってしまった。

また、それには植民地が経済的な寄与もした。
西洋は、植民地を支配し管理し搾取し管財することによって、さら
にそれらの国の考え方を吸収しつつ反発することによって、ようや
く自分自身を確立することができたのだ。まるで召使いがいないと
自分が何者だかわからず、ひとりではなにもできない貴族のように。
ひるがえって、中国とかペルシャとかは、なんというか、自分の力
で中国になりペルシャになったといえるような気がするのです(意
味通じますでしょうか?)。

こういうことですから、つまり・・・ヨーロッパ「が」、特殊なん
ですよね。なんて弱いやつらだったんだ、って話です。

そしてそんなヨーロッパが、たとえばとりわけイギリス大英帝国が
第二次大戦後に、自身は戦争でヨレヨレになりながらもプライドを
捨てきれずに裁判官みたいなまねをして、ユダヤ人にパレスチナの
地を約束してしまい、自分では責任とれないくせに中東の分割を進
めてしまい、西洋中心の国連がそれを後押しした、というのが、こ
の70年間のグチャグチャの始まりだったわけです。

どーすんだ、アラビアのロレンス君! まったくもう。
西方ヨーロッパが海に乗り出さずに、アメリカやアフリカや中東や
インドやアジアを征服せず、植民地もつくらなかったらこんなこと
にはならなかったじゃないか! だいたい、何世紀ものあいだ植民
地をかえていた西ヨーロッパ列強諸国は、いま現在、どこも多民族
国家になって、これらの国のサッカーチームはどこもアフリカ系の
人々がたくさんレギュラーにいるから強いんじゃないか! 
責任者でてこい、もとに戻せ!

・・・本の紹介が中途半端に終わり、さらになにに対して怒ってい
るかわからなくなりましたが、なんだか頭に来た。
ポストコロニアリズムのような「考え方のワク組み」を採用すると、
少しは中東のことが理解できたような気がするものの、あらためて
しみじみと腹が立つったらありません。

 

ブログ123

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第122回 2019.01.10

「パレスチナを想いつつ、想像の共同体の一員に」

かつてユダヤ人がそういわれたように、いまはパレスチナ人が「離
散の民」「流浪の民」とよばれています。
彼らはたくさん殺され、たくさん難民キャンプに暮らし、いまでも
国際政治のしがらみのどまんなかにあって、長引く戦乱から逃れ続
けています。いっぽうイギリスは紛争から手を引き、アメリカはイ
スラエルの後押しをし、ロシアは隣国シリアの利権をねらう。
私たちはそんな報道記事を読み、ニュース映像を見て、もっと目を
開けてしっかり見ろと言われながらも、見られたり見られなかった
りしている。
そして「彼らはいったい、この先どうなるんだ?」と不安に思う。

たとえばパレスチナ出身のエドワード・W・サイードは、「パレスチ
ナとは何か」(岩波書店)のなかで、
「私たち(パレスチナ人)が過去のパレスチナから離れれば離れる
ほど、私たちの身分はいっそう怪しくなり、私たちの存在はますま
す分裂し、私たちのあり方(プレゼンス)は、さらに間歇的なもの
となる」といいます。
つまり、自分たちはいったい何者なんだ?というのです。

イスラエルに追い出され、同じ民族のアラブ諸国にじゃま者あつか
いされ、国連からは見放され、あるものは国境としてつくられた高
い塀の中に閉じ込められ、あるものは諸国を転々としている、そん
な自分たちは、いったい何者なんだ? 
「私たちは存在しているのだろうか。いかなる証拠があるというの
か(サイード)」と嘆くのも当然のことです。

その嘆きになにかしらの形で応えるには、日本に住む私たちも彼ら
の存在を確かめるための証拠あつめを手伝わなければならないでし
ょう。そのための参考資料としては、もちろんジャーナリスティッ
クな現場報告も貴重ですが、同じようにお役に立つのが、

「アラブ、祈りとしての文学」(岡 真理/みすず書房) です。

これは文学評論ですが、この本のオビがまたカッコいいんですよ。
「小説を読むことは他者の生を自らの経験として生きることだ。絶
望的な情況におかれた人々の尊厳を想い、非在の贖いとしての共同
性を希求する新たな批評の到来。」
ね、すごく格調高い文章でしょ? 想像力を刺激しますでしょ?
他者の生とか、人びとの尊厳とか、非在の贖い(あがない)とか、
これはきっと、みすず書房の女性編集者(きっと30歳代後半、大
学ではジャーナリスト志望だった)あたりの手わざでしょうな。

おっといけません、いけません、オビの文章なんかにひっかかって
いる場合ではない。内容のご紹介をしなければ。
この本は、広い地域にいるアラブ人作家をあつかいながら、とはい
え読む側の印象としては、サイードやカナファーニーなどパレスチ
ナに深く関係する書き手への共感的な解説がつよく印象に残る評論
でした。
そして筆者の、アラブ世界で社会的弱者になってしまった人々にた
いするつよい関心とあいまって、私たちに、文学からなにを受け取
れるのかのヒントを与えてくれるものでした。

そのなかで、いちばん考えさせられたのが、やはりこの問い。
ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを
繰り返すのか? 残酷なことをされた人々が、なぜ他の人に残酷な
ことをするのか? なぜ迫害は連鎖するのか?
そして筆者はこの問いを、
「ホロコーストというレイシズム(人種差別)による悲劇の経験を、
私たちはいかにして、イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人に対す
るレイシズムを克服する契機となしうるのか」、と言い直します。

前回と同じ問いですが、ヘタに関わると自分たちの頭も複雑骨折し
そうな難しい問いです。しかしこの問いは私たちも避けられません。
おおげさにいえば、正義とはなにかということ、そして逆に、ひと
はなぜ不正義の連鎖に加担するのか、ということなのですから。

ただし筆者のこの問いは、「解きがたい問い」を他人に投げかけっぱ
なしにするのではなく、イスラエルもパレスチナもともに、解決に
向かって前に進むためになにが必要かを考えようしている。
さらには、おなじ問いを遠く離れた私たち日本人にも共通のものに
しようとしている、そう感じられます。
つまり、互いの非難に終わるのではなく協力して解決するための問
いであり、さらには自分たち(筆者を含めた私たち)もその問いを
引き受けようというのです。

よけいわかりにくくなったかもしれません。
どんな民族でも国でも、同じようなことを過去に行い、同じような
体験を持ち続けたり、逆にそれを忘れたふりをしたりしている。
つまり、自分たちもいつまた弱者とか被迫害者とか被追放者となる
かもしれないし、その逆になるかもしれないということに想像がい
たらないでいる。じつは、そのどちらになったとしても、「私たち
は存在しているのだろうか」というサイードの疑問は、自分たちの
影のようにいつまでもついて回るはずなのに、です。

ぜんぜんわかりにくくなりましたか。すいません。
しかし私たちはアラブの小説を読んで、少しは混乱してもいいので
はないでしょうか。私はそんな気がします。混乱し、とまどい、自
分が混乱したりとまどっていることにいらだつのですが、それは神
様も、殺された子どもも、難民も、たぶん許してくれるのではない
かと思うのです。

すると、
「死者たちの痛みと夢を分かち持つかぎりにおいて私たちはみな、
『このようなことが決して起こらないこととしての祖国』(これは
カナファーニーの表現でした)と、起こらなかったけれども起こり
えたかもしれない別の世界の可能性を想像する共同体の一員となる
だろう」という筆者の感想--これは「祈り」ですね--が、ダイ
レクトに私のなかに染み込んでくるのでした。

 

ブログ122

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第121回 2018.12.28

「祖国を失った人々のまごうことなき現実」

小説が自分の知らない世界に目を開かせてくれる。
それは、私たちがなんとなく目をそむけている現実にひき会わせて
くれるということもありますし、報道やノンフィクション以上に私
たちの想像力をかきたてて、もっと知りたいと思わせてくれること
でもあります。
書斎やカフェや電車でそんな小説を読む私たちは、「この状況に目
をそむけていていいのか?」とか、「きみだったらどうするか?」と
いう、本の向こう側からの指さしにさらされるときがあります。
そんなとき、あなたならどう応えますか?

「ハイファに戻って」(ガッサーン・カナファーニー/河出書房新社)

は、日本から遠く離れたパレスチナを舞台にした短編。
パレスチナの海岸にある都市ハイファ出身のサイードは、妻ソフィ
アとともに20年ぶりに故郷のハイファに帰る。1948年にハイファ
は、突然イギリス軍の攻撃をうけ民衆は追放され、そのとき新婚で
生まれたばかりの子どもをもつサイード夫妻も同じように街を追わ
れ、その後、街はイスラエル軍に占領されたのだ。

その20年後、ハイファがイスラエル領として確定してしまったの
で、彼らはようやく故郷を訪れることができるようになった。
つまりそれは、パレスチナ人の彼らが、いまはイスラエル領になっ
た故郷の町へと「他国を訪問する」という形でだ。元の自分たちの
家がどうなっているかを見て、なによりそのとき生き別れた息子ハ
ルドゥンの消息を求めて・・・。

記憶を頼りに探し当てたわが家は、とうぜん、ユダヤ人入植者によ
って接収されていた。そして、生き別れたハルドゥンは、彼らの息
子として、つまりユダヤ人として育てられ成長していた。ドウフと
いう名前を与えられて、しかもパレスチナと戦うイスラエル軍の兵
となって。

サイードと妻ソフィアはパレスチナ人。
彼らが故郷を追われた後、ハルドゥンのつぎに別の町で生まれた次
男ハーリドは、パレスチナの軍隊であるフェダイーンに入隊してい
る。
いっぽう、サイードの家を接収してハルドゥンを育てた夫婦の妻ミ
リアムは、ユダヤ人。父を第二次大戦中にアウシュヴィッツで亡く
し、その後ワルシャワからイスラエルに逃れてきた。夫はシナイ半
島で戦死、そしてサイードの息子ドウフを、アラブ人でありながら
ユダヤ人としてイスラエル軍の兵隊に育てた! 
となるとハルドゥン=ドウフは、実の弟のハーリドといずれは戦場
で戦うことになるだろう。なんてことだ、なんたるめぐりあわせだ。

ユダヤ人として育てられ教育を受けたドウフは、実の親と再会して
その事情を知った後でも、自分を見捨てた彼らを恨み、自分を置き
去りにした生みの親を卑怯だといい放つ。
それは、置き去りにされたものとしては当然の感傷かもしれない。

これは悲劇としかいいようがありません。
しかしそれだけでなく、もっと根本的なことも私たち読者に突きつ
けられていたのです。
それは、人種差別や内戦で残酷な扱いを受けた人々(ユダヤ人)が、
それを理由に別の場所で別の人々(パレスティナ人)に残酷な扱い
をする、その連鎖の恐ろしさです。
なんでこんなことになってしまうのだろう。

主人公サイードのことば、
「私たちは彼(ハルドゥン)を失ったのだ。しかし疑いなく、こう
なっては彼は自らをも喪失してしまっている。」
つまり、この小説の登場人物はユダヤ人入植者の夫婦も含めてみな、
死んだ人以外は例外なく「みずからを喪失したもの」たちなのです。
「祖国とはなんだろう?」サイードはそう自問し、答えます。「祖国
とは、このようなすべてのことが起こってはいけないところのこと
なのだよ」。

さて、この本の著者カナファーニーも、1972年に36歳でテロにあっ
て殺されます。「そのようなこと」が起こってはならないはずだった
のに・・・。
このように、遠い日本からはよく見えないパレスチナのこと、イス
ラエルのこと、祖国を失った人々のこと、私たちが目をそむけてい
るかもしれないその現状。それはだれにとってもイタイ現実だけれ
ど、おまえも目を開けて見ろと指さしされた以上、もっと知らなく
てはなりません。

ブログ121

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第120回 2018.12.21

「だれを対話の相手に選ぶか ~独学の哲学者」

おもしろいことに、そんな16世紀のモンテーニュ氏を対話の相手
にして、自分の思索を深めた20世紀のアメリカ人がいます。
エリック・ホッファーは1902年生まれ、ドイツ移民の子息で、目
を患ったために学校に行けず、アメリカ中を季節労働者として渡り
歩きながら独学で勉強し、晩年はサンフランシスコで沖仲士(船の
荷卸や荷積みをする肉体労働者)として働きながら独自の哲学を紡
いだ方でした。

彼の自伝には、34歳の冬にモンテーニュと出会い、「読むたびに私
のことが書かれている気がしたし、どのページにも私がいた」と書
かれています。だから彼は、本のなかのモンテーニュと対話しなが
ら生活した。友人と話すときもたびたびモンテーニュを引用するも
のだから、どんな議論になっても「モンテーニュはなんて言ってる
んだい?」と聞かれるほどになってしまった。

そういうことって、ありますよね。
なにかにつけ、「あの人」はこの件についてどう感じて、どう言って
いるんだろうと、気になってしょうがない人がいることって。
たぶん、ある意味、「その人」に恋しちゃったようなもんでしょう。
自分でもよくわからないけど、その人といつもなにかしら頭のなか
で話し合ってしまう、そういうことってありますよね。

ホッファーは神様でも恋人でも友だちでもなく、たまたま出会った
モンテーニュを対話の相手に選んだ、それがよくわかるのが、
「人々にまじって生活しながら、しかも孤独でいる。これが、創造
にとって最適な状況である」などとうそぶく、

「波止場日記」(エリック・ホッファー/みすず書房) でした。

この日記のなかには、みずからの思索を立ち上げて自分を確立させ
ようとする彼の「エセー(試み)」の努力がつまっています。
たとえば、「自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかが
まったく念頭にないことに気づくと、うれしくなる。いつも感じて
いるのだが、自己にとらわれるのは不健全である。」なんてね。

または、
「世間は私に対して何ら尽くす義務はない、という確信からかすか
な喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかであ
る。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の
著述を毎日。これが、わたしにとっては生活のすべてである。」

あるいは、「しなければならないことをしないとき、人間は孤独を感
じる。能力を十全に発揮-成長-するときにのみ、人はこの世に根
をおろし、くつろぐことができる。」
そんなときはたぶん、
「この惑星上においては人間は異邦人である、と考えるといつも興
奮をおぼえる。この世界ですっかりくつろいだ気分になるというの
は、動物の性質を共有するということである」、となったり、
「私たちのすることはすべて適切であり、言うことすべてに意味が
あり、見るものすべてが忘れがたい」、そんな状態のときなのだ。

えっと、「くつろぐ」ということばに反応して少しだけ寄り道いた
しますが、「ある人の価値は、なによりも、その人がどれくらい自
分自身から解放されているかによって決まる」といったのがアイン
シュタインでしたし、「くつろぐとは、右手のすることを左手に知
らさないことだ」とするのが禅仏教の教えでした。
「くつろぐ」ということばでも、けっこういろいろ言えるものです。
カフェでお茶してくつろいでいるだけが「くつろぐ」ではない。

それはともかく・・・どーですかお客さん、まるで400年の時を隔
てて、モンテーニュの声を聞くみたいでしょう?
彼は「エセー」を読んで、自分にもなにかこういったものが書ける
かもしれないと考え、書いた。そしてそれを読んでいるこの私にと
っても「どのページにも私がいる」と思えるものでした。

ただ、違いという意味では、ホッファーとモンテーニュを大きく分
かつのが、「労働」に関するところではないでしょうか。
自分では肉体労働をしない16世紀の貴族であるモンテーニュとち
がって、紹介所から派遣されて肉体労働をこなす日雇いの日々をお
くるホッファー。彼はどうあっても自分の肉体と会話し、その日の
体調の言い分を思索に反映せざるをえません。
たとえばこんなふうに、
「午前五時。独善的になっている。長い仕事の後にはいつもこうな
る。仕事は蟻を残忍にするばかりでなく人間をも残忍にする(と、
トルストイがどこかで言っていた)」。

彼にとっては、日々の労働と自分の思索が、はなれがたく結びつい
ている。というか、労働じたいから思索がはじまる。精神と肉体は
いっしょのものだ。両者があいまって独自の思索が生まれるという
信念をもっている。
小人の比喩でいうと(だいぶ飽きましたけど)、私には、彼の中の
精神派と肉体派の小人が真剣に対話する姿が目に浮かびましたね。

その点で彼はモンテーニュよりも、哲学と神学の優秀な学徒であ
りながら過酷な工場労働者となって祈りにも似た思想を世におくり
出した、シモーヌ・ヴェイユに近いのかもしれません。
この日記が思索の断片であるにもかかわらず、「知識人と大衆」と
か「労働意欲の問題」とかの、なんというか現在につうじる「3K
現場的」な骨太のテーマが立ち現われてくるのは、彼が身体の言い
分を聴きつつ思索したところに要因がありそうです。

すると彼は、モンテーニュとではなく、モンテーニュの衣を借りて
自分のなかの肉体労働者、つまり1959年のアメリカの、不安定な
雇用条件の大衆(その多くは黒人や移民)と対話をしていたといえ
るのかもしれませんね。もちろんこれが正しく「考える」という行
為でしょうし、彼はそのように哲学者としての王道を歩んだのだ、
と思いました。

 

ブログ

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第119回 2018.12.14

「自分と対話して、それをオープンにした人」

対話にはいろいろな形があるでしょう。
家族や隣人との一対一の対話もあり、集団での対話もあるでしょう。
イエス・キリストを仲介に立てての神様との対話もあるでしょう。
ところが、いや、そんなことの前にとりあえずいまの自分自身と対
話し、それをそのまま書いてみんなに見せちゃおう、としたのがモ
ンテーニュというおひとでした。

なんとまあオープンで、ぶっちゃけな人だったのでしょう。しかも、
16世紀のフランスの話ですよ。まわりにあるのは、神とか信仰とか
の抹香くさい話か、さもなければ王権とか陰謀とか戦争とかの生臭
い話ばっかりだった時代。
だから迷惑な話ですよ。まわりの人からみたら、この「オープンな
ひと」というのも、逆にずいぶんやっかいなジジイだったと思いま
すね(じつはジジイというほどの年寄りではなかったけど)。

「ミシェル 城館の人 ⅠⅡⅢ」(堀田善衛/集英社)

ときは16世紀フランス、宗教戦争という名のもとにカトリックとプ
ロテスタントの激しい抗争、王家と貴族どおしの仁義なき戦いが延
々と繰り広げられていたとき、新興貴族ミシェル・ド・モンテーニ
ュ氏は戦乱から身を離し、宮廷生活から逃れ、自分の城の塔にこも
って「エセー」という随筆を執筆した。

「エセー」は、ミシェル・ド・モンテーニュ氏が「自己のみを研究
の対象」としてつづった「自己探求の試み」でありました。それは、
「自身を隣人か一本の立ち木のようなものとして」眺める、つまり
自己との対話に他ならないものでありました。
えーと、だから、小人どおしの話しあいを上から客観的に眺めるご
本人がいて、その内幕をぜんぶお見せしましょうということですね。

そして、「自分の思想と語り合うことほど、その人の心しだいで惰
弱な仕事ともなり、強烈な仕事ともなるものはない」とかなんとか
言いながら、つまり弱気になったり強気になったりしながら、塔の
部屋のなかで自分と向き合っていたのです。

彼は、宗教の争いやそれをきっかけにした王家の権力争いに倦んで
いたのでしょう。日本でいえば、戦乱に倦んだ西行とか、世の無常
を観じた兼好法師みたいなひとでした。
ただ、そのころは宗教の時代ですから、なにを考えるにも神様抜き
には考えられないはずです。カトリックとプロテスタントの違いだ
けでなく、王家の正統あらそいや国の治めかたにも信仰は大きくか
かわる話でしたし、貴族と庶民の関係も、どう働いて日々の糧を得
るかにしても、生きるうえでの倫理や道徳の問題にしても、すべか
らく神様抜きには考えようがなかったはずです。

ところがおもしろいことに、「エセー」の中には新約聖書からの引用
がない。神様のことばもイエスのことばもない。神様の教えにぜん
ぜん頼っていない。だから、神様とは対話していない。
西行や兼好法師のような宗教(こちらは仏教)的な感慨も、ない。
つまりモンテーニュは、神を信じる敬虔なカトリック教徒でありな
がら神やイエスを対話の相手とせずに、自分とだけ対話することを
選んだ。教会で神父に懺悔したり、イエスを行動指針にしたり、カ
フェのマスターと神様の愚痴をいいあったり(まだカフェはなかっ
たけど)するより、ひとり自分の部屋で、ギリシアやローマの古典
をひもときながら自分と対話(思索)することを選んだわけです。

堀田さんよれば、だから「モンテーニュが『エセー』をつくり、『エ
セー』がモンテーニュをつくった」ということになります。
このことば、よく理解できますよね。つまり、土をこねて自分とい
う器を作るように、自分と対話することで自分を練りあげていった
のです。

さて、堀田さんのような手練れの文学者の案内によって、こうして
モンテーニュの歩みをたどることができるのは、まことに楽しいか
ぎりです。まるでベテランのガイドさんに世界遺産をじっくり案内
してもらっているようなものです(三巻もあるので、ちょっと長め
の疲れるツアーですけど)。
もちろんここではモンテーニュの思想をご紹介することはできませ
んし、堀田さんのガイドの方法、つまり思想家の評伝を書く作法に
踏み込むこともできません。ですので、ここではやはり「対話」を
キーワードにして、少しだけ16世紀フランス・ルネサンスの一人の
思想家の「思考」に想いをはせることにしましょう。

さて、神様のような絶対的な存在と対話をすることは、時として息
苦しい思いをさせられることになるのはまちがいない。モンテーニ
ュも「あの超越的な思想というやつは、近づくことのできない高い
場所のように、私を恐れさせる」といいます。(これにたいして、
神様や「超越的な思想」とタイマンで対話しようとしたのがパスカ
ルでした。勇気あるなあ、あのひと)

神学論争なんて学者さんや教会の偉いさんたちのする特権的なこと
だし、だいいち現実のこの泥沼の戦争状態の解決に役立っていない。
そんな、よりよく生きるために役立たないものなら、私にゃ関係な
いものだ。だいたい「人間の知識はすべて相対的なもの」なんだ。
その意味では、神父も学者も、偉い人も農民も、王様も乞食も、誰
もが五十歩百歩さ。
彼はこう考えていたはずです。

ただ、「普遍にして絶対的な真理が神様のもとにしかないとしても、
『相対的な真理』を見出す手段はある」、と彼は言い、それは堀田
先生の表現では、「モンテーニュ氏の答えは単純かつ明快である-
-話し合え、というものであった」。
へえー、ほーっ、だれと? 他人と!
絶対的な神様ではなく、他人と話し合え。それが自分を鍛えるのだ。
それが長い間自己を探究し、自分自身と話し合って得た彼のひとつ
の結論なのだった・・・と堀田先生はいいます。

ありゃりゃ。
相対的な真理を得るためには他人と話し合え、ですと?
対話の相手とすべきものが、神様から自分自身へ、そして自分自身
から他人へと変わってきてしまいました。おもしろいですね、一周
廻って隣に戻ってきた感じです。やっぱり「もともと私たちは、他
人がいなければきちんと考えなれない」のかしら。

ブログ119

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第118回 2018.12.07

「だれと対話するか? だれを相手にどこへ行く?」

カフェでお客さんとお話ししたり、ワークショップに参加している
とき、ときとして、自分の考えと相手の方の考えがあわさって化学
変化を起こし、考えてもいなかったアイデアが膨れるときがありま
す。まるで小麦粉がイースト菌によって何倍にもなるような感じで。
それを「新しいコトの創造」とまでいうのは、あまりカッコよすぎ
てはばかれますけれど、自分たちの意識や考えが上の次元に引き上
げられて、見える景色が広がったような晴れがましい気分になるの
です。
対話の力が偉大だと思うのは、まさにそういうときです。

さてそこで、あらためて考えますに、自分の「思考」というものは、
自分の心のなかで「対話」をすることではないでしょうか?
どうでしょう? 
いきなり「対話」をこんなところにまで広げていいのかな、という
気もしますけれど、とりあえず、思考とは「自分の中での対話」と
いうことでよろしくお願いしたい。

自分のなかで何人かの小人が、身体や内臓の情報やら外部からの刺
激などによってどうしよどうしよと右往左往し、ああだこうだと勝
手にしゃべっているのが「感情・意識」で、それを小人どおしで話
しているのが「思考」ではないかと私は思うのです。
「オレこう思うんだけど、キミどう?」「いやワシはこう思う」って。

すると、自分のなかの多種多様な主張である小人どうしの間で、質
の良い対話ができれば、それは創造的な「思考」になるはずです。
えーと、なに言ってんだかわからんとか、ご異論とかもおありでし
ょうが、とりあえずそういうことでよろしくお願いをしたい。

自分の頭の中で何人かの小人が、あーでもないこーでもないと話し
あっている。ただ、たいがいそれは一方的な意見の応酬で、つまり
は川の流れに浮かんでは消える泡のよう妄想に近いものだ。なので、
それだけでは「私の思考」は千々に乱れるばかりだ。

だとすると、その「小人どおしの主張しあい」を、もう一人の「私」
がそのヨコで冷静沈着に客観的に見ることができれば、どんなにか
いいのに。そうすれば、妄想とか小さな感触とかが、より大きな考
えにまとまったり新しいアイデアが生まれるかもしれない。つまり
「私」がファシリテーターになって彼らの話し合いを活性化し、ま
とめていくことができたら、どんなにいいだろう・・・。

さて、すでに私の頭のなかの小人の話しあいになっちゃっています
が、ふと思いついちゃったのは、じつはぜんぜん別のことでした。
小人たちではなく、心のなかで「神様」と自分が対話しているのが、
信仰をもつ方の対話の作法なのではないかと思っちゃったのです。
とりわけユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった、一神教信仰
の方がたの信仰とその意識のありようではないかと。
飛躍しすぎかもしれませんが、これまた、とりあえずそういうこと
お願いしつつ、サクサクと

「キリスト教は役に立つか」(来住英俊/新潮選書)

のご紹介にうつりたい。
来住(きし)さんはカトリックの神父さん。
ま、宗教についてのいろいろ難しい話はおいておいて、神様は自分
の対話の相手としてお友だちのようにつきあえばいいんですよ、と
いった雰囲気で、「キリスト教は役に立つ」「それは孤独にも効く」
とおっしゃって、頭のできの悪い私たちを優しく慰めてくれる本で
した。
祈りとは対話である。神はいつもそこにいる。神には文句も言える。
だから神との対話は生きる役に立つ、神父はこうおっしゃるのです。
おおそうか、対話だけでなく、神様には文句を言ってもいいのか!
そんなら、ケンカも議論もラップもツイートもできる。

ひとが心の中でおこなう対話は、往々にして堂々巡りする。頭のな
かの小人たちは一人ひとり勝手なやつなので、すぐ一人よがりにな
り、現実離れして妄想におちいり、煩悩にはまりこんでしまう。
しかし神様との対話は自問自答ではないから、堂々巡りしない。
そう神父は言い、「自分の言葉が何かにぶつかって、受けとめられ
ているという感覚がある」として、アビラのテレジアという方の、
「キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリスト
と、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩む
ことである」ということばをひきます。

これが信仰の要点のひとつだというのです。
さすれば、私たちがよく聞く「なぜ人間イエス・キリストは神に遣
わされたのか」というお話も、それはイエスが私たちと神との対話
を仲立ちしてくれるからだ、という意味合いなら嬉しい知らせなの
かもしれません。
だって私たち弱い人間は、絶対的に偉くて間違えのない神様と向き
合って対話するなんて、耐えられそうにないからです。できれば生
身のからだをもつ隣のおじさんみたいな人に、対話の仲立ちという
か仲介役というかファシリテーターをしてほしいのです。また、そ
うすれば、頭のなかの未熟でおバカな小人たちのふるまいに悩まさ
れずにすむというわけです。

ということで私たちは、(写真を拝見しても)ものすごく隣のおじ
さんみたいな来住神父に、宗教なんてそう難しく考えないで、いつ
も対話相手が確実にそばにいてくれるんだくらいに思っておけばい
いんだよと言われては、神様とのあいだの敷居がちょっと低くなっ
たような気がしてくるし、「神様と対話しつつ考える」という行為が
少しだけ確からしく思えてくるのです。

 

ブログ118


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第117回 2018..11.30

「勝ち負けのない、創造的な対話(社会的理性)のために」

カフェでも家庭でも、会社でも公園でも、国会でも国どおしでも対
話が必要である。なぜならば、圧力や権威や暴力に頼っていても正
しい関係はつくれないし、不要な思い込みや忖度は正さなければな
らないし、怒りや憎しみのぶつけ合いは紛争を招くばかりだからだ。
湧きあがる感情は大事にしつつも、そのナマの表出(とくに怒り)
をうまく乗り越えて、真摯でオープンな対話をすることこそが私た
ちの共存共生を保証し、住みやすく安全な世界を創るのだ。
・・・てなことは、じつはだれでも頭ではわかっているはずです。

ところがなかなかそれができない。
不機嫌に相手の言葉尻をとらえたり(いまなんつった?えっ!)、
怒りが憎しみに変わったり(ざけんなよ、先公!)、「コト(問題じ
たい)」を話していたのに「ヒト」を対象にしたり(あいつの性格
と顔と趣味が悪い!)、相手に呪いをかけたり(おまえなんか、そ
のうちカバに食われるからな!)する。
あげくは思わず手や足を出したりしてしまう(パシッ)。

逆に、感情的になるのを怖れるあまり、理性や論理を大事にしすぎ、
あるいは議論のルールに頼りすぎて萎縮し、自分を押さえて本音を
だせなかったり、なにも言えなくなってしまう。
ああ、困ったものです。ホント、真剣な対話は難しいッス。では、
どうしたら私たちはきちんとした対話を続けられるのでしょう?

「ダイアローグ」(デヴィッド・ボーム/英治出版)

筆者の主張でまず押さえておかなければならないことは、対話とは
「勝ち負け」で終わるものではないということです。
いっぽう、黒人の作法もトランプ大統領も、「勝ち負け」を重視して
いましたね。会社の会議でも夫婦のあいだでも、けっこう勝ち負け
を気にします。しかし対話は勝負ではない。意見の優劣を決めるも
のではない。ここ、いちばんたいせつなところですね。

また対話とは、なにかを「決定」するためのものではないというこ
ともあります。つまり意思決定のための議論や論争ではない。国会
審議でも営業会議でもディベートでもない。ここも重要。
さらに、人に「話せ」とか「話すな」とか強制するものでもない。
さらに対話は、説得とか妥協とか、調整とか合意形成でも、もちろ
ん取引でもない。ではなにか?

それは私たちが、もともとの思い込みや偏見や暗黙の了解から離れ
て、自由な思考の流れを作ることだ。ひとりで、ではなく、集団で
おこなう知性の働きだ。つまり、ことばを交わしながら、集団でな
にかを新しく「創造」することなのだ。もしかしたらことばも交わ
さず、沈黙を大事にすることもあるだろう。そしてその「なにか」
とは、方策かもしれないし、ことばとか考え方かもしれない。

もともと私たちは、他人がいなければきちんと考えなれないのだ。
だから、みんなの力をあわせて、新しい道を創造しなければならな
い。そのためにまずは、自分の怒りや憎しみなどの負の感情はじゃ
まになるので、いったん保留しなければならないのだ。
筆者はこういうことを、口を酸っぱくして繰り返します。
私思うに、こうした姿勢は社会を支える基本ダシみたいなものです
ね。ダシがしっかりしていないと料理は成り立たない。

さて、もともと理論物理学者のボームが、なぜこんなにも「対話」
を薦めるのか、それもまたおもしろい問いになるかもしれません。
彼はとにかく「創造的な変化」にこだわるのです。どんな話し合い
にも「はじめは思いもしなかった創造的な変化」がなきゃつまらな
いじゃないか。科学的な実証や合理的な理論で構築される物理学で
あっても、みんなの知恵による「思いがけない発見」がある。
ならば、学問だけでなくどんな分野でも、だれもが楽しくなる「解」
や「発見」があるはずじゃないか、と言っておられる気がします。

しかし通常の話し合いでは、なかなかうまく対話できない。
というのも、「賢い人」や「強く怒る人」に場が支配されたり、ひっ
ぱられることが多いからです。
たとえば、私たちの身のまわりにも、賢くて議論に強い人がおられ
ます。その人たちは論理的に自分の意見を開陳し、反論にあっては
すばやくそれを論破しようと身構えている。とりわけビジネスや政
治の世界では、そうした「議論」における受け答えのはやい人ほど
「仕事ができるリーダー」と思われています。
たしかに、そういう人の、しっかりした職業観と専門知識に裏づけ
られたすばやい判断こそ、集団をリードするのかもしれません。

しかし、ちょっと踏みとどまって考えてみると、もしかしたらそう
いう「頭のいい人」ほど、ボームのいう創造的な対話には不向きな
人かもしれません。
というのも、彼らは自分のもつ固く確かな地盤(信念や知識や能力)
に自信があるからこそ判断がはやく(ゴーンさんみたいに)、受け答
えがはやく(さんまさんみたいに)、迅速な意思決定ができるのでし
ょう(安倍さんのように)? そしてすばやく解答を得ることを話
し合いの最大の目標にしているのでしょう? つまり彼らは、「早い、
安い、うまい」を目標にしているのではないでしょうか。

しかし創造的な対話で必要なのは、「確固たる信念」とか「変えよう
のない前提」ではなく、また「早い、安い、うまい解答」でもなく、
それによる説得・妥協・調整・合意形成でもない。逆に、そうした
ものから離れることによって新しいものを探そうという、謙虚で柔
軟な姿勢です。
いいかえれば、時間をかけてゆっくり場と心を温めて、参加者全員
で協力して問題に取り組もう、それがたとえ遠まわりだったとして
も、けっきょく「創造」への近道になるという覚悟と姿勢なのです。

これをボームは、「コヒーレント」という物理学の用語を使って説
明しますけど、ま、この専門用語はご愛嬌のようなもので、人と人
がどううまく交わっていくか、干渉しつつ交響していくか、それを
対話の場でどう試していくかの、ひとつのたとえとして持ち出して
いるわけです。対話のイメージとしてですね。

ということで、対話にご興味のある方、もうすこし対話が必要だと
自覚されている方々、謙虚な政治家の方々、そしてアマチュアスポ
ーツ協会の幹部やコーチの方々、夫婦げんかしている方々、そして
もちろん、感情の処理でお悩みのすべてのみなさま、私、ぜひボー
ム先生のご先導により一緒に対話していきましょう。
ついでに対話の共通イメージをつくるために、「コヒーレント」を
辞書で引いてみてくださいね。

 

ブログ117

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第116回 2018.11.23

「もっとうまく怒るために」

カフェのなかで怒ったり怒られたり場面に遭遇することは、あまり
ありません。
みなさん和やかに談笑されていたり、本を読んだり勉強されていま
すし、たまさか飲み物をお出しするのが遅れても、「遅いっ!」と
怒る方もいません。ありがたいことです。ホント、お客さまには感
謝です。

カフェはともかく、私たちは公の場で、怒って声をあげるというこ
とが少なくなってきたように思いませんか? ご近所でも会社でも、
路上でも電車でも、大声できちんと怒ったり叱ったりしている方を
見ることが少なくなったように思いません?
そのかわりにといってはなんですが、見聞きすることが多くなった
のは「理不尽にキレる」とか「いきなり暴力」とかの場面です。も
しかすると、私たちの「怒りの許容値」や「怒りの表出の作法」の
ようなものが変わってきたのでしょうか? 
こんな本を手がかりに、それを少し考えてみましした。

「怒りの作法」(小川仁志/大和書房)

の著者は哲学者ですが、まず、「怒る」ことは良い変化を起こすため
のパワーでもあり武器でもあるのだとして、「怒り」をポジティブに
とらえるところから始めます。

怒りとは、感情というエネルギーの表れだ。だから、自分の本音をあ
らわにして意見を主張するために必要なものである。そして、怒るこ
とが自分や周囲や社会を変えていくのだ、と著者は言います。
さらに、「怒りとは訴えだ」とか「怒りは、しばしば道徳と勇気の武
器なり(アリストテレス)」ということばを引いて、私たちを鼓舞し、
導こうとします。

たとえば議論において、怒りを押し込めて冷静に、理性的に話すこ
とをめざすだけだと、本音が出ずに話し合いの結果が中途半端にな
ったり、ストレスがたまる。つまり、もともとあったはずの自分の
意見のパワーを弱めてしまう(前項にみた「白人」の作法のように)
のだ。

まずは、おっしゃるとおりだと思います。
「あらゆる感情、とくに怒りは正しい(平岡正明)」でしたものね。
ところが逆に、私たちはふだん、こんなふうに感じているのです。
「人前で怒るのはみっともない」「怒ると感情的な人間だと思われ
て、家庭でも会社でも嫌がられる」「道徳の時間で、感情をコント
ロールしろと教わった」「社会の一員としては、よりよい共同生活
のために、感情をあらわにしないほうがいい」などと。
それじゃ、いかんのだ。

ともあれ、自分がおかしいと思うことに対して怒ることは、自分に
とっても社会にとっても必要なのです。そうしないと、いつまでた
っても解決しない問題がある。できあいのシステムや社会体制に流
されるだけになってしまうかもしれません。だから私たちは、正し
く怒ることを学ばねばならないのです。

では、正しく怒るとはどういうことか。
正しく怒るとは、ほんらい、しかるべき事柄に対し、しかるべき人
に対し、しかるべき方法としかるべき時に怒ることをいう。それは
難しいことなので訓練も必要になる。
しかしいまは、そんな訓練だの努力だののへったくれもなく、間違
った怒り方ばかりが目につく。だれもが、いつでもどこでも、八つ
当たりしたり、電車の中でキレたり、家族に呪いをかけたり、ネッ
ト上でディスったり、怒りを憎しみというマイナスの感情に変えた
り、あげくは暴力に走ったり・・・。
・・・ってことは、だめじゃないか、日本人!

著者も怒ってます、はい。私たちは正しく怒られちゃいました。
ただ筆者は、具体的な「正しい怒り方の作法」についてはあまり詳
しく述べていないので、それについては、独自のテクニックをもっ
た黒人の方々や、マンガとか映画などに教わることにして、機会を
あらためて考えてみましょう。

ただ、私の心に浮かんだのはこんな問いでした。
「怒りをナマの怒りのままに放置せずに、それを問題解決に結びつ
けるには何が必要か?」
「自分の私的な怒りの感情を、どうしたら公的な(他の人にも共通
の)ものに変えられるか?」
どうでしょう、これはまっとうで、スジのいい問いでしょう?

ん? いや、まてまて、この問いへの回答はすでにトランプ大統領
が実践しているのではないだろうか。
ああ、またトランプが出てきてしまった!
彼は、演説やツイッターで怒ってみせ、彼の個人的な怒りを公(お
おやけ)の怒りに換え、あるいは逆に、怒りを表現しそこなってい
た人たちの怒りを代弁し、怒りそのものを問題解決のパワーにして
いるんじゃないのか?もしかしたらすごく意識的に、テクニカルに。

そうだとしたら彼は、正しいかどうか分からないけど、「民衆の怒り
を取り込む方法」を身につけた、したたかでクレバーな政治家とい
うことになります。それは、もしかしたら歴史上の数々の権力者・
政治家にも共通していたことでもあります。
それははたして政治的に正しい作法なのか? 怒りの効能の悪用じ
ゃないのか、はたしていかに? つづく。

 

ブログ116

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第115回 2018.11.17

「トランプ的コミュニケーションへの疑問」

アメリカの中間選挙が終わりましたが、あいかわらずトランプ大統
領の発言にはびっくりさせられることが多いですね。論争相手への
批難のしかたや、差別発言に乱暴なことばづかい、というかことば
の意味の意図的な変更、それにとんでもないフェイクに大げさなウ
ソや脅し。そしてこれらを駆使したツイッターの乱用という、派手
な空中戦による「平手打ち」の連打、、、。

ある論評にこんなことが書かれていました。
これらの発言は、自分の意見や政策を通すためのディール(取引)
の一環なんだと。つまり最初は大きく強く、ウソまがいのことも含
めて大げさに出ておいて相手をびっくりさせ、最終的には少し妥協
しつつも自分の有利になるようにまとめる、そんなビジネスの駆け
引きを政治に取り入れているんだと。

そうなのかもしれません。たしかにそうでしょう。
しかし最近私が思ったのは、彼はこれらのスキルを、アメリカ黒人
(アフリカ系)のコミュニケーション文化から学んだのではないか
ということでした。
えっ、どういうことよ? その根拠は? はい、それは、

「即興の文化」(トマス・カーチマン/新評論)

に書かれている、黒人と白人(欧米系)の、討論における行動様式
の違いの分析にあります。いわく、
「黒人の様式は声高で、活気に富み、問題を参加者一人一人に関わ
ることとして捉え、論争的である。」これに対して白人は、「その逆
に声を低く落とし、感情をこめず、個人の問題に引き付けない。」
つまり「白人は『議論』という、理性的なコミュニケーションモー
ドをとるが、黒人は『論争』という、感情のほとばしる関与の形式
を用いる。」

白人(欧米人)のメンタリティというか伝統というか、それは論理
性であり、冷静さを大事にすることであり、相手の「人格/ヒト」
ではなくそこから距離をとって、議題としての「内容/コト」を重
視して理性手的に議論を進める傾向が強い。それがよしとされる。
黒人様式はその逆だ。論争は相手との勝負だ。だから黒人は、議論
/論戦に勝つために、やたら対決的に、大げさに、タフに、相手を
パフォーマンス、思考、口数、話しっぷりで圧倒しようとする傾向
がある。だから感情に訴えることが多い。それがよしとされる。

「論争にせよ、ウーフィング(侮辱のうなり声をあげる)にせよ、
あるいは毒づいたり、サウンド(悪口を言いあう)したり、大言壮
語(オレのほうがこんなにスゴイ)したり、ラップ(口喧嘩)した
り、ラウドトーク(まわりの人に聞こえよがしに言う)することに
せよ、黒人の言語行動はどれもこれも活気にあふれ精力的だ。」
集会での演説の映像などでよく見るコールアンドレスポンス(呼び
かけと応答)も、大げさ表現やスタンドプレイも同じように、黒人
のコミュニケーションの様式のひとつなのです。

さてこうなってくると、「黒人様式」と「白人様式」の違いを「感情
的」と「理性的」という表現だけではとらえきれなくなってきます。
もちろんコミュニケーション方法の違いはあるものの、それととも
に、黒人の「感情を素直に表すことが善」という、永年培われてき
た文化的価値観とその原因も探らなければならなくなってくるから
です。

それについては、たとえばこんな例があげられています。
「立腹している人に向かって黒人は、『誰かがあんたを怒らせたん
じゃなくて、あんた自身が怒ったんだよ』というようなことをよく
言う」。これは、「非難された本人が反応したときに、非難は非難と
して成立するという黒人の見方(いろいろ言ってみて、そのうちど
れかが当たればそれで勝ちという考え方でもある)」によるものだ。
つまり、図星をさされたから、もしくは痛いところをつかれたから
アンタ怒ったんだろう?という攻め方をする。
そう来るか。けっこう実戦的なケンカ手法ですね。

そういえば、敬愛するジャズ評論家の平岡正明氏は、「どんな感情を
もつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい」
と書き、とりわけジャズにおけるアメリカ黒人の感情の表出のしか
たを支持し、「(革命のためには)感情をやつら(敵/白人)に渡す
な」と檄を飛ばしたのでした。
革命うんぬんはともかく、長く差別されていて社会的弱者であった
黒人の側は、なにごとにつけ強い感情をもつことが「善」とされ、
それを大事にしたコミュニケーション様式をつくりあげてきたのは
確かだと思います。

「一方白人は、非難されただけで非難は非難として成立すると考え
る。人の感性つまり自尊心を保護する社会的責任は、まずは他者の
側にあるというのが白人の考え方」だからだ。
自分を非難するのなら、その非難の根拠をまずは相手が明確にしな
ければならないし、それしだいでは「私」の自由とか権利などの侵害
にあたると考える。そして相手に対し、「キミたち、社会の、そして
議論/討論のルールを忘れるなよな」、という原則重視の姿勢に入る。
まるでトランプとヒラリーの論戦をみるようではありませんか!

みなさんはどう思われるでしょうかね。
黒人に、と、もはや一般的には書けなくなりましたが、もしこうい
うコミュニケーション特性の違いがあるとしたら。日常会話や話し
合い、ケンカのしかたや異性の口説き方など、ほかの人とは違うル
ールで人間関係が動いている人たちがいるとしたら。
これは確かに、対話、議論、論争など、民主主義的な社会を構成す
る「ことばの世界」で、両者の感情と理性をどうやって噛み合わせ
ればいいのか、という問題につながっていくでしょうね。

だから、、、だから、もしかしたらトランプ大統領は、伝統的な黒人
文化のなかの大言壮語や毒づきやラップやウーフィングやラウドト
ークを勉強して身につけ、それを政治においてもその効果を十分計
算して実戦的に使っているのではないでしょうか。
ただし、自分と相手の感情と理性をうまく融合させて新たな解決策
を探ろうなんてことをいっさい考えずに。
だとしたら、すごい! というか、ひどい!

 

ブログ115

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第114回 2018.11.09

「真摯な保守思想とその挫折」

カフェのお客さまと政治ついて話し合い、憲法改正問題を議論し、
現在のリベラリズムやポピュリズムの状況についてうんちくを傾け
あい、議会や民主主義について熱く語るなどといったことは、、、、
まずありません。また、忍法ツイッターの術についてみんなで掘り
下げて分析することも、ありません。

もしそういうテーマで話しあうとしたら、そのときは専門的な知識
をもった方にそばにいてほしいですし、さらには、ベテランのファ
シリテーターがいてほしいものです。そうでないと、地に足をつけ
た議論にならずに、お互いが言いたいことを言うだけでことばが空
中をさまようだけになってしまいますもの。
私たちは、そんな「空中戦」をば、実りのある「地上戦」にしなけ
ればなりませんでしょう? 国民の代表の頭のよい人たちが集まっ
ている国会でだって、空中戦ばかりに見えるのですから。

むずかしい議論を「地上戦」にもちこむためには、まずは一つひと
つのことばの意味を共有する必要がありそうです。そうでないと、
議論の前提が不確かなものになって、お互いの間で話がかみ合わず
にとんでもない誤解を生んでしまうからです。
たとえば「自由」とか「人権」などという、だれにとっても大事で、
憲法でもたくさん出てくることばであっても、ひとによって思って
いる内容が違い、それによって議論にならないということがありま
すもの。そこでこんな本を参考にしてみたいのです。

「昔、言葉は思想であった」(西部 邁/時事通信社)

西部先生は今年(2018年)にみずから命を絶って、いろいろな意味
で世間を騒がせましたが、60年安保から学生運動や保守思想の論客
として多くのメディアにも登場した方でした。
この本では、経済、社会、政治、文化の四分野から108のことばを
選び出し、それぞれのことばの意味合いがその語源から遠ざかって
しまったがゆえに、その意味合いが多岐にわたるようになって、議
論では使いにくくなったことを憂い、ことばの意味をきちんと整え
ることで、求められる熟議のための共通の基盤を作り直そうとして
います、、、たぶん。

たぶん、というのは、西部先生のおことばがやや断定的で、そこか
らして先生の主旨がちょっと頭に入ってこないなあと、読んでいて
感じる人もいるのではないかと思うからです。その一人が私でした。

たとえば「権利(ライト)」という言葉について、
「『国民の権利』は、国家の歴史がもたらした『道理(リーズン)』
にもとづきます。人間性が正しいのではなく、正しいのは道理のほ
うだ。むしろ人間性の発揮のしかたが道理によって差配されるべき」
だと先生は書き、イギリスの保守思想家エドモンド・バークの「人
間の権利は認められないが、英国人の権利ならば盛大に認めよう」
ということばを引用しています。
つまり、普遍的なヒューマニズムをもとに「人間の切実な欲求はす
べて権利である」とするのは、正しい(ライト)わけではない。じ
つは、それぞれの国や民族や伝統の中で獲得され正当化されてきた
ものこそが、「その国民」の「その権利」なのだ、と考えておられ
るのです。

わかりますでしょうか?
先生によれば、「これこれが人間の持って生まれた普遍的な権利だ」
とは言えずに、「これこれが『今の日本国民』としての『私』の権利
だ」と、限定的にしか言えないのです。あくまで、「いまの常識とし
て正当だと思われる権利」が「その国のそのときの人権概念だ」と
いうのです。

たとえば、極端かもしれませんが、施設で身体拘束されている高齢
の認知症患者がいたとして、「その人の人権(ヒューマンライツ)を
守れ」といって拘束を外させることが正しいかどうかは、わからな
い。なぜなら、「これまでの老人介護の伝統と今の日本の福祉の現状
から、拘束しないことが本人の『権利』ならびに『公共の福利』と
認めてよいかどうか」という、現実的な論点があるからなのです。

いえいえ、誤解のありませんように。この例は私がもちだしたもの
であり、さらに今の日本現状において拘束も認められるなんて言い
たいわけじゃありませんから。あくまで、伝統とか文化とか、その
ときの社会・経済状況とか人々の精神とか、それらをあわせた「常
識」が、そのつど「人権」という言葉の定義を決めるのだ、と先生
はおっしゃっているのだ、と私が受けとめただけ。

おなじ観点からすると、中国とかミャンマーとか、あるいはイスラ
ム圏の国々における、少数民族や女性の人権や自由の問題も、その
国ならではの考え方や伝統と現状があるしそれを優先して考えなけ
ればならないので、簡単には西洋の考え方が通じない、ってことに
なります。先生はそうおっしゃっている。普遍的に正しいとか、絶
対的に善だ、ということばは使えないのだと。

ちなみに、先生は保守思想の論客とされていましたが、この本のな
かの「保守(コンサーヴァティヴ)」の解説では、保守思想の徳義
として「活力・公正・節度・良識」があげられ、視点として「懐疑
・斬新・全体・伝統」があげられています。
保守思想とはこのように、常識とか伝統といった、長い間に培われ
た人間の総体的な良識を信じ、そこに足場をおくことにあるようで
す。さらに、理想とか革命とか極端なことや、「絶対」などという
ことばを排し、現実的に一歩ずつ改善を進めるためのプラグマティ
ックな方法論を探そうとするようです。
目線を広く深くとりつつ、慎重に目前の一歩を踏み出そうというこ
となんですね。(だからバーグはフランス革命を批判したのでした)

さて、ここでいったん立ち止まって。
どうなんでしょうかねえ。まず、自由とか人権とかいうことばじた
いが西洋発祥のものですから、それを「今の日本」とか「今のミャ
ンマー」とかに当てはめるとどうなるか、と考えることは必要だと
思います。ほんらいのことばの意味を、そのときどきでどうアジャ
ストすべきかと考える。それは、いい。
また、なにか問題があっても、現実的に一歩ずつ改善すべきだとい
うことも必要なんでしょう。それが本当の保守思想だということも
またわかりました。これも、いい。

なので私は、先生の、ことばに対する真摯な姿勢をすばらしいと感
じ、でもそれゆえに、先生の言うことと、現在使われていることば
の意味やその使われ方の乖離が甚だしくなってしまったとも感じます。
ことばの定義は大事なことだが、これまた「ほんとうは」とか「本
来は」「元々」「古来」などにこだわっていると、そもそも対話や議
論の場に入ることすらできなくなってしまうのではないだろうか。
だから、そんな理由もあいまって、先生の保守思想じたいも理解さ
れにくくなってしまったんじゃないか。
それも先生の絶望を強めたのかな、と感じます。

そしてまたしても、いきなりの結論。
私たちはなにかしらの理想的な目標がないと、どこに向かって改善
・改革しているのか分からなくなる時が多いはずです。その過程で
は、ことばの意味はどんどん変わってこざるを得ないはずです。
ということは、私たちは、理想に向かいつつ、ことばの意味を新し
く自分たちで創って、その意味を確かめ合い、それをもとに階段を
上るように議論していかなければならないのではないでしょうか。
やや強引な三段論法かもしれませんけど。
さてみなさん、真摯な議論では、このような強引な三段論法的な結
論をだしてはいけません。じつはこれが「空中戦」の一例でした。

 

ブログ114

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第113回 2018.11.03


「もっと突き詰めたい『社会的理性』」

カフェの仕事は、毎日のルーチンをこなしてお客様の応対をします
から、大きな社会的課題にぶちあたったり、「公(おおやけ)」に重
大な関わりがあるようなことは、それほどありません。
だから、ちょっとだけ「スキマ」を想像したり、それによってコミ
ュニティカフェのまねごとをしたところで、それが日本経済や社会
公共に寄与するのしないのなどという問題ではないんです。

私たちの日々の生活のほとんどは、そういうものですよね。
暮らしのなかで私たちのおこなう一つひとつの判断は、そのつど勘
にたよったり、経験を重視したり、そのときの感情によって決めて
しまいます。それこそ、ほぼ、思い込みや勘違いで暮らしているよ
うなものです。
ふだんはそれで大丈夫なんです。それでいいーんです。
ところが、やや政治とか公共政策むきのはなしになり、それがみん
なの生死にかかわるような大問題になってくると、私たちは感情や
カンに頼って判断していると、それこそとんでもないことになりま
す。たとえば先日読んだ、

「啓蒙思想2.0」(ジョゼフ・ヒース/NTT出版)

には、副題に「政治・経済・生活を正気に戻すために」と記されて
いて、筆者は、いまの世の中では理性がしっかり働いていないこと
が多すぎるじゃないか、と嘆いています。いまの状況は正気じゃな
いぜ、って。
オビに書かれている惹句には、「メディアは虚報にまみれている。
政治は『頭より心』に訴えかける。真実より真実っぽさ、理性より
感情が優る、『ファストライフ』から抜け出そう!」とあります。
なかなか強いことばですね。
そして、とくに政治においては、政策の議論そのものよりも、感情
に訴えててっとりばやく有権者の懐につけ入ろうとするアプローチ
ばかりが目立つ、それはダメじゃん、と嘆くのです。

どういうことか。
たとえばトランプ大統領のように、ツイッターを多用するとどうな
るか?ツイッターは字数による制限があるから、理性的な討論には
不都合で、それは「言葉による平手打ちのけんかを助長している」
ことになる。
なるほど、平手打ちのけんかね。たしかに、そんなけんかは本人は
楽しいでしょうし、また、そのけんかを見ている側も楽しいですも
のね。まるでショーアップされたドツキ漫才を見ているような気に
させられますし。

ではなぜ、ツイッターのようなお手軽なメディアを政治家が使うの
か?
それは、今の政治ではスピードある解決が求められ、そのためには
大衆に感情で訴えかけ、過激なアピールポイントだけを強調するこ
とが必要だからだ。ツイッターはけんかだからそれに適している。
理路整然としたことばで議論するよりも、短いことばで感情に訴え
かけると、大衆の笑いとか怒りなどのを引き起こして、味方に引き
入れやすい。
しかし考えてほしい。こういうやりかたが続くことできちんとした
討論が消え、「右か左かではなく、クレイジーか非クレイジーかに
分かれていく」のは間違いない。これが悪しきポピュリズムだ、と
筆者はバッサリ切り捨てるわけです。

もしそのとおりだとすると、イヤになっちゃいますよね。
たぶん、ツイッター上では、議論の相手を「クレージー」だとして、
よりクレージーだと主張した方が勝つ、なんて風潮が、今たしかに
ありますでしょう。
国会での議論は議論にならず、質問にきちんと答える人はいない。
質問にたいしてはぐらかし(朝飯論法)、質問に答えずに自分の主張
を返し、できあいのことば(「遺憾」とか「前向き」とか)を繰り返
し、言いたくないことは言わず、そのかわりにヤジや相手の揚げ足
をとってポイントを稼ぎ、それをおもしろおかしくメディアにあげ
ることに懸命になる。目標は大衆の心情に取り入ることだけ。
これがいわゆる、山田風太郎先生もビックリの忍法ツイッターの術。

私たち大衆も、けっこうそんなあおり忍法(ラップですね)にのっ
かってしまって、責任をもってみずからの理性で考えることをしな
くなっているのではないか。まるで、何ラウンドあるかわからない
ボクシングの試合を見せられ、そのケンカのありさまを楽しんでい
るだけではないか。
そうだとすると、私たち、メディアでしか政治に触れることの少な
い「大衆」はどうすればいいのでしょうか?

ここでは、説かれているヒントのうち、ふたつをご紹介いたしてお
きましょう。
ひとつは、理性による合理的思考の有効活用。
とりわけ、「合理的思考は難しく時間を要するのだから、みなさん
自制して、即断を避けろよ」、つまり時間をかけろ、といういうア
ドバイスです。そういえば、わが丸谷才一先生も同じことをおっし
ゃっていましたし、意外と、経験や常識を重んじる保守思想に通じ
ることをおっしゃっているようです。

でもこれだけだと、いままでの啓蒙思想と変わらない? ですよね。
そこで、「啓蒙思想2.0」の「2.0」たるものはなにか?
それは、もうひとつのヒントとしてのこんなことば。
「合理性が高度な足場によっており、この足場が外的かつ社会的で
あることを認めれば、理性は一種の社会的事業(プロジェクト)だ
と考えられるようになる。」
ああ、難しい表現ですね。どういうことか。

私思うに、たぶんですが、合理的思考をひとりの孤立した個人の理
性による営みだと考えずに、それは多くの人の力を集めた集団行動
によって生まれるものと考えるべきだ、ということではないでしょ
うか。
ひとりの人間個人の理性にたよるのではなく、集団による社会的理
性、つまり人々の交流、連帯、協働などの集団行動における合理的
な判断が、私たちの足場として必要不可欠なのだということではな
いか。これは、ルソーの「一般意志」とちょっと似ているけれど、
交流、連帯、協働という自発的で意志的な行動の面が強調されてい
るのだ、と受け取りました。
みんなで一つずつ確実にレンガを積み上げて、しっかりした建物を
建てようじゃないか、それこそ社会的事業というものだ、と。私た
ちは現場で、この社会的理性なるものを実践できるのか否かと。

ブログ113

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第112回2018.11.2

「コミュニティカフェの役割--スキマを埋められるか?」

住宅街の小さなわがブックカフェは、いちおう「コミュニティ・カフ
ェ」をめざしています。
コミュニティ・カフェとはなにかといえば、地域の人の交流であった
り情報交換だったり、居場所づくりだったりという、その地域の方々
の動きが活発になる場、というくらいのものです。社会貢献とかなん
とか、あまり立派なことをガチでめざしているわけではありませんの
で、その点あしからず。

ですので、やっていることといえば、ご近所の方々とサロンコンサー
トを開いたり、ガレージセールをしたり、各種のご案内(とくに困っ
ている人の居場所づくりやNPO活動の紹介など)を置いたりする
くらいでしょうか。
つまり「地域の情報や人のハブ(パブではなく)」になれればいいな、
くらいに思っています。そんなコミュニティ活動のことを考えて読ん
だのが、

「実践 日々のアナキズム」(ジェームズ・スコット/岩波書店)

いきなりまたアナキズムなんて書名をもちだして、驚かれたかもしれ
ませんが、これは、けっして無政府主義とかの意味ではないのです。
この筆者の問題提起はおもに、
「個人やコミュニティは、自立して自らを組織化する力を失いつつあ
るのではないか」というものでした。「経済的な強制力、少数によっ
て支配された市場、メディア統制、政治献金、抜け道の用意された立
法措置、選挙区分の再編成、弁護士を使った法知識の利用などによっ
て、政治的影響力へのアクセスが不平等になり」、その結果、自由と
自律がむしばまれているのではないかと。
いまのシステムは、なーんか変だぞ、ということなんですね。

たしかに、世界じゅうで金持ちがいっそう金持ちになり、社会的弱者
がどんどん底辺に落されて行って格差が広がっているという現状をみ
れば、とうぜんの問題提起だと感じます。だから著者の言う、「服従
をしいる権威的な権力や、既得権を強化するシステムや、強者を優遇
して弱者を弱いままに据え置く政策」に対して、私たちはどうすれば
いいのか?そういう疑問がフツフツと湧いてきてしまいます。

その問題は、じつはどうやら選挙でもデモでも、言論活動でも、はた
またSNS上のグチりあいやディスりあいでも、解決しそうにない。
それならば、と筆者は言います。
身近な実践の中で、いまのシステムや主流になっている考え方に反乱
をおこしても、いいんじゃないか? つまり、日々の暮らしの中から
社会を変えていくことはできるのじゃないか。政治や行政や経済など
の手の届かない、というか、それらの「スキマ」のところで活動して
いくことで、それが可能なのではないかと。

いかがでしょう。
これだけではちょっと「抽象的なスローガン」に聞こえるかもしれま
せん。ただ、これを「カフェ」で具体的におこなうとしたら、いろい
ろなことが考えられそうです。つまり私たちが、というより私が、日
ごろ感じる共感や同情を、「社会のスキマ」への想像力として起動する
具体的な方策という意味でです。

たとえば、地域の方々に、行政による公的なものではない情報をお知
らせしたり、朝晩になんとなく街路に目配りしたり(これはその昔、
ジェイン・ジェイコブズという都市活動家が主張した、地域商店の役
割でしたが)、居場所に困っている人に席と飲み物を提供したり。
もしかしたら、そんな程度の「日々の小さな行動」でしかないかもし
れませんし、反乱とも変革ともいえないようなものかもしれませんが。

それにつけても、地域には政治・行政・経済の「スキマ」がたくさん
目につきます。そのスキマには、一人暮らしの高齢者、虐待を受ける
子どもや親、引きこもりの若い方、病気や障がいをもつ方が暮らして
いる。そのスキマを埋めて、弱者を弱いままにしないようにし、自分
の住む地域をみんなで元気にしていくために、わが小さなカフェでも
できることがある。そう意を強くしました。なんとマジメな!

 

ブログ112

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第111回 2018.10.19

「共感も、ときには危ないゾ(宣言)」

カフェマスターとしての私は、お客さんとお話しするときには、で
きるだけの共感をもってお話を聴くように心がけています。
その方のお話をまるではじめて聞くように聴き(ほほーっ)、相手の
気持ちに寄り添って(そうなんですか)、理解しようとする(なるほ
ど)こと。それはコミュニケーションの第一歩だと思いますし、と
ても難しいことですけど当然の態度だと思っていました。

というのも、たとえ自分の理解力が高くなくても、共感力を高める
ことで、人間関係と社会生活はうまくいくはずですものね? 私たち
はそう教えられてきましたし、その通りだと思って生きてきました。
それが自分の人間としての力を高め、対話の場としてのカフェの価
値を高め、ひいてはカフェのご来店者を増やし、経営がうまくまわ
ることにつながる。

ところが、それはある面正しいかもしれないけど、いつでも正しい
わけではなく、また人間としてもそればかりじゃダメかもよ、もし
君がまじめに道徳的な生活をおくろうとするなら、それだけではア
カンかもよ、というのが、

「反共感論」(ポール・ブルーム/白揚社)

の主張でした。ひえーっ、共感だけじゃアカンかもしれないの? 
困りましたね。まずは筆者の主張を聞いてみましょう。
社会生活、とくに道徳的な課題に直面したとき、人には共感能力が
求められ、他人への共感や同情によって善き行いに導かれると思わ
れがちだが、安心していてはいけない。
というのも、ひとつには、共感はもともと家族とか身内とか、自分
が好もしいと思っている個人に対してはたらくのであって、顔の見
えない他人、たとえば地球の裏側で飢えている子どもにたいしても
同等の強さで抱かれるものではないからだ。すると、共感という第
一次的情動に従って行動を起こすことが、必ずしも道徳的に正しい
とは言えなくなる。

もうひとつには、共感じたいがマイナスにはたらく場合がある。
それは、医師や看護士などの医療職とか、セラピストやカウンセラ
ーなどの福祉職だ。そういう仕事の方にとっては、目の前のクライ
アントに過剰に共感することによって判断が狂わせられることがあ
るだろう。彼らは、一歩引いて、あるいは一段高い視点で人を診る
ことが求められる。私たちが判断を誤らないようにするには、共感
を超えた理性の働きが必要なのだ。

なるほど。
私たちは共感能力こそが、社会で集団生活をおくるための根本にあ
ると思い込んでいましたが、必ずしもそうではないのかもしれない
というのです。共感という接着剤のようなもので他人とぴったりく
っつくだけでは、うまくいかないことも多いのかもしれない。
そして、血縁者や目の前の人への共感と、知らない他人や遠くで飢
えている人への同情は、かならずしもそのあとに同じような行動に
結びつく感情とはかぎらないというのです。

なるほど。そうすると、怒りとか悲しみとかの感情についても同じ
ことが言えるのかもしれませんね。つまり、、、うまく言えませんが、
自分の感情と行動をごちゃまぜにするな、ということかな。
単純に、困っている人への共感が自分を正しい方向に導いてくれる
なら、こんなに助かることはないんですけどねえ。

すると、じゃあ、そういうことをわかったうえで、自分を、さまざ
まな人間関係のなかで「社会・道徳的に正しい行動」に結びつけて
くれるものは、はたしてどういう感情なのだろうか? あるいは、
わき起こってしまった感情をどう処理すれば、適切な行動に結びつ
けやすいのだろう? という素朴な疑問が湧いてきます。

自分でもよくよく考えてみると、まず、他人への共感とか、それに
よって「相手の立場に立ち」、そのうえで「正しい行動をする」なん
てことが、思ったほど簡単なことではないことはわかります。
たとえば、だれかがテーブルの脚に自分の足の小指をぶつけて、「イ
テーッ」と叫んでいる。自分もよく同じことをやるからその痛みは
わかるし、十分に共感し同情できる。その人の痛みは、私の痛みの
感覚としてハッキリとリアルに共有できる。そこまでは、いい。
ただ、そこからが問題なのです。

目の前で痛がっている人は、そこでなにを思ったか?
「クッソー、こんなところにテーブルを置いたの誰だ!」「嫁のやつ
だ、あいつが動かしたんだ」「ぶつけたのは、これで今週二回目だ、
なんてツイてない」「そういえば最近ツイてないことが多いぞ」「そ
んでもって明日からまた嫌な仕事だ」、「世の中には、足の小指を一
度もぶつけることなく、大金を稼いでいるヤツもいるのに」、、、など
と考えたかもしれない。

私としては、「痛み」までは共感できるけど、そのあとその人の頭に
湧いた怒りやら悲しみやら妄想やらまでは、とても共感できない、
というか、わからない。それは当たり前のことです。とすると、目
の前の人の痛みの共感からだけでは、「私」が、なにか社会に役立つ
道徳的な行動は起こすまでには至らないのは当然です。その人の頭
に浮かんだいろいろな感情を想像して、さらにそれに共感できるか
どうかが問題になってきます。

で、突然のシメで恐縮ですが、私はこう考えました。
自分のなかに起きる他人への共感や同情には、過剰に信頼を置かな
いようにします。とくにそれが、自分が道徳的に正しい行動を求め
られているようなときには。そのかわりに、遠くの他人の気持ちま
で想像することと、いっときの共感や同情に流されずに、理性的に
判断することに努力します(宣言)。

ただ、カフェの営業時間内では、あまり道徳的に追い詰められるこ
ともないでしょうから、テーブルの脚に小指をぶつけて痛がってい
る目の前の方への共感を全面的に打ち出してお話しようと思います。
どうでしょう、こんなところで。
えっダメ? キレイにまとめようとするな? 

 

ブログ111

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第110回 2018.10.14

「介護のなかにある、お詫びと赦し」

カフェでは介護の話をお聴きすることが多くなりました。
もちろんそのお客様のご両親の介護の話が中心ですけど、それには
老化あり、身体の障がいあり、病気あり、認知症あり、その全部
いっぺんにというのもあり。
どういう治療や介護サービスを受けたらいいか、入るとしたら
(入れるとしたら)どの医者や施設がいいかなど、話がつきません。
みなさん悩んで苦労してる。
私にも年老いた両親がいるだけに、介護の先輩たちの経験談には、
いちいちうなずくことばかりですし、そのなかにかいま見える家族
の状況や歴史にも心惹かれます。そんなときに読んだのが、

「へんな子じゃないもん」(ノーマ・フィールド/みすず書房)

筆者は1947年、東京にアメリカ人の父と日本人の母のあいだに生まれ、
いまは家族でアメリカに住んでいる方。1995年、80歳代なかばの
祖母が脳出血で寝たきりになり、その看病で母親を手伝うために
夏の間日本に里帰りしていました。
その、日々の看病のこまごまとしたことが、冷静かつ細心の注意に
よってつづられています。そして紡ぎ出される文章は、たとえば、
「彼女の世話のかなりの部分が、赤ん坊の世話に似ているのはもち
ろんだ・・・(しかし)話すことができなくなった大人の顔が、
どんなに変わってしまうものか、わたしは知らなかった」
「彼女のもの言わぬ顔を見ていると、これまたきわめて彼女らしい、
抗議も要求もしない、隠遁なのだと思わずにはいられない」
「わたしが彼女のからだに触れるのは、もう彼女に語りかけるだけの
忍耐づよさがなくなってしまったせいだと、自分でも思わざるを
えない」、そして「彼女のことを書くのも、おなじ理由からなのだ」。
そのまま書き写すしかないような痛切な文章ですが、このように祖母
を看病できる孫娘じたい、なかなかいないと思います。
また、筆者は「(看病に)忍耐強さがなくなった」と書きますけれど、
看病に疲れて逃げているわけではないのだと思います。というのも、
ハーフとして生まれた自分、母親に代わって自分を育ててくれた祖母、
そんな自分たちをとりまく家族や親せきを思い、そしてそこから、
平和と繁栄のカゲに隠された日本の戦後史、沖縄、従軍慰安婦、原爆
などの大きな歴史にも思いを馳せていくのですから。つまり、とっても
ドメスティックな「家族の歴史」と「家庭内の介護」がマクロな「日本
の戦後の歴史」に、まるで天地を結ぶクモの糸のように、筆者のなかで
むすびついていくのですから。
そしてたぶん、その細い糸をたどるようにして、母や祖母へのいたわり
とお詫びが、彼女たちからの赦しに結びついてくる。
「(祖母の看病を一心に引き受けながらも、親戚の厳しい目にさらされ
る母に対して)『よくもまあ、やってられたねえ。お母さんはわたし
よりしたたかなのねえ』、これに母は、しんそこ共感をもって応える。
『鈍感なだけよ』」
あるいは、まだ口のきけたときの祖母に、
「『おばあちゃま、(「あいの子」と呼ばれたわたしのような)へんな
子をお医者さんのところに連れて行くのは、いやじゃなかった?』、
長い沈黙のあと、『へんな子じゃないもん。自慢の子だもん』」
看病や介護のあいだには、このような形のさまざまな、一方からの
お詫びが述べられ、他方からの赦しが与えられるのかもしれません。
それを、読者である私たちも、自分のなかで個人の感情(ライフヒ
ストリー)と家族の生きざま(ファミリーヒストリー)と、さらに
は自分の生きた時代状況にむすびつける作業をすることで、彼らの
承認と赦しに参加していくことになります。
このように、それぞれの介護の現場でそれぞれの歴史が交差する。
「私たちはそれ(看病や介護)を、このさきも他者とともに生き続
けられるように、自分たちのためにする。」
このことばを、筆者のこだわる日本の戦後史、たとえば沖縄問題や
従軍慰安婦問題、原爆などの大きなトピックにからめなおしてて説明
してもいいのかもしれませんが、私にはここでこれ以上付け加える
ことはできません。

 

ブログ18101

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第111回 2018..10.19

「共感も、ときには危ないゾ(宣言)」

カフェマスターとしての私は、お客さんとお話しするときには、で
きるだけの共感をもってお話を聴くように心がけています。
その方のお話をまるではじめて聞くように聴き(ほほーっ)、相手の
気持ちに寄り添って(そうなんですか)、理解しようとする(なるほ
ど)こと。それはコミュニケーションの第一歩だと思いますし、と
ても難しいことですけど当然の態度だと思っていました。

というのも、たとえ自分の理解力が高くなくても、共感力を高める
ことで、人間関係と社会生活はうまくいくはずですものね? 私たち
はそう教えられてきましたし、その通りだと思って生きてきました。
それが自分の人間としての力を高め、対話の場としてのカフェの価
値を高め、ひいてはカフェのご来店者を増やし、経営がうまくまわ
ることにつながる。

ところが、それはある面正しいかもしれないけど、いつでも正しい
わけではなく、また人間としてもそればかりじゃダメかもよ、もし
君がまじめに道徳的な生活をおくろうとするなら、それだけではア
カンかもよ、というのが、

「反共感論」(ポール・ブルーム/白揚社)

の主張でした。ひえーっ、共感だけじゃアカンかもしれないの? 
困りましたね。まずは筆者の主張を聞いてみましょう。
社会生活、とくに道徳的な課題に直面したとき、人には共感能力が
求められ、他人への共感や同情によって善き行いに導かれると思わ
れがちだが、安心していてはいけない。
というのも、ひとつには、共感はもともと家族とか身内とか、自分
が好もしいと思っている個人に対してはたらくのであって、顔の見
えない他人、たとえば地球の裏側で飢えている子どもにたいしても
同等の強さで抱かれるものではないからだ。すると、共感という第
一次的情動に従って行動を起こすことが、必ずしも道徳的に正しい
とは言えなくなる。

もうひとつには、共感じたいがマイナスにはたらく場合がある。
それは、医師や看護士などの医療職とか、セラピストやカウンセラ
ーなどの福祉職だ。そういう仕事の方にとっては、目の前のクライ
アントに過剰に共感することによって判断が狂わせられることがあ
るだろう。彼らは、一歩引いて、あるいは一段高い視点で人を診る
ことが求められる。私たちが判断を誤らないようにするには、共感
を超えた理性の働きが必要なのだ。

なるほど。
私たちは共感能力こそが、社会で集団生活をおくるための根本にあ
ると思い込んでいましたが、必ずしもそうではないのかもしれない
というのです。共感という接着剤のようなもので他人とぴったりく
っつくだけでは、うまくいかないことも多いのかもしれない。
そして、血縁者や目の前の人への共感と、知らない他人や遠くで飢
えている人への同情は、かならずしもそのあとに同じような行動に
結びつく感情とはかぎらないというのです。

なるほど。そうすると、怒りとか悲しみとかの感情についても同じ
ことが言えるのかもしれませんね。つまり、、、うまく言えませんが、
自分の感情と行動をごちゃまぜにするな、ということかな。
単純に、困っている人への共感が自分を正しい方向に導いてくれる
なら、こんなに助かることはないんですけどねえ。

すると、じゃあ、そういうことをわかったうえで、自分を、さまざ
まな人間関係のなかで「社会・道徳的に正しい行動」に結びつけて
くれるものは、はたしてどういう感情なのだろうか? あるいは、
わき起こってしまった感情をどう処理すれば、適切な行動に結びつ
けやすいのだろう? という素朴な疑問が湧いてきます。

自分でもよくよく考えてみると、まず、他人への共感とか、それに
よって「相手の立場に立ち」、そのうえで「正しい行動をする」なん
てことが、思ったほど簡単なことではないことはわかります。
たとえば、だれかがテーブルの脚に自分の足の小指をぶつけて、「イ
テーッ」と叫んでいる。自分もよく同じことをやるからその痛みは
わかるし、十分に共感し同情できる。その人の痛みは、私の痛みの
感覚としてハッキリとリアルに共有できる。そこまでは、いい。
ただ、そこからが問題なのです。

目の前で痛がっている人は、そこでなにを思ったか?
「クッソー、こんなところにテーブルを置いたの誰だ!」「嫁のやつ
だ、あいつが動かしたんだ」「ぶつけたのは、これで今週二回目だ、
なんてツイてない」「そういえば最近ツイてないことが多いぞ」「そ
んでもって明日からまた嫌な仕事だ」、「世の中には、足の小指を一
度もぶつけることなく、大金を稼いでいるヤツもいるのに」、、、など
と考えたかもしれない。

私としては、「痛み」までは共感できるけど、そのあとその人の頭に
湧いた怒りやら悲しみやら妄想やらまでは、とても共感できない、
というか、わからない。それは当たり前のことです。とすると、目
の前の人の痛みの共感からだけでは、「私」が、なにか社会に役立つ
道徳的な行動は起こすまでには至らないのは当然です。その人の頭
に浮かんだいろいろな感情を想像して、さらにそれに共感できるか
どうかが問題になってきます。

で、突然のシメで恐縮ですが、私はこう考えました。
自分のなかに起きる他人への共感や同情には、過剰に信頼を置かな
いようにします。とくにそれが、自分が道徳的に正しい行動を求め
られているようなときには。そのかわりに、遠くの他人の気持ちま
で想像することと、いっときの共感や同情に流されずに、理性的に
判断することに努力します(宣言)。

ただ、カフェの営業時間内では、あまり道徳的に追い詰められるこ
ともないでしょうから、テーブルの脚に小指をぶつけて痛がってい
る目の前の方への共感を全面的に打ち出してお話しようと思います。
どうでしょう、こんなところで。
えっダメ? キレイにまとめようとするな?

 

ブログ