ブックカフェデンオーナーブログ 第206回 2020.08.10

 

「デジタル・テクノロジーと私たち、なう」

 

デジタル・テクノロジーの進展はすさまじくて、がんらいアナログ
頭のブックカフェ・マスターにはとてもついていけません。
なにせ、いまだにガラケーを使っているくらいですから(笑)。

 

だからこういう問題は苦手なんだよなあ。
デジタル・テクノロジーの進展と倫理/道徳/政治との葛藤せめぎあ
い。でも関心はあります。情報もチェックしています。
たとえばインターネットの進展も、当初考えられていたようには人
びとの幸福の増進には結びついていないらしいとの報告も受けてい
ます(だれから?)。

 

それはひとつには、もともとSNSのようなショートメッセージの
やりとりは、論理的とか合理的に行われるのではなく、むしろ「ひ
との感情」を刺激して、とりわけ人びとの怒りを増幅してまとめ上
げ、その「怒り」どうしの反目によって人びとが分断されるのだそ
うです。

 

人びとはネット上で、わずかな感情のちがいですれ違う。
そして刺激され、怒りは増幅され、集団化し、その「怒り」の種類
ごとに「部族」にわかれていく。
世の中には大小いろいろな「怒り」があるので、ひとは、そのつど、
怒りの種類によってあっちこっちの「部族」に属することになる。

 

するとひとは自分の感情に引き裂かれ、いったい自分はいま主にど
んな感情に左右され、なにに怒っているのかわからなくなる。
そして、あらやだ、そんな私ってだれなの? と、「アイデンティテ
ィ」上の疑義にとらわれ、それが不安となり、はては他者や他の集
団への不信となり、争いの原因になるらしいのです。

 

極端にいえば、「食べ物の好みのちがい」とか「サッカーのひいきチ
ームの勝敗」などが「怒り」となってネットという増幅器に流され、
その結果、多くの人が疑心暗鬼にとらわれて民族紛争が起きたり、
宗教対立に発展するというような、いやいやもちろん極端に言えば
ですよ、極端にはそんな情けない状況を想像してみてください。

 

でもそれがデジタル・テクノロジーの進展によって、実際に起こっ
ているというのです。ということで、

 

「操られる民主主義」(ジェイミー・バートレット/草思社) を。

 

この本の原題を直訳すると「人びと対技術」で、副題は「デジタル
・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか」という、まじめな
タイトルでした。

 

いま、情報のプラットフォームを押さえた企業(GAFA=グーグ
ル、アマゾン、フェイスブック、アップル)は、人びとの生活から
情報を吸い上げ、それを活用して収益を上げ、事業のネタを太らせ
ている。

 

この、GAFAによるビックデータの解析と再利用が、じつはネッ
トに頼って生活するひとの感情に影響を与え、そうした「感情の刺
激と怒りの増幅」が、結果として消費や投票行動や政策決定などに
大きな影響を与えている。

 

それによって生み出された企業行動や公共政策は、実際には人々の
所得の格差を拡大したり、階層的分断をさらに広げたりしている。
そしてそれがまた、不安を煽り、怒りの増幅を生み、多種の「怒り
の部族」をつくる、そんな悪循環がみられるのだ。

 

つまりデジタルテクノロジーの進展にともなって、とりわけプラッ
トフォーム企業によって、私たちは団結とか宥和とか寛容から離れ
ていっている。
そうすると、データとAIにきわめて親和的な功利主義的発想が世
界を覆いつくして(たとえば単純な多数決とかトリクルダウン思想
とか)、最後には独自のデータと優秀なアルゴリズムが、企業や国家
の政策を決定していくことになる・・・と、このように筆者はデジ
タル・テクノロジーの現状をみています。

 

ここまではわかるとして、じつはここからがこの本の主眼でした。
問題は、このデジタル・テクノロジーの進展やらプラットフォーム
に、民主主義という制度がついていけていないということなのだ。
そう、筆者は断言します。
ほーら、とても難しい問題に突入していきますよ、ご覚悟ください。

 

そもそも民主主義は、テクノロジーの進展を想定して制度設計され
ていないのだ。人権とか自由とか、ガチリアルに顔つきあわせての
飛沫信頼を恐れない話し合いとか、そこからの合意形成とか少数意
見の尊重とか寛容とかが元手になっている。

 

だから民主主義は、デジタル・テクノロジーにはない「手触り感」
を大事にするシステムだったといっていい。
なにがしかのアルゴリズムでフィルターをかけられ、一定の論理構
造で導き出される結論など、じつは民主的な手続きを踏んだものと
は到底いえないのである。

 

そんなもん、まるで登場人物とストーリーが決められているバーチ
ャルリアリティのゲームを戦っているようなもんだ。そんなことや
ってたら、その条件に見合った意見しか出てこられないはずだし、
感情だけが先行して、いっそう「怒りの部族」ごとに争うことにな
りかねない!

 

そうではなく、ほんらい人びとにとって望ましいのは、アルゴリズ
ムもデータ解析も含めて、テクノロジーが「民主的な支配と行為の
もとに置かれていること」なのだ。 
筆者はこう主張するのです。

 

よくわかります。と思います。たぶん。そんな気がします。
小林秀雄に導かれて「モノ」を見る眼を養ってきた(?)私には、
これは、「デジタル・テクノロジーでさえ、それを民主主義に有効
活用しようとするなら、システムの作り手の手の感覚、つまりは
ひとのアナログの手触り感に支えられていなければならない」、と
いう主張に聞こえました。うーむ、ちょっと違うか。

 

ああそれなのにそれなのに、いまは逆に、多くの社会システムと民
主主義じたいがGAFAさんのプラットフォーム、すなわち一企業
の、しかもあらかじめ決められた舞台の上で、あらかじめ決められ
たルールとストーリーに支配されているではないか。

 

GAFAだけではない。トランプを見ろ、プーチンを見ろ、習近平
を見ろ。というか、それぞれの国のやり方を見ろ! 
こうなってみると「人々対技術」の戦いは、すでに「技術」が勝っ
たといえるのではないか? そしてそれによって、民主的な社会は
すでに破壊されてしまったのではないか・・・

 

・・・さて、どうでしょう。みなさんはこういう意見にたいして、
どんな感想をお持ちになりますでしょうか?
アナログ頭の自分の知らないうちに、理解できないデジタル・テク
ノロジーとアルゴリズムに支配されているのかもしれないと思うと、
とても私は幸せな気分にはなれませんでした。

 

ブログ206

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第205回 2020.08.03

 

「AIブックカフェ?」

 

陶磁器や石という「モノ」からだいぶ離れた話題になりますけど。
最近はとにもかくにもテクノロジーの進化であり、AIばやりなわ
けでして、家電から自動車からゲームから株取引からマーケティン
グや戦争まで、なんでもかんでもAI技術が入り込んでいます。

 

ああ、やはり「モノ」からはそうとう離れましたね。
むしろ真逆といってもいいですね。つくり手の「手」の動きなんて
見えませんし、私など想像すらおよびません。

 

このAIって人工知能のことですけど、そいつらは深層学習とやら
によってドンドン自分で進化していくっていうからすごいじゃあり
ませんか。最初に論理構造を決めて条件とデータを入力しておけば、
かってにドンドン知能を上げて賢くなってしまうというのですから。

 

どおりで囲碁でも将棋でも人間はAIに勝てなくなってしまったし、
美空ひばりの複製映像が新曲を唄っちゃうし、手塚治虫先生っぽい
新作マンガができちゃうし、AIにできることがものすごいことに
なっています。
だれですか、AIにそんなことやらせているのは?

 

じゃあ私だって、ブックカフェにAIが導入されたらどうなるか?
と、ちょっと想像してみましたね。

 

来店されるお客さまのうち、おなじみさんは顔認証によって判別し
てお好みの席にご案内し、AIロボットがお好みの飲み物やケーキ
をお薦めする。
席ごとに音が隔絶されているので、お好みの音楽を一人ひとりに届
ける。そうこうしていると、その方の好みに合ったコーヒーを淹れ
てメイドロボットがお給仕する・・・と、ここまではふつうのロボ
ットカフェ。

 

その方が以前に手に取った本の履歴やその日のお顔つきによって、
AIコンシェルジュによるお薦め本がディスプレイされる。
場合によっては、「まだ存在しない」が、お客さまに必要と思われ
る本を、コンセプトシートの姿で提示したりする。

 

さらに別の席にいる方とチャットでお話すよう促したり、その場で
仮想ビブリオバトル(書評ゲーム)で楽しめるようアレンジしたり、
お疲れになられたら読み上げソフトがお好みの声優の声を手配して
朗読サービスをしてくれる。

 

AIコンシェルジュは、お客さまの欲望やお悩みに対して、リアル
マスターよりいい仕事をいたします。
「(田口トモロヲのナレーション)こうして、本に関する仕事にま
たひとつ新しいものが加わることになった、それが『西調布のAI
ブックカフェ』である(音楽「地上の星」流れる)」

 

おおっ、いいじゃん・・・でも、まてよ? 
そうなるとマスター(ヒューマン)もブックコンシェルジュ(同じ
くヒューマン)もブック(モノ)も要らないんじゃない? 
というより、カフェ(場所)も要らなくない? 
そんなの困るじゃないか!

 

・・・というのはさておき、このようになんでもできそうなAI技
術は、じつはだれかに本気で悪用されるととても怖いんだぜ、とい
うのが、

 

「悪のAI論」(平 和博/朝日新書) の主張でした。

副題に、「あなたはここまで支配されている」とあるように、使われ
方によってAIは、国民監視の精度を上げ、個人のプライバシーを
侵し(中国を考えたときに触れました)、楽々と世論を操作して政治
を支配する奴が現われ(アメリカやロシアでおこなわれています)、
国民に上級下級の差別を引き起こし、知らないうちに兵器のターゲ
ットにされたり、自分のフェイクポルノが作られてしまったり(も
ちろん日本でも)するのだゾと。
というか、もうそうなっているのだゾと。

 

つまり人間は、利口なAIを、他人を支配する道具として使うこと
ができる。
だから国家とか権力者は、それを自分のものとしたがる。人々を支
配したり富を簒奪するには、情報ビックデータをAIを駆使して活
用すればよいのだ。

 

中国だけでなくロシアもアメリカも、政府や権力層の認識は変わら
ない。AIテクノロジーを使えば、監視でも選挙操作でも世論操作
でも思想統制でも国難のでっち上げでもライバル国の人心かく乱で
も、なんでもござれなのだ!

 

ところで、いま思ったのですが、こうした最新技術の悪用と善用の
違いはどこにあるのでしょうか? 
だれがそれを判断できるのでしょうかね? 
国家においても個人においても、そこは難しい問題です。

 

国家が善用すれば国民の安全安心が保たれ、悪用すれば権力の支配
が強まる。善用することで他人に幸福感を与えられるが、逆に自由
を奪うこともできる。その境目はどうなんでしょう。
少なくとも私には判別できません。
なんか倫理上の迷路に入り込んでしまう気がします。

 

ならばここで確認しておきたいことがあります。
それは、どんな種類のAIといえども、人間が開発するアルゴリズ
ムで動くコンピュータ・ソフトであることには違いがないというこ
とです。
だからそこに人間の手クセがでるはずです。そうですよね?

 

たとえば、この本で紹介されているアマゾンが開発しようとした人
材採用AIでは、AIによって採用にふさわしいとされた人が、な
ぜか男性ばかりだった。というのも、AIの学習に使ったデータに
は女性に関する情報が少なかったからだった。
こんなおバカなことが起こってしまうわけです。

 

つまりAIじたいは学習しだいでドンドン賢くなるといっても、そ
れを開発した人が賢くなかったり偏見があったりしたらどーしよう
もない。あるいは蓄積するデータに偏りがあったら、それまたどー
しようもないわけです。

 

「人間には思い込みや偏見がある」、そして
「人間の使うデータには偏りがある」。
だから人間の開発するAIの判断も、つねに正確で中立、しかも善
用されて安心・安全、ということにはならない。したがって、
「AIは時として差別的になる。人生の重要な選択をAIによって
勝手に決められてしまうこともある。」と筆者は書くのです。
このことを、私たちは深く心にとどめておかなければなりません。

 

いまはもう「ひとの感情」や「ゲームの勝敗」だけでなく、リアル
な政治や経済も、金融も軍事も、その大きな部分をAIが動かして
いると考えておいたほうがのですから。

 

いずれにしろ私たちは、「今、ここ」で、ふだんのあらゆる振る舞
いがだれかによってデータ化され、スコア化される世の中に生きて
います。
ブックカフェでどんな本を読んだか、だれと話したか、どんなこと
を話したかの情報が、もし仮に不法に取得され、監視され、AIに
よって評価分析され、それによって自分の生き方が半強制的に決め
られてしまうとしたら、つまり「悪用」されるとしたら・・・ウウ
ッ、怖いじゃありませんか。

 

すると私たちはどう振舞うべきなのか。
この問題はやはり時間をかけてじっくり考えなければなりませんね。
お気楽にAIブックカフェなんか夢想しているばあいではありませ
んでしたぞ!

 

ブログ205

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第204回 2020.07.27

 

「拾った石は捨てられない」

 

当カフェの小さな庭には循環式の璧泉(へきせん)があって、電気
スイッチを入れるとしずかに水がしたたり落ちる仕掛けになってい
ます。天気の良い日には涼しげな水音を響かせてくれています。
そこには、ご近所からいたただいたメダカも新しい住人になったと
ころです。
その壁泉の上部にある、水が流れ落ち始める「水貯め」のところに
小石が置かれているのですが、そこにはもとからの黒丸石にまじっ
て、私が拾ってきた各地の小石も置かれています。

 

近くの多摩川で拾った石、ドライブで寄った海岸の石、海外旅行の
遺跡で拾った石、いろいろあります。でも、もうどれがどれだかわ
からなくなった、たいした特徴もない石ばかりです。
なんでこんなもの拾ってきちゃったのかねえ、と自分でもあきれる
ようなものです。

 

これらは庭や床の間に置くような銘石ではなく、たんにひとの手が
加わっていない自然のモノ、金銭価値のないモノ、真贋もなにも関
係ない、骨董とかモノを見る目とか、作者の手とか精神性とか、難
しく考えなくていいモノたちでした。

 

ところが世の中には、そんな「なんでもない石」が自分に必要なの
だ、という方々がおられるので驚きます。
それは以前にご紹介した、道ばたのなんでもない石を拾ってきて机
の上に置いて対話をしていたという文芸評論家の秋山駿さんや社会
学者の岸政彦さんで、そういう方には私もおおいに勇気づけられて
きたのでした。なぜかわからないけど。
で、それとはやや趣が異なりますが今回は、

 

「いい感じの石ころを拾いに」(宮田珠己/中公文庫) をご紹介。

 

著者の宮田さんは紀行ライターで、多くの愉快な紀行文をものして
おられる方。それがなにを血迷ったか、「いい感じの石ころ」を探し
て日本全国の海岸を巡っていきます。
「いい感じ」ってどんな感じ? と訊かれても、宮田さんでない私に
はわからない。

ただ、道ばたのただの小石ではだめみたいで、海岸や河原であくま
で宮田さんが見て、触れて、握って、「ああ、いい感じだなあ」と
気に入った石、ということです。ここには真も贋も変も糞もない。

 

この本にはいろいろな種類の石の説明もあるし、いわゆる石コレク
ターと称される方へのインタビューもあります。もちろん、筆者た
ちが拾ったいい感じの石のカラー写真もあり、また、どの海岸では
どんな石が獲れるという情報も満載です。

 

その意味では「いい感じの石を探しているひとのための情報誌」と
いってもいい。
けれどもけっきょく、筆者が執念深く「自分にとってのいい感じ」
を探して、あちこちに出かけていくことに変わりはありません。
それを読者は「いい感じ」に追体験させていただくだけ。

 

本人も「私はいったい何をめざしているのだろう?」と、たびたび
反省していますが、
「とにかく海辺にしゃがみこんで、なんかいい感じのする石ころを
探しいていれば私は満足だった。そして、それ以上主張したいこと
は、とくにないのだ」と、開き直っていますね。
もちろん、石と対話したり、人生を考えたりすることもなし。

 

でも実際そのとおりなのでしょうね、それもわかります。
というのも、石ではないのですが、私も海岸で陶磁器の破片を探し
集めたことがあるからです。
とくに台風が去った後の海岸には、多くの破片が打ち上げられてい
る。

 

それを手に取りながら、この古伊万里の皿の破片はきっとこの沖で
船が沈み、積み荷が流れ出してこの海岸にたどりついたのであろう
な。絵付けと藍の染料から江戸時代後期のものと推測されるが、波
に洗われて破片のカドも「いい感じ」に丸くなり、高台のできも結
構なので、ここはひとつ家に持ち帰ってあげよう、などと愛でながら。
じつはそれらの破片もおなじ水場にあるんですけどね、持ち帰って
からあらためてそれらと「対話」することもありません。

 

それはさておき、この本には、ライターの武田砂鉄さん(ここでも
ご紹介した「コンプレックス文化論(文藝春秋社)」「紋切型社会
(朝日出版社)」などの著者)の解説がついています。
武田さんは10年くらい出版社で編集の仕事をしていたそうで、こ
の本の著者の宮田さん担当として引っ張りまわされ、「取材旅行」
という名目でいっしょに石探しにでかけていたのだそうです。
「取材旅行」ねえ・・・いいなあ、そんな「取材」。

 

本の中で、宮田さんにあっちこっちとつき合わされた「編集の武田
氏」は、最初はいやいや同行していたが、だんだん石に愛着がわい
て、さいごは熱心に海岸で石集めをしていたことになっています。
でも、武田さんによるあとがきを読むと、本人的にはそうでもなさ
そうでしたね。

 

石を探しに行った出張の報告書が書きにくかったとか、自分が会社
を辞める時にデスクの引き出しにある石をどうしたらいいか迷った
とか、そんなことを楽しげにグチってました。
そのお気持もわかります。
わかりますけれど、ただ、私自身の経験から言っても、「拾ったい
い感じの石(および、いい感じの陶磁器の破片)は捨てられない」
のですよ。はい。

 

ブログ204

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第203回 2020.07.20

 

「最初から最後まで『眼の人』であった」

 

出川さんの師匠が柳先生だとすると、小林秀雄や白洲正子の焼き物
における師匠が、青山二郎さんでした。
とにかく「モノを見る眼」に優れていて、焼き物を中心に骨董の真
贋を判断するのはお手のものだし、ひいては人間の「真贋」までを
ズバリと言い当てたというおひとです。

 

人間の真贋とはいったいいかなる「真」と「贋」なのか?
そんな疑問をもたれる向きもあるでしょうが、ともあれ天下の副将
軍水戸光圀公なみにスゴい人だったらしいです。
いや、小うるさいジイさんという意味で。

 

「青山二郎全文集」(青山二郎/ちくま学芸文庫)

 

彼が見出したり愛でた骨董や焼き物は、多くはその後いろいろな方
の手を通って美術館に収蔵されていまに伝わるのですが、彼の愛し
た骨董そのものにご興味のある方は、どうか別の資料をご参照くだ
さい。さすがに「さすがなモノ」を収集されています。

 

ここでは、骨董のプロ青山二郎による文芸のプロ小林秀雄観をのぞ
きつつ、彼の文章をみてみるとしましょう。すると、
「骨董弄り(いじり)は一生、大概感じで終わって仕舞うのが落ち
である。始めてからニ三年すると、小林の眼は漸く『物』が見える
様になってきた。個々の物が見えてくれば、後は割合に頭でいける
から彼の(お手のもの)に近くなる。」
みたいな文章に出くわします。

 

わかりにくいですね。
この、「物」が見えるとはどういう状態なのか? 
「頭でいける」とはどういうことか? 
やはりそこが私にはわからない。すいません。

 

青山は、「(モノが)見えるということは、小林の(お手のもの)の
頭の働きと違ふことを合せて悟らせる為に、私は先に喋らないこと
にしたのである」などと、師匠ぶってえらそーに言うのですから、
骨董のプロからすれば、眼と頭の違いは当たり前に説明できること
だったらしい、そういうことだけはわかりました。

 

ただ彼は、それを読者のわかるように具体的には教えてくれない。
ところで以前ご紹介したように、青山の最後の弟子の白洲正子の意
見も、青山に「見ること」を鍛えられた小林の文章は、それまでと
は明らかに変わったというものでした。
これもわかりませんでしたね。
ですので、いったん理解をあきらめることとします。すいません。

 

でもさー(グッと口調を変えて)、そんな青山だって、自分の気に
入ったモノを目の前にして、「他人が見たらカエルになれ!」なん
ていっていたひとなんだよ。おかしいよねえ?
これは、「このモノ」の良さや価値がわかるのは自分だけだぜ、見
る眼のあるのはオレ様だけさ、だから他人にはその良さの本質を
現わさずにいてくれ、このオレだけのモノであっていてくれ! と、
煩悩丸出しで叫んでいるようなものじゃないか。

 

こんなことから私は、彼は、なにかを他人と共有したり共感を求
めたりすることが苦手な、自分本位のひとだったのではないかと
邪推しましたね。
だって、ほんらい文章を書くというのも、なにかをだれかと共有し
たいという思いからやむなく生まれる行為であって、もし共有も共
感も求めないのならば、自分の思いを表そうとか、理解してもらう
ために平明な文章を書こうなどとは思わないでしょう?
「眼の人」青山の文章はわかりにくいのです。

 

小林が言うように、本来、多くの人の多くの視線や長い時間に耐え
られる強さをもった器物というのが「真」であるなら、長い間多く
の人の目に耐えられる文章は、だから「共感への渇望」に支えられ
ているといっていいのではないか。
小林はそれに気づいたのではないか。
いっぽう青山は気づかなかった。

 

小林は文章をも「モノ」としてじっと見ることによって、それを書
いた(作った)ひとの「(渇望の)手」をじかに見ようとした。
そのやり方こそが、なにかを直に理解してそれをだれかに直に伝え
るという意味で、独特の仕事の基調になったのではないでしょうか。

 

逆に青山は、自分の眼が一番確かなのだという自信家だった。
一瞬でモノの真贋を見抜いた。そして自分の眼でみたものに他人の
共感を得ようとか、自分の価値観を他人にわかってもらうために努
力しようなどとは、ぜんぜん思わなかった。
なぜなら彼は「見る」天才だったから。
他人が自分と同じように「わかる」とは思わなかったから。

 

もちろん私は青山という人間の真贋の判断をしているわけではあり
ません。
生まれながらの「眼の人(つまり天才肌の人)」は、「文の人(努力
して他人の共感を得なければならない生業の人)」になるのは大変
なのだ、モノを見る目と文章で表現することとは相当に離れた能力
なのだ、ということを思い知らされたのでした。
だからこそ、よけい小に林秀雄の努力のすごさに思い至る。

 

私はそんなことを思いながら、天下のご意見番の愛すべき天才頑固
ジイちゃん(たぶん)の青山先生に心の中でウィンクをして、去る
ことにしました。

 

burogu

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第202回 2020.07.15

 

「モノの精神性を問うのは悪いクセ?」

 

ちょうちん壺をはじめとして、私は朝鮮の焼き物が好きなもので、
李朝白磁の小壺や高麗青磁の小皿などをいくつか買い求めてカフェ
にもお目見えさせています。

 

そういえば小林秀雄もけっこう李朝ものが好きだったようですね。
戦前の文士は、川端康成もそうですが、李朝とか高麗とかにはまる
方が多かったらしく、それには日本の朝鮮統治時代における浅川伯
教と浅川巧という兄弟の尽力が大きかったそうです。
いまでいうと、インフルエンサーですね。

 

尽力、というのは、彼らは林業技師として働くかたわら、現地でも
見捨てられていた高麗・李朝の焼き物を高く評価し、窯跡の調査研
究をするとともに、朝鮮の民族的な器物全般を愛し、それらの収集
と保存、そして紹介に力を尽くしたという意味です。

 

けっして秀吉の軍隊のように、焼き物をあさったり工人を無理やり
連れてきたということではなく、あくまで朝鮮工芸のすばらしさ
を伝えた方々だったのですね。
(浅川兄弟にご興味のある方は、図書館で本を借りるか、映画「白
磁の人」(2012)のDVDをレンタルしてみてください)

 

その成果を見た当時のチョー強力インフルエンサーの柳宗悦が、
「インスタ映えはしないけど、こりゃスゲェー」とうなって、民芸
運動に結びつけたというのは有名な話・・・なんちゃって、そんな
ウンチクを述べながら焼き物を愛でるというのもお楽しみ、という
ことで、まずはご容赦ください。

 

「李朝陶磁新考」(出川直樹/創樹社美術出版)

 

私が朝鮮の器物に関心をもち始めたときに、おおいに参考にさせて
いただいたのがこの本でして、筆者出川さんは柳宗悦さんの弟子筋
にあたる方で、「先入観や既成観念にとらわれず、『直下に見よ』と
いう教えを大事にしている」、と述べています。

 

でました、「直(ちょく)」の字のついた「直下(じきか)」。
これは禅のことばでしたね。欲望や煩悩を離れて虚心坦懐に本質を
見よということで、小林のいうことと同様にモノの見方の基本中の
基本かもしれません。

 

でも、それができないんだよなあ、私らシロートには。
「これ、ホンモノかしら?」とか「いくらぐらいするかしら?」
「売ってるオジサンは信じられるかしら?」「友人は褒めてくるか
なあ?」などと、思わず心のなかで煩悩丸出しのおしゃべりをして
しまうのが私ら凡人なのですから。ン? それって私だけですか?

 

しかし、そういう煩悩だらけの人間から見ても、高麗の青磁や李朝
の白磁はふつうに美しい。
壺だけでなく梅瓶、徳利、猪口、角瓶、扁壺、筆筒、水滴、鉢に皿、
模様の描かれているのも描かれていないものも、ろくろのものも手
びねりのものも、なぜかスッキリとしたたたずまいのものが多い。
多少キズがあったとしても、それは見る際に苦にならないのです。

 

出川さんは焼き物について、
「一器のなかにひとつでも『みどころ』が見つかれば良く、形、文
様、色調、どれをとってもさほどではないというものは、いくら無
キズでも飽きる」といいます。

 

ここにはふたつの教えがあるのでしょう。
ひとつは、李朝の陶磁は中国のものとはちがって、完璧を追い求め
るというより「使われて光る美」があるので、完品かどうかなんて
ことよりも、そのモノのもつ「用の美」を発見しろという、師匠直
伝の「民芸運動的」な教え。

 

もうひとつは、だから博物館で眺めるのではなく、手元に置いて使
って、そして見て、見どころがあるかどうか、飽きるかどうか確か
めてみよという教え。

 

こうして筆者出川さんのように、ガチリアルに直下にモノを見てい
くと、モノの方から、ヤバイヨヤバイヨ-と訴えてくるものがある。
たとえば、師匠の柳先生は、李朝白磁の「白」は哀しみの色で、朝
鮮民族が喪に服すときの白衣のように感じられると書いたが、そん
なこたーない、と彼は反論するのです。
藍色の秋草の文様がはかなげで、それは朝鮮民族の歴史を反映して
いるなんて師匠は言うが、これも、そんなこたーない。

 

じつは朝鮮の工人だって、ほんとうはもっと上絵付けしたかったん
だけど、染付のコバルトが手に入らなかっただけだろう。裕福な中
国の官製染付磁器のようにベタベタとラピスラズリを塗りたくるわ
けにいかずに、ケチケチ使わなければならなかったんだ。
だから絵付けできなかったり薄い絵付けになり、いたしかたなくは
かなげな印象をあたえるモノになってしまったのだ、そんなことす
ぐわかるだろ。彼ら工人の気持ち、わかるだろと。

 

柳先生は、李朝時代は「動揺と不安と苦悶と悲哀に満ちた世界だ」
とか決めつけるけど、そんなわけないじゃないか。
それって先生のただの思い込み。やたらと精神論に持ち込む、あな
たのわるいクセ。

 

だって韓流ドラマをご覧になっている方のほうがお詳しいでしょう
が、300年以上続いた朝鮮の李朝時代って、いつでも日本や中国に
侵略されていたり悲哀に満ちた悲しい詩歌を歌っていたわけではな
い。
りっぱな王様がいて平和な時代が続き、ちゃんと恋愛や不倫や記憶
喪失があり、チョングムがいたり宮廷内のいじめとか出世物語もあ
ったのですから!

 

柳先生は思い込みの強い人なので困ってしまうなあ。
モノにたいして、思い込みで「民族の精神性」などをあてはめては
いけないんじゃないですか、先生。それでは「直下に見よ」という
先生ご自身の教えに反するではありませんか! 「見どころ」は別
のところにあるのだ!

 

・・・と私、自分の心の中での本とのおしゃべりをそのまま書いて、
出川さんの考えをだいぶ意訳したような気もしますが、彼はだいた
いそういうことを言っているんじゃないかと思いました。
いい加減ですいません。だから拡散しないでください、、、しないか。
でもこんな師弟対決だって、カフェでの私たちの楽しいネタになる
のだから、骨董趣味はやめられません。

 

ブログ

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第201回 2020.07.06

 

「モノを見る眼を養うと文学もわかる?」

 

ところで小林秀雄といえば、有名なことばに、
「美しい<花>がある。<花>の美しさといふ様なものはない」と
いうのがありました。
なんだか誌的で哲学的なことばなので、わかるようでわからないな
あと感じますが、みなさんはどう受けとめるでしょうか?
私がこのことばをはじめて知ったのは、

 

「遊鬼」(白洲正子/新潮社) で、でした。

 

白洲正子さんは多くの書物を書かれていてファンも多く、戦後の吉
田茂首相に仕えただんなさんの白洲次郎のファンもこれまた数多く、
いずれこの日誌にも取り上げたい本がたくさんありますが、今回は
とりいそぎこの本のなかの「小林秀雄の眼」と題された小文がすば
らしすぎるというご報告をさせてください。

 

私思うに、これ、数ある「小林秀雄の解読文」のなかで、最高傑作
じゃないかなあ。
たとえば、こんなことを断言されたらどうします?
「小林さんは骨董に開眼することによって文体も変わったので、文
体が変わるということは、思想の上にもある変化が生じたことに外
ならない。」
おおーっ、いったいどういうことだか、わからない!
たしかに小林も、「骨董に夢中になったおかげで、やっと文学がわ
かりかけてきた」と言っているらしいですから、白州さんの断言も
外れてはいないのでしょう。ここに小林の「眼と頭をつないでいる
もの」の秘密がありそうなのだけど、、、、、私にはわからない。

 

さらに白洲さんは、小林の処女作「様々なる意匠」から、こんなこ
とばを引っ張り出してきます。
「芸術とは感動の対象でもなければ思索の対象でもない。実践であ
る。」「重要なのは新しい形ではなく、新しい形を創る過程である。」
おおーっ、これも、、、、、よくわからない。

 

小林は、まるで修行のように骨董を見て、売り買いし、開眼した。
その後は「ゴッホ」を書くに際しては複製画を求め、「鉄斎」を書く
に際しては鉄斎の絵を、「梅原龍三郎」のときもその作品を買い、黙
って見続けることを続けて、そのうえで評論を書いた。

 

その文体は骨董にはまる前に比べて「わかりやすくなったわけでは
ない」が、だんだんと「言葉は抑えられ、饒舌は影をひそめて、平
明で読みやすい文章」になっていったと、そう彼女はそう断言する
のです。ただそれが、「彼の思想が変わった」ということや、「芸術
とは実践だ」「重要なのは過程だ」ということにどう結びついている
のか、私には見当がつかない。

 

自分の中にこの問題を沈めるために、謎として繰り返します。
骨董を見続けることによって、小林の思想と文章は自分の手のひら
にあるモノの手触りから立ち上げる平明なものになっていったらし
い。どういうことだ?

 

文学を語るプロの評論家の文章が、骨董を「見ること」で変わり、
その文体が変わり、その思想も変わっていったというのなら、私た
ちもモノを見る眼を養うことによって、文学や音楽や絵画の楽しみ
方を変えることができるのかもしれません。
それがだれにとっても正しい方法かどうかはわかりませんが、それ
によって<花>の美しさを語れるようになるかもしれない。

 

こうしてみると、すでに自分の中に沈んでいた問題が浮上してきて
合体する気がいたします。それは、
「生きている人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。
(中略)そこにいくと、死んでしまった人間といふものは大したも
のだ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種
の動物かな」、という小林のことばなのですが、この二つの謎が解け
るかもしれない。
・・・こう書いていて、やや方向感覚を失っている私ですけど。

 

ブログ201

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第200回 2020.06.30

 

「モノを見る眼の秘密とは?」

 

カフェの入り口の大窓のところに、目立たないですが高さ50セン
チほどの李朝の壺を置いています。たぶん、きちんとご覧になった
方はいないんじゃないかな、暗がりで見にくい場所ですし。

 

朝鮮李朝時代中期の白磁の壺、底と口がつぼまっていて真ん中の胴
体が膨らんでいるので、通称「ちょうちん壺」と呼ばれます。
かれこれ400年以上の年齢を重ねてきているので、それなりにシミ
が出ていたりカケがあったりですが、そこも「味が出てきたね」と
思えばひとしお愛おしい存在となりました。

 

これってホンモノですか?と言われると、それはどうかわかりませ
んけれど、焼き物なんて自分が「良い」と思えばホンモノですよね。
ま、自分の「モノを見る眼」を信じればいいのです。この壺は、オ
ホンッ、「お宝鑑定団」に出してもいいくらい。
ということで、ホンモノかニセモノかについてのこんな本を。

 

「真贋(しんがん)」(小林秀雄/世界文化社)

 

文芸評論家小林秀雄は「見る人」だと思われます。
「読む」のが仕事の「文芸評論家」なのにもかかわらず。

 

たとえば彼は、黙ってモノを見続けることは難しい、といいます。
「見ることはしゃべることではない。言葉は眼の邪魔になるもので
す」。「たとえば諸君が野原を歩いていて一凛の美しい花の咲いてい
るのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。
なんだ、菫の花か、とおもった瞬間に諸君はもう花の形も色も見る
のをやめるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。」

 

うーん、文芸評論家でこんなことを言うひとはいないでしょうよ。
だいたいはモノを見ながら、あるいは文章を読みながら、心の中で
おしゃべりをするという「思考」をしているものじゃないでしょう
か。そしてそれを文章にするのではないでしょうか。
小林こそが心の中でのモノとのおしゃべりを文章にしていた評論家
じゃないか。 

 

しかし小林の考えでは、黙ってモノを見るのは難しいことなのです。
ほんらい美しいものは私たちを黙らせるのだから、心の中のおしゃ
べりは余計なことなのだ。モノ(焼き物も絵も花も)がほんとうに
わかるというのは、「(モノに強いられた)こういう沈黙の力に耐える
経験をよく味わうことに他なりません。」
彼はそういいます。

 

そうなると、モノを見る目を養って真贋を見分けるということは、
なかなか困難な話に思えてなりません。
小林は「黙ってモノを見る」ことを修業したというのだけれど、
「何も考えずにたくさん見たり聴いたりすることが第一だ」
「解るとか解らないというのが、もう間違っている」
「諸君は試みに、黙ってライターの形を一分間眺めてみればいい。
一分間にどれだけたくさんのものが目に見えてくるかわかるだろう。
そして、ライターだけを眺める一分間がどれ程長いものかに驚くこ
とだろう」
とかなんとか、そんな修行じみたことを彼に勧められても、私たち
は困ってしまいます。

 

しかし、自分が見て、おもわず足を止めてしまったモノを、ひとつ
ひとつ黙って見続け、モノの沈黙に耐え、贖える(あがなえる)も
のならそれを買って持ち帰り、さらに自宅の部屋で眺めつづける。
すると見えてくるものがある。
小林はガンコにそう言うでしょう。

 

彼は多くの文芸評論を残しましたが、私の印象に強く残っているの
は、たしかに彼の眼が見た「モノ」の印象が、いわくいいがたい表
現で文章として刻まれていく過程の、なんというか「ためらいがち
な鑿(のみ)の痕」とでもいいましょうか。
そんな営みのにじみ出た文章だった気がします。

 

それが彼の「真贋」の見極めに深くつながる行為なのかもしれませ
ん。だとすれば、「見る」と「読む」の関係についても、たとえば
「国宝級の骨董には挿話がついて回っている」と言われ、「古い長も
ちのした伝説」はバカにならないと言われれば、そうなのかもしれ
ません。

 

どういうことかというと、見続けたひとと時間が長ければ長いほど、
多くの物語がそのモノについて回るようになる。もちろん箱や「箱
書き」も多くなる。ひとの「見たこと」を語り継ぐ気持ちが積み重
なっていく。わがちょうちん壺のシミの一つひとつにも物語がある。

 

「お宝鑑定団」でもその手の話が多いですものね。
その「お話」が、真贋の判断のよりどころにもなる。
つまり、自分の心のガードを下げて、モノについて回った挿話をも
素直に受け取る「術」を身につければ、「その中には古来多数の人々
の審美感(つまり「それらの人たちの眼」)が織り込まれている」と
確かに感じられる目が養われる。

 

たくさんの人が見て、使って、そこになにかを見つけて、物語にな
ったモノ。そのつらなりが「精神史」だということでしょうか。
「信楽にしても備前にしても、壺の工人たちは、石器時代からほと
んど変わらぬ壺を使うという日常生活の基本的な要求に黙従してき
たまでだ。革新も改革も知らず、捏ね上げた泥の塊り具合を注意深
く見守ってきたまでのことだ。」
その「見守ってきた」眼をも、小林は深く想像しようとしていた。

 

ただ彼は、「この無口な器物が語るのは、、、(中略)自然にじかに触
れている人間の手の表情のごときものである」として、なにごとに
おいても、それが焼き物であれ音楽であれ詩であれ、この「人間の
手の表情のごときもの」を直に見たい気持ちの強いひとだった。
だから精神史などとは言わずに、「手の表情」という表現を使います。

 

この点について小林の友人で骨董の師匠の青山二郎は、小林は座談
では(モノそれじたいの)イキイキとした話が出てくるが、文章に
なるとなぜか、作った人描いた人のことが主要な問題になってしま
う、と首をかしげています。

 

じつはこのへんに小林の「眼」の秘密、というか「真贋の判断基準」
というか、「眼と頭をつないでいるもの」の秘密というか、モノを見
ながらもそれを作った人の手の表情に思いをいたしてしまうクセ、
のようなものが隠されていると思うのですが、いかがでしょうか?

 

ブログ200

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第199回 2020.06.22

 

「当店の焼き物は・・・」

 

焼き物といっても、サンマやイワシのことではありません。
当カフェに飾ったり、使ったりしている陶磁器のことです。
当店で焼いているわけでもありません、あしからず。

 

そのなかでも私の一番のお気に入りは、屋久島在住の作家、山下正
行さんの作品。
蓮花やウミガメの形の香炉や、ちょっとした怪獣(ポケモン)のよう
な花活けや動物の置物など、どれも登り窯で焼しめた造形に自然釉
がかかって野趣あふれるできあがりとなっています。

 

お会いするとご本人はいたって温厚な方で、そのお人柄や屋久島の
自然の厳しさの両方が作品から感じられる気がいたします。
グッジョブ!です。
なので、焼き物好きのお客さんに「どこの作家さん?」と訊かれる
と、うれしくなってついつい山下さんのお人柄からご家族のことま
で、おしゃべりをしてしまうのでした。
とにかく日本は北から南まで焼き物天国で、飾りたいし眺めていた
いし使ってみたいと思わされる作品や作家さんが多いことです。
日本の焼き物文化って広くて根強いもんですねえ。

 

「日本陶磁の一万二千年」(矢部良明/平凡社)

 

これは題名どおり、縄文から近代までの陶磁器の変遷を、最近の考
古学的知見も入れながら解説してくれる本です。
といっても教科書的な羅列ではなく、著者曰く「精神史の展開」と
いう考察方法をとっているそう。

 

精神史の展開? それはいったい、どういうことだ?
「焼き物の技術革新や技術導入、そして様式革新や様式導入を見定
め、それらの要因はすべて焼き物を制作する側の人々の自律的判断
によって揺り動かされ発動することを定理とし、自らの精神が発動
しない限り、技術や様式の核心も導入もおこり得ないし、ここに民
族や個人の主体性が示される。」

 

ン? 様式の自律的判断? 民族や個人の主体性? 難しくなって
きましたぞ。
たとえば、「縄文土器から弥生土器への展開は、無窮動(はてしな
く動きつづけるの意)の美から、多様の統一による美への展開であ
り、両者はまったく次元のちがった創作原理にしたがった造形物で
あった」と筆者が述べるあたりなんですけど。

 

えーっと(苦笑い)、これはどういうことかというと、間違ってる
かもしれませんよ、間違っているかもしれませんが、それを私は
こう受け取りました。
縄文土器をつくった縄文人は、「無意識過剰」で、行くとこまで行
っちゃえとばかりゴテゴテと装飾したが、弥生人は違う。
弥生土器は「意識的」に作られて実用性を重視している。弥生時代
にはすでにことばも発達し、個人の自意識も集団意識も芽生えてい
る。だから焼き方や土などの技術革新を進めながら、用途と様式へ
のこだわりをもって多様な造形物を焼いていたのだ。

 

縄文と弥生では制作原理がそのように違う。そこにそれぞれのの時
代の民族の主体性を感じ取ることができるのだ。
つまり、焼き物という「モノ」は必然的に、それを作った人たちの
精神すべてを表してしまうものだという視点から、では、ある時代
のある焼き物が、どれだけその時代を生きた人々の思いを背負わさ
れているかを、筆者は「民族や個人の主体性」と表現し、それが歴
史となって積み重なる様子を「精神史の展開」と言った。
ちがうかな。

 

たとえば評論家小林秀雄さんの「茶人のモノに対する姿勢」につい
てのこんなことばが、「精神史」について考える補助線にならない
でしょうか。
「器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、(すなわち)美しい
器物を見ることとそれを使用することが一体になっていた。その間
に区別がない、そういう態度は、きわめて自然な健全な態度である。」
これは、できあがった器物が背負う時代の精神とは、それを見て使
う側の人々の「自然で健全」な思いによってつくられていくのだ、
ということでしょう。
あたりまえかな? 違うかな? さらに別の方向へズレたかな?

 

でもそこは強引に、山下さんの作品を、筆者の「精神史」や小林の
「自然で健全な態度」のなかに置いてみたらどんな位置を占めるの
だろうと考えてみる。
すると、一万二千年の歴史のなかで、ああここが山下さんの独創だ、
個性だ、時代性だ、主体性だ、ということがなんとなくわかってく
るような気もするのです。

 

山下作品を見て、ゴツイけどなかなかかわいい作品じゃん、という
第一印象レベルから、彼が登り窯で固く焼しめたかった気持ちに想
像がおよぶようになり、そこに込められた数々の技術のすばらしさ
に気がつき、さらに屋久島という大自然のなかで家族に支えられな
がら作品を作り続ける気持ちがわかるような気がしてくる。

 

それらをまとめて、
「山下さんの作家性とは、無意識のリリシズムに支えられた造形と、
小さな子どもたちや屋久島の太古の妖精たちにお便りを出すような
姿勢にあるのではないか」なんて、ちょっとカッコつけた「精神史」
的な解釈が可能になるかもしれません。

 

ま、たとえば、の話ですし、矢部先生の考えとはズレているかもし
れないし、そもそも精神性の解釈なんてことば遊びみたいなものだ
とも思いますですけどね。

 

でもそういう空想作業をつづけていると、お店にあるペルシャの陶
器とか高麗の皿などが、山下さんの幻獣と不思議に感応して、カフ
ェの空間がより豊かになるような気がするのです、、、精神史的に。
そして、このブックカフェがなにがしかの歴史を受け継いでいて、
それを私というマスターが具現化しているという、そんな確信が芽
生えるような気もしてきます。

 

ブログ199

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第198回 2020.06.13

 

「戦争はアタマのネジをはずすのだ」

 

はいっ、今回はわがオールタイムベストにもかかわらず、ご紹介の
しかたがムズいので、サクッといきましょう。
戦争小説は数々あれど、オドロキの、ビックリの、トンデモの本と
いえば、はい、これ。

 

「キャッチム=22」(ジューゼフ・ヘラー/ハヤカワ文庫NV)

 

読み始めて、いったいこれはなんの話だ?と思わないではいられな
い不思議な戦争小説です。
なんの話かわからない感じで始まっているのも理由があって、だん
だんと読み進めていくうちに、お、そういうこと!となっていくの
ですが、そういう、この小説の「読み方」みたいなものに納得でき
てくるとドンドンとおもしろくなってくる。

 

主人公ヨッサリアン大尉はアメリカ空軍のパイロットで、第二次世
界大戦の末期、イタリアの小さな島の基地からイタリア本土の敵基
地に攻撃をかけなければならないのですが、戦闘が怖くてイヤなの
で、なんとか出撃を避けようとします。
なので狂気を装う。
その結果、三人称の小説なのに、最初っから小説じたいの叙述じた
いに狂いが生じてくる。まずは、「そういうこと」。

 

もちろん作者はそれを意図的にやるわけです。
そして読者には、狂いが生じているのはヨッサリアンの頭の中だけ
でなく、ほかの登場人物もみんなおかしいということがわかってく
る。じつはみんな頭のネジがはずれている。
そして最後には、軍の規律として全員が守るべき「キャッチ=22」
というのが、じつはトンデモナク狂っているということがわかる。

 

でもそんなこといったら、小説じたいが狂っているということにな
るのだが、それを言ってはおしまいになるので、言わない。
「そういうこと。」

 

すごいでしょ。
ここでは、狂気と正気、タテマエとホンネ、事実とウソがすべて表
裏一体であり、じつはそれが戦争というものの異常な真実だという
ことが、ジワリジワリと読者の脳髄に沁み込んできて、ウィルスの
ように感染させられていくのです。
怖いでしょ?

 

こうして、背筋がゾゾゾッとなるような怖さを感じることもできる
し、アハハハ、こいつらみんなバカですねー、と笑いながら読みと
ばすこともできるし、なんだこれ!?とあきれて放り投げてしまう
こともできる。ということ。

 

ちなみにこの作者の別の小説、「なにかが起こった」(角川書店)な
んて、もっとすごいですよ。舞台が戦争から家庭生活に代わってい
ますが、そこで「なにが起こったんだろう?」と思って読むと、な
にも起こらないのですから。
なにも起こらないにもかかわらず、おもしろく読めてしまうという、
その理由がわかればりっぱな文芸評論になるのですけどね。

 

たぶん「キャッチ=22」も「なにかが起こった」も、主人公たち
登場人物がすべてどこかおかしいのだけど、それはじつは、読んで
いる私たちと似ているのだ、結局みんなどこかしらネジがはずれて
いるのだ、と感じさせられるのは確かです。
「そういうこと」なのだ。だからこの作者はすごいのだ。

 

ブログ198

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第197回 2020.06.08

 

「成熟と不時着のアオハル(青春)」

 

オールタイムベストのセレクション、DJを気持ちよく続けさせて
いただいておりますワタシ、カフェマスターだぜィ、みんな、ノッ
てるかーい、YO。

 

つぎは「星の王子様」で高名なフランスの作家サン=テグジュペリ
だけど、もしキミが彼のそれ以外の作品を読んでいないのなら、そ
れはラッキーというものだぜィ、YO。
だってこれから読めるんだから。
そこには珠玉のことばが満ちているんだ。とりわけキミたち若い方
に必要な、知恵と感受性に富んだことばの数々があるんだ、YO-
YO。

 

たとえば、たまたまキミが手に取った作品が、
「人間の土地」(サン=テグジュペリ/新潮文庫)

 

なら、そこにはこんなことばがつづられているよ。
「僕ら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える理由は、
大地が人間に抵抗するがためだ。」
どうです? まるでだれかが「今日から春だ!」と告げているよう
な、清々(すがすが)しいことばでしょう?

 

主人公の「ぼく」は、第二次大戦前のフランスの定期航空便の飛行
士。当時は、安全ではない飛行機での安全ではない飛行の時代。
大きな山脈を横断することが飛行士の「記録」として残され、尊敬
される時代です。
だから「大地が人間に抵抗する」と表現されるのでした。
彼は職業として飛行士を選び、そこで「人間に抵抗する」大地につ
いて考えをめぐらしていく。

 

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなけれ
ばならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあの
ともしびたちと、こころを通じあうことだ。」
このように彼は、自分を律して鍛える作業として世界に向かって飛
び立ちます。われわれ読者も、ここにこそ人間の自由と自立の原点
がある、と感じさせられるのです。すがすがしいなあ。

 

「でもマスターさあ、こんなの、100年近く前のロマンだよ」、
って、そう言われれば、まあ、それまでだけどね。
でも、いつの時代であってもきちんとした相手(たとえば大地とか、
神様とか)と、きちんとした戦いができることってうらやましいと
思わないかい?
ある意味、大地や海や神様が人間にとても近い存在だった、人間は
全力でそれらに立ち向かっていた、そんなステキな時代だったと思
いませんか?

 

たとえば、はじめてフランスからピレネー山脈を越えてスペインに
飛ぶことになった「ぼく」は、先輩のギヨメから、ゴーデスという
町の近くにある原っぱを囲んで生えている三本のオレンジの樹につ
いて、「あれには用心したまえよ、きみの地図の上に記入しておき
たまえ」と言われる。
「するとたちまちにして、その三本のオレンジの樹が、地図の上で
シエラネバダの高峰より幅を利かすことになるのだった。」
これが大地と人間の、じっさいの戦いの姿だったのですから。

 

宮崎駿さんはこの本の「あとがき」のなかで、
「風景は、人が見れば見るほど摩耗する。いまの空とちがい、彼ら
の見た光景は、まだすり減っていない空だった」と書いています。
だからね、三本のオレンジの樹が私たちの脳裏に残すイメージの、
なんと清真に屹立していることでしょうか。

 

「ぼく」はこうして、山岳を、草原を、砂漠を、海原を飛び、それ
らと戦いながら成長していきます。
そしてこの戦いをやめる時は死ぬときなのです、飛行機乗りにとっ
て。
「彼ら、ぼくらの僚友たちは、もう永久に戻ってこないのだ。彼ら
はあれほどしばしば自らの手でその空を耕したある南太西洋の波間
に眠っているのだ。メルモス(友人の名)は、自分の仕事の背後に
隠れてしまったのだ。麦刈り男が、きちんと束に結わえあげてしま
うと、自分の畑にごろり寝転ぶように。」

 

パイロットに限らず、いずれはだれもが波間に落ちたり、「三本の
オレンジの樹」や「一軒の農家」や「三十頭の羊」の近くに不時着
することになる。それはサン=テグジュペリにとって、人間として
あるべき姿なのです。
人間の成熟には「空」と「大地」が必要なのだ。それに加えて「砂
漠」や「海原」も・・・・。

 

訳者の堀口大學は、「この本は、人間本質の追求の書である」と書
きますが、サン=テグジュペリはその意味で、私たちに「成熟」の
しかたとともに「不時着」のしかたも教えてくれたのかもしれませ
ん。

 

ひとの成熟は、不時着とともにある。
そしてその「不時着」こそは、正しく彼の文学上の先輩で「砂漠に
隠れた」ランボーにつならり、さらに、「ぼくは二十歳だった。それ
がひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい
(アデン・アラビア)」、と書いたポール・ニザンにつらなるテーマ
なのだと、強く感じました。
若者よ、これが100年前の(フランスの)アオハルだったのだ!

 

ブログ197

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第196回 2020.06.01

 

「たまにはブッたまげたい方に」

 

驚く、ブッたまげる、足がふるえる、背筋が凍る、顔が紅潮する、
腰が抜ける、魂が持っていかれる、そんな経験をすることが少なく
なりました。
とくに歳を重ねてくると「平穏」を望み「予定調和」に慣れて、
たいがいのことを「ああ、知ってる、これはこういうことね、ハ
イハイ」、と自分に都合よく納得してしまい、いい意味で驚かされ
る体験が少なくなってくる気がします(新型コロナ・ウィルスは別
にして)。

 

ところがやはり、文学の力というのは怖ろしいもので、そうやって
油断をしていると突然背後からガツンとやられることがあります。
いまだにそんな嬉しい体験(新型コロナ・ウィルスは別にして)が
あるのですから、読書はやめられませんね。
ということで、今回ご紹介するのは、それっ、

 

「シャンタラム」(G・D・ロバーツ/新潮文庫) です。

 

なんじゃこれはー! ス、スゲェー!という驚きの小説。
しかし、どうやらほぼ事実にもとづいているというから、もいちど
ブッたまげるしかありません。
文庫本三冊で計1,000ページにおよぶ長い長い小説なので、スジ
書きなどをお伝えできるはずもないのですが、少しだけ私がブッた
まげた点を挙げてみます。

 

主人公リン・シャンタラムはオーストラリア人、30歳。
あ、ここはまだ驚く所ではありませんですよ、たんに主人公のご紹
介ですからね、焦らない焦らない。
彼は自分のことをこう書きます。
「私はヘロインの中に理想を見失った革命家であり、犯罪の中に誠
実さをなくした哲学者であり、重警備の刑務所の中で魂を消滅させ
た詩人だ。」なかなかの好人物のようです。

 

ではブッたまげたこと。
武装強盗で20年の懲役刑に服していたが、白昼に脱獄してインドに
逃げたこと。ひえーっ、どうやったんだ?

 

インドのボンベイ(ムンバイ)のスラム(新型コロナ・ウィルスは
大丈夫かなあ)に潜伏し、なんと無資格で住民の治療にあたって信
頼を得ること。あれまー、なんと!

 

だれかの陰謀によって投獄されるが、インドマフィアの親分にスカ
ウトされ、またまた裏街道に戻ること。んまー、マジッすか!

 

その親分の意を受けて、なんとソ連占領下(1983年ころ)のアフガ
ニスタンに行って戦うこと。うわっ、そんなのあり?
いったいなんだ、この展開は!と、みなさまにもいちいちびっくり
してほしいです。
しかし、読者がそうしてびっくりしているあいだに、主人公はイン
ド人の間で、とりわけスラムでの生活や裏社会のシノギの中で、精
神的に成長していくのです。

 

そうなんです、オーストラリア人のろくでもない若い犯罪者が、人
間として成長するには文庫本にして1,000ページの冒険が、いや失
礼、犯罪と脱獄が、いやいや失礼、血と涙が、正義と悪が、そして
信頼と裏切りが、罪と罰が、贖い(あがない)と赦しが、必要なの
でした。
そのすべてがここにある。

 

自分の知らない世界がたくさんあると知らせてくれる。
その世界に素手で触れているという感覚をもらえる。
そのようにしてブッたまげさせてくれる。
その意味でこれは、わがオールタイムベストに入るべき「冒険小説」
でした!

 

ブログ196

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第195回 2020.05.25

 

「だれにも自分だけの役割がある」

 

はーい、どんどん行きます、わがオールタイムベスト。
もちろん気分も上々! つづきましては、ヨイショっと、

 

「オウエンのために祈りを」(ジョン・アーヴィング/新潮社)

 

をお送りしましょう。
作者ジョン・アーヴィングは、アメリカの現代作家の中では珍しく
長編を数多く産みだされている方です。まだご存命ですね、はい。
「ホテル・ニューハンプシャー」「ガープの世界」「サイダーハウス
・ルール」など、映画化されたものも多いですね、はい。

 

彼の作品には、映像化したいという映画監督の気持ちをくすぐる要
素にあふれているのかもしれません。そして俳優も、演じてみたい
キャラクターを見つけやすいのかもしれません。
私はこれらの原作を読んで映画を観たのですが、逆に映画を観て原
作を読んだという人の気持ちもわかる気がします。

 

なかでもこの「オウエンのための祈り」は、映像化のネタだけでな
く、作家の「良いところ」がすべてあらわれているような気がして、
さらに主人公が少年だということもあり、アーヴングのなかでも私
のもっとも好きな作品です。
作家の「良いところ」とは何ぞや?といったご質問の声もおありで
しょうが、そのへんはいまのところ「なあなあ」にしておいてくだ
さいまし。

 

さてこの「オウエン」ですが、語り手ジョニーとその親友オウエン
・ミーニーのダブル主演。ふたりとも中学二年生(?)で、中二病
の真っ最中。
オウエンはいわゆる発育不全による五歳児ほどの小さなからだの、
「異星人みたいな」へんてこな声の男の子。
だから同級生からは差別され、いじめられている。でも彼はへこた
れたりしていないし、親友のジョニーがいる。

 

しかしあるとき、オウエンはある事故で親友ジョニーの若く美しい
母親を死なせてしまうことになる。
小説の出だしはこうです。
「つぶれた声を持つ一人の少年を、ぼくは終生忘れられないと思う
が、それは別にその声のせいではないし、彼がぼくの知る一番小さ
な人間だったからでもない。母の死に彼が関与していたからですら
ない。ぼくが神を信じる理由が彼にあるからなのだ。」

 

まあ、こんなふうにお話を始められたら、どうしましょう。
それはいったいどういうこと? どうしてそうなるの? 次はどう
なるの? と、子どものように続きを聞きたくなるじゃないですか。
オウエンのつぶれた声と小さなからだというハンディキャップには、
必ず意味があるはずだ。なにかの役割があたえられているはずだ。
それはいったいなんだ?と訊きたくなるじゃないですか。

 

ところで、アーヴィングの小説の特徴(良いところとは限らない)
にはいろいろあるのですが、ひとつには、いつもなにかしら「奇妙
な予定調和」がある、ということに私は気づいていましたね。
最初に提出された謎やほのめかしはかならずどこかで回収され、さ
さいなエピソードにも必ず意味がある。

 

読み進めていって、おお、あれはこういうことで、これはそういう
ことだったのねと、読者はきちんと納得させられるのです。ですか
ら、読み進めていく側には「安心感」のようなものが芽生える。
そこはなんというか、良し悪しではなくて、作家の手くせというか
サービス精神みたいなものでしょうか。
このへん、「ナウシカ」とは正反対に、「つねにアーヴィングという
万能の作者がいて、彼が筋書きと登場人物を動かしている」、とい
う作品であると了解しておいていいのかもしれません。

 

この「オウエン」でもそれはおなじです。
ただそれは、ハッピーエンドとはちょっと違う感じの「調和」です。
それは、、、そうだなあ、「大団円」ではないし、「運命」とも違うし、
宗教とか、「神や信仰にゆだねる無力な人間」というのともやや違う。

 

なんだろうな、いってみれば、日常生活の中にいきなり現われてし
まうゴジラのような亀裂(事件)があるのだけれど、それさえも飲
み込むような大きな川の流れがある。
あるいは、作者はその流れを信じていてそれを書こうとしているの
だという感触です。
けっこう奇想天外なエピソードを語りながら、にもかかわらずそう
いう流れをつくりだすテクニックに優れて、読者に信頼されるのが、
アーヴィングの「良いところ」だと私は思います。
わかりにくい表現ですみません。

 

でも、ここをちょっと深堀りしてみましょうか。
もしかしたら、アーヴィングは「おとぎ話」への指向が強い作家か
もしれません。
私たちは、布団の中で「むかしむかし、こんなひとがいてね、こん
なことをしたんだって」と彼が語る物語を聞くことになる。それは、
なにかに抱かれて眠くなるような感覚をもらえるお話。

 

「おとぎ話性」については、批評家の中沢新一さんがこんなふうに
言っています。
「おとぎ話の外の世界を支配しているのは、計算したり、打算的な
ことを考えたり、ものの善し悪しを自分の利害で判断したりする心
の働きだ。(中略)ところが、おとぎ話の世界を支配しているのは、
絶対的な善良さへの信頼と、ものを打算で判断しない贈与の精神な
のだ。」

 

そうだ、世界は矛盾と危険に満ちているし、神様は私の願いを優先
的にかなえてくれるわけではない。でもなにか善なるものがある。
これがまさしく、このオウエンの物語の底に流れているのと同じ世
界観だと思います。この、中二病の悪ガキなのに、絶対的な「善良
さ」と「贈与の精神」をもつオウエンの物語に。

 

そして「なにかとてつもなく純粋な力が、打算や思惑や世間の常識
などと言う愚かなものによって阻まれて、流動にとどこおりが発生
したりする事態を、なんとかとりのぞいていこうという意志」が、
おとぎ話を動かしている(中沢新一/音楽のつつましい願い/筑摩
書房)、と言われるならば、まさしくその調和への意志こそがこの
小説の主題なのだと思います。

 

だから読者は、この物語での「オウエンのための祈り」とは、神様
への祈りや願いではなく、ただただ「自分の役割をきっちり果たし
たオウエンのことを想う時間」のことであり、それが「私も自分の
役割に出会えますように」という祈りにつながるかのような感触を
持つことができる。

 

そう、それが私たちにできるすべてのことなのだ、と作者は言って
いるように思います。
「神様、彼に会ったら、よろしく伝えてください」と祈ることが。

 

ブログ195

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第194回 2020.05.18

 

「厳選されたセリフの凄みをお楽しみください」

 

新型コロナの影響で図書館も閉まってしまい、家にある本を読み直
している方も多いことと存じます。
ということで、どんどん続けます、わがオールタイムベスト、続い
てはって、こっちはだんだんDJをやっているような楽しい気分に
なってきましたが、、、、次の曲は、えいっ!

 

「ロング・グッドバイ」(レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳
/早川書房)

 

です。なんとなんと、すばらしい作品がセレクトされました。
やっぱり、いい曲、失礼、好きな小説をご紹介するのは気分のいい
もんです。 
これはもう、厳選されたセリフの凄みがまさにハードボイルド中の
ハードボイルド。探偵小説の大家チャンドラーの1953年の作品です。

 

チャンドラー作品が大好きだ、という方は多いでしょう。
好きな方にはあらためてその魅力をお伝えするまでもありません。
ですのでここからは、まだ読んでない方のために、チャンドラーの
表現の凄みを村上春樹訳で、ほんのすこしだけお伝えすることにし
ますね。
それだけでリッチな気分! ヒアウィーゴー! チェキイッナウ!

 

私立探偵フィリップ・マーロウは、ひょんなことから億万長者の娘
シルヴィアの夫、テリー・レノックスと知り合い、友人になる。
こいつ、いいヤツなんだけど、酔っ払いだし、なにかウラがありそ
うだ。

 

酔っぱらったレノックスを見て、そこにいた女性がマーロウに言う、
「おうちを見つけてあげてちょうだい。トイレのしつけはできてい
るから--おおむね」。
ウヒャ、こんなこと言うんですよ、レノックスの美人の元妻は。

 

つぎは、男同士の会話。
テリー「僕は君を退屈させている。というか、僕は僕自身をすら退
屈させている。」
マーロウ「僕は退屈していない。私は修練を積んだ聞き手だからね。
なぜ君がお座敷プードルのような生活を好むのか、そのうちに理解
できるようになるかもしれない。」
ウヒャ、マーロウもこんな言い方するんですよ。

 

しかしレノックスは妻殺しの容疑をかけられ、自殺してしまう。
「彼はあまりにも深く喪われてしまっているので、ときとしてそん
な人物は現実には存在しなかったのではないかという気がするくら
いだ。彼女が頭の中で弄ぶために、架空の人物をつくりあげたんじ
ゃないかとね。」
はたしてその真相やいかに! ま、スジ書き紹介は不要ですね。

 

そしてお待ちかね、ハラハラドキドキ、格闘シーンも。
「しかし相手の狙いは私の右の手首だった。彼はそれを掴んだ。握
力もなかなかのものだ。彼は私をひねり、バランスを崩させた。ブ
ラス・ナックルをはめた拳が大きな弧を描くパンチとして繰り出さ
れた。」

 

さらに怪しげなヤツ登場、ウラにはウラのウラがある。
「彼は面白くもなさそうに笑った。『正しい相手に向かって、間違っ
たことを言う性分なんだよ』と彼は棘のある声で言った。『何か言い
分はあるか?』」
マーロウ「自分がごまかされているときは、匂いでわかるんだ。相
手が隠しごとをしているときもな。調子に乗っていると自分の足を
踏んづけることになるぜ。」

 

それから、登場する女性は、みんな美人で妖艶。
「私は(彼女を)じっと見ていた。その視線を彼女が捉えた、でも
彼女が一センチばかり視線を上げると、私の姿はその視野から滑り
落ちた。しかしなにはともあれ、私は息をのみっぱなしだった。」

 

そんな探偵フィリップ・マーロウの頭の中は、たとえば、
「もし私が質問し、彼が答えていれば、あるいは二人ばかりの人間
の命が救えたかもしれない。しかしそれはあくまで『あるいは』で
あり、どこまでいっても『あるいは』でしかない。」
「彼は明らかに何かになりきっている。何かのふりをする人間は、
いろいろとほかのふりもするものです。」

 

あるとき、警察とトラブったマーロウ、
「大都会では警官と握手はしない。握手するほど親しくなることは
ない。」「警部は更に深く私の方に身を屈めた。汗と腐敗のにおいが
鼻をついた。」
チンピラにすごまれたマーロウ、
「昨日の夕刊と間違えて、君の顔を踏みつけないように気をつけな
きゃな。」
ややしんみりとするマーロウ、
「夜はとてもしんとしていた。おそらくは死者からの手紙がいずこ
からともなく沈黙を招き入れたのだろう。」

 

・・・そしてラスト近くでの、この決めぜりふ、
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」
クーッ!決まったー。たまりませんなっ! ドントミスイット。

 

あ、言い忘れてましたが、探偵マーロウの例の名セリフ、「タフで
なければ生きていけない。やさしくなくては生きている資格はない」
は、残念ながらこの小説ではなく「プレイバック(清水俊二訳/ハ
ヤカワ文庫)」の方ですので、お間違えのないように。

 

ブログ194

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第193回 2020.05.11

 

「わがオールタイムベスト ~とっても真面目な小説」

 

だれも君にそんなこと頼んでいないよ、というお声がするのは重々
承知のうえで、私にとってのオールタイムベストの小説のご紹介を、
再度させていただきたいっ!
と、そんなに肩に力をいれることもないのですが、当然ベストテン
入りする「ナウシカ」のことを書いていたら、ムラムラッとそうい
う気分になってしまいましたので、あしからずお許しください。

 

ということになると、
「クオ・ワディス」(シェンキェービィチ/岩波ワイド文庫)

 

は、お若い方にぜひとも読んでいただきたいと思う本のひとつです。

 

お話は紀元一世紀中ごろ、皇帝ネロの時代のローマ帝国。
そこでのローマの若き貴族と異民族皇女の恋の物語・・・なんてい
うと、こりゃもうたいへんな大河ロマンのはじまりはじまり、にな
りますよね、普通は。
だれもが、映画「ベン=ハー」とか「クレオパトラ」「グラディエ
ーター」なんかを想像しますよね。

 

じつに、こうしたハリウッド大作映画がこの小説をパクッた部分が
たくさんあるといわれるのには、もちろん理由があって、
・栄華を誇った一世紀中ごろのローマの貴族階級の生活と陰謀術策
・ベルディのオペラにありそうな豪華絢爛スペクタフルな宮廷生活
・皇帝ネロのとんでもない暴政と元祖ポピュリズムの描写
・闘技場でおこなわれるグロテスクで残虐な闘いの見世物

 

などがくわしく描かれるという背景があるなかでの、
・宮廷や政治に翻弄される男女の恋愛とそれが巻き起こす事件
という、もうだれでも頭の中で自分なりの古代ローマ(それがたと
え「テルマエ・ロマエ」でも)を思い描いてしまう、そういう小説
だったからなのでした。

 

とりわけ、ローマ貴族の生活のディテールや、奴隷とか解放奴隷っ
てどうなのよとか、大帝国を運営する皇帝と元老院の緊張関係やい
かにとか、貴族の晩餐で交わされる知的で退廃的な会話の真髄とか、
おいおい、あなたそこで見てたのかよ、と言いたくなるほどにリア
ルな描写がこの小説の持ち味です。
これを解説者は、「歴史再現力がすごい!」と表現しています。
いいことばですね、「歴史再現力」。

 

ということでこれは、歴史とくに古代ローマ好きの方やギリシャ・
ローマ文明に興味のある方だけでなく、ハーレクインロマンの愛好
者からハリウッド映画好きまで、多くの方にお勧めできる小説とな
っています。

 

ところがあなた、あにはからんやこの作品、そんな上っ面の面白さ
だけでは終わりませんのですよ。
19世紀末という「人間が真面目だった時代(あくまで私の個人的意
見です)」の、いかにも「真面目な国ポーランド(個人的意見です)」
の、「真面目そのものの作家(諸説あります)」であるシェンキェー
ビィチさんとしては、ヘタをすると俗に流されかねない歴史大河ロ
マン(当社比です)において、大きな主題としたいことが別にあっ
たのでした。

 

このへん彼も、少し前の世代の真面目な文豪、ユゴーやトルストイ
を意識したところがあったかもしれませんね。
その大きな主題というのが、
・奴隷や貧しい人たちの間での初期キリスト教の広まり、であり
・迫害されるキリスト教徒の悲惨な虐殺の描写、であり、
そしてなんといっても、それらのハイライトとしての、
・ローマにおける使徒ペテロとパウロの殉教、なのでした。
これこそ彼が描きたいものだったのです、歴史再現力を駆使して。

 

だから私たちは、豪華と悲惨、陰謀と純心、罪と罰、世俗と信仰な
どという、19世紀小説にありがちな両極の葛藤に心地よく巻き込ま
れつつ、小説の終盤にある、再臨したイエスにたいする「クオ・ワ
ディス・ドミネ(主よ、どこに行くのですか?)」ということばに
よって、それまでワイン片手に物語をほろ酔いで楽しんでいたとこ
ろを、ガツンと目覚めさせられるはめになります。

 

そしてこれこそが、真面目なシェンキェービィチさんの「大真面目
な策略」だったとわかるのです。

 

ブログ193

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第192回 2020.05.05

 

「ナウシカ、ナウシカ、ナウシカ」

 

当ブックカフェで、お客さんによく読まれる本に、
「風の谷のナウシカ(全七巻)」(宮崎 駿/徳間書店)があります。

 

たぶん、アニメ版の「ナウシカ」を観たことがあるのだろう方が、
「ん?」という感じで本棚から手に取られて読み始め、途中でやめ
られなくなるという風情で読まれています。
次のご予定を気にしながら全七巻のうち途中まで読み、時間が無く
なって名残惜しそうに帰られたり、あるいは半日ねばって全巻読み
終える根性のある方を、私は何人目撃したことでしょう。

 

「傑作だからしょうがないよね。」そうなんです。
1994年ですから26年前の刊行なのにもかかわらず、そこにある大
きなテーマと、とてつもない想像力に支えられたストーリー展開に
引き込まれ、途中で読むのをやめられなくなるのです。

 

私は読み直すたびに、とりわけ2011年のフクシマ原発の事故によ
って「人の住めない土地ができてしまった」世界、を先取りした宮
崎駿さんにびっくりさせられるのです。

 

「いずれにしろ、こういう傑作に対しては解説は要らないね。」
そうなんです。というか、どんな解説をしたとしても、「原作負け」
してしまうことになります。
「原作負け」なんてことばはないですけど、どう掘っても掘り切れ
ない深い鉱脈のようなもので、掘る側はさいしょから負けを覚悟の
戦いを挑むしかないのではないかと。

 

「ナウシカ考」(赤坂憲雄/岩波書店)

 

ところが、ワシがそう言ってるそばから、こういう解説本を出すん
だからなあ。やめときゃいいのになあ。強烈なパンチを浴びたら、
そこできちんと負けを認めてほしいものだがなあ。
稲葉振一郎さんの「ナウシカ解読」(勁草書房)も負けたのになあ。

 

いえいえ、誤解なきように。
もちろん筆者は見識あるりっぱな民俗学者なので、その見地から出
せる反撃のパンチがあると踏んでのことだと思いますが、それでも
やはり苦戦を強いられています。

 

というのも、
「わたしにとって『ナウシカ』は、まさしく一篇の思想の書として
読まれるべきテクストである。そこには宮崎駿という思想の到達点
が、あくまで可能性の種子として投げ出されている。」
ね、ここらへんで、もうダメでしょ? 

 

「思想の書として読まれるべきテクスト」というあたりで、もうダ
メでしょ? そうなんです。ちょっとガード高くして戦うからねー、
って言っているみたいでしょ? 
「思想の到達点とか可能性の種子」っていう表現も、オレ、がんば
って12ラウンド戦うぞー、負けるな自分、とか思いながら書いて
いる感じがしますでしょ?

 

違いますよ、私は、筆者をけなすつもりはまったくないのです。
とてもまじめな研究であることは確かですし、なによりこの本を読
んだおかげで、私もまた「ナウシカ」全七巻を読み直してしまった
のですから。
というのも、こうした評論の評価のポイントとして、解説されてい
る本を読みたくなるかどうか(解釈すべきテクストとしてではなく、
あらためて新鮮な気持ちで)、という点があるとしたら、この本は
そのお役目を立派に果たしてくれたのですから。

 

とくに筆者が、「(「ナウシカ」には)思いがけず語り手の影が希薄
である」とするあたりは、私も、それはたしかに重要なことかもし
れないと思い直しましたね。
「宮崎駿という作者自身が、この物語世界を外部から予定調和的に
抑え込んでいるようには見えない」というのです。つまり、作者が
全能の神様として全部のお話を取り仕切っているのではないのでは
ないか、というのです。
ほんらい作者とは、なにをどう描いてもいい「全能」のはずなのに。

 

わかりにくいですか?
筆者が言うのは、作者宮崎駿は、まず「火の七日間」という核戦争
の後の「人の住めない土地」ができてしまった物語世界を立ち上げ
たが、それを語りはじめたところ、あらまあ、なんということでし
ょう、作者の当初の構想で進めるはずの物語が、ナウシカをはじめ
とする登場人物たちが、作者の手を離れていつのまにか勝手に動き
始めてしまったようにみえる、というのです。
登場人物たちは、もはや全能の作者のいうことを聞いていないと。

 

これはもう、全面的に筆者のいうとおりだと思います。
そうなんです。そう感じられる、だからこそ「ナウシカ」は傑作な
んです。
だからこそ登場人物が、まるで自分の意志で動いているかのように
イキイキと活躍し、読者はそれを、まるですぐそばで見ているよう
な気持で読めるのです。
だからこそ子どもから私のような年代の大人まで、だれでも何回で
も読み直してワクワクさせられるんです。それは学者さんでもプロ
の評論家さんでも同じで、もう、しょうがないことなんです。

 

ところがしかし、そこで「なにか」を自分のなかで腑に落とそうと
してことばを綴ったり、多少でもポイントを稼ごうとしてナウシカ
以前の作品をもちだして比較したり、ドストエフスキーをポリフォ
ニー(多声音楽)として解読したバフチンを引き合いに出したりし
てしまうといった「手くせ」というものが、「評論家」にはある。

 

さらに作品を、現代の「思想」として解説しようとか、その行き先
と到達点を見出そうなどという、「自分の読解力で当該作品の評価
の道しるべを立てたい」という願望がある。
そのあげくに、あらら、かわいそうに、作品に返り討ちにあうこと
になるんです。筆者も解読のつもりで、結局作品をたんになぞって
しまうことになりました。残念です。

 

でもそこのお客様、そう、そこの、「ナウシカ」を途中の巻までし
か読めなかったあなた。解釈や解読の努力などうっちゃっておいて、
それと新型コロナなんかに負けないで、またカフェにおいでになっ
て原作の続きを最後まで楽しんでくださいね。
お待ちしています。

 

ブログ191

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第190回 2020.04.28

 

「国家と社会と個人、自由と寛容と幸福のバランスを」

 

カフェのなかで「リベラル」とか「保守」とかのことばは、あまり
使われることはありませんが、国家と社会と個人、そして自由と幸
福についてもう少し考えるならば、こんな本もあります。

 

「自由の命運」(アセモグル/ロビンソン/早川書房)

 

まず現在の世界の国々を見てみよう。
中国やロシアは権威主義的な国家運営をしている。
また、インドやトルコのように、経済的に発展途上で複雑な内部事
情をかかえている国は、これも国家安定のために、権力を強めて独
裁的な運営をしている。
(もちろんシリアやハンガリーもそうです。北朝鮮?忘れてた!)

 

いずれの国においても個人の自由はおびやかされ、リベラルな民主
政にはほど遠い。
(ハンガリーのオルバン首相なんて、「民主主義に自由はいらない」
と言ったそうです)

 

しかし国民は個人主義的に自分の幸福を追い求め、父権的な国家の
やりかたに満足している。
(むしろ、たとえば国家的な事業の推進とか、新型コロナウィルス
の封じ込めとかには強い権威が役立ったと胸を張っています)

 

いっぽう、イギリスやアメリカのように、歴史的に個人の自由を尊
重しつつ民主政をしいてきた国でさえ、ポピュリズムの台頭によっ
て個人の自由が侵害されている。
(そして既成の政治を腐敗していると批判し、昔の良い時代の栄光
を追ったり自国ファーストの愛国主義を煽ったり、外部に敵をつく
って国民を扇動したりしている。悪い意味での「保守」主義です)

 

心配だ、とても心配だ。われわれはどうしたらいいのか?
(なおカッコ内は、筆者の意見を受けた私のひとりごとでした)

 

結論。
われわれが歴史から学べることは、「国家」と「社会」と「個人」
がバランスよく発展しなければならないということだ。歴史上、衰
退した国家では、必ずこのバランスが崩れていた。
そのために、ではどうしたらいいのか。
それにはとりわけ「社会」の側にやいて、強い市民社会を構成する
個々の連携が必要になる。具体的には、企業による市場での自由な
経済活動だけでなく、自律的な個人をあつめた各種組合や中間団体
の役割を高めなければならない。

 

それらが「国家」と「個人」のあいだを埋める。
個人か国か、自由か幸福か、どちらかに片寄ろうとする流れを是正
することになる。
各種組合や中間団体が高い生産力をもって、積極的に政治参加する、
いわゆるボトムアップによって、専横的な国家では「強くなり過ぎ
た国家権力」を制限する体制をつくるべきだ。
いっぽう、個人の自由に片寄った国では、それによりポピュリズム
の流れをせき止めることができる。

 

じつは「個人の自由」は、こうした諸力によってつくられる「国家
と社会のバランス」のうえで、ようやく実現されるはずだ。
そしてこのバランスの上では、「自由」と「幸福」は(「リベラル」
と「保守」も)二者択一ではなくなるのだ。
民主的で平等で寛容な国家と国民は、こうして創られ栄えていく・・・

 

・・・はい、ものすごく簡単に要約しました。
やや抽象的になりましたが、この本には多くの事例が載っています
から、歴史上の多くの国家の衰退理由とともにとてもおもしろく読
むことができます。

 

ついでに申しあげますと、中国ではなく西洋において近代化が進ん
だ理由というのも、つきつめればこの「バランス」の有無にありそ
うです(しつこいなあ)。

 

筆者は、ヨーロッパにあった「集会と合意的意思決定の規範(参加
型の統治形態)」や、「キリスト教から取り入れられた国家制度と政
治的階級(法秩序と官僚制度)」というものが伝統と遺産となって、
国家と社会というふたつのバランスをつくる要因になったと紹介し
ています。
つまり、民主的な会合やワイロのない清潔な官僚制などが、「国家
(公)」と「個人(私)」のバランスを下支えしていたというのです。

 

もうひとつ、以前に触れた、中国ではなくイギリスで産業革命が起
こった理由についても、
「中世にイタリアのコムーネ(都市共同体)がイノベーションと経
済成長を下支えするようになった理由と同じだ。それは、(国家と
社会とのバランスが取れた結果)人々の自由と経済的機会が拡大し
た」ことによるのだ、と書きます。

 

そういえば、「国家主義に対抗できるのは個人主義ではない」、とい
う主張をされる方もおらました(内田樹さん)。
国家対個人では、とうてい勝負にならない。個人はいつでも負ける。
リベラルであろうが保守であろうが、それは同じだ。

 

国家に対抗できるのは「小さな共同体」であり、それはコムーネで
あったり村落共同体であったりテーマNPOであったり宗教団体だ
ったり各種組合だったり、いろんな形態の中間団体たちであり、
「ひとの集まり」の「集まり」である。
これらが「強い市民社会を構成する個々の連携」の好例となる。
アセモグルさんも汗をモグリながら、こう言うのでした。

 

国家と社会と個人のバランスをとること。
オーケー。私も今後、なにを見るにつけてもこの「国家と社会と個
人のバランス」を視点に判断するようにしよう。
そして、たぶん筆者の強調する「社会の強化」とは民主主義の強化
にイコールなのだから、それを観察する視点として、合意形成の方
法(熟議)、清潔な官僚制度、中間団体の活動、社会関係資本の発
展、各種の共同体の成熟、などを持つことにしましょう。
だって、カフェは「社会」の真ん中にあるのだから!

 

以上。それではまたお会いできる日を楽しみに! 

 

ブログ190

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第189回 2020.04.21

 

「リベラルと保守、その違いってわかりにくい」

 

そうこうしているうちに、たとえば評論家の中島岳志さんが、「リ
ベラル保守」という云い方をされているのを見て、それには私、少
なからずビックリさせられました。

 

あれっ? リベラルと保守って、あい反する主義じゃなかったんで
すか? それだとリベラルという食パンに保守という納豆を乗せた
ようになっちゃいませんか?
このところいろいろお勉強したので、だいぶ頭の整理ができてきた
と思っていたのに、まーたわかんなくなっちゃったなあ!
そもそも保守って、あまり個人の自由を認めず、士農工商とかカー
ストとかの階級区別も容認しつつ、伝統的な価値観で生活しようと
いう守旧派の人たちのことではなかったのですか?

 

「リベラル保守」(中島岳志/新潮文庫)

 

中島さんは、いやそうではないのだとし、フランス革命を批判して
国家統治の斬新的な改良を訴えたエドマング・バーグを援用して、
「リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守
思想家こそ、自由を援護すべきだと考えている」、とい言うのです。
納豆こそが食パンに合うのだと。ちがうか。

 

というのも、もともと保守にとって重要なのは、「(自由主義のよう
な)『あらゆるものからの自由』ではなく、『自分であることの理由
(今でいうアイデンティティ)』の意識化」だから、なのだそうです。
どういうことでしょうか。

 

バーグが愛する自由とは、孤立したバラバラの個人の「利己的な自
由(ワシ、なにしてもいいんだもんねー)」ではなく、「社会的に抑
制された自由」というものでした。
「社会的に抑制された」とは、私たちはもともと母語や教育、地域
社会や育った環境、貴族とか農民とかの出自などによって規定され
て生きているということで、その社会の中で長い年月をかけて育ん
できた、常識にかなった道徳的で規律ある自由っちゅーのがあるべ
きなのだ、というのです。

 

われわれ納豆は、大豆の一粒として単独で生きているのではない。
となりの豆とネバネバ菌でつながり、藁で包まれて、出されて混ぜ
られてご飯と一緒に食べられる、という条件のもとで生きる。
だから、そのような自己として「自分であることの理由の意識化」
ができれば、人間は自由になれるのだし、それによってのみ自由で
いられるのだ、だから保守主義こそが自由への道なのだ、と。

 

なるほど、ここにはまた、「コミュニタリズム(共同体主義)」のよ
うな、ほのかな納豆菌の香りもしていますしね。ちがうか。
バーグが主張したのは、
「伝統的な固定観念の中にこそ叡智が宿っており、歴史的に受け継
がれてきた暗黙知を尊重してこそ、人々の本当の自由が保持される」
ということだったのです。

 

曰く、あのなあ、声高に自由を主張して暴力的に革命を起こしたっ
て、なにも変わらないよ。まったくフランス革命のバカタレどもめ
が。それじゃあ、おまえたちのいう「本当の自由」なんか得られな
いし、「本当の自分」もわからないんだ。おまえたちは、じつは逆
にアイデンティティを、チィチィ鳴きながら失ってしまったのだ。
なーにが「自由・平等・博愛」だっつーの! 納豆は納豆としての
立場を大事にするところから始めなきゃならんのじゃ。

 

だから、わがイギリスのように、いままでの経験を大事にして歴史
に潜む叡智を継承し、王様は王様として、貴族は貴族として立てつ
つ、みんなでコモンセンス(常識)を磨きながら、少しずつ改革を
進めるべきなのじゃ。「長いあいだ持続してきたことには、それなり
の意味がある(西部邁)」っていうではないか。わかったか。
なんども言う。革命だのなんだのとバカ騒ぎをして我を忘れ、自分
の自由だけ主張して他人を疎外・迫害しているリベラリストのおま
えたちには、「本当の自分」の「本当の自由」など、発見できんぞ。

 

と、ここまでがバーグさんのご高説のなぞりでした。強い主張だ!
で、ここからは、それを踏まえての中島さんの主張。
ところでリベラルとは、人権を尊重し、人々の自由と平等をめざす
思想だったはずだね。だから寛容という「異なる他者を容認するた
めの社会的ルールや規範、常識の体系」が、もともと埋め込まれて
いるはずだ。そうだね。

 

そして、人間はほんとうの自由を得なければ、異なる他者を容認す
る寛容性など持てるはずがないではないか。そうだろう?
ということは、いいかね諸君、だからこそ、常識や歴史や漸進的な
改革を大事にする、バーグの「保守主義」のやり方こそが、本当の
自由・平等・寛容への道なのだ、わかったかね。

 

はい、先生、わかりました。
っていうか、まずもって、リベラルか保守かなんていうレッテルは
どうでもいいことなんですよね。だから、中島先生のおっしゃる本
質論はごもっともと感じたしだいです。
ただ先生も、保守思想家こそ、自由を援護する「べき」と言ってい
るので、現状はそうなっていないということもあるのでしょう。

 

さらにここからは私の感想ですが、「道徳」とか「規律」、「歴史」
「常識」「伝統」ということばが出てくると、それを聞いただけで
「保守」というより「右翼」とか「反動」に聞こえてしまうので困
るのです。

 

なんででしょうね? 
もちろん私の偏見なのですが、保守とか「本当の自分」ということ
ばに、なぜか「ふたたび偉大にする」とか「○○をとりもどす」と
いうだれかさんの標語のような懐古趣味や愛国主義、あるいは自分
ファースト・自国ファーストなどの匂いを感じてしまうのです。
昔は社会の道徳や家族の絆が生きていたとか、お年寄りを大事にし
たとか、みんな苦労して一生懸命働いたもんだとか、そんな囲炉裏
端の嘆きと憤りをも感じてしまいます。

 

もしかしたら保守主義のこういうあたりが、いまの日本では自民党
や日本会議の憲法改正案と関連してきて、「リベラル」からはちょ
っぴり不気味にみえるのかもしれないですね。
私は、いまの日本の「保守主義者」にかぎれば、「歴史の中の叡智」
や「培ってきた常識」を大事にする人たちとは思えないのです。

 

むしろ自分たちだけが自由で正しいという不寛容な精神をもち(あ
ら、リベラルと同じだ!)、古い価値観による道徳至上主義で、でも
成功体験があるもんだから自分に優しく他人に厳しく、不平等を容
認して公正さをあざわらい、内向きの愛国的精神が強く、天皇を利
用しようとしたりする、つまるところ「保守」なんかではなく「保
身」主義の「権力」主義者が多いと思うんです。

 

・・・って、まあずいぶん偉そうに悪口を並べて、方向ちがいの誤
爆をしてしまいましたなあ。元に戻れるか?

 

ブログ189

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第188回 2020.04.13

 

「しかしながらリベラルは弱し!」

 

リベラルとは「個人の自由を尊重」し、さらに「他者による制約や
支配から解放されて自己決定できる人のことであり、逆に他者の意
見や生き方への寛容さと公平さをもつこと/人」、でありました。

 

そんなリベラルですが、中国を筆頭に多くの権威主義的国家の台頭
をみるにつけ、そして民主政の国が力を弱めるにつれ、人々が自分
の自由を国にさし出して身の安全と幸福を求めるようになったこと
が疑われています。
てゆーか、「みんな中国みたいになってんじゃね?」ということで、
となると、「リベラルなんて、そんなもん終わってるんじゃね」、と
いわれるようになりました。

 

さらにもう一点、リベラルには、経済や財政の観点が抜け落ちるこ
とが多い」ともいわれています。
つまり、リベラルは権利擁護のための寛容や公平を実現するために、
大盤振る舞いを主張するが、分配すべき「社会経済的なパイ(原資)」
が縮小しているときには、それはできないのです。

 

たとえば「いつ自分もそうなるかわからないから、うちらも移民や
難民を受け入れたほうがよくない?」というリベラル的な考えは、
財政が苦しいときには、だれからも賛成されにくい。 

 

そんな、苦境に陥ったリベラルについて、私の心をよりピンポイン
トで指してきたのは、

 

「なぜリベラルは敗け続けるのか」(岡田憲治/集英社)

 

の筆者の、ひとりごとのようなご意見でした。
筆者は、自分はリベラルとして政治的な意見をいい活動してきたけ
れど、その歩みはやはり連戦連敗だったと反省をするのです。
どういうことか。

 

自分たちは、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪などの成立を許し
てしまった。これらの法律は、自分の「リベラル」という立場から
すると、自由や権利を制限するものとして容認しがたいものだった。
でも結果は負けた。
また、女性活躍や差別撤廃、ハラスメント防止や地球環境・生命倫
理・LGBT・原発廃止などの分野についても勝てていない。

 

なぜ自分は敗れ続けるのか。なぜ自分たちリベラルの主張する意見
は通らず、デモも書名も運動の成果には乏しく、反対する法律の成
立を許してしまうのか? 

 

それは、「私たちは、まったくもって『子ども』だった」からだ。
反対するだけの反対派だったからだ。
だから「リベラル」は、「清廉潔白で、心もまっすぐで、(中略)時
に『己に非なし』とするほど傲慢でかたくな」な人たち、などと世
間さまには映っているんだ。

 

そうかもしれません。たしかにリベラルは、自分たちのことを清廉
潔白だと思っているように見えるときがあります。
萱野さんも、「リベラルは現実を直視しないで、耳あたりのいい、
いっけん正しそうな主張ばかりする。そしてみずからを正義の代弁
者だと思い込むことが多く、実現しにくい主張を声高におこって嫌
われる」として、「リベラルは正義ぶる」と言っていましたね。

 

そこで筆者はこう続けます。
しかしそれでは多くの友だちはできないし、影響力ある「多数派」
はつくれないということがわかった。コメンテーターの進歩的文化
人じゃないんだ。そこをきちんと反省しよう。
まったく、「リベラル派の人間たちが自分たちのご都合主義に無自
覚なまま、独善的に『正義』を掲げるという『にぶさ』に、多くの
人がうんざりしている」と言われてもしょうがないのだ。

 

日本の野党を見ろ。リベラルとかいいながら、そんなふうに心が固
まっているから、負けてばかりいるんだ。
そして、「負けることにあまりに慣れすぎて負けグセがつき、負け
ることにカタルシスさえ覚えるような『心のこじらせ方』をしてし
まっている」のだ。
これではまるで阪神ファンだ(これは私の意見)

 

自己決定できる自由で自立した個人であることは、たしかに良いこ
とだ。
また、他者への寛容さをもち、社会の公平さを望むのも良いことだ。
だからといって、私は正しいのだと威張っているだけじゃヤバい。
それでは権威主義者やポピュリストや官僚エリートには勝てない。
国全体がナショナリズムや権威主義に傾くのを阻止できない。
やたら正論を振り回したり、第三者的に反対意見ばっかり言ってい
ても、やみくもに原発反対とか共謀罪阻止を掲げてもダメなのだ。

 

じゃあどうする?
もっとエゲツなく、ゼニカネや経済政策を話そうじゃないか。
リベラルというより、「リアリズム」に徹しようじゃないか。

そのうえで、自分たちの意見を多数派にしていくプロセスをつくり、
異なった意見をもつ人たちとの熟議の場をつくり、具体策を練り、
さらにそれを法案作成につなげようじゃないか・・・。

 

・・・と、こうした著者の主張を聞いて、私は異議なしです。
だって社会の諸問題は、話し合いの基盤を整えるところから始めな
ければならないのですから。そのとき、主義や立場の違いなどはあ
たりまえの前提であり、そこから話し合いが始まるのですから。

 

ということは、いくら効率が悪いと言われようがなにしようが、時
間をかけて話し合っていこうと覚悟を決めた人が多ければ多いほど、
自由で平等な社会がつくれるのです。
だから、だれをも排除せずにその「話し合いの場」に参加し、ゼニ
カネの話を真剣にして、そこで自分にできる役割を担って責任をと
ろうと考える人を、私はリベラルと呼びたい!

 

ブログ

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第187回 2020.04.08

 

「リベラルってなんだ?」

 

ブックカフェマスターとして世界情勢に目配りし、情報を収集し、
大所高所からの考察をおこなうことによって見識を高め、それをカ
フェでお客さまに提供して世界平和に寄与するという、たいへん有
意義な公共活動をしていたら、ある方に、
「マスターはリベラルですね」と言われた。

 

「えーっ、いったいどこがですか? そもそもリベラルってどんな
んでしたかね?」と尋ねても、「うーん、なんとなく」との、頼り
ないご返事。
じゃあいったい、リベラルってなんだ? と気になって、

 

「リベラリズムの終わり」(萱野稔人/幻冬舎新書)

 

を読んでみました。

 

まず、「〇〇」を勉強するために、いきなり「〇〇の終わり」とい
う書名の本を選んでしまうのはどうなんだっていう話ですね。
まるで連続テレビドラマの初回がいきなり最終回になったみたいな
ので、お若い学徒のみなさんには決してお勧めできる態度ではあり
ませんが、書店で目についてしまったのだからしょうがないのです。

 

ともあれ、「リベラリズム」とはなにか?
ひとの基本的人権を尊重し、思想の自由や表現の自由を第一に考え
ること。したがって思想、良心、信教の自由ならびに、生存権や労
働基本権、教育を受ける権利といった社会権を大事にする立場のこ
と。

 

辞書的に書くと難しい表現になりました。
「人権」とか「社会権」などのことばが出てくると、ちょっとだけ
頭も痛くなりますね。
ひらたくいえば、他者による制約や支配から解放されて、自由に自
己決定できる人や方法のことであり、いっぽうでは他者の意見や生
き方への寛容さと公平さをもつこと、となります。
あんまり「ひらたく」なりませんでした、すいません。

 

でもこう書くと、それってあたりまえでしょ、だれだってそう考え
ているに決まっているじゃない? と言われてしまいそうです。
しかし筆者は、このリベラリズムの考えが、じつはいま、力を失っ
てきたというのです。それはいったいどういうことか?

 

ひとつには、「リベラリズム」がだんだん「自由放任主義」の傾向
をもつようになったことがあると。
個人が自由を追求してきて、そのあげくが、「ワシ、なにしてもオ
ッケーだもんね、そんで、自分のこと以外はどーでもいいんだもん
ねー、だからアンタも勝手にすればいいじゃん。それが自由っちゅ
うもんだかんねー」、と考える人が増えた。
すると、「だからあ、強くて賢い人たちがあ、世の中をリードすれ
ばあ、いいじゃんかあー」と、政治も「お任せ主義」になった。

 

ふたつ。リベラリズムが、経済的には、自由な市場での競争を第一
とする資本主義、すなわち市場経済といつのまにか同化してしまい、
強いものと弱いものができて格差が広がってきた。
つまり、人の平等に力を尽くそうという考えや、ケインズの経済政
策のようなものが力を失い、「格差容認主義」になった。

 

みっつ。リベラルは文化的な色彩を強めてきた。
つまり「自由」の意味が、たとえば地球環境・生命倫理・LGBT
などにおける「ポリティカル・コレクトネス(政治的正義)」を声高
に言う姿勢という狭い意味に押し込められるようになった。これは、
ワイドショーでコメントを言う「進歩的文化人」に見られたい主義。

 

ただし、進歩的文化人というのは、多様性を頑固に容認するのだが、
じつは考え方も価値観もバラバラで、ひとつの集団としてパワーを
結集することが難しい。つまり、社会に影響を与えられるような大
きな意見のまとまりにはなりにくくなった。
文化的リベラルは、声はデカいがまとまらない。

 

よっつ。こういう状況で、まったく別のところから立ち上がってき
たのが、ナショナリズム、ポピュリズム、排外差別主義であった。
これらは「個人の自由と権利を大切にする」というよりはむしろ、
自分の自由と権利は担保しつつ、自分たちは多数派なのだと根拠の
ない主張をしつつ、意見の異なる他者には不寛容、という態度だ。

 

たとえば、ナショナリストは同胞に対して非寛容なことが多いのだ
が、それは、「国家を忠誠の対象にしておくと、なんの具体的な責
務も自分には発生しない」と思っているからだ。
ワシはお国に忠誠を尽くしているのだから、ウソをつこうがなにし
ようが、いいのだ。ワシの意見が正しいのじゃ。この意見をどんな
手を使ってでも多くの人に信じさせ、多数派になればいいのじゃ。

 

ポピュリズムも排外差別主義者もおなじ。
そんな中二病でジコチューで、無責任で、不寛容で、少数意見を黙
殺する、「自分は自由になんでも言うが、アンタの考えは間違ってい
るので認めない」主義の、ズルいひとが増えている・・・。

 

・・・この本を読んでの、私の理解はこんな感じでした。
ああこれじゃリベラリズムも終わりだ、ガックリ!
となってしまいます。ひとが「自由」をあきらめて国家権力による
「安全と幸福」を求めるのは、こういうところにも理由があるのか
もしれません。

 

そしてもうひとつ、「リベラル」は個人の考え方だけでなく、国家の
性格や民主主義に大きく関わる問題でもあります。
たとえば、ヤシャ・モンクという若手研究者も、「民主主義を救え!」
(岩波書店)のなかで、国家体制についてこんなことを言っていま
したので、最後にちょっとだけご紹介すると、

 

「リベラル・デモクラシー(カナダなどの自由民主主義)は、いっ
ぽうでは非リベラルなデモクラシー(ポーランド、トルコなど)へ
と、他方では非民主的なリベラリズム(EUなど)へと分岐してい
る。
さらには、もともと権威主義で独裁的な国家、ロシアや中国もあり、
人びとの声を自分だけが代弁できると主張するポピュリスト(アメ
リカ、イギリスなど)も目立ってきている」。

 

つまり「リベラル」を軸に仕分けすると、国家的にはこの四種類に
分化してきているというのです。
そうですお客さま、お気づきですね。これ、個人の立ち位置のちが
いとまったく相似ですよね? つまり国家の性質と個人の性向が、
とても似た方向に分化しているように見えるのです。

 

まとめます。いまや多くの国で、ナショナリズムやポピュリズムの
名のもとに、たとえみずからの自由を投げ出してでも、あるいは他
者への不寛容を強めて、強い国家権力にお任せして、幸福と身の安
全を求める人たちが増えている。

 

そんな人たちを「アンチ・リベラル」と名づけていいかどうかわか
りませんが、その流れには与(くみ)しないということであれば、
いきなりの結論で恐縮ではございますが、お客様、はい、私はリベ
ラルです。なにか問題でも?

 

ブログ187

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第186回 2020.04.02

 

「自由と幸福、どちらが大事なのか」

 

まじめなお勉強の続きですから。
でもほんとに、マジ、飛ばして読んでくださいね。あまりおもしろ
くありませんから。学校のレポートみたいだし。冗談も言えないし。

 

ということで、いまの中国は、ある方によれば、
「政府の監視下で政治的な議論はできなくても、生活の便利さは
享受でき、幸福に管理されて人生を謳歌できる社会」だ、といわれ
ています(水谷瑛嗣郎/朝日新聞)。

 

それから、中国で幸せに良い暮らしをするためには、いまでもワイ
ロは欠かせないようですね。
いい学校に入る、就職する、出世する、会社を興す、規制をくぐり
抜ける、档案を書き換える、なににつけても袖の下が必要になる。
個(私)としては国(公)に従順に従うと見せかけ、そのじつ国家
はまったく信頼できないので、抜け目なく生活の便利さと自分の幸
福を確保するために使うワイロ。

 

中国には「上に政策あれば、下に対策あり」ということばがあって、
「政府の命じたルールのすき間をぬって、なんとか私利・私権を確
保しようとする」のが中国の人だと、内田樹さんが紹介しています。
管理されて幸福に生活するが、最終的には国をあてにできないので、
ワイロなどで身の「安全保障」をする。

 

つまり中国では、「政策的な議論とか人権などの難しい話は面倒だ」
「自分の仕事や好きな趣味さえ自由にできれば十分幸福だ」と思う
個人(私)が多くなったのです。
それは統治・管理する側(公)にとっても都合がいいので、党・政
府もいっそう「幸福に管理されていただく」方向に国民を誘導する。
するとさらにワイロも増えることになります。

 

このようにワイロが、公私をつなぐ潤滑油のように欠かせない慣習
だとしたら、習近平さんがいくら腐敗根絶を指示してもなかなか止
まらないのも無理ありませんわ。
そして、こういうことが歴史上くりかえされていたのだとしたら、
これも中国が西洋に遅れをとった原因でしょう。

 

このようにしてカフェで中国のことを考えていたら、どうしてもこ
ういう本にブチ当たらざるを得ないのであります。

 

「自由か、さもなくば幸福か?」(大屋雄裕/筑摩選書)

 

えっ、なんですと? 「さもなくば」って、どーゆーこと?
まさか、「自由」と「幸福」が二者択一になるってゆーのですか? 
そんなの、カフェに入ったらコーヒーとケーキのどちらかを選べと
いわれたようで、いやいや私どっちも欲しいんですけどってびっく
りしましたが、この本の主旨はじつに明快でした。

 

筆者によると、
「19世紀には『自由で自発的で自己決定できる個人』という美しい
夢が見られた」が、混乱の20世紀を過ごしたあと、「21世紀は『個
人の幸福を配慮するために、その人格性や自律性すら危機にさらさ
れなければならなくなった。」

 

どういうことかというと、19世紀には多くの人の考えとして、「自
分自身の力で幸福に配慮できる自立的な個人」がいて、「その人たち
の集まりとしての社会と法治国家」が、西洋の理想だった。

 

ところが、国家間の戦争が増え、いろんな国家体制が試され、それ
がダメになり、冷戦があったり終わったり、内戦があって移民難民
が増えたりテロも横行したり、金融と経済が大きくゆれ動いて世界
中に貧困と格差が広がり、かくて人は、もう自力だの自己責任だの、
自分で幸福に配慮しろだのと言われるのに疲れてしまった。

 

自力で、めんどくさい手順を踏んで、デモで血を流したり仕事失く
したり、そんな苦労をして犠牲を払って手に入れなければならない
自由など、ごめんだ。その自由を元手に得る幸福など、無理だ。
そんな努力をするよりも、なにもしなくても「だれか強くて賢い人
たち」が私たちを守ってくれて与えてくれるような「楽ちんな安全
と幸福」を享受したい、と思うようになった。

 

はいはい、私もそれは、中国を例に出さずとも、現代の日本におけ
る現実感覚としてよくわかる気がしたのでした。

 

たとえば、別の本から抜き出してみますならば、
「(バブル後の)不況のなかで育った若者たちは、だまされていた
と気がついたんでしょうね。自由だ、自由だ、と言われて、実は捨
てられているのだと。そこで、身を守る術(すべ)を発達させる。
夢よりも用心。不自由でも安全。」
人格性や自律性を危機にさらすっていうのは、そういうことに通じ
ます。だからこの人たちはいずれ、個人情報を御上(おかみ)にさ
し出して生きることを選ぶのでしょう。

 

そして、「(逆に頭のいい若者は)結婚から国防まで、人を信じて任
せていては危ないと思い、国を見限る人もいた。」(片山杜秀「平成
史」小学館)
この人たちは国家による管理を嫌い、ワイロも使わず、自由を求め
て努力するのでしょう。

 

こうして、個人の自由と幸福が「どっちも」ではなくて、二者択一、
つまり「どっちか」の道を選ぶものになってきた。
もちろん統治する側は、多くの若者に対して、ハイハイ、みなさん
の幸福はわれわれが実現しましょうね。そのために、進化した技術
で統制いたしましょうね。これ便利ですよお、たとえばAI監視カ
メラなどのテクノロジーを駆使して、悪い人はドンドン捕まえちゃ
いますからねー。みなさんの生活の安全と安心は保証しますよー。
だから、みなさんはみなさんで、どうか一生懸命おカネ儲けをして
幸福になり、ついでに国家への奉仕に精出してくださいねー。
という顔を見せるようになってきた。

 

この現状認識を踏まえて、筆者はこう続けます。
われわれにとってどんな未来も選択可能なのだけど、いま自由・安
全・公正・幸福という「価値」は、たがいに両立しにくくなってい
るのだ。
だからわれわれは、中国のような監視社会のなかの「幸福」を望む
のか、それとも個人の「自由」を追求するのか、別の第三の道を探
るのか、自分たちで決めなければならない、と。

 

そのうえで、「いまは将来の不安に備える安心のシステムが求められ
る」ので、そうなるとついつい、権力や国家の機能の強化が期待さ
れやすいのだけど、そのときはどうしても、「国家による平等・公平
の実現への信頼回復が必要」になってしまう、と書きます。
そしてさらに、民主政を支える個人としての主体の確立も必要だ、
みたいなことも併せておっしゃっているので、私には、なんとなく
「いいとこ取り」の結論になっている気もいたしました。

 

今日はここまで。さらにお勉強はつづく。

 

ブログ186

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第185回 2020.03.26

 

「個の自由と国家の繁栄がせめぎあうとき」

 

ところで、テレビのバラエティーを観ていると、中国発の「トンデ
モ映像」というのが数多く紹介され、驚きと笑いを誘っています。
ビックリするような事故の瞬間とか、ダンプにひかれても奇跡的に
助かった人とか、街なかのおバカな夫婦喧嘩やおマヌケな宝石泥棒
とか。

 

これらはきっと、中国全土に張りめぐらされた監視カメラの映像の
流出なんでしょうね。
それは密かな流出というのではなく、中国では社会的制裁としてこ
うした映像を公共の場で流すらしいですから、その中でおもしろい
ものを各国のテレビ局が買っているのでしょう。
これじゃ、中国ではおちおちケンカもできやしない。

 

かくして、いまの中国では国民の一挙手一投足が見張られています。
とりわけ画像解析による顔認証が進歩して、個人の行動が特定しや
すくなっているようです。
こうなると、「档案」のような個人情報管理システムの重要性もいっ
そうわかろうというものです。一人ひとりの顔から言動からなにか
らなにまで当局に把握されて、それが国家の安全のためにビッグデ
ータとして保管活用されていくのですから。
これじゃ、おちおち仕事をさぼってカフェなんか行っていられやし
ない。

 

ちなみに中国政府はさらに、アリババなども全面協力して、全国民
に「社会信用スコア」を付与する巨大なシステムを作りあげようと
しています。
この「社会信用スコア」は、学歴、慈善活動、マナー違反、犯罪歴
などでポイントの加減がある個人ごとの「履歴」という点では档案
とおなじです。でも全国民14億人を対象に!ですよー。

 

ただし恐ろしいことに、自治区であるチベットや新疆ウイグルでは、
これに人種、宗教、思想、言語などのほか、海外留学中の子どもが
いるとか、国が指定するテロ関与国家に行ったことがあるかなども
「信用」を構成するポイント(もちろんマイナスに)として勘案さ
れるようです。
これじゃ、おちおちチベットやウイグルに生まれていられやしない。

 

このように中国では、国家によってスコア化された個人の「信用」
が、犯罪防止や金融の与信情報だけでなく、移動の自由から就職か
ら出産からビジネスの成否から人生設計まで、ひとのすべてを決め
る社会が実現しつつある。
といったことを解説してくれるのが、

 

「幸福な監視国家・中国」(梶谷懐・高口康太/NHK出版新書)

 

でした。
ほんらい近代国家とは、国民個人の情報を集めて監視するものでは
ありませんでした。そうではなく、個人として自立した人々が集ま
って、みんなで公のルール(法)を定めて活動をおこなうが、その
ときの個人の自由・平等・安全を保障する役目を担う、「機能」の
はずでした。

 

ただしそれはヨーロッパの話で、東洋は違うというご意見もあるで
しょう。中国を例に、そこらへんを少し整理しましょうか。
いまの中国では、「公」はすなわち「党独裁による国家運営の制度」
であり、それが「全体利益」を担う。いっぽう「個(私)」は、「自
己利益を実現する」主体であり、自分の幸福を追求するもの、とい
う構造になっています。
そしてもちろん、私よりもまずは公が優先される。だから個人情報
は国が管理することに抵抗が少ない。

 

そして公(オフィシャル)とプライベート(私)がバシッと分かれ
ていて、その中間にパブリック(公共)とかソーシャル(社会)が
なく、中間団体などがない。
ないというか少ない。表に出てきにくい。ネットも見張られていて
言論の自由がないから、出てこられない。

 

そういう意味で現代の中国は、「西洋流の民主的な近代国家」とは
異なるしくみの国です。
中国は、共産党が「きみら国民は、ワシら賢い党と政府にお任せな
ておきなさい。ルールはこちらで決めてうまくやってあげるから」、
という父権的な国家運営をしているわけです。

 

伝統的に、中国を筆頭にアジアでは、国民による指導者(公)への
依存が強く、それほうが自身の身の安全にも見合うのだという心情
が優勢。
そしてそのいっぽうで、目先の儲けのために「国家の統制に従う個
人や企業(私)が増加する」、と筆者は言うのです。
ああ、はいはい、企業でいえばファーウェイやアリババのことね。

 

いまの中国は、「公」として権威的で、いっぽう「私」としては、
だれもが自分の欲望の充足だけを図ろうとしている国である。そし
てこのふたつは、けっして矛盾しているわけではなく、こういう国
家観で動いているのが中国だ、と筆者はいうのです。

 

ただし問題は、そこでは自由で建設的な競争とか、自主性や自発性
の発露とか、、個人の尊厳や権利を尊重することとか、多くの意見を
集約して民主的な合意形成をするとか、少数を大事にするとか、社
会全体に寄与する個人の「公共的」な活動動機などが薄れてくるの
ではないかという懸念があることです。

 

つまり、いい意味での「世界や人類全体のプラットフォーム」をつ
くろうとする精神的な土壌が、中国にはないかもしれない。
だから、国が目をつぶってくれれば他人のアイデアをパクってもい
いのだ、自分たちのやり方がいちばん優れているのだ、なんていう
やや骨折した「活動動機」が横行してしまう素地がここにある。
このへんにも、いままで中国文明が西洋に遅れをとってきたことの
理由が潜んでいるかもしれません。

 

さてしかし、話にはまだ先があります。
この本の筆者は、逆に中国のように「AI、ビックデータ、ⅠoT
といった次世代の汎用目的技術をいち早く発展させた国が、つぎの
覇権国家となる」と述べていて、テクノロジーによる国家の安定と
繁栄が優先され個人の自由を制限する時代の到来を示唆しています。

 

おお、やはりあなたもそうお思いになりますか! 
やはりものごとは裏腹なのだなあ! 国家と個人、自由と安心、公
と私、進歩と停滞の関係として。

 

つまり筆者のこの予測の裏には、社会信用システムのような国民管
理とビックデータの利用とか、多彩なアルゴリズムを駆使したAI
の開発などにおいては、じつは国の繁栄を第一に考える国家のほう
が、個を大事にするリベラルで民主的な国よりも有利になるだろう
という強い推定があるのです。
だって、なにをやるにしたって、ゆっくりした民主的な合意形成よ
りも、強権発動と集中的な資源投下による開発のほうが、より早く
結果が出せますもんね、だれが考えたって。
じつはこれ、ロシアやアメリカも含めて世界的な潮流ですしね。

 

では中国は、じっさいどこに向かうのか? 
これについて、たとえばアメリカの政治学者パトリック・デニーン
さんは、朝日新聞に掲載された「自由主義の失敗」というインタビ
ュー(2019.9.19)のなかで、
中国は、民主化せずに高度な人工知能の技術を駆使した社会の管理
を進めているが、「AIという超人間的なものを使って経済成長と
社会安定を保つようになれば、人間の存在意義は揺るぎかねません」
と述べています。
「中国はそういう非人間的な方向に向かっているようにみえる」と。

 

それはもしかしたら、「サピエンス全史」を書いたユヴァル・ノア・
ハラリさんのいう、「人類の大半がまもなく『デジタル専制体制』の
下に置かれるだろう」という予測の実現なのかもしれません。
少なくとも中国では、個の自由と国家の安定は、せめぎあった末に、
個の自由が負け続けている、ように見える。つまり中国では、「アル
ゴリズムに支配される国民と、各地に出現した『お行儀のいい社会』」
(オビのキャッチフレーズから)ができあがりつつあるのでした。

話が長く広がってしまいましたが、今日もお勉強になりました。

 

ブログ185

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第184回 2020.03.21

 

「新たな産業革命は近代化に遅れをとった中国で起きるのか?

さ、今日も勉強の続きをいたしましょう。
興味のない方は、ドンドン飛ばしてくださいね。

 

では改めまして、「なぜ東洋は西洋に遅れをとったのか? なぜ近
代化に遅れたのか?」という問いを踏まえ、それをもう少し具体的
な疑問に掘り下げてみます。
するとひとつには、「産業革命はどうしてイギリスで起きたのか?
中国ではなくて」、ということが浮かんできます。

 

みなさんも、いったいどうして、進んだ文明をもった中国で近代に
産業革命が起こらなかったのか、気になりませんか?
その答えがわかれば、近代化して世界をリードしたイギリス・西洋
と、近代化に遅れた中国・東洋とのちがいもわかるのではないか、
そう思うのですが、いかがでしょうか。

 

「父が娘に語る経済の話。」(ヤニス・バルファキス/ダイヤモンド社)

 

著者はギリシャの経済学者で、2015年には破綻した国家財政を立て
直すために財務大臣としてEUとの調整にあたった方です。
思い出しますね、ドイツを中心にしたEU委員会が、「財政を緊縮
させないとカネ出さんぞ!」といってきたのにたいして、「そんな
の、やなこった」と突っぱねた骨のある方(結局負けましたけど)。

 

この本は、そんな方が、「経済」がどう生まれたかからはじまって、
資本主義やそれを支える「信用」や「人間のココロ」の問題(前回
チラッと触れました)まで幅広く、そしてわかりやすく教えてくれ
る入門書でした。
なにせ筆者は希臘(ギリシア)人ですからね、もうそれだけで3000
年の歴史を感じて、私なんかもうすでに、彼のおっしゃることをま
るでプラトンのおことばのように拝聴して信じてしまうのです。
希臘って、いまでもブランドですよねー。

 

さてみなさんは、経済の初歩の話がどう関係してくるんだ、とお思
いになりますでしょ? 
では再度、本日の疑問を書いて置きますと、「なぜ産業革命はイギリ
スで起きたのか?(中国ではなくて)」でした。

 

これについて、歴史の教科書であげられるのは、イギリスは島国で
大陸のフランス革命やその後の戦争に巻き込まれなかったからとか、
国際貿易や植民地支配が進んでいて資本の蓄積があったからとか、
石炭などの天然資源が豊富だったから、などの理由でした。

 

筆者はこれに加えて、イギリスの地方領主は軍隊を持たなかったの
で(中央集権が進んでいた)貿易しか自分たちを豊かにする道がな
かったという点、さらに、土地の所有権が集中していたので、工業
化するために農奴を追い出しやすかった点を挙げています。
つまり「囲い込み運動(学校で習ったエンクロージャー・ムーブメ
ントですね)」の流れで、地方で余剰人口という資源がうまれ、それ
が都市に流入したのでした。

 

そして、それらの条件があったところに「蒸気機関」という発明が
火をつけて産業革命が生まれ、ついでに資本家と労働者と格差とマ
ルクスとエンゲルスが生まれた、というしだい。
逆に、こうした一連の条件が中国には存在しなかった。
余剰資本、人的資本、金融資本、起業家による競争、発明を産業に
活かす意欲、イノベーションを連鎖させるインセンティブ、こうい
うものがなかった。

 

なぜか?
なぜなら中国には、なんでもそろっていたから。
当時の中国(明、清)はイギリスとは比べ物にならないほど豊かで、
自分たちの国だけでじゅうぶん充足していたから。多くの大発明も
あったけれど、それらが互いに連携して新たな方向を創ることはな
かった。

 

歴史上、たまーに「天」の意思で支配者が変わって王朝が交代して
も、あるいは蛮族に攻め込まれたり小国家に分裂しても、自分たち
の文明がいちばんで、自分たちこそが世界でいちばん偉い、という
精神的な「柱」は揺るがなかった。
技術の進歩や統治体制の変更に左右されない、変わらぬ確固たる精
神的基盤があったのだ。
はい、よくわかりました。「経済の教科書」的な知識として理解し
ました。

 

で、ここからは読み手の私の感想です。
ひるがえって、そうすると現在の中国で起こっていることは、よく
考えると産業革命時代のイギリスに似ていないかな?
どうでしょう?

 

共産党独裁なのに、市場経済で個人主義の社会構造、農村から都市
への人口(という資源)の移動、軍事力による少数民族の植民地化
や新たなシルクロードや南洋拠点の開拓、その政策のウラにある地
下資源の獲得の意欲、国民管理の徹底による統治の安定、そして個
人の意思や自由を制限することによる政策の効率性追求、ITやネ
ット関連への集中投資、などなど。

 

これらが中国の経済を大きく動かし、あらたな産業革命が起こりつ
つあるのではないだろうか? そしていま中国は、ジャーン、歴史
上初めて世界に乗り出そうとしているのではないか?
もちろんその過程で、搾取も格差も差別も圧制も腐敗も人権問題も、
過去にイギリスで起きたことがおなじように起きているのではない
か?

 

筆者も、こんな私の疑問に応えるかのように、けっして中国だけを
念頭に置いているわけではありませんが、これから社会の「映画
『マトリックス』化」が起きる可能性があると懸念しています。
つまり、経済学の見地からみても、「もはや人がテクノロジーに支配
されていることに気づくことすらできないほどの、完璧な機械化や
肉体の商品化、心の奴隷化」が現実となるのではないか、とするの
です。


小説「1984」のように、人間がテクノロジーに支配されるのではな
いかと。

 

これはこれは、大きな問題にブチ当たりました。
ことさら中国をあげつらうわけではありませんが、中国経済とその
産業思想の進みぐあいが、個人と国のあいだの問題や、テクノロジ
ーの進展の問題も含めてモデルとなり、今後の世界の趨勢を占うこ
とになるというのですから。
すっごく勉強になったじゃないか! お父さんがやさしく娘に説明
する経済のお話が、こんなことに結びつくなんて!

 

ブログ184

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第183回 2019.03.12

 

「世界史の謎 西洋文明vs東洋文明(中国)」

 

私ことブックカフェのオーナーも、毎日のんびりと店番して、お客
さまとコーヒーを飲みながら、ご近所のうわさ話にうつつを抜かし
ているわけではない。
日本と世界の情勢に目配りし、確かな情報を収集して見識を高め、
大所高所からの考察をお客さまに提供したりなんかして、もって世
界の平和に寄与している。
なに? そんなごたくは信じられないとおっしゃる?

 

では諸君に、勉強の成果のほんの一部をご覧にいれようではないか。
ただし、これからしばらくの回ではめんどくさい話が続くので、
そんなの興味ないよという方は、サクサク飛ばしていただきたい。

 

「世界史の哲学 東洋篇」(大澤真幸/講談社)

 

この本で大澤さんは、
「なぜ東洋は、とりわけ世界最高峰を誇った中国文明は、西洋に遅
れをとってしまったのか?」という問いを、約700ページにわたっ
て探究しておる。
粘着質系の社会学者たるもの700ページくらいは書かねばいかん、
という根性にまずは脱帽しておこう。

 

なぜ東洋は遅れをとったのか? なぜ近代化が遅かったのか?
こういうことが、現代の世界情勢と地政学的な国家間紛争の遠因に
もなっているのであるから、世界平和実現のためにはゆめゆめゆる
がせにできない問題なのである。
そのへんの理屈は、おわかりいただけるであろう。

 

たとえば明の時代、15・16世紀、どこよりも進んだ文明をもった中
国は、なぜか「世界」には乗り出すことをしなかった。
それにたいして西洋は大海原に乗り出して新大陸を発見し、植民地
をつくり、富を収奪して帝国をつくり、それで資本主義経済をこし
らえ、科学を発達させて産業革命を起こし、もって自由主義やら民
主主義やらを発展させて世界をリードすることになる。

 

なぜだ? なぜそうなる? なぜこんな差がついた?
本の結論はどうなんだ、わかりやすく教えなさい、と言われても、
私にはそれを要約してお伝えする能力はない。なんせ700ページも
ある本なのであるから。
あしからずお許しを乞うしだいである。

 

ただしひとつだけ。
ちがいを生み出すひとつの大きな要因として、市場とか金融資本と
は別に社会秩序を成り立たせている、「贈与」とか「負債」とか「儀
礼的交換」とか「互酬性」とかなんやかんやらの、「信頼関係による
社会の成り立ち」があるらしい。

筆者が示唆するのは、人間でも企業でも国家でも、自分さえよけれ
ばいいという自分本位の功利的な関係は衰退することが多く、むし
ろそれぞれの間の信頼にもとづく関係性が豊かな社会、すなわち近
代西洋の一部のような社会が、経済的にも政治的にも文化的にも発
展するのだ、ということである。

 

ここは以前「社会関係資本」として勉強したところでもあり、社会
学的、経済学的にたいへん妙味あるところなので、ご興味がある学
徒は私の代わりにいっしょうけんめい読んで、私にレポートを提出
するように。

 

ところで、読んでいてびっくりしたことがひとつあったので、それ
だけは特筆してご報告しておきたい。
現代中国には「個人档案(とうあん)」という、共産党の個人情報
文書がある。
あ、いまちょっと驚きました、「档案」って、漢字変換できました
ね。木へんに当たる、なんて字をみたのはじめてでしたので、「と
うあん」で一発変換されるとは思ってもみませんでした。
驚いた拍子に、ですます調になってしまいました。

 

「档案」とは、党員個人一人ひとりについての公文書という意味で、
内容的には一種の履歴書だが自分で書くものではなく、本人が見ら
れるものでもありません。
大学に入学すると同時にその人の個人档案が作成され、その人のあ
らゆる情報が教師や上司によって書き込まれていく。成績、思想傾
向、仕事の実績、態度などなどすべてが書きこまれ、スコア化され、
そしてそれが共産党本部の手元に随時貯められていき、その人の人
格も含めて人事情報として管理されるというのです。

 

すごい仕組みでしょ、びっくりしませんか? 私はびっくりしまし
た。これは党による個人情報、とくにエリート層の個人情報の生涯
にわたる徹底管理です。会社の人事管理の比ではありません。
でもよく考えてみれば、中国は「科挙」のお国柄ですから、それこ
そ官僚の管理としては当然の、伝統に則った制度なのでしょう。

 

しかしここで筆者は、人間はほんらい自由を好むのではないのか?
このように管理されるのは嫌ではないのか? 人は委縮するのでは
ないか? なぜこんなとてつもない制度が可能なのか?と問い直し、
そのうえで、もしかしたら中国の秘密がこのへんにあるのではない
か、というのです。

 

それに答える筆者自身の仮説として、ひとつには、中国人には「己」
を知る「他者」に徹底して帰依する態度があるのではないか。つま
り、頼るべきシステムとしての共産党に絶対の信頼を置きつつ、自
分の個人情報をすべて引き渡してもOKという心情があるのではな
いか、とします。

 

もうひとつ、彼らは、自分が歴史に「名」を留めることに人生の意
味を見てきたのではないか、ということを挙げます。
つまり、なにか絶対的な制度の中で、たとえば「王朝」のような確
実な体制の中で、だれもがその「正史」に名前を留めたいという欲
求があるのではないか、とするのです。
筆者はこのふたつの説を立て、だから個人档案のような個人情報の
引き渡しと管理の仕組みが生きているのではないかというのです。

 

うーむ、なるほど。そうなのかもしれません。
私はそれに加えて、科挙からえんえんと続く中央集権・文民統制の
歴史が、「個人は国家によって見張られ管理されてよいのだ。その
方が安心なのだ。それでいーのだ。おカネのことは別にして(少し
ぐらいの袖の下は見のがしていただいて)、ほかのことについては
お上(おかみ)にお任せするのだ」的な心情が培われてきたのでは
ないか、とも感じたのでした。

 

だって、そうとでも考えなきゃ、とてつもない数の監視カメラに見
張られ、とてつもない数の警察官にネットワーク上のコミュニケー
ションを監視される支配を良しとする、大多数の国民の態度を理解
するのは難しいですもの。
党員以外の国民が、国家による個人情報の管理はOKとする広範な
精神的基盤があるからこそ、党内の「档案」もなり立っているに違
いないのです。

 

問題は、こうした国家による個人の管理は、個人を委縮させて、自
由や創造性をそこなう可能性があり、なにより「個人よりも国家体
制の存続が第一」とか「なにかの折に、多少の人的犠牲が出ても、
良し」と考えるお国柄をつくってしまったのではないか、というこ
となのです。
それこそが、過去から現在まで、中国の近代化を阻害する要因だっ
たのではないかと。
あ、しまった、おもわずこの本の結論を言ってしまいました?

 

ブログ183

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第182回 2020.03.04

 

「だれもが来られる図書館を忘れないで」

 

本にまつわるお仕事といえば、もちろん、図書館を忘れるわけには
いきません。
とりわけ公共図書館は、ブックカフェと同様に(?)地域の大事な
コミュニティの場です。
そこで働く司書の方々のお仕事も、いまは本を探し出すお手伝いだ
けでなく、ビジネスに必要な情報を見つけてあげたり、地域活性化
の手伝いをしたり、子どもさんや、高齢者や障がい者のためのイベ
ントを企画したりと、さまざまに広がっています。

 

イベントといえば「ビブリオ・バトル」もありましたね。
以前にご紹介もした、一人ずつ五分で自分が好きな本を紹介し、そ
れを読みたくなった人の数を競うゲームですが、もちろん公共の図
書館でもずいぶん行われるようになり、司書の方が企画し司会役を
したりするようになりました。

 

ところがみなさん、図書館には人間(ヒューマン)だけが働いてい
ると思ったら大間違い。

 

「図書館ねこデューイ」(ヴィッキー・マイロン/早川書房)

 

そ、猫(キャット)も働いていたのでした。
アメリカはアイオワ州の北西部、スペンサーという小さな町。
寒い冬の朝、図書館の返却ボックスから救い出された子猫がいた。
(ここらへん、つい読み飛ばしてしまいますが、よくもまあ返却ボ
ックスに入れたものだということと、よくも本に押しつぶされなか
ったなあと思います)
彼はデューイと名づけられ、図書館で飼われることになる。
やがてデューイは成長するとともに、毎日入り口で来館者をお出迎
えし、館内を見回り、本を運ぶトレイに乗り、読書中の方のひざに
のぼって昼寝をするようになる。
それが彼の仕事になった。

 

子どもや障がい者にはゆっくり近づいて鼻をなすりつけ(ケアし)、
お年寄りには毛並みを撫でさせてあげる(セラピーする)。はては、
会議で煮つまったメンバーの目の前に来てニャーと鳴く(ファシリ
テーターしてる!)。
彼は、本を探したりビブリオバトルの司会はできないが、ヒト(ヒ
ューマン)の気持ちに寄り添うことのできる猫だった。
「彼(デューイ)はわたし(筆者/館長/ヒューマン)を心から信
頼した。スタッフ全員(ヒューマン)を心から信頼した。そこがこ
の猫のとても特別なところだった。完全なゆるぎない信頼。」と、筆
者の館長は懐かしんでいます。

 

最初は「猫なんか飼って大丈夫?」と懸念していた来館者や町の人
もデューイをかわいがるようになり、図書館の来館者はうなぎのぼ
りに増える。
つまりデューイは、町の人を癒し、さらに新たに呼び込むことで地
域コミュニティ活性化の火付け役になり、やがて評判が評判を呼ん
で遠方からも来館者を集めるまでになり、町の観光大使(アニマル)
としていわゆるインバウンドにも貢献したのでした。

 

そして筆者は最後にこう述懐します。
「りっぱな図書館は必要なものを与えてくれる。地域社会の生活に
すっかり溶けこんでいるので、かけがえのない存在になっている。
いつもそこにあるので、誰も気がつかないのがりっぱな図書館だ。」
おしまい。めでたしめでたし。

 

もう、ほんっとに、いい話。子どもさんに読んであげるにもぴった
りの本だと思います。
でもちょっと待ってください、図書館で働くのは猫だけではない。
ライオン(ネコ科)も来るのだ!

 

「としょかんライオン」
(ミシェル・ヌードセンさく、ケビン・ホークスえ/岩崎書房)

 

図書館にほんもののライオンが来てしまった! さあ、どうする?
館長のメリウェザーさんは、周囲の反対をよそに、ライオン君が図
書館のきまりを守るのならここにいてもいいと言います。

 

そこでライオンは、走ったり大きなうなり声を出さなければ図書館
で暮らせることになりました。
そして、シッポ(想像上のではない実際の)の毛で本のホコリを払
ったり、手紙に封をするために大きなベロで封筒をなめたり、小さ
な子どもたちを背中に乗せて高いところにある本に手が届くように
したりと、図書館のお仕事を手伝うのでした・・・。

 

その後、事件が起きてライオンは図書館に来られなくなりますが、
そこは絵本です、ちゃんとハッピーエンドが用意されています。
だから、新学期なんかに、子どもさんに読んであげるにはぴったり
だと思います。

 

ヒューマンだけでなく、猫もライオンも図書館でそれぞれ自分の役
割を果たしてお仕事ができる世界って、いいじゃないですか!
わがブックカフェも、動物が手伝ってくれる場所になれればいんだ
けど!

 

ブログ182

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第181回 2020.02.27

 

「本屋って、本来こういうものなのさ」

 

いまは町の書店がすっかり減ってしまいました。
生き残っているのは、ターミナル駅の大規模チェーン店か、テーマ
で勝負するインディペンデントな小規模書店になってしまいました。
ブックカフェなんてものも、そのうち絶滅するかもしれませんね。

 

でもちょっと前までは、骨のある、頑固で、自分の目にかなった本
しか置かない書店経営者もいましたね。
私たちは、そういう書店(古本屋や貸本屋をふくむ)に行って、恐
る恐る立ち読みしたりしていると、そのうち、新聞を読んでいたオ
ヤジさん(こころなしか松岡正剛さんに似ている)が、老眼鏡の奥
から上目づかいでにらんでくる。

 

それは、商売のじゃまだから、買わずに立ち読みするのをやめろと
いうことばかりではなく、「その本はいまのおまえにふさわしいの
か?」という問いかけでもありました。
すると私たちは、というか私は、その視線の問いに答えきれずにコ
ソコソと出ていくことになる。

 

こういうことから本屋は、よくいえば学校では習わないことを教わ
る場所だったし、本を通して自分と向き合う機会だった、、、、、あく
まで「よくいえば」ですよ。ふつうにいえば、オヤジと悪ガキの戦
いが繰り広げられていたのです。
なんの戦いだかわからんけど。

 

「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子/文藝春秋社)

 

文筆家、須賀敦子さんのファンは多い。私もそのひとりです。
その魅力はひとことで言えるものではありませんが、その原点とい
うか、すべての要素が詰まっているのがこの本だと思います。

 

これは、ミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店という左翼系の本
屋に関わる個性豊かな人々を描いたこの作品。ひと昔前まで存在し
ていた、本と店員の個性によってお客をつかむ書店の話です。
もしかしたら、このコルシア書店もモンテレッジォ村の行商の末裔
じゃないか?なんて思ってしまいます。

 

それはともかく、ミラノに個性的な書店を運営している若い人たち
がいて、そこに文筆家や作家や知識人がいて、周辺にはいかにもイ
タリアらしいおしゃべりなおじさんおばさんたちもいて、書店側と
客側のちょっとした戦いも繰り広げられる。
そうした下町の生活と筆者自身の若き日の思い出が、情感をもって
描き出されていきます。

 

コルシア書店の仲間たちはみな若く、主義主張をもち、仕事中も政
治論議を戦わしている。店員たちどうしも、店員と客も、店と街も、
闘っている。なんだかそういう「闘い」のさなかにある書店。
それはそうと、イタリア人の口の闘い(議論)はうるさそうですな。
村上春樹先生にいわせれば、彼らは「何はなくても意見だけは豊富
に持ち合わせている人々」らしいですからね。

 

それから、イタリアが舞台になるとどうしてこうも人間が個性的に
見えるのでしょうか。
イタリア人がそうなのか、こちらがそう見ちゃうからそう見えるの
か、書き手の描き方がツボにはまって上手なのか、そこらへんも
よくわかりませんけど。

 

そんななか、ひとりでイタリアに来て、本が好きで書店の店員ペッ
ピーノと結婚した若くかわいい日本人(著者)は、書店の仲間に加
わっていく。
このペッピーノも個性的な人物で、大竹昭子さんの表現を借りれば、
「本当の本読みであると同時に、コルシア書店の活動を通じて、社
会と繋がる生き方を模索」していた人のようです。
彼も闘っていたのです。

 

いっぽう、そんな書店に来るのは左翼系の論客であったり、政治に
は無関心でいつも入り口のそばにある椅子に座るテレーサおばさん
であったり、元貴族だったり、泥棒だったり、いろいろな人たち。

 

書店にはとくだんドラマチックな展開があるわけではなりません。
ただ、本を売ること、買うこと、作ること、読むこと、それら本に
関わる種々の行為が、まるでひとつの物語として一人ひとりの人間
とともに立ち現われてくるような気がします。
だから私たち読者は、イタリアのお話を読んでいるのに、なんとな
く郷愁をおぼえたりしてしまいます。

 

彼ら一人ひとりの毎日の生活に小さな湧き水があって、それがささ
やかな物語となり、やがて川の流れのように自然にコルシア書店に
集まってくる。
「本屋って、本来そういうところなのさ」って、イタリア人のおじ
さん(モンテレッジォ村出身)ならそう言うでしょうね。

 

「書店の入り口で、カルラがペッピーノと立ち話をしていた。(中
略)ガストーネがまたまたドロボウをして警察にあげられたと、カ
ルラはペッピーノに話していた。いったい、どういうことなのかし
ら。三人目の子供が生まれて、ガストーネもやっと落着いたと思っ
たのに。そういってカルラは、口惜しそうに唇を噛んだ。」
なんてことはない生活の一場面が、書店の立ち話として語られるだ
けです。でも、それがなぜか心を揺さぶる。

 

そして、登場するこれらの個性的な人々は、たぶん作者を含めてみ
な孤独を抱えているようにみえる。
「人間のだれもが、究極において生きなければならない孤独と隣り
あわせで、人それぞれが自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生
は始まらない」。
「コルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た
ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野で
はないことを知ったように思う。」

 

これらは筆者自身の素直なことばでしょうから、須賀さんにとって
書店は、それを取り巻く人々との戦いの場であり、自分自身と彼ら
の孤独という「普通のもの」を教えてくれる場所でもあったのです。
須賀さん、ありがとう! 
わがブックカフェも、コルシア書店のようであればいいんだけど。

 

ブログ181

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第180回 2020.02.20

 

「旅する本屋というお仕事」

 

かなり昔の話ですが、イングランド北西部からウェールズに入った
ところのヘイ・オン・ワイという小さな町を訪ねたことがあります。
ワイ河のほとりのヘイという名前の町、まわりは田園地帯で、車で
小さな川にさしかかると、たもとの店に「渡り賃」を払って渡らせ
てもらう橋もあったりする、昔ながらののんびりした町。

なんでわざわざその町に行ったかというと、そこは「本屋の町」と
して有名になったところなのです。
人口2000人足らずなのに、本屋が30軒以上ある。
もちろん本屋といっても新刊書店ではなく、ほとんどすべてが古本
(というか、イギリスにはもともと再販制度がなかったので)で、
それもいろいろ個性ある本屋が文字通り軒を連ねていました。

まず町の真ん中、小高い丘にある中世のお城に行くと、そこの中が
本屋。高い天井の広間に本がドーン。横の小部屋にも本がドーン。
階段を降りて街中に出るとあっちにもこっちにも、神田の古書街の
ように本屋の看板がバーン。

あとで聞いたら、町長を兼ねる(昔からの)城主様が本屋をやり始
めたら当たっちゃって本屋が増え、いわゆる「まちおこし」にもな
ってしまったようです。
現に、町の広い駐車スペースには、本好きの、というか本探しの好
きな団体客を乗せた大型バスがガンガン来てました。

それで思い出したのが、


「モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語」
(内田洋子/方丈社)


でした。

モンテレッジォは、イタリアのトスカーナ地方の山奥、位置はフィ
レンツェとジェノバのあいだくらいの小さな村です。
ここはじつは古本屋があるのではなく、さすがの松岡正剛さんもや
ったことのないであろう、「本の行商」で有名になった村でした。
本の行商、そうです、日本でいえば「富山の薬売り」みたいなシス
テムが作られていたのです。
世界にはいろんな特徴をもった村があるものです。

その昔(18・19世紀)イタリアでは本の行商があったんですよ、そ
してその行商人の子孫たちが、じつはいまでも各地で本屋を営んで
いるのですよ。
著者の内田さんは、ヴェネチアの本屋でそんな話を聞きます。
「何世紀にもわたり、その村の人たちは本の行商で生計を立ててき
たのです。今でも毎夏、村では本祭りが開かれていますよ」、と言
われ、それじゃあってんで村を訪ねることになります。

モンテレッジォは山奥の小さな山村であっても、そこは昔から交通
の要衝で、中世にはローマからシエナ、スイスのローザンヌ、フラ
ンスに入ってブザンソン、ランス、そしてイギリスのカンタベ
リーへと続く「フランチジェーナ街道」というのが通っていた。
いずれの都市も、中世からの大学があって出版業が盛んなところで
した。

行商人たちはその街道に沿って本を仕入れ、各自、お得意さんの待
つ町へと重い本をかついで売りに行っていたのでした。
活版印刷が発明され、書籍が普及し、文字を読める人が増え、それ
に応じて本の流通網ができていくが、なかには本を行商する人たち
がいた。モンテレッジォでは、小さな村のほとんどの男たちがその
商売に従事していた。背負子で担いだり、荷車をロバにひかせたり
して町々を回っていた。

なんて話を聞くと、あるうららかな春の日に、「おーい、今年も来
たよー」「新しい本、持ってきたよー」とかいう、男たちの呼び声
が聞こえてきそうじゃないですか!

逆に、行商人を待つ側の人たちの気持ちはどうだったかというと、
たとえば19世紀の後半には、
「『モンテレッジォの行商人から本を買うということは、独立への
第一歩を踏み出すということでした』と言う。これはイタリアの独
立運動のことだけを指したのではなく、一人前の大人として自我に
目覚める、という意味合いも含めて言ったに違いない。」
と筆者は書きます。

いいですね、本はそういう役目も果たしていたのです。
若者たちは、行商のおじさんの「おーい」ということばに呼応する
ように成長し、村の外の世界を見せられ、やがて巣立っていったの
でしょう。

こうして筆者の前には、イタリアの歴史や書店の歴史、つまりリア
ルな情報媒体としての本と、本による人のつながりの歴史が、重な
り合って現れてきます。
じっさい、彼ら行商人の子孫の営む書店の中にも、行商や露店の伝
統みたいな要素がたしかに生きているんです。それらは、現代風の
書店でありながら一人ひとりのお客さんの好みを押さえて仕入れす
るとか、客どうしのコミュニティをつくっているとか、若者の勉強
会を開くとか、そんなことをいまでもやっているのです。

行商人の末裔が各地の街に広がって本屋を営んでいるということを
みると、ヘイ・オン・ワイのような本屋の町が作られるのと同じよ
うに、本が素晴らしい贈り物であるという確かな実感に支えられた
お仕事だと強く感じます。
それを教えてくれた内田さん、ありがとう!
旅する本屋の精神が、わがカフェにも受け継がれているといいんだ
けど。

 

ブログ180

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第179回 2020.02.13

 

「本にまつわるすべての仕事をするひと」

 

本にまつわる仕事というと、これまでブックコンシェルジュや読書
履歴捜査官という、自分がなりたいものをご紹介してきましたが、
もちろんふつうに企画、編集、デザイン、印刷製本、流通卸、販売
など、いろいろな職種があります。

 

なかでも本に関わるプロフェッショナルというならば、ベストセラ
ーの編集者とか書店のベテラン店員さん、あるいは装丁の職人さん
とか図書館司書の方、そしてそうそう、批評家/評論家もそうです
ね。
これらのうちのひとつでも究められればすごいものですが、じつは
これらすべてを兼ね備えるひとがいまして、その方こそ、松岡正剛
さんなのでした。

 

「松丸本舗主義」(松岡正剛/青幻舎)

 

松岡さんは若い頃から「編集工学」というのを唱えておられます。
そのココロは、世の中すべからくモノゴトのつながりでなり立って
いるのだから、つながりを解き明かせば多くのヒミツが見えてくる
だけでなく、さらに新たな発想でモノゴトにつながりをつけること
によって、それが人類共有の「クリエイティブな知」となって残っ
ていくのであーる、というものです。

 

だから、もちろんご自分でもものすごい量の本を読みこんでいる博
学の思想家であるけれど、それだけでなく、自身が編集人として、
人類が蓄積している「知」をつなげて「新たな知恵」にしようとい
う、なんというか書物の鬼というか、知恵地獄の番人というか、ひ
とりエンサイクロペディア・ブリタニカとでも申しましょうか、い
ずれにしろまことに大それた野望をいだいておられる方なのでした。

 

私も一度お会いして会食しましたけれど、カッコいいんだ、これが。
とくに、美人秘書さん(差別用語じゃないですよね)に火をつけて
もらってタバコをくゆらす姿なんざ、孤高の哲学者か竹林の七賢人
って感じで、ワタクシ、もう、ヨダレを流しながら、想像上のシッ
ポを振りつつ正座して彼のお話を聞いたものでした。

 

それはともかく、書名の「松丸本舗」とは、そうした彼の「編集」
理念の現実化の試みの一環として、書店の丸善と組んで東京駅丸の
内北口オアゾビル丸善の一角にプロデュースした、書籍コーナーの
名称でした。

 

いやー、最初に行ったときはおどろきましたよ。
だって本の並べ方が普通とはぜんぜん違うのですから。
本って、書店でもだいたい図書館の分類コードに近い形で並べます
でしょう? 日本文学とかノンフィクションとか天文学とか。
それがここはそうじゃないのです。

 

彼はこう言うのです。
「分類はコンパイルであって、エディットではない。エディットと
は、いったん分類された情報に二次三次の編集をかけて、新たな関
係を発見することをいう」。
ウー、カッコいいー(想像上のシッポをパタパタパタ)。
このように、図書館の分類コードを崩して、もとの情報を読み替え
組み換え編み変えて、魔法のように別の情報群に創り変えるのです。

 

その編集のとっかかりとしては、たとえば「本」にいくつもの助詞
や助動詞をつけることから発想を得る、なんていう作業から始めて
いました。
「本が」「本に」「本の」「本で」とか「本から」「本なら」「本にも」
「本めく」というように付けてみる。こうした作業によって人の頭
脳のシナプスがビリビリと活性化し、「本が(生き物のように)動き
出す」。

そんな作業を段階的にいくつも進めて、なにかの「方向」ができて
も、それを壊してはまた組み立てしつつ、企画展示系書店コーナー
「松丸本舗」ができていったのでした。
すると、その本棚に並べられるコーナーの名称は「遠くから届く声」
であったり、「脳と心の編集学校」であったり、「日本イデオロギー
の森」であったりする。

 

こうした名称、つまり「新たな編集/新たな関係の発見」によって
生まれた「新たな分類」が、たぶんのべ数百もあったでしょうか。
そこには、そのテーマに関連するあらゆる本が、図書館でのジャン
ルを飛び越えて並び、お客さんを待ち受けることになるわけです。
どーだ、わしらを見てみろ!みたいな感じで。胸を張って。

 

松丸本舗はこんなコーナーでしたから、とうぜん本棚のつくりじた
いも違いますし、また、客側の目線も歩く導線も通常のようにはい
きません。
客は迷路のなかを歩くようにしてウロウロ動かされ、思わぬテーマ
の場所に出くわし、特製のデコボコ本棚によって目も上下ナナメと
動かされ、いろいろな本に行き当たっていくのです。
まるで本のテーマパークに来たようで、私も会社の仕事をサボって
遊びに行き、とても楽しい経験をさせていただいたものでした。

 

さて、その後「松丸本舗」は、三年ほど稼動して閉店することにな
り、最初のいきさつから閉店までの記録が収められたこの本が残さ
れたのでした。
ところで私には、ひとつだけ疑問あります。
いったい、松丸本舗の売り上げはどうだったのか?
普通の書店と比べて、単位面積あたりの売り上げはどうだったのか?
ここ、気になるでしょう? とくに営業関係のみなさん?

 

松丸本舗は、じっさいに歩いてみるとそれほど広いスペースではな
かったですけど、私はやけに疲れたことを想い出します。
そりゃそうでしょう、客は松岡さんに「編集」されて並べられてい
る本に圧倒されてしまうのですもの。客は、古今東西の知恵の結晶
たる何万冊もの書籍と編集しなおされた「知」の姿に、逆に、仁王
さまから見られているような気分になってくるのです。
どーよ、ワシを読んでみるかい、その力はあるのかい、お客さん?
と。

 

で、告白しますと、私はここで一冊も買うことができませんでした
(想像上のシッポがダラーン)。
わーっおもしろそうな本だなあ、いつか読みたいなあ、でも自分に
読む資格はあるかなあ、この本読んだらとなりの本も読まないとイ
カンなあ、おお、どうしよう、とりあえずいったんメモしておいて
図書館で借りてみよう、などと頭のなかがクルクルして、じっさい
に本を手に取ってレジに行くということにはならなかったのでした。

 

いまさらですが、すいませんでした。
三年で閉店とはなんとも残念、とか頭では思いながら、私は売り上
げにまったく貢献していなかったことを告白せざるをえません。
しかし松岡先生と丸善さんの試みは、その後、多くの書店の販売方
法に引き継がれているのは確かです。ただしそれらのほとんどは、
「編集」というよりは売らんがための「企画販売棚」になってしま
っていますけどね。

 

それはそれでしょうがありません。ほとんどの客は、私のような軟
弱者なのでしょうから。
ただ、そんな松岡先生の試みの一部が、わがブックカフェにも多少
は引き継がれている、、、のであったら、いいんだけどなあ。

 

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第178回 2020.02.06

「ムチャクチャしんどい旅路、というか逃避行」

いにしえ、仏教の経典を長安からインドにまで求めた三蔵法師や、
イタリアからシルクロードをたどって中国まで行ったマルコ・ポー
ロや、五体投地で聖地カイラスに行くチベットの巡礼や、日本中を
測量して歩いた「四千万歩の男」伊能忠敬も、それはそれはよく歩
いたもんだと感心しますが、現代でも、万やむを得ずとんでもない
距離を歩いてしまった、というか、歩かざるを得なかった人たちが
います。

そんな人たちのとんでもない旅路、

「脱出記」(スラヴォミール・ラウイッツ/ヴィレッジブックス)

は、副題の「シベリアからインドまで歩いた男たち」に惹かれて、
まさかガチでそんなに歩くことはなかろう、大ボラだろうなんて思
いながら読んだら、これがなんと、まごうかたなきノンフィクショ
ンでした。

第二次大戦中、25歳でポーランドの軍人だった筆者は、友好国であ
ったソ連にスパイ容疑で逮捕され、拷問のすえにシベリアで25年の
強制労働をいいわたされ、困難な列車長距離移動をする。
着いたところは第303収容所という、ヤクーツクという町の近く。
近くといっても町から何百キロも離れているんですけど、このへん、
せまい日本のわれわれには距離感がまったくつかめません。
いずれにしろ極寒の地、そこでの過酷な労働、このままでは死ぬ、
となって、筆者は六人の同志とともに脱出します。

ここからが逃避行です。その行程はすべて歩き。
彼らはなんとかバイカル湖にでて、イルクーツク近郊を通ります。
この何年か後、第二次大戦でソ連に抑留された詩人、石原吉郎は、
こんなふうに詠っています。
「忘れるものか/バイカルの/黝(くろ)き波たつ/氷点下/凍る
とばりの/そのかげで/僕をみている/君の目を/誰がその目を
/呼びかえす/遠い吹雪の/地平線/おき忘られた/韃靼の/ああ
生贄の/十余年・・・」。
うううっ、さ、寒い、きつい、つらい、しんどい。
私たちはこんな風景を、鼻水を流しながら想像することになります。

その後、ずーっと南下してモンゴルに入り(よかった、少し暖かく
なった)、無謀にも、って彼らには予備知識がないからしょうがない
んですけど、ゴビ砂漠を南北に縦断(暑い!)。砂漠では、長いとき
には12日間、飲まず食わずで歩く。
なんという強靭な体力と精神力の男たちでしょうか! 

一行はさらに中国の甘粛省から青海省を経てチベットへ、それから
ヒマラヤを超えて(寒いっ!)ブータンに入る。
ヒマラヤ越えのときは雪男(イエティ)らしきものを見かけるとい
うおまけもありつつ、インドに入って(あちちちっ!)カルカッタ
(現コルコタ)にいたる。
この決死行の最中で彼ら六人はいろいろな人に助けられ、うち一人
は亡くなり、途中から同行した少女も命を落とします。

なんと6500キロにおよぶ行程。
スポーツでも修行でもない逃避行。
あるとき、ヒマラヤの雪の斜面を仲間とともに滑り落ちることがあ
ったが、「この場面がいつまでたっても忘れられないのは、長かった
旅の全体を通じて、自分たちの足を使わずに進んだのがこの一区間
だけだったからだ」、ですって。
ということで、アパラチアン・トレイルの倍、6500キロ全部歩き。
信じられます? 途中でタクシー拾うとかサンダーバード2号を呼
ぶとか、なんとかならなかったのか!

さて、私が感心したのは、この本が英国で刊行されたのが1956年で
すから、スターリンが死んでまだ三年ほどの時点なのです。
そのとき、きっとこの筆者も、イギリスにいながらも身の危険を覚
悟しなければならなかったことでしょう。だってこの本も、まだバ
リバリに生きていた旧ソ連体制の内幕の暴露ですもの。
ヘタすると暗殺されかねません。しかしそこを頑張った。

ということで、この、まるでウソのようなこの旅路は、とんでもな
い戦争やとんでもない国家権力のおかげで、万やむをえず始まり、
万やむをえず後世に語り伝えられたものなのでした。

ブログ178

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第177回 2020.01.30

「大陸の人たちの、やはりとんでもない旅路」

歩く距離としては日本人よりも大陸の人々のほうがはるかにスゴイ
わけで、なかでも昔の大陸の人たちの移動はケタが違います。
なにせずっと地続きなのですから。
中国なんて昔っから、なんと、ここからここまで歩くのか!こんな
距離を移動するのか!というような話ばっかりです。
それこそ春秋戦国や三国志の時代から毛沢東共産党の大長征まで・
・・。そこで、

「ワイルド・スワン」(ユン・チアン/講談社) 

これは、筆者ユン・チアンの祖母から母、そして彼女自身まで三代
にわたる記録、ノンフィクションです。
彼女のおばあさんが満洲で生まれたのは清朝末期、ひどい方法で纏
足されたりしている。筆者自身は1952年の生まれで、文革(文化大
革命/毛沢東の指導の下に行われ、1966年から10年刊続いた階級
闘争)のときには紅衛兵(造反有理などという標語をかかげながら、
毛思想に心酔し、旧世代を多く粛清した)である世代。

文革のときには、だれもがなんとなく文革の方向はまちがっている
のではないかと思っていたが(とくに知識人層は)、ただし、毛沢東
本人だけは聖域でだれも逆らうものはいなかった。
とりわけ農村の十代の若者たちはくびきを外されたのように暴走し、
大人たちは逆に自己保身に走って密告し合い、それによって多くの
人がゆえなき犠牲になっていく。

とまあ、50年も前の中国の内紛について解説的なことを書くつもり
はなく、それがのちの天安門事件にどうつながっていくかを書くつ
もりもなく、さらにその流れでいまの香港のデモはなにをもたらす
のだろうかと思案するつもりでさえなく、私はただ、この本のクラ
イマックスが、主人公たちのとんでもない旅路だったというところ
をご紹介したかったのでした。

一家はもともと満洲でくらしていたが、両親は結婚後にまじめな共
産党員として四川省に赴任。もう長距離移動。その後、「大躍進時代」
という無茶な政策で大飢饉を経験したりする。
りっぱな共産党員だったのに、あろうことか文革運動のなかでゆえ
なく罪を着せられる筆者の父親。いっぽう母も「思想改造」のため
にチベットへ下放(かほう/都市で生活している人やインテリ、学
生などが農村に行かされて農業に従事する)される。またもや長距
離移動。
そして娘である筆者は文革の主役の紅衛兵になり、一家はバラバラ。

やがて父親の名誉を回復するため、母親は北京に陳情に行く。
じつはみなさん、私はこの陳情の旅こそが「とんでもなく大変な、
歩いて歩いて歩き倒す旅」だったように記憶していたのですが、い
ま読み返してみたら、それほど歩きばかりでいきあたりばったりの
旅ではありませんでした。
彼らは中国人らしく、ちゃんとツテを頼ったり、しっかりとした計
画のもとに行動しています。そこはなんか、「歩く」のテーマにこじ
つけてしまった感がありまして、すみません。

そのうえで私はあらためてこんな感想をもったのでした。
広ーい中国のなかでおこなわれた、彼らの人生における長い長い旅
こそが、20世紀の中国の人たちの多くが経験したことなのだ。とん
でもない旅は彼らにとってあたりまえの日常だったのだ、と。
革命家だけでなく、中国ではだれもが「長征」をしてきたのだ。

つまり、中国を理解しようと思うなら、あるいは中国人の考え方を
理解しようとするなら、広い広い国土と、たくさんたくさんの人間
と、だれもが長い長い年月をかけて、とんとんとんでもない旅をし
ていく、その固く固くなった足裏の皮膚に秘められた「決意」みた
いなものに触れる必要があるのだろう、と。

そしてそれが現代の「一党独裁市場経済全体主義官僚賄賂覇権国家
・中国」を理解する一歩になるのではないかと。
あれ、説得力ないな!


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ブックカフェデンオーナーブログ 第176回 2020.01.23

「歩くにしたって限度っちゅうもんがあるだろうに」

半径10メートルのカフェでちょこまか歩いている私でも、アメリ
カに南北の全長3000キロにもおよぶアパラチア山脈というのがあ
って、それが東部と中西部の境目になっているというのは知ってい
ました。
でもそれを全部踏破する「アパラチアン・トレイル」という行為が
あることは知りませんでした。みなさんはご存じでしたか?

しかし、いくら歩くにしたって限度っちゅうもんがあるだろうに。
南のジョージア州から北のメイン州まで3000キロ、もちろん何か月
もかけて山脈に沿って、尾根や山道を歩いていくんですよ。
日本でもいま「トレイル」ばやりのようですが、これはちょっと
ケタ外れの話です。まるで巡礼のような難行苦行、あるいは比叡
山千日回峰行のような修行のようなものではないでしょうか? 
あっそうか、山伏ね。たしかに。

「トレイルズ」(ロバート・ムーア/A&FBOOKs)

副題に「『道』と歩くことの哲学」とあるように、「歩くことを通じ
て、人間の存在と行動の起源に迫る」ということですので、この本
もとうぜん400ページちかい分量となります。
なんで「とうぜん」かは、わからんけど。
長く歩けば歩くほど、ひとは思索的になる、たくさんたくさん考え
てしまう、3000キロも歩けばなおのこと、とうぜん本も分厚くなる。
読むのにだいぶ時間がかかりました。

この筆者は自身で長いトレイルをしながら、「だれがこの道をつく
ったのだろう?」「どうしてそれは存在するのか?」「そもそも道は
なぜあるのか?」などとむやみに問いつつ、さらに、「そもそも動
物はなぜ動くようになったか?」「生物はどのようにして世界を認
識するようになったか?」「なぜ先導する者とあとからついていく
者がいるのか?」などと、思索の深みにズブズブはまっていってし
まうのでした。

ロバート君、あぶないぞ! 
こういう「問い」は、たしかに「人間の存在と行動の起源に迫る問
い」かもしれないけれど、じつは「答えのない問い」であり、「そ
もそも答えがあると期待してはいけない問い」なのだ。
そういう問いにはまるのは、やかんに頭がはまってしまった中国の
少年のように、あるいはフェリーニの映画「道」にはまって何回も
観てなんども泣いてしまうことのように、あぶないことなのだ。

人間、あんまり歩き過ぎるのも考えものです。
というのも、たとえば筆者は、
「蟻塚をつくるシロアリも、木をなぎ倒すゾウも、人の住まなくな
った家に茂るクズの蔓も、あるいは協力しあって草地を踏みならす
羊飼いとヒツジも、すべての生き物は自分の必要に合わせて世界を
つくりかえている」といって、「私たちが自然と呼ぶものは、ほとん
どがこうした小さな変化や適応の結果なのだ」とします。

地球上の生物が、みんなで少しずつこの自然をつくりあげていった。
そんなの当然じゃん、ねえ。筆者は考えすぎて一周360度回って元
の場所に着いたのです。だってNHK番組「昆虫すごいぞ!」のカ
マキリ先生こと香川照之さんも同じこと言ってましたもの。

ただし、いやいや、人間が思う自然は、他の生物が感じる自然とは
違うだろ。だからそのなかで人間があたりまえのように生きている
環境も、それは人間が一方的に思っているだけのことなんだろ。
筆者はそう考えてまた歩き続け、果てない思索を続けるのでした。

ところで話は変わりますが、ソクラテスはこんなことを言ったそう
です。
「(旅に出た)そのままの自分を、よろいをつけたまま一緒に運んで
帰ってきたのでは、なんにもならない」と。
この本のなかでも筆者は、トレイルをつづけながらドンドン持ち物
を少なくしていく種類のミニマリストに出会ってします。

その人はトレイルをするにあたって、「毎年毎年私は持ち物を減らし
て、そのたびに幸せになっている」と言うのです。
つまり彼にとっては、「よろい」を脱いでどんどん身軽になっていく
作業が「トレイル」なんですね。

そこで筆者は、そのようにして荷物を軽くするのは、恐れを捨ててい
くプロセスでもあるのだろうと考えます。
ひとの持ち物それぞれが、怪我や不快さ、退屈、攻撃など、そのひ
との恐れを表わしている。ひとはほんらい、自然の中でなにも持た
ずにいるときが最高に落ち着き、くつろぎ、自分らしくいられる。
それはつまり、環境/モノゴトをあるがままに受け入れられる状態に
あるということなんだ。
彼はそう言うのです。

私はそんな言葉を聞いて、それこそ「人間の存在と行動の起源」だ
ろうし、もしかしてそれをさらに突き詰めると、「思索」をも捨てる
作業ではないだろうか、と考えるにいたりました。
すると「持ち物を捨てるとは」は、人間があたりまえのように生き
ている環境を考え直すプロセスではないのか。世界と裸で向き合う
方法ではないのか。

そしてそれは、「少しずつこの自然をつくりあげていく」ことに参
加する作法のひとつではないのか、だとしたらやはり山伏だ、そう
私は思いつつ、自分の背負っている荷物とカフェを捨ててトレイル
したくなったのでした・・・ンンンッ、と、たぶん、しないか。

ブログ176

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第175回 2020.01.16

「ヒトたるもの歩かなきゃ。歩くように読まなきゃ」

一日中カフェで働くということは、半径10メートルくらいの範囲を
ちょこまかと歩いていることになります。
そんなことではいかん、それでは頭も体も腐ってしまう。私も外に
出て歩かなければ。と、思って読んだのが、

「ウォークス 歩くことの精神史」(レベッカ・ソルニット/左右社)

でした。
これは、ヒトはなぜ二足歩行をはじめたかという生物的なことから、
散歩の文化や都市の遊歩、そして歩行と思索の関係といった哲学的
なことまで網羅した、「歩くこと」じたいをいろいろな角度から360
度全方向から考えた本でした。

まずここにはたくさんの思想家や文学者が登場します。
とりわけ近世のイギリスからは、ワーズワース、ジョン・キーツ、
スチーブンソン、ジェーン・オースチンなど多くいて、彼らは人生
とか生活を「歩くこと」と密接に絡めて考えていた人たちのようで
す。
イギリス人って、歩くことが好きな人たちみたいですね。
ほかにもルソー、キェルケゴール、ソロー、現代人では「路上」の
ケルアックや「ソングライン」のチャトウィンなど多くの哲学者・
思想家のことばが引用されています。

全方向からですからね、錚々たるメンバー構成です。
とりわけルソーなんて、なんせ自称「孤独な散歩者」ですからね。
「これほどよく考えを巡らせて、はつらつとして、多くを経験し、
自分自身であったことは、徒歩で一人旅をしている間だけのことだ
った」、なんてカッコつけて書いているようです。

机の前に座っているより歩いている方が、自然を感じたりしながら
いい考えが浮かんだりする、というのが人の世の習いというもの。
「歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産む。風景を通過す
るにつれ連なっていく思惟の移ろいを歩行は反響させ、その移ろい
を促していく。」きっと、みなさんも同じでしょう。

その点では、巡礼なんかも同様です。
「歩きはじめた巡礼者の知覚する世界にはいくつか変化の兆しが現
れ、それは旅を通じて持続することが多い。時間間隔の変容、研ぎ
澄まされる感性、そして身体と風景の再発見。」
なんて書かれてますね。

少し目線を変えると、現代の「歩く人」、ブルース・チャトウィンは、
「われわれの革命の英雄たちも、十分に歩くまでは何ということの
ない人物だった。チェ・ゲバラの放浪、長征が毛沢東に与えたもの、
出エジプトがモーセに与えたものを考えてみよう」と言ってます。
それは、革命というものが、戦略的に「歩くこと」を必要としたと
いうことだけではなく、革命家がこころのなかで充分に革命を熟成
させ、人々がひとつにまとまるのに必要な時間と行動が、「歩くこ
と」だったということかもしれません。

かくして、筆者の歩くことへの思索はズブズブと深くなっていくの
でしたが、ところで筆者自身は、どちらかというと自然の中や放浪
や長征よりも、街なかの歩行に気持ちが向いているようでした。
それについては、「歩くということは外部に、つまり公共の空間に
いることだ。歴史ある都市ではこの公共空間にも放棄と侵食がおよ
んでいる」とか、「行進と街頭のお祭り騒ぎは、民主主義の示威行
動として好ましい部類に含まれる」とか書いています。

このように、自然の中を歩くか人工の街なかを歩くかの違いが、そ
のひとの思想の違いにも表れるということがあるのです。
街歩きでは、公共空間とか民主主義とかのことばが出てきがちです。
人のつながりとか人間環境とかね。どうしても社会のなかで生きる
個人を考えてしまう。

その点で忘れてならない思想家が、ウォルター・ベンヤミンさん。
1920年代にドイツからパリに来た異邦人であり、ルソーとおなじ
「孤独な散歩者」として街を歩き、ブラブラ歩き専門の「遊歩者
(フラヌール=フラガールではない)」として、「頭を上げずに、も
の思いとためらいが感じられる歩き方」で、人工の街パリの人工の
パサージュ(屋根のある小商店街)を歩きつつ思索を練りあげた。
街中の歩行者は、どちらかというとやや屈折した孤独な近代人とい
うことになりましょうか。

この本では、こうして「歩く」ことについての考察が延々と続き、
筆者は720度回って(ややしつこく書かれている面があるので、二
周しました)、全全全方角(三周しました)からいろんな種類の歩
行と思索をしているので、ご紹介しているときりがありません。
が、ともあれ、多くの思想家の多くの歩行による多くの思考が載っ
ている500ページもあるこの本を、休みなく走るマラソンのように
二時間で一気読みするというのもヤボなことです。

では、と、こういう本を読むにつけては、無理したりせずに「散歩
するように読む」こともありでしょう? 
あちらこちらに立ち止まりながら、遠くの景色を眺めたり、目につ
いた小道に入ってみたり、物陰に隠れている妖精に目をとめたり、
だれかの落とし物を拾ったり、カフェでお茶したりしながら読んで、
そこで小さなことばに出会っていく。
いちおう私はそうしました。
なので、読み終わるのにだいぶ時間がかかりました。

ブログ175

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第174回 2020.01.09

「私たちをボーッとさせる、とんでもない旅路」

世の中には、みずから進んで、あるいはなにかに強いられてやむを
得ず長い旅をする人たちがいて、カフェのような半径10歩くらい
の空間にいる私には、とても信じられない行路がそこに広がってい
ます。

とりわけ、どうしようもない運命に引きずられておこなう必死の旅
は人間の血や汗のにおいまでも感じられ、それが、見たこともない
風景や感じたことのない感情と入り混じって、活字をつうじて私た
ちをボーッとさせるのです。
これも文学というヤツの不思議な力というもので。

「今でなければ いつ」(プリーモ・レーヴィ/朝日新聞社)

第二次大戦末期、ロシアやポーランドからユダヤ人がパルチザンと
なって、ドイツ、オーストリアを経てイタリアのミラノにたどりつ
くまでの長い長い旅路の物語。

彼ら東欧のユダヤ人は、所属していたロシア赤軍からはぐれた者、
ポーランドのゲットーから逃げ出した者、ドイツ軍から隠れていた
者などからなる一隊で、彼らは力をあわせて戦いながら最終目的地
のパレスチナをめざします。
映画「栄光への脱出(エクソダス)」みたいに大がかりなものではな
いし、旅路のほとんどが小さなパルチザン部隊による戦闘です。

ところで、パルチザンの役割は私たち日本人にはなじみの薄いもの
ですが(日本人はパルチザンの経験がない!)、自国において味方の
正規軍とは別行動で、それに先んじて、敵陣に入り込んで破壊工作
やかく乱工作をすることにあります。
サッカーでいえば、だれにも知られずにドンドンとオフサイドをし
て相手ディフェンスをかく乱し、味方がゴールするのをアシストす
るようなものです。

だから「旅路」とはいえ、それはもちろん、もれなく「戦闘」の付
いた「行軍」だし、場合によっては正規軍より危険な任務を遂行す
ることになります。
そしてこのパルチザン一行の走行距離が、なんと2,000キロ以上! 
日本列島でいえば、端から端までのきびしい旅だ。

彼らはソ連軍(赤軍)のドイツ侵攻に先んじてドンドン進み、その
後、ソ連軍の前線に追いこされることでむしろその役割を失ってい
く。オフサイドしていたらいつのまにかゴールを通り越してグラン
ドを出てしまい、なおかつ試合がいつのまにか終っていたようなも
ので、見捨てられ感がハンパない。
しかし彼らも、最後にはなんとか自分たちの目的地のミラノにたど
りついて、さらにそこからパレスチナへの道が暗示されるあたりで
物語は終わります。

とんでもない旅路を読むことになってしまいました。
でも私たち読者は、この長い行軍をスゴイスゴイと感心ばかりして
いてもいられませんのです。
ヨーロッパ各地のユダヤ人がポグロム(抹殺)を逃れて、一人ずつ
少しずつ集り、ワンチームの「部隊」として戦い移動する、それが
いかに大変なことだったかということが、読み進むうちにわかって
くるからです。

部隊の中のロシア系のユダヤ人は、
「ユダヤ人として生きたいものはシベリアへ行け。シベリアが嫌な
ら、それはロシア人でいたいということなのだ。第三の道はない」
と言われて軍隊に入った。

ポーランド系のユダヤ人は、
「(自分たちは)異邦人、ロシア語はだますためにしゃべり、別の
奇妙なことばで考え、キリストを知らずに、わけの分からないバカ
げた掟に従い、ずる賢さだけがとりえで、金持ちだがおくびょうな
ものたち」と、さげすまれてきたと言う。

また自分たちユダヤ人の中も、
「部隊のものたちは、シオニスト(ユダヤ人はパレスチナに帰って
国をつくるべきだとする)だと公言していたが、その傾向は多彩で、
ユダヤナショナリストから正統マルクス主義者、ギリシア正教徒、
無政府主義的平等主義、トルストイ流の大地帰還運動まで」いろい
ろな考えのものがいる。

生まれ育ちも考え方も帰属もやりたいこともバラバラ。
でも周りからは一括でユダヤ人と言われる。
そんな我々はどこに向かったらいいのか?
主人公の一人で部隊のリーダーであるゲダーレは、行軍中に村人か
ら、「あんたたちはどこに行くのか?」と問われて、
「遠くだ。戦争が終わるまでドイツ軍と戦うつもりだ。だがわから
ん。たぶん戦争の後もだ。そして立ち去ることになる。パレスチナ
に行くつもりだ。ヨーロッパにはおれたちの居場所がない」と答え、
そして相手に、「言ってくれ。おれたちはおまえらの客なのか、囚人
なのか?」と尋ねる。

こういうことばを聞くと、どうころんでも彼らの旅に終わりがある
とは思えなくなります。
だって世界のどこにも居場所がないんですから。
そしてパレスチナだって安心安住の居場所ではないのですから。
仮に「神」が「この」戦争を終わらせても、旅は続き、「つぎの」戦
争が「別の」場所で始まる。それは不確かな予感でもなんでもなく、
目の前の現実として部隊のだれでもがわかっていることのようです。

いつでも厳しいなあユダヤ人の旅路は、と私はボーッと考えます。
なんとかポグロムを生き延びたこの作者レーヴィも、結局最後は自
殺だし。

ブログ174

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第173回 2020.01.02

「まっくろで反動でアナーキーな思想と私たちの未来」

もうやめます、はい、もうやめますので、新年早々あと一冊だけ黒
い表紙の新書を紹介させてください。
まずこの本、まっ黒さかげんが尋常ではない。
表紙はもちろん目次や扉もまっ黒で白ヌキ文字、本文の余白も全部
黒。だから余白ではなく「余黒」で、そのためじっさいは読みにく
さもバツグン。まっこと、おめでたい新年にはふさわしくありません。

内容もダークというかブラックというか、とんでもなくワケのわか
らない、しかし、なんかスルーしてはいけない気がして、ああどう
しよう、私にこの本をうまく説明できるでしょうか、いや、とにか
くチャレンジしてみないと・・・ああ、こまった。

「ニック・ランドと新反動主義」(木澤佐登志/星海社新書)

では行きます。新反動主義とはなにか?

近代の進歩主義や道徳観念は行き詰った。
自由や平等も、民主主義も、そして資本主義さえ先が見えない。
「私はもはや『自由』と『民主主義』が両立できるとは信じていな
い(ピーター・ティール)」とまでいう人がいるほどだ。
われわれがいま目の当たりにするのは、西洋の没落、綻びゆくアメ
リカ、国民国家の解体、人新世(新たな地質年代として、人類が地
球の地質や生態系に重大な影響を与えている時代のこと)のはじま
り、そして人類の滅亡への入り口ではないか。

世界の行く末はこんなにもマックロだ。ダース・ベイダーだ。
すると必要なことはなにか? 
新反動主義はまず、民主主義などという名の「大衆迎合的な」シス
テム兼イデオロギーは否定する。というのも、「民主主義は不信の的
となり、市場経済も不平等を拡大している。この二つが格差を生じ
させる原因」だからだ。

必要なのは、人間の生得的な差異や能力に基づいたヒエラルキーに
価値を認めつつ、近代以前の伝統的な文化や価値観に重きを置くこ
とだ。
どういうことか。
ニーチェのいうような「超人」の登場と、それによる統治が望まれ
るということだ。
世界の形態としては、すぐれた人材に率いられた独立した小都市国
家が乱立する政治システムこそが最善なのである。
それら都市国家は、企業的な競争理念によって運営され、ITなど
各種のリテラシーを備えて高度に自立した個人は、そこにおいて、
所属する国家を自由に選択して移動するのだある。

・・・と、こうした考えが「新反動主義」なのでした。
うひゃ。
「反動」の意味、わかりましたかね? すごい過激思想ですよね。
たしかにこれは、アカでもグリーンでもシロでもない、クロです。
個人の自由主義をとことん推し進めようとするリバタリアン(新自
由主義者)たちは、「小さな政府の実現」などの主張をとうに飛び
越えて、「各種のリテラシーを備えて高度に自立した個人」という
超人の登場をとうぜんのことして期待し、彼らがが「自由に移動す
る」という、そんな極北の地点に着地していたのです。
トランプ君もびっくり!

筆者はこれを、ピーター・ティール(ペイパル創業者でトランプ支
持者)、カーティス・ヤーヴィン、ニック・ランドなどの思想と、
「暗黒啓蒙(ほらね、黒でしょ)」「加速主義」などのキーワードに
よって解説してくれます。

私が感じましたのは、もしかしてこの新反動主義は、リバタリアン
思想が一周回ってアナーキーな無政府主義に通じてしまったのでは
ないか?ということでした。
そこんとこ、どうなんでしょうね? だれか教えてください。

書名にも登場していたニック・ランドなんて、
「人間、それは乗り越えられるべき何か、すなわち悩みの種であり、
重荷である」なんて、ひどいこと言うんですよ。
これ、人間不信じゃないですか。高度な知性と多くのリテラシーを
有する者だけが生き残れる、みたいな感じで、愚者や敗者を排除す
る論理じゃないですか。まるで映画「マトリックス」の「設計者」
が言いそうな理屈じゃないですか。

さらに彼は、「『平等』や『国家』は今や『自由』と『個人』にとっ
ての足かせになっていると感じる」とまで言うんですよ。彼らはき
っと、人間の限界を超えたいという欲望に駆られているんだね。

ともあれ、こうした考え方が、現在のネット社会やキャッシュレス
社会を生み出した起業家であるティールやヤーヴィンによって提唱
されてきたということは、きっちり押さえておかねばなりません。
つまりアメリカのシリコンバレーの企業は、GAFAたちが切り開
いた地平の上に乗っかり、そこからさらに新しい、自分たちだけの
経済秩序や世界システムを創ろうとしているからです。

彼らはこう言うでしょう。
現在の政府は要らない。とくにパターナリスティックな権威は要ら
ない。
どんな形であれ、権威や権力を振り回すシステムは、ぼくらには不
要だ。カネもモノもヒトも自由に流通する社会をITやネットワー
クのチカラで創るのだ。そのためにはAI、暗号通貨、ビックデー
タ、ゲノム編集、監視システムなどなど、なんでも利用するぜ。シ
ンギュラリティなんて、もう目の前に来ているのだ、さ、どーだ、
諸君と。

これは大丈夫か? 
新反動主義は、私たちの味方か敵か?
もしかしたら私たちの生を呪う思想ではないか? 
そして、テクノロジーの進歩が加速すればするほど、社会や人間観
のパラダイムを根本から変革するであろうという「加速主義」は、
スター・ウォーズの帝国のように私たちの自由や平和を阻害するの
ではないか? 
これ以外の「未来についてのグランドビジョン」は描けないのか?! 
私たちは、じつは本の表紙と同じで、お先マックロではないのか?
どうするジェダイの騎士たちよ?この「お話」のつづきはあるのか?

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第172回 2019.12.26

「国体ってなに? 天皇ってなに?」

ということで、ほんとにしつこくてすいません、黒い表紙の新書つ
ながりでご紹介しなければならない本として、

「国体論 ~菊と星条旗」(白井 聡/集英社新書)が、あります。

ベタにまっ黒な表紙に白抜きの題名と、なぜかオビの位置に、まる
でオビに書かれる感じでキャッチコピーと筆者の顔写真が印刷され
るという、シンプルなデザイン。
この表紙は、デザイナー原研哉さんによるものでした。さすがです。
インパクト充分です。

でも、あれ? 手元にあるのは第二刷だけど、その後の増刷からは
表紙の色が水色に変わっているぞ。どーしてそんなことしたんだろ
う? 黒表紙新書つながりのこの感想文が、つながらなくなっちゃ
うじゃないか!

それはともかく・・・。
「国体」とはいったいなんでしたっけか?
それはいまの私たちにはよくわからなくなっているが、いわゆる保
守系の方とか右翼系の方にとっては、明確に定義ができるものだっ
たのです。すなわち、
「神に由来する天皇家という王朝が、ただの一度も交代することな
く一貫して統治しているという、他に類を見ない日本国の在り方」
というものです。

いま平成が終わって令和がはじまった。
しかしそれは「国体」の面から見ると、新しい時代が始まったわけ
ではない。統治の基本である天皇家は変わらずに、天皇が変わった
だけだ。
もちろん、戦前だって天皇が直接統治していたわけではなく、天皇
は日本国体の象徴であり、統治は政府が行なっていた。これは、古
くからの天皇(神権)と幕府(俗権)の二重統治構造とまったくお
なじものだった。

と、ここまで、私の理解では、この二重統治構造とは、精神と肉体、
心と金、ハレとケ、権威と権力、それらがイイ感じのバランスを取
っていたということですね。
幕府側としては、じっさいの統治はウチらがやるから、天皇陛下は
民の気持ちをまとめる精神的な支柱でいてね、たまに困ったときに、
ちょっとだけお力を利用させてね、大嘗祭とか即位パレードなんて
そのいいチャンスなんですから、バンザイ三唱でも四唱でもします
んで、そこんとこヨロシク、とそんな感じ。

ところが筆者によれば、その国体はじつは一度崩れて再編されてい
る。じっさいは、一度「交代」しているのだというのです。
どういうことか。
もちろんそれは太平洋戦争の敗戦の時で、GHQによって統治の主
体が変わり、天皇は統治主体としての戦争責任はまぬがれたが、神
から人間となって統治の座から降りることになった。
つまりそれまでの国体は、いちど崩れたのでした。

じゃ、その間だれが統治したか?
もちろん、神に由来しないアメリカ人のコーンパイプをくわえたマ
ッカーサー君が直接統治した。
戦後の何年かは、マッカーサーが「天皇」であり、GHQが「幕府」
だった。つまり、菊に代わって星条旗が国体だった。
日本国民は、ほんらい天皇を敬っているはずの右翼の方々も含めて、
「マッカーサー万歳!」と万歳三唱していた。
つまり、彼を国体として崇めたのだった・・・。

そうそう、私もじつは、おかしいと思っていたんですよ。
天皇中心の国体を大切にする右翼の方々は、本来鬼畜米英みたいな
考えを持っておられると思っていたのに、なんでいまでもアメリカ
を支持し、日米安保体制を支持し、地位協定を認め、場合によって
は米軍基地建設に反対する沖縄の住民に「非国民!」ということば
を投げつけたり暴力をふるったりするんだろうって。

そっか、いっときマッカーサー、というかアメリカが国体だった、
それがDNAに刷り込まれてしまった、だから彼ら右翼の方々はア
メリカ支持、日米安保支持、ついでに嫌中・嫌韓なんですね。

で、かんじんの天皇はどうなったか。
天皇に期待されたのは和解のシンボルの役割だった。和解、すなわ
ち、他の国々との、国内の階級間の、沖縄との、「和解」です。
そしてGHQの占領が終了すると、天皇のお役割はさらに大きくな
り、憲法で規定された「象徴」というよりは、自然(環境や災害)
などへの祈りによる「共同体のまとめ役」を担わされるようになっ
ていった・・・。

ああ、それは重くてつらいお役目でしたね。
昭和天皇も上皇も、さぞかし神経が疲れましたでしょうね。
これから今上天皇もそうでしょうね。「まとめ役」、ほんとうにお疲
れさまです。
即位のパレードなんて、もうキャアキャアいってスマホをかざす見
物の方ばっかりで、アイドルなみの人気でしたもん。テレビで見て
いるこっちも疲れてしまいました。って、見てたのかい!

こうやって天皇家のみなさんも、「国体」から「統合の象徴」へ、そ
して象徴から「アイドル」、「ゆるキャラ」になっていってしまうの
かなあ。あ、失礼なことを言って申し訳ありません。
ただ、当カフェに来る子どもたちも、パレードでのお二人の手の振
り方を真似してましたもん。だからなんだってはなしですけど。
いまはたしかに、そのくらいのほうが「日本という大きな共同体の
まとめ役」にふさわしい立ち位置になるのかもしれません。

なにはともあれ、国体ということばの意味も戦前と戦後で異なり、
戦後に再編され、さらに平成、令和となってこのあともたぶん少し
ずつ変わっていくのだろう、ということがわかりました。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第171回 2019.12.19

「執筆者の心意気と覚悟を感じる、保守と右翼観」

新書で、しかも真っ黒な表紙つながりでいうと、

「『右翼』の戦後史」(安田浩一/講談社現代新書)

を、ご紹介したくなります。
これは、雑誌記者出身のルポライターである筆者が、私たちにあま
りなじみのない「右翼」を、その思想系統や人のつながり系統ごと
に解説した本です。
この表紙がまたまた、目をガーンと打つような、スミ一色のまっく
ろけのけ。

それはともかく、右翼ってどんな人たちでしたかね?
天皇制を支持する方々ですか。戦後の焼け跡をヤクザさんたちと共
に暴力で勝ち残った人たちですか。もしくは政治の裏側でフィクサ
ーとして力を発揮した人たちかな。

私たちは知っているようで知らないことばかりです。
いま右翼の種類もほんとうにさまざまで、宗教右派もいれば新右翼
と呼ばれる団体もあるらしい。ビジネス右翼というのもいるらしい
し、左翼をつぶすだけが生きがいの人たちもいるらしい。
その行動や、主義主張のさまざまな色合いの違いを、きちんとした
取材をもとに、公正な表現でていねいに解説してくれるのが、この
本のいいところでした。
取材の過程ではいろいろと差しさわりやヤバいこともあったでしょ
うね。その意味で、筆者の心意気や覚悟を感じました。

さて、いまはネトウヨ(ネット右翼)という、おもにSNS上で愛
国的で差別的な極端な意見をのべる人たちが注目されています。
彼らは、ことさら嫌韓・嫌中発言をしたり、戦時中の日本軍の虐殺
はなかったと強弁したり、自分と異なる意見を持つひとの誹謗中傷
をしたり、展示会の展示が気に食わないので脅迫しちゃうといった
ひとたちなので、法律でその投稿を規制しようという動きまである
のはみなさんご存じのとおり。

でも「右翼」って、私の理解では差別主義的なひとでもたんに暴力
的なひとでもなく、もともともっと純粋に天皇中心の国体を守った
り、お国のためや虐げられた人々のために身をささげる、理想主義
の人たちだったのじゃなかったかなあ。

戦前には欧米列強に立ち向かい、政府の腐敗と財閥の驕りに憤り、
農村の疲弊に涙して、身を賭してテロに走り、あるいは「民族の触
覚」としての役割を果たしたといわれる「あの人たち」のことじゃ
なかったのかなあ。
頭山満や三島由紀夫がいま生きていたら、いったいどう言うだろう?

筆者も、「嘲笑と冷笑、そしてヘイトスピーチ。差別と偏見をむき
出しに『敵』を次々と発見しては、個別に撃破していく」、そんな、
ネット出自の日本版「極右」が暴れまくっている、と苦々しげに書
くくらいです。ネトウヨ、ちょっと困ります。

ところで単純な質問ですが、右翼と保守は違うのでしょうか?
このへんのところも、私たちにとって、ややボンヤリしています。
ネトウヨは、たしかに「右翼」そのものではないし、いわゆる「保
守的」な団体つまり、自民党と手を組んで政策(国旗国歌法制定、
外国人地方参政権反対、教育基本法改正など)をすすめた、話題の
「日本会議」や日本青年会議所(JC)などとは異なります。

たしかに異なるけれども、私にはやはり、彼らは心情的に同じ根っ
こをもっているように感じられます、ま、ボンヤリと、ですけど。

筆者も、「右翼はきわめて心情的なものである」「他者に対しては排
他的で、復古主義である」とし、また「保守」についても、「保守と
は思想ではなく、生き方の問題である。(本来は)伝統を尊び、時代
の流れに翻弄されることなく、地域や社会につくすことではないの
か」と、現在の右翼と保守の共通する立ち位置に疑問を呈していま
す。

そうだよ、「地域や社会につくす」右翼、昔の清水の次郎長や大前田
栄五郎のような侠客はどこに行ったのか、時代の流れに翻弄されな
い力はどこにあるのか、頭山満や三島由紀夫が生きていたらなんと
・・・などど、ボンヤリ考えてしまいます。

さらに筆者は、「右翼には具体的な設計図が存在しない」とも言いま
す。そこが右翼の特徴なのだと。
彼らには大きな構想がない、その場その場での反応で行動すること
が多い。まるでリアクション芸だ。だから未来予測がない。そこが
いまの日本の右翼の弱点なのだと。

そうそう、「具体的な設計図」という点では、いままさに「改憲」と
いう大きなテーマがありました。
憲法は、いってみれば「未来予想図」ですからね。少なくともここ
だけは、心情的であったり排他的であったりすることなく、また暴
力的であったり差別的であったりすることなく、キッチリと自分た
ちの未来を話し合っていかないと、後世の人から笑われてしまいま
すでしょう。
あいつら、ウヨクかどうかは別にして、バカだったねって。

だから、立場の違うウヨクであってもサヨクであっても、ホシュで
もカクシンでも、アカでもクロでもキイロでも、ネットでもガチリ
アルでも、憲法については同じ舞台で議論しなければなりません。
と、これは、地域と社会につくすつもりの、私ことカフェマスター
の心意気と覚悟(?)でした。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第170回 2019.12.12

「岩波新書の心意気 ~きっと社内に野蛮な編集者がいたな」

私も会社づとめをしていたときは、なににつけても、だれかや何か
に支配されている感触がぬぐえなかったものです。
いまお勤めのみなさまはいかがでしょうか?
上司の命令、組織の論理、会社の使命、会議の空気、社内的立場、
そんなものがいつのまにか自分にとりついて離れない。それは、私
がトップに近い立場になって経営の意思決定をしたりするようにな
っても変わりませんでした。

会社づとめをしていたころは、動物園の動物よろしく、管理飼育さ
れている自覚がなかっただけなのかもしれませんですね。
というか、支配とか管理とかを人事評価とか給与査定ばかりに結び
つけて考たり、人事とか組織という便利な「システム」に乗っかっ
て、それを利用しつつもちょっとだけ不平不満を言って気を紛らわ
せていたのかもしれません。

じゃあ、会社づとめをやめてカフェという自営業をしているいまは
どうか? 支配されてる感はなくなったか?
やっぱりダメなんです。おなじなんです。
組織という形態からは「自由」になったけれども、もっと大きな社
会とか法律とかテクノロジーとかに支配される。

たとえば特定秘密保護法にビビリ、安保法制に青ざめ、原発再稼動
の論理に驚愕し、共謀罪で息が詰まり、ああ、マイナンバーなんて
ものもあったよなあ、と久しぶりに思い出す。
これらのできごとは、会社づとめであろうと自営業であろうと年金
ぐらしであろうとだれにも共通する、「支配されている感」を実感
する瞬間かもしれません。

それでもって、あれっ、香港で起こっていることって、じつは私た
ちに起きていることの延長線なのじゃない?と思ったりする。
いまごろ気がついたのかねと言われればそれまでですけど、森本さ
んの言うように、私は根本的なところまで考えがいたらない「正統
になりかわるつもりのない異端(非正統)」なのかもしれない、こ
のごろはそう思うようになりました。
でもそれだけではくやしいので、こんな本のご紹介を。

「アナキズム」(栗原 康/岩波新書)

まずは岩波新書編集部と岩波書店に敬意を表しましょう。
なぜって、この著者でこういうタイトルと内容の本を出すのですか
ら、その勇気に感服です。表紙もまっ黒けのけのけ。
新書だからこんな過激なことができたのでしょうか? 社内にアナ
ーキーで野蛮で乱暴力のある編集者がいたんでしょうか?

まずは筆者の文章です。たとえばフランスで起きたデモと暴動(黄
色ジャケットの)については、
「もはや経済がどうこうとか、よりよい労働をとか、そういうはな
しじゃない。もちろん貧乏人がコケにされているこのクソみたいな
社会にクソッたれってのはあるんだろうけど、ちょっとばかし仕事
をもらったって、ちょっとばかしカネをもらったって、だまりゃし
ないぞっていう気持ちがにじみでている。なめんじゃねえぞ!って
ね」、、、と、こんな文章が続くのです。

ここはじつは、まだ比較的穏便な表現のところを引用したのです。
なかにはもっと露骨な表現があるし、四文字表現もたくさんありま
す。ですから、よい子はマネしないでくださいね。

章や節の見出しの表現にしてからが、たとえば、「おまえはおまえ
の踊りを踊っているか?」「やられなくてもやりかえせ」「クリエ
イティブはぶちこわせなのでございます」「自分をなめるな、人間
をなめるな」「ダンスもできない革命ならば、そんな革命はいらな
い」。こんな感じで続くんですからね。
格調を重んじる天下の岩波書店の本でですよー。すごいでしょ!
えらいでしょ、よくやるでしょ! 
とはいえ、そんなところばかり褒めていないで、内容をきちんと
ご紹介しないといけないですよね。

まずアナキズムとはなにか?ということから。 
以前にもご紹介しましたが、念のためもういちどここでは、
「アナキズムとは、『支配されない状態』をめざすことだ」と、ひと
ことでいっておきます。それは究極の自由を求めること。
はい、以上、おわり。簡単ですね。だから試験には出ません。

そのうえで筆者は、
「いまは自由で民主主義的な社会であるはずなのに、なぜ私たちは
自由と感じられないのか? 息苦しいほどに束縛を感じてしまうの
はなぜか?」と、こうたたみかけ、そして「なにものにも縛られな
いためにはどうするか」と読者に問いかけてくるのです。

〇〇主義にたいして××主義で対抗できれば、まだ束縛への反抗の
しがいがある。しかしいまは、そうした立ち位置の「軸」がない。
私たちは、どうしていいかわからないままにヤバイことに対して黙
って傍観してると、権力や組織というものはそのスキに自己増殖し
ていき、それに飲み込まれていく。
それは政治にかぎらず、ビジネスでもどこでもおなじだ。

そんななかで、なにかを絶対に正しいなどと主張する奴らは、新た
な権力を打ち立てようとしているだけなのだ。
そんなの意味がないではないか。
たとえば、環境問題だってそうだ。
「エコ、エコって言ってる連中ってのは、それがぜったいにただし
いっておもっているぶんだけ、使命感がつよいんだ。マジこわい。」

いっぽう、現実にはたしかに自由が少なくなっている。
そして権力による縛りが強くなっている気がする。

では、どうする? 支配されない状態をめざすには?
大事なのは、
「いつだって、なんどだって、これがただしいっていわれている生
きかたをぶちこわすことができるかどうか。あたらしい生をつかみ
とれるかどうか。たとえ、それが予想外の結果をもたらしたり、マ
ジっすか、それ大失敗じゃんってなっちまったりしたとしてもね。
かまわずやれ」ということなのだ。

筆者はこんなメッセージ、というか檄、というかラップをガンガン
飛ばしまくります、四文字ことばも連発して。
ひとはもっと野蛮に生き、暴走し、気まぐれし、わがままを言わな
ければいけないぞ、そしてまずったらトンズラすればいい。それが
たとえまちがっていたとしても、その過激さこそが人間の可能性の
幅をひろげてきたのだ。それが「歴史」だ。まちがっても権力やシ
ステムにのみ込まれておとなしい奴隷になるな!と。

そういえば沖仲士の哲学者エリック・ホッファーも、「自由に適さ
ない人々は権力による支配を渇望し、そうでない人々は、放ってお
いてくれ、そうすれば私は成長し、学び、能力を発揮できると言う
だろう」、てなことを言っていました。
彼もまた自由を愛する哲学者でしたね。

私たちは、権力の支配のおよばない場所でちょっとだけ野蛮なおこ
ないをすることで、すこしだけ自分たちの可能性を広げることがで
きるのです。
そっか、いまからでも遅くないかな、できあいのシステムからはぐ
れて、野蛮に暴走するには。シニアになったからこそできる野蛮と
かアナーキーとか、あるよなきっと。
岩波書店編集部のなかにこんな本の企画を通す自由な野蛮人がいる
のなら、ブックカフェにも野蛮人オーナーがいてもいいんじゃない
か?

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第169回 2019.12.05

「正統か異端か、正統か非正統か、それが問題だ」

当カフェの本棚にも、多くの新書が鎮座しています。
そういえば、新書という本の形態は日本だけのものでしょうか?
いや、そんなことはないですよね、版型としてはペンギンブックス
などに近いペーパーバックですし。もともとそちらのほうが、手軽
に安く買える本の本家だったのですものね。

でも日本には小説メインの文庫という形態もあるし、それとは別に
こんなにも多くの版元が競って〇〇新書という啓発書のシリーズを
出している国は、ほかにないんじゃないでしょうか。
ちなみに世界で最初の「文庫本」は、1501年にヴェネチィアでマヌ
ツィオ印刷所というところが、八つ折のコデックスというものを刊
行したのを嚆矢とすると、内田洋子さんの受け売りをさせてもらっ
ておきます。

そんな手軽な新書の中に、いまの自分の関心にピッタリとフィット
する内容にブチあたったりすると、ものすごく得をした気分になる
ものですよね。
800円(税抜き)で、お宝本見つけたぞ!って。

「異端の時代」(森本あんり/岩波書店)

はい、これはそんな意味で嬉しい本でした。

著者は国際基督教大学(ICU)の先生。
以前に出された「反知性主義(新潮選書)」(この「選書」という形
態と版型は日本独自のものでしょうか?)も、アメリカのピューリ
タン的な宗教感覚を中心に、キリスト教原理主義と反知性主義が政
治や生活にどう影響しているのかをわかりやすく解説してくれてい
ました。

今回はその続編ということでもないでしょうが、「知性と反知性」に
代わって「正統と異端」の関係をさぐっていきます。そして、じつ
にいまはその両方ともないのであって、とりわけ「非正統」はある
が「異端」はないのである、と主張するのです。
正統と非正統と異端? ややこしやー、ややこしやー、それはいっ
たいどういうことなのか?

本の前半で著者は、正統とは異端によって時間をかけて作られてい
くものだと述べます。
たとえば「正典(聖書のようなもの)」があったとしても、「正典は、
人々の間ですでに正統となっているものを反映する時にのみ、権威
をもつ」。だから、「正統と異端」ができて、そのあとで「正典」や
「教義」が徐々に整備されていくものなのだ。
正統は作ろうとしてつくれるものではなく、「正統は、それ自身で
は定義されえず、その容れ物を示すことによってしか特定できない
内容をもつ」のである、として様々な例証を上げるのです。

おわかりになりますでしょうか?
「正統」は容れ物であり、そこに入りきれないものを「異端」とし
て外部にオミットすることで、容れ物の形が明確になるというので
す。
んまあ、これは、ことばが先で意味は後でつくみたいなことをおっ
しゃっているのかなと理解できたとしても、こんな決めつけは、キ
リスト教、とくにカトリック的には問題ないのかなあ。だって、カ
トリック(正統)は、異端によって出来上がってきたって言ってい
るようなものじゃないですか?

つづけましょう。
ではたとえば憲法はどうか。その正統性はどこで保証されるのか。
筆者は「単に憲法が制定されていることと、それが人びとの間で広
く承認され尊重されていることとは別」でしょ、といいます。
つまり、その憲法が正統だという「権威」は人々の承認によって保
証されるのであると。さらにそれは本来、異端的な異論との闘いの
中で獲得されるはずのものだと。

ただしいまは、本来の権威ある正統(多くの人に承認された容れ物)
がなくなり、したがって異端もなりつつある。
「背景としての正統の消失に付随して、異端もまた明確な輪郭をも
つことが難しくなる」。
ようは、正統がなければ異端もなくなる。たとえばカトリックが弱
くなれば、異端も出てこない。おなじように憲法が権威を失うこと
で、「まっとうな」異論も力を失う。そして、たんに反対のための
反対である「非正統」が増える、と、こうおっしゃるのです。

けっきょく、いま世間にみられる異端は、「『正統になりかわる』な
どという骨の折れる仕事はしたくない」が、批判する側には身を置
きたいという「なんちゃって異端」なのである。
そういうなんちゃって異端の人々は、「批判することの代償を自分で
は払わない」のだ。無責任な言いっぱなしをするのだと。

また、「権力の座にある者に絶えず暴言を浴びせ、目上の立場にある
者を執拗に攻撃するという『御上(おかみ)たたき』は、やはり不
健全でいびつな権力観をあらわしている。」
そして、「(それまで正統とされてきた)体制を批判し、腐敗の刷新
を叫ぶ改革者もまた、自分一人ではあたらしい流れをつくることが
できない」で、正統も異端もどちらも、明確な権威を持てなくなっ
ているのだ。
(「これではまるでどこかの国の野党のようだ」「いまの与党は一強
なだけで、正統とはいえない」・・・とまでは著者は言っていません
が、読者がそう感じたとしても不思議ではない書き方をしています)

それならば、では、多くの国民の意見を吸い上げるポピュリズムは
どうか。
「ポピュリズムは一般市民に『正統性』の意識を抱かせ、それを堪
能する機会を与えているのである。人びとは、匿名であるままに、
みずからを安全な立場に置いた上で、この正統性意識を堪能するこ
とができる。」
プハーッ、うまい、この歯切れよくのど越しのいいスーパードライ
なおことば! クーッ、久々にしびれました。

そういえば著者は、前著「反知性主義」でも、
「必要なのは、単に現行の秩序の上と下を入れ替えるのではなく、
別の秩序でそれをぶっつぶす力である。自分も属しているその同じ
価値序列の上下をひっくり返すだけなら、それは単なるルサンチマ
ンの表出にすぎない。そうではなく、別の座標軸に立って新しい視
点を示す」ことが重要だと言っていました。

著者の問題意識はここでも変わらず、われわれは新しい視点に立っ
て新しい正統を作る努力をすべきであり、その方策をきちんと探す
べきだとし、そのために反知性主義を排すのです。
これは憲法改正問題とその議論のしかたに、きちんと反映させたい
主張だと思いました。

どうせ憲法改正を議論するなら、たんに現状追認(いまある自衛隊
を憲法で保証してあげようよ的な)をめざす「なんちゃって改正」
ではなく、きちんと「新しい異端」をつくる気概をもって議論しろ。
筆者はこう力強くプッシュなさるのです。

ブログ169

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第168回 2019.11.28

「雑、それは価値観の転換をはかるヒント」

当ブックカフェには、雑誌は少ないものの、種々雑多な本と、お客
さまがつくられた雑貨が雑然と並べられています。そこでは、雑な
性格で雑念ばかりのマスター(私)が、雑用をこなしている。

こうならべてみると、「雑」はマイナスイメージの強いことばです。
が、いやいやトンデモナイ、これから必要なのはそういう「雑」の
精神なのだ、じつは「雑」は強いのだ、雑草を見よ、踏まれても強
いだろう?「雑」な人間ほどイジメにも呪いにも負けないのだ、だ
から「雑」の価値観をもっと尊ぼうじゃないか、というのが、

「雑の思想」 (高橋源一郎/辻信一/大月書店)
「弱さの思想」(同)

の、お二人の主張でした。
ではそのお考えをちょっと聞いてみましょうか。

現代社会では、雑とか粗雑とか複雑とかが避けられている。
議論ではスッキリした論理とハッキリした証拠を提示しつつ相手を
論破せねばならない。部屋も仕事場も頭の中も整理整頓して、きれ
いにしておかねばならない。また、仕事でも生活でも自分の行動は
つねに説明できるようにし、コスパを優先して、生産性や効率性と
いったキレイな経済性を重視すべきとされる。

私たちはこのように、できるだけ粗雑や複雑さやあいまいさを排し
ていくことで他人との的確なコミュニケーションをとることができ、
理解を得られやすくなるのだ。
だから、ビジネスであれ政治であれ、いつでもどこでも通じる汎用
性あるわかりやすい価値観によって行動することが、もっとも効果
的な戦術なのである。それこそが予測しにくい世の中で確実に生き
るための強さであり、勝ち組になる秘訣なのだと。

たしかに、言われるとおりかもしれない。
しかしそのような近代合理主義的な思考は、ある意味、自分自身に
かけた「呪い」となって行き詰まりつつあるのではないか?
自分らしく生きるには他人との勝負に勝たなければならないと思い
込み(思い込まされ)、そのためには合理性や経済性が必要だと思
い込む(思い込まされる)ことは、現代人が自分で自分にかけた強
い呪いなのではないか?

だとすれば、私たちはそのような考え方から抜け出す時期ではない
だろうか。
もしかしたらいまは逆に、雑さや弱さが必要なのではないか?
複雑性とか非効率とか不便益とかが必要になっているのではないか? 

たとえば、あまりに清潔な環境を求めすぎて、逆に子供たちがアレ
ルギーとかひ弱になっていることは、なにかを示唆していないか?
学校や会社でもひとつの正解を求めすぎて、ひとの考えが硬直化し
てることはないか? ことばでは多様性をいいながらそのじつ、純
粋さへの信仰を固く守っていないか? だれもが説明責任を言い、
自己責任をあげつらい過ぎてはいないか?
明確さや効率や便利を求めすぎて、だれかが考えたアルゴリズムに
頼りすぎていないか?
 
雑草や雑木を見よ! 雑菌や雑穀を見よ! 雑種を見よ!
雑だからこそ生命力が強いのだ。雑は非効率だが多様性をもつのだ。
南方熊楠を聴け! 彼は体系を嫌い、あまりに整然とした分類を避
け、世界の混沌をそのまま受け取ろうとした。
吉本隆明を聴け! 彼も「だいたいで、いいじゃない」と言ってる。
鶴見俊輔を聴け! 彼のいう「プラグマティズム」とは、なにもの
も型にはめない「非原理主義」的な生き方のことだった。 

・・・お二人は(だいたい)このように述べます(一部にわたしの
個人的意見とつたない表現が混じっていることをご容赦ください)。
そのうえで高橋源一郎さんは、
「雑とは自由であること、予断をもたないこと、自由に動きまわれ
ることを意味しています」といいます。
なんかカッコイイ思想ではありませんか! ザッツ(雑)思想だ。
体系ではなく混沌、直でなく複、強さではなく弱さ、そのように価
値観の転換をはかることで解決される問題があるとすれば、「雑」も、
現代社会の呪いの解除法として有効に使えるかもしれません。

さて、ここでは特別なまとめなどございませんが、、、、
どうぞみなさま、雑然とした私どものカフェに雑談をしに来ていた
だければ、だれにとっても役に立たない、ムダだけれども呪いのか
かっていない、ドブ川に気持ちよく捨てることのできる、雑な時間
がお過ごしいただけるものと存じます。
雑駁ですがこれにて今回の雑文を終わらせていただきます。

 

ブログ168

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第167回 2019.11.21

「ふだんの生活をなにげに祝福してる人」

どういうことばや態度が「呪い」の反対の「祝福」になるのか、い
まいち具体的にわからないのでもう少し突っ込んでみないか、どう
せカフェはヒマなんだろうから、とおっしゃるあなたへ。

「ステキな奥さん ①ぶはっ/②あはっ/③うぷぷっ」
                 (伊藤理佐/朝日新聞出版)

の三冊を、おすすめいたします。
これは朝日新聞に連載されているエッセイをまとめたもので、ここ
にあるのは、リサさん(筆者)による、ふだんの生活のなかでの自
分や家族への祝福でした。
と私は感じました。はい。そしてさらには、他人や動物やモノやデ
キゴトや、つまり生活そのものへの祝福が綴られていると。はい。

どこにそれを感じたかというと、たとえば「家族のなかでも言って
はいけないこと」というのがある、とリサさんは言います。
それは「ダンナさんの運転に酔う」こと。
たとえ本当のことであっても、ダンナさんを小さく傷つけたり縛っ
たりするので、軽い気持ちであってもあえて言わないというのです。
とってもカンタンな注意、祝福の入り口、日常生活のちいさな知恵
だと思いました。

またたとえば、逆に「リサって、ジャンケン弱いね」と言われたあ
とのリサさんの反応も参考にしてみましょうか。
これって本当をいえば、「あなたは持っている運が少ない」みたい
な、「大切なものを否定された」気がすることばのはずです。つまり
大げさにいえば、近しいひとからの呪いのことばかもしれない。
ほかにも、「いつも味噌汁しょっぱいね」とか「太ったね」も「あ
なたの運転には酔う」も、もちろんおなじ危険をはらんだおことば
です。

でも、そうした、生活のなかでなにげに言われる「呪い」に育ちか
ねない発言を、筆者はきちんと自分のなかで「呪い」とは別に分別
して処理していきます。
ジャンケン弱い、「そだねー」と。太ったね、「そだねー」と。

別のエピソードにもその「処理」のしかたが述べられています。
ムスメの登校時間に家の前の横断歩道に「PTAバトロール隊」と
いう黄色い腕章をつけて立っていると、あるオジサマから「イトウ
さん、あなたは横断歩道が似合っている」と言われ、みんなに笑わ
れる。

しかし筆者は「何かが落ちた。見たら『腑』だった」と(良いほう
に)納得し、似合っているならばいたしかたあるまい、と考えて今
日も黄色い腕章をつけて立っている。
これこそがりっぱな、そして大人な、かつ太っ腹な身の処し方であ
り、世間に蔓延する呪い(もしくはその芽)を適切に処理する仕方
ではないでしょうか。

フフフ、そう言われるならばいたしかたあるまい、ま、そうかもし
らん、はい、確かにジャンケン弱いです、それがなにか? と軽い
フットワークでかわしていく。
同じようなことで、たとえば仲の良いオトナ女子の間には「ドブ川
に捨てる力」というのがあると書かれています。
それはどういう「力」かというと、嫉妬や妬みや悪口などの本音や
失言を二人の間ではいくら吐いても大丈夫という状態です。
会話のなかに危ないことばが出ても、二人ともそれをあまり真剣に
受けとめすぎずに「軽くよける」。
というか、流して捨てる。

すると、二人の間でたとえ「呪い」に育ちそうな危険なことばが飛
び交ったとしてもすぐに流されてしまうので、
「いつもありがとう、受けとめてくれなくて」
「こちらこそ、ドブ川に捨ててくれてサンキュー」
と大人の会話ができる関係になっている、らしい。いいじゃないで
すか!
筆者はこの天然由来の「ドブ川に捨てる力」を豊富に持つことで、
「のろい」を寄せつけない「よろい」を身につけているのです。

さて、ここまでは「呪い」のよけ方に関する話でしたが、そんな力
を持っている筆者には、「許したってぇ~」サンという不思議な人物
がでてくるらしい。
私は、この「許したってぇ~」サンというのが、なぜか祝福に関係
する重要人物のような気がして、特別にご紹介したかったのでした。

「いつ、わたしのところへやってきたのか、それともずっとわたし
の心の中に住んでいたのか」、それはわからないが、この「許した
ってぇ~」サン(たぶん関西の人)は、使い切った歯磨き粉のチュ
ーブを「グイグイ絞っているときに」やってくる。
ギュウとやっていると、「も、もう、許したってぇ~」と現れる。
「いやいや、まだまだ」とハサミでチューブを切って歯ブラシをゴ
シゴシ突っ込むと、「ゆ、許したってぇ~」と、さっきよりせつない
声を出す。それだけのひと。

えーと、これはどういう理由で祝福に関係していると思ったのか、
よくわかりませんが、、、なんとなくこの「許したってぇ~」サンが、
筆者の中で悪いものを「ドブ川に捨てる」担当であり、呪いの芽を
祝福に転じる切り換え役のような気がしたのでした。
ちがうかな。ちがうな。

それはともかく、たぶんこうした筆者の「生活に向き合う姿勢」は、
とくだん自分や相手を祝福しようと意識することなく、人と人や、
人とモノの関係を自然に整えていくことに気持ちを割き、それに役
立つことばや感じ方を自然に選び取ってきたからこそできあがった
ものではないかと思いました。

そうだとすれば、これはほんとうにだれにも必要な、「伸ばすべき」
能力と姿勢ですよね。英語を聴き取ったり話す能力の前に、学校で
先生が生徒に教えるべきものですよね。
そうだそうだ、人やものごとを幸せな方向に解釈して整えていく努
力ができることは、そりゃもうたいしたことなのだ、カフェでも見
習おう、と思う、すっかり呪い問題を解決した気になったマスター
でした。

 

ブログ167

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第166回 2019.11.14

「まだまだ奥深い、呪いの世界」

さて、当カフェで呪いが横行しているわけではありませんが、よの
なか的にはさまざまな呪いが蔓延しているように見えます。
たまたま、お若いお客さんの悩みを聴くことがあると、けっこうな
確率で「これは周囲からの呪いが関係してるな」と思われるものが
ありました。みなさん呪いに悩まされているみたい。
そこでこれまで何人かの先人から、そうした他者からの呪いを解く
方法を教わってきたのでした。

ところが、他者からではなく自分で自分にかけた呪いというのがあ
って、それは解くのがたいへん難しいといわれています。
評論家の内田樹(たつる)さんも、
「この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にか
けた呪いは誰にも解除することができない」と言っていますね。

「分で自分にかけた呪い」とは、どういうものか。
たとえば自己評価がとても低く、なににつけても自分が悪いんだ、
自分のせいなんだと思ってしまう「自己嫌悪」も、自分にかける呪
いの一種ですね。
若い頃にはわかりませんでしたけど、これがけっこう根深くて始末
に困るわけで、自分の経験からも自己嫌悪の解除は難しく時間もか
かる作業です(現在進行形)。

もうひとつ、だれか他人に呪いをかけているひとは、逆に自分で自
分に呪いをかけているといえるかもしれません。
他人を縛ろうという気持ちが自分に返ってきて、自分を縛りつける。
そのように逆方向で自分に呪いをかけるひとは、それを愛だとかそ
れゆえの怒りだとか、なんとも身勝手な理屈をつけている。
でも、それは生きる方法としてやるせないというか、迷路で袋小路
に陥っているネズミのような生き方ではないでしょうか。

「呪いの時代」(内田 樹/新潮社)

他人への呪いは自分に向かう。
この本で内田さんは、それを出発点にしてさらに視野を広げて呪い
を考えていきます。
「弱者たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、被害者たちは償いを
求めて呪いの言葉を吐き、正義の人たちは公正な社会の実現を求め
て呪いの言葉を吐く。けれども彼らはそれらのことばが他者のみな
らず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまり
に無自覚」だ、と述べるのです。

すると、世の中にあふれる嫉妬や恨みつらみは、下手をするとすべ
て自分に呪いをかけるタネ/ネタになってしまう。
それが嵩じると、たとえば「ネット上では相手を傷つける能力、相
手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われている」よ
うになり、その作業に勤しむひとは、自分に呪いをかける競争をし
ているようなものなのだ。

そう考えると、ネット上で毒をまきちらすひとばかりでなく、国会
の論戦やマスコミを交えた非難合戦もそう見えてきちゃう。
国と国の間では日韓や米中も同じく、呪いのかけあいをすることで
自分を縛っていることになりそうです。
そうなると、
「呪いは破壊することをめざすので、10年かけて築き上げた信頼関
係でも、(呪いによって)壊すのはわずか10秒で十分」ということ
になります。呪いが自分自身に向かい、自分たちを壊すまでいく。

こうして、世の中になんとも残念な状況ができあがってしまうとい
うのですが、とりいそぎ私は内田さんの主旨を了解しました。
でも、じゃあ、具体的にはどうしろというのでしょうか?

内田さんいわく、呪いの反対は「祝福」だ。
私たちは他人を祝福し、もって自分を祝福しなければならない。
それには「生身の、あまりパッとしないこの『正味の自分』をこそ、
真の主体として維持すること」だ。まずはそのように自分を受容し、
そうすれば他人を祝福することができる。そういう連環で他人と自
分を承認して生きることが「自分を祝福する」ことになる。
こうして自分を祝福できるひとは、他人に呪いをかけるヒマなどな
い。これが呪いの蔓延するこの社会を生きる方法なのだ。

そっか。そうでしたか。呪いの反対をすればいいのでしたか。
まず自分を受け容れる。そして相手を祝福する基盤をつくる。相手
の力を奪うのではなく力づけるようにする。するとそれがグルッと
自分にもどってきて、自分をなにかの束縛から自由にし、生きる力
を高めてくれる。
なんか一周まわって元の場所にきちゃったような気もしますが、ま、
いいでしょう、これがよく生きるための好循環を創る作業なのだと
考えて、ここから始めましょう。

では、好循環を苦心する「祝福のことば」にはどんなものがあるの
でしょうか?
私なりに考えてみたのですが、まずはたとえば「希望」「感謝」「信
頼」「安心」などを相手に手渡すことができることば、そういう種
類のものだろうと思われました。それは相手がくつろげて、自身の
力を感じられて、可能性に気づくような表現。
「お手柄!」「いい仕事した!」と褒めるのもそうでしょうし、「お
かげさまで」「ありがとう」もそうでしょう。また、「だいじょうぶ」
とか「抱え込むなよ」なども、使い方とタイミングを間違えなけれ
ばいいのかもしれません。

まずはありのままの自分を受け容れ、自分がまずくつろぎ、恨みつ
らみを捨て去り、虚心に世界と向き合い、暖かい心を紡ぎ、上機嫌
に、目の前の相手に祝福のことばを贈ることが必要だ。
みなさん、わかりましたね? 
はいっ!(祝福のためのいいお返事)

ブログ166

 

ブックカフェデンオーナーブログ第165回 2019.11.07

「呪いの怖さと奥深さと解除の方法と」

呪いのなかでもいちばん多く身近なケースというのが、親から子ど
もへの呪いかもしれません。
じつに、ふうちゃんもやっくんも(もう思い出しました?)、そうし
た親からの呪いに縛られ、自分を受け容れられなくなり、その状態
からの脱出にもがいていたのでした。

とするとひるがえって、私たち自身も、気がつかずに身内に呪いを
かけたりしているかもしれません。
私も、子どもにではなく逆に、老いて弱った親にかけている呪いが
あるかもしれません。あぶないあぶない。
だから、呪いなんて他人事だなんて言わずに、先輩方の経験を参考
にもうすこし考えてみましょう。

「根を持つこと 翼をもつこと」(田口ランディ/晶文社)

筆者のランディさんは、「人を呪うのなんて簡単ですよ」「繰り返し、
言葉に出せばいいんです」という秋山真人さんという方のことばを
きっかけに、呪いについて考えていきます。

まず、呪いとは、「呪ってやるーっ」「死んで祟ってやるー」「店を
つぶしてやるっ!」なんて力んで、丑三つ時に藁人形に五寸クギを
打ち込まなくてもいいんだって。
そんなに力まなくてもよい。呪うのはもっと簡単。
会うたびにその人に対して、たとえば「大丈夫ですかあ? 体調悪
くないですかあ? ちょっと顔色悪いですよ」と親切がましく言い
続ければいい。
すると相手は本当に気にしはじめて、やがてほんとうに体調を崩し
てしまう。のだ、そうです。

つまり呪いというのは、「てめえを、のろって、やるーっ!」と
強いパワーで意識的にされるよりも(それはそれでもちろん怖いで
すが)、むしろ、ふだんの会話の中でふつうのことばで日常的にお
こなわれることが多い、のだと。
しかもその多くは無意識的になされる、のだと。

だから身内からの呪いは繰り返されるがゆえによけいタチが悪いし、
電話でセールスの方からかけられるたまの呪いなんかよりいっそう
恐ろしい。
なぜなら、受ける側はそれが呪いとは気がつかないからです。
かつ、かける側も自分が呪いをかけているとは思わないからです。
身内ですから、とうぜんすべて愛情のもとに言っているのだと思い
込んでいるからです。受ける側も、愛情がゆえに言われているのだ
と思い込むからです。
つまり、双方ともに気づきにくい。

ランディさんいわく、「もともと呪いとは、相手を縛ってがんじが
らめにして生気を奪いとること」なのだと。そう、やっくんやふう
ちゃんが親から毎日受けたのがこれでした。
「あなたのためだから」「そんなことしたらあなたはダメになる」
「がんばればなんとかなるさ」「お願いだから私のことをわかって」
などと、ふつうに優しいことばをくりかえしくりかえし反復してか
けられることで、ひとは縛られていく。

つまり、「(多くの)呪いの目的は相手を遠ざけるためではなくて、
相手を縛るためなので、呪いを操る者は必ず相手の側にいる」の
です。
つまり呪いをかけるのはだいたいが近しい親しいひとで、そのひと
は「相手を縛りながら実は自らをも縛るのだ」ということらしい。
それこそが「愛情」だと思っている。双方ともそう思っている。
それは、DVよりもいっそう見えにくく怖いかもしれませんね。
父親や母親からのこんな「愛情」あることばが、呪いとなって子ど
もから生気を奪うことのなんと多いことか。

では、この呪いをどう解くか?
まずは前回同様に、相手が自分を縛って思うがままに動かそうとし
ているかどうかの見極めをつけることがたいせつ。気づくのは難し
いかもしれないけど、それができたら半分解いたも同然。
そのあとは、「言葉には言葉」で対抗するのが有効だそうです。
つまり、術にはまったかなと感じたときの解除の方法は、「自分が
信じていることを言う」、それも「声に出して」、だそうです。

どういうふうにか?
たとえばランディさんは、相手のことばに呪いを感じて、いかん、
この呪いは解かねばならんと思って、教えられたように自分が一番
信じていることばはなにかと考えて、とっさに「レット・イット・
ビー」を思いついた。それを言葉に出して、さらには歌っちゃって、
するとなんとなく気持ちがスッキリして、それで呪いは解除できた
みたい。

ほーっ、なるほどそういうテクがあるのですね。わかりました。
そうした比較的軽い呪いに対しては、あらかじめ自分が好きなこと
ばや信じていることばを用意しておく手はありそうですね。
「なんちゃって」でも「ケセラセラ」でもいい。もちろん「南無阿
弥陀仏」でもいいし、「オンマニペメフン」でもいい。
あ、そうか、短い念仏って、人生にかけられたいろいろな呪いを解
くために用意されたのかもしれません。いまごろ気がついた。

そういえば、邪気払いにつかう九字真法の「臨・兵・闘・者・皆・
陣・烈・在・前」も、それを唱えながら手を刀のようにして空を切
る作法とともに、お祓いの工夫だったのか、そっか。
いまごろ気がついたけど。なんか納得した。

私だったらなにかな? 自分が信じていることばってなにかな? 
やっぱり植木等「スーダラ節」かな。ことばだけでなく大きな声で
歌えちゃうという決定的な利点もあるしですね。
「♪わかっちゃいるけど、やめられないっと、ホレ、スィースィー
スーダララッタ、スラスラスイスイスイーッと♪」 
これで私にかけられた呪いは解かれ、祝福される。

ブログ165


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第164回 2019.10.30

「呪いを解く切り返しとは」

カフェのような自営業をしていると、日中さかんに売り込みの電話
がかかってきます。
何々をお買いになりませんか、電気とガスを一緒に契約するとお得
です、いまお使いの○○回線を代えませんか、ナントカビューでお
店の中の紹介をして集客しませんか、いま近所にいるのですが家の
外壁を直しませんかなどなど、とても頻繁に。

それにたいして穏便に対応できているうちはいいのですが、相手が
しつこかったり、こちらのご機嫌が芳しくなかったりするときもご
ざいます。
ややいい加減に「間に合ってます」とか「ハイハイ、またね」とか
ぶっきらぼうに対応すると、それまでやさしいお声だったお相手が、
「フンッ、お前の店なんかそのうちつぶれるかんなー」とお捨て台
詞をお吐きになられ、ブチッとお電話をお切りになることもござい
ます。

すると私は受話器を握ったまま、考え込むのです。
私はなにか悪いことをしたのだろうか。相手さまに失礼なことを申
しあげただろうか。そのせいで相手さまを怒らせ、ひいてはわがカ
フェの経営が危機に立たされるのだろうか。この先どうしたらいい
のだろう。どうすれば相手さまの怒りを解き、カフェもつぶれずに
すむだろうか、と。

・・・で、また、ハタと正気に戻るのです。
「つぶれるかんなー」というのは、神様のご託宣でも確かな予言で
もなく「呪いのことば」なのだ。私はそのことばに惑わされ、眩ま
され、いっとき信じ込み、みずからの行動が招いた結果だと思い込
まされてしまったのだ。
なるほど、すると私にはこういう本が必要なのだ。 

「呪いの解き方」(上西充子/晶文社)

呪いのことばを投げつける側は、それによって相手を自分の思うと
おりに動かそうとする、つまり支配しようとする。支配してモノを
買わせたりする。
それに対して真っ向から立ち向かおうとすると、じつは相手の土俵
に立たされることになり、はては言い負かされたりする。
いわば呪いにからめとられた状態になる。

私たちは普段の生活で、そのように「呪いのことば」にさらされて
いる。
親とか家庭の中もそう、仕事場でも政治の世界でもそう(筆者はこ
の分野がご専門でした)、呪いのことばはあちこちに蔓延している。
ハッキリした呪いばかりでなく、「そんなことすると恥かくぞ」「あ
なたのために言ってるの」「嫌ならやめれば」「若いっていいねえ」
などなどの「普通に使われる」ことばでさえ、使い方によっては相
手のこころを縛る「呪いのことば」になってしまう、私たちの気づ
かないうちに。と、筆者はいいます。

となると、そんな厄介な「呪い」と「呪いをかける人」に対して私
たちは、毅然と立ち向かわなければなりませぬ。
そうしないと、知らない間にやっくんやふうちゃんのように(覚え
てますか?)心が縛られてしまい、親や上司や政治家の意のままに
動されてしまいかねないのですから。

では、どう脱出するか? 
親から呪いをかけられたやっくんは、女装することでやっと解き放
たれた。親のいる土俵から、別の土俵に移ることができた。
そういえば、母親からの呪いを、マンションのリフォームという
「上書き」で解こうとした精神科医、春日武彦先生の話もご紹介し
ましたっけね(No.92)。どちらも長く苦しい闘いを経てようやく、
生きる次元を変えることができたのでした。
しかしそんなに苦労しなくても、もっとてばやく呪いを解くことが
できるんじゃないですか、というのが筆者の言いたいことでした。

私たちは背筋をのばして、「そういうあなたは自分で自分に呪いを
かけているのですよ」「私を縛ろうとしているだけなのですよ」「そ
れに気づいてください」と言うことができ、またそれを行動で示す
ことができると。
相手は自分を縛って思うがままに動かそうとしているだけなのだと
見極めがつきさえすれば、それを切り返す行動がとれるのだ。

どうです、みなさん。
みなさんは呪いに立ち向かえていますか?
ふつうに身の回りにある呪いに注意を怠らず、立ち向かう勇気を持
てていますか? まずはこの本を参考にして、相手のことばに性急
に反応したりせず、また安易に相手の土俵での言い返しなどをせず
に、冷静に対処してみるとしましょうか。

「店つぶれるからなー」にたいして、どーしよーどーしよーと、う
ろたえてはならない。また「おお、できるもんならつぶしてみろ」
と言い返してもならない。いずれも相手の土俵に立ってしまうこと
になるからです。
そんな露骨な呪いの電話への切り返しとしては、
「店つぶれるかんなー」「ワオッ、お兄さん、クールじゃん!」
「ン? プツン、プープープー・・・」、どうかな?

ブログ164

 


 

ブックカフェデンオーナーブログ第163回 2019.10.24

「『すごいヘン』を語らせたら『とってもすごいひと』」

美術史家のバルトルシャイテス、ご存じの方おられますでしょうか?
「あの」中世美術史家の碩学アンリ・フォションの弟子。
「あの」って、どの「あの」なのか知らんけど。
とにかく芸術に関する豊富な知識量とそれを縦横無尽につなげ合わ
せる天才で、とりわけヨーロッパ中世美術の研究や、古代から現代、
中東や東洋まで触手を伸ばした幻想芸術(つまり「ヘン」な芸術)
の謎解きでは大家とお呼びできる方です。

「その」ユルギス・バルトルシャイテス(だいたい名前がすごい。
立て続けに三回言ってみてください)の本を何冊かカフェに並べて
いたら、なんと驚いたことに、「わたくしが、『この』本の編集をい
たしました」というご近所のお客様がいてビックリ!
世の中、どこにどんな方が住んでおられるかわかんですなあ。
ともあれ「この」バルトルシャイテスさん、略称バルさん、ハエを
退治させたら、、、失礼、「ヘン」を語らせたらとってもすごいんで
す。「ヘン」の大家、すなわちヘンタイなのです、って、またまた
失礼!

今回はそんな「ヘンタイ本」四冊セット、まとめてのご紹介とな
ります。

「アナモルフォーズ ~光学魔術」
「アベラシオン ~形態の伝統をめぐる四つのエッセー」
「イシス探究 ~ある神話の伝承をめぐる試論」
「鏡 ~科学的伝統についての試論、啓示・SF・まやかし」
     (ユルギス・バルトルシャイテス/国書刊行会)

えっと、まずはこの著作集全四巻の表題とそれぞれのオビの惹句、
ならびに「幻想の中世(講談社)」と「異形のロマネスク(同)」
を訳された馬杉宗夫さんの二行解説を並べてみますので、そのオ
ドロオドロしさに驚いて座りションベンしないでくださいまし。

第一巻「アベラシオン」~視覚の神話、形態の伝説
自然の中にある異形や錯視を問題にする。たとえば「動物観相学」
では人間の顔にひそむ獣の寓話を、「絵の中の石」では、石の中に
生まれる図像体系が語られる。そこで常に見いだせるのは、視覚
的な誤差や偏差が生み出す奇妙な映像であり、云々。

第二巻「アナモルフォーズ」 ~光学の魔術、奇妙な遠近法 
ルネサンスの遠近法の分析から始まり、そこから派生していった
16世紀から19世紀にいたる時代の、異質な「幻想的で逸脱した側
面」、すなわち「逸脱した遠近法」にたどり着く。

第三巻「イシス探究」 ~幻想の東洋、西欧の夢想
人々の想像力をかきたて、心につきまとって離れない古代世界の
一つを選び(エジプト神話のイシス神)、、、、ある神話がつぎつぎ
に伝承されていく例を再現しようとする。

第四巻「鏡」 ~鏡面の魔法、光学の奇跡
鏡に映るわい曲の原理が言及され、鏡にまつわる百科全書ともい
える執拗なまでの視覚に対する執着ぶりがうかがえる。

ねーっ、すごいでしょう!
なんじゃこれっていう、「わけのわからなさ」と「ヘンさ」が満載
の、まるでインチキ錬金術師か詐欺師が書いた本みたいな怪しい
感じ、しません?
とにかくバルさんは博覧強記の学者で、おタクのようにも思える
方で、というのも「図像学」というのは、それこそ古今東西のい
ろいろな図像を別の図像と比較し、関連させ、系統立て、そこに
現われる人間精神の秘密を解き明かそうという大それたことを企
てるわけですから、もう関係ありそうなことはなんでも研究して
しまおうというわけで、ちょっとやそっとのおタクではありません。

じゃ、なんであなたはそんなバルさんの本を読んでいるのかと言
われますと、私はオタクではないので、そこはなんともお答えの
しようがない。
ただ、私はもともとヨーロッパの、とくにフランスのロマネスク
美術が好きなのですが、中世の10世紀11世紀に盛んに建造され
たロマネスク教会には、なぜかヘンな、気味の悪い、わいせつな、
できそこないのような、異質でわい曲された、もっというばエロ
・グロ・ナンセンスな装飾がたくさんあるのでした。

聖堂入口のタンパン(扉上)には、聖人とともに怪物たちが浮き
彫りされ、シャピトー(柱頭彫刻)には悪魔のようにみえる醜悪
なヤツがいて、天井の三角隅には人びとの敬虔な信仰を邪魔する
かのような異形なものたちがいて、そいつらはみんなして礼拝に
来る信者たちをにらんでいる。
なんじゃこいつらは!と思って、アンリ・フォション先生の本を
見たりしていたらバルさんにたどりついて、「ワシの本を読むのじ
ゃー」と、魔法の煙をかけられてイチコロのハエになってしまっ
た、というしだい。

しかしまことに申し訳ないことに、今回は本の魅力とすごさも、
そしてバルさんのヘンタイ度の高さも、うまくお伝えすることが
できませんでした。
ですので、ヨーロッパ芸術のなかの「ヘン」にご興味をお持ちの
方、また異形とか逸脱とか奇怪とか混沌とかの怪しい響きに引き
つけられるおタク傾向をお持ちのあなた、ぜひ当カフェでこれら
の本をパラパラッと観たあとで、図書館で借りてみてください。

ブログ163


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第162回 2019.10.17


「ヘンにもいろいろあってスゴイのだ」

いま私はカフェの片隅で好き勝手に、美術における「ヘン」を巡っ
ておりますが、西洋の芸術には「ヘン」に関連する別のキーワード
として「魔術」とか「魔法」があるようですので、もう少し突っ込
みたくなって本棚の奥からこんな本を引っ張り出してみました。

「魔術的芸術」(アンドレ・ブルトン/河出書房新社)

魔術といっても愉快なディズニーアニメや楽しいハリー・ポッター
のお話じゃないですからね。ん、あれっ、関係あるかな? 
いやいや、ともかくもっともっと西洋人の生活の基層に根強くある
信仰のようなものですからね。古代エジプトやギリシアから、ある
いはケルトの時代から、キリスト教の陰に隠れるようにして、人び
とに延々と引き継がれてきたものですからね。

問題は、その「魔術的なもの」が西洋人の精神にどう影響していて、
絵画などの美術にどのように現れたり隠れたりしているかでありま
して、それをシュールレアリストの巨漢、アンドレ・ザ・ジャイア
ント、もとい、アンドレ・ブルトンが解き明かしていくという、も
うマニア垂涎の書(なんのマニアだか)がこれなのでした。

能書きはいい加減にしてはやく内容を紹介しろ? 
ラジャー。と言いつつ最初にお断りしなければならないのは、西洋
の「ヘン」と日本の「ヘン」を同列に比較して彼我の芸術的個性の
違いを見ようと、ここまで続けてまいりました私の目論みは、もう
すでに破綻しております。
この試みはうまくいきませんでした。コトはそう簡単な話ではあり
ませんでした。理由はのちほどに。ご期待に沿えず残念です。
はいっ? 君に期待なんてしていない? それは失礼しました。

では、と・・・・「魔術的」は西洋美術の中心命題だ、と。
だから魔法、幻想、夢、錬金術、占星術、オカルト、奇怪、超自然
などのキーワードによって、多くの西洋芸術を解き明かすことがで
きる。
それらは、ふだんは「人の眼につかぬ、人の眼から隠され、秘めら
れている」ことであり、(西洋お得意の)理性とか進化とかとは正反
対の「非理性」、陽に対する「陰」、正統に対する「異端」、ただし、
人々のこころに大きな影響をあたえてきたものともいえる。
すると芸術作品とは、それらの秘密に迫ることで人間界のあれやこ
れやを解釈し直そうとするものとも考えられる。逆に言うと、多く
の芸術家は「魔術的ななにか」に支配され、無意識のうちに縛られ
ているといえるかもしれない。

こんなブルトンさんのご高説を読んで、私は思いました。
ひとは魔術によって超自然的な力を得て、特別な感覚を育て、他人
とは異なる偉業を成し遂げたいものなのだろう。
王様とか政治家がこの欲望に取りつかれると大層困るのだけど、詩
人や画家にこの欲望が強くなると、「自分をとらえて自分を昂揚せし
めるもの、自分の表現の調子にもっとも重大で、異論の余地ない効
力を与えるようなもの」として宝物のように大事に抱えることにな
る。それにあとから「魔術」と名づけたのだろうと。

その意味でいえば、西洋芸術の「ヘン」のひとつである「魔術」は、
いわば芸術を生み出す隠された源泉でパワーみたいなものであり、
あるいは人間の欲望そのものでもあるかもしれません。
ブルトンさんも、「魔術的芸術ということばは、一面、同義語反復
になる」と言っていて、魔術的な部分のない芸術などありえないと
断定しているのですから、それは彼の考える芸術の「キモ」にあた
ることなのだと思います。もちろん、フランス人なので「キモ」と
いうことばは使いませんが。

その証拠に、とまではいきませんが、本の中でブルトンさんが古代
から中世、近世、近代、現代と絵画芸術をたどって解説するとき、
時代が下るにしたがって、絵画のなかにむしろだんだん「魔術」の
表出度合いが下がっていくように私には感じられてなりません。

どうでしょうか。
北方ルネサンスのボッシュやグリューネヴァルトで強烈に感じられ
た魔術感は、近世のギュスターヴ・モロー、フリードリッヒになっ
てくるとなんか清潔になり、舞台装置のようになり、近代のゴーガ
ンやシャガールやピカソにいたって個人的、私小説風になり、他人
を寄せつけない夢のようになり、心理学のテーマのようになる。
そして、現代美術の抽象性にいたって、おどろおどろしいパワーと
しての魔術的要素は消滅する。

思うに、巨漢ブルトンはシュールレアリスムの理論的大黒柱でした
から、第二次大戦前後の現代美術がパワーを失ったようにみえるこ
とに失望していたのではないかな。
そして、おまいら、人間が本来もっていた魔術パワーを忘れたか、
見えないものをどう見るつもりなのか、秘められているものを懸命
に掘り出すのがゲージュツカの使命なのじゃぞ、バカモノ!と声を
あげた。
私にはわかるような気がしますね、岡本太郎さんも似たようなこと
言ってましたし。

この本を読む方は、しかし、ここでブルトンさんの取り上げた数々
の芸術作品(その中には古代の洞窟絵画から西洋以外の各地の「魔
術的芸術」も含まれています)の図版のすばらしさに感嘆し、驚愕
し、腰を抜かし、誠にこれらはすごくヘンで、なおかつこれらはい
までも力に溢れていると認め、日本にはこんなあからさまな魔術パ
ワーはなかった、その点では比較などできませんでしたと謙虚に頭
を下げ、彼の審美眼と作品選択の意図を楽しんでくださるようお願
いします。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ第161回 2019.10.10

「西洋美術にも『ヘン』はあるの?」

日本美術を鑑賞するポイントのひとつとしてなにかしらの「ヘン」
があるということはわかったが、歴史上、理論的に直線的に進化発
展してきたようにみえる西洋美術には、橋本さんや山口画伯のいう
ような意味での「ヘン」はないのじゃないか?

いやいや、そんなことはありません。
さにあらず、さにあらず。
西洋美術にも「ヘン」な部分はたくさんある、でも、なんというか
それは、「そこはかとないヘン」とか「プロの眼でよく見ないと観
て取れないヘン」ではなくて、「もうぜったいヘン」とか「キモい」
とか「こわい」とか「ありえなーい」とかいう、だれが見てもハッ
キリわかる種類のものが多い気がします。

「グロッタの画家」(東野芳明/美術出版社)

この本は1957年初版ですから、いまから62年前のものです。
私の手元にあるのは1965年の再販で、古本屋さんで手に入れたも
のですから、手に入れたときにはもう完全な「古書」ですね。
定価680円を200円くらいで買っているはずです。まことに古本ら
しいひなびた香りがいたします。
それはともかく、この本は、当時新進気鋭の美術評論家として売り
出した東野さんの出世作だったと記憶しています。

「グロッタ」というのは洞窟を意味し、まるで鍾乳洞のなかのよう
に気味の悪い、怪奇で異様というところから「グロテスク」の語源
となったことばです。美術の形式や時代区分ではありません。
筆者は、ひとは「グロテスク」ということばを使って、「人間が事
物の一種にほかならないこと、そして事物とはもともと柔らかな人
間の白い手に負えるものではないこと」をあきらかにしたのではな
いか、それを画家たちは意識的に強調して描いたのではないか、と
言うのです。

つまり、人間がつくる美術のなかには眼に親しいものや快いものば
かりではなく、「人の眼につかぬ、人の眼から隠され、秘められて
いる」ものが表現されることがある。
それらは怪奇とか奇異とか異様なものとみなされるが、しかしそれ
らをじゃまものとして排除するのではなく、それなりの役割がある
と積極的にとらえることで、「西洋のヘン」が浮かび上がってくる
というわけです。

どうでしょう?
ここに取り上げられている西洋の「ヘン」な画家は、北方ルネサン
スのボッシュやグリュネヴァルト、近世からはゴヤ、エルンスト、
ルドンなどの方々です。
たしかにね、「グロテスク」で「ヘン」な魅力をもつ作品を生み出さ
れた方々ですよね。もうあからさまに怪物とか、残酷な場面とか、
気味の悪い光景とか、そんなものばっかり描いていた、というかそ
ういうもので有名になった画家たちですもんね。

こういう「ケロッパ」、失礼、「グロッタ」系の「ヘン」は、解説さ
れなくても私たちにも「ヘン」と認識できます。どこからどう見て
もヘンですし、「隠され」たり「秘められ」たりしているわけでは
ありませんし、エロ・グロ・ナンセンスに近い(失礼!)ともいえ
ますので。
そこで、ひとつ疑問があるのですが、はたしてこれらの画家の作品
は当時から「ヘン」で「エロ・グロ・ナンセンス」とみられていた
のでしょうか? どうでしょう。

いや、これが、ぜんぜん「ヘン」とは思われていなかったのです。
だって、身分の高い人も聖職者も、金持ちも一般の人も、こぞって
かれらの絵を欲しがったのですから。
もし絵の発注者たちが、「なんてグロなんじゃー!」「キモイーッ」
「ありえなーい!」「神を愚弄しとるー」などと評価をしていたら、
そもそもこれらの絵は作成されず、いまに残ってもいないはず。

ということは、いまの私たちが「グロじゃー」「ヘンだー」と感じ
る部分を、じつは西洋美術の底に流れる通奏低音なのだと肯定的に
とらえるなら、ボッシュやグリュネヴァルトの宗教画から、近代の
ダダやシュールレアリスム、ダリやガウディの造形までを結ぶ太い
糸が見えてきてもおかしくないと思われる。

おかしくないどころか、やはりそこには「ヘン」の確かな伝統があ
るはずだ。筆者は「ヘン」という俗なことばは使ってないけど、そ
して、その「ヘン」は、受け取り方によっては二面性も矛盾もあり
そうだ。
ここでは便宜上「グロテスク」と表現されているが、言い方を換え
て、たとえば逆説、韜晦、喜劇、怪物、廃墟、悪魔などということ
ばにしてみると、それらはもしかしたら西洋芸術史の基層にあるも
ので、もしかしたら芸術解釈上とんでもない広がりがある概念かも
しれない!

・・・というのが、昔この本を読んで感じ、そしていま読み返して
あらためて感じ直したことでした。
はい、美術をめぐるこういう「ヘン」なところに足を突っ込むとす
っかり抜けられなくなって、自分の感覚もヘンになってくることが
あるんだけど、これがアナタ、楽しくてやめられないんですよー。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ第160回 2019.10.03

「『ヘン』は日本美術を見るヒント」

「ヘン」というワードが出たおかげでようやく「しのぶモード」か
ら離れられそうです。よかったよかった。
じつは、日本美術における「ヘン」の研究といえば、そのものズバ
リの題名の、

「ヘンな日本美術史」(山口 晃/祥伝社)

があったのでした。
山口画伯といえば、いま注目の「平成の絵師」とよばれる方。
画家というより絵師と呼びたくなるのは、大和絵や浮世絵のような
伝統的なスタイルの絵を描いていることもありますし、人物や建物
が密集するふすま絵や屏風絵を、芸術家っぽくなく、「ウォーリー
を探せ」みたいな細密で手がけておられることにもよります。
あ、そういえば、今年(2019年)のNHK大河ドラマ「いだてん」
のタイトルバックも山口画伯の手になるものでしたね。

画伯は日本絵画のなかに多様な「ヘン」を発見していきますので、
橋本治さんもこの本を読んだらきっと、「ん、ボクの言いたいこと
とほぼほぼ同じ」と思われたに違いありません。
ただし、絵を描くプロの目とはすごいもので、彼がブツ、失礼、証
拠物件、失礼、美術品のなかに発見する「ヘン」は、ああ、そうい
うふうに観ることではじめてそういうことが見て取れるのね、それ
はじっさいに描いている方だからこそ見抜けることなのね、と感心
させられることばかりなのです。

たとえば、国宝の「鳥獣戯画」。
画伯は「しっかりと技術のある人が描いた絵は、上手さへの志向が
素直で、とても潔いものであると感じられます」とし、墨はキレイ
だしデッサンはすごいし構成はみごとと、まずは褒めちぎります。

じゃあどこが「ヘン」かというと、ここには「ある種の力の抜けた
画調」というものがあって、わざとふにゃっと描かれたり、ちょろ
まかすというか、仕上げすぎていないところがある。
なぜか? それはたぶん、作者が観客の前で描いたせいではないか。
画伯はこう推測するのです。
そしてこの「仕上げすぎない」ことや「観客の前で描く」ことは、
日本美術を読み解く大きなヒントではないかと、こうおっしゃるの
です。

おもしろいでしょう? 
私たちが、「千年も前の絵なのにナウいね」とか「カエルやウサギ
がかわいいね」とか「この擬人化が日本のマンガの原点なんだね」
とか喜んで観ている絵に対して、プロは技巧の細部に表われた人間
くさい「手クセ」を見のがさないのでした。

画伯自身、自分の経験からしても、観客の前で描くとこのように
ふにゃっとなることが多いといいます。
その「ふにゃ」がどういう意味で「ふにゃ」なのか、なぜ「フニョ」
ではないのか、それは画を描かないしろうとにわからんのですけど
ね、ま、それはしょうがないとして。
そういえば、たとえば江戸時代の南画家たちや俳人なども、展示会
や飲み会で酔っぱらいながら観客の前で一幅の絵を描き、それを売
って生活していたのでした。

有名なのは江戸中期の画家、浦上玉堂。
武士だったのに脱藩して絵で暮らしを立てる、それは客に招かれて
酒を酌み交わしながら琴を弾き、興に応じて目の前で筆をとってサ
ラサラサラと絵を描いて売ること。それこそフニョというかボソッ
というか、ダボッというか、しろうと目にも「ヘタウマ」風の「ヘ
ン」さに満ちた山水画。もっといえば「いいかげん」。
そして彼は旅を続ける。 

書斎やアトリエではなく、観客や客の前で即興的に描いて即売るわ
けですから、ま、パフォーマンスアートというか大道芸というか、
投げ銭をいただくというか、各地でタンカ売をして旅する寅さんみ
たいというか、そういう世過ぎに変わりがないのでした。
だから完璧には仕上げない。いや、仕上げられない。いいかげんな
ところで、力を抜いてちょろまかす。
だから鳥獣戯画も、ある面で玉堂とおなじ性格を持った絵だとした
ら、それが「ヘン」という視点から見て取った日本絵画の伝統とい
うことになるのでしょう。

このように画伯は、「伝統的な絵巻」や「雪舟」や「洛中洛外図」
や「屏風絵」などからも、鳥獣戯画とは別のいろいろな「ヘン」な
要素、すなわち日本画の時代時代の「キモ」の要素なのですが、そ
れを取り出してくれます。
そして私たちがその「いろんな『ヘン』」をつなげて見ていくと、
あら不思議、西洋画とも中国画とも異なる日本美術史の大きな背骨
が見えてくるというしかけになっている。

ああ、橋本先生もきっと同じように日本美術のこんな背骨をご覧に
なって、それを絵画だけでなく文学や芸能などの世界にも応用しよ
うとしていたんでしょうね、って、おやおや、また「しのぶモード」
に戻っちゃったじゃないか。

 

 

 

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ブックカフェデンオーナーブログ第159回 2019.09.26

「超人・橋本治さんをしのぶ」

ほんとにこのところしのんでばかりだけど、どうかしたの?マスタ
ー。
いや、どうもしてないのですけど、たまたまこんな展開になってし
まってすいません。

さて、今年(2019)亡くなった橋本治さんは多作な方で、女子校生
の語り口でつづられた小説「桃尻娘」以来、いったい何冊の本を出
されたことでしょうか。よくわかりませんが、ものすごい出版点数
です。
だれか正確に知っているひとがいたら教えてください。

とにかく彼は超人的といえる著作を残されています。
その守備範囲も、小説から日本の古典解説、美術評論から時事評論な
ど広いこと広いこと。出版界のイチローといっても過言ではない。
イチローより武骨なお顔ですけど、って失礼!
その多くの著作のなかでもイチバンの労作だと私が思うのが、この本。

「ひらがな日本美術史1~6」(橋本治/新潮社) です。

圧倒的な知識量と眼のつけどころ。目次は全部がキャッチーでとっ
つきやすく、ある美術品を「なになになもの」と形容しつつその
特色を素手でグイッとつかみだして解説されているので、しろうと
でも読み進めやすい。
たとえば、中宮寺の菩薩半跏思惟像は「不思議に人間的なもの」、
平等院の鳳凰堂は「テーマパークであるようなもの」。
どーです、お客さん、そのとおりでしょ。

また、「コミュニティであるようなもの」とはなんだろうと思うと、
東大寺南大門だったり、「まざまざと肉体であるようなもの」が、
稚児草子であったりしますから、目次を見て実物写真をながめるだ
けでも十分楽しくて、なんだか幸せな気分になります。
だから、読まずに見るだけでも、よし。

そうはいっても、少しはきちんと本のご紹介をして彼の業績をしの
ばなくてはいけません。
ではあらためて、橋本さんの美術論の真骨頂はどこか?
それはキャッチーでかわいい分類をして提示したことでしょうか?
いやいやそんな些末なところではなく、やはり彼の美術品にたいす
る目のつけどころです。

たとえば第六巻の最後の最後(第103回)で、縄文土器を再び取り
上げ、「縄文土器には自分の内部に直截的に訴えるなにかがある」と
して、その「なにか」とは、「自分に必要な『ヘン(変)』だ」とい
うのです。
そしてその「ヘン」は、とても重要なものであって、「近代以前の日
本美術のすごさは、必要な『ヘン』をきちんと把握してそれをきち
んと位置付けていたことである。」こう述べます。

ここでいう「ヘン(変)」とは、「意外なモノ」「キッチュなもの」「常
識外なモノ」などいろいろな意味合いが込められているようです。
これは岡本太郎さん(縄文の再評価)や辻惟雄さん(「奇想の系譜」)
にも通じる考えかたと感性であり、時代と正面から切結ぼうとした
橋本さんが「自分に必要」と感じたように、ノンキな私たちでも美術
品や歴史的遺物を見る際に覚えてよいことだと感じました。

つまり、学校で習うような発展史学的美術解説ではオミットされるよ
うな、しかしその時代ごとの制作者によって意識的に特徴づけられた
(きちんと把握して位置付けられた)「ヘン」を、日本美術を観ると
きのひとつのモノサシとして持っておいてよい、と教えられたのです。

そんな目であらためて観てみると、国宝になっているような美術品の
なかにも、「ヘン」なものってけっこうありますよね。
縄文の、子どもが作ったようなアレとか、桃山の壊れかけているよう
に見えるソレとか、偶然できちゃったとしか思えないコレとか、なん
ともバランスが悪い江戸時代のアレコレとか、いっぱいある。
そうか、「ヘン」は魅力的だなあ。

じつは当カフェにも、オモチャとかガラクタとか骨董品とか「なんか
ヘン」なものが置いてあります。
ご来店のみなさまには、マスターが「それらは自分に必要なヘンなも
のなのだ」、と思っているのだとご許容いただき、しかしじつは、それ
らこそみなさま方の感性のありようを測るヘンなモノたちでもあると
ご了解をお願いしつつ、「ヘン」にたいする対峙法を教えていただいた
「ヘンなひと」橋本さんのご冥福を祈りたいと思います。



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ブックカフェデンオーナーブログ第158回 2019.09.19

「(元の)安富歩教授をしのぶ」

最近なんだかしのんでばかりいて申し訳ありません。
カフェをやっていると「しのぶ体質」になるのかなあ?

それはともかく、今回しのぶ安富教授は現役バリバリの東大の先生。
もちろんご存命で、先日(2019年7月)の参議院選挙では、れいわ
新選組の比例代表候補にお名前を連ねておいででした。
私はいちどしかお会いしていませんが、そのときは、頭が切れて弁
が立つという、まことにもうパリパリ音がするくらい典型的なエリ
ート教授のオーラを醸し出されていました。
ではなぜそんな先生をしのんだりするのかというと、

「そして<彼>は<彼女>になった」(細川貂々/集英社)

に描かれている顛末をお伝えしたいと思ったからです。
忘れないうちに書いておきますが、これは全編細川貂々(てんてん)
さんのマンガとして描かれた、安富先生(やっくん)とパートナー
のふうちゃんが主人公のリアルな物語です。

お会いした時に鼻っ柱のつよそうな男前の先生だと第一印象を受け
たのも、読んでいた先生の著書、
「原発危機と東大話法」(明石書店)
「生きるための経済学」(NHKブックス) 
のひとことひとことに、キップの良さを感じていたからです。

たとえば、
「多くの学問分野は、なんらかの矛盾によって成り立っていますが、
そこが盲点となって隠微されつつ共有されることで分野が成立して
います。」とか、
「『専門家』は『専門用語』を必要とするのです。そうすることで
『専門外』の人々を排除して、『盲点』が露呈しないようにするため
です。」あるいは、
「専門家や行政は、ことばの言い換えをさかんにおこなう。たとえ
ば「原子炉の老朽化」を「高経年化」に、「原子力の危険性を審査す
る委員会」を「原子力安全委員会」に、、、」
ここには、自身も属する専門家集団やエリート知識人をバッサリ切
る日本刀のような表現が豊富にありました。

すこし脱線します。
先生はそこまでは言っていませんが、私思うに、エリートや専門家
のこういう意図的な言い換え(東大話法)が極端になると、「最終
的解決(怖いー)」とか「医学的処置(怖いー)」とか、マッド官僚
的ともいえるトンデモ表現が横行することになりかねない。
つまり先走って申せば、専門家やエリートが、専門用語や東大話法
や行政用語を、権威維持のためにうまいこと使おうとすることは、
それこそハラスメントやネトウヨ的言辞、それから権威主義や全体
主義やらなんやらかんやらと地つづきの所業になるのだなと思わさ
れます。

ところで、えーと、で、なんの話でしたっけ?
そうそう、私がお会いしたときの先生はサムライっぽい「寄らば切
るぞ」的な方だったのですが、それがなんとアナタ! しばらくし
てテレビを見ていたら、先生が茶色に染めた長い髪にスカートをは
き、お化粧などされて出演されておられるではありませんか。
思わず私はブラウン管(古い)に、「セ、センセイ、ど、どないし
たん?」と駆け寄ってしまったのでした。

そうです。先生はそのときすでに、「女装する東大教授」としてメデ
ィアにひっぱりだこになっていたのでした。
ここでやっと本題に戻ったわけですが、この本の書名である「<彼>
は<彼女>になった」とは、先生が性転換をしたというわけではな
く、一人の男性が女装してキレイになっていくその前に精神的に追
い詰められていた理由だったり、女性パートナーのふうちゃんとの
出会いだったり、そのふうちゃんのほうの、やっくんと出会う前に
受けていた苦しみへだったりを経て、ようやくたどりついた、やっく
んの<女装>という立ち位置のことなのでした。

じつはふたりとも、親(母親)や家庭(連れ合い)からの、なんと
いうか「呪い」のようなものをかけられていて、精神的に追い詰め
られていた。
こうした「近しい人からの呪い」について、やっくんは「生きるた
めの経済学」でこう書いています。
「ハラスメントを受けた人が、その苦しみに耐えかねて『これは仕
方がないことなんだ』と自分に言い聞かせることで痛みを感じない
ようにするとき、その人は呪縛にかかっている。」

そのような呪いにたいして、ふたりは困難を抱えていた者どうしの
「同志愛」でむすば、共同して戦うパートナーになる。
そこでやっくんの「女装」は、「呪い」を解く魔法として使われた。
女装という魔法の助けを借りてやっくんは呪縛から逃れてそれまで
の自分から脱皮していく。そしてそれを援けることによって、同志
のふうちゃんも救われていく。

やっくんは呪いを解き、その後もバリバリの教授として各種のハラ
スメントの構造などを独自の視点で解き明かすお仕事をしていく。
じっさい先生は、女装して<彼女>になってからパワーアップして
いるといっていい。
さらにそれにともなって、テレビで見る先生がその美しさをドンド
ン増していくのはいかなることか。

みなさんには解き明かせますでしょうか?
この、ひとりのエリート学者における、学問の業績、近親者からの
呪い、精神の不調、同志パートナーとの出会い、女装による呪縛か
らの解放、ハラスメントの深い理解、自身の美しさの向上・・・と
いう波乱万丈・紆余曲折の人生劇場を!
簡単に理解できないかもしれないけれど、私たちも少しだけ元のや
っくんの呪いにからめとられた生き方をしのび、女装後の解放され
た生き方から「自由」へのヒントをもらっておきませんか?

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ブックカフェデンオーナーブログ第157回 2019.09.12

「すべての道はどこかに通じる」

私どものカフェは二車線道路に面しているにもかかわらず、また、
目印になる信号やお店があるにもかかわらず、初めておいでになる
お客さまから、「たどり着けないんですけどおー」というSOSの
お電話をいただくことがあります。

これは以前にも書きましたが、カフェの入り口があまり目立たない
という問題と、さらに二車線道路の両側が同じ番地だという、行政
上の問題があるのでした。道があとから通ったので、番地がかみし
もの二手に分かれてしまったわけ。

さらにそれに気づかないナビやグーグルマップみたいな文明の利器
が、住所検索では道の反対側ばかり表示をするというおバカなこと
をするので、宅急便さんでさえ迷ったりして、たどり着くための二
重苦を形成しておるのです。
おいこら、責任者出てこいっ(怒)!

ところが、そんな環境や理屈にはぜんぜん関係なく、もう最初っか
ら道を間違える方というのがおられる。間違える気が満々な方です。
最寄り駅を出てから地図とは反対方向に行ってしまったり、信号を
わたって反対側に曲がってしまったりして「たどり着けないんです
けどおー」と電話してくる、いわゆる「方向音痴」と思われる方々
です。
んっ?方向音痴、差別用語じゃないですよね。

だっておかしいじゃないですか。
なぜ右と左とを間違えるのか。なぜ100メートルのところを300メ
ートルも行き過ぎてからおかしいと気づくのか。なぜカフェの帰り
には、出口を出てから来た方向と反対に行ってしまうのか。私には
わかりません。
しかし、そんな方々にも朗報というか、福音がございました。

「どこでもない場所」(浅生 鴨/左右社)

この本は、いろいろな職業を経験されていまは小説も書いておられ
る筆者の、人生における方向音痴とか、迷子とか、どう混乱してき
たかとか、自分はいったいどうしたいのかといった悩みとか、仕事
はなんでも受けてしまう受注体質の巻き込まれ型の悲しみとか、ご
みの分別がわからないとか、なんだかんだというエッセイ集です。

筆者の浅生(あそう)さんの言うところでは、
「目的地さえなければ方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い」
ということなのです。
おお。これは仕事や人生において福音となるべき真実かもしれませ
ん。出版社の名前も「左右社」。いい名前ではないですか。

この本にはそんな、いまの世の中ではやや生きづらいだろうと思わ
れる方向音痴型のひとの特徴が詰まっています。たとえば、
やるなと言われればやりたくなる。
応援されたり励まされるとやる気がうせる。
一方的にかけられる期待は重圧なので逃げ出してしまう。
母親が納豆が嫌いだったので自分は納豆が好きになる。
だれかに言われたひとことでその後のふるまいを変えてしまう。
旅や仕事ではかならずトラブルにみまわれる。
・・・などなど。じっさいこれらは、けっこう誰でも共感すること
ばかりですし、中二病といやあ中二病かもしれませんし。

でもどうでしょう。
たぶん、若い頃からのこうした右往左往がいまの自分という人間を
つくり、たぶん、目的地に向かおうとして方向を間違え、いいかげ
んにしろ自分!などと自分を鼓舞しつつ自己受容できず、それに疲
れて生きているのが私たちなのではないでしょうか。
そしてあるとき、ハッと思うのです。
オレの目的地ってどこだったっけ?と。

きっと、いやたぶん、すべての道はどこかに通じているのだから、
そのうち目的地もみつかるのではないか。
もしかしたらゴサインタンかカムイミンタラにたどり着いちゃうか
もしれないけれど、まちがえてブックカフェデンにたどり着くかも
しれないではないか。
当カフェに来ようとされているお客さま、とりわけ方向音痴方面の
方、どうかそのくらいの余裕のお気持ちでお越しくださいまし。

 

ブログ157

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第156回 2019.09.05

「久世さんのラストソング」

お客さまが少ないカフェの雨の午後。
亡くなった方をしのんでばかりいるのもどうかと思いますが、ちょ
っとだけおセンチになって、自分より前の世代の方の声を聴きたい
気分のときがあります。

「ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング」(久世光彦/文春文庫)

これは、自分が死ぬときにいったいどんな歌を聴いていたいだろう
という想像からはじまる、歌についてのエッセイ集です。
「末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最
後に何か一曲、何でもリクエストすれば聴かせてやると言ったら、
いったい私はどんな曲を選ぶだろう」とはじまります。

筆者は、いざそのときになって考えても迷うばかりだろうから、今
のうちに決めておこうじゃないかといろいろ思案するわけですが、
そう簡単には決まりません。
それはテレビドラマ「時間ですよ!」や「寺内貫太郎一家」のディ
レクターをされた久世さんであっても、いや、そういう業界で多く
の楽曲と多くの歌手に接してきた方だからこそ、よけい決めるのが
難しいはずです。

そりゃそうでしょう。
私たちだって、いざラストソングを決めろといわれたら迷います。
あれもいいなこれもいいな、あの歌手の歌声が大好きだ、いや若い
ときにハードローテーションしたこのグループも捨てがたい、意識
が遠のいていくときに仮にこんなメロディと詞が聞こえていたら幸
せに死ねるのじゃないかな、いや、逆に未練が残ってしまうかもし
れないな、するといっそ讃美歌とか御詠歌とかのほうがいいんじゃ
ないだろうか、いやしかしそれでは選びがいがないというものだ、
藤圭子の立場はどうなる、美空ひばりのことを忘れたか。

たぶん自分もその時はもうボケちゃってるだろうから、リクエスト
しても「そんな歌は見つかりませんでした」なんて言われ、「えっ?
ウッソー、天城峠を越えたらリンゴの樹の下から青い山脈が見えた
っていうあの有名な曲だよ、あるはずだよー」「ありません」。
さあどうしたものか・・・などと、グズグズ考えるだけでしょうね。

読んでいくと久世さんも、じつはそんな感じになっていきます。
聴くと必ず泣いてしまう曲が取り上げられてその理由が想い出とと
もに話される。なかには戦前の古い曲、軍歌、唱歌、私たちの知ら
ない曲も多い。
想い出の詰まった戦後の流行歌が取り上げられる。「りんご」のつい
た曲、「長崎」のついた曲、古賀メロディーに映画の主題曲、ワルツ
にジャズにブルースにハワイアン。
そして、すでに亡くなった友人の好んだ曲や友人を思い出すことに
なる曲、好きな詩人や作曲家、それからご自分が演出したテレビド
ラマに関わった小林亜星さんや向田邦子さんや俳優さんたちにまつ
わる曲。
曲が曲を呼ぶ感じで、どんどんどんどん増殖しています。必ずしも
ラストソングを選ぼうということでは終わらなくなってくる。

わかりますねえ、この気持ち。
もともとこれは雑誌の連載エッセイで、企画としても最後にラスト
ソングをどうしても一曲に絞れということではなかったでしょうか
ら、いきおい、お話は自分の思い出深く好きな曲の総ざらいになっ
ていきます。

でも、それでいいじゃないですか。
私たち、やや後の世代の読者も、久世さんの人生で出会った楽曲を
思い出しながら共有して噛みしめることができるのですから。なん
というか、昭和をかなり濃い密度で生きた一人のパイセンが出会っ
たできごとと、それにまつわる楽曲を追体験できるのですから。
こんなときに「好きな楽曲履歴捜査官」がいたら、久世さんのどん
な性格を言い当てることでしょうかね。

それはともかく、世代の違うお若いみなさんも、大丈夫ですよ。
自分の知らない古い曲が取りあげられていても、そこには配慮深く
詞がきちんと載せられていて、それを読むだけでも時代の様相がわ
かることもあります。だからお若い方にも通じる久世さんのラスト
ソング(ス)がここにあり、それに刺激を受けてみなさん自分のラ
ストソングを考え始めるはずです。そういう本なのです。

ちなみに私のラストソングはというと・・・。
いまパッと思い浮かぶのは、フレッド・アステアの歌う「チークト
ゥチーク」かな。「ヘヴン、アイム・イン・ヘヴン♪」と歌いだす
あれ。映画の中では、想いがかなってジンジャー・ロジャースと踊
るあの歌。映画「グリーンマイル」で、無実の黒人が死刑の直前に、
映画のこの場面を観ながら泣くシーンもよかったですね。
おセンチですけど、ね?

ブログ156

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第155回 2019.08.29


「本にまつわるお仕事」

かねがね私はブックコンシェルジュになりたいと申しておるわけで
すが、もともとそれはキムタク主演の検事ドラマ「ヒーロー」に出
てくる、田中要次さん演じるカフェの寡黙なマスターにあこがれた
からでした。

ダーツなどもある、今どきのおサレなカフェなのに、客が「食べて
ェなあ」とつぶやくと、なんでも「あるよ」と出してくれる。
カフェの常連客であるキムタクさんが、たとえばなんとなく韓国料
理のサムギョプサルが食べたくなって、食べてェなあ、でもここに
はないだろうなあとつぶやくと、カウンターの中から「あるよ」と
ひとこと言って出してくれる強面(こわもて)のマスター。

それをブックカフェでやりたいのですね。
お客さんが、いまこんなことで悩んでいるんだけど、それに効く本
ないかなあなどとつぶやいていると、カウンターの中から「あるよ」
と出してあげる。「まさかこんな本ないよなあ」とひとりごとをいう
と、「あるよ」と出してくれて、それがそのひとの心がまさに欲して
いた本だったりする。
本にまつわる仕事として、そんなカフェのマスターって、よくない
ですか?

「あるかしら書店」(ヨシタケシンスケ/ポプラ社)

みなさん大好き、ワタシも大好き、絵本作家のヨシタケシンスケさ
ん。
お客さんが「こんな本あるかしら」と尋ねると、強面ではなく優し
く「ありますよ」といそいそと出してくれる書店の主人。いいマス
ターだなあ、りっぱなコンシェルジュだなあ、髪の毛うすいけど。

たとえば「ちょっとめずらしい本あるかしら」と訊かれると、「あ
あ!ありますよ!」とマスターは言って、「しかけ絵本」とか「『作
家の木』の育て方」「二人で読む本」「月光本」などを出してくる。
これらは、そんじょそこらの「めずらしい本」ではないんです。
たとえば「しかけ絵本」でも、じっさいに「とび出す絵本」はたく
さんあるけれど、マスターが出してくるのは「とけ出す絵本」だっ
たり「かけ出す絵本」だったり、「なき出す絵本」「のび出す絵本」
など、とんでもないヤツらばかり。

さすが絵本作家さん。私たちがいっしょうけんめい想像しても想像
しきれない本ばかりが登場します。
それがたまらなく嬉しく楽しい。
これは、本と本屋さんと本好きなひとへのやさしさが詰まっている
絵本ですから、子どもさんだけでなく大人も笑いながら楽しめるの
でした。

さて、そんな本屋さんに、「本にまつわる仕事の本ってありますか?」
と尋ねてきたお客さんがいます。
そこでマスターが最初に出す本が「読書履歴捜査官」という本。
捜査官は「容疑者が今まで読んできた本を見抜く超能力で事件を解
決する」人でした。
犯人の居場所をつきとめ(「先日『日本の崖100選』を読みましたね」)、
崖の上で犯人を説得し(「『父の心得』を読んでいた頃のことを思い出
すんだ!」)、去っていく(「本が好きな人に本当の悪人はいないのさ」
とつぶやいて)。

たしかにこれも、「あるかしら書店」同様に、本にまつわる仕事では
ある。
ということで私は、目標をブックカフェのコンシェルジュから本の探
偵さん、さらに本の探偵さんから読書履歴捜査官にくら替えすること
にいたしました。
やっぱり髪の毛のうすい書店の主人より、さらには「あるよ」のマス
ター(田中要次さんも薄かったなあ)より、「読書履歴捜査官」のほ
うが、髪の毛5ミリほどカッコいいし。

 

ブログ155


 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第154回 2019.08.23

 

「作家の勇気と気概をみる」

人間の生き方の問題に真正面からぶつかっていく、勇気のある作
家たちがいます。
彼らが創りあげる小説は私たちをもの思いに誘います。おもしろ
いとかすばらしいとかいうよりも、噛みしめているうちに味の出
てくるスルメのようなモノかもしれません。
たとえば、

「ゴサインタン ~神の座」(篠田節子/文春文庫)

は、どうでしょう。

ゴサインタンとは、ネパールからみたヒマラヤの山の名のひとつ。
カムイミンタラに似ている? いや、似ていない。
ネパールから連れてこられた女性と世帯をもった大地主の農民が、
その女性が生き神様になってしまったことでいろいろ奇跡のような
できごとが起こって困惑しまくる。

彼はおカネやら土地やら家作やらを全部失くしてしまい、気がつい
たら無一文に。いっぽう妻のまわりには、いつのまにか小さな教団
のようなものができるが、そのうちに教主に祭り上げられた当の妻
が失踪してしまう。

なぜだ? なぜオレをこんな目にあわせた後に、急にいなくなる?
主人公は妻を追って彼女のふるさとであるネパールに行き、ゴサイ
ンタンのふもとのちいさな村で、すっかり神が「落ちた」女性と再
会。そして彼は日本を捨ててここで生きる決心をする。
こんなあらすじでした。

そう結婚後、妻となった女性を通して彼に下された神のおことばは、
厳しいものだったのでした。
捨てなさい。すべてを捨てなさい。ひとが強くなるとは弱いものを
飲み込んでいくことになるのだから、そうなってはいけない・・・
はい、これで主人公の全財産が、パア。
その財産はじつは先祖代々いわくつきのもので、世渡り上手、つま
り「強さ」を求めた先祖たちが貯め込んだものだった。それが、外
国から来て神様が乗り移った妻のことばでパア。ことごとく他人の
手に渡っていく。

この小説の結構は、だからひとつには、主人公が妻をとおして現わ
れた神のおことばに引きずられて(それを信じて)、先祖から受け継
いだ財産を次から次へと失っていく過程の描写にあるのだと思いま
した。
なすすべもなくそれを茫然と見送る主人公の気持ちに、読者は自分
の心を探りながら(なすすべもなくじゃなくて、なんとかしろよ!
とか、ツッコミをいれながら)、振り返って自分の財産とか所有物
になんとなく思いをいたしながら、ちょっと慌てたりする。
まるで作者から読者の顔面に、次から次へと問いのストレートパン
チがのびてきて、それをどうよけるかと考えるときのようです。

では、ここで問題です。
全財産をなくしてネパールに行った主人公に、いったいどんな救い
があるというのでしょうか?
日本を捨てた自分の行動に満足する? 妻への愛に目覚める? は
たまた、悟りを開く? 

そこらあたりが、私がもの思いに沈むことになるポイントでした。
どうでしょう、たとえば小節の最終盤、失踪した妻の住む村に着く
手前で主人公は、「自分はだれでもない。名もなく、素性もわからず、
心さえない。永遠の闇の中を一瞬走るパルスのようなものだ。」
と感慨をのべます。

そして、
「あれが神か、と輝和(主人公)は深い藍色をした空にそびえる神
の座の白い峰に向かい手を伸ばした。あれが神だ。淑子(ネパール
人の妻、主人公が勝手に日本名をつけた)は長い年月をかけて、自
分をここに導いた。あの神の存在を知らせるために。」
これらのことばが解答のヒントにならないでしょうか。

なんだ、小説の結末としては主人公のこんな感慨で終わるのか、と
思われるかもしれません。しかし、主人公はこう続けるのです。
「違う。あれは神などではない。神はそびえる。神は罪のないもの
を殺し、罪のある者もないものも救う。神は突然現われ、何も告げ
ずに去る。神に倫理はなく、もちろん論理もない。」

私は、この小説が書かれたのがオウム事件のすぐあとだったことを
考えると、人間の理屈など通じずひとの持つすべてを奪う神という
ものを設定するのに、作者はそうとうの勇気がいったと思います。
そう、私思うに、この主人公はそう簡単には救われない。
ハッピーエンドとか私たちが考える「救い」など、そんな安易なも
のは、ない。作者はそう言うのです。やはり勇気のある人だ。

作者は読者にたいして、何回もくりかえしてこんなストレートパン
チを出してくる、その、なんというか単純明快で武骨な攻め方にも
さらに勇気を感じます。
たぶん、テーマが変わっても、この作者は同じような気概とやや素
朴なテクニックと根性で話を紡いでいくのでしょうね。
なんだか格闘家への称賛みたいになってしまいましたけど。

ブログ154

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第153回 2019.08.14

「中二病をぶっとばせ!」

中二病で思い出したのが、イギリスの中学生のお話。
同じ中学生でも、親の育て方だけでなく、生活環境や社会情勢や学
校教育の影響で精神的な成長に大きな差がでるものだなあと、あた
りまえのことに今さら感じ入ったのが、

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
 (ブレイディみかこ/新潮社)

でした。
筆者のブレイディみかこさんは、アイルランド人のご主人とイギリ
ス南部のブライトンという町に住む、元保育士で現在ライターの方。
底辺保育園で働いた経験を活かし、「子どもたちの階級闘争」「ヨー
ロッパ・コーリング(当ブログのNo.15でご紹介しました)」など、
説得力あるリポートを出し続けています。

この本は、彼女が中学生になった息子の学校生活をおもにつづった
ものですが、イギリスの底辺層に足場を置きつつ階級社会や差別の
現状をみるという、変わらぬ姿勢を持って書かれています。
題名は、そんな彼女の息子が人種差別を感じながら、「自分は東洋人、
日本人で、白人でもイングランドではないアイルランド系で、町で
も学校でもちょっと気分が重い」と言ったことばからつけられてい
ます。

イギリスでもロンドンのような大都会以外の町では、人種・宗教・
職業・所得・住所(貧困層の住む公営住宅か否か)などによる強い
差別があり、このレポートにも実態が細かに報告されていました。
が、にもかかわらず、その影響がもっとも先鋭化されるだろう公立
の中学校で、息子はたくましく成長していく。
それを見守るお母さんの筆者。
私の印象としては、宮下奈津さんよりもずっと京塚昌子さんに近い
肝っ玉母さん(わかんないかなあー)でしたね。

ところでなぜ中二病を思い出したかというと、母親が自分のことを
書いているのを知った息子が、「自分の走り書きを勝手に使うな」
「著作権料を払え」などと小うるさく詰め寄るところでした。
ま、子どもはそんなもんです。どこでも同じ。

そんな肝っ玉母さんの育て方もあっただろうけれど、この息子の中
二病克服には、やはり学校教育の好影響が大きかったようです。
入学していきなり二か月後に上演する演劇のオーディション(コミ
ュニケーション能力育成のため)があったり、ちょっと道を踏み外
した生徒と校長先生がグランドでサッカーやってたり、制服の買え
ない底辺層の生徒のために、先生を含めたボランティアチームが古
い制服の仕立て直ししたり、先生たちも保護者たちもたくましい。

すると、「今日は学校で何したの?」「女性器を見たよ」「は?」「ラ
イフ・スキルの授業で性教育やってるんで」なんていう会話もあっ
て、ドッキリもさせられます。
これはアフリカ系移民のために、彼らが夏休みに帰郷(したことに)
して中学生の娘にFGM(女性割礼)をさせないための、夏休み前
だからこそ行われた、目的のはっきりした授業であることが、おっ
母さんにもあとでわかったりする。

ここにはそんなドキッとすることもさりげなく書かれていて、この
息子がじつは体外受精で生まれたこともサラッと書かれます。
息子はそんなこと気にもかけず、つまらない中二病などに関わり合
うこと少なく、ズンズン前へ進む。

私がそんな息子の成長をいちばん感じたひとコマがありました。
期末試験に「エンパシーとは何か」という問題が出た。息子は「自
分で誰かの靴を履いてみること」と答え、良い点をもらった。これ
は英語の定型表現で、他人の立場に立ってみることを意味していた。
おお、なんと的確でいい解答じゃないですか! 息子えらい!

エンパシーは日本語で「共感、感情移入」などと訳されますが、筆
者はこう解説してくれます。
「(イギリスの学校教育では)シンパシーは、他人の感情や行為の
『理解』なのだが、エンパシーは感情や経験などを理解する『能力』
とされる」と。
エンパシーは「能力」なのだ。だから学校で生徒に教えられるし、
教えて伸ばさなければならないものなのだ。差別社会にあって、も
っとも重要な能力だ。だからとうぜんテストにも出る。
息子はそれを立派にクリアしたのでした。

成長する中学生の息子もそうだけど、こうしてみると、なんという
かイギリスとはしぶとい国だなあ。
サッチャーの新自由主義があり、第三の道があり、保守党の緊縮財
政があり、移民がカンガン増え、それにたいする不満がたまり、な
にごとにも格差が広がり、ブレグジットが起こり、メイ首相もダメ
で、特権階級の貴族の末裔みたいだけどとっちゃん坊やで悪役レス
ラーみたいな顔つき(なんとヒドイ差別発言だ!)のボリス・ジョ
ンソンが出てきちゃった。
にもかかわらず、この本を読んでイギリスはしぶといと感じる。

イギリスの多様性の伝統とリアルな階級や差別、そしてそれに対す
る下からのナマナマしい闘いは、公立学校のレベルではエンパシー
教育やシティズンシップ教育、さらにライフ・スキル教育に反映さ
れていて、それらはきっとじっくり熟成されつつ子どもたちによっ
て活かされていくに違いないと感じる。
この息子のように、差別も格差も中二病も乗り越えるに違いない。
そう思わせる何かを感じるのです。

ただ、、、でもやっぱりなあ、ボリス・ジョンソン自身が中二病っぽ
い気がするんだよなあ。あの見た目のお姿がなあ・・・。
そこんところ、どうなんでしょう?


ブログ153

 

ブックカフェデンオーナーブログ第152回 2019.08.08

「中二もおじさんも同じ」

男子なんて単純だから、だいたい中学あたりで性格が固まって、そ
れがおじさんになっても持続するという傾向があるのでしょう。
そう思いませんか?
宮下さんのだんなさんも同じかもしれないし、ブックカフェ(ここ
だって神様の遊ぶ庭です)で遊ぱせていただいている私こと、マス
ターもおなじ、そんな男子仲間です。

ただし、そのように育ったおじさん男子ならだれでも、
「わたしは、13歳でいることがあまり得意ではなかったのだ(得意
な者がいるだろうか?)」(デヴィッド・Ⅼ・ユーリン)などと、遠い
目をして言うはずです。それぐらいの、なんというか病気の自覚は
あるのです。
なので、以前登場いただいた「劣化オッサン」も、おじさんになっ
てから劣化した部分はあるでしょうけど、中二ぐらいで心ならずも
獲得し、治らなくなっちゃった性質もあるのだと思われますね、
残念ですけど。

だって、誰も聞いてないのに自分語りを始めるとか、自分の判断が
つねに正しいと言うとか、自分の行動に甘く他人に厳しいとか、そ
んなことおじさんは中学生のころからずっと同じことしてますよ。
だからおじさんは劣化して劣化オッサンになったのではなくて、そ
ういう中二の自分を、抑圧しながらも遠い目をしながら無意識的に
強化してきたわけのです。
どうですか?おじさんのあなた。イヤイヤそんなこたぁないよ、と
思うなら、

「中二病取扱説明書」(塞神雹夜/新紀元社)

を読んでみてください。
中二病とは、タレント伊集院光さんがラジオ番組で提唱したとされ
ることばで、「男子が中学二年時あたりに取りがちなイタイ行動・
思考」という意味です。
「自分を認めてもらいため、無意味にキャラづくりする」とか
「他人や社会を否定し弱い自分を保護する」という傾向をもつひと
を指すことばになっているそうです。
この本はそんな行動や思考のネタ集でした。

もう、読めばそのまま「はいはい、あるある!」となる本なので、
なんの注釈もいりません。ですので、挙げられている中二病の特徴
をちょっとだけ抜き書きするならば、
「いろいろ過去があってね・・・と自慢げに自分の過去の思い出を
 語る」(きっと「遠い目」をしてるな)
「余裕だよ」とか「楽勝」ということばを連発する(根拠のない自信)
「勉強しないことで逆に優越感を得る」(たんなる見栄ですけど)
「自分の体の中に何か邪悪なものがいる(と、まわりに公言して注目を
 あびたい)」
「手袋はオープンフィンガーグローブ」(ロケンロール!)
「血、死、闇などダークなことばを好む」(怖いものなどないさ!)
「だれも本当の俺をわかっちゃいねえ、という」(自分でもわからない
 ですけど)
「映画や音楽に対し、〇〇年代に限る。最近のはてんでダメという」
 (知識と感性を誇りたい)
「メディアから得た情報を、あたかも自分が考えていたことのように
 他人にいう」(パクッてなにが悪い)
・・・などなど(カッコ内は私の感想)。

ま、とにかくこんな調子のチェックリストになっていますから、ご自
分でいまの自分の「中二病度」を測ってみるのも一興でしょう。
あなたはどれくらい当てはまりますかね?
またお若い方は、先輩や上司や親の言動を、とりわけ飲み会なんかで
の行動をこれでチェックしてみても面白いかもしれません。
えらそーにしている彼らの(ワシらオッサンの)「中二度」がわかるは
ずです。

ちなみに私(「憂国の戦士」と呼んでほしい)は、、、残念ながらチェッ
クリストにいくつも当てはまるものががあったんだよな。
おいおい、オレを中二病ってか!この本うっぜーんだよ。

ブログ152

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第151回 2019.08.01

「移住計画にはなにが必要か」

自宅でブックカフェをやっていると、他の場所に引っ越すとか、ま
してや移住するなどという考えはもはやとうてい浮かびません。
そんなしんどいこと、だれがしますか。

ところが誰でも、仕事に疲れてとか、失恋してとか、本が重しにな
ってきてそこから自由になりたいとか、なにか気持ちがムズムズッ
と動いて北海道あたりに移住したいなあなんて思ったこと、一度や
二度はあるのではないでしょうか? 
「北の国から」の五郎さんのように純と蛍を育てたいとか、退職し
てTBSテレビ「人生の楽園」を見たらムラムラッときてとかね。

「神様たちの遊ぶ庭」(宮下奈都/光文社)

作家の宮下さんが北海道は帯広郊外、十勝岳のふもとのトムラウシ
に家族と引っ越した。
それはだんなさまの発案だったが、14歳、12歳、9歳のこどもたち
も異存なく、山村留学の形でとりあえず一年暮らすことになった。
新たな住まい近くの山の名が「カムイミンタラ」、アイヌ語で「神々
の遊ぶ庭」。ゴサインタンに似ている。いや似ていない。

ちなみに、日本(ヤマト)では古来「神遊び(カムアスビ)」とい
って、ちゃんと遊べるのは神様だけらしいですね。人間は八百万
(やおろず)の神様たちの「遊び」を真似することではじめて楽し
むことができるといわれてきました。
だから「カムイミンタラ」は神様たちが遊び、それを人間が見て楽
しむという場所なのかもしれません。
あ、しまった、アイヌの考え方とヤマトの考え方は違っていたかも
しれません、すいませんでした。

それはともかく、子どもたちが通うことになる小中学校は併置校で、
小中学生の生徒があわせて10名。そこで留学生を受け入れている。
へき地や離島への山村留学はいま流行っていて、都会から多くの子
どもたちが留学しているようですね。
カムイミンタラという大自然に家族で移り住んだ宮下さんご家族は、
結果的には一年しかいなかったけれど、その一年の子どもたちの濃
ゆい生活が綴られた日記エッセイがこれでした。

さてこのカムイミンタラは、エゾシカやキタキツネやエゾリス、そ
れに熊(出そうで出ませんが)とか、自然に囲まれ「庭」ですから、
小説家としては身の回りで起きることを観察して書くことには事欠
かなかったでしょう。
しかしこの本では、そうした自然の営みや小説家的感興よりもむし
ろ、ひとの暮らしぶりが主人公になっていました。

とりわけ子どもたちが通う学校の授業や活動、そして町の行事。
学校では学年をまたいで授業があるので、あまりコセコセしない。
詰め込まない。文字どおりの「ゆとり教育」。
課外授業は、夏はトムラウシ登山(過去に遭難事故があったりして
結構ハードなコース)、冬はスキーにスケート(校庭に水を撒いて
凍らせる)、部活はバトミントン(少人数で、室内でできるから)、
そして季節ごとの町のイベントやお祭り、仮装大会などでは、校長
先生から町の人たちから親たちまでみんなで協力しておこなう。

ということで、そこはまるで大人も子どもも共に学ぶコミュニティ
スクールだった、いや、たぶんそれが神様の遊ぶ庭で人間も楽しま
せてもらうということだった。
こんな話を読まされたら、とくに子どもさんのいるご家庭なんかた
まらんでしょうな。(ラップ調で)ウチらも行きたい行かせたい、
いちどは山村留学してみたい、ついでに仕事もやめちゃいたい、、、
なんて声が出るでしょうな。
ウンウン、わかる、その気持ち。

ところで、多くのエピソードのなかで私がいちばん気に入ったのが、
宮下さんの12歳になる次男の話でした。
母親がこの一年の話を月刊誌で連載すると聞いた次男、自分のこと
はあまり書かないでくれといい、書く場合も名前は仮名にしてほし
いと母親に頼みます。
自分で選んだその仮名は、「漆黒の翼」。のち「英国紳士」に変更。
しかし彼は、学校では「ボギー」と呼ばれていることがのちに判明
する。名前にはそれぞれ理由があるらしいのだけれど、よくわから
ない。

こういう、自意識過剰でちょっと生意気な、自分でもどうしたいの
かわからない、なんというか中学二年生あたりの特有の状態って、
みなさんも自分や子どもを省みて思いあたることありませんか?
そしてそんな次男をグッと受けとめるお母さん、はい、大雪山のよ
うに強くたくましいお母さん、好感をもって読めました。

さてでも、結局最後までよくわからなかったのが宮下さんのだんな
さんのことでした。
このエッセイにだんなさんはあまり登場してきません。引っ越した
いと言いだした張本人なのに、エピソードもほとんどありません。
どんな仕事しているのか、なぜ北海道に移住したかったのか、移住
先でなにをしたのか、わかりません。書かれません。仮名もなし。

そうじて彼は、そのときそのときの思いつきで動いているような印
象があります。
だから私思うにたぶん、このだんなさんこそが、中二くらいの心の
持ち主だったんじゃないかな。ちょうど次男さんと同じくらいの。

いや、知らない方に対してたいへん失礼な言いようで申し訳ありま
せんが、でもそんなだんなさんだったからこそこの家族は彼につい
ていって、神様たちの遊ぶ庭で楽しむことができたんじゃないかな。
そう思いたいです。
ということで、家族で移住するような新しい経験のためには、一家
に二人くらいは中二の男子がいたほうがいいみたいです。

ブログ151

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第150回 2019.07.25


「描かれた世界をそのまま信じるわけではないが」

探偵小説を読む私たちは、探偵さんによって再構築された「犯人の
目に映った世界」を味わうことになります。
どういうことかというと、探偵さんによって犯人が崖の上で名指し
され、その犯行の謎が解かれる。すると私たちにも彼を取り巻く人
間関係や社会的課題が理解できるようになり、あー犯人はこういう
世界に自分が住んでいると思っていたのだ、とわかるはずなのです。

そして読者はそれに満足して、いままでの自分の世界に安心して帰
ることができる。
これがほんとうの「一件落着!」ということになります。
ところが、そううまくチャンチャンとはいかないこともあります。

カフェの本棚からオーナーの住んでいる世界を理解するくらいなら
ともかく、「探偵さんによって明らかにされたその世界」が複雑で、
もしかすると犯人がわかっても、彼が住むのがいっそう複雑な世界
だったりすると、私たちは困ってしまうのです。

その世界は、われわれのなじみのない世界で、そこでは多様なひと
の怒りが多様に渦を巻いている。
犯人の犯行理由はからみあっていて、犯人は自分の犯行を後悔せず
悔悛せず償いもしていないようだ。
すると私たちは、あれっ、スッキリ解決したはずなんだけど、なん
だか便秘がつづいているみたいだ。どーしたんだ、この気持ちは?
五差路の交差点の真ん中にポツンと取り残されたかのような不安を
感じることになるのです。

つまり、犯罪としては解決されて犯人もあきらかになったけれど、
それを引き起こしたもともとの現実世界が、私たちの想像を絶する
わかりにくさだったということがわかることになる。
これが、じつはすぐれた探偵小説の深さ、そして小説に映しとられ
た現実社会の苛烈さということかもしれません。

「頭蓋骨のマントラ」(エリオット・パティスン/ハヤカワ文庫)

これはチベットを舞台にした20年前に出された探偵小説です。
チベットの奥地ラドゥン州の強制労働収容所でくらす中国人の元監
察官(犯罪を摘発する探偵さん)が、囚人の身分のまま、そこで起
こった殺人事件を解きほぐしていく。
彼は政府の大物がからんだ汚職事件を追求したことから、中央(北
京)を追われて収容所で強制労働をさせられているのだった。これ、
中国でいまでもよく聞く話ですから、舞台設定としてリアルです。

強制労働につく主人公の探偵さんの精神力は鋼のように強いもので、
それはたとえばこんなことばに現われます。
「以前、ある僧侶と知り合いでした。(中略)正義を追求するか、
役人の要求通りにことを運ぶかのジレンマに陥ったとき、その僧侶
はなんといったと思います? われわれの人生は、真実を知るため
の実験に使われる道具なのだと」。
・・・強く、気高いことばですね。ハードボイルドだなあ。テレビ
ドラマ「相棒」の警部、杉下右京さんが言いそうなことばでもある。
じっさいの元ネタはダライ・ラマですが。

それはともかく、収容所では探偵さんだけが漢人、まわりの囚人は
みなチベット人、彼は父親から老荘思想を教わったが、いまはチベ
ット僧へのリスペクトを深めているという設定で話が進みます。
ここで起こった殺人事件は、チベット伝説の魔神タムディンの仕業
とされるが、チベットを支配する中国の官僚組織や、アメリカの鉱
山開発企業とその研究者や、中国軍の破壊から守られ隠されたチベ
ット仏教の寺や、主人公を監督する軍人やチベットの若者などが入
り乱れて、もうそれこそ複雑怪奇な現実を構成しつつどこでなにが
起こっても不思議ではない状況がある。

ということになると、ほら、どの時点でどのように探偵さんが切り
取っても、つまりどのように解決にいたっても、私たちに残される
世界はいぜんとして複雑で矛盾だらけなままだろうとも予想される
わけです。

なんせチベットですから。
チベット情勢はこの小説の書かれた20年後のいまも変わっていない。
というか、中国支配が一段と進んでいます。何十万人の漢人が移住
し、チベットの首都ラサは漢人の住む中国の街になってしまった。
登場人物のひとりが言います。
「チベットにいると自分の中のなにかが変わってしまうのよ。ここ
ではすべてが生々しい。」

漢人の主人公も述懐して、
「彼ら(チベットの高僧たち)はあまりにも偉大で、自分はあまり
にも卑小だ。彼らはあまりにも美しく、自分はあまりに醜い。彼ら
は完全にチベットに根ざしていて、自分は完全に根無し草だ。」

ところがそんな彼も、チベットの高僧(リンポチェ)にこうたしな
められる。
「友よ、あなたはまだ望みに身を焦がしている。そのために自分は
世界を敵に立ち向かえるという誤った考えをいだいてしまうことに
なる。そのためにもっと大事なことから目をそらされてしまう。そ
して世界は犠牲者と悪漢と英雄で成り立っていると思い込んでしま
うのだ。」
単純に白黒つけてわかりやすく解決、なんてことはないのだよ、と。

そんなチベットの、政治と宗教と人種と価値観がぶつかり合う最前
線では、ものごとは単純には進まず、時間もまっすぐには進まない。
「人の生は一直線に、暦をたどって毎日同じだけ進んでいくのでは
ない。そうではなく、ある瞬間から別の瞬間へと、魂を揺り動かす
ような重大な決断をするたびに飛躍していくのだ。」

引用が多くなってすみません。
どうも私は、これらのことばに惹かれるのですが、いずれもふつう
の探偵小説ではなかなか出会えないおことばだとも思います。
ここにも、チベットという複雑な世界で起きる事件を解決しようと
する探偵さんの、解決してからなおもつづく苦悩がある。
そして、小説で描かれた舞台をそのまま信じるわけではないが、あ
る面、すでにその背景を信じつつ読んでいて、さらに主人公の探偵
さんとチベットの将来についていっしょに考え込んでしまう読者の
苦悩もある。

 

ブログ150

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第149回 2019.07.18

「イヤーな味わいだけど手ばなせない小説」

アメリカ大統領はあいかわらずお元気のようですが、それはそれと
して。
同じアメリカの同じような田舎の話でも、これだけ味が違うのかと
思わされる小説が、

「フラナリー・オコナー全短編(上・下)」(筑摩書房) でした。

舞台はアメリカ南部ジョージア州。時代は1950~60年ころ。
この地方は、南北戦争を背景にした「風と共に去りぬ」で描かれた
通り、綿花を育てるに適した豊かな黒い土があり、1800年代のはじ
めから何百万人もの奴隷を使って大規模なプランテーションが経営
されてきた土地柄です。

そんなことでこの地域は、黒人奴隷の肌の色と土壌の色から「ブラ
ックベルト」と呼ばれるようになったのでした。
もちろんいまでもそこにはアフリカ系の住民が多く住んでいるので、
2008年の大統領選挙ではバラク・オバマ支持者の層がこのブラック
ベルトに沿っていたといわれています。ラストベルトよりだんぜん
歴史の厚みがある土地柄です。

さて、こんなジョージアで生まれ育った作者は、どうやらこうした
南部の、南北戦争や奴隷解放からつづく南部人のやや屈折した生活
感情を背負ってしまった方のようです。
それは、どの作品にも人種差別や移民排斥などの偏見に満ちた負の
遺産のカゲが濃いことがあるからわかります。アメリカのロードム
ービーでもよくお目にかかりますけれど、差別や偏見に満ちた南部
社会とそこに暮らすたまらなく保守的な人たちが登場します。
牧場や農園の退屈な暮らしにあきあきしているのに、そこから出ら
れないで他人を排除しようとする人たちばかりなんです。

たとえばある女性の農園主は、ポーランドからナチスドイツを逃れ
てやってきた移民を受け入れるのだけれど、彼らに対して、
「あの人たちがくぐってきたことを思えば、手に入るものはなんで
もありがたいんですよ。ああいう所から逃げてきた、こういう所へ
来られる幸せを思えばね」、などと、まったくの上から目線で言って
ます。
まるでビビアン・リーが言いそうなせりふではありませんか。

あるいはまたべつの白人女性の農園主の、息子へのこんな表現が、
読む側の気持ちをガックリ萎えさせたりもします。
「奴隷のように身を粉して、汗水たらして働いてここを持ちこたえ
てきたのに。私が死ぬのを待って、くだらない女と結婚してこの農
園に入れて、なにもかもだめにするってわけね。」
あーあ、このお母さんも言っちゃうんだ、呪いのことばを。

主人公たちは、南部だからこその自分の生い立ちや家族の歴史など
に強いプライドをもついっぽう、しかし「自分が、じつはなにもの
でもなかった」「ふつうの人間だった」という残念な現実に気づき、
自分でもびっくりして他人を傷つけたり、それによって自分をさら
に傷つけたりしていくのです。

だから、どの話の結末もハッピーエンドになりません。
うひゃ、このひとたちは、どうなっちゃうんだろう? とか、あれ
ー、この流れだと結末はたぶんヤバイだろう! とか思っているう
ちに、案の定、登場人物は死んじゃったり殺されちゃったりする。

すると訳者が書くように、
「主人公たちは、自分のつごうで、誰かがじゃまだと思う。その人
にいなくなってほしい。その思いを推し進めた結果が殺人になる。
他を排除しようとした者は、その行為が実行された時点で、自分の
おぞましい実像を突きつけられる」。

私たちはそこに、南部の生活の転倒した苦さをジワッと味わうこと
になります。
登場人物はみんな「ふつうのひと」なのにもかかわらず、ある意味
とても不器用でグロテスクで残念なひとたちなのです。
これがじつに「ワインズバーグ オハイオ」と正反対でして、ふつ
うに描かれている人たちなのだけどグロテスクで残念、グロテスク
で残念と描かれている人たちだけれどふつう。

ああイヤだイヤだ。悲しい。つらい。こころが温まらない。
ほのぼのとしない。全米も泣かない。ハックルベリーやトム・ソー
ヤーが恋しい。なんだったらO・ヘンリーでもいい。
でも、しかし、であるにもかかわらず、ここにもアメリカの、今に
続く「ふつう」が見えることは確かです。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第148回 2019.07.11

「若いときに読んでも役に立たなかったね(たぶん)」

ということで、じつはここに、誘惑の実践を路上でのナンパという
かたちで「裸で、丸腰で」おこない、ナンパ相手の女性だけでなく
世界ともガチで対決しようとした勇敢な男子のナマナマしい記録が
ありまして、それこそ、

「声をかける」(高石宏輔/晶文社) でした。

ご紹介する前に、この本はR18だと思いますので、そのおつもりで
お読みください。
というのも、フィクションなのかノンフィクションなのかわからな
いけれど、ディテールからなにからとてもリアルなこの本は、いっ
てみればナンパの現場中継みたいな迫力で読むものを圧倒し、感覚
を刺激するからです。

これまた、私の若い時代にこの本を読んでいたらどうだったろう、
と思わず考え込んでしまう、そんな力強い細部の状況描写と相手と
自分の心理状態の分析、そしてそこから導き出される説得力ある考
察が、説得力バツグンなのです。

まずはその筆力に脱帽でした。
たんなるストリートファイターでも、風俗系ルポライターでもない
な、この作者。ただものじゃありません。いってみれば「四畳半襖
の下張り」のような、名の知られた大文豪の隠れた仕事みたいな感
じなんです。
(あとで筆者はカウンセラーだということがわかりました。でもそ
れまでに、いろいろな経験を積んだのでしょうね)

では、どこでもいいけど、ぱっと開いたページから、その情景描写、
心理分析、そして彼の感情や情動のあらわれを引いてみましょうか。
すると、こんなことばが聴こえる。
「話しかける相手に何らかの関心を持てなければ、声をかけること
はできない。気持ちを落ち着かせた。なにも考えず、期待をしない。
そうなるために、目に映っている人々の歩みを、どこに焦点を合わ
せることもなく感じていた。」

また、
「一対の脚の動きに注意が向いた。それは柔らかく、地面に吸い付
くように下りていき、それからまたすっと地面から引き離された。」
あるいは、
「ぼくにはすべての人間が寂しさからどうにか逃れようとしている
ように見える。人々の個々の動きは、寂しさが導き出すバリエーシ
ョンに過ぎないように感じられていた。」

私は、ナンパ師/誘惑者がひとを観察している視線を、こんな角度
から覗くことになろうとは思いもよりませんでした。
とくに「なにも考えず、期待をしない」ということばです、
へえーっ、ということは、このひとはすでに「裸で、丸腰で、相手
と対決」しているじゃないか! 達人佐伯氏のいうことを実践して
いるではないか! ってことは、このひとはすごく正直でオープン
なひとなのではないだろうか、大文豪のくせに(だから違うって!)。
それゆえに、路上ではじめて見る他人をこのように観察し、さらに
振り返って観察している自分を観察して的確に表現することができ
るのだ。

ただし、たぶん彼はその時点で、観察に応じて動く自分のこころを
のぞき込むことに夢中になり、そこからなにかを見つけたいという
強い欲望から離れられなくなってしまったのではないか。
私はそんな疑問にかられます。

というのも彼は内面でこんな作業をしながら、しかし自分でも理解
できない焦燥感にせきたてられるように、日々路上で、クラブで、
ナンパを繰り返し、結果がうまくいってもいかなくてもナンパを繰
り返すのですから。
ナンパした女の子に「そういうのやめられればいいね」と言われな
がらも、さらにナンパを繰り返すのです。

私たち読者は最後まで読んでも、なぜ彼がいつまでもナンパを繰り
返すのか、なぜ自分のこころをのぞき込み続けるのか、その理由が
わからない。そんなに「世界と対峙」したいか?
もしかして彼はナンパという行為に「居付き」、そこから逃れられ
なくなっているのではないか。ほかのやり方ができなくなっている
のではないか。

彼の望みは、まったく見ず知らずの他人となにかしらの会話をし、
自分とのあいだの距離を測り、その距離を縮めて向こうの身体まで
たどりつき、さらにその奥にあるはずの心を見たい、そしてそれに
よって自分を知りたいのだ。

でもその望みは叶わない。
物理学でいう不確定性原理みたいなもので、相手も自分も、測ろう
知ろうとすれば変化してしまい、そのうち掌の氷が溶けるようにス
ルリと手から漏れてしまう。
ほんらいそれが「裸の」人間というものなのでしょう?
どうでしょう?

彼も、それを知ってか知らずか、こんなふうに述べています。
「他人の体は神聖であるのに、どうしてこうも簡単に触れること、
触れさせることができてしまうのだろうか。そして、触れてしまう
と、ついさっきまでの緊張感は途端に失われてしまう。」
バカだなあ、そんなこと最初っからわかるだろうが。

こうして私たちには、彼はやはり「世界と抱き合う」ことができず
に対峙してしまうひと、もしくは救いをもとめて得られないでいる
探究者/求道者のように見えてくるのです。
彼は、自分はなぜナンパするのかとか、最終的になにを求めている
のかとか、どうなったらやめられるのかといった問いには、たぶん
本気で答えを出そうとはしていないのかもしれません。
人間は他人をとおしてのみ自己を認識できるということばどおり、
彼はこうして、ナンパで出会う人を通しての自分探しをいつまでも
やめられなくなっているのです。

私たち読者は、この本のリアルさは作者(主人公)の切実な探究心
のたまものだということを理解すればするほど、その真摯さとは彼
が「裸」になっていることによるものだと納得すればするほど、で
もそれはどうあっても彼個人の問題ではないかという疑問にさらさ
れ続けることになります。
そんなこともあり、私は、これは自分が若いときに素通りした本だ
ろうけど、いまでは自分に関係しないという意味で少し理解できる
なとも思ったのでした。屈折した言い方ですいません。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第147回 2019.07.04

「若いときに読みたかった・・・けどね」

カフェのようにお客さま相手の仕事をしていると、もし自分のコミ
ュニケーション能力がもっと高かったら、そしてそれを有効に客寄
せとか営業に使えたら、どんなにか繁盛店になることだろう、など
と妄想するときがあります。

ひどい妄想ですね。
でも、なんとなくわかっていただけるでしょうか? 
もうちょっと他人とうまくしゃべれたり、そのおかげで世渡りがう
まかったり、口説きとか誘惑とに優れていたら、いまごろどんな人
生だったろうってウットリ考えるようなもので、いい大人としてど
うなんだという話ですけど。

そんな、ココロがちょっと後ろ向きになっていたとき、おもしろい
本があるものだなあ、と感心させられながら読んだのが、

「誘惑論・実践編」(大浦康介/晃洋書房) でした。

この本は、学者さんである筆者が「ナンパの達人」佐伯孝三という
架空の人物との対談の形をとって進めるフィクションなのですが、
この佐伯氏というのがナンパ理論をきわめていて、「誘惑に関して長
いあいだ後進の指導にあたってきた人」という設定になっています。
ただのナンパ師ではないのだゾ、理論家で指導者で達人なんだゾ、
というわけです。
いいですね、「誘惑とナンパにおける後進の指導」って。
もちろん私も速攻で弟子になりたいと思ってしまいます。

ただ読んでいくうちに、誘惑とは口説きのテクニックのことだけで
はなく、その道の有段者になるためには心身ともにたいへんな修行
が必要らしいことがわかってきます。
そう、これは誘惑の実践を踏まえた、コミュニケーションと人間性
の本質に迫るまじめな研究なのでした。だからナンパについても、
コミュニケーション論としてきちんと成立しているわけです。

まず理論面で参照されるテキストがすごいんです。
スタンダール「赤と黒」やジッド「狭き門」、それからマルグリット
・デュラスといった文学系、キルケゴールの「誘惑者の日記」にバ
タイユの「有罪者」といった哲学系、さらにはフロイトやミルトン
・エリクソンの心理学、ジンメルやボードリヤールなどの社会学、
そしてもちろんドン・ジュアン(ドン・ファン)やカサノヴァなど
の実戦系に、、、、ああ疲れた。
まだまだありますけれど、いずれも人類の叡智の詰まった古典中の
古典ばかりでした。

達人佐伯氏は、これら人類の叡智について豊富な知識をもち、なお
かつそれらを自由自在につなぎ合わせ、独自の理論に仕立てて、そ
れを惜しみなく後進に伝えようとするのです。

いっぽう、とはいえ誘惑の技術面についても、筆者はスポーツや剣
豪の例をあげて、その間合いの取り方とか人間心理にもとづく出会
いと探り合いの結構を解説していきます。
それも、正攻法からはじまって、「じらし戦術」「幻惑戦術」「落差
戦術」など、ナンパですぐ応用できそうな必殺・裏技テクニックも
紹介されていますから、すぐ使える技術を学んでその道の達人にな
りたい!と思っている人にもじつはお勧めでした。
私も若い頃に弟子になっていればなあ・・・ブツブツブツ。

こうして達人佐伯氏とインタビュアー大浦先生との対話は、ナンパ
や口説きや誘惑からはじまってズンズンと深いところに入っていき、
よりスリリングなものになっていきます。
そこで名言も登場しますね。
たとえば、達人佐伯氏いわく、「口説き文句を用意するな」。
これはどういうことか? 誘惑を志す君たちはかっこいいセリフを
覚えてその台本どおり相手にアタックするのではなく、君そのもの
として裸で、丸腰で、相手と対決しろというのです。
そして、「肩の力を抜いて、世界を抱擁するような気持で、真正面
から『驚くこころ』をもって、世界と向き合ってほしい」と。

誘惑とは誘惑相手をとおして世界と向き合う作法なのだ。
誘惑者である君は、つねに新鮮な気持ちで相手に向き合わなければ
ならないし、それは人間として裸一貫になって自分のすべてを相手
にさらけ出すことだし、それこそが世界に相対することに他ならな
いのだ。オープンに、マインドフルに。すると君は世界というもの
を新鮮に受けとめて驚くことができる。
これが誘惑というものの本質だ。
こうおっしゃっているのです。達人、あなたのことばは深いです。

ところで著者には、「体面的 ~見つめ合いの人間学」(筑摩書房)
という著書もあって、そこでは人と真正面から向き合うことや見つ
め合うことの難しさ、怖さ、そしてその必要性までを分析していま
す。
「見つめ合う二人のあいだに生じる不可思議な磁場は、人間社会に
特有の<抑制>と<作法>が試される場であると同時に、動物的交
感の入り口である」というように、こちらは学術的に難しく表現さ
れていましたけど、顔やまなざしをコミュニケーションの「裸(人
間vs.人間の)の部分として捉えるところは同じでした。

いやー、いずれにしろこりゃあ、私のように、とりわけ異性関係に
不遇で未熟で悩み多かった若いときに読んでも、たどりつけない境
地だったかもしれませんね。
実践的に、いや路上の実戦で参考にできることなどなかったかもし
れません。誘惑とかナンパとは、こんなにも深遠な思想に裏づけら
れるものとは夢にも思いませんでした。

ただ、いまカフェのオーナーとしての私も、技術に走るのではなく、
なるべく「丸腰」で「裸」で「新鮮な気持ち」で「オープンに」お
客さまと、そしてお客さまをとおして世界と向き合おう。営業に役
立てようなどというよこしまな考えは捨てよう。
この本を読んでそう固く決意した午後でした。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第146回 2019.06.29

「あらためて山岸俊男先生をしのぶ」

昨年(2018年)、社会心理学者の山岸俊男先生が亡くなられました。
私は、直接ご面識があったわけではないけれど、なにかいままで
とてもお世話になったような気がして、あらためてご冥福を祈りた
いと思います。

先生のご専門は、社会を構成する人と人の間の関係性の問題でした。
それをさまざまな実験の成果をもとに、社会学的かつ心理学的に考
察していくという、えーと、つまり、なんというか、社会集団の心
理の解明とでもいいましょうか、そんなご研究でした。
私には、どっちにしろこうした研究書の紹介などうまくできるわけ
ありませんから、手元にある本の題名だけ挙げてみます。

「信頼の構造 ~こころと社会の進化ゲーム」(東京大学出版会)
「社会心理学キーワード」(有斐閣)
「心でっかちな日本人 ~集団主義文化という幻想」(日本経済新聞社)
「社会的ジレンマのしくみ ~自分一人ぐらいの心理の招くもの
  (サイエンス社)
「日本の『安心』はなぜ、消えたのか ~社会心理学から見た現代
  日本の問題点」(集英社インターナショナル)
「『しがらみ』を科学する ~高校生からの社会心理学入門」
  (ちくまプリマー新書)

こうやって書名を並べてみるだけでも、集団・心理・信頼・安心・
しがらみ、、、と、先生の研究テーマが見えてきますでしょう。
私がお世話になったというのは、集団がどんな理屈でどんな回路で
動くかということについて大きなヒントをいただいたこと、とりわ
け人間社会が人と人との信頼関係によってできあがっていると教え
ていただいたことでした。
ジレンマ、ヒューリスティックス、リスキー・シフト、グループダ
イナミクスなんていうカタカナことばにも慣れました(慣れさせら
れました)。

先生の著作がきっかけで、社会心理学にも興味をいだくようになっ
たこともあります。
なかでも、社会関係資本(人と人のつながりをその人の「資本」と
考えて、それが増えると個人としての収入や地位や影響力が増し、
また地域やコミュニティとしても活動がうまく回るという考え方)
に目を開かせていただきました。(それに関する本は、またあらた
めてご紹介する機会があると思います)

ほう、すると君は、先生からのそれらのご教示を、実際に仕事や生
活でどう活かしたのかね? なんて尋ねないでくださいね。
先生の著作によって私の人間関係が良くなり、社会関係資本が増え、
結果、私のなかで力強く活かされている。はずです。そう思います。
思いたいです。そうでなければなりません。
カフェの経営だってもちろん、信頼・安心・しがらみなどによって
左右されるのですしね。

それとは別に特筆すべきは、私は先生の著作に促されて「社会関係
資本とファシリテーション」という大論文をものしたことがあった
のでした。
それは、会社でデスク仕事をするフリをしながらひそかに内職して
書いたものだったことを告白しなければなりません。すいません。

というのも、じつはその当時、日本ファシリテーション協会という
NPO法人の立ち上げに参加したあとで、その理念と活動の普及に
先生の研究を役立てたいと思ったからなのです。
ファシリテーションと社会関係資本とは切っても切れない関係にあ
るってことを世間様に知らしめ、もってファシリテーション理論の
確立と確かなる実践をめざそうと。それができたらなんとカッコイ
イことだろうと。そう考えていたのでした。

そのもくろみはしかし、私の論文がほとんどだれの目にも触れずに
終わったことによって頓挫しました。残念!
さらに、そんな隠密活動・内職生活のせいで、職場の周囲からは白
い眼でみられ、社内の人間関係もややこしくなって、私の社内関係
資本はガックリと弱まったのでした。
つまり私は、先生のお仕事を社内的に活かすことができずに終わり
ました。先生、ごめんなさい、私は不肖の読者でした。
けっきょく人間関係とか集団心理とかは、、、んんん、めんどくさい!

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第145回 2019.06.20

「いまさらながら鶴見俊輔さんを悼む」

私の手元には、自分の気に入った古今の賢人たちのおことばを集め
たノートがあります。
「賢人のおことばノート」というのですが、たまにそれを引っ張り
出して、お客さまのとだえたカフェの営業中に読み返したりするの
も楽しいものです。

こうした抜き書きって、とりわけ思春期などにだれもがすること
でしょうが、その時そのときの気分とか抱えている問題などによっ
て、自分のアンテナにひっかかってくるものが違うのが後になって
わかる。だからおとなになっても楽しめるというものです。
まるで、おいしいと感じる料理がそのつど変わっていくように。

そんな賢人のなかでも、いにしえの方ではなく現代人で、ああ、で
ももうこのひとのナマのお声は聴けないのだな、この方の作った料
理は食べられないのだな、と寂しくなる方がいて、その方のことば
にはよけいに愛着がわいてメモしてしまうということがあります。

「思想をつむぐ人たち」(鶴見俊輔/河出文庫)

鶴見さんは日本の思想家のなかでも特異な場所に立っている方かも
しれません。
戦前にアメリカにわたって哲学を勉強し、太平洋戦争勃発によって
帰国。そのとき米国移民局に、「自分は無政府主義者だから、どち
らの国家も支持しない」といって相手にあきれられたとか。
戦後は「思想の科学」という雑誌の編集人をし、小田実らとベ平連
(ベトナムに平和を!市民連合)の活動にかかわり、2015年に93
歳で亡くなるまで、マンガや大衆芸能から政治思想にいたるまで、
無政府主義者らしい(?)自由で柔軟な考えを発信していました。

特異な場所に立っているというのは、彼はアメリカでプラグマティ
ズムの影響を受けたらしいけど、〇〇主義とか〇〇哲学の学者さん
というわけではないことです。
また派閥とか仲良しグループを作ったりせずに、いってみれば身ひ
とつでいる。そんな自分を「悪人」と定義して、国家とか戦争とか
大きなものにたいしても、おそれることなく向かっていた実践家で
あり、だからこそ歯に衣を着せぬ物言いをしたおひとだった。
だから私は、彼もまたフール・オン・ザ・ヒルのひとりではないか
と思っています。

そんな方ですから、どの本、どの発言からでも独特な、他とは違う
視点のインパクトある「おことば」はたくさん獲れるわけです。
ちょっとだけパラパラッとページをめくると、そこには、
「哲学とは、当事者として考える、その考え方のスタイルを自分で
判定するものだ。」
なんておことばが飛び出してくる。

また、難民キャンプでコレラで死んでいく子供に人工呼吸をほどこ
す女性のことばを紹介して、
「死を救うことはできませんが、死の状態を救済することはできる
のです。つまり、だれかの上にやってきた死が、意味を会得する手
助けをすることはできます」。

あるいは、イラストレーターの南伸坊さんを評して、
「この人は、テレビに出ている時にさえ、日常の信念を生きている
という印象を与える。その印象のもとは何かというと、彼のオムス
ビ型の顔にあるように思える。顔の形が、思想のあり方を表現する
例・・・」

足尾銅山の田中庄造について、
「形としては彼のしたことで成功したものはないと言ってよい。だ
が、最初の難破が次の難破へとしっかり接続している。」

そんなこんなで、今日もたくさんのおことばを、「獲ったどーっ!」
ということになります。
でもキリがないので、このへんでやめておきましょう。なんか「天
声人語」の、亡くなった方を悼む篇を書く材料を集めているような
気がしてきましたし(笑)。
でも、みなさんも、こういうことばだったら、ずっと読んでいたい、
聴いていたいと思いませんか?

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第144回 2019.06.13

「カフェに並べられない天才マチァアキを、どうしても悼む」

ブックカフェの本棚にはなかなか出せない本、というのがあります。
たとえば大藪春彦先生の本、またたとえば団鬼六先生の本などなど。
なかなかねえ、ちょっと恥ずかしいしねえ、探偵さんに見られたら
ねえ、どうしようかと思っちゃいます。
そのうちのひとつが、平岡正明さんの本。

平岡正明(マチャアキ)、1941年生まれ、2009年に68歳で逝去。
早稲田大学一年の時に共産主義者同盟(いわゆるブント)に入り、
60年安保に参加。その後、ジャズ、革命、犯罪、映画、歌謡曲、極
真空手、それから落語や新内や浪曲などの大衆芸能ほか、幅広い
ジャンルでの評論活動をし、しかしながら、その底につねに革命を
追い求める姿勢を崩さなかった人。

私が彼を天才だと思うゆえんは、彼の文章です。
いきあたりばったりでハチャメチャに流されているようで、しかし
論理的かつ感情的であり(このふたつが矛盾しない)、たゆたうよう
な長い旋律で奏でられ、そのうちに、おお、ここに連れていかれる
のかと気づく、ドライブのかかった、まるでジャズの長いソロアド
リブを聴くようなものだからです。
読むうちに、どうしてもそのパワーに身を委ねてしまう。

それは彼が、文章だけで暮らしていた「評論家」とは違って、じっ
さいに活動(意味、わかりますね)をしながら、つど、対象にぶち
あたりながら書かれてきたということも大きいのでしょう。
つまり、現場の身体的な動きと文章が連動している稀有な評論とで
もいいましょうか。

だから彼の本は、その内容にしろ文章にしろ、だれでも気軽につま
み食いで読めるようなものでもありません。とんでもない発想がと
んでもない結論につながり、ときには論敵をケチョンケチョンにや
っつけ、ときに誤読誤爆自爆し、それらがなぜかジャンルを超えた
地平にたどり着く。
だから、ヒマなときにちょっと味見しようかな、などと思うとやけ
どをしてしまうのです。

たとえば、著書の題名だけ並べてみてもすごいですよ。
「ジャズ宣言」「永久男根16」「韃靼人ふうのきんたまのにぎり方」
「あらゆる犯罪は革命的である」「海を見ていた座頭市」「官能武装
論」「若松プロ、夜の三銃士」エトセトラエトセトラ。
ね、差別発言で申し訳ないけど、おんな子どもの読めそうなタイト
ルじゃありませんでしょ。
私なんて、これらの本を書店で注文するとき(まだアマゾンがない
時代)苦労しましたもの。とくに「韃靼人ふうの・・・」。

なんせ革命的で過激でアナーキーで、なおかつ下半身関係もないが
しろにしない「活動」の軌跡がこれらの本となって結晶したのです
からね。
ということで私のなかでは、天才マチャアキの本は、「女こども」を
含めていろいろなお客さまの来られるカフェの本棚に置くには適さ
ない、という判断にいたっておりますです。

ところで、彼の残した有名なことばには、たとえば「ジャズはジャ
ズ喫茶で聴くものだ」というのがありますが、それには、おなじく
一世を風靡した「山口百恵は菩薩である」ということば同様に、い
くつもの象徴的で実践的な意味が込められていますから(!)、いわ
ゆる賢人のおことばとか「私の人生を変えた一句」とかにはなりえ
ません。
つまり、「賢人のおことばノート」をつけていたとしても、それには
「獲れない」のです。

しょうがないんです。そういうおひとであり、そういう本なのです。
だから読む側は、ただただ、天才の天才ならではの表現とあきらめ
て、ちょっと熱い温泉に浸かるようにその文章のリズムに身を任せ
るのが正しい読み方ということになります。
それができるかできないか。
いってみれば、ジャズ喫茶の入り口ですき間からほのかに流れてく
る音を聴いて、思わず入ってしまうか、あるいは背をむけて別の店
に行くか。

さらに思い出します。
じつに私は、高校生のときに学校の近くの左翼系書店でマチャアキ
本に出会って(その奏でる音を聴いてしまって)、この奏者は天才
だと感じ(「なんという野太い音だ!」と思って)、買ってジャズ喫
茶に入って読み通し、そのときから50年、彼のすべての本を買って
読んできましたから(エヘン、って威張れることでもないですが)、
総数なんと110冊(金額にして30万円くらい?)にもなります。

そういえば彼の著作は、ひどいときには初版2000部というときもあ
ったようですから、すべての著作を読むようなコアな読者は2000人
と考えていいのでしょう。
私はそのなかの一人として、あまり自慢にならない誇りを感じつつ、
もはや彼の新著は読めないんだと自分に言い聞かせつつ、自分の心
の一部とともに、カフェの本棚に出せない彼の本を書庫に眠らせて
いる、というしだいです。
と、こう書いてきて、どんどん悲しくなってきました(泣)。

ところが、そんな私の太平の眠りを覚ます本が出てしまいました。
「平岡正明論」(大谷能生(よしお)/Pヴァイン)
いやいや、この本のご紹介はいたしません。
やめてよー、寝ていた子どもを起こすようなことは(泣笑)。

ブログ144

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第143回 2019.06.06

「『見る』から『やる』へ」

当カフェでは毎月サロンコンサートを行っていますが、このところ
お正月にお招きしているのが、ヴァイオリンの早川きょーじゅさん。
もちろんヴァイオリンのコンサートなのですが、「おしゃべりヴァイ
オリン」というキャッチフレーズのとおり、救急車やF1の音模写
だったり各国語のあいさつをマネたりして笑いをとる、まことお正月
にピッタリのおめでたい音芸を披露されます。
だから「きょーじゅ」という芸名も、ひらがななわけ。

そんなことを想い出していたら、この本を紹介したくなりました。

「ものがたり 芸能と社会」(小沢昭一/白水社)

歌は世につれ世は歌につれ、のことばどおり、「芸能と社会は連動し
てます」というのがこの小沢さんの本、というか口演のまとめです。
「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を思い出すような語り口でつづら
れていきます。

え?「小沢昭一の小沢昭一的こころ」、知りません?
TBSラジオで昭和48年から40年間、一万回以上放送されていた、
伝説のあの番組を?
山本直純作曲の「おーとーこ四十代はのぼりざかー、花咲くとーき
も、もおーまーぢーかー♪」というテーマソングとともに、小沢さ
んのダミ声で「このつづきは、あしたのこころだー」と終わるあの
番組、知らない? そーかあ、そだねー、しょうがないよねえ。
私とっても好きだったんですよねー、「子ども電話相談室」とともに。

それはともかく、学術的なことと自身のフィールドワーク(旅や聞
き取りですね)や経験をまぜこぜにして、日本の芸能を「遊び」「生
業(なりわい)」「商い」「宴会」「信仰」「悪所」「スポーツ」「テレビ」
などのキーワードによって解き明かしていくこの口演は、とても楽
しい社会科(むずかしい社会学ではなく)のお勉強となりました。

とくにすばらしいのが最終章で、文化人類学者の梅棹忠夫理論を援
用しながら、「これからは『見る芸能』から『やる芸能』へと変わる」
と述べるところ。
カラオケもそう、ストリートパフォーマンスもそう、テレビにおけ
るシロウト進出もそう、芸能に関わるなにもかもが、見るのではな
くて自分が演じることが主になってくるだろうと。
逆に言うと、プロはいらなくなるだろうと、こうおっしゃる。

あ、言い忘れましたが、この本は1998年の刊行ですから、いまから
20年前です。いまでは誰もが言いそうなことだけれど、きっちり20
年先んじている。
「見る」より「やる」ということでは、スポーツもその流れでしょ
うし、お笑い方面でもシロート芸としての一般化もそう、芸術方面
では赤瀬川原平さんや森村泰昌さんもそう。「やる」というところを
強調して、パフォーマンスアートなどということばもありました。

いまなら、ハロウィンの仮装やらなんちゃらゲームやらスポーツやら、
そういうものすべてが「やる芸能」に含まれてくるんでしょうな。
「やる芸能」の範疇がとてつもなく広くなってきている。

さらに、「(梅棹先生いわく)すべての人間がパフォーマントである。
同時にアーチストでもあるというようになりつつある。」ですと。
あ、言い忘れましたがこのご託宣がなんと1971年です。ということ
は、いまから50年ちかく前の診断だ、どうだ、梅棹理論すごいだろ、
と小沢さんが自分ごとのように威張るのも無理ありません。

そして、「この、『する芸能』こそが芸能だ。見る芸能というようなも
のは、ある種の文明の中間地帯に発生した、いわば派生的現象だ。」
というおことばも、深いものに感じられます。
ここには芸能へのオマージュ、とくに小沢さんが生涯かけて追っかけ
た「放浪芸」や伝統芸への共感、それからご自身が長年続けられた
「ひとり舞台」や俳句(俳号は変哲)、それらの土台が確かにあると
感じられました。

きょーじゅにも教えてあげようっと。
それと、私もなにかやろうっと。芸能を!

 

ブログ143

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第142回 2019.05.30

「自分の代わりに探偵さんに示してもらう世界」

私どものようなブックカフェでは、棚にどんな本が置かれているか、
つねにお客さんに見られていることになります。
個人営業の店ですから、お客さんはとうぜん、置かれている本がオ
ーナーの趣味や好みを表わしていると思うことでしょう。本を通し
てオーナーの性格や普段の考え方、それにいままで生きてきた個人
史や隠しているつもりの秘密までも、もしかしたら推測できちゃう
かもしれません。

「あー、ここの店主は遊び人だな。若いころから勉強もせんで遊ん
でばっかりいたな、きっと。趣味はあれとあれとあれ。でも勉強も
趣味も中途半端で終っている感じがある。そんな粘りのなさゆえか、
しくじりも多かったとみえる。それをなんとか取り戻そうと仕事関
連の勉強もしてみたが、残念!いまだに空回りしとるようじゃ・・・」
なんてね。
プロの読み手だったらそれくらいの推理は朝飯前でしょうし、本に
詳しいプロの探偵さんがいたら、オーナーがどんな犯罪に手を染め
てきたか(!)までわかってしまうのではないでしょうか。
おーこわっ。

「探偵小説の社会学」(内田隆三/岩波書店)

によれば、歴代の探偵小説の名探偵たちは(デュパンやホームズや
ポアロや、あの人やこの人も)、もちろん犯人の考えたことや心理を
たどって犯罪の全貌を暴いていくのです。
ただし、それだけではない。
犯人だけではなく、また犯行のすじみちだけでなく、被害者を含め
た関係者それぞれの個人史を推測し、さらに現場に残されたり語ら
れたりする微小なブツとかコトバとの接点を突き詰めようとするの
だそうです。
関係者「それぞれ」の個人史、ですよ。この意味わかりますでしょ
うか? なんせ「社会学」ですからね。

探偵さんは、犯人とその動機と犯行方法だけを明らかにしているの
ではない。
世界は広く多様だ。ひとの心も深く暗い。
犯人・被害者一人ひとりの心も深く広く、そのぶん隠されたグロテ
スクな部分や人にいえない秘密も多い。そんな人間が複数集まれば
それだけ現実世界も広く、闇も深さを増していく。
探偵さんにはそれがわかっている。だから犯罪の全貌にたどりつく
ためには、関係者一人ひとりの個人史とその接点を解明する必要が
あるのだ。

ふだん私たちは、触れずにいたり目をそむけて見ないようにしてい
るものが多いけれど、探偵さんは事件の全貌を示すために、犯人を
取り巻く複雑な現実を切り取り、ワンプレート料理のようにまとめ
て差し出すことができる。
つまり、その時点の犯人・被害者・関係者すべてのひとの目に映っ
た世界を再構築するのだ。

するとそれを読む人は、架空の事件であるにもかかわらずリアルさ
にたじろぎ、犯行そのものに犯人の世界観を見る気がする。
さらには、そこから振り返って自分の心の中を覗いて比較したり、
自分の心の中にも同じものを発見してさらにびっくりしつつ、カタ
ルシスを覚えることになる。
そこに探偵小説の妙味があるんだ、というのです。

筆者が「犯人以外の容疑者も、内面に殺意を持ちながらも(中略)
みずからはその欲望を実現しなかったのである」、あるいは、
「ジジェクによれば、探偵による解決は、これらの容疑者たちをそ
の欲望にまつわる罪悪感から解放することになる」、
などと書くとき、その「容疑者たち」のなかには、読者である私た
ちも含まれているわけですね。
だから私たちは、自分にできないことを犯人や探偵さんに代行して
もらい、それで満足を覚えることになる。場合によっては、その犯
行に人間の心の深い闇と世界の広がりを見せてもらって、深い納得
を感じたりする。
カタルシスというのはそんな意味です。

ところで別枠で記しておきますと、そんなことを語る筆者の「社会
学的」な表現はとってもカッコイイものでしたよ。
「探偵は、現在を、それが蓄えている『過去』の深さにおいて目覚
めさせる。」
いいでしょう? 意味はよくわからないけど。
「探偵小説とは、探偵に導かれ、読者が(自分の見ている夢に陶酔
するために)その深い眠りに入ることをいうのだろう。」
ね、すごいでしょ? さらに意味がわからないけど。
社会学というのは(見田宗介さんもそうだけど)、ときどきこうした
詩的でわからん表現が飛び出すこともある学問なのかもしれません

 

ブログ142

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第141回 2019.05.23

「なぜこの本が売れるのか?」

マスター、このカフェにはベストセラーになった本はあまりないね。
そうかなあ、そうですねえ、そう言われるとあんまりないですね。
どうして置かないの?
置かないなんてことはないですけど、たまたまですよ。まあ、ベス
トセラーは図書館にありますし。
でも、自分で買って読んだベストセラーもあるでしょ?
はい、もちろんですよ。最近も買いましたよ、ベストセラーの本。
ところで、本が読まれないというこのご時世に売れるっていうのは、
どういう本なんだろうね?
はて、どういう本なんでしょうねえ。でもそう、たしかに、ベスト
セラーになる本にはそれ相応の理由があるみたいですね。たとえば、

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎/マガジンハウス)

は、コペル君というあだ名の中学生がいろいろ悩み、叔父さんの助
言をもらいながら成長していく話。昭和12年刊。
学校での下層階級出身者への差別、友情、上級生からのいじめなど
がコペル君の悩みとして取り上げられ、さらに資本主義や共産主義
思想、英雄論などの入り口という一般教養も扱われる。
90年近く時を隔てた現代にも共通するテーマが、読む人のこころを
とらえて考えさせられるポイント満載の書。

・・・というのが、売れる理由でしょうね。
でも、じっさいにこの本を買うのはコペル君と同年代の中学生では
ない、と思うのです。たぶんその親が買って、こどもに読ませてい
るのではないですか。こういう本を読んでコペル君のように素直に
考えるひとになってほしい、という願いをこめて。
ということは、この本が売れる理由は、中学生くらいの子どもを持
つ親(約一千万人)の方がけっこう買ったということでしょう。

もうひとつ、売れる理由として、叔父さんの存在、というか不在と
いう問題もありますでしょう。
コペル君はお父さんを亡くしているので、叔父さんがいろいろ話し
相手になってくれるのですが、じつにこの「おじさん」という存在
が、いま私たちにとって貴重になっているのです。
毎日顔をつき合わせる親ではない、身内だけど第三者、良いことも、
ときには悪いことも教えてくれる存在。親には話せないことでも、
相談に乗ってくれるひと。以前はだれにもそういう人がいましたよ
ねえ。私にもパチンコや花札を教えてくれた下町のおじさんがいま
したよ。なんだ、悪いことばかりじゃないか。
しかし、今は、いない。

もしかしたらいま、そんな「おじさん」が求められているのかもし
れない。
それも売れる理由に関係しているかもしれないと思いました。
叔父さんはコペル君に説教をたれるのではなく、彼の「自分で考え
て解決する」力、つまり自立をうながすアドヴァイスをしていく。
なんともうらやましいではありませんか。
この「劣化していない、おじさんらしいおじさん像」を求めて、あ
るいはそんな存在をめざして本を買う人もいたのではないかなあ。

ベストセラーといえば、
「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社)

これは世界的なベストセラーです。もちろん、面白いです。
人類(ホモ・サピエンス)は、認知革命、農業革命、科学革命の三
つの革命をしながら文明を築きあげてきた。
とりわけ認知革命において、「ないものを想像する」力を得て、共同
生活をはじめることができた。
それにって神話をつくりあげ、宗教、他人との協力、交易、さらに
は想像上の秩序としての国や国民や正義や法律やなどという「虚構」
を育て、現代につづく社会を発展させてきたのだ。

この本では、人類の文明史が小気味よく整理され、「ああ、そういう
ことだったんだ」と納得されます。まるで、歴史の授業ではよくわ
からなかった個々のできごとの理由が、山川出版社の時代別歴史地
図によって、全体像として頭の中に沁み込むように・・・というの
が売れる理由なんでしょう。

でも、売れた理由はそれだけではないはずです。
私は、この本は多くのビジネスマンが、仕事のために買ったのだと
思いますね。
それもただ教養を高めるだけではなく、たぶんこんなすじみちで。
人類の文明には革命的な段階がある → 認知、農業、科学と来て
次はなにか? → その秘密を先取りできれば、あらたなイノベー
ションのヒントが得られる → それをうまくプレゼンに活かせた
ら、俺の企画は通りやすくなるんじゃないか → そうだ、プレゼ
ンの資料にこの部分をちょっと引用しちゃおう! みんな俺の教養
の深さに驚くぞ、きっと。 
みたいな。

いや、すいません。
どちらの「売れる理由」も、私の邪推かもしれません。
これから読む方は、なんの先入観もなく邪念なく素直に澄み切った
清流のような心持ちでお読みくださることが肝要かと存じます。
そこのところどうぞよろしくお願いいたします。

わかったよ、マスター。

 

ブログ141

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第140回 2019.05.15

「なにをごとも入り口が大事で」

当カフェは、建物の場所としては道に面しているのですが、店の玄
関が5メーターほどのアプローチを通った建物内側にあり、またカ
フェの内部も歩道側からは直接見えず、看板もひっそりと簡易なた
めに、お客さまによく「入り口がわかりにくい」とか「入りにくい」
と言われます。
すいません。そんなカフェに、よく来ていただけました。

だいたい、屋号の「DEN」が隠れ家とか小さな書斎という意味で
すので、「入りにくい問題」もあるていどしょうがないじゃないか
という話なんですが、「入り口」の造作が原因でお客さまにご不便を
おかけしているというか、むしろ客の「入り」と「売り上げ」にマ
イナスの影響を与えているとなれば、それはいけません。

やはり店の入り口が入りやすいと、フリのお客さんでもドンドン入
られるでしょう。それはとうぜんの話。
いっぽう、ちょっと強引にめせんを変えますけれど、文章の出だし
もカフェの入り口と同じで、最初の一行でグッと引き込まれると、
あとはズンズン読んでしまうということがあります。

キャッチーなものもあるし、「ン?」という不思議な感じに誘われ
るものもあるし、もしやこれは自分に向けて書かれたのではないか
っ!と思うようなものもあるでしょう。
逆に最初の一文でつまずくと、なんか入りづらいよねーみたいに感
じて、またこんどにしよーかー、カフェのマスターの顔も見えない
しー、と読む気がそがれてしまう。
やはりなにごとも「入り口」が大事ですね。
その入口の良さといえば、

「頭の中身が漏れ出る日々」
「生きていてもいいかしら日記」
「私のことはほっといてください」
「すべて忘れて生きていく」(北大路公子/PHP文芸文庫)

に収められているものは、それぞれ、なかなかに考え抜かれていて
秀逸でした。
筆者は北海道在住のエッセイストで、どうやら毎日文章を書いたり
書かなかったり、昼酒をのんだりのまなかったり、好きな相撲を見
たり、寒い冬を憎んだり、河童やなんやらのことを妄想したりしつ
つ、身のまわりのできごとをトンデモなく笑える話に仕立て上げて
いる方。

たとえば「朝の三時半に目が覚める」、という出だしで始まるのは、
私たちにはそれぞれ同じ日の同じ時刻に生まれた「裏の人」がいて、
自分とその人はつねに差し引きゼロの関係にある、という、じつに
テツガク的(?)な推論でした。

自分が目を覚ますと「裏の人」が寝につく。
自分が酒飲みなら「裏の人」は下戸だ。でも最近自分は、歳のせい
で酒量が落ちてきたから、裏の人はなにかつらいことでもあって酒
が増えているのかもしれない。
こんな妄想をウトウトしながな続けていって、たいした結論も出ず
にまた寝てしまうというなんとも平和な話なのですが、それがおも
しろくって、最初の一行から読むのをやめられなくなります。

いやいや、公子さんの一つひとつのエッセイのおもしろさを紹介し
ていってはキリがありません。
ただ彼女は、「自分は『この人はいついかなるときもバカバカしい
ことを書いている』と思われたい」と言っているので、その崇高な
る志には多大なる敬意を表しておきたいと思います。

で、その、文章の入り口、出だしの問題です。
「その日、世界は救われた。」とはじまる、「丸川寿司男の数奇な運
命」というエッセイがあります。
とつぜんの来客に慌てふためく家族と、そのせいで自分があわてて、
寿司の出前を一般のおうちに間違い電話してしまうという、サザエ
さん的ドタバタがあって、そこから筆者の妄想が、自分のした間違
い電話が原因であれやこれやが起こって、ついには宇宙人から地球
を救う救世主が誕生するというところにまで行く、崇高でおバカな
話でした。

で、これの最後の一文がまたいいんですよ。
自分のかけた間違い電話に落ち込んでいた筆者は、妄想上で救世主
の誕生にまでいたるまでを妄想し終えて、「なんだか猛烈に気分が
よくなって、届けられた寿司を照れながら食べたのである。」
入口と出口のこの落差!この決着!この、「照れながら」の輝き!
 
また、「久しぶりに『見届けたい』と思った」とはじまる、「北海の
盗み見の白熊、敗北す」は、クソ暑い36度の夏の日に、手をつない
で歩いている若いカップル(顔は汗をかいている)のうしろを歩き
ながら考えをめぐらす筆者の話。
彼らはいったいどういう状況なのか。
「(この二人は)もしかしたら暑さのせいで「つないだ手を離せなく
なったのかもしれない。二人の掌があっというまにどろどろぬるぬ
るになってしまって。」と、どーでもいい妄想がはじまる。

筆者はそのあと二人とおなじ電車に乗るが、自分が下りる駅が先だ
った。降りがけに見ると、二人の目の前の座席がひとつ空き、男の
子が女の子に座るよう促している。
いま、二人のどろどろぬるぬるになってくっついたはずの手は、離
れようとしているのか!どうなのか?見届けたいっ!
しかしその後は人ごみで見えない・・・。
で、「今もテレビドラマの最終回を見逃したような気持である。」

入口がよくて、出口もいい。
いや、つまりなんですな、こういうことですかな。
「出だし」は「シメ」の良さによっても引き立つ。両者の対等不可分
な関係によって。
ということは、もちろんカフェに入ってくるときもそうだが、カフ
ェを出る時も、お客さんがどんな顔しているか? その両方が問題
だということですかな。この最後の一文は、やや強引でしたか?


ブログ140

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ第139回 2019.05.09

「素顔の作家と作品」

この小説の意味ってどういうことだろう、などと、文学作品の解釈
や味わい方に迷いが生じると、私など、ついついその作家のじっさ
いの生きざまにヒントを求めてしまいます。
たとえば、太宰治の女性関係と作品との関係とか、ドストエフスキ
ーの作品に、死刑執行寸前で許されたり収容所生活の経験がどう活
かされているかとか、ランボーの詩に、文学を捨ててアラビアで武
器商人になる未来のきざしを探したりとか。

まあ、私は半分楽しみながらそんな推理をするのですが、きっとみ
なさんもそんな経験があるのではないでしょうか。
もちろんその推理には正解はなく、せいぜい作家たちの、複雑怪奇
で迷路のように入り組んだ感性や性格や心情にちょっとだけ触れた
気がして、「ま、そんなものかな」とか、「なんだ、イメージ違うじ
ゃん!」とか、勝手に思うだけなんですけれども。

もちろん私とて、文学作品はそれ

 

じたい独立して楽しむべきだと思
うのではありますが、大学教授じゃあるまいし、いちカフェで本を
読むシロート探偵としては、そう簡単に作家の素顔と作品との関連
をさぐることをやめられません。
で、私たち読み手のそんな「知りたい」思いが、ときにひどくなっ
てしまって、三島作品の中に作家の自決とそこにいたる思考やら深
層心理やらをむりやり見つけようとする「謎解き」にいたったりす
るのですね。わるいクセだなあ。

「この人、カフカ?」(ライナー・シュタッハ/白水社)

カフカといえば? そう、村上春樹先生の「海辺のカフカ」、違うっ
て。あ、そうか、カフカといえば、そうそう、ミュージシャンで女
優のシシド・カフカ! イヤ違うって。
チェコ出身のユダヤ系作家で、今世紀はじめころに「変身」とか
「城」とかを書いたフランツ・カフカだってば。

私なんか、「変身」ででっかいゴキブリみたいな虫に変身したグレゴ
ール・ザムザのかわいそうなイメージが強いばかりで、その後「城」
とか「審判」を途中で投げ出した思い出しかありません。
私のなかでは、小説としてどう味わったらいいかわからない、やや扱
いに困る作家というところです。

その作品については、不条理、寓意、暗いユーモア、救われなさ、そ
んなことばばかり浮かんできてしまいますし、だから作家本人はきっ
と、暗い性格で神経症的で世紀末的感性と価値観の持ち主だったんじ
ゃないか、などと思ってしまう。
つまり、カフカの作品は読んでいてくつろげなかったのでした。
だいたい「カフカ/迷宮の悪夢」だったっけかな?そんな題名のへん
な映画を観てしまったことがあり、その暗いプラハのイメージも、自
分のなかでカフカの小説の扱いを悪くしたようです。

ところが、カフェのお客さまに薦められてこの本を読んだところ、な
んとなんと、おもしろいじゃありませんか。いやなにがって、当の、
海辺にいないほうのカフカさん本人の、その人となりが。
ここには90ほどのエピソード、日記、手紙、云いつたえなどが載せら
れているのですが、まるごとカフカの人間性がバクハツしているとい
っていいものでした。
なかでも、私がもっとも好きになったエピソードが、恋人だったドー
ラが記す、これでした。

自分たち二人が公園を歩いていると、小さな女の子が泣いている。
どうしたのかと尋ねると、人形を失くしたのだという。するとカフカ
は、うん、じつは君の人形は旅に出ただけなんだ、といって、自分は
その人形からの手紙を家に預かっていると女の子にいう。
その後カフカは家に戻るとすぐに「人形からの手紙」を書き、翌日か
ら毎日、その女の子に手紙をわたす。そこには、旅に出た人形がいろ
いろな冒険をし、いろんな人と知り合いになり、成長するさまが書か
れていた。
その手紙は三週間つづき、さいごは人形が幸せに結婚して、もうその
女の子には会えなくなりました、さようならと綴られるところで終る
・・・。

これが作家だ。これがカフカだ。
そんな手ごたえのあるエピソードではないですか? 
なんというか大間の一本釣りで、100キロ級のマグロがヒットしたと
きのアタリの感覚がある。マルっとくつろいで全身をあらわにしたカ
フカがそこにいる、そう感じたのでした。

この話を伝えたドーラは、話の最後に、
「フランツは子どもの小さな葛藤を芸術によって解消したのだった、
秩序を世界にもたらすために自分が意のままに使える、もっとも効果
的な手段によって」と書きます。
彼の創作の秘密をあえてその私生活から拾いだそうとするなら、彼が
このようにして「秩序を世界にもたらす」努力をしていた、とまわり
から見られていたということは、とても重要なヒントになるでしょう。
この「努力」こそが、作家を作家たらしめるのだ。
うん、ホントに、いい手ごたえだった。

ところで、この本を私ことブックカフェマスターに紹介してくださっ
た方は、じつはここに描かれていた別のエピソードを私に読ませたか
ったのでした。
それはカフカが親しい友人に語った短編の構想でしたので、最後にい
そいで引用しましょう。

「ある男が、こんな集いの場は開けないか、と考えている。
招待されずとも自然と人が集まってくる。人々はお互い、出会って、
会話して、観察しあう。この宴はだれもが自分の趣味にしたがって、
自分の思いどおりに、だれにも負担をかけずに設定できる。好きなと
きに好きなように現われ去ることができ、ホストに感謝などせずとも
よいが、しかしいつでも、心から、歓迎される。
この奇妙な思いつきが最後に実現するとき、読者は気づくことになる、
孤独な人間を救済しようというこの試みは--最初の喫茶店を作る人
間を生み出すことになったのだ、と。」

ああ、これもいい話だ。
Mさん、ありがとうございます。当カフェにぴったりのお話でした。
というか、この話と当カフェを関連させて気にしていただいたことに、
二重に感謝です。こんな夢が、カフェをカフェたらしめるのだ。
不遜ではありますが、、、カフカとは友達になれそうな気がしてきた。

 

ブログ139

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第137回 2019.04.27

「劣化と害と不便はちがうもの」

世の中なんでも便利になってしまって、たいしたものです。
その気になれば、家から一歩も外に出なくても生きていくことがで
きる。
在宅でパソコンに向かって仕事をし、ネットで生活必需品を取り寄
せ、宅配のお弁当やレシピつきの料理素材を頼むこともできる。監
視カメラと警備会社が安全と安心を、ⅠOT家電や遠隔医療が健康
を管理してくれて、AIロボットが話し相手になってくれる。
本を読むにも、たいがいの調べ物もスマホでできてしまう。

それにひきかえ私どものカフェはといえば、おいでいただくにも歩
いてこなきゃならないし(専用駐車場「非」完備)、Wi-Fiは使
えないし(あるけど教えない)、お恥ずかしい限りです。
しかしこの、「不便」というものをもっと積極的に見直そうという、
じつにもって偉いというか、アナログというか、りっぱな思想をお
持ちになっているのが、

「不便益のススメ」(川上浩司/岩波ジュニア新書)

でした。
この「不便益」とは、どういうことか? 
筆者は四象限で説明しています。
まず、ヨコ軸に「便利・不便」、タテ軸に「益・害」をとる。
便利になって益があると「便利益」、これはわかりやすい。世の中が
前に進むための原動力のような、進歩とか改善とか創造とか、人類
に欠かせないことばが浮かんでくる象限です。

つぎに、その反対の象限をみると、不便で人に害を与える困ったこ
とのあつまりが「不便害」、これもとうぜんですね。
問題は、便利だけど害があると「便利害」の象限と、不便だからこ
そ益があるという「不便益」の象限です。

世の中どんどん便利になって、便利が人間に益をもたらすと思われ
がちだが、そうとばかりもいえないのではないか。
たとえば、夜中にも皓々と明かりをつけて営業するコンビニ。
たしかに便利でお弁当もおいしいけれど、売れ残り商品の破棄の量
はハンパなく、人手不足なので外国人留学生をこき使い、資源のム
ダによって地球環境に負担をかけている。
そこまで視野を広げて、便利さが最後には自分のくびを絞めている
のであれば、それは「便利害」と呼べるのではないか。
「役に立つ」とか「より便利になる」ということが、必ずしも自分
たちを幸せにするわけではないのではないか。益とはなんじゃい! 
自動化・効率化・高機能化・AI化ってナンボのもんじゃい!って
話です。

では問題の、そんな「便利害」の対極の象限にある「不便益」とは
なにか。
それをわかりやすくモノで表わすとどんなものが考えられるか。
たとえば「足こぎ車いす」。
すべての車いすユーザーが両足が効かないのではなく、片足だけが
動かない人や足に力が入りにくい人もいる。その人たちが使う、手
で車輪を回すのではなく足でペダルをこいで動かす車いす。もちろ
ん不便だが、リハビリになったり気持ちが上向きなるなど、利用者
の心に対する「便益(精神的に前向きになるなど)」が見込まれる。

たとえば「かすれていくナビ」。
自分が何回か通った道は、ナビ上で表示がかすれていく。「もう覚え
たからボヤかしてもいいでしょ」って判断して。
すると人はナビに頼らずに道順をおぼえ、逆にいままでちゃんと見
ていなかった景色などに気がつくようになる。
ひとの能力や気づきを促す、そんなこともまた「便益」とカウント
できるのではないか。

ほかにも、以前ここでご紹介した「弱いロボット」(岡田美智男/医
学書院)のなかの、「自分ひとりではゴミを拾えないが、まわりの人
に助けてもらってゴミを回収するおそうじロボット(まわりの人の公
共心を刺激する)」などが紹介されています。

それからモノではなくても、「京都の街を左折オンリーで巡っていく、
つまり右折するためには三回左折をしなければならないツアー(路地
や小さなものの発見が便益)」とか、いろいろな「不便だけど、なにか
しらいままでにない益があるモノ・コト」が紹介されています。

そもそも不便益には、不便が生み出すイノベーション(という益)と
いう意味あいもあったのだ。
日本の街は込み入っていて、目的地に行くのが苦労するのでナビが発
展した。ガソリンが高くて困っていたのでハイブリッド車の開発が進
んだ。こういうやつが「不便が生み出した益」です。
中国では、車が増えて大気汚染がひどくなったのでレンタサイクルの
システムや電気自動車の普及が加速し、にせ札が多いので電子決済が
主役になった。
こういうのも、すなわち不便だからこそなされた改善や創造なのだ、
どうだ、不便益の源がこんなところにあるんだよ・・・。

こう聞いていくと、不便益って面白いですね。
ただ、こういうテーマでしかつめらしく議論をしたりすると、ついつ
い人間にとって善いイノベーションとはなにかとか、生産性とはなに
かとか、国民総幸福度とかブータンとか宗教心とかAIとかシンギュ
ラリティとか、専門家以外にわけのわからない内容になりがちです。

でもちょっとユーモアもまじえつつ、ただしヒトの目線で真剣に「不
便益」を研究し、遠くへ矢を放つようにして不便益グッズを生み出し
ている方々がおられると思うと、とっても嬉しくなってしまいます。
こうして、不便でアナログで手間ヒマがかかってアクセスが大変なモ
ノやコトが時代のトレンドになっていくかもしれませんしね。

ということで、わたしどもブックカフェも、よりいっそう不便益を追
求して、それをみなさまに実感していただけるよう努力してまいりま
す・・・って、便利になるような改善はしないってことを高らかに宣
言しているだけじゃないか。
そんなお声も聞こえてまいりますが、気にしない気にしない。

ブログ137

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第136回 2019.04.18

「いっぽうドイツではどうだ?」

なんの気なしに紹介された本が、ぴったり自分のツボにはまってし
まってビックリすることがあります。それがまたタイミングよく、
いま気にかかっていることにも大きく関係したりするとなれば、こ
れはもう、偶然という名の必然というもの。

「わたしの信仰」(アンゲラ・メルケル/新教出版社)

アンゲラ・メルケルさんは、ご存じドイツの首相。
旧東ドイツ出身で牧師の娘。物理学を学び博士号をとる。その後政
界に出て、キリスト教民主同盟という政党のリーダーとなる。
いまではEUのリーダーであり、トランプのアメリカに代わって自
由主義社会の守護者とまで呼ばれている、という方です。

この本は、自身の信仰と政治との接点にかかわる講演集であり、キ
リスト者としての愛とか希望とかを語りつつ政治というナマナマし
い現実にむきあう姿を映し出しています。

これを紹介してくれた方は、「内容が重い」という表現を使われまし
たけど、じっさい、ごくごく個人的な内面の「信仰」と、広く開か
れなければならない「政治」とが、彼女の中でいったいどう結びつ
いているのかというポイントで読んでいくと、それはたしかに比重
の高い話になっていまして、何回も読まなければ受けとめきれない
気がします。
トランプさんのツイッターとか、安倍さんの本とかとは別物ですね。

さて、このように誠実に信仰と政治の間で生きる人は、当然のごと
く多くの重い「問い」を抱えていくことになります。
「何が良いことであり、何が神から求められているのか、自分には
はっきり分からない」、そして、「わたしたちは神から、苦しみを減
らし、病人を援けよと命じられてはいなかったでしょうか?」
移民について「あの人は来てもいいが、この人はダメなどと、どん
な基準で言えばいいのでしょうか?」
いずれも答えることの難しい問いです。

この本は、だからある面、メルケルさんが「問い」を自分と聴衆に
投げかけ、一緒に答えを探していこうという問答集のようなものと
いえます。
環境、教育、保育、それから高齢化、経済、遺伝子工学や生命倫理、
そしてEUの未来、キリスト教によって育まれたヨーロッパのリベ
ラルな伝統、それらすべてについて、ひるまず勇気をもって自身の
信仰を語ってさらに聖書の解釈をしていく。それを政治に活かそう
としていく。
感服するしかありません。

こうした信仰と思考の結果として、彼女の意思決定や行動は、ひと
つには「ヨーロッパの『強さ』からくる責任の自覚」によって決め
られることになります。
それは貧困の克服であったり、弱者への援助や支援であったり、持
続可能な経済やエネルギー対策として政策化され実現される。

もうひとつは「キリスト教の『寛容』の精神からくる責任の自覚」
によって進められる。
それは、信教の自由の保証や難民の受け入れ、ヨーロッパ以外にも
およぶ人権の援護、などなどです。
そして、それらの政策決定にの反対や疑義があっても、彼女はめげ
ずに、「信仰がわたしたちに、良い意味で論争し、最善の道を求め
る能力を与えてくれた」と信じるのです。信仰のある方は、いい意
味での「思い込み力」をお持ちだし、とりわけ彼女は「祈る力」を
お持ちのようだ。

最後に、やや長い引用を。
「キリスト教信仰は責任ある自由を可能にするだけではありません。
キリスト教信仰は信頼を育て、新しい課題も克服できるという確信
を得させてくれます。わたしたちは毎日それを行っているのです。
多くの事案があまりにもゆっくりとしか進まないと思う人がいるか
もしれません。互いに陰で悪口ばかり言いあっていると思う人もい
るでしょう。

しかし、世界を良くしたいという共通の意思は確かに存在している
のです。その限りで、わたしたちは正しい道を歩んでいます。それ
は、わたしたちに方向付けとなる内面的な価値基準が与えられてい
ることと関係があります。これは賜物であり、これからの歳月もあ
なたやわたしたちに伴ってくれるものですーー願わくは、わたした
ちがこの賜物を豊かに正しく使うことができるといいのですが。」

このことば、どうですか?

 

ブログ136

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第135回 2019.04.11

「モノの見方を変えて<私>をデザインしなおす」

何回も申しあげるようで恐縮ですが、カフェという閉ざされた空間
に長くいると、モノの見方が凝り固まってくる気がしてしょうがあ
りません。

これこれはこうこうこういうもんだ、と決めつけて見てしまう。
モノの見方が固まってくると、触れる情報も出す情報もかたよって
しまい、考え方も一辺倒になってしまう。
ちょっと前につかっていた比喩でよろしければ、頭の中の小人たち
が錆びついてしまって、ぜーんぜん動かなくなってしまう。

さらには、自分に向けた情報に接しても投げやりな態度をとったり、
もっと正しい情報をよこせ!などと八つ当たりし、あろうことか、
やはりこのワタシの見方が正しいのだと他人様に押しつけてしまう。

もちろんこれには歳のせいもあるのでしょうけどね。だって、年老
いたわが両親のやっていることと同じですもの。
でも、そんな生き方のほうがラクチンに生きられる。聞かなかった
情報など自分と関係ないし、見方を押しつけられたひと様のことな
んか、知ったことではないぜ・・・ということで。
実際のところ、この症状にたいしてどんな薬があるのでしょうか?

「まなざしのデザイン」(ハナムラ チカヒロ/NTT出版)

は、アートとかデザインを切り口にしていますが、そんなふうに劣
化・硬化・加齢状態に陥ったしまった自分の穴からどうやって抜け
出すかをテーマにした本で、展開されているお話は書名から受ける
感じよりもはるかに広大かつ普遍的なものでした。

たとえばこんな定義があっちこっちに散らばっているあたりがです。
いわく、アートとは「問い」であり、デザインはその「解決」であ
る。いわく、社会はそれぞれの時代において常識という名の壮大な
想像を共有している。

うーん、どうみてもカッコイイですね。
そんなこと言われると、問いとしてのアートや解決としてのデザイ
ンが、どのようにモノの見方を変えることにつながってくるのか、
訊きたくなるじゃありませんか。
そのうえで頭を柔軟にする薬となるのか、そして「常識という名の
壮大な想像」をどう打ち破れるか、ついつい筆者とともに考えたく
なるじゃありませんか。

まず、なぜモノの見方を変える必要があるのか?の整理から。
それは、私たちの人生にはそれぞれの局面で「居付く」危険に出会
うからだ。「居付く」とは、思い込みの穴に陥って出られなくなる
ことであり、ある状態に安住したりある状況に縛りつけられたりし
て、自分の考えや動きが不自由になることだ。

だれだってそんな「居付き」から離れて、自由に創造的に生きたい
ではないか。オッサンという位置に居付いてしまっては、なんとも
不自由だ。苦しい。嫌だ。カッコ悪い。そう感じる。
しかし私たちはじつは、モノの見方を変えることで居付きから逃れ
ることができるのだ。

ではモノの見方を変える、とはどういうことでしょうか。
筆者はまず、主体(見る側)と客体(見られる側)との関係性を、
「素材」「分類」「道具」「型」というキーワードをもとに変更する
のがよいと説きます。
見方を変えるとはそれまでの常識を問い直すことであるから、モノ
をそれまでの「素材」「分類」「道具」「型」といった分類や範疇か
ら外して、見たり使ったりする。
そうすることで、見る側と見られる側のあいだの関係性に「異化作
用」を起こすことができるというわけです。

どういうことか。
たとえば有名な話で、マルセル・デュシャンという芸術家は、男子
便器をひっくり返して「泉」と名づけて美術展に出品したが、それ
がモノと自分の関係を異化すること、つまり常識を文字通り「ひっ
くりかえす」ことだった。

説明するのもなんなんですが、これはつまり、できあいの「小便器」
を「道具」としてだけ考えるのは、ヒトとモノのひとつの関係性に
すぎないわけです。そんなあたりまえの考えに、君は居付いてはい
ないか? 常識にとらわれていないか?
では便器を「ひっくりかえす」とどうなるか。小便の吸い込み口が
上になったらどうなるか。それを「(水の吹き出す)泉」と名づけ
たらどうか。それは別の用途、別の範疇のモノになるのではないか。
そしていっぽう、それを美術展に出品された「芸術」として見るあ
なた方は、どう感じるのか。
こんな問題提起によってひとの心に起こるのが、異化作用です。

これ以上の説明を省略しますけど、私はこんなことを思いましたね。
そんな「異化(いか)作用」と同様に「他己(たこ)作用」という
のもあるのではないかと。イヤ、ホント、マジで。
客体(見られる側)の分類を変えて自分とモノの関係を変えるのが
「異化」ならば、自分を見る見方を変えて、まるで自己を他人のよ
うに見ることによって世界(客体)を違った形で見る「他己作用」
もあるのではないかと。

そう、じつはこの本でも後半で、「自分を発見」し「無意識を見つ
める」というぐあいに、外部の関係性の世界を見ることから自分の
内部へと、まなざしの対象が変わっていきます。
そして、「私たちが世界をニュートラルに捉えられないのは、自分
という存在に執着があるからである」といいます。まったく同感で
す。これ自分への「居付き」ですね。
また、「何かにまなざしを向ける時は、必ず自分のフィルターを通
して見る」という。これもその通り。

そしてそのうえで、「まなざしのデザインの本当の目的は、<私と
いう妄想>を見破ることである」と、断言するのです。
いいこと言うなあ。私とは妄想なのだ。そうか、なるほど、頭のな
かの小人たち(錆びついている)にあやつられないようにしようと
いうわけか!そのための「まなざしのデザイン」か!
つまり異化作用を推し進めて自分をも異化し、今までの思い込みや
ら数々の居付きから逃れ、それによって他己の視線にまで至るとい
うことなんです。

スゴイことになってきましたね。
「モノの見方が変われば、自分の中での風景が変わる」とは、なん
というか、「川が流れているのではなく、自分が流れているのだ」と
か、「山も動く」とか、まるで禅仏教の公案を聞いているようです。
驚きました。そうやって「私」をデザインし直せっつーんです。

まるで、剣豪のテクニックを聞きに行ったら、「まずおまえの精神を
叩き直さねばならん!」って云われてしまったようで、自分をどう
発見するかの話になってしまいました。うーん、当然といえば当然の
帰結かもしれませんが、オッサンにはやや荷が重くなってきました。
(そんなことできたら劣化してないよー、とひとりごとを言う)

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第134回 2019.04.04

「情報リテラシーの劣化を食いとめる五つの『問い』」

劣化しているといえば、自分でいちばん劣化しているなあと感じる
のが、いわゆる「情報・メディアリテラシー」能力、つまり各種の
情報機器やメディアをどう使いこなすかというあたりです。
はい、まったく使いこなせていません(きっぱり)。

カフェに一日いると、まずは、いそいで正しい情報を取得していそ
いでそれを加工処理していそいで得意先に行ってプレゼンする、な
どという作業が必要ありません。
生き馬の目を抜くビジネスの最前線ならともかく、こっちにも目の
前の業務とお客様があるし、国際政治経済情勢もすぐにはお客さん
の入りに影響しないし、情報の正しさの度合いもさておき、とりあ
えずボーッと過ごしていても大丈夫だろ?チコちゃん?というわけ。
  
でもそんな安易なことを続けていくと、いざというときにパソコン
も使えず、スマホで必要な情報にアクセスできず、さらに悪いこと
には知らないうちにフェイクニュースにだまされたりしてしまう。
とはいえフェイスブックとかツイッターとかおまとめサイトに頼っ
たりするのも危なっかしい。
いろいろな場所で「情報環境汚染」が広がっているのだから、、、、、
というあたりも、なんとなく理解はしているんです。

このへんはとりわけ、認識/理解能力も劣化してだまされやすくな
ってボケの一歩手前にいるわれわれオッサンにとって、一番気をつ
けなければならないあたりかもしれませんから。

「情報戦争を生き抜く」(津田大介/朝日新書)

には、そんなオッサンへの数々の親切な忠告に満ちていて、とても
助かります。津田さん、いつもお世話になります、って、知り合い
でもなんでもないですけど、あなたのご発言を信用してます。
この本では、いまのネットの中でなにが行われているか。世論を誘
導するしかけがどう動いているか。それをだれがどういう理由で利
用しているか。とりわけ、ヘイトスピーチやフェイクニュースはど
ういうふうに拡散するか、などがわかります。

すべてが怖い話で、ウッカリノンビリ、ボーッと暮しているのはや
はり危ないとあらためて思わされるのですが、なかでもいくつか気
にかかる記述があったので、ここに書き抜いておきましょう。
フェイスブックCEOのザッカーバーグのアドバイザーだった人が、
こんなことを言っている。
「フェイスブックは動物的本能、つまり原始的な恐れや怒りの感情
に訴えている」と。だから「中毒になるように設計されたシステム」
だ。だからこそ、フェイクの拡散や選挙の介入などに利用されるの
だと。
おおー、なるほどなあ、やっぱりねえ。トランプ大統領のコミュニ
ケーション方法のときに考えたとおりだな。
気をつけるようにしましょう、ね、ご同輩。

また津田さんは、ネットが新聞などのマスメディアと異なる点は、
「読まなくてもシェアする人が多い」ところだ、と分析します。
もともとナナメ読みすることの多いニュースだけど、さらに無料で
読めて、タップで簡単に操作できるメディアだ。すると見出しがち
ょっと気になれば軽い気持ちでシェアしてしまう。
なるほど、そりゃあ、フェイクだろうとなんだろうと拡散しますわ。
これも怖いことです。

では、その恐ろしさがわかっていても、なぜひとはフェイクニュー
スを拡散してしまうのか? その理由について彼は、「ひとには目新
しさへの欲求があるからだ」とする研究を紹介しています。

それによると、正しいニュースは「悲しみ」や「予測」「喜び」「信
頼」などの反応を引き起こすが、フェイクニュースは「驚き」や
「恐怖」「嫌悪」といった未知のものへの反応を引き起こす。
ひとは「正しさ」よりもむしろ、こういう「新奇性」に弱いんだ。
つまり、はじめて聞くこととか、イヤなことだけどひとの知らない
こととか、不気味だったりすることから目を背けられない。無視で
きない。むしろそういうの、好き。週刊誌に載る「嵐」のスキャン
ダル記事くらいに、好き。もしかしたらデタラメかもと思っていて
も、好き。
だから思わず何の気なしに、あるいは自慢げに堂々と、あるいは秘
密を共有するかのようにヒッソリと、シェアしてしまう。

たしかに、ソーシャルメディアには、その手のことがあふれてます。
というか、やはり動物的本能に訴える写真週刊誌と同じで、その手
のことで成り立っているのかもしれません。
しかし、現代人のこの新奇性への好みが、ひいてはフェイクやデマ、
バッシングや差別や過激思想の拡散に、強くつながっているとした
ら、どうします、皆さん?

私は思う。
こうしてネットの住人の一部はたとえ年齢的には若かろうがなにし
ようがわれわれオッサンと同じく劣化の道を歩むのだそしてそれに
引っ張られて世の中がさらに劣化していくのだ反知性主義やポピュ
リズムに向かうのだそしてこのようにして民主主義は崩壊し権力は
独裁化しそれを推進したのがネットの住人とわれわれ劣化したオッ
サンであったと後世に語り継がれるようになるのだ怖い!

・・・ともかく、だから情報をなにげなく受け取ってそれをなにげ
なく右から左に流すようなことばかりしていると、どーなるか知ら
んぞ、若い衆! ということを津田さんになりかわって言いたかっ
たのでした。

最後にひとつ。
このような風潮にたいしてニュースを出す側、つまりジャーナリズ
ムがどうすべきかについて、ハーゲルップという人の「建設的なニ
ュースを報道するための問いかけ」というのが紹介されていました
ので、オッサンなりにこれは重要と思い、メモメモしておきます。

自分の出すニュースの内容として、下記を省みることが大事だ。
1 そのことで独自の(特別の)発想はどこにあるか?
2 なにが解決になり得るか?
3 ほかの人はその問題にどう関わってきたか?
4 我々はそこからなにが学べるか?
5 もし違う風であることが可能なら、なぜ我々にそれができない
 のか?

こうした検討を経ることによって、情報はポジティブな内容になる
はずなので、ジャーナリズムはこのような作法によって常に自分を
律し、責任をもって世の中に建設的なニュースを出すべきだ、と。
そうだそうだ。これには大賛成だ。

そして、これは情報を出す側だけでなく、受け取ってそのあとSN
Sやカフェでのご近所話などで拡散してしまう側の私たちも、リテ
ラシーの劣化を食いとめる手段として自分の中でおなじように問う
ておくべき項目なのだ。
そう思いませんか、ご同輩ならびに若い衆!


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ブックカフェデンオーナーブログ 第133回 2019.03.29

「劣化した世代からのお詫び」

カフェでお若い方の話題についていけないとか、AIとかiOTの
話がわからないとか、ネットのフェイクニュースを信じちゃうとか、
「セカイ系」の物語に感情移入できないとか、そんなもろもろがあ
るたびに自身の不明を恥じるとともに、理解力とか好奇心とか学習
意欲とかが劣化しているのではないかと疑ってしまいます。

その疑いは、たしかに的を得ている。
本当はどんなものでも材料にして、自分と世界をつなげる想像をし
ていかなければいけないのに、それを私はサボっているのです。
セカイ系物語にひたる方々のことをあれこれ非難がましく言ってい
る場合ではありませんでした。

なんてことを思いつつ世間に目をむけてみると、私と同年代のおじ
さんたちが企業や政界で、不正融資だの粉飾決算だの文書改竄だの
不要忖度だのをやり、スポーツ界でもセクハラやパワハラで話題を
さらい、はては酔っぱらって痴漢して駅員に逆ギレしたりしていま
したね。

これは、おじさんたちが、自分の世界と外の世界とのつながりが自
覚できずに、ましてそのための努力もしていないことの証拠のよう
なできごとです。社会性とか倫理観とか道徳心なんていうりっぱな
話の前に、まずは人間性や感受性すら劣化しているのではないかと
思われる事態でした。

これらの現実を踏まえて、いや、そんなに肩に力を入れて踏まえな
くてもいいんですが、はたしてわれわれ50~60歳代のおじさんは本
当に劣化しているのか? あるいは感情とか、理解力や好奇心や倫
理観や好奇心や想像力や対人能力や広い世界への想像力やらが、劣
化しているのか? 

そんな問いに、ハイそうです、じつにもって劣化してます、どうい
うことかというと、、、と答えているのが、

「劣化するオッサン社会の処方箋」(山口 周/光文社新書)でした。

たしかに今、おじさんは劣化して「オッサン」になってしまった。
その特徴はといえば、次の通り。
1.古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
2.過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない
3.階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る
4.よそ者や異質なものに不寛容で、排他的である

どうでしょう? よく言われることばかりかもしれませんが、身に
覚えがあるような、ギクッとなるような特徴ばかりです。
ン?あなたはギクッとなりませんでした? ほおっ、そこがまた不
思議なもので、「自分に限ってそんなことはないっ!」と思ってい
ることも、気づかないうちに固くなったパッキンのゴムのように劣
化の症状かもしれませんから、ご同輩、ご注意ご注意。

ではなぜこのような劣化が見られるようになってきたかというと、
この世代の人たちは、団塊の世代の築き上げたシステムにタダ乗り
して安易に生きてきたので、「システムを批判的に考える」ことを
避けてきたからだ、と著者はいうのです。
つまり、アンタら他人のふんどしで相撲をとって、自分の頭で考え
てこなかったじゃないかと。
だから感情も理性も衰え、基本的な教養の習得もおろそかになり、
かくして人的資本(能力)や社会資本(つながり)を弱めたじゃん
かと。

そのうえ、「ソコソコの大学を出てソコソコに働いているのに、家庭
でも会社でもリスペクトされず、ジャマ者扱いされるという状況を
生み出してきた社会にたいして、一種の怨恨を抱え込んで」きたの
だ、アンタらは。
その怨念(!)も原因となり、さらに劣化したのだ!と。

キビシーご指摘、ありがとうございます。
ハイハイ、そうですそうです、まったくもって自分たちの責任です。
私どもは先達の尻馬にのって生きてきました。戦後日本の高度成長
にタダ乗りしました。安穏に平和にすごさせていただきました。
また私どもは、あろうことか、自分がまわりから正当に評価されて
いないなどと逆恨みして、逆ギレしたりもしてました。また、安逸
な生活を続けた結果、他人さまの気持ちにたいする想像力も、あげ
くはリスクにたいするや警戒心も失い、リスクの分担も嫌がってい
ました。
ということで、さきの四つの特徴は、まったくもって私どもの不徳
の致すところ以外なにものでもありません。

となると、品質をごまかす大企業の不正も(責任者はだいたい私と
同世代)、スポーツ界のゴタゴタも(監督や理事は同世代)、安倍首
相(私と同い年)の心のこもらないことばも、ゴーン氏(ほぼ同い
年)の不正蓄財(の疑い)も、高級官僚(だいたい同い年代)のイ
ンチキやごまかしや忖度も、議員や部長さん(もう全員すべて私と
同じ!)のウソやパワハラやセクハラも、みんな私どもの共同責任
です。

私ども「おじさん」は、りっぱな「劣化オッサン」になったのです。
じつを申せば、これらの行ないとそれによってできた現実のすべて
が、私どもオッサンにとって自分と世の中を結ぶよすがであり、い
わばわれわれの「リアルなセカイ系物語」だったのです。

じゃ、どうすればいいのか。
これからの日本を背負っていくお若い方がたは、この劣化したオッ
サンの実態を参考にどう生きればいいのか? 
その処方箋は、どうかこの本を読んで自分の頭で考え、学習してく
ださい。
劣化したオッサンの一員でもあるカフェのオーナーから正解を訊こ
う、反面教師から知恵をもらおう、などという安直な道は、くれぐ
れも選ばないように。
だって、私のこの「お詫び」的な文章には、ぜんぜんココロがこも
ってないことぐらい、すぐおわかりになりましたでしょう?
フンッ、ドーモすいませんでしたね。

 

ブログ133


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第132回 2019.03.21

「『セカイ系』というつながり方」

ブックカフェのマスターとしてちょっと困るのは、あまり自分にな
じみのない不得意分野の話題を、お客さんからふられることです。
ええ、ええ、もちろん不得意分野は理科系をはじめとしてたくさん
あるのですが、なかでも日本の現代小説やライトノベル、それとマ
ンガなどの話題にはついていけなくて、申し訳ない。

不得意分野には、知らないことばもたくさん出てきて困ります。
たとえば、ある種の物語やアニメなどでは「セカイ系」という分類
が使われますね。ガンダムとか、エヴァンゲリヲンとか。
セカイ系って、それ、なんなん?

どうやら「セカイ系」とは、「じっさいは四畳半の世界のなかの『ち
っちゃなボク』なんだけど、すごい壮大な歴史観に自分がつながっ
ていると自覚できると胸を張れる、みたいな物語世界(鈴木謙介)」
のことのようです。

北朝鮮とか中東とかのセカイ情勢とはとりあえず関係ないらしい。
物語の形式の、ひとつの「系」らしい。
それは「壮大な歴史観」、つまり大きな物語との「つながり」のしか
たであり、つまりそこでは、「主人公のボク」がいまここで生きてる
理由が明確に示され、あるいはその秘密が明らかになり、世界のな
かで「ボク」の存在意義が示され、居場所が確定するらしい。

そんな物語の種類を「セカイ系」というのだそうです。
だから、普通の学生生活をおくっている主人公の「ボク」が、ひょ
んなことから「セカイの秘密」に触れたり、とつぜん、大きな悪か
ら世界を守る使命を背負わされたちゃったりして、そして「壮大な
歴史観に自分がつながっていると自覚」することになる、らしい。

ほう、そうですか。スゴイじゃないですか!
で、いきなりでなんなんですが、でも私は、自分がいま理解したこ
の「セカイ系物語」に違和感があります。
というのも、もしかしてこうしたセカイ系物語を愛する方は、今の
自分の身のまわりの世界にご不満があるだけでなく、自分の知らな
いことに対する怖れもお持ちなのではないか、と思えたからです。
さらには、リアルでオドロオドロしい世界とのつながりを忘れるふ
りをしている。
だからこそ、「そのボク」に「現実の自分」を重ね合わせられる。

背景にはこんな感情があるのではないか。
自分の周辺のことは、身近で理解できるがゆえに不満がある。いっ
ぽう、外の広い世界の動きはよく理解できないから恐ろしい。
じゃあどうするかっていっても、自分から広い世界に飛び出すのは
危ないし、そこでなにかを変えるのも骨が折れる。
自分はいませっかく静かに「いい子」で生きているのだから、外に
生息する(らしい)邪悪な物が自分の身の回りに侵入してくるのも
勘弁してほしい。で、とりあえずセカイ系物語に身を託して置く。

もしそうだとすると、セカイ系物語とは、自分の分身である「主人
公=ヴァーチャルなボク」が、邪悪なものから「セカイ」を救うこ
とで「今のボクの世界」を守り、「分身のボク」がそうした役割をり
っぱに果たすことで、リアルなボクの存在証明(つながり感の充足
と居場所の確保)をしてもらって、ボク自身を安心させたいという、
きわめて受け身の心情のたまものなのではないか。

セカイ系物語は、そんなメンタリティをもつ人たちの総意でつくら
れている。かもしれない。
だとすると、彼らは物語を自分たちに都合いいように創作している
のだ。必然的に、そうなる。
するとアニメやラノベやゲーム業界の商業上の理由からも、その
「セカイの秘密」はいつまでたっても明らかにされず、世界征服の
陰謀は退治できず、セカイの危機はいつまでも解消されない。

だって、秘密が明らかになったり危機がなくなったりすると、せっ
かく「ボクたち」が創りあげた物語が終わってしまうもん。
物語が終わってしまったら、ボクたち、困るじゃないか!
・・・こうしてセカイ系物語はネバーエンディングストーリーと
なり、消費され続けていくのであった。そんなことを思いながら、

「サブカルの想像力は資本主義を超えるか」(大澤真幸/角川書店)

を読んだのでした。前置きがむちゃくちゃ長くなり、申し訳ない。
この大澤先生の分析でも、まず、「君の名は。」のストーリーなどは、
「取り立てて特別なことのない平凡な主人公たちが、世界を破滅か
ら救うカギをもっている」というタイプのもので、「セカイ系」の
一種であるとします。
そして、キミとボクの入れ替わりやほのかな恋という身近な世界が、
おおきな世界の人びとの救済というテーマと直接つながっている。

こうしたセカイ系物語は、先生のご専門の社会学的言辞であらためて
いうと、
「国民国家のもつ普遍性や世界性というものに対する信頼感が消えて、
かつ、それを超える社会に対するイメージを描くことができない。そ
うしたときに逆流現象が起きて、直接的で身近な関係が普遍的な世界
の代理物になる」のだそうです。
なんじゃって? えーとまあ、むずかしい表現ですけど、ま、話の流
れからなんとなくわかっていただければ嬉しいです。

いきなり結論部分のご紹介になってしまいましたが、大澤さんの問題
意識はもともと、学問の役割とは、わたしたちの内輪の世界と外の世
界とのつながりを説明していくことだし、だから学者は世界における
われわれの位置をしめしていかなければならない、だからワシ(大澤)
も、サブカルだ、オタクだなんぞとバカにしてないで、鋭意、セカイ
系物語世界を研究するのだというところにあります。

さらに、ワシら学者もセカイ系物語を研究するが、読者のあんたたち
もその成果を材料にして、自分と世界をつなげる作業を自分の力でし
なければならんぞよ、というメッセージを発しておられるのです。

つまり、どんな物語であれ、それを咀嚼して、その「考え方のスタイ
ル」を判定し、自分のなかで場所を与えなさい。世界とのつながり感
というのは、そういう自力の作業によって保たれるのだ。それがあな
たという「小さな自分」と、外に広がる「大きな世界」とを結ぶ手助
けとなってあなたの居場所を定め、生きる力を強めるはずだ。
セカイ系物語にひたるだけではそれができないのじゃ。
ただし、そのときはあんたがたも、想像力をもっと豊かに使えるよう
にしなければいかん、それが正しい「つながり」をもつ秘訣なのじゃ。

・・・先生のこのメッセージ、たしかに私は受けとめさせていただき
ました(誤解、誤読、誤配かもしれないけど)。

 

ブログ132

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第131回 2019.03.15

「生者と死者のはざまのビミョーな世界」

東北の大震災から8年。
もうそんなに経ってしまったんですね。そういえば阪神淡路からも
24年。なんと。こりゃすごい。いやになるほど、はやい。
こうしてウカウカとしているうちに私たちは歳を重ね、町の外見は
跡形もなく復興してしまい、オリンピックだの万博だのが「また」
おこなわれるのでしょう。
しかしそのいっぽうで、東北ではいまもなお、行方不明者が2,500
人以上もいる。そしていまでもなお各被災地に入って、地元の人た
ちに協力して復興に携わったり、その心のケアをしている人もいる。
そんな立派な方々が多くおられることを私たちは知っています。

私は残念ながら、なかなか現地に行くことができません。
ただ、そんな私にもまだ、自分のいるここでやるべき作業が残って
いるような気もしています。
それがなんなのか、ちょっとよくわからないですけど。

「想像ラジオ」(いとうせいこう/河出書房)

この小説の主人公は、東北の大震災と津波によって、海沿いの小さ
な町を見下ろす杉の木のてっぺんに引っかかってあおむけになりな
がらも、みずからDJアークと名のり、「想像」という電波にのせて
ラジオ番組をオンエアしているひと。
この本はDJアークのひとり語りで構成されているけれど、もちろ
ん、このひとはもう津波で亡くなっていることがわかってくる。

こういう設定の小説ですから、読んでいない方にはわかりにくいけ
ど、わかってください。彼の放送は、聴ける人にはいつでも聞ける
し、聞けない人には聞こえないラジオ番組というわけです。
するとあらかじめ私の感想の結論をいえば、この小説じたいも、読
める人にはいつでも読めるし、読めない人には読めないものでした
・・・結論になっているか?

DJアークは、そう言ってよければ、杉の木のてっぺんで「死んで
も死にきれないでいる」ので、あおむけに空を見上げながら、想像
上のリスナーに向かって語りかけ、好きな音楽を想像でかけている。
彼のことばは、おもに彼と同じように「まだ死にきれないでいる死
者」には届くみたいだ。彼らはまだ見つけられていなかったり、ま
だ弔いのされない、いわば居場所の定まらない人たちだろう。

死んだDJアークの「居場所」は本来、そんな杉の木のてっぺんで
はないはずだ。彼も「成仏」しなければならない。しかし彼には、
自分の愛する妻と子どもの安否がわからない。それを知るまではテ
コでもその中途半端な場所を動かないつもりだろう。
だから、杉の木に引っかかっている彼は、生者としても死者として
もカウントされないままだ。

生と死のはざま。これは、悲しくつらい場所です。
さらにいえば、このDJアークと、読者であり生者であるわれわれ
との間の関係は、よけいに不安定といわざるをえません。
というのも、DJアークは、そのラジオの声が届く人(つまり死者)
からは絶大な承認と共感を得られるけれど、肝心の妻や子ども、あ
るいはほかの生者にその声が届かないのです。生者のなかで彼の声
が届くのは、ほん一握りのひとたちだけなのですから。

そしてその「ほんの一握りの生者」とは、大切なひとを亡くして悲
しんでいるひとや、自分の想像のなかでまだその亡くなった人と対
話をしているような人で、彼らだけがDJアークの放送を求め、彼
を承認するのです。
したがって、リアル世界の読者であり生者であるわれわれと、フィ
クションで生死のはざまに居るDJアークとの距離は、さらに限り
なく遠いことになる。もしかしたら、私と2500人の行方不明者との
あいだくらいに。
そんなこともあって、読める人にはいつでも読めるし読めない人に
は読めないと書いたのでした。

いやー、いまさらですが、小説とは面白いものですね。
この本もそうですし、9.11の世界貿易センタービルで死んだひとの
息子が父親の姿を想像する姿を描いた「ものすごくうるさくて、あ
りえないほど近い」(ジョナサン・サフラン・フォア/NHK出版)
もそうでしたが、私たちには、死者のことを想像することで、いま
生きている自分たちへの死者からの承認をもらえるのではないかと
いうひそかな期待があります。
それは、いまその本を読む読者としてです。

読者としては、想像上の彼らから承認だけでなく、できれば共感や
赦しももらいたい。自分たちの選択や判断を認めてもらいたい。
「その後」の生き方や暮らし方への理解ももらいたい。
もちろん一番いいのは、こちらからの一方的な想像だけでなく、彼
らとじっさいに話ができることだ。それができてはじめて、生きて
いる自分の居場所が見つかったと思えるかもしれない。
こう思うのは人間のさがでしょうか? どうでしょう、南師?

 

ブログ131

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第130回 2019.03.08

「カバーデザインのふしぎ」

英語圏に育った移民が作者の本のご紹介が続きますが、これは、申
しあげたように新潮社のこのシリーズのせいです。
これらは当ブックカフェに面差しで置くのにはたいへん適した、好
ましい本たちだと、ひきつづき納得している私、マスターでした。
ということで、

「オープン・シティ」(テジュ・コール/新潮クレストブックス)

のカバーデザインは、厚紙の巻かれたものが中央に立てられ、それ
にはパステルカラーに色分けされた街路の地図らしいものが描かれ
ている。そこに七羽の小鳥がやってきて羽を休めているという、美
しいイラストでした。
鳥の種類はよくわかりませんが、淡い色どりのスズメくらいの大き
さの鳥たちで、まるでその羽音が聞こえてくるようで、それがまた
心地よいハーモニーを奏でてくれているようにも感じられます。

物語はニューヨーク。マンハッタンを散歩する精神科医。
さいしょのページから鳥の描写が出てきます。編隊を組んだ雁の渡
り、鳩、ミソサザイ、コウライツグミ、アメツバメ、、、、それらが
やがていろいろな国のラジオのアナウンサーの声とまじりあい、い
ろいろな国の音楽や文学とまじりあうように描写されて、物語が開
幕する。

このカバーデザインは、多種多様な人種の街と、そこで暮らす--
鳥のように、と形容してしまっていいのでしょうか--いろいろな
民族的ルーツをもった人々がこの本の主人公だ、と表わしているか
のようです。

主人公もまるで小鳥のように街を飛び回り、歩き、人を観察し、職
業として患者の話を聴き、移民たち(他の鳥たち)と議論し、それ
とともに自分の過去やルーツに思いを馳せるという、外から飛来し
てきた人として、都会での孤独な生活をしている。
しかし・・・このように、都会をいかにも軽やかに飛び回っている
かに思える主人公にももちろん孤独と葛藤があり、それがやがて埋
め合わすことのできない過去として目の前に立ちあがってくる・・・。

かくして多くのことが、そして秘められていたことがザワザワとう
ごめきだす。
本を読み進めていく私たちは、カバーの鳥たちが表すように見えた
ハーモニーは、単純に幸せな調和を表わすだけのものではなかった
ことがわかってきます。

だれにでも「開かれている」街ニューヨークは、もちろんだれでも
来て住むことのできる「オープンなシティ」そのものなのでしょう。
しかし、小説の最後のほうで語られる「毎日自由の女神にぶつかっ
て死んでいく何羽もの鳥たち」の話からは、そこで暮らす移民たち
の孤独や根のなさ、それから「やむなくついた傷」のようなものを
連想さられずにはいられません。

ということで、私にとって「この街」は、自分もそこに居たいとい
うよりは、どちらかというと怖い場所に思われてきました。
なんと臆病なワタシ。
そんな感想も含めて、なんか不思議な余韻を残すカバーデザインで
したなあ。

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第129回 2019.03.01

「カバーデザインは語りかける」

題名もいいしカバーもいい。そんな小説は捨てがたい。

カバーデザインは、カフェの本棚に飾られるためにも重要だし、読
んだ後にそれを見ただけで内容や作者や、その「構え」を思い起こ
せるという大事なお役目もこなしています。とうぜんですけど、ま
るでファッションがその人の人柄を表わすように。
だからきっと、そこに醸し出される出版社の「構え」も、書店で本
を買うときの読者からの信頼を勝ちとる役割を担っているのでしょ
うね。
「ん、この版元の本は買って大丈夫」って。

「千年の祈り」(イーユン・リー/新潮クレストブックス)

この本のカバーデザインは、中国風の低い衣装ダンス(朝鮮のバッ
タリのような)の上に、いくつかの骨董品が置かれた写真でした。
たぶん明器(人を葬るときに使う容器)であろう青銅製の壺を花器
がわりに、その前に青磁と白磁の器が置かれ、その横に鉄製であり
ましょうか、足の部分を失った馬の置物が置かれています。
こんな素直なデザインですが、パッと見ただけでもう中国の香りが
匂いたつような気がして、エスニックな雰囲気にグッと誘われます
ね。作者の民族性を強調するカバーデザインです。

表題作は、離婚した娘を案じて、中国から父親がアメリカに来てい
る話でした。
父親を迎えてしばらく一緒に暮らす娘は、父親を疎んじているが、
それは最後に明かになる父親の過去の嘘によるものだ。娘に相手に
されない父親は、公園でイラン人の移民の夫人と知り合いになる。
ふたりともカタコトの英語しかしゃべれないが、母国語どうしで話
してもなんとなく話が通じる、つまり心が通うようになったようだ。

タイトルの「千年の祈り」とは、中国のことわざで、「だれかと同じ
船で川を渡るには300年祈らなければならない」ということで、父
親がイラン人の婦人に、
「お互いに会って話すには長い年月の祈りが必ずあったんです。こ
こに私たちがたどり着くためにです」と話す、そんな意味合いだっ
た。

父親はさらにこう続ける。
「どんな関係にも理由がある。それがことわざの意味です。夫と妻、
親と子、友達、敵、道で出会う知らない人、どんな関係だってそう
です。愛する人と枕を共にするには、そうしたいと祈って三千年か
かる。父と娘なら、おそらく千年でしょう。人は偶然に父と娘にな
るんじゃない、それは確かなことです。」

父と娘がきちんとした父と娘になるには、千年の祈りが必要だ。
その祈りとは、ひとのひとへの祈りだ。どんな出会いも関係づくり
も祈りの努力によるものだ。偶然でも運命でもない。神様や時間の
問題でもない。
この父親はたぶんそう言いたいのでしょうし、じっさいこのあと故
国に帰っても、死ぬまで祈り続けるのでしょう。

私たちもきっと同じです。(そして以前ご紹介した「へんな子じゃ
ないもん」の、祖母と母親と子ども(作者ノーマさん)もきっと同
じです。)
私たちも、そして作中の娘も、もし自分がだれになにを祈っている
のかを知り、だれとの関係をつくることを祈っているのかを理解す
れば、この父親の悲しみも嘘も理解できるのかもしれません。

人生のなかで長いあいだ続けられる祈りは、ひとが生きるために欠
かせない毎日の食事のようなものかもしれません。だから、ほんと
うの「祈り」とは、そこに期待される「ご利益」よりもむしろ、神
様も時間も場所も関係なく、それだけで自然に成り立つものかもし
れません。
と、またわかりにくいことを言ってみました。

最後にひとつだけ疑問を。
中国には本当にこんなことわざがあるのかなあ。
だってこのことばって、ちょっとカッコよすぎる気がしませんか? 
このことわざは、それだけでいくつものストーリーができてしまい
そうになるほど想像を刺激するし、奥が深くて格調も高く感じられ、
作りものだとしたら、ちょっとズルイ気がしませんか? 

ところが、そんな疑問を抱きつつこの本の美しいカバーデザインを
みていると、
「はい、お尋ねの件ですが、そのことわざは実際に三千年前の殷周
の時代からございまして、、、、」
などと、中国の歴史の先生からおだやかに教え諭されている気にさ
せられるわけですが。

ブログ129

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第128回 2019.02.22

「カバーデザインのたのしみ」

私は新潮社の関係者でもなんでもないので、宣伝をしているつも
りはないのですが(笑)、新潮クレストブックスという翻訳文学の
シリーズは、すばらしいカバーデザインが多くて嬉しくなります。
ブックカフェに置くにはもってこいの、気持ちのいいものばかり。

きっとシリーズ全体を統括する、優れたデザインセンスをもつディ
レクターさんがいるのだろうな。
それとこのシリーズの特徴として、祖国を離れた移民とかその子孫
とか、いろいろな民族的ルーツをもった作家が多いことがあります
が、これはきっと、こうした傾向の好きなプロデューサーさんがい
るのだろうな。ということで、

「停電の夜に」(ジュンパ・ラヒリ/新潮クレストブックス)

のデザインは、十数種のスパイスが入ったスパイスボックスを上か
ら映した写真と、その中央やや上にタイトルと作者名をクレジット
したもので、ボックスの中にはセージ、クミン、サフラン、トウガ
ラシ、シナモン、グローブ、月桂樹の葉、、、などなど色とりどりの
スパイスがあり、もうすでに豊かな多様性を醸しだしています。

作者のジュンパ・ラヒリは、両親ともカルカッタ出身のベンガル人
で、ロンドンに生まれアメリカで成長しています。ポートレートを
見ると、これがまた目の覚めるような彫りの深い美人さん。

ということになると、これからこの本を読むひとはこんなふうに感
じていいのでしょう。
アメリカの都会で移民として暮らし、多様な人種や文化に接した作
家の経験が、スパイスボックスのような豊かな色鮮やかさをもつ
短編に結実し、作家・内容・装丁すべてが調和した幸せな本になっ
たのだろう、と。

そのとおり、ここに収められている短編は、エスニック料理そのも
のの味というわけではないが、心のなかに遠いふるさとを抱える移
民たちの気持ちが香るものでした。

表題作は、インド系移民らしき30歳代の夫婦の物語。
あるとき五日間にわたって夜の八時から一時間の停電が知らされる。
彼らはその時間、ろうそくを灯しながら、いままでお互いに黙って
いたささいなことを打ち明け合うことになる。
それで夫婦の間がどうなるのだろうか、と読者は覗き見でもするよ
うに話につきあっていくと、ああ、やはり物語は単純にはいかない
のだった。

その、「単純にいかなさ」とか「期待の裏切られかた」のなかに、
なにかちょっとこう香辛料の香りがある、ような気がするのです。
・・・と、単純な読者(私)はこうやってカバーデザインの影響に
さらされてしまう。

ところで、ニューヨークタイムスの辛口のコラムニストであるミチ
コ・カクタニ(この人に泣かされた作家は何人もいるという)は、
この作家を評して「きわだって構えの美しい、高雅な作家だ」と言
ったそうです。
この、「作家の構えの美しさ」とはどういうことでしょうね?

私思うに、作家の作法のひとつとして、作中の人物を力づくで動か
そうとしないことがあるのではないでしょうか。なんというか、無
理にお話を作らない覚悟みたいなものが。
それは、読者に共感を強いる(お涙ちょうだい的な)ような書き方
をしないとか、あるいは作中に運命とか偶然を使わないとか、そん
な作法を含むことのような気がします。

この夫婦の話も、お互いの性格やこれまでの生活の背景がきちんと
あって、そのうえで「ひと」としてきちんと自立して動いている、
そんなふうに感じられ、それもまた作者の「構え」なのだと思いま
す。
ほらね、こういうふうに「構え」という表現を使うと、サリーを着
た美人さんの作家が、タイプライターを前にして優雅に踊りのポー
ズをとっているところを想像しちゃったりするでしょ? 
読者(私)はそうやって、カバーデザインの影響にさらされるわけ
ですよ。え? あなた、そんな想像はしないって? そうかなー?

それはともかく、この作者は、そうしようと思えばできるのに、民
族性を振りかざしてウケようとはしていない。そして、主人公夫婦
の普通の日々を細かいディテールで書くことで、リアリティを支え
ている。それがよくわかる。
だから物語の流れが自然で、まるで透き通った小川のせせらぎのよ
うに心地よく受けとめることができるのです。
そのような意味で、鼻筋、もとい、背筋のとおった書き手の姿勢が、
「美しい構え」として辛口の批評家をもうならせるのでしょう。

そしてこのカバーデザインは(原著オリジナルではなく日本でのデ
ザインらしいですが)、そうしたもろもろの意味を含めて、小説と
その作者の構えをすべて表わしている--物語の香りと多文化のも
つ美しさですが--ような気にさせられて、辛口の読者(私?)を
も、うならせるのでした。

ブログ128


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第127回 2019.02.15

「カバーデザインのおまじない」

本のカバーデザインがすばらしいと、それだけで嬉しくなって読ん
でみたくなってしまいます。
この気持ち、フト入った書店で、なにかに惹かれてフラフラッと棚
に近づき、なんとなく手に取ってパラパラッとページをめくる間も
なく、そのまま持ってトコトコとレジに行くという、いわゆる「本
に呼ばれた事故」の経験者にはわかっていただけることでしょう。

私どものようなブックカフェでも、店主お気に入りのカバーデザイ
ンの本は、やはり本棚に「面差し(表紙が見えるように置くこと)」
で置きたくなりますね。すると本棚が、まるで宝箱をひっくりかえ
したようになるのです(ちょっと大げさ)。たとえば、

「サフラン・キッチン」(ヤスミン・クラウザー/新潮クレストブックス)

のカバーは、コバルトブルーのイスラムタイルが組み合わさったデ
ザインで、小説の主要舞台であるイランという国を表わした美しい
ものでした。
私、こういう素敵なカバーの本にはもれなく「呼ばれ」ちゃいます。

主人公はイラン女性マリアム。第二次大戦後のイランの国情不安の
時代に育ち、わけあってイギリスにわたって結婚し、サラという娘
をもうける。
これは、イランとイギリスというふたつの文化のはざまの物語であ
り、マリアムとサラという母娘の物語であり、マリアムの過去(イ
スラムの小さな村の生活)への旅の物語でもあります。

印象的なのは、登場人物が、イランやイギリスで生きるうえでなに
を選択しなければならなかったか、なにを捨てなければならなかっ
たかという問いに真正面から向き合う姿です。
この本では、マリアムの、
「いろんな自由があるけれど、そのそれぞれに代償があるのよ。愛
する自由、旅する自由、所属する自由。どれかを選ぶと、べつのも
のをあきらめなきゃならないの」、ということばで、選ぶことの困
難と選ぶことによる責任が示されることになります。

そういえば「ソフィーの選択(ウィリアム・スタイロン/新潮社)」
もそうでした。
戦争の時代はとくに、どちらかを選ぶことが、どちらを選ぼうが自
分の大事な人を傷つけることになるという意味で、選択とは厳しい
代償を覚悟しなければならない行為だったのでした。
やはり、平和な時代とはそんな厳しい選択を迫られずにすむときだ
し、平和な国とはそういう厳しい選択に迫られない国なのだ、とい
うことを肝に銘じたいですね。

さてこの本の登場人物たちも、そうした厳しい選択を重ねるなかで
お互いを認め合い、そして許し合いながら生きる力を得ていきます。
まるで消化しにくい食べ物を栄養に変えるかのように。
そして彼らは、その選択が消化できようができまいが、次の選択を
していくのです。あるときは強いられてやむを得ず、あるときは人
間として力強く誇り高く生きるために、または人生の特別な瞬間の
ために、いやむしろ普通の生活の普通の行為として・・・。

その選択のなかで、娘サラ・マザールがかけることばが、たとえば
すばらしい赦しのことばとして、こう受けとめられる時が来る。
「うん、その言葉で、きみはぼくたちみんなを自由にしてくれたよ、
サラ・マザール--きみ自身を含めてね。それぞれが自分の望みど
おりにできるように」と。
こんな、他人への意図せざる赦しのことばは、自分の苦しい選択と
いう行為を通じてしか得られないし与えることのできないことばで
しょう。そしてまた、それを「赦し」として受けとめた側も、多く
の苦しい選択をしてきた人にちがいない、そう感じられます。

私たちは選択のしがらみと責任で自分と他人をしばり、さらに不自
由にしてしまうことが多い。まるでなにかを選ぶたびに重しが増え
るかのように。しかしそこから私たちは、他人を自由にしてあげる
赦しと祝福のことばを見つけることができるし、それを相手にあげ
ることによって自分も自由になれる。

・・・とは、なんかよくわからない呪文を述べているような気もし
ますが、魅力的なカバーデザインからも、そんなおまじないをかけ
られてしまったのかもしれません。

ブログ127

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第126回 2019.02.08

「確かに生きて暮していた人たちの手触り」

アメリカのトランプ大統領が票田にしている、いわゆる「ラストベ
ルト(錆びついた地帯)」は、伝統的な産業が衰退して工場労働者
が失業し、苦しい生活を強いられている地域といわれて有名になり
ました。

でもそこには西部開拓時代から豊かな農業があり、ちいさな町があ
り、それらはいずれも古き良きアメリカの象徴として、アメリカ人
の心のよりどころとされていたはずです。
私の大好きな映画「フィールド・オブ・ドリームス」(原作は「シ
ューレス・ジョー/パトリック・キンセラ」)の舞台もオハイオの
ちいさな町のトウモロコシ畑ですし、ボールゲーム(野球)ととも
にアメリカ人の「心のよりどころ感」をジンワリと表してくれてい
ました。
そして、そのもう少し前の時代のオハイオを舞台にした小説、

「ワインズバーグ、オハイオ」(シャーウッド・アンダーソン/新潮文庫)

も、そうした「心のよりどころ感」が確かに感じられる作品のひと
つです。
これは題名そのままに、オハイオ州のワインズバーグという架空の
小さな町の20世紀はじめごろのお話で、そこに住む住民一人ひとり
の、なんというか「銘々伝」みたいな逸話が、若き新聞記者ジョー
ジ・ウィラードの目をとおして語られていきます。まるで大昔にい
た人物たちの伝説のように。

ただしそこでは、なにか英雄的な行動とか劇的なドラマが起きたり
するわけではなく、普通の人の普通の日々の生活が、たんたんとつ
づられていくだけの連作なのです。(ものすごく昔、アメリカのテレ
ビドラマに、「ペイトンプレイス物語」というのがありましたけど、
雰囲気はあのセピアカラーの物語に近いものです。でもこのドラマ
知ってる人は少ないだろうな)

ここに登場する一人ひとりの住民はごく普通のひとなのですが、た
しかに少しずつ変わっていて、本の最初に、「これは、いびつな者た
ちの書だよ」という宣言みたいな章で予告されているのですが(原
語では「グロテスク」という言葉で)、グロとかいびつというよりは、
「少し残念な人たち」くらいに表現したほうがよさそうです。

たとえば、ハゲで小男のビドルボームは「いつでも怯えており、じ
ったいのない一連の疑念に苛まれていた。」
ジェシー・ベントリーは「狂信者だった。別の時代と場所に生まれ
た男であり、そのために苦しんだし、ほかの者たちも苦しめた。」
ジョー・ウェリングは「アイデアに取りつかれるのであり、一つの
アイデアによって発作を起こすと、手がつけられなくなるのだ。」
セス・リッチモンドは、「『無闇に深遠なやつ』と言われていた。『近
いうちにここから出ていくよ。見ているといい』」

こんな人たち・・・。
イヤイヤ、このようにつまみ食いしても、登場人物たちとこの町の
魅力をわかっていただくのは難しいですよね。たぶん、読まずに共
感していただくのは難しいことでしょう。
でも読み終わってみるとよくわかるのですが、彼らの「いびつさ」
とか「残念さかげん」「グロテスクぐあい」は、けっして異常なも
のとかデモーニッシュなものではないのです。その欲望とか夢とか
期待などは、私たちとまったく変わりないものですし、もうなんと
いうか、自分の帽子のなじみある匂いを思い出させてくれるような、
そんな人たちでもありました。

私たちとよく似たそんな登場人物たちのもつ弱さ、欠点、そしてそ
れによって失われてしまった生活、破れた夢、でも必死にしがみつ
こうとしている明日への希望、それらがすべて愛おしく、たぶんワ
インズバーグという町では彼らのそうしたいびつで変な部分が積み
重なって話され、町の新聞で伝えられ、それによって町として形づ
くられていったのだろうなということがわかります。

ここは架空の町だけど、きっとどの町でもこれらに似た人がいて、
似たことがあったのでしょう。
「スモールタウンこそアメリカの基本」ということばがあるそうで
すけど、ここには確かに普通の人たちの普通の夢があり、それがや
やいびつな形に現われ、そして町ができ、またややいびつな希望に
よって人が動き回り、それによってまた町が大きくなり、そういう
町がたくさん合わさってアメリカという国をつくった。

なので、産業がさびれるとメディアはそこをラストベルトなどと名
づけるけれど、こうして作られた小さな町々がなければアメリカで
はない、ということもよくわかるのです。
この小説の中には、アメリカをつくった人々が確かに暮らしている。
そして彼らの一人ひとりの物語は確かな手ざわりを残し、読む側は
じかに触れて彼らが愛おしくなる。ここにアメリカの「普通」がみ
える。
つまりすばらしく嬉しい作品なのです。もはや古典の部類に入る本
かもしれないけど、絶賛おすすめ中!

 

ブログ126

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第125回 2019.02.01

「特殊な世界のたどりつく先は?」

どうにもややこしい問題にはまり込んでしまったようで、その細か
く枝分かれした道のひとつをなんとなくトボトボと歩いていたら、
うわっ、こんな所にでてきてしまいました。

「服従」(ミシェル・ウェルベック/河出書房新社)

フランスで発表されて大きな衝撃を与え、2015年に日本で刊行され
てベストセラーになった小説です。

ときは2022年、フランスはイスラム系移民が増えていた。大統領
選挙ではイスラム系の候補が勝ち、その政党が政権を握る。
ユイスマンス(小説家で19世紀の耽美派の巨匠)を専門にする主
人公の大学教授は、最初、その事態もたいしたことにはならないだ
ろうとタカをくくっていたが、穏健な政策をかかげていたかにみえ
た政権党はじょじょにその本性をあらわし、フランスはイスラムの
国になっていく・・・。

これはビックリ、典型的なディストピア(ユートピアの逆)小説で
す。なにせ、キリスト教と植民地主義と合理精神で「特殊」になっ
た西欧の、その一方の雄フランスが、移民の増加によってついには
イスラム教の価値観に覆われる国になってしまうというところまで
「特殊」になっていくのですから。

この主人公は政治的なことはあまり真剣に考えない享楽的なひとで、
なんとなく理由も確信もなく楽天的に暮らし、社会や周囲のひとが
ドンドンドンドン状況に対応して変わっていくのにも無関心でいる。
そして最後には、やはりなんとなくという感じで自分もイスラム教
に改宗することで、それまでの「良い生活」を続けることに甘んじ
ようと決心する。
「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないも
のだ。ぼくは何も後悔しないだろう」などと言いつつ。
ひえーっ、この主人公の述懐、怖いですねー。自分だったらどうす
るだろう?

しかしこの主人公は特別なひとではなく、もちろん他の登場人物も
イスラム政党を選んだフランス国民も、ごく一般的な常識をもった
フランス人たちなのです。
さ、どうでしょう。
なにがって、これまで何回か追ってきた宿題についてです。

特殊なすじみちで自らのアイデンティティをつくってきたヨーロッ
パの、そのなかのフランスが、その特殊さによって移民の増加を招
き、移民が同化し共存し、文化は多様となり、そこまではいい未来
だったかもしれないが、そこで暮らすごく一般的な常識をもったフ
ランス人が、ついにはキリスト教国でもなければ自由・平等・博愛
の国でもなければ、EUの理念を追求する国でもない未来を選んで
しまうことになる。

つまりこの本では、「オリエンタリズム」などの考え方のワク組みを
真っ向から崩すことになる未来予測が、ガツンと出てきてしまった
のです。そんなワク組みなど軽く乗り越えて、現実はドントンドン
ドン別の道を進むだろう、っていうのです。
小説とはいえ、この想定は怖いですねえ、ブルブルブルッ。

でも、おかしいな。私はなんでこんなところに行きついてしまった
のだろう? 細い道のいくつか、たとえば遠いところにいる人たち
への共感とか、パレスチナの人々の尊厳とか、それらの対岸にある
ヨーロッパの特殊性とかをトボトボしていただけなのに・・・。

ブログ125

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第124回 2019.01.25

「やっぱりヨーロッパは自分の首を絞めていた、で日本は?」

おもわず何回もこの話題が続いておりますが、、、。
そんなポストコロニアリズム的な考え方からすると、ヨーロッパ
「が」特殊だ、と。世界はもう、ヨーロッパが「特殊」になる前に
は戻らない、と。責任者は出てこないし。怒ってもムダだし。
それは重々わかっているが、なぜか頭にくる。

ところがそんなことにおかまいなく、現実はドンドンドンドン先に
進んでいて、西欧諸国は力を失い、すべてにおいて先進的な取り組
みと思われたEUは肥大して政策的に行き詰まり、移民がドンドン
ドンドン増えて、政治・経済・文化の危機を迎えている、らしい。
いまこのとき、このようにしてヨーロッパのアイデンティティは揺
らいでいる・・・というのが、

「西洋の自死」(ダグラス・マレー/東洋経済新報社)

の見立てでした。「自死」とはなんとも強い表現ですね。原題では
「ストレンジ・デス」、つまり「奇妙な死」となっていました。
では、なにが奇妙で、なぜ訳者はそれを自死と訳したのか? 

移民の増加が問題なのだ。
若年層の工場労働者確保のためなどの理由で、ヨーロッパはこれま
で多くの移民を政策的に受け入れてきた。ドイツのトルコ移民、フ
ランスのイスラム系移民、イタリアやスペインの地中海対岸アフリ
カ諸国からの移民など、1970年代から継続的に受け入れてきた。
もちろん、それぞれの旧植民地からの移民難民も多い。

その後、中東でつづく紛争や、2011年のアラブの春、2015年から
つづくシリア内戦、イスラム国の伸張などにより、難民がトルコ国
境ギリシア国境を通りぬけ地中海を渡って、ドンドンドンドン、ヨ
ーロッパに押し寄せた。
自由で平等で進歩的で安全で、多くの収入が得られて社会保障が充
実しているヨーロッパは、移民難民の最終目的地だ。
だから彼らは、いちど来たらもう帰らない、帰れない。

移民難民の増加は私たちが日本から見ているよりもすごくて、たと
えばこの一年間の数は300万人とかいわれ、またたとえばロンドン
の住民の半分は移民か難民、もしくはその一世代二世代あとの人々
なのだ。

うわーっ、そんなだったの? 
どおりでワールドカップサッカーの出場チームが、肌の色がさまざ
まの多国籍軍にみえるわけですわ。
移民の比率がそこまで増えると、「一定の文化の継承」とか「似た
価値観をもつ」などが難しくなり、「同じ言語と宗教をもつ民族国家
としてのアイデンティティ」が揺るぐのは間違いありません。

ヨーロッパは、こうした流れを政策として進めてきたのです。
だから筆者は「奇妙」と名づけ、訳者は「自死」と翻訳したのでし
た。西欧の現状は、だれからも強制されたのではなく、自分の手で
行なってきた結果なのだといっているのです。

筆者の見立てを続けましょう。
この事態の背景には、ヨーロッパの人たちに、「かつての帝国主義
(植民地主義)に対する罪悪感」があり、「移民の受け入れに反対す
るのを極度にためらう心理」がある。そのため、移民に反対すると、
それだけで「遅れているヤツだ!」「人種差別主義者だ!」「多文化
共生をなんだと心得る!」、などと思われる可能性があったのだ。

また、人権援護の名目で軍事介入したイラク、アフガニスタン、リ
ビアなどを破綻国家にした失敗への責任感もあった。さらにさかの
ぼって、ナチスによるユダヤ人差別と迫害の歴史もあった。
こうしたことすべてが「歴史的罪悪感」として沈殿し、西欧諸国に
共通する罪と恥の意識となったのだ。

いっぽうで、多くの西欧人は、移民や難民の受け入れはやはり基本
的に正しいことだ、公正なことだと考えている。それにともなう
「人種や文化の多様性の推進」も、原則として支持されている。
ドイツのメルケル首相はけっして孤立しているわけではない。彼女
は、自由・平等・博愛の精神とおなじように長い時間をかけてつく
りあげられてきた理想を語っているのだから。
しかし、その結果がいまの移民と難民の数として現れたのだ。いず
れにしろ、もうあと戻りできない。

筆者のこうした悲観的な意見は説得力があります。
ただし私は、この考えにそうだそうだと言ってるだけではいけない
ぞ、以下のような、いくつかの考えや問いを付け足さなければ公平
ではないだろうな、と思いました。

・少なくともヨーロッパは、暴力を受けたものが他のものに暴力を
 ふるう連鎖を止めようとしているではないか。
・それはイスラエルとか中国とかロシアとか、あるいは他のイスラ
 ム系諸国とも明らかに異なる、成熟した態度ではないか。
・だから、筆者は「欧州の疲労」とか「実存的な疲れ(なんじゃそ
 れ?)」とか、ヨーロッパは「文化的資産を食いつぶしている」、
 あるいは「基盤となる物語を失った」と書くけれど、それはやや
 大げさではないか。
・ヨーロッパでのテロの増加は、筆者の言うようなイスラム教だけ
 の問題ではないのではないか。生活の貧困、同化の失敗もある。
 それに、あまりに急激に増えた移民難民の数を考えると、失敗と
 いう表現を使うのはいかにもかわいそうだ。長い目でやや楽観的
 に見ると、同化・共生の途中経過における齟齬とあつれき、とい
 う見方もできるのではないか。

・一番の問題は、では私たち日本はどうか?ということだ。
 日本は西欧のようには特殊ではないのか? 西欧のような偏見の
 なさとか、心の広さとか、反人種差別とかを美徳として養ってき
 たか? というか、どんな美徳や正義を養ってきたのか? 自由
 ・平等・博愛の精神はあるか? そしていま、人口減少やそれに
 ともなう若年労働者の減少をどうするか、真剣に考えているか?
 それを移民・難民問題とセットにしてきちんと議論しているか? 
 入国管理法の改正は、なにをどこまで考慮に含めているのか? 
 などなど。

ようは西欧を鏡として見て、日本はどうだ? 日本は大丈夫か?
っつーことなんですけど・・・。もしかしたら日本の方がもっと特
殊になってるのかもしれませんぜ、皆の衆。さらにつづく。

 

ブログ124

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第123回 2019.01.18

「ヨーロッパこそ特殊、という見方」

パレスチナやイスラエル、そして紛争続くシリアといった中東世界
のことを、遠く離れた日本の片隅の小さなカフェから見る、しかも
報道やノンフィクションではなく文学をとおして見る、いや読む。
そんな行為が、自分の生活にとってどのような価値をもつものかは
わかりません。しかし、なにかからご指名をうけてしまった気もす
るし、つきつけられた問いに答えたいし、なによりもっと知りたい
という気持ちがおさえられません。

簡単には知りえない、むずかしい現実。
なにせ、どんな報道もある程度はなにかしらの色に染まっていて、
信じられるものばかりではない。、また、第二次大戦後の70年間で
グチャグチャになって、さらにいままたグチャグチャになろうとし
ている中東世界を、私たちが簡単に理解できるとも思えない。

とはいえ、確実な情報が少ないのであれば、よけいに想像力の力を
借りるしかない。そこに文学の出番がありました。
さらに、簡単には理解しがたいものには、なにがしかの「考え方の
ワク組み」を使ってみることができるかもしれない。ここに思想の
出番があります。
そこでひとつの「考え方のワク組み」を得るために、

「ポストコロニアリズム」(本橋哲也/岩波新書)

を読んでみました。
ポストコロニアリズムとは、どういうものか?
それは、植民地主義のすさまじい暴力にさらされてきた人々の視点
から逆に西欧近代の歴史をとらえかえし、現在におよぶその影響を
考察しようとすることのようです。

ようは、西洋中心で語られてきた歴史ではなく、植民地化され搾取
されてきた側から歴史をとらえ直すことです。
するとまず、これまでの教科書的な歴史観である、「先に進歩した西
洋が遅れていた非西洋(中近東やアフリカやアジア)を征服したが、
やがて非西洋が力をつけて植民地主義を克服して独立し、近代国家
の仲間入りを果たす」、という認識が誤りだとするのです。

むしろ逆に、「植民地支配の歴史が、『特殊な地域』としてのヨーロ
ッパを形づくってきた」と考えなれればならないらしい。
つまり、大航海時代以降に暴力的に植民地をたくさん持ってしまっ
たことによって、西洋こそが自分自身を「特殊な国」にしたてあげ
てきたのではないか。中近東やアフリカや東洋の遅れた国々が特殊
なのではなくて、それらを植民地にした国が、そのことによってい
びつで特殊な国になってしまったのではないか。

この本ではこんな考え方が、フランツ・ファノン、エドワード・サ
イード、ガッサン・カナファーニー、ガヤトリ・スピヴァクなどの
思想とともに述べられていきます。
おお、なんとすばらしい思想家のラインナップでありましょうか!

たとえば、エドワード・サイードの著書「オリエンタリズム」から
は、「オリエントを自分とは異なるものとして疎外することによっ
て、ヨーロッパのアイデンティティは成立してきた。」
「我々、西方ヨーロッパは、合理的・平和的・自由主義的・論理的
であり、彼ら東方オリエントは、すべてその正反対とされる。」
などということばが引用されます。

ヨーロッパはこう考えて行動することで、いまのヨーロッパになっ
たのだというのです。世界中の「自分と異なる文化」を異物として
認識し、それらを合理的に攻撃し、論理的に殲滅し、それらの要素
を自分のからだと心からそぎ落とすことによって、彼らは「自由で
平和なヨーロッパ」という自我を確立した。
インカを滅ぼしたコルテスの時代から、いやもっと昔、十字軍がア
ラブ世界に侵入した時代から、いやじつは、東方の世界を「アジア」
と名づけた古代ギリシアの時代からずっと・・・。

なるほど、こうなるとまるで、ヨーロッパ(というひと)の精神を
読み解くフロイト理論みたいですね。
たしかに、あらためて考えてみると、近代ヨーロッパの自由・平等
・博愛という理想や、個人の尊厳とか表現の自由などという価値観
も、いってみれば、彼らからみて野蛮で未開の地域を「鏡」として
発展させてきたように思えます。

どういうことかというと、奴隷制がアテネの民主政を成りたたせて
いたように、植民地支配がヨーロッパの進化論、なかでも優生思想
や進歩主義、あるいは革命思想や民主主義などを成り立たせ、発展
させる基盤となっていたのかもしれないということです。
はい、なんとなくわかるような気がしてきましたゾ。
西洋は、東方世界を疎外して自己を確立したから、いびつな性格に
なってしまった。

また、それには植民地が経済的な寄与もした。
西洋は、植民地を支配し管理し搾取し管財することによって、さら
にそれらの国の考え方を吸収しつつ反発することによって、ようや
く自分自身を確立することができたのだ。まるで召使いがいないと
自分が何者だかわからず、ひとりではなにもできない貴族のように。
ひるがえって、中国とかペルシャとかは、なんというか、自分の力
で中国になりペルシャになったといえるような気がするのです(意
味通じますでしょうか?)。

こういうことですから、つまり・・・ヨーロッパ「が」、特殊なん
ですよね。なんて弱いやつらだったんだ、って話です。

そしてそんなヨーロッパが、たとえばとりわけイギリス大英帝国が
第二次大戦後に、自身は戦争でヨレヨレになりながらもプライドを
捨てきれずに裁判官みたいなまねをして、ユダヤ人にパレスチナの
地を約束してしまい、自分では責任とれないくせに中東の分割を進
めてしまい、西洋中心の国連がそれを後押しした、というのが、こ
の70年間のグチャグチャの始まりだったわけです。

どーすんだ、アラビアのロレンス君! まったくもう。
西方ヨーロッパが海に乗り出さずに、アメリカやアフリカや中東や
インドやアジアを征服せず、植民地もつくらなかったらこんなこと
にはならなかったじゃないか! だいたい、何世紀ものあいだ植民
地をかえていた西ヨーロッパ列強諸国は、いま現在、どこも多民族
国家になって、これらの国のサッカーチームはどこもアフリカ系の
人々がたくさんレギュラーにいるから強いんじゃないか! 
責任者でてこい、もとに戻せ!

・・・本の紹介が中途半端に終わり、さらになにに対して怒ってい
るかわからなくなりましたが、なんだか頭に来た。
ポストコロニアリズムのような「考え方のワク組み」を採用すると、
少しは中東のことが理解できたような気がするものの、あらためて
しみじみと腹が立つったらありません。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第122回 2019.01.10

「パレスチナを想いつつ、想像の共同体の一員に」

かつてユダヤ人がそういわれたように、いまはパレスチナ人が「離
散の民」「流浪の民」とよばれています。
彼らはたくさん殺され、たくさん難民キャンプに暮らし、いまでも
国際政治のしがらみのどまんなかにあって、長引く戦乱から逃れ続
けています。いっぽうイギリスは紛争から手を引き、アメリカはイ
スラエルの後押しをし、ロシアは隣国シリアの利権をねらう。
私たちはそんな報道記事を読み、ニュース映像を見て、もっと目を
開けてしっかり見ろと言われながらも、見られたり見られなかった
りしている。
そして「彼らはいったい、この先どうなるんだ?」と不安に思う。

たとえばパレスチナ出身のエドワード・W・サイードは、「パレスチ
ナとは何か」(岩波書店)のなかで、
「私たち(パレスチナ人)が過去のパレスチナから離れれば離れる
ほど、私たちの身分はいっそう怪しくなり、私たちの存在はますま
す分裂し、私たちのあり方(プレゼンス)は、さらに間歇的なもの
となる」といいます。
つまり、自分たちはいったい何者なんだ?というのです。

イスラエルに追い出され、同じ民族のアラブ諸国にじゃま者あつか
いされ、国連からは見放され、あるものは国境としてつくられた高
い塀の中に閉じ込められ、あるものは諸国を転々としている、そん
な自分たちは、いったい何者なんだ? 
「私たちは存在しているのだろうか。いかなる証拠があるというの
か(サイード)」と嘆くのも当然のことです。

その嘆きになにかしらの形で応えるには、日本に住む私たちも彼ら
の存在を確かめるための証拠あつめを手伝わなければならないでし
ょう。そのための参考資料としては、もちろんジャーナリスティッ
クな現場報告も貴重ですが、同じようにお役に立つのが、

「アラブ、祈りとしての文学」(岡 真理/みすず書房) です。

これは文学評論ですが、この本のオビがまたカッコいいんですよ。
「小説を読むことは他者の生を自らの経験として生きることだ。絶
望的な情況におかれた人々の尊厳を想い、非在の贖いとしての共同
性を希求する新たな批評の到来。」
ね、すごく格調高い文章でしょ? 想像力を刺激しますでしょ?
他者の生とか、人びとの尊厳とか、非在の贖い(あがない)とか、
これはきっと、みすず書房の女性編集者(きっと30歳代後半、大
学ではジャーナリスト志望だった)あたりの手わざでしょうな。

おっといけません、いけません、オビの文章なんかにひっかかって
いる場合ではない。内容のご紹介をしなければ。
この本は、広い地域にいるアラブ人作家をあつかいながら、とはい
え読む側の印象としては、サイードやカナファーニーなどパレスチ
ナに深く関係する書き手への共感的な解説がつよく印象に残る評論
でした。
そして筆者の、アラブ世界で社会的弱者になってしまった人々にた
いするつよい関心とあいまって、私たちに、文学からなにを受け取
れるのかのヒントを与えてくれるものでした。

そのなかで、いちばん考えさせられたのが、やはりこの問い。
ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを
繰り返すのか? 残酷なことをされた人々が、なぜ他の人に残酷な
ことをするのか? なぜ迫害は連鎖するのか?
そして筆者はこの問いを、
「ホロコーストというレイシズム(人種差別)による悲劇の経験を、
私たちはいかにして、イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人に対す
るレイシズムを克服する契機となしうるのか」、と言い直します。

前回と同じ問いですが、ヘタに関わると自分たちの頭も複雑骨折し
そうな難しい問いです。しかしこの問いは私たちも避けられません。
おおげさにいえば、正義とはなにかということ、そして逆に、ひと
はなぜ不正義の連鎖に加担するのか、ということなのですから。

ただし筆者のこの問いは、「解きがたい問い」を他人に投げかけっぱ
なしにするのではなく、イスラエルもパレスチナもともに、解決に
向かって前に進むためになにが必要かを考えようしている。
さらには、おなじ問いを遠く離れた私たち日本人にも共通のものに
しようとしている、そう感じられます。
つまり、互いの非難に終わるのではなく協力して解決するための問
いであり、さらには自分たち(筆者を含めた私たち)もその問いを
引き受けようというのです。

よけいわかりにくくなったかもしれません。
どんな民族でも国でも、同じようなことを過去に行い、同じような
体験を持ち続けたり、逆にそれを忘れたふりをしたりしている。
つまり、自分たちもいつまた弱者とか被迫害者とか被追放者となる
かもしれないし、その逆になるかもしれないということに想像がい
たらないでいる。じつは、そのどちらになったとしても、「私たち
は存在しているのだろうか」というサイードの疑問は、自分たちの
影のようにいつまでもついて回るはずなのに、です。

ぜんぜんわかりにくくなりましたか。すいません。
しかし私たちはアラブの小説を読んで、少しは混乱してもいいので
はないでしょうか。私はそんな気がします。混乱し、とまどい、自
分が混乱したりとまどっていることにいらだつのですが、それは神
様も、殺された子どもも、難民も、たぶん許してくれるのではない
かと思うのです。

すると、
「死者たちの痛みと夢を分かち持つかぎりにおいて私たちはみな、
『このようなことが決して起こらないこととしての祖国』(これは
カナファーニーの表現でした)と、起こらなかったけれども起こり
えたかもしれない別の世界の可能性を想像する共同体の一員となる
だろう」という筆者の感想--これは「祈り」ですね--が、ダイ
レクトに私のなかに染み込んでくるのでした。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第121回 2018.12.28

「祖国を失った人々のまごうことなき現実」

小説が自分の知らない世界に目を開かせてくれる。
それは、私たちがなんとなく目をそむけている現実にひき会わせて
くれるということもありますし、報道やノンフィクション以上に私
たちの想像力をかきたてて、もっと知りたいと思わせてくれること
でもあります。
書斎やカフェや電車でそんな小説を読む私たちは、「この状況に目
をそむけていていいのか?」とか、「きみだったらどうするか?」と
いう、本の向こう側からの指さしにさらされるときがあります。
そんなとき、あなたならどう応えますか?

「ハイファに戻って」(ガッサーン・カナファーニー/河出書房新社)

は、日本から遠く離れたパレスチナを舞台にした短編。
パレスチナの海岸にある都市ハイファ出身のサイードは、妻ソフィ
アとともに20年ぶりに故郷のハイファに帰る。1948年にハイファ
は、突然イギリス軍の攻撃をうけ民衆は追放され、そのとき新婚で
生まれたばかりの子どもをもつサイード夫妻も同じように街を追わ
れ、その後、街はイスラエル軍に占領されたのだ。

その20年後、ハイファがイスラエル領として確定してしまったの
で、彼らはようやく故郷を訪れることができるようになった。
つまりそれは、パレスチナ人の彼らが、いまはイスラエル領になっ
た故郷の町へと「他国を訪問する」という形でだ。元の自分たちの
家がどうなっているかを見て、なによりそのとき生き別れた息子ハ
ルドゥンの消息を求めて・・・。

記憶を頼りに探し当てたわが家は、とうぜん、ユダヤ人入植者によ
って接収されていた。そして、生き別れたハルドゥンは、彼らの息
子として、つまりユダヤ人として育てられ成長していた。ドウフと
いう名前を与えられて、しかもパレスチナと戦うイスラエル軍の兵
となって。

サイードと妻ソフィアはパレスチナ人。
彼らが故郷を追われた後、ハルドゥンのつぎに別の町で生まれた次
男ハーリドは、パレスチナの軍隊であるフェダイーンに入隊してい
る。
いっぽう、サイードの家を接収してハルドゥンを育てた夫婦の妻ミ
リアムは、ユダヤ人。父を第二次大戦中にアウシュヴィッツで亡く
し、その後ワルシャワからイスラエルに逃れてきた。夫はシナイ半
島で戦死、そしてサイードの息子ドウフを、アラブ人でありながら
ユダヤ人としてイスラエル軍の兵隊に育てた! 
となるとハルドゥン=ドウフは、実の弟のハーリドといずれは戦場
で戦うことになるだろう。なんてことだ、なんたるめぐりあわせだ。

ユダヤ人として育てられ教育を受けたドウフは、実の親と再会して
その事情を知った後でも、自分を見捨てた彼らを恨み、自分を置き
去りにした生みの親を卑怯だといい放つ。
それは、置き去りにされたものとしては当然の感傷かもしれない。

これは悲劇としかいいようがありません。
しかしそれだけでなく、もっと根本的なことも私たち読者に突きつ
けられていたのです。
それは、人種差別や内戦で残酷な扱いを受けた人々(ユダヤ人)が、
それを理由に別の場所で別の人々(パレスティナ人)に残酷な扱い
をする、その連鎖の恐ろしさです。
なんでこんなことになってしまうのだろう。

主人公サイードのことば、
「私たちは彼(ハルドゥン)を失ったのだ。しかし疑いなく、こう
なっては彼は自らをも喪失してしまっている。」
つまり、この小説の登場人物はユダヤ人入植者の夫婦も含めてみな、
死んだ人以外は例外なく「みずからを喪失したもの」たちなのです。
「祖国とはなんだろう?」サイードはそう自問し、答えます。「祖国
とは、このようなすべてのことが起こってはいけないところのこと
なのだよ」。

さて、この本の著者カナファーニーも、1972年に36歳でテロにあっ
て殺されます。「そのようなこと」が起こってはならないはずだった
のに・・・。
このように、遠い日本からはよく見えないパレスチナのこと、イス
ラエルのこと、祖国を失った人々のこと、私たちが目をそむけてい
るかもしれないその現状。それはだれにとってもイタイ現実だけれ
ど、おまえも目を開けて見ろと指さしされた以上、もっと知らなく
てはなりません。

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ブックカフェデンオーナーブログ 第120回 2018.12.21

「だれを対話の相手に選ぶか ~独学の哲学者」

おもしろいことに、そんな16世紀のモンテーニュ氏を対話の相手
にして、自分の思索を深めた20世紀のアメリカ人がいます。
エリック・ホッファーは1902年生まれ、ドイツ移民の子息で、目
を患ったために学校に行けず、アメリカ中を季節労働者として渡り
歩きながら独学で勉強し、晩年はサンフランシスコで沖仲士(船の
荷卸や荷積みをする肉体労働者)として働きながら独自の哲学を紡
いだ方でした。

彼の自伝には、34歳の冬にモンテーニュと出会い、「読むたびに私
のことが書かれている気がしたし、どのページにも私がいた」と書
かれています。だから彼は、本のなかのモンテーニュと対話しなが
ら生活した。友人と話すときもたびたびモンテーニュを引用するも
のだから、どんな議論になっても「モンテーニュはなんて言ってる
んだい?」と聞かれるほどになってしまった。

そういうことって、ありますよね。
なにかにつけ、「あの人」はこの件についてどう感じて、どう言って
いるんだろうと、気になってしょうがない人がいることって。
たぶん、ある意味、「その人」に恋しちゃったようなもんでしょう。
自分でもよくわからないけど、その人といつもなにかしら頭のなか
で話し合ってしまう、そういうことってありますよね。

ホッファーは神様でも恋人でも友だちでもなく、たまたま出会った
モンテーニュを対話の相手に選んだ、それがよくわかるのが、
「人々にまじって生活しながら、しかも孤独でいる。これが、創造
にとって最適な状況である」などとうそぶく、

「波止場日記」(エリック・ホッファー/みすず書房) でした。

この日記のなかには、みずからの思索を立ち上げて自分を確立させ
ようとする彼の「エセー(試み)」の努力がつまっています。
たとえば、「自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかが
まったく念頭にないことに気づくと、うれしくなる。いつも感じて
いるのだが、自己にとらわれるのは不健全である。」なんてね。

または、
「世間は私に対して何ら尽くす義務はない、という確信からかすか
な喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかであ
る。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の
著述を毎日。これが、わたしにとっては生活のすべてである。」

あるいは、「しなければならないことをしないとき、人間は孤独を感
じる。能力を十全に発揮-成長-するときにのみ、人はこの世に根
をおろし、くつろぐことができる。」
そんなときはたぶん、
「この惑星上においては人間は異邦人である、と考えるといつも興
奮をおぼえる。この世界ですっかりくつろいだ気分になるというの
は、動物の性質を共有するということである」、となったり、
「私たちのすることはすべて適切であり、言うことすべてに意味が
あり、見るものすべてが忘れがたい」、そんな状態のときなのだ。

えっと、「くつろぐ」ということばに反応して少しだけ寄り道いた
しますが、「ある人の価値は、なによりも、その人がどれくらい自
分自身から解放されているかによって決まる」といったのがアイン
シュタインでしたし、「くつろぐとは、右手のすることを左手に知
らさないことだ」とするのが禅仏教の教えでした。
「くつろぐ」ということばでも、けっこういろいろ言えるものです。
カフェでお茶してくつろいでいるだけが「くつろぐ」ではない。

それはともかく・・・どーですかお客さん、まるで400年の時を隔
てて、モンテーニュの声を聞くみたいでしょう?
彼は「エセー」を読んで、自分にもなにかこういったものが書ける
かもしれないと考え、書いた。そしてそれを読んでいるこの私にと
っても「どのページにも私がいる」と思えるものでした。

ただ、違いという意味では、ホッファーとモンテーニュを大きく分
かつのが、「労働」に関するところではないでしょうか。
自分では肉体労働をしない16世紀の貴族であるモンテーニュとち
がって、紹介所から派遣されて肉体労働をこなす日雇いの日々をお
くるホッファー。彼はどうあっても自分の肉体と会話し、その日の
体調の言い分を思索に反映せざるをえません。
たとえばこんなふうに、
「午前五時。独善的になっている。長い仕事の後にはいつもこうな
る。仕事は蟻を残忍にするばかりでなく人間をも残忍にする(と、
トルストイがどこかで言っていた)」。

彼にとっては、日々の労働と自分の思索が、はなれがたく結びつい
ている。というか、労働じたいから思索がはじまる。精神と肉体は
いっしょのものだ。両者があいまって独自の思索が生まれるという
信念をもっている。
小人の比喩でいうと(だいぶ飽きましたけど)、私には、彼の中の
精神派と肉体派の小人が真剣に対話する姿が目に浮かびましたね。

その点で彼はモンテーニュよりも、哲学と神学の優秀な学徒であ
りながら過酷な工場労働者となって祈りにも似た思想を世におくり
出した、シモーヌ・ヴェイユに近いのかもしれません。
この日記が思索の断片であるにもかかわらず、「知識人と大衆」と
か「労働意欲の問題」とかの、なんというか現在につうじる「3K
現場的」な骨太のテーマが立ち現われてくるのは、彼が身体の言い
分を聴きつつ思索したところに要因がありそうです。

すると彼は、モンテーニュとではなく、モンテーニュの衣を借りて
自分のなかの肉体労働者、つまり1959年のアメリカの、不安定な
雇用条件の大衆(その多くは黒人や移民)と対話をしていたといえ
るのかもしれませんね。もちろんこれが正しく「考える」という行
為でしょうし、彼はそのように哲学者としての王道を歩んだのだ、
と思いました。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第119回 2018.12.14

「自分と対話して、それをオープンにした人」

対話にはいろいろな形があるでしょう。
家族や隣人との一対一の対話もあり、集団での対話もあるでしょう。
イエス・キリストを仲介に立てての神様との対話もあるでしょう。
ところが、いや、そんなことの前にとりあえずいまの自分自身と対
話し、それをそのまま書いてみんなに見せちゃおう、としたのがモ
ンテーニュというおひとでした。

なんとまあオープンで、ぶっちゃけな人だったのでしょう。しかも、
16世紀のフランスの話ですよ。まわりにあるのは、神とか信仰とか
の抹香くさい話か、さもなければ王権とか陰謀とか戦争とかの生臭
い話ばっかりだった時代。
だから迷惑な話ですよ。まわりの人からみたら、この「オープンな
ひと」というのも、逆にずいぶんやっかいなジジイだったと思いま
すね(じつはジジイというほどの年寄りではなかったけど)。

「ミシェル 城館の人 ⅠⅡⅢ」(堀田善衛/集英社)

ときは16世紀フランス、宗教戦争という名のもとにカトリックとプ
ロテスタントの激しい抗争、王家と貴族どおしの仁義なき戦いが延
々と繰り広げられていたとき、新興貴族ミシェル・ド・モンテーニ
ュ氏は戦乱から身を離し、宮廷生活から逃れ、自分の城の塔にこも
って「エセー」という随筆を執筆した。

「エセー」は、ミシェル・ド・モンテーニュ氏が「自己のみを研究
の対象」としてつづった「自己探求の試み」でありました。それは、
「自身を隣人か一本の立ち木のようなものとして」眺める、つまり
自己との対話に他ならないものでありました。
えーと、だから、小人どおしの話しあいを上から客観的に眺めるご
本人がいて、その内幕をぜんぶお見せしましょうということですね。

そして、「自分の思想と語り合うことほど、その人の心しだいで惰
弱な仕事ともなり、強烈な仕事ともなるものはない」とかなんとか
言いながら、つまり弱気になったり強気になったりしながら、塔の
部屋のなかで自分と向き合っていたのです。

彼は、宗教の争いやそれをきっかけにした王家の権力争いに倦んで
いたのでしょう。日本でいえば、戦乱に倦んだ西行とか、世の無常
を観じた兼好法師みたいなひとでした。
ただ、そのころは宗教の時代ですから、なにを考えるにも神様抜き
には考えられないはずです。カトリックとプロテスタントの違いだ
けでなく、王家の正統あらそいや国の治めかたにも信仰は大きくか
かわる話でしたし、貴族と庶民の関係も、どう働いて日々の糧を得
るかにしても、生きるうえでの倫理や道徳の問題にしても、すべか
らく神様抜きには考えようがなかったはずです。

ところがおもしろいことに、「エセー」の中には新約聖書からの引用
がない。神様のことばもイエスのことばもない。神様の教えにぜん
ぜん頼っていない。だから、神様とは対話していない。
西行や兼好法師のような宗教(こちらは仏教)的な感慨も、ない。
つまりモンテーニュは、神を信じる敬虔なカトリック教徒でありな
がら神やイエスを対話の相手とせずに、自分とだけ対話することを
選んだ。教会で神父に懺悔したり、イエスを行動指針にしたり、カ
フェのマスターと神様の愚痴をいいあったり(まだカフェはなかっ
たけど)するより、ひとり自分の部屋で、ギリシアやローマの古典
をひもときながら自分と対話(思索)することを選んだわけです。

堀田さんよれば、だから「モンテーニュが『エセー』をつくり、『エ
セー』がモンテーニュをつくった」ということになります。
このことば、よく理解できますよね。つまり、土をこねて自分とい
う器を作るように、自分と対話することで自分を練りあげていった
のです。

さて、堀田さんのような手練れの文学者の案内によって、こうして
モンテーニュの歩みをたどることができるのは、まことに楽しいか
ぎりです。まるでベテランのガイドさんに世界遺産をじっくり案内
してもらっているようなものです(三巻もあるので、ちょっと長め
の疲れるツアーですけど)。
もちろんここではモンテーニュの思想をご紹介することはできませ
んし、堀田さんのガイドの方法、つまり思想家の評伝を書く作法に
踏み込むこともできません。ですので、ここではやはり「対話」を
キーワードにして、少しだけ16世紀フランス・ルネサンスの一人の
思想家の「思考」に想いをはせることにしましょう。

さて、神様のような絶対的な存在と対話をすることは、時として息
苦しい思いをさせられることになるのはまちがいない。モンテーニ
ュも「あの超越的な思想というやつは、近づくことのできない高い
場所のように、私を恐れさせる」といいます。(これにたいして、
神様や「超越的な思想」とタイマンで対話しようとしたのがパスカ
ルでした。勇気あるなあ、あのひと)

神学論争なんて学者さんや教会の偉いさんたちのする特権的なこと
だし、だいいち現実のこの泥沼の戦争状態の解決に役立っていない。
そんな、よりよく生きるために役立たないものなら、私にゃ関係な
いものだ。だいたい「人間の知識はすべて相対的なもの」なんだ。
その意味では、神父も学者も、偉い人も農民も、王様も乞食も、誰
もが五十歩百歩さ。
彼はこう考えていたはずです。

ただ、「普遍にして絶対的な真理が神様のもとにしかないとしても、
『相対的な真理』を見出す手段はある」、と彼は言い、それは堀田
先生の表現では、「モンテーニュ氏の答えは単純かつ明快である-
-話し合え、というものであった」。
へえー、ほーっ、だれと? 他人と!
絶対的な神様ではなく、他人と話し合え。それが自分を鍛えるのだ。
それが長い間自己を探究し、自分自身と話し合って得た彼のひとつ
の結論なのだった・・・と堀田先生はいいます。

ありゃりゃ。
相対的な真理を得るためには他人と話し合え、ですと?
対話の相手とすべきものが、神様から自分自身へ、そして自分自身
から他人へと変わってきてしまいました。おもしろいですね、一周
廻って隣に戻ってきた感じです。やっぱり「もともと私たちは、他
人がいなければきちんと考えなれない」のかしら。

ブログ119

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第118回 2018.12.07

「だれと対話するか? だれを相手にどこへ行く?」

カフェでお客さんとお話ししたり、ワークショップに参加している
とき、ときとして、自分の考えと相手の方の考えがあわさって化学
変化を起こし、考えてもいなかったアイデアが膨れるときがありま
す。まるで小麦粉がイースト菌によって何倍にもなるような感じで。
それを「新しいコトの創造」とまでいうのは、あまりカッコよすぎ
てはばかれますけれど、自分たちの意識や考えが上の次元に引き上
げられて、見える景色が広がったような晴れがましい気分になるの
です。
対話の力が偉大だと思うのは、まさにそういうときです。

さてそこで、あらためて考えますに、自分の「思考」というものは、
自分の心のなかで「対話」をすることではないでしょうか?
どうでしょう? 
いきなり「対話」をこんなところにまで広げていいのかな、という
気もしますけれど、とりあえず、思考とは「自分の中での対話」と
いうことでよろしくお願いしたい。

自分のなかで何人かの小人が、身体や内臓の情報やら外部からの刺
激などによってどうしよどうしよと右往左往し、ああだこうだと勝
手にしゃべっているのが「感情・意識」で、それを小人どおしで話
しているのが「思考」ではないかと私は思うのです。
「オレこう思うんだけど、キミどう?」「いやワシはこう思う」って。

すると、自分のなかの多種多様な主張である小人どうしの間で、質
の良い対話ができれば、それは創造的な「思考」になるはずです。
えーと、なに言ってんだかわからんとか、ご異論とかもおありでし
ょうが、とりあえずそういうことでよろしくお願いをしたい。

自分の頭の中で何人かの小人が、あーでもないこーでもないと話し
あっている。ただ、たいがいそれは一方的な意見の応酬で、つまり
は川の流れに浮かんでは消える泡のよう妄想に近いものだ。なので、
それだけでは「私の思考」は千々に乱れるばかりだ。

だとすると、その「小人どおしの主張しあい」を、もう一人の「私」
がそのヨコで冷静沈着に客観的に見ることができれば、どんなにか
いいのに。そうすれば、妄想とか小さな感触とかが、より大きな考
えにまとまったり新しいアイデアが生まれるかもしれない。つまり
「私」がファシリテーターになって彼らの話し合いを活性化し、ま
とめていくことができたら、どんなにいいだろう・・・。

さて、すでに私の頭のなかの小人の話しあいになっちゃっています
が、ふと思いついちゃったのは、じつはぜんぜん別のことでした。
小人たちではなく、心のなかで「神様」と自分が対話しているのが、
信仰をもつ方の対話の作法なのではないかと思っちゃったのです。
とりわけユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった、一神教信仰
の方がたの信仰とその意識のありようではないかと。
飛躍しすぎかもしれませんが、これまた、とりあえずそういうこと
お願いしつつ、サクサクと

「キリスト教は役に立つか」(来住英俊/新潮選書)

のご紹介にうつりたい。
来住(きし)さんはカトリックの神父さん。
ま、宗教についてのいろいろ難しい話はおいておいて、神様は自分
の対話の相手としてお友だちのようにつきあえばいいんですよ、と
いった雰囲気で、「キリスト教は役に立つ」「それは孤独にも効く」
とおっしゃって、頭のできの悪い私たちを優しく慰めてくれる本で
した。
祈りとは対話である。神はいつもそこにいる。神には文句も言える。
だから神との対話は生きる役に立つ、神父はこうおっしゃるのです。
おおそうか、対話だけでなく、神様には文句を言ってもいいのか!
そんなら、ケンカも議論もラップもツイートもできる。

ひとが心の中でおこなう対話は、往々にして堂々巡りする。頭のな
かの小人たちは一人ひとり勝手なやつなので、すぐ一人よがりにな
り、現実離れして妄想におちいり、煩悩にはまりこんでしまう。
しかし神様との対話は自問自答ではないから、堂々巡りしない。
そう神父は言い、「自分の言葉が何かにぶつかって、受けとめられ
ているという感覚がある」として、アビラのテレジアという方の、
「キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリスト
と、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩む
ことである」ということばをひきます。

これが信仰の要点のひとつだというのです。
さすれば、私たちがよく聞く「なぜ人間イエス・キリストは神に遣
わされたのか」というお話も、それはイエスが私たちと神との対話
を仲立ちしてくれるからだ、という意味合いなら嬉しい知らせなの
かもしれません。
だって私たち弱い人間は、絶対的に偉くて間違えのない神様と向き
合って対話するなんて、耐えられそうにないからです。できれば生
身のからだをもつ隣のおじさんみたいな人に、対話の仲立ちという
か仲介役というかファシリテーターをしてほしいのです。また、そ
うすれば、頭のなかの未熟でおバカな小人たちのふるまいに悩まさ
れずにすむというわけです。

ということで私たちは、(写真を拝見しても)ものすごく隣のおじ
さんみたいな来住神父に、宗教なんてそう難しく考えないで、いつ
も対話相手が確実にそばにいてくれるんだくらいに思っておけばい
いんだよと言われては、神様とのあいだの敷居がちょっと低くなっ
たような気がしてくるし、「神様と対話しつつ考える」という行為が
少しだけ確からしく思えてくるのです。

 

ブログ118


 

ブックカフェデンオーナーブログ 第117回 2018..11.30

「勝ち負けのない、創造的な対話(社会的理性)のために」

カフェでも家庭でも、会社でも公園でも、国会でも国どおしでも対
話が必要である。なぜならば、圧力や権威や暴力に頼っていても正
しい関係はつくれないし、不要な思い込みや忖度は正さなければな
らないし、怒りや憎しみのぶつけ合いは紛争を招くばかりだからだ。
湧きあがる感情は大事にしつつも、そのナマの表出(とくに怒り)
をうまく乗り越えて、真摯でオープンな対話をすることこそが私た
ちの共存共生を保証し、住みやすく安全な世界を創るのだ。
・・・てなことは、じつはだれでも頭ではわかっているはずです。

ところがなかなかそれができない。
不機嫌に相手の言葉尻をとらえたり(いまなんつった?えっ!)、
怒りが憎しみに変わったり(ざけんなよ、先公!)、「コト(問題じ
たい)」を話していたのに「ヒト」を対象にしたり(あいつの性格
と顔と趣味が悪い!)、相手に呪いをかけたり(おまえなんか、そ
のうちカバに食われるからな!)する。
あげくは思わず手や足を出したりしてしまう(パシッ)。

逆に、感情的になるのを怖れるあまり、理性や論理を大事にしすぎ、
あるいは議論のルールに頼りすぎて萎縮し、自分を押さえて本音を
だせなかったり、なにも言えなくなってしまう。
ああ、困ったものです。ホント、真剣な対話は難しいッス。では、
どうしたら私たちはきちんとした対話を続けられるのでしょう?

「ダイアローグ」(デヴィッド・ボーム/英治出版)

筆者の主張でまず押さえておかなければならないことは、対話とは
「勝ち負け」で終わるものではないということです。
いっぽう、黒人の作法もトランプ大統領も、「勝ち負け」を重視して
いましたね。会社の会議でも夫婦のあいだでも、けっこう勝ち負け
を気にします。しかし対話は勝負ではない。意見の優劣を決めるも
のではない。ここ、いちばんたいせつなところですね。

また対話とは、なにかを「決定」するためのものではないというこ
ともあります。つまり意思決定のための議論や論争ではない。国会
審議でも営業会議でもディベートでもない。ここも重要。
さらに、人に「話せ」とか「話すな」とか強制するものでもない。
さらに対話は、説得とか妥協とか、調整とか合意形成でも、もちろ
ん取引でもない。ではなにか?

それは私たちが、もともとの思い込みや偏見や暗黙の了解から離れ
て、自由な思考の流れを作ることだ。ひとりで、ではなく、集団で
おこなう知性の働きだ。つまり、ことばを交わしながら、集団でな
にかを新しく「創造」することなのだ。もしかしたらことばも交わ
さず、沈黙を大事にすることもあるだろう。そしてその「なにか」
とは、方策かもしれないし、ことばとか考え方かもしれない。

もともと私たちは、他人がいなければきちんと考えなれないのだ。
だから、みんなの力をあわせて、新しい道を創造しなければならな
い。そのためにまずは、自分の怒りや憎しみなどの負の感情はじゃ
まになるので、いったん保留しなければならないのだ。
筆者はこういうことを、口を酸っぱくして繰り返します。
私思うに、こうした姿勢は社会を支える基本ダシみたいなものです
ね。ダシがしっかりしていないと料理は成り立たない。

さて、もともと理論物理学者のボームが、なぜこんなにも「対話」
を薦めるのか、それもまたおもしろい問いになるかもしれません。
彼はとにかく「創造的な変化」にこだわるのです。どんな話し合い
にも「はじめは思いもしなかった創造的な変化」がなきゃつまらな
いじゃないか。科学的な実証や合理的な理論で構築される物理学で
あっても、みんなの知恵による「思いがけない発見」がある。
ならば、学問だけでなくどんな分野でも、だれもが楽しくなる「解」
や「発見」があるはずじゃないか、と言っておられる気がします。

しかし通常の話し合いでは、なかなかうまく対話できない。
というのも、「賢い人」や「強く怒る人」に場が支配されたり、ひっ
ぱられることが多いからです。
たとえば、私たちの身のまわりにも、賢くて議論に強い人がおられ
ます。その人たちは論理的に自分の意見を開陳し、反論にあっては
すばやくそれを論破しようと身構えている。とりわけビジネスや政
治の世界では、そうした「議論」における受け答えのはやい人ほど
「仕事ができるリーダー」と思われています。
たしかに、そういう人の、しっかりした職業観と専門知識に裏づけ
られたすばやい判断こそ、集団をリードするのかもしれません。

しかし、ちょっと踏みとどまって考えてみると、もしかしたらそう
いう「頭のいい人」ほど、ボームのいう創造的な対話には不向きな
人かもしれません。
というのも、彼らは自分のもつ固く確かな地盤(信念や知識や能力)
に自信があるからこそ判断がはやく(ゴーンさんみたいに)、受け答
えがはやく(さんまさんみたいに)、迅速な意思決定ができるのでし
ょう(安倍さんのように)? そしてすばやく解答を得ることを話
し合いの最大の目標にしているのでしょう? つまり彼らは、「早い、
安い、うまい」を目標にしているのではないでしょうか。

しかし創造的な対話で必要なのは、「確固たる信念」とか「変えよう
のない前提」ではなく、また「早い、安い、うまい解答」でもなく、
それによる説得・妥協・調整・合意形成でもない。逆に、そうした
ものから離れることによって新しいものを探そうという、謙虚で柔
軟な姿勢です。
いいかえれば、時間をかけてゆっくり場と心を温めて、参加者全員
で協力して問題に取り組もう、それがたとえ遠まわりだったとして
も、けっきょく「創造」への近道になるという覚悟と姿勢なのです。

これをボームは、「コヒーレント」という物理学の用語を使って説
明しますけど、ま、この専門用語はご愛嬌のようなもので、人と人
がどううまく交わっていくか、干渉しつつ交響していくか、それを
対話の場でどう試していくかの、ひとつのたとえとして持ち出して
いるわけです。対話のイメージとしてですね。

ということで、対話にご興味のある方、もうすこし対話が必要だと
自覚されている方々、謙虚な政治家の方々、そしてアマチュアスポ
ーツ協会の幹部やコーチの方々、夫婦げんかしている方々、そして
もちろん、感情の処理でお悩みのすべてのみなさま、私、ぜひボー
ム先生のご先導により一緒に対話していきましょう。
ついでに対話の共通イメージをつくるために、「コヒーレント」を
辞書で引いてみてくださいね。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第116回 2018.11.23

「もっとうまく怒るために」

カフェのなかで怒ったり怒られたり場面に遭遇することは、あまり
ありません。
みなさん和やかに談笑されていたり、本を読んだり勉強されていま
すし、たまさか飲み物をお出しするのが遅れても、「遅いっ!」と
怒る方もいません。ありがたいことです。ホント、お客さまには感
謝です。

カフェはともかく、私たちは公の場で、怒って声をあげるというこ
とが少なくなってきたように思いませんか? ご近所でも会社でも、
路上でも電車でも、大声できちんと怒ったり叱ったりしている方を
見ることが少なくなったように思いません?
そのかわりにといってはなんですが、見聞きすることが多くなった
のは「理不尽にキレる」とか「いきなり暴力」とかの場面です。も
しかすると、私たちの「怒りの許容値」や「怒りの表出の作法」の
ようなものが変わってきたのでしょうか? 
こんな本を手がかりに、それを少し考えてみましした。

「怒りの作法」(小川仁志/大和書房)

の著者は哲学者ですが、まず、「怒る」ことは良い変化を起こすため
のパワーでもあり武器でもあるのだとして、「怒り」をポジティブに
とらえるところから始めます。

怒りとは、感情というエネルギーの表れだ。だから、自分の本音をあ
らわにして意見を主張するために必要なものである。そして、怒るこ
とが自分や周囲や社会を変えていくのだ、と著者は言います。
さらに、「怒りとは訴えだ」とか「怒りは、しばしば道徳と勇気の武
器なり(アリストテレス)」ということばを引いて、私たちを鼓舞し、
導こうとします。

たとえば議論において、怒りを押し込めて冷静に、理性的に話すこ
とをめざすだけだと、本音が出ずに話し合いの結果が中途半端にな
ったり、ストレスがたまる。つまり、もともとあったはずの自分の
意見のパワーを弱めてしまう(前項にみた「白人」の作法のように)
のだ。

まずは、おっしゃるとおりだと思います。
「あらゆる感情、とくに怒りは正しい(平岡正明)」でしたものね。
ところが逆に、私たちはふだん、こんなふうに感じているのです。
「人前で怒るのはみっともない」「怒ると感情的な人間だと思われ
て、家庭でも会社でも嫌がられる」「道徳の時間で、感情をコント
ロールしろと教わった」「社会の一員としては、よりよい共同生活
のために、感情をあらわにしないほうがいい」などと。
それじゃ、いかんのだ。

ともあれ、自分がおかしいと思うことに対して怒ることは、自分に
とっても社会にとっても必要なのです。そうしないと、いつまでた
っても解決しない問題がある。できあいのシステムや社会体制に流
されるだけになってしまうかもしれません。だから私たちは、正し
く怒ることを学ばねばならないのです。

では、正しく怒るとはどういうことか。
正しく怒るとは、ほんらい、しかるべき事柄に対し、しかるべき人
に対し、しかるべき方法としかるべき時に怒ることをいう。それは
難しいことなので訓練も必要になる。
しかしいまは、そんな訓練だの努力だののへったくれもなく、間違
った怒り方ばかりが目につく。だれもが、いつでもどこでも、八つ
当たりしたり、電車の中でキレたり、家族に呪いをかけたり、ネッ
ト上でディスったり、怒りを憎しみというマイナスの感情に変えた
り、あげくは暴力に走ったり・・・。
・・・ってことは、だめじゃないか、日本人!

著者も怒ってます、はい。私たちは正しく怒られちゃいました。
ただ筆者は、具体的な「正しい怒り方の作法」についてはあまり詳
しく述べていないので、それについては、独自のテクニックをもっ
た黒人の方々や、マンガとか映画などに教わることにして、機会を
あらためて考えてみましょう。

ただ、私の心に浮かんだのはこんな問いでした。
「怒りをナマの怒りのままに放置せずに、それを問題解決に結びつ
けるには何が必要か?」
「自分の私的な怒りの感情を、どうしたら公的な(他の人にも共通
の)ものに変えられるか?」
どうでしょう、これはまっとうで、スジのいい問いでしょう?

ん? いや、まてまて、この問いへの回答はすでにトランプ大統領
が実践しているのではないだろうか。
ああ、またトランプが出てきてしまった!
彼は、演説やツイッターで怒ってみせ、彼の個人的な怒りを公(お
おやけ)の怒りに換え、あるいは逆に、怒りを表現しそこなってい
た人たちの怒りを代弁し、怒りそのものを問題解決のパワーにして
いるんじゃないのか?もしかしたらすごく意識的に、テクニカルに。

そうだとしたら彼は、正しいかどうか分からないけど、「民衆の怒り
を取り込む方法」を身につけた、したたかでクレバーな政治家とい
うことになります。それは、もしかしたら歴史上の数々の権力者・
政治家にも共通していたことでもあります。
それははたして政治的に正しい作法なのか? 怒りの効能の悪用じ
ゃないのか、はたしていかに? つづく。

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第115回 2018.11.17

「トランプ的コミュニケーションへの疑問」

アメリカの中間選挙が終わりましたが、あいかわらずトランプ大統
領の発言にはびっくりさせられることが多いですね。論争相手への
批難のしかたや、差別発言に乱暴なことばづかい、というかことば
の意味の意図的な変更、それにとんでもないフェイクに大げさなウ
ソや脅し。そしてこれらを駆使したツイッターの乱用という、派手
な空中戦による「平手打ち」の連打、、、。

ある論評にこんなことが書かれていました。
これらの発言は、自分の意見や政策を通すためのディール(取引)
の一環なんだと。つまり最初は大きく強く、ウソまがいのことも含
めて大げさに出ておいて相手をびっくりさせ、最終的には少し妥協
しつつも自分の有利になるようにまとめる、そんなビジネスの駆け
引きを政治に取り入れているんだと。

そうなのかもしれません。たしかにそうでしょう。
しかし最近私が思ったのは、彼はこれらのスキルを、アメリカ黒人
(アフリカ系)のコミュニケーション文化から学んだのではないか
ということでした。
えっ、どういうことよ? その根拠は? はい、それは、

「即興の文化」(トマス・カーチマン/新評論)

に書かれている、黒人と白人(欧米系)の、討論における行動様式
の違いの分析にあります。いわく、
「黒人の様式は声高で、活気に富み、問題を参加者一人一人に関わ
ることとして捉え、論争的である。」これに対して白人は、「その逆
に声を低く落とし、感情をこめず、個人の問題に引き付けない。」
つまり「白人は『議論』という、理性的なコミュニケーションモー
ドをとるが、黒人は『論争』という、感情のほとばしる関与の形式
を用いる。」

白人(欧米人)のメンタリティというか伝統というか、それは論理
性であり、冷静さを大事にすることであり、相手の「人格/ヒト」
ではなくそこから距離をとって、議題としての「内容/コト」を重
視して理性手的に議論を進める傾向が強い。それがよしとされる。
黒人様式はその逆だ。論争は相手との勝負だ。だから黒人は、議論
/論戦に勝つために、やたら対決的に、大げさに、タフに、相手を
パフォーマンス、思考、口数、話しっぷりで圧倒しようとする傾向
がある。だから感情に訴えることが多い。それがよしとされる。

「論争にせよ、ウーフィング(侮辱のうなり声をあげる)にせよ、
あるいは毒づいたり、サウンド(悪口を言いあう)したり、大言壮
語(オレのほうがこんなにスゴイ)したり、ラップ(口喧嘩)した
り、ラウドトーク(まわりの人に聞こえよがしに言う)することに
せよ、黒人の言語行動はどれもこれも活気にあふれ精力的だ。」
集会での演説の映像などでよく見るコールアンドレスポンス(呼び
かけと応答)も、大げさ表現やスタンドプレイも同じように、黒人
のコミュニケーションの様式のひとつなのです。

さてこうなってくると、「黒人様式」と「白人様式」の違いを「感情
的」と「理性的」という表現だけではとらえきれなくなってきます。
もちろんコミュニケーション方法の違いはあるものの、それととも
に、黒人の「感情を素直に表すことが善」という、永年培われてき
た文化的価値観とその原因も探らなければならなくなってくるから
です。

それについては、たとえばこんな例があげられています。
「立腹している人に向かって黒人は、『誰かがあんたを怒らせたん
じゃなくて、あんた自身が怒ったんだよ』というようなことをよく
言う」。これは、「非難された本人が反応したときに、非難は非難と
して成立するという黒人の見方(いろいろ言ってみて、そのうちど
れかが当たればそれで勝ちという考え方でもある)」によるものだ。
つまり、図星をさされたから、もしくは痛いところをつかれたから
アンタ怒ったんだろう?という攻め方をする。
そう来るか。けっこう実戦的なケンカ手法ですね。

そういえば、敬愛するジャズ評論家の平岡正明氏は、「どんな感情を
もつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい」
と書き、とりわけジャズにおけるアメリカ黒人の感情の表出のしか
たを支持し、「(革命のためには)感情をやつら(敵/白人)に渡す
な」と檄を飛ばしたのでした。
革命うんぬんはともかく、長く差別されていて社会的弱者であった
黒人の側は、なにごとにつけ強い感情をもつことが「善」とされ、
それを大事にしたコミュニケーション様式をつくりあげてきたのは
確かだと思います。

「一方白人は、非難されただけで非難は非難として成立すると考え
る。人の感性つまり自尊心を保護する社会的責任は、まずは他者の
側にあるというのが白人の考え方」だからだ。
自分を非難するのなら、その非難の根拠をまずは相手が明確にしな
ければならないし、それしだいでは「私」の自由とか権利などの侵害
にあたると考える。そして相手に対し、「キミたち、社会の、そして
議論/討論のルールを忘れるなよな」、という原則重視の姿勢に入る。
まるでトランプとヒラリーの論戦をみるようではありませんか!

みなさんはどう思われるでしょうかね。
黒人に、と、もはや一般的には書けなくなりましたが、もしこうい
うコミュニケーション特性の違いがあるとしたら。日常会話や話し
合い、ケンカのしかたや異性の口説き方など、ほかの人とは違うル
ールで人間関係が動いている人たちがいるとしたら。
これは確かに、対話、議論、論争など、民主主義的な社会を構成す
る「ことばの世界」で、両者の感情と理性をどうやって噛み合わせ
ればいいのか、という問題につながっていくでしょうね。

だから、、、だから、もしかしたらトランプ大統領は、伝統的な黒人
文化のなかの大言壮語や毒づきやラップやウーフィングやラウドト
ークを勉強して身につけ、それを政治においてもその効果を十分計
算して実戦的に使っているのではないでしょうか。
ただし、自分と相手の感情と理性をうまく融合させて新たな解決策
を探ろうなんてことをいっさい考えずに。
だとしたら、すごい! というか、ひどい!

 

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ブックカフェデンオーナーブログ 第114回 2018.11.09

「真摯な保守思想とその挫折」

カフェのお客さまと政治ついて話し合い、憲法改正問題を議論し、
現在のリベラリズムやポピュリズムの状況についてうんちくを傾け
あい、議会や民主主義について熱く語るなどといったことは、、、、
まずありません。また、忍法ツイッターの術についてみんなで掘り
下げて分析することも、ありません。

もしそういうテーマで話しあうとしたら、そのときは専門的な知識
をもった方にそばにいてほしいですし、さらには、ベテランのファ
シリテーターがいてほしいものです。そうでないと、地に足をつけ
た議論にならずに、お互いが言いたいことを言うだけでことばが空
中をさまようだけになってしまいますもの。
私たちは、そんな「空中戦」をば、実りのある「地上戦」にしなけ
ればなりませんでしょう? 国民の代表の頭のよい人たちが集まっ
ている国会でだって、空中戦ばかりに見えるのですから。

むずかしい議論を「地上戦」にもちこむためには、まずは一つひと
つのことばの意味を共有する必要がありそうです。そうでないと、
議論の前提が不確かなものになって、お互いの間で話がかみ合わず
にとんでもない誤解を生んでしまうからです。
たとえば「自由」とか「人権」などという、だれにとっても大事で、
憲法でもたくさん出てくることばであっても、ひとによって思って
いる内容が違い、それによって議論にならないということがありま
すもの。そこでこんな本を参考にしてみたいのです。

「昔、言葉は思想であった」(西部 邁/時事通信社)

西部先生は今年(2018年)にみずから命を絶って、いろいろな意味
で世間を騒がせましたが、60年安保から学生運動や保守思想の論客
として多くのメディアにも登場した方でした。
この本では、経済、社会、政治、文化の四分野から108のことばを
選び出し、それぞれのことばの意味合いがその語源から遠ざかって
しまったがゆえに、その意味合いが多岐にわたるようになって、議
論では使いにくくなったことを憂い、ことばの意味をきちんと整え
ることで、求められる熟議のための共通の基盤を作り直そうとして
います、、、たぶん。

たぶん、というのは、西部先生のおことばがやや断定的で、そこか
らして先生の主旨がちょっと頭に入ってこないなあと、読んでいて
感じる人もいるのではないかと思うからです。その一人が私でした。

たとえば「権利(ライト)」という言葉について、
「『国民の権利』は、国家の歴史がもたらした『道理(リーズン)』
にもとづきます。人間性が正しいのではなく、正しいのは道理のほ
うだ。むしろ人間性の発揮のしかたが道理によって差配されるべき」
だと先生は書き、イギリスの保守思想家エドモンド・バークの「人
間の権利は認められないが、英国人の権利ならば盛大に認めよう」
ということばを引用しています。
つまり、普遍的なヒューマニズムをもとに「人間の切実な欲求はす
べて権利である」とするのは、正しい(ライト)わけではない。じ
つは、それぞれの国や民族や伝統の中で獲得され正当化されてきた
ものこそが、「その国民」の「その権利」なのだ、と考えておられ
るのです。

わかりますでしょうか?
先生によれば、「これこれが人間の持って生まれた普遍的な権利だ」
とは言えずに、「これこれが『今の日本国民』としての『私』の権利
だ」と、限定的にしか言えないのです。あくまで、「いまの常識とし
て正当だと思われる権利」が「その国のそのときの人権概念だ」と
いうのです。

たとえば、極端かもしれませんが、施設で身体拘束されている高齢
の認知症患者がいたとして、「その人の人権(ヒューマンライツ)を
守れ」といって拘束を外させることが正しいかどうかは、わからな
い。なぜなら、「これまでの老人介護の伝統と今の日本の福祉の現状
から、拘束しないことが本人の『権利』ならびに『公共の福利』と
認めてよいかどうか」という、現実的な論点があるからなのです。

いえいえ、誤解のありませんように。この例は私がもちだしたもの
であり、さらに今の日本現状において拘束も認められるなんて言い
たいわけじゃありませんから。あくまで、伝統とか文化とか、その
ときの社会・経済状況とか人々の精神とか、それらをあわせた「常
識」が、そのつど「人権」という言葉の定義を決めるのだ、と先生
はおっしゃっているのだ、と私が受けとめただけ。

おなじ観点からすると、中国とかミャンマーとか、あるいはイスラ
ム圏の国々における、少数民族や女性の人権や自由の問題も、その
国ならではの考え方や伝統と現状があるしそれを優先して考えなけ
ればならないので、簡単には西洋の考え方が通じない、ってことに
なります。先生はそうおっしゃっている。普遍的に正しいとか、絶
対的に善だ、ということばは使えないのだと。

ちなみに、先生は保守思想の論客とされていましたが、この本のな
かの「保守(コンサーヴァティヴ)」の解説では、保守思想の徳義
として「活力・公正・節度・良識」があげられ、視点として「懐疑
・斬新・全体・伝統」があげられています。
保守思想とはこのように、常識とか伝統といった、長い間に培われ
た人間の総体的な良識を信じ、そこに足場をおくことにあるようで
す。さらに、理想とか革命とか極端なことや、「絶対」などという
ことばを排し、現実的に一歩ずつ改善を進めるためのプラグマティ
ックな方法論を探そうとするようです。
目線を広く深くとりつつ、慎重に目前の一歩を踏み出そうというこ
となんですね。(だからバーグはフランス革命を批判したのでした)

さて、ここでいったん立ち止まって。
どうなんでしょうかねえ。まず、自由とか人権とかいうことばじた
いが西洋発祥のものですから、それを「今の日本」とか「今のミャ
ンマー」とかに当てはめるとどうなるか、と考えることは必要だと
思います。ほんらいのことばの意味を、そのときどきでどうアジャ
ストすべきかと考える。それは、いい。
また、なにか問題があっても、現実的に一歩ずつ改善すべきだとい
うことも必要なんでしょう。それが本当の保守思想だということも
またわかりました。これも、いい。

なので私は、先生の、ことばに対する真摯な姿勢をすばらしいと感
じ、でもそれゆえに、先生の言うことと、現在使われていることば
の意味やその使われ方の乖離が甚だしくなってしまったとも感じます。
ことばの定義は大事なことだが、これまた「ほんとうは」とか「本
来は」「元々」「古来」などにこだわっていると、そもそも対話や議
論の場に入ることすらできなくなってしまうのではないだろうか。
だから、そんな理由もあいまって、先生の保守思想じたいも理解さ
れにくくなってしまったんじゃないか。
それも先生の絶望を強めたのかな、と感じます。

そしてまたしても、いきなりの結論。
私たちはなにかしらの理想的な目標がないと、どこに向かって改善
・改革しているのか分からなくなる時が多いはずです。その過程で
は、ことばの意味はどんどん変わってこざるを得ないはずです。
ということは、私たちは、理想に向かいつつ、ことばの意味を新し
く自分たちで創って、その意味を確かめ合い、それをもとに階段を
上るように議論していかなければならないのではないでしょうか。
やや強引な三段論法かもしれませんけど。
さてみなさん、真摯な議論では、このような強引な三段論法的な結
論をだしてはいけません。じつはこれが「空中戦」の一例でした。

 

ブログ114

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第113回 2018.11.03


「もっと突き詰めたい『社会的理性』」

カフェの仕事は、毎日のルーチンをこなしてお客様の応対をします
から、大きな社会的課題にぶちあたったり、「公(おおやけ)」に重
大な関わりがあるようなことは、それほどありません。
だから、ちょっとだけ「スキマ」を想像したり、それによってコミ
ュニティカフェのまねごとをしたところで、それが日本経済や社会
公共に寄与するのしないのなどという問題ではないんです。

私たちの日々の生活のほとんどは、そういうものですよね。
暮らしのなかで私たちのおこなう一つひとつの判断は、そのつど勘
にたよったり、経験を重視したり、そのときの感情によって決めて
しまいます。それこそ、ほぼ、思い込みや勘違いで暮らしているよ
うなものです。
ふだんはそれで大丈夫なんです。それでいいーんです。
ところが、やや政治とか公共政策むきのはなしになり、それがみん
なの生死にかかわるような大問題になってくると、私たちは感情や
カンに頼って判断していると、それこそとんでもないことになりま
す。たとえば先日読んだ、

「啓蒙思想2.0」(ジョゼフ・ヒース/NTT出版)

には、副題に「政治・経済・生活を正気に戻すために」と記されて
いて、筆者は、いまの世の中では理性がしっかり働いていないこと
が多すぎるじゃないか、と嘆いています。いまの状況は正気じゃな
いぜ、って。
オビに書かれている惹句には、「メディアは虚報にまみれている。
政治は『頭より心』に訴えかける。真実より真実っぽさ、理性より
感情が優る、『ファストライフ』から抜け出そう!」とあります。
なかなか強いことばですね。
そして、とくに政治においては、政策の議論そのものよりも、感情
に訴えててっとりばやく有権者の懐につけ入ろうとするアプローチ
ばかりが目立つ、それはダメじゃん、と嘆くのです。

どういうことか。
たとえばトランプ大統領のように、ツイッターを多用するとどうな
るか?ツイッターは字数による制限があるから、理性的な討論には
不都合で、それは「言葉による平手打ちのけんかを助長している」
ことになる。
なるほど、平手打ちのけんかね。たしかに、そんなけんかは本人は
楽しいでしょうし、また、そのけんかを見ている側も楽しいですも
のね。まるでショーアップされたドツキ漫才を見ているような気に
させられますし。

ではなぜ、ツイッターのようなお手軽なメディアを政治家が使うの
か?
それは、今の政治ではスピードある解決が求められ、そのためには
大衆に感情で訴えかけ、過激なアピールポイントだけを強調するこ
とが必要だからだ。ツイッターはけんかだからそれに適している。
理路整然としたことばで議論するよりも、短いことばで感情に訴え
かけると、大衆の笑いとか怒りなどのを引き起こして、味方に引き
入れやすい。
しかし考えてほしい。こういうやりかたが続くことできちんとした
討論が消え、「右か左かではなく、クレイジーか非クレイジーかに
分かれていく」のは間違いない。これが悪しきポピュリズムだ、と
筆者はバッサリ切り捨てるわけです。

もしそのとおりだとすると、イヤになっちゃいますよね。
たぶん、ツイッター上では、議論の相手を「クレージー」だとして、
よりクレージーだと主張した方が勝つ、なんて風潮が、今たしかに
ありますでしょう。
国会での議論は議論にならず、質問にきちんと答える人はいない。
質問にたいしてはぐらかし(朝飯論法)、質問に答えずに自分の主張
を返し、できあいのことば(「遺憾」とか「前向き」とか)を繰り返
し、言いたくないことは言わず、そのかわりにヤジや相手の揚げ足
をとってポイントを稼ぎ、それをおもしろおかしくメディアにあげ
ることに懸命になる。目標は大衆の心情に取り入ることだけ。
これがいわゆる、山田風太郎先生もビックリの忍法ツイッターの術。

私たち大衆も、けっこうそんなあおり忍法(ラップですね)にのっ
かってしまって、責任をもってみずからの理性で考えることをしな
くなっているのではないか。まるで、何ラウンドあるかわからない
ボクシングの試合を見せられ、そのケンカのありさまを楽しんでい
るだけではないか。
そうだとすると、私たち、メディアでしか政治に触れることの少な
い「大衆」はどうすればいいのでしょうか?

ここでは、説かれているヒントのうち、ふたつをご紹介いたしてお
きましょう。
ひとつは、理性による合理的思考の有効活用。
とりわけ、「合理的思考は難しく時間を要するのだから、みなさん
自制して、即断を避けろよ」、つまり時間をかけろ、といういうア
ドバイスです。そういえば、わが丸谷才一先生も同じことをおっし
ゃっていましたし、意外と、経験や常識を重んじる保守思想に通じ
ることをおっしゃっているようです。

でもこれだけだと、いままでの啓蒙思想と変わらない? ですよね。
そこで、「啓蒙思想2.0」の「2.0」たるものはなにか?
それは、もうひとつのヒントとしてのこんなことば。
「合理性が高度な足場によっており、この足場が外的かつ社会的で
あることを認めれば、理性は一種の社会的事業(プロジェクト)だ
と考えられるようになる。」
ああ、難しい表現ですね。どういうことか。

私思うに、たぶんですが、合理的思考をひとりの孤立した個人の理
性による営みだと考えずに、それは多くの人の力を集めた集団行動
によって生まれるものと考えるべきだ、ということではないでしょ
うか。
ひとりの人間個人の理性にたよるのではなく、集団による社会的理
性、つまり人々の交流、連帯、協働などの集団行動における合理的
な判断が、私たちの足場として必要不可欠なのだということではな
いか。これは、ルソーの「一般意志」とちょっと似ているけれど、
交流、連帯、協働という自発的で意志的な行動の面が強調されてい
るのだ、と受け取りました。
みんなで一つずつ確実にレンガを積み上げて、しっかりした建物を
建てようじゃないか、それこそ社会的事業というものだ、と。私た
ちは現場で、この社会的理性なるものを実践できるのか否かと。

ブログ113

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第112回2018.11.2

「コミュニティカフェの役割--スキマを埋められるか?」

住宅街の小さなわがブックカフェは、いちおう「コミュニティ・カフ
ェ」をめざしています。
コミュニティ・カフェとはなにかといえば、地域の人の交流であった
り情報交換だったり、居場所づくりだったりという、その地域の方々
の動きが活発になる場、というくらいのものです。社会貢献とかなん
とか、あまり立派なことをガチでめざしているわけではありませんの
で、その点あしからず。

ですので、やっていることといえば、ご近所の方々とサロンコンサー
トを開いたり、ガレージセールをしたり、各種のご案内(とくに困っ
ている人の居場所づくりやNPO活動の紹介など)を置いたりする
くらいでしょうか。
つまり「地域の情報や人のハブ(パブではなく)」になれればいいな、
くらいに思っています。そんなコミュニティ活動のことを考えて読ん
だのが、

「実践 日々のアナキズム」(ジェームズ・スコット/岩波書店)

いきなりまたアナキズムなんて書名をもちだして、驚かれたかもしれ
ませんが、これは、けっして無政府主義とかの意味ではないのです。
この筆者の問題提起はおもに、
「個人やコミュニティは、自立して自らを組織化する力を失いつつあ
るのではないか」というものでした。「経済的な強制力、少数によっ
て支配された市場、メディア統制、政治献金、抜け道の用意された立
法措置、選挙区分の再編成、弁護士を使った法知識の利用などによっ
て、政治的影響力へのアクセスが不平等になり」、その結果、自由と
自律がむしばまれているのではないかと。
いまのシステムは、なーんか変だぞ、ということなんですね。

たしかに、世界じゅうで金持ちがいっそう金持ちになり、社会的弱者
がどんどん底辺に落されて行って格差が広がっているという現状をみ
れば、とうぜんの問題提起だと感じます。だから著者の言う、「服従
をしいる権威的な権力や、既得権を強化するシステムや、強者を優遇
して弱者を弱いままに据え置く政策」に対して、私たちはどうすれば
いいのか?そういう疑問がフツフツと湧いてきてしまいます。

その問題は、じつはどうやら選挙でもデモでも、言論活動でも、はた
またSNS上のグチりあいやディスりあいでも、解決しそうにない。
それならば、と筆者は言います。
身近な実践の中で、いまのシステムや主流になっている考え方に反乱
をおこしても、いいんじゃないか? つまり、日々の暮らしの中から
社会を変えていくことはできるのじゃないか。政治や行政や経済など
の手の届かない、というか、それらの「スキマ」のところで活動して
いくことで、それが可能なのではないかと。

いかがでしょう。
これだけではちょっと「抽象的なスローガン」に聞こえるかもしれま
せん。ただ、これを「カフェ」で具体的におこなうとしたら、いろい
ろなことが考えられそうです。つまり私たちが、というより私が、日
ごろ感じる共感や同情を、「社会のスキマ」への想像力として起動する
具体的な方策という意味でです。

たとえば、地域の方々に、行政による公的なものではない情報をお知
らせしたり、朝晩になんとなく街路に目配りしたり(これはその昔、
ジェイン・ジェイコブズという都市活動家が主張した、地域商店の役
割でしたが)、居場所に困っている人に席と飲み物を提供したり。
もしかしたら、そんな程度の「日々の小さな行動」でしかないかもし
れませんし、反乱とも変革ともいえないようなものかもしれませんが。

それにつけても、地域には政治・行政・経済の「スキマ」がたくさん
目につきます。そのスキマには、一人暮らしの高齢者、虐待を受ける
子どもや親、引きこもりの若い方、病気や障がいをもつ方が暮らして
いる。そのスキマを埋めて、弱者を弱いままにしないようにし、自分
の住む地域をみんなで元気にしていくために、わが小さなカフェでも
できることがある。そう意を強くしました。なんとマジメな!

 

ブログ112

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第111回 2018.10.19

「共感も、ときには危ないゾ(宣言)」

カフェマスターとしての私は、お客さんとお話しするときには、で
きるだけの共感をもってお話を聴くように心がけています。
その方のお話をまるではじめて聞くように聴き(ほほーっ)、相手の
気持ちに寄り添って(そうなんですか)、理解しようとする(なるほ
ど)こと。それはコミュニケーションの第一歩だと思いますし、と
ても難しいことですけど当然の態度だと思っていました。

というのも、たとえ自分の理解力が高くなくても、共感力を高める
ことで、人間関係と社会生活はうまくいくはずですものね? 私たち
はそう教えられてきましたし、その通りだと思って生きてきました。
それが自分の人間としての力を高め、対話の場としてのカフェの価
値を高め、ひいてはカフェのご来店者を増やし、経営がうまくまわ
ることにつながる。

ところが、それはある面正しいかもしれないけど、いつでも正しい
わけではなく、また人間としてもそればかりじゃダメかもよ、もし
君がまじめに道徳的な生活をおくろうとするなら、それだけではア
カンかもよ、というのが、

「反共感論」(ポール・ブルーム/白揚社)

の主張でした。ひえーっ、共感だけじゃアカンかもしれないの? 
困りましたね。まずは筆者の主張を聞いてみましょう。
社会生活、とくに道徳的な課題に直面したとき、人には共感能力が
求められ、他人への共感や同情によって善き行いに導かれると思わ
れがちだが、安心していてはいけない。
というのも、ひとつには、共感はもともと家族とか身内とか、自分
が好もしいと思っている個人に対してはたらくのであって、顔の見
えない他人、たとえば地球の裏側で飢えている子どもにたいしても
同等の強さで抱かれるものではないからだ。すると、共感という第
一次的情動に従って行動を起こすことが、必ずしも道徳的に正しい
とは言えなくなる。

もうひとつには、共感じたいがマイナスにはたらく場合がある。
それは、医師や看護士などの医療職とか、セラピストやカウンセラ
ーなどの福祉職だ。そういう仕事の方にとっては、目の前のクライ
アントに過剰に共感することによって判断が狂わせられることがあ
るだろう。彼らは、一歩引いて、あるいは一段高い視点で人を診る
ことが求められる。私たちが判断を誤らないようにするには、共感
を超えた理性の働きが必要なのだ。

なるほど。
私たちは共感能力こそが、社会で集団生活をおくるための根本にあ
ると思い込んでいましたが、必ずしもそうではないのかもしれない
というのです。共感という接着剤のようなもので他人とぴったりく
っつくだけでは、うまくいかないことも多いのかもしれない。
そして、血縁者や目の前の人への共感と、知らない他人や遠くで飢
えている人への同情は、かならずしもそのあとに同じような行動に
結びつく感情とはかぎらないというのです。

なるほど。そうすると、怒りとか悲しみとかの感情についても同じ
ことが言えるのかもしれませんね。つまり、、、うまく言えませんが、
自分の感情と行動をごちゃまぜにするな、ということかな。
単純に、困っている人への共感が自分を正しい方向に導いてくれる
なら、こんなに助かることはないんですけどねえ。

すると、じゃあ、そういうことをわかったうえで、自分を、さまざ
まな人間関係のなかで「社会・道徳的に正しい行動」に結びつけて
くれるものは、はたしてどういう感情なのだろうか? あるいは、
わき起こってしまった感情をどう処理すれば、適切な行動に結びつ
けやすいのだろう? という素朴な疑問が湧いてきます。

自分でもよくよく考えてみると、まず、他人への共感とか、それに
よって「相手の立場に立ち」、そのうえで「正しい行動をする」なん
てことが、思ったほど簡単なことではないことはわかります。
たとえば、だれかがテーブルの脚に自分の足の小指をぶつけて、「イ
テーッ」と叫んでいる。自分もよく同じことをやるからその痛みは
わかるし、十分に共感し同情できる。その人の痛みは、私の痛みの
感覚としてハッキリとリアルに共有できる。そこまでは、いい。
ただ、そこからが問題なのです。

目の前で痛がっている人は、そこでなにを思ったか?
「クッソー、こんなところにテーブルを置いたの誰だ!」「嫁のやつ
だ、あいつが動かしたんだ」「ぶつけたのは、これで今週二回目だ、
なんてツイてない」「そういえば最近ツイてないことが多いぞ」「そ
んでもって明日からまた嫌な仕事だ」、「世の中には、足の小指を一
度もぶつけることなく、大金を稼いでいるヤツもいるのに」、、、など
と考えたかもしれない。

私としては、「痛み」までは共感できるけど、そのあとその人の頭に
湧いた怒りやら悲しみやら妄想やらまでは、とても共感できない、
というか、わからない。それは当たり前のことです。とすると、目
の前の人の痛みの共感からだけでは、「私」が、なにか社会に役立つ
道徳的な行動は起こすまでには至らないのは当然です。その人の頭
に浮かんだいろいろな感情を想像して、さらにそれに共感できるか
どうかが問題になってきます。

で、突然のシメで恐縮ですが、私はこう考えました。
自分のなかに起きる他人への共感や同情には、過剰に信頼を置かな
いようにします。とくにそれが、自分が道徳的に正しい行動を求め
られているようなときには。そのかわりに、遠くの他人の気持ちま
で想像することと、いっときの共感や同情に流されずに、理性的に
判断することに努力します(宣言)。

ただ、カフェの営業時間内では、あまり道徳的に追い詰められるこ
ともないでしょうから、テーブルの脚に小指をぶつけて痛がってい
る目の前の方への共感を全面的に打ち出してお話しようと思います。
どうでしょう、こんなところで。
えっダメ? キレイにまとめようとするな? 

 

ブログ111

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第110回 2018.10.14

「介護のなかにある、お詫びと赦し」

カフェでは介護の話をお聴きすることが多くなりました。
もちろんそのお客様のご両親の介護の話が中心ですけど、それには
老化あり、身体の障がいあり、病気あり、認知症あり、その全部
いっぺんにというのもあり。
どういう治療や介護サービスを受けたらいいか、入るとしたら
(入れるとしたら)どの医者や施設がいいかなど、話がつきません。
みなさん悩んで苦労してる。
私にも年老いた両親がいるだけに、介護の先輩たちの経験談には、
いちいちうなずくことばかりですし、そのなかにかいま見える家族
の状況や歴史にも心惹かれます。そんなときに読んだのが、

「へんな子じゃないもん」(ノーマ・フィールド/みすず書房)

筆者は1947年、東京にアメリカ人の父と日本人の母のあいだに生まれ、
いまは家族でアメリカに住んでいる方。1995年、80歳代なかばの
祖母が脳出血で寝たきりになり、その看病で母親を手伝うために
夏の間日本に里帰りしていました。
その、日々の看病のこまごまとしたことが、冷静かつ細心の注意に
よってつづられています。そして紡ぎ出される文章は、たとえば、
「彼女の世話のかなりの部分が、赤ん坊の世話に似ているのはもち
ろんだ・・・(しかし)話すことができなくなった大人の顔が、
どんなに変わってしまうものか、わたしは知らなかった」
「彼女のもの言わぬ顔を見ていると、これまたきわめて彼女らしい、
抗議も要求もしない、隠遁なのだと思わずにはいられない」
「わたしが彼女のからだに触れるのは、もう彼女に語りかけるだけの
忍耐づよさがなくなってしまったせいだと、自分でも思わざるを
えない」、そして「彼女のことを書くのも、おなじ理由からなのだ」。
そのまま書き写すしかないような痛切な文章ですが、このように祖母
を看病できる孫娘じたい、なかなかいないと思います。
また、筆者は「(看病に)忍耐強さがなくなった」と書きますけれど、
看病に疲れて逃げているわけではないのだと思います。というのも、
ハーフとして生まれた自分、母親に代わって自分を育ててくれた祖母、
そんな自分たちをとりまく家族や親せきを思い、そしてそこから、
平和と繁栄のカゲに隠された日本の戦後史、沖縄、従軍慰安婦、原爆
などの大きな歴史にも思いを馳せていくのですから。つまり、とっても
ドメスティックな「家族の歴史」と「家庭内の介護」がマクロな「日本
の戦後の歴史」に、まるで天地を結ぶクモの糸のように、筆者のなかで
むすびついていくのですから。
そしてたぶん、その細い糸をたどるようにして、母や祖母へのいたわり
とお詫びが、彼女たちからの赦しに結びついてくる。
「(祖母の看病を一心に引き受けながらも、親戚の厳しい目にさらされ
る母に対して)『よくもまあ、やってられたねえ。お母さんはわたし
よりしたたかなのねえ』、これに母は、しんそこ共感をもって応える。
『鈍感なだけよ』」
あるいは、まだ口のきけたときの祖母に、
「『おばあちゃま、(「あいの子」と呼ばれたわたしのような)へんな
子をお医者さんのところに連れて行くのは、いやじゃなかった?』、
長い沈黙のあと、『へんな子じゃないもん。自慢の子だもん』」
看病や介護のあいだには、このような形のさまざまな、一方からの
お詫びが述べられ、他方からの赦しが与えられるのかもしれません。
それを、読者である私たちも、自分のなかで個人の感情(ライフヒ
ストリー)と家族の生きざま(ファミリーヒストリー)と、さらに
は自分の生きた時代状況にむすびつける作業をすることで、彼らの
承認と赦しに参加していくことになります。
このように、それぞれの介護の現場でそれぞれの歴史が交差する。
「私たちはそれ(看病や介護)を、このさきも他者とともに生き続
けられるように、自分たちのためにする。」
このことばを、筆者のこだわる日本の戦後史、たとえば沖縄問題や
従軍慰安婦問題、原爆などの大きなトピックにからめなおしてて説明
してもいいのかもしれませんが、私にはここでこれ以上付け加える
ことはできません。

 

ブログ18101

 

 

 

ブックカフェデンオーナーブログ 第111回 2018..10.19

「共感も、ときには危ないゾ(宣言)」

カフェマスターとしての私は、お客さんとお話しするときには、で
きるだけの共感をもってお話を聴くように心がけています。
その方のお話をまるではじめて聞くように聴き(ほほーっ)、相手の
気持ちに寄り添って(そうなんですか)、理解しようとする(なるほ
ど)こと。それはコミュニケーションの第一歩だと思いますし、と
ても難しいことですけど当然の態度だと思っていました。

というのも、たとえ自分の理解力が高くなくても、共感力を高める
ことで、人間関係と社会生活はうまくいくはずですものね? 私たち
はそう教えられてきましたし、その通りだと思って生きてきました。
それが自分の人間としての力を高め、対話の場としてのカフェの価
値を高め、ひいてはカフェのご来店者を増やし、経営がうまくまわ
ることにつながる。

ところが、それはある面正しいかもしれないけど、いつでも正しい
わけではなく、また人間としてもそればかりじゃダメかもよ、もし
君がまじめに道徳的な生活をおくろうとするなら、それだけではア
カンかもよ、というのが、

「反共感論」(ポール・ブルーム/白揚社)

の主張でした。ひえーっ、共感だけじゃアカンかもしれないの? 
困りましたね。まずは筆者の主張を聞いてみましょう。
社会生活、とくに道徳的な課題に直面したとき、人には共感能力が
求められ、他人への共感や同情によって善き行いに導かれると思わ
れがちだが、安心していてはいけない。
というのも、ひとつには、共感はもともと家族とか身内とか、自分
が好もしいと思っている個人に対してはたらくのであって、顔の見
えない他人、たとえば地球の裏側で飢えている子どもにたいしても
同等の強さで抱かれるものではないからだ。すると、共感という第
一次的情動に従って行動を起こすことが、必ずしも道徳的に正しい
とは言えなくなる。

もうひとつには、共感じたいがマイナスにはたらく場合がある。
それは、医師や看護士などの医療職とか、セラピストやカウンセラ
ーなどの福祉職だ。そういう仕事の方にとっては、目の前のクライ
アントに過剰に共感することによって判断が狂わせられることがあ
るだろう。彼らは、一歩引いて、あるいは一段高い視点で人を診る
ことが求められる。私たちが判断を誤らないようにするには、共感
を超えた理性の働きが必要なのだ。

なるほど。
私たちは共感能力こそが、社会で集団生活をおくるための根本にあ
ると思い込んでいましたが、必ずしもそうではないのかもしれない
というのです。共感という接着剤のようなもので他人とぴったりく
っつくだけでは、うまくいかないことも多いのかもしれない。
そして、血縁者や目の前の人への共感と、知らない他人や遠くで飢
えている人への同情は、かならずしもそのあとに同じような行動に
結びつく感情とはかぎらないというのです。

なるほど。そうすると、怒りとか悲しみとかの感情についても同じ
ことが言えるのかもしれませんね。つまり、、、うまく言えませんが、
自分の感情と行動をごちゃまぜにするな、ということかな。
単純に、困っている人への共感が自分を正しい方向に導いてくれる
なら、こんなに助かることはないんですけどねえ。

すると、じゃあ、そういうことをわかったうえで、自分を、さまざ
まな人間関係のなかで「社会・道徳的に正しい行動」に結びつけて
くれるものは、はたしてどういう感情なのだろうか? あるいは、
わき起こってしまった感情をどう処理すれば、適切な行動に結びつ
けやすいのだろう? という素朴な疑問が湧いてきます。

自分でもよくよく考えてみると、まず、他人への共感とか、それに
よって「相手の立場に立ち」、そのうえで「正しい行動をする」なん
てことが、思ったほど簡単なことではないことはわかります。
たとえば、だれかがテーブルの脚に自分の足の小指をぶつけて、「イ
テーッ」と叫んでいる。自分もよく同じことをやるからその痛みは
わかるし、十分に共感し同情できる。その人の痛みは、私の痛みの
感覚としてハッキリとリアルに共有できる。そこまでは、いい。
ただ、そこからが問題なのです。

目の前で痛がっている人は、そこでなにを思ったか?
「クッソー、こんなところにテーブルを置いたの誰だ!」「嫁のやつ
だ、あいつが動かしたんだ」「ぶつけたのは、これで今週二回目だ、
なんてツイてない」「そういえば最近ツイてないことが多いぞ」「そ
んでもって明日からまた嫌な仕事だ」、「世の中には、足の小指を一
度もぶつけることなく、大金を稼いでいるヤツもいるのに」、、、など
と考えたかもしれない。

私としては、「痛み」までは共感できるけど、そのあとその人の頭に
湧いた怒りやら悲しみやら妄想やらまでは、とても共感できない、
というか、わからない。それは当たり前のことです。とすると、目
の前の人の痛みの共感からだけでは、「私」が、なにか社会に役立つ
道徳的な行動は起こすまでには至らないのは当然です。その人の頭
に浮かんだいろいろな感情を想像して、さらにそれに共感できるか
どうかが問題になってきます。

で、突然のシメで恐縮ですが、私はこう考えました。
自分のなかに起きる他人への共感や同情には、過剰に信頼を置かな
いようにします。とくにそれが、自分が道徳的に正しい行動を求め
られているようなときには。そのかわりに、遠くの他人の気持ちま
で想像することと、いっときの共感や同情に流されずに、理性的に
判断することに努力します(宣言)。

ただ、カフェの営業時間内では、あまり道徳的に追い詰められるこ
ともないでしょうから、テーブルの脚に小指をぶつけて痛がってい
る目の前の方への共感を全面的に打ち出してお話しようと思います。
どうでしょう、こんなところで。
えっダメ? キレイにまとめようとするな?

 

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